研究の道具箱:山田晴通
東京経済大学についての「よくある質問」(FAQ)
Frequently Asked Questions about Tokyo Keizai University
このページでは、東京経済大学について山田がよく質問される事柄について、Q&A方式で説明をしています。
できるだけ正確な応答となるよう心がけてはおりますが、山田自身が事実誤認をしている可能性は常にありますので、内容は無保証とご了解ください。
質問や回答の中には、メールや掲示板での実際のやり取りを踏まえたものもありますが、質問も回答も少し手を加えて、より一般的な形に改めてあります。
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東京経済大学についての質問を歓迎します。
こちらまでメールをお寄せ下さい。
- Q:なぜ、授業の種類によって同じ時間授業を受けても取得できる単位が異なる事があるのですか?
- A:大学の単位制度には、簡単には理解できないような部分がいろいろ含まれています。例えば、なぜ半期で2単位(通年で4単位)になる授業がほとんどなのに、語学の授業(のほとんど)や、スポーツ科目では、半期で1単位(通年で2単位)にしかならないのか、といった点について、疑問を感じたことは誰しもあると思います。しかし、「それが制度だから」「そういうルールになっているから」という以上の説明は、ほとんど聞かれることがありません。学生はもちろん、教員でも、なぜそのような制度なりルールになっているのか、理解していない方が少なからずいるのが実際だと思います。
私自身が学生だった当時(1970年代後半)、東大の駒場では、いわゆる講義科目は半期で2単位(通年で4単位)でしたが、語学科目と体育科目は半期で1単位(通年で2単位)でした(ここまでは現在の東経大と同じです)。また、演習科目も、半期で1単位(通年で2単位)でした。さらに、通年で1単位(半期換算だと0.5単位)という授業もありました。これは、主に理系の学生が受講する「実験」科目でした。同じ一コマでも、半期で0.5単位から2単位まで、4倍の開きがあるわけです。どうしてそうなるのか、不思議に思いました。そこで、教員や先輩に質問してみると、概ね以下のような回答でした。以下の内容について、私は具体的な制度的根拠までは遡って確認していませんが、だいたい正確な説明だと今でも信じています。
まずはじめに、大学における授業時間について考えておきましょう。東経大をはじめ、多くの大学の授業は、現在では90分が標準になっています。しかし、本来、大学の1コマは2時間なければいけないのです。一部の大学では(実際に1時間分ずつに分割した授業をすることがなくても)東経大の1時限にあたるコマを「1・2時間目」、3時限にあたるコマを「5・6時間目」などと読んでいますが、これは一つのコマが2時間分に相当することを示すための慣行です(現在私が出講しているところでは、国立音楽大学がこのような形です)。私がこれまでに、あるいは学生として、あるいは非常勤講師として経験した授業時間の中には、1コマ120分とか、100分というものもありました。90分というは1.5時間で、四捨五入して2時間と見なせるギリギリの時間ということから一般的に広く採用されている授業時間の長さのようです。ちなみに、私が直接知る限り、明治大学の二部(夜間部)は以前は85分授業でしたが、現在は90分授業になっています。
要するに、実際にどれくらいの時間が授業の1コマになっているかはともかく、大学の授業は1回2時間が標準とするのが原則であって、それが如何に実態から離れていても、制度はこれを前提に組み立てられている、ということを理解してください。
さて、同じ一コマでも、半期で1単位と2単位(あるいは、半期で0.5単位から2単位まで)の違いがあるのは、どうしてでしょうか。それは、同じ1コマの授業でも学習が授業時間内に完結するのか、何らかの予習や復習を必要とするのか、という観点からの位置づけの違いがあるからです。
大学の単位制度が整備された当時は、以下のような原則が想定されていたようです。
- 講義科目は、授業時間と同程度の予習時間と、授業時間の2倍に相当する復習時間がなければ、内容を適切に修得できないであろう
- これに対して、その場で教員との対話や実習的な内容が含まれている授業の場合は、予習は必要なく、復習の時間も授業時間と同じ程度の長さで十分であろう
- さらに、授業時間内の実習によって学修が完結する場合は、予習・復習の時間を見積もる必要がない
これを言い換えると、次のようにも言えます。
- 講義は教員が一方的に講じるもので、ちゃんと理解するために教員に質疑をしたりする時間は講義時間外に個別に予習なり復習として行うべきだ
- しかし、演習や、語学や体育の指導は、教員が学生に発言なり、実技をさせながら指導するので、教員からの働きかけは講義の半分程度であろうし、学生が学修するために必要な時間も講義科目の半分でよいはずだ
- 実験にいたっては、時間中にやったことで学ぶべきことは尽きている
もちろん実際には、こんな時間の掛け方をして大学の授業に臨んでいる学生はいないでしょう。また、実態としては講義科目と演習科目で、演習の方が楽なはずだという想定は、ちゃんとゼミに出ている学生の実感とはズレているでしょうし、何より(東経大にはありませんが)実験科目の授業はなかなか時間内に終わるものではなく、また事前の準備や事後の報告書作成を含め負担が大きい場合が多い(理系の大学で留年する人はたいていが実験科目を落としている)という事実は、こうした想定が現状には合っていないことを示しています。しかし、繰り返しますが、こうした想定が如何に実態から離れていても、制度はこれを前提に組み立てられているのです。
なお、東経大では、かなり以前から演習は講義と同じように半期2単位=通年4単位で数えています。また、語学科目は半期1単位=通年2単位が原則ですが、例外的に半期2単位=通年4単位扱いになる(事実上の)語学科目もあります。
(2006.04.23./2006.04.29.)
- Q:なぜ、一年間に履修できる単位数に上限があるのですか?
- A:上の「なぜ、授業の種類によって同じ時間授業を受けても取得できる単位が異なる事があるのですか?」という問いへの回答で説明したように、1コマの授業をとる、ということは、教室で2時間(90分ではなく)学ぶことをまず意味します。そして、その授業が講義科目であれば、それに伴って2時間の予習と4時間の復習をする、と想定されるわけです。講義科目の授業1コマは、履修者に合計8時間の勉学を要求しているのです。
同様に、これが語学やスポーツ科目であれば授業1コマあたり合計4時間が要求されることになります。(東経大では、演習科目は授業科目と同じ単位計算になっています)
計算の都合上、通年での換算で考え、前期後期の履修単位が同じであると仮定すると、年間にn単位を履修するということは、授業期間中は毎週 2n時間の勉学が求められているということになります。具体的には、週に12コマをすべて講義科目で登録していれば、通年で48単位分になりますが、これは週に96時間を学修に費やすことが求められていることを意味します。
この96時間という時間は、週に6日間は毎日16時間勉強する=寝ている時間以外はひたすら勉強する、という状況でなければ実際に達成できない水準です。
本来、大学の制度は、このように授業に対して学生が予習・復習をもって臨み、寸暇を惜しんで勉強するという状況を前提として組み上げられているわけですが、そうすると当然、一週間に勉学に割ける時間数には限界があることになり、一定の水準での上限が設定されるのです。
(2006.04.23./2006.04.29.)
- Q:コミュニケーション学部の学生ですが、就活の面接などで「コミュニケーション学部って何やってるの?」と聞かれても上手く説明する自信がありません。どう説明すればよいでしょうか?
- A:この質問には、いくつかの異なるレベルで応答することができると思います。
まず、まっとうに制度論的なレベルで答えます。大学の公式サイトにあるコミュニケーション学部の「理念・目的・教育目標」を熟読してください。コミュニケーション学部における教育、その基盤となる研究活動は、コミュニケーション概念を鍵として、既存の人文諸学、社会科学を横断的に結び付けながら、高度な情報化が進展しつつある現代社会について、その中で生きていく人間の存在について、考えていくことを課題としています。学部教育では、特に「メディア・リテラシー」の向上を掲げ、学生諸君の情報処理能力、批判的読解力、情報発信力の拡充を目指しています。
次にもう少し実際的な対応策としては、自分の所属してきたゼミでの活動や、卒論の具体的な取り組みについて中心的に説明することで、納得してもらうのがよいかもしれません。
さらに、使う場面は限られてくるでしょうが、「ぶっちゃけ社会学部とか、文学部みたいなものです」と説明してしまう手もあります。しかし、これは空気をちゃんと判断していないと就職活動の中では使えないかもしれません。
いずれにせよ、この手の問いかけは、その人がよく分っているはずの物事を尋ねられて、どう適切に、簡潔で分りやすく説明できるかを見ている質問です。答えの中身以上に、応答する際の話し方のよどみなさとか、自信を持った話し振りとか、話しの流れ、持っていき方の方が、面接者の印象を大きく左右するように思います。
(2006.12.08./2007.01.20.)
- Q:大学名は変わるのですか?
- A:少なくとも当分の間は、変わらないと思います。
このような質問がよくあるのは、1990年代から大学の理事会が、適切な名称があれば大学名を変えたいという意向を表明してきたためです。これまで理事会は様々な検討を行ってきた結果、適切な名称がないとして、この問題は棚上げになっており、具体的な改称への動きは止まっています。しかし、改称方針は正式に撤回されてはいません。
改称論の大きな理由は、東京経済大学という名称が、単科大学から複数学部を擁する大学に発展してきた本学の現状を反映していないことが挙げられています。
(2005.06.19.)
- Q:退職された元教員の先生に連絡をとりたいのですが、どうしたらいいでしょうか?
- A:こういう場合、一番確実なのは、切手を貼った封筒に住所のスペースを残し、名宛人(先生の名前)だけを書いたものを用意して、総務課に送達を依頼するというのが、まっとうな方法です。
窓口にゆけなくても、そのように整えた封筒を、「○○先生に転送してほしい」旨の依頼状とともに「転送希望郵便物在中」と書いた大きな封筒に入れて、総務課に送るということでも大丈夫です。
もちろん、単純に大学宛で「○○先生」と書いて送ってもよいですが、転送を急いでいるなら、上記のように総務課宛に送った方が、より確実でしょう。
(2004.07.31.)
- Q:大学教員の採用はどのようにして決まるのでしょうか? 公募と縁故採用はどちらが多いのでしょうか?
- A:一般的に大学教員の採用は「公募によるもの」と「公募によらないもの」があります。後者を「縁故採用」と表現しても間違いではありませんが、一般企業への就職に関連してこの語が用いられる場合とは多少ニュアンスにズレがあります(詳しくは後述)ので、この表現を用いることには慎重であるべきだと思います。
「公募」とは、大学が必要とする教員の条件を公開して、一定期間、応募者を募り、その応募者の中から採用する人物を決定する、という一連の作業を指します。かつては、各大学が公募通知を多数作成し、学会誌などに内容を掲載してもらったり、関連がありそうな他大学(特に大学院をもっている大学など)に公募通知を送付し、それが各大学の掲示板に掲出されるといった方法で、公募情報が広められていました。現在では、インターネットの普及によって、ウェブ上での情報公開が定着しています。
また、現在は、研究者人材データベース
http://jrecin.jst.go.jp/
があり、多数の情報を効率よく探すことが可能になっています。
公募によらない採用は、「一本釣り」などと称されることがよくあります。つまり、大学が、この人をぜひ採用したい、と考えた相手に個別に交渉して、採用を実現する場合です。この方法は、「公募」による場合に比べると、手続きの透明性に欠けるという大きな問題がありますが、「公募」の場合よりも短い時間で決定に至ることができるなど、メリットもあり、特に学部等の新設に伴って、文部科学省の大学設置審議会が要求する水準で教員を適切に揃えなければいけない場合や、大物の教員に他大学などから移ってきてもらう場合などに用いられます。
私の場合、最初の短大への就職は「公募」でしたが、東経大への転職はコミュニケーション学部の新設に伴う「一本釣り」でした。
「公募」の場合、採用すべき人物を選ぶために大学は人事委員会を設けて、適任者を選びます。その手続きの進め方は、大学や学部など、組織によって違うこともありますし、一概には説明できません。また、現に東経大がどのような手続きをとっているのかについての具体的な詳細は、業務上の守秘義務に抵触すると思われますので、ここでは説明はしません。
あくまでも一般論ですが、とにかく、多数の応募者の中から、適任者をしぼっていくことが必要になります。その審査において、適任者を判断する物差しとしては、研究業績、教育経験(いわゆる教歴)、が重視されますが、それ以外に年齢、性別その他の諸要素が考慮されることもあります。また、多くの場合、ある程度候補者を絞り込んだ上で、面接が実施されます。面接の場面におけるコミュニケーション能力や、人柄も、重要な要素となることがあります。
以上は、「公募」が典型的な形で、実質的に行われている場合ですが、中には、実は採用する予定の「意中の人物」が決まっているのに形式的に公募の手続きが行われることもあるようです。大学によっては、規則上「公募による採用」が義務づけられているために、実態としては「一本釣り」でも、「公募」手続きを起こして、「意中の人物」にも応募させ、どんなに候補者が集まってもその人物を選ぶ、という面倒なことが行われるわけです。
公募書類の条件を見ていると、異常に公募期間が短い、とか、条件が非常に厳しい(単にレベルが高いという意味ではなく、そんな条件の組み合わせに合う人は少ないだろうと思わせる条件が課されている)事例がありますが、そうしたものは「実はこれは既に内定者がいる、形式だけの公募だよ」というメッセージであることが多い、とも言われています。こうした、形式だけの「公募」がどれくらいあるのか、本当のところは分かりません(調べようもありません)。
本来なら、適任の人材を得るためには、できるだけ広く公募情報を広める必要があります。しかし、一方では、あまりにも多数の応募があると、書類の処理だけでも対処が大変になることなど、様々な事情から、あえて募集の範囲を限定する場合もあります。つまり、本来の意味の「公募」とは違うのですが、世間一般には人材を求めていることを公にしないが、学内関係者には条件を周知させて、学内関係者の推薦する者の中から候補者を絞るという方法です。こういう限定的な「公募」は、本来の(不特定多数に告知して、誰からの応募も受け付ける)「公募」とは違いますが、「内部公募」などと称されることがあります。「縁故」という言葉を使うとすれば、こうしたケースに用いるのが適切かもしれません。しかし、「縁故」があって候補者になれたのだとしても、「縁故」だけで採用となるわけではありませんから、これを「縁故採用」というのは不適切だと思います。
さて、東経大では、かつては「学内公募」と称して「内部公募」が行われる例があったようです。しかし、私が着任した1990年代半ば以降は、教員の欠員補充は実質的な「公募」によって行われるのがほとんどです。ただし、学部や大学院の新設の際などには、予め権限の一任を受けて、新設準備の一環として「一本釣り」による採用が行われることもあります。直前に「公募」が出ていなかったのに、新しい教員が採用されるときは、このようなケースにあたります(かつてなら「学内公募」の可能性もあったわけですが、近年ではほとんどありません)。
(2006.03.30./2007.01.31.)
- Q:山田先生は東京経済大学を何流大学と判断されているのですか?
- A:何流という単純化した捉え方はしていません。
残念ながら、「超一流」や、「一流」とは言えないですが、通常の言葉遣いでは「二流」「三流」くらいまでしか言わないはずです。敢えて「四流」だの、それ以下だのと言ってみせるのは、言及の対象(この場合は東経大)を貶めるために悪意を持って言う場合ではないでしょうか。
もちろん、きちんと定義して「何流」というような言い方をするのなら、そのような用語法は排除しません。しかし私自身は、そういう皮相な単純化した見方はしないということです。
(2005.10.07./2007.05.09.)
- Q:いろいろな予備校の資料によって東京経済大学の偏差値は40台前半から50を超えるものまでばらばらですが、どれが一番信頼できるのですか? 本当はいくつなのですか?
- A:大学の偏差値のことですが、本当ならそもそも「偏差」→「分散」→「標準偏差」という一連の数学的概念がわかっていなければお話になりませんし、母集団と標本の関係についても理解していなければいけません(おおむね高校の数学Cで扱う程度の内容)。しかし、それらをすっ飛ばして、厳密ではないのを承知で、とりあえず、数学的な説明はいっさい抜きにして、説明してみましょう。
偏差値というのは、多数の標本(この場合は試験を受けた人)が、それぞれに数値(模擬試験の得点)をもっている時に、集団全体の中でその数値が平均的な位置にあるのか、ばらついた極端な位置(極端に高い点や低い点)にあるのかを示す値です。平均点ちょうどの場合は50、どれくらいばらついているのかを示す物差となる「標準偏差」(この算出方法は、ここではとりあえず説明を省きます)一つ分だけ平均をよりも数値が大きい方にずれていれば60、小さい方にずれていれば40、同様に「標準偏差」の1.7倍大きい方にずれていれば67という風になります。
偏差値は、何回か異なる試験をやるような場合に、その時々で試験の難易度が変化したり(平均値が変わる)、出来不出来のばらつきが変化したり(標準偏差=ものさし の長さが変わる)しても、同じ条件で結果を比較することができる、という点で成績評価の分析で重宝されるのです。
偏差値は、満点がある概念ではありません。極端な例を想定すれば上限も下限もなく大きな/小さな(マイナスを含む)数値となることが理論上はあり得ます。しかし、実際にこうした分析の対象となる現象は類似した数値(例えば0点から100点の範囲におさまるテストの結果)の集合ですから、ほとんどの数値は20〜80の間に入ってしまいます。このため偏差値は、直感的にとらえやすい数字になることが多いのです。
さて次に、いわゆる大学や学部の偏差値がどういう手続で算出されることが多いのかを考えてみます。各予備校などは、自分のところが主催した模擬試験などを受けた受験者を追跡調査して、どこの大学に合格したのかを把握します。そうすると、模擬試験の成績がどの程度だった人が、結果としてどの大学に合格した/不合格だった、というデータが手に入ります。十分な標本数があることを前提とすると、模擬試験の成績が先ほどの偏差値で示した時に50(つまり全体の平均点)だった人は70%合格した、45の人は50%合格した....といった一連のデータが手に入ります。このデータに基づいて、例えば「このレベルの受験生が五分五分で合格するライン」とか、「このレベルの受験生が九割以上合格するライン」を引くことができるわけです。
では、なぜ予備校によって、偏差値がばらつくのでしょうか? とりあえず、3つの異なる段階に分けて説明します。
(1)まず、これは同じ予備校のデータでも、「このレベルの受験生が五分五分で合格するライン」と「このレベルの受験生が九割以上合格するライン」は当然違うところに引かれます。一つの模試の結果で、「合格可能圏」と「合格確実圏」などと称して志望校別の判定が出ることがありますが、これはこうしたラインとの関係でどういう位置にいるかという判定です。ある大学について単に偏差値といった場合、「このレベルの受験生が××%以上合格するライン」の「××%」の数値をどう設定するかで、当然偏差値は上下します。例えば、代ゼミの場合、国立大学では「これに達していれば合格可能性は概ね60%」、私立大学では「これに達していれば合格可能性は概ね60%で、高競争率の大学では55%前後」というレベルの偏差値を示していると説明されています。
(2)また、予備校が違えば、そもそもその模擬試験に集まる受験生の層も違います。東大への進学指導を売りにしている駿台予備校や河合塾と、より広い層を対象とした代ゼミでは、同じような手続きで模擬試験の結果をもとに数的処理をしても、当然違った結果になります。最初から東大を受けようかと思っている受験生の集団の平均点と、とりあえず大学を受験しようかという集団の平均点が違うのは当たり前です。つまり、同じ偏差値50でも、前者の集団と後者の集団では、意味が違います。同様に、他の偏差値についても数字が同じであっても意味は当然違います。同じ受験生が二つの模擬試験を受けて一方で偏差値45、一方で55となったとしても、発揮した実力は同じで、単に前者では同じ試験を受けた他の受験生のレベルが高く、後者では逆、ということもあり得ます。
(3)ここまでの説明では、ある模擬試験を受けた受験生の中に、実際にある大学(学部)を受験した者が多数いて、そのレベルもばらついており、偏差値で示されたそれぞれのレベルごとに、何%くらいが合格した、という判断が出来ることが前提となっていました。つまり、十分な標本数があることが前提となっていました。しかし、実際には、(たくさん受験生を集める大規模な大学を除くと)どんなに大人数を集める模擬試験であっても、十分なサンプルが揃うとは限りません。
学部別まで行くと、せいぜい数十人の模擬試験受験者のデータで判断するというケースも出てきますし、場合によっては合否の比率が成績順にならない(偏差値が高めのグループより、低めのグループの方が合格率が高くなったり、差がつかなかったりする)ようなこともしばしば起きます。統計学的には、データ不足であり、本来なら何も判断を下せないようなケースですが、受験産業の立場からいえばそういう理由で偏差値を出さないというわけにはいきません。そこで、経験を踏まえてある数値を決めてしまうということになります。中には、サンプルが極端に少なかったりする例もあるわけで実際には数名の結果だけを参考に数値が決められる例さえあるようです。
各予備校などが公表している偏差値に、こうした非科学的というか、怪し気な部分が含まれている、ということを聞くと、予備校と結託すると偏差値を上げられる、などと安易に考える人もいるかもしれません。しかし、予備校も彼等自身の信用がありますから、特定の大学の意向を受けて偏差値を実態と異なるものにしようとするようなところは、いずれは淘汰されていくことでしょう。
なお、東経大の各学部の偏差値のばらつきについては、代ゼミと河合塾で大きく異なっていることが、よく指摘されます。この両者を比較すると偏差値の全体的な水準の違いは(1)(2)で説明できるとしても、学部間の格差のつき方の違い(例えば、コミュニケーション学部が、代ゼミでは他学部と同格なのに、河合塾では極端に低い)はそれでは説明できません。おそらく、実際に東経大のコミュニケーション学部を受験する学生が河合塾のデータでは極端に少ないのではないか、というのが私の推論です。実際のところは、河合塾にせよ、代ゼミにせよ、企業秘密でしょうから簡単にはわからないですが、現実の東経大の受験生の層を考えれば、代ゼミの方がより多くのサンプルを確保しているように思います。
偏差値がいかに根拠の弱い、危うい数字であっても、テレビ局にとっての視聴率と同じで、いったん出された数字は一人歩きします。本当の問題は、多くの人が偏差値の本質を理解せずに偏差値に振り回されている、というところにあるのだと思います。
(2005.02.24./2007.07.18.)
(2005.06.19.掲出)
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