山田晴通・阿部 潔・是永 論(1993):
長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動
おわりに:「地域」活動の展望とメディアの意義
1.今後生じる可能性のある諸問題
2.「もう一つの情報化社会」に向けて−情報化と「地域」の将来
おわりに:「地域」活動の展望とメディアの意義
これまで我々は、山形村が近年になって経験している経済的・社会的・文化的変化を広い意味での「地域」の問題として捉え、その中で生じている様々な動きを「地域」活動として位置づけた。具体的にはCATV番組制作組織であるホワイト・バランス会と現代版の「祭り青年」組織とでも言うべきトライズ・カンパニーを事例として取り上げ、考察を加えてきた。これまでの記述においても何度か指摘したように、二つの組織の「地域」活動はまさに途上にあるものであり、今後の展開の仕方、進むべき方向性をについてここで判断することは到底できないし、また拙速な判断を下すことは妥当ではない。しかしながら、少なくとも現時点での山形村での「地域」活動は、旧来の地域活動の枠を打ち破り、現代的な意義を持った「地域」活動としての可能性を感じさせる点において、またそのような「地域」活動が行政側と住民側との「健全な距離」を保った上での共同作業としてすすめられつつある点において、非常に興味深いものである。
しかし、現在進行しつつある山形村での「地域」活動が、将来においても何らの問題も生じないと考えるとしたら、それは楽観的に過ぎるというものだろう。むしろ、従来の考え方に捕らわれない柔軟で現代的な発想の下に「地域」活動を進めていく過程において、これまでには無かった新たな問題、危険性がつきまとうことは、ある意味では当然である。ここでは本稿をしめくくるに当たって、まず、これまでの聞き取り調査や参与観察を通じて我々が気づいた、今後生じる可能性のある諸問題について整理する。
また、「はじめに」において述べたように、我々は、当初から「地域」活動を考察しようと意図して山形村における調査を始めたわけではなく、初めのうちは、農村型CATVにおける自主放送への住民の積極的なアクセスを、情報化社会の一側面として捉えようとする試みとして調査が進行したのであった。もちろん、このような問題関心は調査を進めていく過程で雲散霧消してしまったわけではない。しかし、「はじめに」でも述べたように、我々は調査の過程を通じて、メディアと人間の問題を考えていこうとする際には、「地域」という要素を考慮しなければならない、という認識を強めていった。これは、山形村という地域の具体的状況が、社会的コンテクストとしての「地域」抜きでは十分に理解できないものであったためである。その結果、情報化社会、メディア、情報行動といったものに対する我々の考え方、捉え方も必然的にある種の「建設的転換」を迫られたのである。ここでは最後に、どのような点において我々の認識が変更を迫られ、またそのことによって従来は捉えることが出来なかったどのような側面が見えるようになったのかを整理し、情報化の問題や情報化社会の今後の在り方を考えていこうとする際に、今回の一連の山形村調査が我々に与えてくれたものについて考えたい。
1.今後生じる可能性のある諸問題
これまでに何度となく指摘してきたように、一連の山形村での「地域」活動の特徴は、最初のイニシアティブを行政側が握り、行政側の呼びかけに積極的かつ主体的に村民側が応えることによって、共同作業としての「地域」活動が進展していくというものである。別の表現でいえば、住民の主体的活動が行政によってインキュベートされている状況、と捉えてもよかろう。このような共同作業が可能となる要因としては、行政側、住民側それぞれにおける「積極的人物」が存在することは改めていうまでもないが、そのような試みが個人的なものに留まらず、かなりの広範囲に渡って村全体を取り込んだ運動へと展開していく要因として、我々は村民全体に共有された「地域」へのコミットメントと、行政側と住民側との「健全な距離」を指摘してきた。現時点で判断するかぎり、これら2つの要因に支えられて、山形村での「地域」活動は順調に進んでいると言える。
しかし、これら2つの要因は今後も確固たるものとして「地域」活動にポジティブに作用するとは限らない。まず「地域」へのコミットメントであるが、「新住民/旧住民」問題として指摘してきたように、近年の山形村でベッドタウン化が進むにつれて、いわゆる「新住民」の占める割合が高まり、コミットメントのあり方が全く異質な「新住民」が増加し、さらには「旧住民」のコミットメントにも変質が生じることが予想される。ホワイトバランス会の場合でも、会員となったごく少数の「新住民」はいずれも極めて積極的であるが、これは裏返せば、「旧住民」ならばさほど積極的でない人もほどほどの協力を行うことで会員として認知され、会に身を置きやすいのに、「新住民」の場合には中途半端な形ではいけないというプレッシャーが感じられているのだとも解釈できる。つまり、さほど積極的でない「旧住民」会員にみられるようなコミットメントのあり方が、「新住民」にはうまく当てはまらないという面がありそうなのだ。総体として、村内で発現する「地域」へのコミットメントのあり方は、今後大きく変化する可能性が否定できないのである。
さらに重要なことは、「地域」へのコミットメントに基づいた「地域」活動が、その意図に反してある種の「排除の構造」を持ってしまう危険性があるのではないか、ということである。現時点において「地域」へのコミットメントが「地域」活動を成立させる大きな要因となっていることは、その活動の担い手が「旧住民」であることを意味する。我々が具体的事例として取り上げた二つの集団の構成員もその多くが「旧住民」であった。もちろん、組織の構成員が「旧住民」あるからといって、その組織の活動が「新住民」を排除していると主張するつもりは毛頭ない。むしろ聞き取り調査から明かになったことは、それぞれの組織の中心的担い手には、「旧住民」と「新住民」との統合の必要性が明確に意識されているということであった。
しかしながら、組織の推進者の「意図」と結果としての組織の「機能」とが必ずしも一致するとは限らないということも、一つの現実である。我々が調査対象としたのはあくまで、「地域」活動に積極的な「旧住民」の人々である。その人たちへの聞き取り、さらには彼らが行なう諸活動への参与観察から我々は新たな「地域」の可能性を感じることができた。しかし、それと同時にこれらの人とは異なる山形村の人々、つまり「地域」へのコミットメントをさして持たない「新住民」が数多く存在し、彼らにとっての山形村は一連の調査を通じて我々が感じた山形村のイメージとは大きく異なるのではないだろうか、との疑念を調査を続けていく過程で払拭できなかったことも事実である。その意味では、今後に残された大きな課題として、「地域」活動に参加していない人々への聞き取りを行なうことが是非とも必要である。
これまで指摘してきたように、「地域」活動の担い手となる集団を組織化する際に旧来の価値観とは大きく異なる「自分がしたいこと」を中心に置き、個人の自発性を尊重する形で組織活動を進めていく方法を山形村での「地域」活動の試みが採用していることは、これからの新しい「地域」の可能性を確かに予見させる。しかし、その変化があくまで「旧住民」の間でのことに限定されてしまうのであれば、YCSのK課長が今後の山形村が「生活環境の豊かさ」を実現していくために乗り越えていかねばならないものとして指摘する「農村的生活の否定的側面」を、真の意味では克服できないであろう80)。トライズ・カンパニーの誕生、その後の積極的な活動に典型的に現われているような、山形村に見られる新たな組織原理、新たな価値観を「旧住民」だけの問題としてしまうのではなく、その変化を契機として「新住民」を一連の運動の中に取り込んでいってこそ、新たな「地域」の模索は可能になる。もちろん、このような問題・課題は、現在進行中の「地域」活動の担い手たちに明確に認識されている。しかし現状では、それを実現するための方法は、明確に提示されているとはいえない。もとより、何らかの教条的な方法があるわけではなく、目指すべき方法は、様々な試行錯誤の繰り返しの中からしか見いだせないであろう。「地域」へのコミットメントと「地域」活動との関係を、閉じられた形でのトートロジーに終わらせてしまうのではなく、外部に対して開かれたものとしていかに展開していくかが、今後の山形村での「地域」活動の大きな課題として浮かび上がってくるように思われる81)。
次に、行政側と住民側との「健全な距離」に関してであるが、このような関係が今後とも続くか否かも、決して予断を許さないものがある。このように考える理由の一つとして、ここではトライズ・カンパニーの資金問題について述べることにする。
トライズ・カンパニーは行政側の呼びかけに対する住民側の反応として生まれた組織であるが、現在までのところ村からの資金援助は受けていない。組織成立の過程において幾らのか資金を村から得る話が持ち上がり、村側にも異存はなく資金援助は具体化しかけたのであるが、トライズ・カンパニー側の意向で断ったという経緯がある。このような判断には会長のNa氏のトライズ・カンパニーのあるべき姿についての考え方が大きく影響していると言える。金銭的な援助を受けると組織としての自由がやはり何らかの形で制約されてしまうであろうし、また金銭援助を受けることが可能だということが、自らの力で組織を拡充していく努力を怠らせてしまう危険性を持つことをNa氏は敏感に感じ取ったように思われる82)。
このようにして、トライズ・カンパニーは金銭的にどこからも援助を受けない、独立した自由な集団としてスタートするのであるが、その後の活動において金銭問題が浮かび上がってこなかったわけでは決してない。現時点(1992年12月)までにトライズ・カンパニーは外部の人々をも巻き込んだ大規模なイベントを2回(8月のロック・コンサートと12月のクリスマス・パーティー)開催しているが、どちらのイベントにおいても、いかにして開催に必要な資金を調達するのかが最大の問題として生じた。具体的には、当日配付するパンフレットなどへの広告提供という形で地元の企業などから広告料をもらうことが試みられたが、このような「広告取り」が非常に大変であったと、多くのメンバーが我々の聞き取りに対して答えてくれた83)。第1回目のイベント企画・実行においてこのような資金調達の問題が切実に感じられたにもかかわらず、第2回目のイベントの際も、どこかから資金援助を受けるのではなく、自分たちの手で必要資金を集めるという方法が採用されたことは、トライズ・カンパニーのメンバーの自分たちの組織に対する自己理解という点から考えても興味深い。しかし、今後、組織がいよいよ大規模化し、それに対応して企画するイベントも大きなものになっていくであろうことを考えると、今後一度は断った村からの資金援助の問題、さらには企業など外部の組織からの資金援助の問題が、トライズ・カンパニー内で考えるべき問題として浮かび上がってくることが予想される。
さらに、トライズ・カンパニーのアドバイザーたちからの助言を聞くことによって、今述べたようなことの現実味を我々はますますもって感じるようになった。アドバイザーとは、トライズ・カンパニーを組織化しようとする段階で行政側が助言を依頼した、いわば地域活性化のプロである。日本中の様々な地域でのクライアントを相手に仕事をしてきた彼らは、当然のことながら、地域活性化において金の問題が非常に重要であることを的確に認識しており、それゆえトライズ・カンパニーの活動を経済的行為の観点から捉える傾向が強いように我々は感じた。トライズ・カンパニーのメンバーたちとアドバイザーたちとの会合の場でも、アドバイザー側から「トライズ・カンパニーはカンパニー(会社)なのだから、どんどん金儲けになることをしてもらいたい」との発言がなされたり、トライズ・カンパニーのメンバーからも半ば冗談めかしたかたちではあったが「アドバイザーの方たちに株主になってもらいたい」との意見が出された。このような雰囲気の中で行政側からも村からの資金援助を行なう意図が全くないわけではないが、その主旨が明確である必要があるなどの意見があった。
このような話し合いの場に参加した印象から言うと、トライズ・カンパニーのメンバーの多くは、実際にイベント企画・運営を行なってみて、資金調達の問題が非常に負担であることを率直に感じ取っていたようである。しかしながら、トライズ・カンパニーが村や企業などの外部の団体から資金援助を受けるか否かという問題は、単なる経済的な問題に留まらず、「地域」活動の担い手としてのトライズ・カンパニーの今後の方向性を大きく規定する重大な問題でもある。村からの資金援助を受けることになれば、現在保たれている村役場との「健全な距離」にも変化が生じるであろうことは想像に難くない。また、企業などの組織から援助を受けることになれば、そこでの「健全な距離」をどのように維持していくかが、新たな問題として浮かび上がってくるであろう84)。このように考えるとトライズ・カンパニーの「カンパニー」に込められた意味を、「仲間」として理解するのか「会社」として理解するのかでは、トライズ・カンパニーの組織としての自己理解において、大きな違いがあるといえるのである。
現時点において山形村で「地域」活動が順調に進んでいる要因は、「地域」へのコミットメントと、行政側と住民側との「健全な距離」に求められる。しかし以上で論じたように、これら二つの要因は、今後とも有効な形で存続できるかどうか、疑わしいところがある。ただし、ここでは、山形村における今後の「地域」活動の可能性に対して否定的見解を述べるのが目的ではない。「地域」活動の当事者たちにも、こうした問題は当然認識されているし、今後の活動において問題解決への方策が講じられることであろう。トライズ・カンパニーの誕生過程についての記述で述べたように、「自分が好きなこと」を中心原則として若者たちを組織化しようとする試みは、最初から考えられたことではなく、試行錯誤の過程で見いだされたものである。ここにみられる柔軟さこそが、現在までの山形村での「地域」活動を特徴付けているるものにほかならない。そうであるならば、ここで指摘した諸問題に対してもあらかじめ決定的な解決策が存在するのではなく、様々な試行錯誤の過程を経て、柔軟な解決策の模索が行なわれてこそ、新たな「地域」の実現へ一歩でも近付くことが可能になるであろう。
現在までの過程を振り返って考えるかぎり、山形村での「地域」活動にとって、そのような柔軟な解決策を見つけだし、新たな「地域」を創り上げていくことは十分に可能であると我々は考える。
2.「もう一つの情報化社会」に向けて−情報化と「地域」の将来
「はじめに」でも述べたように、我々の当初の試みは情報化社会の一側面としてCATVを用いての住民の積極的なアクセス活動を、情報発信行動として考察することであった。しかしながら、調査を進めていくに従って、単に情報化、メディアといった観点からだけ考えるのでは、山形村の状況を捉えるには極めて不十分なこと、そこにおける「地域」の問題を中心に据えることが不可欠であることが認識された。そのことは我々にとって分析枠組みと分析アプローチにおける一種の「建設的方向転換」であった。以下では、どのような点において我々が情報化、メディア、情報行動といった問題についての考え方を変更したのかを述べることによって、今後「地域」と情報化との関連を考察していく際に必要とされる幾つかの視点を明かにすることを試みる。
まず第一に我々が痛感したことは、「地域」という文脈で用いられる場合に技術の進展としての情報化は、あくまで「道具」として機能しているという点である85)。つまり、極端に言ってしまえば、何かしら表現したいもの、何かしら実行したいものがあり、そのことの実現に役立つかぎりにおいて情報技術は有効に利用されるのであり、決してその逆ではない86)。このことは、番組制作集団であるホワイト・バランス会のメンバーの幾人かが、かつて公民館報の編集に携わってきた経験のある人であることに、端的に現われている。表現手段としてのメディアの違い(活字メディアとしての館報、映像メディアとしてのCATVでの自主放送)はあっても、それらメディアを表現の道具として表そうとする「問題意識・問題関心」には明かに共通性が見られ、そのような問題意識における連続性こそが山形村でのニュー・メディアを用いての情報行動を積極的なものにしている大きな要因であるとの結論に我々は達したのである。
とかく現代社会論、情報化社会論として語られる言説からは、あたかも新たなコミュニケーション技術が人間行動や社会生活のありかたをドラスティックに変革するとの印象を強く受けるが、我々が対象とした山形村の事例を見るかぎり、技術が社会・人間を規定するというよりは、反対に社会的コンテクスト(山形村での状況でいえば「地域」の状況)が技術の導入のされ方を大きく規定しているといえる。もちろん、我々はここで「技術決定論」に対して「社会決定論」を主張するものではない。技術としてのメディアが社会に取り入れられていく過程は、複雑かつ多様であり、一つの事例だけをもってして、その規定要因を同定することは適切ではない。しかしながら、技術特性のみではなく社会的・文化的文脈が技術の導入のされ方に大きな影響を与えていることの具体的事例として、山形村でのCATVを利用しての自主放送の試みは大変に興味深く、また情報化の進展の仕方に対するそれまでの我々の考え方の一面性を正してくれたのであった。
次に論じるべき問題は、情報メディアとしてのCATV施設と並んで、ここでの地域において重要な役割を果たしているものとして、いわば「空間メディア」とでも呼ぶべきものを考察する必要があるという点である。今回の論文では十分に論じることが出来なかったが、山形村において新たな情報技術を積極的に用いながら、新たな「地域」活動が盛んに行なわれつつあることの要因として、1992年の春に完成された公共施設であるミラ・フード館の持つ意義を考える必要がある。先にも論じたようにミラ・フード館は、ふるさと創生資金を基にして建てられた多目的ホールであるが、トライズ・カンパニーが主催する各種イベントや、ホワイトバランス会が中心となって録画・編成・中継する年末のカラオケ大会は、このホールで行なわれた。我々が聞き取りをおこなった「地域」活動の中心的メンバーの幾人かも、このミラ・フード館が「地域」活動に対して持つ大きな意義をかなり明確に意識していた。地域が「地域」として活性化するためには、情報によって人々が結ばれるだけではなく、空間的にも結ばれる、つまり人々が「出会う」場が不可欠であることを、今回の調査で実感した。このことは、近年の情報化社会を論じる場合に、時間的制約と共に空間的制約をも越えるものとしてパソコン通信に代表されるような電子ネットワークの可能性が取り上げられることがしばしばあるが、そこで形成される新たな電子的コミュニティーと、今回の山形村調査で見られた旧来の村落共同体を継承しつつもそれを乗り越えていく可能性を多分に含んだものとしての「地域」とが、どのような点で共通性を持ち、またどのような点において異なるのかを「空間」という観点から考えていくことは、今後の情報化社会の可能性を論じていこうとする際に、不可欠の課題であろう87)。
以上論じてきた2つの点、情報技術をそれ自体として捉えるのではなく、社会的・文化的文脈において考えること、また情報メディアを空間メディアとの関連において考えていくことの必要性は、これまでの情報化に関する議論でも取り上げられてきたことではある。しかしながら、今振り返って考えてみると当初山形村を調査対象として選定した段階では、そのような問題意識は我々には希薄であったと言わざるを得ない。その点で今回の一連の調査は、情報化、メディア、情報行動を捉えることから遠ざかり、「地域」活動の考察へと表面的には移行していったように見えるのであるが、我々の従来の情報化・情報化社会の捉え方の無意識のうちの一面性を正し、より多角的に今後の情報化のありあ方を考えていく必要性を認識させてくれた。その意味では、技術決定論的に唱えられる情報化社会のイメージとは違った「もう一つの情報化社会」について考える契機を与えてくれたと言えるであろう。
以上論じてきた大きく2つの点、山形村の現時点での「地域」活動を成立ならしめている社会・文化的要因の批判的検討と、「地域」との関連において「もう一つの情報化社会」の可能性を考えていくことを、有機的に関連づけて論じていくことが出来て初めて、情報化が我々の社会・文化生活に対して持つ意義を、単に目に見える事実の次元で記述するのでも、抽象的議論として論じるのでもなく、現実に即しつつも「今あるもの」に留まるのではなくそれを越えた可能性を捉えうる「もう一つの情報化社会論」を展開することが可能になるであろう。それは今後の我々に残された非常に大きな課題である。
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