コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1995

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

1995/01/19 市長名義の年賀状.
1995/01/20 続・市長名義の年賀状.
1995/02/28 猫のおしゃべり.
1995/04/11 研究室の「地層」.
1995/06/02 学生の多様性.
1995/07/19 雨の夜、田舎道で.
1995/09/05 イギリスの暑い夏.
1995/10/04 見えていなかったもの.
1995/11/16 吊革広告.
1995/11/22 ナショナル・トラスト.
1995/12/01 沖縄の痛みは他人事か(上).
1995/12/02 沖縄の痛みは他人事か(下).


1995/ 1/19 

市長名義の年賀状

 思わぬ人から年賀状が来ることがある。今年は、一面識もない松本市長A氏から、自宅宛で年賀状が届いた。これまでA氏には、こちらから年賀状や手紙を出したことはない。
 私宛で届いたのは、ただの印刷された年賀状で、もちろん直筆ではない。政治家の年賀状などは、ダイレクト・メール同然だと思って放り出せば気楽なのだが、思いがけず舞い込んで来た市長名義の年賀状のおかげで、正月休みの間、いろいろ余計なことを考えた。
 私も商売柄つきあっている世界は広い。自宅の住所も、電話帳や『信毎年鑑』には掲載されているから、住所が知られていることは仕方がないと思っている。しかし、見ず知らずのA氏から、年賀状が突然来るのは、やはり気持ちが悪い。
 以前、ある町の町長さんから年賀状を貰ったことがある。この時は、直前に名刺交換をしていたから、特に不思議に思わなかった。こちらから役場宛で年賀状を送るのも変だと思い、何もせずにいたので、当然、翌年から年賀状は来なくなった。
 松本市役所と私の関係を考えてみると、年賀状を貰っても不思議でないくらいのおつきあいは、数年前に、小さな委員会に名を連ねたことくらいしか思い浮かばない。その他の些細なことまで考えても、すべて前市長時代の話である。その当時は、市長はもちろん、一緒に仕事をした市の担当者からも年賀状など貰いはしなかった。
 なぜ今年、A市長名義で私宛に年賀状が来たのか。いっそ直接質問状でも出してみたいと思ったが、年賀状には「松本市長A」とあるだけで住所や連絡先は記されていない。私的に出されたものであれば自宅へ、政治活動として出されたのなら事務所へ、公務なら市役所へ問い合わせるべきだが、何にも書かれていないので手紙の出しようもなかった。
 休みが明けて、この話を行政関係に詳しい知人に話したところ、私宛に年賀状を出したのは、どうやら市役所の市長公室秘書課らしいということがわかった。そこで、直接電話で確認したところ、私が貰った年賀状は、やはり秘書課から出されたものであった。
 電話に出られた秘書課の方には、大変ていねいに事情を説明して頂いた。おかげで市長名義で市役所から出される年賀状について、いろいろなことがわかって勉強になったが、同時に問題点についても考えさせられた。毎年市長名義で各方面に出されているという年賀状について、稿を改めて、私見を述べてみたいと思う。

1995/ 1/20 

続・市長名義の年賀状

 前回(19日付)、思いがけず松本市長名義の年賀状を貰った話を書いた。結局、その年賀状は、市役所の市長公室秘書課から出されたものであった。
 秘書課の方から電話で伺った話によると、市長名義の年賀状は例年六百通余りが、市長皇室秘書課から発送されている。発送先は市の各部局から提出されたリストに従って決められており、個人については、各種の審議委員など、市の行政に協力した人々がリスト・アップされる(私の名は、中央図書館から出されたそうだ)。ただし、この際、市内在住者は対象とされない。経費は、一般管理費から支出される。
 さて、現在の公職選挙法は、政治家が選挙区内の有権者に年賀状等を送ることを原則として禁止している。そして、この年賀状は、松本市内、つまり選挙区内には出されていない。ということは、私宛と同様の年賀状が選挙区内に送られれば、公職選挙法の規程に触れる恐れがあるという認識が、市長公室にはあるのだろう。
 しかし、これは奇妙な話である。この年賀状は、市役所各部局の業務上の必要から出す年賀状であり、一般管理費から費用が支出されている行政行為である。政治家個人が出す年賀状でない以上、もとより公選法に触れるわけがない。松本市内在住者も含めて、年賀状を出して、何ら問題はないはずである。
 むしろ問題なのは、受け取った側が、市役所からではなく、A氏個人からの年賀状だと錯覚しかねないようになっている年賀状の文面であろう。年賀状を読んでも、なぜ、どういう関係で自分に送られてきたのかは、まったく見当がつかない。差出人は「松本市長A」とだけあり、しかも肩書より氏名の字の方が大きい。連絡先などはいっさい記されていない。いくら市長が市を代表するといっても、こんな年賀状を受け取って、これは市役所が行政への協力に対する儀礼として出しているものだと思う人は少ないだろう。
 「松本市長A」のように肩書と氏名だけを記すのは、以前からの慣例だというが、現在の公選法の精神に照らせば、無用の誤解を受けるものである。団体名の「松本市役所」ないし「松本市」で、連絡先が市役所であることを明記して出せば、市内を含めて誰にでも問題なく発送できるようになるはずだ。どうしても市長名を書きたければ、脇に小さな活字で「市長A」と添えればよい。
 私は松本市民ではないし、行政改革が重要な時代とはいえ、経費が高々十万円にもならない年賀状を「この際だから全廃しろ」などと主張する気はない。また、年賀状に関する公選法の規程には罰則がない。しかし、行政行為である以上、たとえ年賀状の発送という小さな件ではあっても「李下に冠は正さず」という精神で臨んで欲しいものである。A市長の政治家としての名誉を傷つけないためにも、一つよく考えて頂きたいものだ。

1995/ 2/28 

猫のおしゃべり

 二月二十二日は「猫の日」だった。最初に耳にしたときは、俳句の季語でもある「猫の恋」と関係があるのかと思ったが、「二」が三つ並ぶのを「にゃんにゃんにゃん」と語呂合わせで読ませるらしい。市民タイムス紙面でも、「猫の日」にちなんで、愛猫家の撮った写真やイラストを紹介していた。
 犬と猫は、いずれも人類の古い友だが、両者と人間との関係は、随分と違っている。この違いを捉えて、人の性格を犬型と猫型に分けて考える話をよく耳にする。犬好きか、猫好きか、といった問いも、やはり同じ様な類型化であろう。
 犬が群れたがり、主人に忠実で、ある意味では卑しいイメージを持つのに対して、猫は、孤独を好み、気まぐれで、自由なイメージがある。犬が男で、猫が女ともいえそうだし、前者が、例えば会社人間のイメージだとすれば、後者は自由業か、ドロップ・アウトのイメージだろうか。
 いずれにせよ、もともと犬型の人も、猫型の人も、世の中には一定の比率でいるのだろう。しかし、組織の中で働く人が圧倒的に多い現代社会では、むしろ自由な猫のイメージが、憧れの対象なのかもしれない。
 犬と猫といえば、パソコン通信に凝っている友人に面白い話を聴いた。彼の経験では、パソコン通信のネットワーク上には、猫は多くいるが、犬はほとんどいないのだそうだ。
 もちろん犬や猫がパソコン通信をしているわけではない。パソコン通信独自の「ハンドル」、つまり、ネットワーク上での仮名(ペンネームのようなもの)を見ていると、圧倒的に猫がらみの名が多いというのである。
 友人の話では、動物がらみのハンドルを使う人はもともと多いのだが、その中でも猫は群を抜いているのだそうだ。これに対し、犬はほとんどおらず、狼や狐はかろうじているらしい。どうやらパソコン通信のネットワーク上では、「ニャンコ」、「ミケ」、「子猫」といった類のハンドルでお互いを呼び合う参加者が、おしゃべりを楽しんでいるらしいのである。
 これから暖かくなるにつれ、わが家の屋根の上にも猫たちが集まるようになってくる。「パソコン通信のおしゃべりは、屋根の上の猫の集会みたいなものだね」というようなことを、その友人にいいそうになったが、喉まで出かかったところで止めにした。うっかり口を滑らしていたら、「確かに君は犬型だ」と笑われてしまうのがオチだったろう。

1995/ 4/11 

研究室の「地層」

 四月に入り、新しい年度が始まった。年度の変わり目は、新しい学生を迎え、新しい学年の始まる、重要な区切りの時節である。この時期には、大学でも教員の異動が多い。
 ご挨拶が遅れたが、私も今春から職場が変わった。九年間勤務した松商学園短期大学を三月末で退職し、新年度から国分寺市の東京経済大学に勤務することになったのである。もっとも、毎週、松商短大でも教鞭を執るから、松本と東京を往復する生活自体に大きな変化はなく、穂高の家もそのままである。
 とはいえ、非常勤となるので、短大の研究室はなくなった。九年間、散らかし放題にしていた研究室を片づけるのは、一苦労であった。新任校への赴任準備で、あたふたと追いまわされていた三月中は、他の仕事の合間をぬって研究室から運び出す荷造りをし、どこに持って行くのか、あるいは、この際廃棄するのかを決断しなければならなかった。
 私は、生来の不精者で、普段から整理が悪いので、こうした作業をするとどうにも段取りが悪い。例えば、作業をしていると、書類の山の下の「地層」から、数年前に取り組んでいたプロジェクト関係の書類の束が出てくる。これを廃棄するのか、きちんとファイリングして新任校にもっていくのか、あるいは、とりあえず穂高においておくのか、といったことにいちいち思い悩み始め、作業は遅々として進まない。
 昔の資料と一緒に、当時もらった手紙や、写真などが出てくる。こうなると、何かタイム・カプセルでも開けたようなもの。すっかり夢中になり、仕事の手が止まってしまうことも多かった。
 地質学でも、考古学でも、地層の発掘には時間がかかる。研究室の「地層」も時間をかけだすと際限がない。残念ながら、最後はブルドーザーで「地層」を破壊し、「土砂」と化した書類の山を、ともかくも運び出すことになった。約束の期日までに短大の研究室は明け渡したものの、未整理の資料の山が穂高の家に積み上がった。そのうち何とかしなければいけないが、整理の見通しは立たない。
 幸い、新しい大学の研究室には、まだ「地層」はできていない。基礎岩盤の上に、うっすらと表層土が乗ったような程度である。しかし、「地層」が形成され始めるのも、そんな遠いことではあるまいと覚悟している。

1995/ 6/ 2 

学生の多様性

 松商学園短大から東京経済大学に移って、実質的に一月余りが過ぎた。地方短大と東京の四年制大学という違いもあり、新しい職場では、毎日、新しい課題にぶつかっている。
 松商短大と東経大では、大学の規模、性格、環境、その他諸々の違いがある。日常業務の習慣も違う。しかし、何より違うのは、講義を聴く「学生」である。
 一般的に、地域に根ざした地方短大では、学生の均質性がきわめて高い。松商短大でも学生の大半は地元出身で、「東京に行かない」ことを選んだ者ばかりである。その上、高校の成績による「輪切り」の影響で、基礎学力も一定の幅に収まっている。よくいえば「粒ぞろい」、悪くいえば「どんぐりの背くらべ」である。加えて短大では、異なる学年の学生が一緒に受ける講義は少なく、講義者には均質性が余計に際立ってみえる。
 一方、東経大のような大学では、ひとくちに「学生」といっても、その中身は実にさまざまである。学生の出身地は、関東地方中心とはいえ全国に広がる。中国や韓国などからの留学生も少なからずいる。文化系ばかりとはいえ東経大には学部が三つあり、講義によっては専攻や学年の違う学生が一緒に受講している。夜間部の講義を昼の学生が受けることもあるし、短期大学部の学生が四年制の講義を受講することもある。社会人の聴講生もいれば、(私の担当する講義にはいないが)協定している他大学の学生が来ることもある。
 「学生」たちは、基礎学力の水準もばらつきがあり、学んできた専門分野も違い、これまでの人生経験も千差万別である。こうした多様な受講者を前に、よい講義を展開することは決して容易ではないが、それが講義をする者に、好ましい緊張感を生むことも、また事実である。
 これまで、松商短大で講義をする時は、地域の商業施設や、信州の地場産業、食生活など、学生たちが共有している知識や経験を、講義への導入としていた。もちろんこれは、抽象論になりがちな議論を、実感をもって理解してもらうために必要な工夫である。
 しかし、私は今、東経大での経験から、これまで短大の学生たちを専ら均質性の視点から捉えていたことを、少々反省している。これまでの講義が有意義だったとしても、一方ではそれが学生たちの多様性への芽を摘んでいたのではないか、という反省である。だからといって今すぐ何かができる、という話ではないが、聞き手の多様性を活かし、引き出すために、どんな講義をすべきなのか、まだまだ試行錯誤の日々は続きそうである。

1995/ 7/19 

雨の夜、田舎道で

 雨の夜、車を走らせていると、不意にヘッド・ライトの光の中で、何かが飛び跳ねる。小さな蛙である。避けようもなく、そのまま前進する。踏みつぶす確率は小さいはずだが、確かめようもない。蛙だとわかっていても、進路上で小さな物が不意に跳ねると、やはりドキッとする。
 雨の中で跳ね回る安曇野の蛙たちの姿は、生命にとって梅雨の雨がいかに大切かを象徴している。梅雨から初夏にかけてのこの時期は、水田の稲から庭の雑草まで、草木の成長がめざましい。思わぬ所で見かける蝸牛や、糸に水滴を載せた蜘蛛の巣の輝きにも、雨の季節ならではの風情がある。雨の中では、生命の姿が彩りを増す。
 数年前の今ごろ、雨の夜に軽自動車を運転していた私は、左の前後輪を側溝に落としてしまった。少し離れた公衆電話まで雨の中を歩き、JAFに救援を呼んだ。雨が降ると、ロードサービスは忙しい。別の事故を処理してから来てくれるという。普通より時間がかかるのを承知で、そのまま待つことにした。
 自動販売機で缶入り飲料を買い込んで車へ戻った。はじめは、車内で救援を待っていたのだが、車中だと意外に見通しがきかない。そこで、車から少し離れた建物の軒下に雨宿りをしながら、車を見守ることにした。
 車は、狭い道幅の半分近くを塞いでいるので、ハザード・ランプを点滅させている。軽自動車のバッテリーはそんなにタフではないから、ヘッドライトは消してある。それでも一時間ほど後には、電圧が下がったのか、点滅のペースが緩やかになってきたのがはっきりわかった。
 やがて雨も小止みとなった頃、JAFが到着した。車に戻ってドアを開けようとした時である。ふと見ると、ゆっくり点滅するハザード・ランプの辺りに、薄暗いダイオードのような、小さな青い光がいくつも集まり、やはりゆっくりと点滅を繰り返している。蛍であった。蛍たちは、点滅するハザード・ランプに反応して、雨に濡れた路側の草の上に集まっていたらしい。
 溝から出してもらった車は無傷で、そのまま帰ることになった。発車させる前に、もう一度、車の周りを見回したが、救援作業中の騒音や照明のせいか、蛍は姿を消していた。
 その後、ときどき気まぐれに、田圃の中の道に車を止めて同じようにハザード・ランプを点滅させてみるのだが、あの夜の蛍は再現できない。蛍を見かけることはあるが、光の数も輝きも、あの雨の夜をしのぐことはないままである。

1995/ 9/ 5 

イギリスの暑い夏

 この夏は、学生の研修旅行に同行して、イギリスで過ごした。気候は穏やかだが、緯度の高いイギリスでは、平年の夏にはセーターが欲しい日も多い。しかし、今夏はイギリスも記録的な暑さで、三十年ぶりとも、二百年に一度ともいう猛暑が全国を襲っていた。
 もっとも、イギリスの暑さは乾いたさっぱりした暑さで、決して酷暑ではない。日陰で風があればエアコンは不要だし、実際、一部の商店などを除けばエアコンはない。この記録的な暑さも、私の実感では信州の平年の夏くらいに思われたが、イギリス人には、間違いなく暑過ぎる夏であり、蒸し暑い夏だったようだ。イギリスでは何かというと天気の話題が出るが、地元の人と話す度に、暑さへの愚痴を聞かされた。
 この暑いイギリスの夏を、特別の感慨で迎えていた人々がいた。第二次世界大戦で、対日戦を戦った退役軍人たちである。彼らは半世紀前、ビルマやマレー半島をはじめ東南アジアの各地で、熱帯の苛烈な暑さの中で日本軍と対峙していた。もちろん今夏の暑さも、とうてい熱帯には及ばない。しかし、老境に達した彼らにとって、「戦勝」五十周年を迎えたこの夏の熱気は、熱帯の戦場の記憶を鮮やかに蘇らせる契機となっていたようだ。
 イギリス人の大半にとって、戦争は五月八日のVEデイ(欧州戦勝記念日)で終わっている。欧州戦線における勝利の歓びは、対日戦線を人々の脳裏から遠のかせ、対日戦を戦った人々も「忘れられた軍隊」となった。欧州の戦いが、祖国と民主主義を守る正義の戦いだったのに対し、アジアの戦いが結局は植民地争奪戦だった、という後ろめたさも忘却を加速させた。その結果、例えば、日本軍の捕虜として虐待され、補償を求めている元兵士たちの声は、日本はもとより、本国イギリスでも長い間「忘れられていた」のである。
 例年、さして盛り上がらないVJデイ(対日戦勝記念日)が、五十周年の今年は各地で大々的に祝われた。八月十九日にロンドンで行われた記念式典とパレードは、近年にない規模の国家的行事であり、これを報じたイギリスのメディアは、こぞって「忘れられた軍隊」への敬意を謳い上げていた。「平和と和解」のための行事だったとはいえ、その軍事色にはイギリス人の間にも批判があるほどだったし、新聞などの対日批判の論調には、実に厳しかった。そこでは明らかに、戦後は終わっていなかった。
 今年の夏の暑さは、日本でも多くの人々に「あの夏」を思い起こさせた。しかし、日本でもイギリスでも、また他のどんな国でも、暑さの記憶は、もっぱら被害者としての悲劇の記憶に結びついているようだ。加害者側の記憶と責任を後世に伝えることは、その何倍も困難なのであろう。
1995/10/ 4 

見えていなかったもの

 この九月、二度ほど関西に出かけた。阪神大震災とその後の状況について、学会の研究会に出席し、現地を久々に歩いたのである。
 震災から八カ月が経っても、神戸や阪神間の街頭には、災害の生々しい爪痕がまだまだ残されている。瓦礫こそ撤去されたものの、街並みには更地が目立つ。地域によっては、建物が健在でも営業未再開の店舗が多い。一方では、プレハブの仮設店舗も少なからず見かけた。瓦礫が撤去された後に、通路の跡や店舗の床がそれとわかる形で残っている空き地もあり、思わず立ち尽くし、嘆息した。
 しかし、震災は目に見える物理的な被害だけを残したわけではない。被災地では、目に見えない深刻な諸問題が山積していた。被害が軽微だったように見える街、順調に復興が進んでいるように見える街にも、経済的な困難や、社会的な軋轢が生じているのである。
 工場、設備、店舗、在庫から、現金、手形まで、様々な形で経営資源を失った中小・零細企業の再建(あるいは整理)。被災した集合住宅、特に権利関係が錯綜した分譲マンションの建て直し。土地区画整理事業をめぐる地域内の対立。それぞれ具体的な例を挙げだせばきりがない。
 多くの被災者にとって、生活の再建は経済的、社会的な側面だけで終わらない。心の問題にも多くの課題が残っている。今回の訪問中にも軽い地震が数回あったが、震度七を経験した人の中には、振動に過敏となり、強い恐怖感にさいなまれる人も多いという。
 一般に、災害の被害は、社会的弱者ほど深刻になる。阪神大震災もまさしくそういった性格をもっていた。死者の多くは高齢者であり、家賃の安い木賃アパートの住人であり、長期の避難所生活を強いられた避難者の多くも、公的機関以外に頼るもののない立場の弱い人々であった。
 「震災は、平時には見えていなかった様々なものを見えるようにした」、研究会の席で発言した、ある高名な先生のこの言葉は、強く印象に残った。この先生ご自身も、マンションの再建問題を抱えた被災者である。
 研究会後の酒の席では、「この夏は蟻や蚊がよく家の中に入ってきた」といった会話になった。無傷に思えた家屋でも、目に見えない隙間があちこちに生じていて、そこから蟻や蚊が入ってくるらしい。見えない亀裂、いや「見えてきた」亀裂は、家屋にも、街にも、社会にも、至るところに走っている。しかし、それは被災地だけのことではないようにも感じられた。
1995/11/16 

吊革広告

 松商学園短大は、松本電鉄上高地線の北新駅前にある。専任として九年勤め、今年は非常勤講師として短大に通っているのだが、この間、松電には随分とお世話になった。
 このところ、駅構内などに、ドラマの撮影が時々あるので協力して欲しい、といった掲示がでている。まだ、撮影隊に出会ったことはないが、東京の眼で見れば松電も、絵になる「田舎の電車」なのかもしれない。
 現在の車両は、一九八六年春から導入されたもので、今年が十年目になる。元々は、東急電鉄の車両で、一九七〇年前後には緑色の車体で、東急の花形路線である東横線を走っていた。私も、横浜に住んでいた頃、よくこの車両で渋谷まで出かけた。その後、東急の他の路線で一九八〇年代初めまで現役だったようだが、現在、東急では使われていない。
 松電への導入に際して、この車両は2両連結のワンマン・カー形式に改造された。車体も、クリーム色を主体とした現在の塗装になった。大々的に改造したわけだが、よく見ると東急時代の面影を残している部分もある。
 その最たるものが、吊革である。電車の吊革には、吊輪に通した革を束ねる「鞘」のような四角い筒状のプラスチック製部品が付いている。実は、この部品の名称を私は知らないのだが(ご存じの方は教えて下さい)、その表面には広告が入っていることが多い。
 問題の車両の場合、東急時代には「東急百貨店」などの広告が刻まれていた。車両の導入に際して松電は、問題の「鞘」を覆うビニール製の「覆い」(これまた、名称が判らない)に井上百貨店の広告を入れ、「鞘」を全部「覆った」。ところが、この「覆い」は簡単に外せるため、持ち去られることが多いのか、今では「鞘」の半数近くが元の東急系の広告を露出している。
 ところが、話はこれで終わらない。実は、「東急百貨店」が刻まれた「鞘」と並んで、今は使われていない井上百貨店の古い商標を刻んだ「鞘」も、少数ながらぶら下がっているのである。よく見ると、「鞘」の形も若干違う。おそらくは、壊れた東急の「鞘」の代わりに、古い車両から取った部品を活用しているのであろう。
 こんな些末事を書き連ねると「だから何なんだ」とお叱りを受けそうだが、ちょっと考えていただきたい。こんな些細なことにも、企業の性格や、地域の歴史が、垣間みられるのではないだろうか。(いやいや、やっぱり暇人の無駄話だな。)
1995/11/22 

ナショナル・トラスト

 この夏、イギリスに出かけたとき、思うところがあって「ナショナル・トラスト」に入会を申し込んだ。帰国後、正式な入会承認の通知が諸々の資料とともに送られてきた。そのときは開封はしたものの、忙しくて放って置いたのだが、つい先日にも会誌が送られてきたので、あわせて一通り目を通してみた。
 「ナショナル・トラスト」を直訳すれば、「国民信託財団」とでもなろうか。百年前の一八九五年にイギリスで設立されたこの団体は、一般的には自然保護活動を行う民間団体として知られている。主として寄付による資金を使い、破壊の危機にさらされた貴重な環境を買い上げて保全を図る「トラスト」の運動は、世界的にも大きな影響力がある。「信託」を意味する「トラスト」という言葉が、例えば「立ち木トラスト」のように使われるのも、「ナショナル・トラスト」などの活動に由来している。
 日本では、もっぱら自然保護の側面が知られている「ナショナル・トラスト」だが、その守備範囲は実はもっと広い。考古学的価値の高い遺跡、城や館など歴史的な建造物、農場や産業遺構も、買い上げ保全の対象とされている。もちろん資金力は有限だから、購入対象の検討は慎重に行われ、決定に際してはその場所の環境的・歴史的価値や、保護の緊急性など、詳しい理由が公に説明される。
 「ナショナル・トラスト」の会誌は、「トラスト」が所有する施設・場所に、機会を捉えて出かけるよう会員に呼びかけている。もちろん、その理由の一つは、訪問者が増えれば、寄付や事業収入も増え、財務が充実することにある。しかし、もっと大切なのは、会員が現地を歩き、体験し、活動の意義を確認することで、参加意識を高めるという側面である。寄付すればおしまい、ではなく、お金の行き先を知ってもらうことが重視されているのである。
 日本でも、自然環境や街並みの保護運動はいろいろある。だが、イギリスとは社会的諸制度が異なる日本に、「トラスト」をそのまま移植することは難しい。しかし、「トラスト」の運動に流れる教育・啓発の機能や、参加の精神には、日本が学ぶべき点が多々あるようだ。
 自然環境の保護も、史跡等の保全も、そこに関わる人々が現場を訪れ、学び、愛着を持つところから、すべては始まる。行政にまかせず私財を投じるという方法であれ、行政を動かすように声を上げるという方法であれ、その原点に変わりはないだろう。
山田が作っている英国ナショナル・トラストのページへ

1995/12/ 1 

沖縄の痛みは他人事か(上)

 米兵による少女暴行事件、太田知事の代理署名拒否、日米地位協定見直し論、等々、今年の後半は、沖縄をめぐる報道が息長く続いている。沖縄の問題はそのまま基地の問題であり、それは安全保障という国家の問題に直結している。問題の根は深く、また方々に広がっている。しかし、信州で生活しながら、遥かな南の島の出来事に実感をもつことは、容易ではないというのが実際であろう。
 しかし、沖縄の痛みは、私たちにとって他人事なのだろうか。このコラムで、沖縄のことを取り上げるのは、物知り顔で解説めいたものを語るためではない。一連の報道に接して考えさせられた、私の個人的な沖縄の記憶と、信州の町や村の接点を綴っておきたいと思ったからである。
 四年前、私は初めて沖縄を訪れた。この時は、宮古島で調査に参加し、その後、沖縄本島の各地をゆっくり歩いて回った。その後、昨年にも、ある学会で沖縄を訪れた。会場となった琉球大学の法文学部は、かつて太田知事が教授を務めていたところである。
 沖縄本島では、至るところに米軍関係施設が溢れている。これは那覇市でも、どこでも同じだが、かつてと違って米ドルの価値が下がり、米兵が町の上客ではなくなった今、那覇の町を歩いていても基地の影を感じることは少ない。しかし、那覇から沖縄市に向かって国道を進めば、沖縄が基地の島であることを少しづつ知らされることになる。
 極東最大の米空軍基地である嘉手納基地を抱えているのが、沖縄市(旧称コザ市)である。沖縄市の中心部の南部に当たる、嘉手納基地正門に近い地域の繁華街は、今でも「コザ」と呼ばれている。コザでは、性格を異にするいくつもの町が折り重なっている。地元住民の生活のための商店街、観光客相手の店が並ぶ通り、日本人の若者や米兵がたむろするディスコの集まった一角、米兵相手が中心の飲食街、タイム・スリップしてきたような売春宿然とした建物の並ぶ裏道。それはすべてコザであり、コザは、日本の町に米軍基地があることを思い知らされる場所なのである。
 しかし、最も強い印象が残ったのは、コザからさらに進んで石川市の先にある金武町、正確には金武町にあるキャンプ・ハンセン前の飲食街であった。ハンセン基地は、海兵隊の実戦部隊が駐屯し、実戦同様の演習を常に繰り返している「最前線基地」である。私が訪れたときも、ヘリコプターの爆音が上空を行き交っていた。
1995/12/ 2 

沖縄の痛みは他人事か(下)

 ハンセン基地の前にはヌード・ショーを売り物にした店など、多数の酒場が集まっている。もちろん客は米兵だ。日本人の客は、米兵とのアバンチュールを求める、ごく少数の女性くらいらしい。
 金武で米兵の相手をする女性は、昔から差別の視線にさらされてきた。そのためもあって、今やここで働く女性の大半は、フィリピン人である。夜になると、彼女たちを目当てに非番の米兵がくり出してくる。給料日直後の人出は、特に多いという。激しい軍務につく海兵隊員には気性が荒い者も多いのか、トラブルも起こる。基地正門前には派出所もあるが、トラブルに目を光らせているのは米軍のMP(憲兵)だ。ここは限りなく「日本ではない」のである。
 少女暴行事件の後、ある米軍将校が「レンタカーを借りる金で、女を買えば良かったのだ」と発言をした。もちろん非常識なことだが、この発言こそが本音であり、現地の常識だという現実は見過ごせない。はたして私たちは、こうした「本音の常識」を、本当に批判できるのだろうか。
 松本の町を歩いていると、この十数年ほどの間にすっかり松本の風景に溶け込んだフィリピーナたちとすれ違う。彼女たちをここに連れてきたのは、日本社会の、私たちの社会の「本音の常識」だ。そして、県内でもあちこちで耳にする「花嫁さん」問題(過疎村などで「嫁不足」対策として国際結婚が安易に進められている問題)が、同じ構造にあることはいうまでもない。
 社会の恥部、汚れ仕事を、より弱い立場の者に押しつけ、隠蔽し、そして忘れている。私は「忘れている」、あるいは「忘れたふりをしている」という点において、暴言を吐いた将校と同じ場所に立っているのである。彼のような考えが、少女暴行事件の発生を容認したのであり、私のような姿勢が、貧しい国の女性たちに出稼ぎの場を提供しているのだ。将校の発言を、私は一方的に批判できない。
 世論の大勢は安保体制を支持している。私も、理念としての安保体制自体には反対していない。そうであればこそ、沖縄に基地を押しつけ矛盾を隠蔽し、忘れている、といった姿勢は許されまい。
 基地のない長野県で国家安全保障の下にいる私たち、貧しい国の女性たちを酒席に侍らせる社会を容認する私たちは、間違いなく加害者の側にいる。沖縄の痛みは他人事ではない。私たちは当事者なのだ。ただ、殴った者は、殴られた者の痛みを知ることがない、というだけなのだ。
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