東京大学における地理学関係教室について
- 東京大学における地理学教育は、大きく二つの流れがあり、また20世紀末の大学改革の中で大きな変化を遂げてきました。このため、東京大学で地理学を学んだ者にとっては、自分の経歴を述べる際に、ある程度まで背景を説明しないときちんと理解されない、という面倒なことになっています。このページでは、山田個人の経歴を正確に理解して頂くために、1980年代以降の事情を中心に、東京大学における地理学関係教室について簡単な解説を記しております。東京大学における地理学関係教室の歴史について詳しいことは、下記の人文地理学教室等に照会されるのが適切かと思います。
- 旧制大学の時代以来、東京大学では伝統的に本郷の理学部の中に地理学が位置づけられていました。これは、自然地理学を含めて地理学を文学部に位置づけてきた京都大学と、しばしば対照的に語られるところです。おおむね1950年代までは、人文地理学専攻者も、みな理学部に学んだわけで、後に高名な人文地理学者となった先生方にも若い頃には自然地理学の論文があるのが当然でした。
- 新制大学に移行してからしばらくすると、理学部以外の組織に地理学関連部門が設置される動きが出てきました。例えば、東洋文化研究所(東文研)などの動向も重要でしたが、最も重要だったのは、教養学部(駒場)に設けられた人文地理学に特化した部門でした。これは、現在の人文地理学教室のルーツということになります。
- 1950年代なかば以降には、学部レベルでは、自然・人文を問わず地理学を学べる(人文地理学専攻の教員もいる)理学部地理学科と、もっぱら人文地理学を学ぶ(自然地理学専攻の教員は原則としていない=助手ではいた時期もある)教養学部教養学科人文地理学分科(正式名称は時期によって多少変化する)の二つのコースが存在していました。当然、山田が学部学生だった1970年代後半にも、この二つのコースがあったわけです。
- ところが、大学院については、長い間、理学部の上に置かれた大学院理学系研究科に地理学専攻(時期によっては「地理学専門課程」)があるだけでした。人文地理学専攻者も、自然地理学専攻者も、理学系研究科の同じコースに進んだわけです。この大学院のコースには、本郷の理学部の教員、駒場の教養学部の教員、その他の部門(東文研など)に散在する教員が関与していました。授業は、自然系はほとんどが旧理学部2号館でしたが、人文系は駒場が中心とはいうものの、理学部でもあり、東文研や経済学部の研究室でも行われる、という状況でした。院生の机も、人文系の学生の場合は共用のものが本郷と駒場の両方にあり、駒場中心に活動していた者も、本郷中心の者もいました。しかし、事務手続きは原則としてすべて本郷の理学部の事務局が掌握していました。山田が大学院の学生だった1980年代前半には、この理学系しか地理学を学べる大学院はありませんでした。
- 当時の大学院には、理学部地理学科出身の自然地理学専攻者、教養学部教養学科人文地理学分科出身の人文地理学専攻者のほか、理学部地理学科出身の人文地理学専攻者、他専攻出身の自然地理学専攻者、他専攻出身の人文地理学専攻者(山田もその一人)、他大学出身の人文地理学専攻者が共存していたわけです。他大学出身の自然地理学専攻者については、山田と同時期にはほとんどいなかったように記憶していますが、少し後になると増えていきました。
- しかし、その後、1990年代に大きな変化が起きました。駒場では、教養学部の上に位置づけられた大学院総合文化研究科の整備が進み、もっぱら人文地理学を学ぶ大学院のコースを総合文化研究科に位置づける動きが出てきました。その結果、制度の正式名称としては「地理」という言葉を使っていないものの、実質的に人文地理学を専攻するコースが大学院総合文化研究科広域科学専攻広域システム科学系の中に複合系計画学大講座の一部として位置づけられて「総合文化研究科広域科学専攻広域システム科学系(人文地理)」が成立するに至ったのです。このため一時期には、総合文化研究科に所属する人文地理学専攻者と、理学系研究科に所属する人文地理学専攻者が机を並べて学ぶという状況が生まれました。
- 一方、本郷では、理学部の大規模な組織改革の中で、まず地理学科のポストから人文地理学専攻者が段階的になくなって自然地理学への特化が進み、同時に、自然地理学という枠組みにこだわらず、より広範な地球科学あるいは地球惑星科学という枠組みの中で、教員ポストの再配置、再組織が進みました。その動きは、大変目まぐるしいものでした。最終的に地理学という枠組みも、自然地理学という枠組みも、現在の理学部・理学系研究科にはなくなりました。また、人文地理学専攻者が新たに理学系研究科に進学することはなくなりました。
- 2003年11月現在、旧・地理学教室の関連リンクなどを載せたページが理学部に残っていますが、ここでは2003年度末での閉鎖が予告されています。ここにあった内容は、現在では歴史的文書として、旧地理学教室に所属していた教員が研究室のサイトに保全しているページで見ることができます。旧地理学教室に所属していた教員は、異なる学部・研究科・研究所等の部局に散開しています。
- 東京大学研究者一覧で「地理学」領域に位置づけられている方々
- 東京大学人文地理学教室=教養学部広域科学科人文地理分科・大学院総合文化研究科広域科学専攻広域システム科学系(人文地理)
- 東京大学大学院理学系研究科地理学教室←旧・地理学教室の公式ページの位置=現在は閉鎖予告がある←残念ながらこのページはなくなりました
- 東京大学大学院理学系研究科地理学教室←歴史的文書として、小口研究室(空間情報科学研究センター)のサイト内に保存されているもの[2006.10.23.リンク更新]
1970年代までの東京大学における地理学関係教室について、まとまった記述がある。
[2003.11.08.]
東京大学新聞研究所教育部研究生課程について
- 山田が東京大学に学んだ1970年代後半から1980年代前半の時期には、各種の附置研究所の一つとして「新聞研究所」が存在していました。東京大学における附置研究所は、学部と同格の教員組織であり、所属する教員と予算をもつ組織です。研究所所属の教員は、学部生の教育には原則として関与しませんが、大学院の教育には関わることがよくありました。
- 新聞研究所は、1929年に設けられた東京帝国大学文学部新聞研究室を直接の起源とし、学制改革の行われた1949年に新聞研究所として独立しました。設立以降、新聞研は、日本新聞学会〜日本マス・コミュニケーション学会の事務局が長く置かれたことに象徴されるように、日本のマス・コミュニケーション研究の中心として機能していきました。その後、1992年には、広く社会情報学を対象とする研究所として改組・改称され、社会情報研究所となりました。
- 新聞研究所は、大学院の教育にも長く関与しており、時期によって名称は変わりますが大学院の一つのコースを組織的に担当していました。山田が学んだ頃には「社会学研究科社会学B(新聞学)専攻」というのが、実質的に新聞研で学ぶコースでした。2000年には、東京大学の大学院改革の一環として、従来の「研究科」と同格の研究組織として新たに「情報学環」が、教育組織として「学際情報学府」が編成されましたが、その際には社会情報研究所からもスタッフが参加しました。
- その後、さらなる組織改革の波の中で、社会情報研究所は独立した研究所組織としての存続を断念し、大学院情報学環との統合の道を選びました。2004年、社会情報研究所は閉所し、新聞研究所以来55年の歴史に幕を下ろしました。
- もともと新聞研究所には、研究所としては例外的に学部生を対象とする「教育部研究生課程」がありました。これは、学部3年生以上、または短期大学卒業者を対象に研究生を選抜して2年間の教育を行うものです。この研究生制度は、社会情報研究所にもほぼそのままの形で引き継がれました。また、現在の大学院情報学環も、教育部特別研究生制度としてこれを継承しており、対象者は学部2年生以上に引き下げられています。
- 山田が当時の新聞研究所の研究生となったのは、大学院に進んだ1981年のことでした。同期には2学年下の、当時の3年生が多くいました。結局、2年制の課程を4年かけて修了するというマイペースでしたが、1985年には何とか研究生課程を修了させて頂きました。
- 東京大学大学院情報学環・学際情報学府:トップページ
- 沿革:大学院情報学環・学際情報学府の発足/社会情報研究所の歩み
[2004.08.07.:2004.12.22.訂正]
東京大学教養学部教養学科について
- 山田が東京大学に学んだ時期、駒場の教養学部には、教養学科と基礎科学科という二つの学科がありました。要するに、当時の本郷の各学部とは別に、教養学部自体が学部後期課程を二学科もつという形です。特に教養学科は、多数の「分科」と通称される専攻別のコースがあり、山田は通称イギリス科(分科)で学び、学部卒業によって教養学士となりました。このため、通常、自分の出身学部については、「教養学部」「教養学科」「イギリス科」と説明しています。
- しかし、厳密には、当時の「教養学科」は、組織制度上は単一の学科ではなく、事実上三学科の連合体として構成されていました。また、「分科」「イギリス科」という言い方も、厳密には根拠のない単なる通称であり、「イギリスの文化と社会 専攻」というのが正確なものとされていました。少なくとも学生の立場からは、このような事情を意識することはほとんどなかったのですが、上で述べた「教養学科イギリス科」は、厳密には「教養学科第二 イギリスの文化と社会 専攻」と表記すべきものです。しかし、私自身も、また同窓の他の方々の多くも、このように履歴書に書くことはほとんどありません。「教養学科イギリス分科」のようにする方が通りがよいというのが実際です。
- ちなみに、「教養学科第二」は、「地域分科」と通称された「○○の文化と社会 専攻」が束ねられていた学科で、このほかに、科学史・科学哲学、文化人類学、人文地理学など多数の専攻が束ねられた「教養学科第一」と、国際関係論と相関社会科学からなる「教養学科第三」がありました。
- 「教養学科」は新制大学の成立から永く続いていた制度でしたが、1996年からの教養学部の制度改革によってその名称は段階的に消えていきました。現在は、「教養学科」の名称は制度上はなくなり、「教養学部後期課程」を担う「後期学科」として、超域文化科学科、地域文化研究学科、総合社会科学科、基礎科学科、広域科学科、生命・認知科学科の6学科が置かれています。「イギリス科」の通称は現在も用いられていますが、現在の正式な組織としては「教養学部地域文化研究学科 イギリス地域文化研究 分科」となるようです。
- 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 後期学科案内
- イギリス科ホームページ
[2006.10.23.:2010.09.21.リンク先修正]]
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