私的ページ:山田晴通
山田への「よくある質問」(FAQ)
Frequently Asked Questions to H.YAMADA
山田への質問を歓迎します。
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ウィキペディアからこのページに飛んできた方は、こちらをご覧下さい。
最後に追加された質問:2007.01.05.:Q:大学では、どんなサークルやゼミに入っていたんですか?
山田に対する質問については、山田への「実際にあった質問」(RAQ)もご覧ください。
東京経済大学についての質問は、東京経済大学についての「よくある質問」(FAQ)をご覧ください。
- Q:出身地はどこですか?
- A:厳密に言えば「出身地」の定義によって違ってきますが、通常は福岡市と答えています。
福岡県は、私の両親の出身地(生まれ育った場所)で、両親とも実家は福岡市内にあります。私自身、母が「実家でのお産」をしたので生まれたのは福岡市内の医院でしたし、本籍地も長いこと福岡市にありました。福岡市周辺には親族もたくさんいます。しかし、私自身は福岡市に住んだことはありません。1960年代には、夏休みなどに頻繁に福岡市に「帰省」していたので、当時の福岡市の雰囲気などもよく知っていますが、いかんせん住んだことはないので、本当は「出身地」として福岡を挙げるのは適切ではない感じもしています。
私が生まれた当時、両親は横浜市金沢区に住んでいました。その後、一時、大阪の豊中市に移りましたが、小学校の2年からは再び横浜市の神奈川区に移り、中学校の時に転居するまでそこにいました。ですから横浜出身といってもよいかもしれません。しかし、当時住んでいた一帯は郊外のなかでは下町的なところ、賃貸住宅などの多いところで、私たちの住まいも社宅でしたから、今この当時住んでいた街へ行っても、知り合いで定住している人が多いわけではありませんし、当時の知人とのおつき合いは皆無に等しい状況です。したがって、私にとっての横浜は、その街にゆけば親族や古い知り合いがいる、という意味での「ふるさと」的な出身地とはいえません。
ちなみに現在の本籍地は、両親が住んでいる鎌倉市の実家にしています。
- Q:専門は何ですか?
- A:通常は「地域メディア論」とか「社会経済地理学」などと答えています。
詳しくは、公的ページにあるこれまでの研究業績や担当講義科目を参照して欲しいのですが、主な研究テーマや現在の担当科目から見れば「コミュニケーション論」あるいは「メディア論」、より絞り込んだ形では「地域メディア論」が専門です。
また、元々は「地理学」を大学院で専攻したことが研究の道に入った契機ですし、学位もこの分野で取得しました。今でも関連した仕事をいろいろしていますし、アイデンティティとして「地理学」研究者だという意識は強く持っています。
もっとも、前任校では「マーケティング」の担当でしたし、今でもそうした方向で仕事を頼まれることがないわけではありません。また、「ポピュラー音楽研究」が専門だと思っている人もいます。
しかし、これだけ専門があるということは、実は何の専門家でもないということです。自分自身の評価では、山田は根っからの研究者/専門家ではなく、雑多なことをブリコラージュしていく少しばかりの小器用さだけでこの仕事をやってきただけだと思っています。
- Q:何で研究室がこんなに散らかっているの?
- A:これは弁解の余地もなく、山田が不精者で整理下手だからです。
とはいえこうした状態では業務にも支障があります。以前は、お手伝いをお願いして、研究室の整理などを定期的に手伝ってもらっていたのですが、最近は様々な事情からそうしたお手伝いをお願いする余裕がなくなりました。結果的に少しづつ未整理の書類等が積み上がり、積み上がっていたはずのものが崩れ落ち、現状のようになっています。
こうした事態については、そうなる前にこれを予言していた(?)こちらのコラムもご覧下さい。
ちなみに、『大学は研究室で選べ』(数研出版,2000)の60ページに、研究室の全景の写真が掲載されています。
2006年1月に、川浦ゼミの諸君が撮影した山田研究室の光景。(2006.04.13.追記)
- Q:家には帰っているのですか?
- A:以前の回答はこうでした。
「あまり自宅には帰っていません。普段の平日は、大学近くの下宿で寝ています。週末も信州の別宅へでかけることがよくあるので、自宅に連絡してもつかまる可能性は極めて低いです。」
2003年に離婚したので、現在の自宅は大学近くのアパートです。当然ここしか帰るところはありませんので、帰っていますが、ここには電話もないので連絡のしようもないでしょう。連絡されたい方は、メールを送るか、研究室へお願いします。
(2004.02.09.)
その後、2005年度から、長野県穂高町に住民票を移し、休日などはほとんどこちらで過ごすようになりました。
(2005.08.24.)
2005年10月から、合併により安曇野市在住となりました。
(2005.11.28.)
2012年11月14日に、ウィキペディア日本語版「住民票」の記述に、このページの記述を根拠として「また、[[東京経済大学]]の現職[[教授]]が、ふだん居住している[[東京都]]内の自宅から、週末たまにしか過ごさない[[長野県]]の別荘に住民票を移動させ、それを当人が公言するといった事態が起こっている」という記述が追加されました。この記述は少なからずミスリーディングですので、こちらで具体的な山田の生活実態について追加的なコメントをしておきます。
2005年に山田が当時の穂高町へ住民票を移した当時も、現在も、大学の授業期間中は、前期にはおおむね月曜日から金曜日まで、後期にはおおむね火曜日から金曜日まで東京におり、週末は学会等の都合がなければ穂高町〜安曇野市の自宅に戻っています。長期期間中などは、調査等で出張に出ていない場合はほとんど自宅におります。2005年当時には、こうした生活実態を国分寺市役所と穂高町の住民課に説明した上で、住民票の移動が可能であることを確認し、実際に住民票を移しています。
なお、このページをご覧になった安曇野市役所、国分寺市役所、その他の行政機関関係の方が、2005年当時とは法解釈、運用等に変更があり、現状に何らかの触法の疑いがあるといったことにお気づきでしたら、当方の公開連絡先であるメールアドレス (yamada@tku.ac.jp) ないし、ファックス (042-328-7923) へご一報いただければ幸いです。
(2014.01.11.)
- Q:髭はどう洗うのですか?
- A:髭を伸ばしているときによく尋ねられるのですが、結論からいえば入浴時に石鹸とシャンプーで二度洗うことになります。
これは髭を意識的に洗うというより、顔を石鹸で洗うときに髭にも石鹸がつくので、髭がないときに普通に顎を洗うのと同じ感覚で髭を洗い、さらに髪をシャンプーする際に頭を泡立てたあと、髭にもシャンプーをなじませて一緒に洗っているため、結果的にこのようになるわけです。
- Q:どうして酒を飲まないんですか?
- A:「飲まない」のではなく、「飲めない」のです。
風貌や体格から、酒豪のように思い込まれることも多いのですが、実は、全くの下戸です。どうしても断れないときは、薬を飲み込むのと同じように飲み込みますが、後が大変です。簡単に言うと、ちょっと飲んだだけで普通の人の二日酔いのようになってしまうのです。
下戸について書かれた『下戸の逸話事典』という本があるのですが、これを読んでいると、我が事のように思えることがいろいろ書いてあります。「もともとボルテージが高くて酒がいらない人」なのかもしれません。
(2000.09.15.)
- Q:喫煙はしないんですか?
- A:今は、ほとんどしません。
私も20代には喫煙していた時期があります。特に雀荘では、何となく喫煙する機会が多かったように思います。ただし、ヘビースモーカーではありませんでした。パイプを愛用していた時期もあります。
しかし、現在は、珍しい煙草があったりすると一本もらうということはありますが、普段は喫煙しません。列車やレストランなどでも、選べる場合は禁煙席を選びます。
しかし、同席している人が喫煙することには寛容です。嫌煙権を主張する人々の考えは支持しますが、私自身は自己決定権も最大限尊重されるべきだと考えているので、自分自身はいわゆる嫌煙家ではないと思っています。
(2005.11.28)
- Q:好きな音楽は何ですか?
- A:音楽の趣味は浅く広く、自分でもよくわかりません。
趣味の一端は、私的ページにある聴いている音楽を参照して下さい。
好んで聴いているのは、若いときから聴き続けているツェッペリン、イエス、YMOなど、ジャズではスタン・ゲッツなどが気に入っています。
- Q:不合格になった単位を合格にしてもらえませんか?
- A:できません。
毎年、成績評価を下した後に、こうした質問(というより要請・懇願)をされます。例えば、2003年度末の場合、メールのみのやりとりをした方が4件、大学の研究室までおいでになった方が2件ありました。いずれも非常勤講師として出講している他大学の授業を受講されていた方々です。こうした質問をぶつけてくる方は、様々な理由を持ち出されますが、そのほとんどは単なる我が儘に近い個人的事情であり、そもそも考慮対象となりません。
正当な理由があって、評価に疑問がある場合は、各大学の正規の成績照会手続きに従って問い合わせをして下さい。採点、評定といっても、人間のすることですからミスが生じている可能性は常にあります。私自身は一旦下した評価を変更したことはありませんが、例えばコミュニケーション学部関連科目全体でいえば、年に数件は転記ミスなどに起因する成績評価訂正があります。これは、東経大が特に多いということではなく、どこの大学でもあり得る事態だと思います。
成績照会をする場合は、できるだけ具体的に状況を書いてください。例えば、試験に出席したのに(あるいは、課題レポートも提出したのに)試験欠席扱いになっていれば、なんらかの誤りがある可能性が高いということになります。その場合は、試験に出ました、レポートを出しましただけでなく、どんな内容を書いたか、といったことまでできるだけ具体的に説明して下さい。
成績は、各担当教員から学部に報告されれば公的なものとなり、それに基づいて卒業判定などが機関決定された後に変更することは、安易にはできません。教員の立場から見れば、成績照会に対して間違いを認め、成績訂正願いを出すというのは、かなり重大なことです。自分の仕事に落ち度がありました、という始末書を出すのと同じだからです。
要するに、評価が過っているのではないかと合理的に推論できるだけの客観的な根拠がないかぎり、成績照会をしても評価が覆る可能性はありませんし、それ以外の手続きで、不合格になった科目の単位を後から認めるということもあり得ません。もちろん、合理的推論に足る客観的根拠があるなら、正規の成績照会手続きをとっていただければ誠実に回答いたしますし、その過程で誤りが確認されれば、速やかに必要な措置をとります。また、成績照会とは別に、成績について説明してほしいというリクエストがあれば、本人確認ができる場合には可能な範囲で対応します。
(2004.03.19.)
2005年度前期に、東京経済大学のある科目で集計ミスから誤った成績を付けている例があることが判明し、成績評価を訂正しました。したがって上の記述の内「私自身は一旦下した評価を変更したことはありませんが」という箇所は、これを書いた段階での記述であることにご注意ください。
(2005.12.29.)
- Q:どうして東大文二を受けたんですか?
- A: 私が通っていた栄光学園は、私立の中高一貫校で、上智大学の系列にあたるカトリックの学校でした。一学年180名で、浪人も含めると、少ない年で4人にひとり、多い年で3人にひとりが東大に進学するようなところです。
私自身は、高校では成績が悪く、当時の自分の成績表と、全体の成績分布を照合して判断していた実感では、だいたい学年で150〜160番台の成績順位だったと記憶しています。ただ、不思議と英語はそこそこの成績でしたし、文系としては数学もできたので、受験は何とかなるだろうとは思っていました。浪人するくらいなら、入れるところで勉強できればという感じです。
今とは時代が違いますから、進路の選択も極めていい加減でした。とりあえず消去法で理系をパスし、数学が選択できる文系学部を中心に受験先を探しました。この段階で将来の夢などと言われても、非現実的なことしか浮かばなかったので、とりあえず少しでも名の通った大学へ行って、それから考えればいいやという気持ちだったと思います。
だいたい高二の最後くらいで進路指導が始まるのですが、その際も、「特に進みたい方向はない」「自分のプライドが許すところならどこでもいい」と担任に言って、困った顔をされました。幸いなことに、高三の担任になった先生は、「それはそれでいいでしょう」と放っておいてくれました。
当時は、国立大学が一期校と二期校に分かれていた時代の最後です。私は成績のこともあり、英語と数学中心で(国語は苦手でした)受けられる早稲田と慶応の文系学部、英語の比重の大きい上智をメインに受験勉強をしていましたが、国立を受けないのはもったいないと思い、出願だけはしておこうと思ったのですが、二期校は東京外大の受験をすんなり決めたものの、一期校はどこを受けるか困りました。模試の成績等でチャンスがありそうなところがなかったからです。当時、関東の文系一期校は、東大と一橋しかありませんでした。「まあ記念受験に」ということで東大に出願することにしました。
ところが、受験勉強をしていくうちに、秋から冬にかけて模試の結果が少し上向き、担任の先生も「ひょっとするとひょっとするぞ」と東大受験も単なる記念受験ではなく、少しは真剣に考えるように促してくれました。文一か文二かは、単なる記念受験なら文一でよいわけですが、少し可能性があるとなれば少しでも入りやすい方がよいに決まっています。当時も文系では文一が一番偏差値が高く、文二と文三がほぼ同じ水準でしたが、先輩の話から文二は入ってから楽だ(文三はきつい)と聞かされていたので、最終的に文二に出願しました。
とりあえず秋に防衛大学校に合格していましたから、浪人する可能性はなくなり、「全部落ちたら士官学校で叩き直してもらおう」というつもりで受験本番に臨みました。2月に入ってから、上智、早稲田、慶応の順で受験していきました。自分の意識では早稲田の政経が第一希望だったので、受験会場だった理工学部に行った時のことは特に印象に残っています。幸い、東大の一次試験(当時は、共通一次試験〜センター試験はなかった)の後、早稲田の合格が発表され、入学手続きも済ませていましたから、気楽な気持ちで東大の二次試験を受けました。
というわけで、受験生だった時には、極めていい加減というか、特に思い入れもなく受験する学部(科類)を選んだというのが実際です。
当時は今と違って、進路の決定に際して、何がしたいとか、どんな将来像をもっているかとか、過剰な自己分析を強いられることはなく、その意味ではおおらかな時代に生まれてよかったと思っています。
「自分は何のために何を大学で学ぶのか」、「学生として社会の現実にどう向き合うべきか」等々、学友たちとの厳しい議論にさらされ、深い反省を強いられるようになるのは、大学に入学してから後の事でした。
(2004.06.06.)
- Q:大学では、どんなサークルやゼミに入っていたんですか?
- A:サークルは、「ESS」と「ニューフォーク研」に入っていました。つまり、当時は、英語はそれなりに勉強もしていましたし、下手なりに歌い、またベースも弾いていたということです。後者は、後に名前を変えて現在の「POMP」というサークルの起源になりました。前者は今でもOB会の親睦などがありますが、後者は学部卒業後は縁がなくなりました。また、厳密にいえばサークルではありませんが、学生会館運営委員会に下っ端の「アルバイター」として関わっていました。数としては少数ですが、ここで知り合った仲間には個性的な連中が揃っていて、いろいろなことが今でも懐かしく思い出されます。
ESSは学部2年までで3年以降は現役引退でOB扱いでしたし、ニューフォーク研に出入りしていたのは3年くらいまでで、学生会館は学部卒業まででした。大学院の頃にサークルに関わった記憶はありません。そういうことがあったとしてもあくまでもOBとしてだったと思います。
当時の教養学科は、科目名に「演習」とついているものはありましたが、経済学部などのような「所属」を強く意識させるゼミ制度はとられていませんでした。同じ分科(私の場合「イギリスの文化と社会」=通称、「イギリス科」)に数人しか同期生がおらず、専門の授業は「演習」と称されるか否かを問わず、ほとんどがゼミばかりのような状態でした。特に「ゼミに所属する」という制度も意識もなかったのです。私は副専攻制度で人文地理学をとっていたので、イギリス科と人文地理学科の授業はいつも数人の同じようなメンバーの仲間と受けることになりました。したがって、両学科の同期〜前後の学年の人たちとの付き合いの感覚は、「同じゼミ」というのに近いのだと思います。
大学院では、修士から博士まで全員でも十数名でしたし、全体の合同ゼミの後は毎回のように飲み会になっていましたから、これもかなり強い連帯意識のある場だったと思いますし、今でも学界に残っている方が多いので、付き合いは続いています。大学院時代に新聞研究所の研究生もやっていましたが、こちらもコンスタントに授業に出ている仲間は十名ちょっとで、これも同様に一つのゼミのような感じでした。
(2007.02.05.)
- Q:どうして売り込みの電話に丁寧に対応しているのですか?
- A:研究室へのお電話ありがとうございましたのページで説明しているように、研究室にはしばしば売り込みの電話がかかってきます。以前は、失礼な切り方をする場合もあったのですが、ここ数年は時間の許す範囲で丁寧に対応するよう心がけています。
そのような対応をするようになったのは、売り込みの電話をかけてきたり、飛び込みのセールスで研究室にお出でになる方々が、本学(東京経済大学)のOBであったり、世間で一般的に本学よりも高く評価されている大学の出身者であることがよくあると気づいたことがきっかけです。つまり、こうした営業の方々が所属している会社の中には、本学の立場から見れば、卒業生が就職活動でお世話になったり(つまり、採用して頂いたり)、ご迷惑をおかけする(つまり、就職活動でお世話にはなるが採用には至らない)可能性がある会社が含まれているということになります。
また、大学院をはじめ、社会人の皆さんに大学で学ぶことをお勧めしている大学の立場からすれば、こうしてお出でになる営業マンの方々も、本学の社会人教育の潜在的な「市場」であるとも考えることができます。
今のところは個人的な事情で経済状態に余裕はないので成約に至る可能性はないこと、経緯をウェブ上で紹介する場合があることをはっきりお伝えした上で、例えば新人営業マンのOJTの一環として営業トークの相手になる、モルモットになるということでよろしければ、可能な限り実際にアポイントメントを設定するようにしています。
(2006.01.16.)
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