山田晴通・阿部 潔・是永 論(1993):
長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動

III・トライズ・カンパニー

    1.行政側による「若者組織」形成の試み
    
2.誕生の経緯−会長Na氏の地域/若者の捉え方
    
3.構成員の特徴−「誰かを介して顔が見える」
    
4.活動の実態
    
5.現在の状況と今後の可能性

1.行政側による「若者組織」形成の試み

 既に述べたように、トライズ・カンバニーはそもそも、山形村をめぐる近年の経済的・社会的・文化的問題としての「旧住民・新住民」問題、より具体的には「祭り青年」組織の崩壊に現われているような、地域に住む人々の間での交流の欠如への対抗策として、行政側のイニシアティブのもとに成立した組織である。行政側は、伝統的な地域社会組織の崩壊を、ある意味では一般住民以上に深刻に受け止めた。「祭り青年」の崩壊に現われるような近年の地域社会の危機的状況への対策として行政側が講じた手段は、旧来の若者組織に代わるような新しい若者組織を作り上げることであったが、その第一段階として試みられたのが『若者人名録』58)の作成である。これはその名が示すとおり、山形村に居住する若年層(高校生を除く18歳から35歳まで)を対象に、アンケートに答えてもらう形で集めた個人のプロフィール・データを冊子にまとめたものである。次に、行政側は、この『若者人名録』を基に、地域活動の担い手としての若者集団に、積極的に参加してくれそうな人々を募ることを試みた。このような新たな若者組織形成という企画の中心となった人物は、『水色山路』の時と同じ総務課のNe氏である。Ne氏によれば、このような若者を組織化しようとする試みは、最初からうまくいったわけでは決してない。当初は組織形成に当たって地域活動という面を強く打ち出したために、自ら名乗りを挙げる人間は僅かしかいなかったとのことである。このような状況を鑑みて、Ne氏はもっと現代の若者の感性に合わせるかたちで、個人のやりたいこと、個人の好きなことを全面に出した組織の形成へと戦略を変えることになる。つまり、組織・集団としての明確な目的・目標を掲げずに、参加する各人のそれぞれが「したいこと」を組織の場において追求することに重きを置くことになった59)。このような当初の目論見からの建設的な転換を経て、旧来の「祭り青年」組織に代わる若者の組織化の試みは、伝統的な地域とか共同体といったものではなく、あくまで組織構成員各人の「好きなこと」を中心的価値として置くこととなった。これによって、20数名の参加希望者を募ることが出来た。これらの若者達が中心となって最初の会合の時に、自分達の組織の名称を「トライズ・カンパニー(挑戦する仲間たち)」とすることに決定し、ここに正式にトライズ・カンパニーが誕生するのである。
 以上述べてきた、若者層を組織化していこうとする際に見られたこのような変化は、まず第1には現代の若者を引きつけるためには、義務的なかたちでの組織全体の価値の押しつけでは駄目で、個人の自由や「したいこと」を優先的に考えないことには、そもそも若者達を組織化することが出来ないという認識に基づく、行政側の戦略上の変化の現われである。しかしそれにとどまらず、このような行政側のイニシアティブのもとで「自分のしたいこと」を中心的価値として生まれた組織であるトライズ・カンパニーの今日までの活動を見てみると、伝統的なかたちでの地域・共同体の重視とは異なるやり方での「地域」活動の可能性を多分に含んでいるという意味において、「自分のしたいこと」を重視するという行政側の戦術上の変化は、結果的に新しい「地域」活動の萌芽となったと言えるであろう。
 ところで「自分のしたいこと」を中心に据えた組織は、大学でのサークル活動などに代表されるような現代の若者集団に多く見られるものである。しかしながら、我々が行なった聞き取り調査や参与観察から明かになったことは、トライズ・カンパニーは大学のサークル集団との共通性を持ちながらも、明かにそれとは異なる面、より具体的には「地域」活動としての側面を有しているということである。このようなトライズ・カンパニーの現代的要素と「地域」的要素との微妙な混合状態に関しての議論は、後段にまわすとして、次にトライズ・カンパニーが現在あるような形態をとるに至った背景として、Ne氏の「地域」に対する考え方を取り上げてみることにする。なぜなら、若者層の組織化に際してイニシアティブを持っていた行政側に、「新たな組織原理」の必要性を理解し、実際に組織化の過程でそれを実践する者がいなかったならば、今現在あるようなかたちでのトライズ・カンパニーは成立しなかったであろうと我々は判断するからである。
 『水色山路』プロジェクトは先にも指摘したように村内において、かなりの評判を得た。しかしながら、中心的に携わった人物の1人であるNe氏の言によれば、その中で一番冷めていたのが若者層であったという。このような問題意識から、Ne氏による『若者人名録』の作成に端を発する地域の若者を活性化させようとする一連の試みは始まるのである。Ne氏の認識では、近年のこの地域の若者には「元気がない」が、これは若者だけの問題ではなく「祭り青年」組織の崩壊に現われているように、山形村という地域が置かれた問題と密接にかかわっている。つまり、若者が元気になるような「地域」が成立していないともいえるのである。『水色山路』はある意味で山形村という地域を住民たちが見直すことの大きな契機となり、そのことに対しての評価を得た。しかし同時に、それは若者層に対して地域のことを考える契機とは十分にはなりえなかった、という認識をもNe氏は持ったのであろう。今後山形村において、若者層をも取り込んだかたちで「地域」活性化を進めていくためには、そのような運動の担い手となる若者集団(かっての「祭り青年」の現代版)の組織化が必要不可欠であるとNe氏は考えた。このような発想は、Ne氏が『水色山路』プロジェクトの中心的人物であったことを考えれば、何の不思議もないむしろ当然の帰結であるといえる。
 ここで注目すべきことは、Ne氏が「地域」と若者集団との関連の必要性・重要性を「地域」活性化についての自身の考えの中で持っていながら、それを強引に押し通そうとするのではなく、若者を組織化していこうとする初期の段階での「つまづき」(地域を全面に打ち出したかたちでの呼びかけに対しての低い反応)に直面したときに、非常に柔軟に組織化の戦略を変更(地域を全面に打ち出すのではなく、「自分がしたいこと」を中心的価値におく)したことである。このようなことが可能であったのは、Ne氏自身が「地域」のあり方、そこでの若者が果たすべき役割を考える際に、旧来から考えられていたものを継承しつつもそれにとどまることなく、新たな「地域」のありかたを模索することの必要性・重要性を的確に把握していたからにほかならない。もしも、行政側の人間としてのNe氏が考える地域活性化が、かつて存在したものの保守・復古という域をでないものであったのなら、「自分の好きなこと」を中心的価値としてトライズ・カンパニーを組織化するという発想は、決して出てこなかったであろう。
 Ne氏は「トライズ・カンパニーは時代の流れに対して柔軟な組織であることが重要だ」と話しているが、これまでの活動経緯を参与観察的に我々が追跡してきたかぎりでは、組織内的にも組織外的にもトライズ・カンパニーは極めて「柔軟」である60)。ここで我々が指摘したいことは、このような柔軟さはトライズ・カンパニーを構成する若者達だけに見いだせるものではなく、産みの親であるNe氏自身の「地域」の捉え方、さらにはそこでの若者集団の果たす役割についての考え方にも共通して見いだされるということである。もし若者を組織化しようとする際にイニシアティブをとった行政側にNe氏のような柔軟かつ現代的な考えの持ち主がいなかったならば、出来あがった若者組織は今のトライズ・カンパニーとは全く違ったものになっていたことであろう61)
 かっての『水色山路』のドラマ化の企画にしても、YCSでの自主放送の担い手となっているホワイトバランス会にしても、またここで取り上げた現代版の「祭り青年」組織としてのトライズ・カンパニーの場合にしても、全て「ことの起こり」は住民側にではなく行政側にある。つまり、最初に旗を振り、笛を吹き初めるのは行政側である(さらに言えば、現在までのところそれは、特にNe氏の個性によるところが大きい)。しかしながら、そのような行政側の呼びかけに対して住民側が主体的に対応し、その結果として行政と住民との共同作業としての「地域」活動が様々なかたちで展開しつつあるのが現在の山形村の状況であると言える。今後、このような「共同作業」がどのような方向に進むのかは予断を許さない。しかしながら、少なくとも現段階では両者の間に一種「健全な距離」が保たれ、その結果として新たな「地域」活動の可能性を感じさせていることは事実である。このことの要因としては、まず何よりも村民に広く共有された「地域への愛着」、「地域への関心」といったかたちでの「地域」へのコミットメントが、自覚的にせよ無自覚的にせよ、確かに存在している指摘されよう。しかし、それと同時にイニシアティブを取る行政側に、旧来の農村社会の在り方とは異なる新たな「地域」の実現へ向けての柔軟な発想があって初めて、共同作業としての「地域」活動は可能になるという点を、ここで押さえておく必要がある。もし行政側の考え方にそのような柔軟性・現代性がなかったならば、「地域」活動は住民との共同作業とは成りえず、住民側のニードとかけ離れて「笛吹けど踊らず」的な様相を呈してしまうことになっていたであろう。

2.誕生の経緯−会長Na氏の地域/若者の捉え方

 行政側の中心人物Ne氏によれば、若者人名録を作り、地域活性化のための活動に協力してくれそう若者に声をかけていく作業は、決してスムーズに進んできた訳ではない。しかしながら、現時点(1992年末)までに、トライズ・カンパニーは既に二回の大規模なイベントを成功させ、集団とての自信を持ち、また村においてもある程度の認知を得ると共に、組織的にも当初からのメンバーに加えて、イベントなどに参加することを通じての賛同者が参加し、組織としては非常に活力に満ちた状態を呈している62)
 このように、組織としてのトライズ・カンパニーが順調に成長していったのは、会長を務めるNa氏の力によるところが大きい。Na氏は、山形村の近年の地域活動の母体になったとも言えるドラマ『水色山路』の主演を務めた人物であるが、年齢的にも他のメンバーより上である彼は、いわば「頼れる兄貴」的な存在である。しかし、Na氏自身も、『水色山路』の企画に参加する以前は、別段地域としての山形村を意識していたわけではなかったという。この点は、行政側の中心人物であるNe氏とも共通しており興味深い。Na氏に限らず、『水色山路』に参加した人々にとって、この企画が成功を収めたことは、非常な自信につながっているのであるが、そのことが『水色山路』後のトライズ・カンパニー結成の試みにも多大な影響を与えている。トライズ・カンパニーの活動は、企画自体に「地域」指向が組み込まれていた『水色山路』に比べれば、「地域」への意識は希薄だともいえよう。しかし、トライズ・カンパニーが「好きなことをやる」ことを第一義的に考える、と標榜しながら、大学のサークル集団などとは明かに異なる様相を呈していることの理由の一つは、会長でありリーダーであるNa氏のトライズ・カンパニーに対する考え方にあるように思われる。
 先に指摘したように、現代版の「祭り青年」組織の確立の試みとして考えられたトライズ・カンパニーは、すんなりと成立したわけではない。Ne氏によると、当初は、地域をもっと全面に出たの組織形成が試みられたものの、それでは若者が集まらないことが判明し、そこから「個人のやりたいこと」、「自分の好きなこと」を中心的な価値として打ち出す方向へと、方針転換があったのだという。そのような戦略の変更が功を奏して20数名の参加希望者が集まり、現在のトライズ・カンパニーが成立した。当然のことながら、何かしら明確な目標・目的を掲げた組織の形成とは異なり、参加者個人のやりたいこと、好きなことを第一義的に考えて組織を作り上げれば、その内実は極めて多様なものになる。Na氏やNe氏の言によれば、「皆のそれぞれの夢を叶えてあげるのがトライズ・カンパニー」であるとのことだが、人それぞれの夢が異なっているのであれば、それらの人々が一つの組織のメンバーとして集まっていることに対する疑問が生じてくることが、当然予想される。また、ある人の夢を叶えるためには、他の人が自分の夢を我慢したり、人の夢の実現のために協力しなければなららない場面も生じてくるであろう。つまり、「自分がしたいこと」を中心原理として組織を作り上げようとすることは、人を集めるという点においては有効な戦略であるが、一度出来上がった組織を維持・運営していくという段になると様々な困難に直面することが、容易に予想される。まさしくこうした原理によって組織される大学の同好会サークルなどが、不安定な組織運営を強いられたり、分裂したりする背後にも、同様の力学が作用することはいうまでもない。
 しかし、トライズ・カンパニーの場合は、現在までのところ成立当初の「自分がしたいこと」を中心に置くことを全く変えず、さらに当初からの方針である「会としての目標を掲げない」という姿勢を崩さないまま、社会組織として極めて活発に機能している。その理由は様々に説明されようが、何といってもNa会長のビジョンとでもいうべきものが大きく働いている。もちろん、「会としての目標を掲げない」ことがトライズ・カンパニーの規約である、明文化された形でのNa氏のビジョンが存在するわけではない。しかし、Na氏やNe氏は、「自分がやりたいこと」を中心的価値原則として置きながらも、それに終わってしまうのではなく、他者との関わり合いの中でトライズ・カンパニー自体が成長していくことを期待している。トライズ・カンパニーが成立し、初めて取り組んだ8月のイベントが準備されている時期に行なった聞き取り調査では、Na氏もNe氏もトライズ・カンパニーのより若いメンバーに対してある種の不安感を禁じえない様子であった。当時の状況では、彼らの目にはトライズ・カンパニーが仲間内だけで好きなことをする集団になってしまう危険性が映っていたのであろう。外部からの観察者である我々には、より若いメンバーの考え方にも、大学のサークルなどとは違って、明かに「地域」というものが意識されているように思われたが、同時に、Na氏のトライズ・カンパニーに対する考え方やその当時のあり方に対する評価と、「若い連中」のそれとの間には、はっきりした違いが感じられた。
 第一回目のイベントを8月に開催し、それがかなりの成功をおさめ、対外的な評価を得ることによって組織内の凝集力も強まり、その後の活動にも弾みがついていった。そのことはある意味で、当初からNa氏が考えていた外部の集団、外部の人々の出会いの中でトライズ・カンパニーが成長していく過程であったとも言えよう。もちろん、このような「成長」は自然発生的に生じたことではなく、Na会長が企画・運営に参与していくことを通じて実現したものであるが、興味深いことはNa氏は決して自分の考えを押し通す形でイニシアティブを発揮したわけではなく、むしろ具体的な運営に関してはイベントの実行委員長2名に任せ、自分は距離を置いてアドバイザー的な存在に徹したことである。我々の聞き取りに対して、Na氏は「自分たちがしたいことをやろうとしても、それだけでは済まされない。そのことに連中も気づくだろう」と語っている。そこには、「自分のしたいことをやる」場合でも、自分だけの問題ではなく他者と関わりとしての「社会性」が不可欠かつ大切であることに対する明確な認識を見いだすことが出来る。Na氏は、このような他人との関わり合いの大切さを教える・諭すという形でより若い連中に接するのではなく、彼らが主体的にトライズ・カンパニーとしての活動を進めていく過程で自ら他人との関わり合いに「気づく」ことに手を貸したといえる。結果的にはそのことが、その後のトライズ・カンパニーの組織としての活動のみならず、各メンバーの成長のあり方をも大きく規定していったと我々は考える。組織としてのトライズ・カンパニーが現在あるような姿に成長していったことは、会長のNa氏の貢献が無ければありえなかったことであろう。

3.構成員の特徴−「誰かを介して顔が見える」

 既に述べたように、トライズ・カンパニーは、組織としての目的・目標を掲げることなく、「自分がしたいこと」を中心的価値として、「個々人の夢を叶える」ことに重きを置いた集団である。それでは、この集団の構成員にはどのような特徴があるのだろうか。年令的には20代が大多数であり、男女比はおよそ3対1くらいである。ここで注目すべきことは、ほぼ同じ世代に属する会のメンバーたちは、ただ単に年齢的に近いというだけではなく、山形村という地域を通じて、幼いころに何らかの関わり合いを持っているものが比較的に多いということである。トライズ・カンパニー結成当初の会合では、初めて会うメンバー同士が、「だれだれと同じ学年だったでしょう」とか「だれだれのお兄ちゃんの友達だよね」と会話を交わす場面がよく見られた。つまり、多くのメンバーが、トライズ・カンパニーを契機として初めて知り合い、一緒に活動することになった間柄ではあるものの、以前から互いに「全く知らない」相手ではなく、村で見かけたり、友人の友人、兄弟姉妹の知り合いといった形で「知ってはいた」関係にあったということである。いわば、「誰かを介しての顔の見える関係」がトライズ・カンパニー成立の背景にあったように思われる63)。こうした匿名性の欠如は、少なくとも現段階ではメンバーのほとんどが旧住民であるトライズ・カンパニーの性格の一面を、端的に表しているといえよう。
 このような各メンバーの間にみられる地縁関係に根ざした会の成立という特徴は、先に指摘した会の原則として「自分のやりたいこと」を組織原理の中心に置くことと共に、組織を当初成立させるためには、有効かつ必要な要素であったろう。つまり、全く知らない者の間で「自分の好きなことをする」よりも、ある程度「知っている」人々の中で夢の実現を目指すことの方が、個人の積極的な参加を可能にすることは、容易に予想される。しかし、「自分のやりたいことをする」という組織原理の場合と同様に、直接的にではなくとも山形村という地域を介して知り合っている者が構成する組織だという特徴には、その後の組織の維持・成長という課題に照らせば、否定的要素も含まれている。山形村という物理的空間における、ある特定の世代の共有体験を一つの核としてトライズ・カンパニーは成立可能になったと言えるのであるが、もし、そのようなかってあった共有体験にのみ準拠して組織としての活動を行なおうとすれば、それはやがて自分たちだけの自己満足的な活動に陥ってしまう危険性を多分に含んでいることは、想像に難くない。会の成立当初にNa氏やNe氏が抱いた危惧もこの点に関してのものであると思われる。
 しかし結果的には、そのようなかっての体験の場であり、これまでの生活の場である「地域」における共通体験を組織運営の凝集力として保持しつつも、外部に(物理的にも社会的にも)対して開かれた組織としてトライズ・カンパニーは成長しつつある。8月のイベント企画の段階で、実行委員の一人は、「今回のイベントを大きな同窓会のようなものとして成功させたい」と抱負を語っていたが、今振り返ってみるとその発言は、トライズ・カンパニーの構成員の特徴−幼かった頃の山形村での体験の共有−を如実に表していたものと解することが出来る。それと同時に、8月のイベントが同窓会として成功したのみならず、他者をトライズ・カンパニーの活動に参加させたという意味においても成功した。8月のイベントに出席し、それが契機となってその後のトライズ・カンパニーの活動に積極的に係わる者が複数出てきたことや、8月のイベントでも、その後の12月のイベントでも山形村内のみならず近隣の村からも多くの参加者があったことの意義は大きい。「自分の好きなこと」を仲間と一緒にする、という組織構成員の間での楽しみが、自己満足的に充足してしまうのではなく、より広がった形での他者との関わり合いの可能性を含んでいることをトライズ・カンパニーの一連の活動の中に我々は見いだすのであるが、そのことはかってのような閉鎖的・保守的なものとしての地域とは違った、現代的な要素を積極的に取り入れた新たな形での「地域」の可能性を、十分に感じさせるものである。

4.活動の実態

 前節までの経緯をふまえて、実態としてトライズ・カンパニーという組織がどのような活動を行なっているかについて、本節ではその端緒となった1992年8月30日にミラ・フード館で行われたイベント「バースデイ・イブ」の記述を中心に話を進めて行く。
 具体的な内容に移る前に、ここでの記述における視点と、その意図するところについて若干の説明を試みたい。なぜなら、このような「視点」の設定そのものが、すでに何らかの前提として、「実態」そのものではなく、何らかの制約の上にものを見ることを読者に強いる可能性があるからだ。この視点の意図を示すことによって、ここでの基本的な姿勢を示すと同時に、その可能性を敢えて問うことにしたい。
 前節までに明らかになったように、トライズ・カンパニーの特徴として明らかにされたことは、「自分のやりたいこと」、「自分にとって楽しいこと」をやるという、ある種の「自己実現」が、活動の基本原理であるということであった。したがって、活動を記述する場合、その活動に関わっている本人やトライズ・カンパニーという集団により、その「やりたいこと」をどのように位置づけられているか、ということがまず問題となるであろう。しかしながら、そのような活動が、メンバーによってどの程度満足されるべきものであるかという、単なる「自己充足」のレベルだけが問題なのではない。個々の活動は、その諸相において、必ず何らかの外部との関係を表している。こうした関係の多様性自体が、普通の学生サークルに見られないような、トライズ・カンパニーの大きな特徴である。そこで、単に今回のイベントが村の若者が参加して行なわれたということだけではなく、イベントに関わるさまざまな事象がどのような形で、そうした外在的な要素を反映しているか、あるいは、外部との関係をもったか、を中心に、イベントの実態をフォローしていく。それが、どのような意味を持っているかについては、本節の記述の中でも若干触れるが、むしろ次節において明らかにしたい。
 まず、今回のイベントを語る上で欠かせない、トライズ・カンパニーのメンバーである2人の人物を紹介する必要がある。1人はY氏(当時27歳)で上竹田の酒屋を経営している。もう一人はF氏(当時28歳)で、同じく酒屋を中大池で経営している。2人は同業者としてのつながりもあり、Y氏の呼びかけに対しF氏が応じる形で今回のイベントを中心的に企画することになった(実行委員長はF氏)。両氏はトライズ・カンパニーの中でも年長に属し、また発足において非常に積極的な姿勢を見せたメンバーであった。トライズ・カンパニーの誕生の前身となった『若者人名録』をはじめとする、行政による若者の組織化の動きに対しても、非常に意欲的な反応を見せたのがこの二人である。
 当初において両氏は、このイベントをむしろ「ロック・コンサート」として計画していた。それは単に両氏が村民や松本の人とロック・バンドを結成していただけでなく、彼らの「やりたいこと」としてまず、「村におけるライブ(演奏会)」ということが頭にあったことによるものである64)。ここにおいて、すでにトライズ・カンパニーの原則である各人が「やりたいことをやる」、そして「言いだしっぺがやる」という点が反映されているが、トライズ・カンパニーとして行なうにあたり、企画はロックに関心のない人も楽しめるよう、立食パーティを加えた「イベント」として立案され、トライズ・カンパニーとしての初会合が行なわれた5月27日の時点ですでに採択された。同時に、これを範とする形で、それぞれの「やりたいこと」に応じてクラブを作って活動するという運営形式がトライズ・カンパニーにおいて成立した。イベントの出演者もまた、村の自主的なバンドが中心とされており、両氏のバンドの他、すべてのバンドがトライズ・カンパニーのメンバーを含むことになった。
 その後、6月10日の2回目の会議において、会の名前が「トライズ・カンパニー」と正式に決定するに従い、このイベントはトライズ・カンパニーの誕生にかけて、名称が「バースデイ・イブ」と名づけられるなど、ある一つの組織の「誕生」としての意味を強く持つようになった。すなわち、このイベントは、トライズ・カンパニーが初めて組織として行なう活動であると同時に、周囲の人々に対し自らの存在を知らしめるという意味をもっていたのである。
 一方で、トライズ・カンパニーの外部からも、このイベントに対して特殊な意味づけが与えられていた。一つは、このイベントの開催場所として当初から決定されていたミラ・フード館に関わる、主に行政側を中心とした期待である。ふるさと創生資金によって住民アンケートをもとに建設された経緯をもつこの施設は、天体望遠鏡を備えた本格的な天体観測ドームや、ハイビジョン・シアター、夜10時まで営業している喫茶・軽食コーナーなど、村の施設としては例外的に、やや誇張して「都市のトレンディ・スポットにも劣らない」といわれるほどの機能が盛り込まれているが、反面、こうした「贅沢」に対する一部村民からの批判も少なくない65)。この意味で今回のイベントは、民間によるミラ・フード館利用の端緒であり、住民による自主的で「有益な」利用の格好の例を示すものとして期待されていた。
 さらに、このイベントはホワイトバランス会のメンバーでもあるY氏に対する、番組の題材として「若いもので何かやってくれないか」というホワイトバランス会からの依頼をその背景に持っていた。我々が今回の調査でトライズ・カンパニーに遭遇したのも、こうした経緯を通じであった。つまり、ホワイトバランス会としては、「村の若者による」イベントという意味づけを当初から番組に与えており、そうした方向でイベントが実施されるよう期待をしていたのである。ただし、番組として放送されることを前提としていたことが直接イベントの構成に影響することはなく、YCSによる生中継も早くから決定はされていたが、放送のために開催側と事前に打ち合せをするといった場面は、観察した範囲ではほとんど見られなかった。しかしながら、イベントが中継されることはすでに知らされており、また別にこのイベントをめぐるトライズ・カンパニーの活動についてのドキュメンタリー番組の制作が、メンバーでありまたYCSの職員でもあるM氏によって進行しており、トライズ・カンパニーの人々が「カメラ」という視線を意識させられる部分が多かったことは想像される66)
 このイベントがYCSとの関係においてむしろ特徴的であったのは、トライズ・カンパニーによる宣伝媒体としてのYCSの活発な利用である。すでに会が発足して間もない6月2日にYCSの番組にY氏とF氏が出演しており、8月にはイベントのスポット告知が繰り返し放送されるなど、イベントは着実に一般村民の間でも話題となっていったようである。ちなみに村外に対しても、会の結成とイベントの企画状況が地元の地域紙『松本市民タイムス』によってシリーズとして報道されたほか、松本市のタウン情報誌においても会員全員が写った写真入りでイベントが紹介されるなど、さらに村外からの注目をも得ていた67)
 もう1つ、イベントに絡んでトライズ・カンパニーが外部との関係をもつ上で焦点となったのが、資金獲得のためのパンフレットの広告取りである。以前に確認したように、トライズ・カンパニーは、資金的な援助を得られるスポンサーを持っていないため、多額の費用を必要とするイベントの開催において、広告取りへの協力は必須なものとして各メンバーに要求された。対象はメンバーの職業的なネットワークが中心であったが、この過程においてメンバーが自らを主に村内の人に対して「トライズ」の一員として規定することになると同時に、特に村内のネットワークにおいてトライズ・カンパニー自体の存在を知らしめることになったと考えられる。したがって、広告は確かに費用の供出に欠くべからず意味をもってはいるものの、自営業のメンバーがそのまま自分の店の広告を出す場合も多く、資金の問題というよりは、トライズ・カンパニーの背景にあるネットワークを作動させる契機として重要であると考えられる。広告は、合計42件が集まり、総費用の約3分の1がこの広告料によって賄われた68)。前売チケットの販売についても同様の傾向が見られた。
 このようなトライズ・カンパニー内外のさまざまな関係を反映しながら、3ヵ月程度の期間を費やしてイベントは実行へと準備されていったのであるが、この他にも、イベントのチラシやポスターの作成、食べ物や飲み物の手配、イベントにおけるゲームの賞品の手配など、すべてがメンバーによる自主的な活動によって「手作り」で進められた69)
 さて、8月30日当日、午後4時半からイベントは開始された。プログラムはバンド4組による演奏が、4回の賞品つきのゲーム大会とディスコ・タイムを間に挟むという構成で進行した。入場料は最高1500円で立食形式での食べ物、飲み物はすべて無料であった70)
演奏された音楽71)やディスコ・タイム用の音楽72)などはいずれも東京においても流行しているものが多く、賞品も東京ディズニーランドの入場券73)など、現代の若者一般の嗜好74)を反映したものになっていた。
 会場は、演奏ステージを中心に中央が踊りのスペースで、ホール後方が食事のスペースという配置で、ステージ上とその前で踊っている人々を含む会場前方の様子が、YCSの中継用カメラによって生放送されると同時に、M氏による番組用の取材カメラも入っていた。
 参加者については、入場者だけで約200名を数えた。年齢は20代前半がほとんどで、村内だけでなく村外からの参加者もかなり見られたもようである。前売チケットによる入場者がほとんどで、メンバーから直接イベントに招待されたものが多かったが、未成年に当日券での入場者が多かったほか、CATVによる中継を見て参加してきた者も若干見られた。
 「知らない人どうしでも握手して、自己紹介しよう」という言葉がパンフレットにうたわれ、開始の第一声としても表明されていた。しかしながら、多くのメンバーがこのイベントを「同窓会」と呼んでいたように、同じ地域出身者同士でありながら、その後飼う会う機会がなかったものや、夏に帰省してきた人との再会の場としての性格が強く、お互いを懐かしむ声が会場のところどころから聞かれた75)
 一方、トライズ・カンパニー成立当初から関係の深いNe氏のほか、村長をはじめとしてミラ・フード館長、「水色山路」の監督であるS氏など、村の文化活動のキーパーソンとなっている人が年配の参加者に多く見られた。中には、県内他村において地域活性化を主導した人物も招待されるなど、「地域」イベントとしての性格が、トライズ・カンパニー外部のこのような人々によって表されていた。
 ここで実際に会場の空間がどのように構成されていたかについて少し詳しく触れる必要がある。この構成には結果的であるが、YCSによる放送・取材がかなりの影響を与えていたように思われた。
 先に述べたように、会場の前方の空間は踊りのスペースとして、後方の人が取り巻くような形で広がっており、さらに数度となくテレビカメラのライトによって照らされており、ここで踊ったり、あるいは演奏に喚声を送ることまでもが、周囲の人々の注目を集めることになるという、いわば第2のステージとしての意味をもっていた。さらに中継用のテレビカメラが会場の左手前方から中央に向かっており、実際に放送されたのは演奏中の様子だけで、会場内部がはっきりと映されることは多くなかったが、前方にいればカメラに映ることが多くの人にはっきりと意識できる状況となっていた。そのせいか、人々が作る空間は、中央がまばらなのに対し、後方に密度を高くしており、いびつな印象を見せていた。加えて人々の服装もGパンからタキシードと、かなりまちまちで76)、 同じ様に統一された服装をした群衆の中の一人として踊る都会のディスコとは異なり、前方の場にいて「踊ること」自体がすでに他人の目をかなり意識させたようであった。したがって、この会場内においては、そこにいると「目立つ」部分とそうでない部分が空間としてかなり明確に分かれることになった。多くのトライズ・カンパニーのメンバーがその「目立つ」空間にいたほか、座興が乗るに従い、さらに「目立つ」ステージの上で踊るトライズ・カンパニーのメンバーも現われ、一人のメンバーが村長を誘って一緒に踊り、会場の一斉の注目と拍手を集めるという一幕も見られた77)
 開始から2時間半を数えた午後7時にイベントは終了し、片付けの後トライズ・カンパニーのメンバー全員と出演者若干名による打ちあげが行なわれた。
 さて、イベントの入場者に対してはあらかじめアンケートが配付されていたが、その回答のうち「面白かった」・「またやってほしい」という好評な意見が多くを占め、また、メンバーにおいても、「ここまでやれた」という成功感と、「自分たちでやった」という実感が多くに一致していた。前述したように準備のほとんどがメンバーの「手作り」で行なわれたことから、直接に返ってきたこのような反応はより一層メンバーの達成感を高めたと考えられる。また、イベントの制作に参加することで、「いろいろな人とのつながりができた」という満足を挙げるものも多く、このことは今回の経験を通じてトライズ・カンパニーのメンバーの結束が強まったことと同時に、広告取りやイベントにおける「同窓会」による既存の地縁ネットワークの再活性化を意味していると考えられる。
 また、「テレビに出られて良かった」という出演者の感想から、「テレビによってトライズ・カンパニーの知名度が上がった」という意見まで、「テレビ」=CATVによる他人の注目への意識がメンバーに見られた。実際のCATV視聴者はむしろ年配層に多かったらしく、事前に開催を知らず「何をやっているのか」と画面に目をやったところで、「誰々のところの子供が出ている」ことに気づくという形で注目を集めたようである。放送用のカメラが一台で固定されていたためか、実際に会場の様子が視聴者に細かく伝わったということはなかったと考えられる。したがってここにおいては、イベント自体がCATVを通じて多くの村民の目に触れたことよりも、むしろ前に示したような、会場の雰囲気として「目立つ」=注目されているという意識を高めたものとしてのテレビ・カメラの役割が強調されるであろう。その意味では、イベントのスポット告知の制作自体がトライズ・カンパニー内での出来事としてのインパクトが大きく、それが実行へ向けての「盛り上がり」を作りだしたというメンバーの指摘が注目される。
 しかし、村としての反響は必ずしも小さいものではなかった。アンケートへの回答に「村の者も捨てたものではない」という感想が寄せられたのをはじめとして、後日行政主催による婦人を対象とした「村の未来を考える会」で、イベントを見た人が「ああいう若い人の活気を生かしたい」という意見を述べたり、村議会でもトライズ・カンパニーのような団体の輩出を望む意見が見られたという。さらに、その後のトライズ・カンパニーの集まりに、施設の有効利用の範を示したことを感謝して村長自らが赴くという場面も実際に見られた。イベントにおいてその姿を表したトライズ・カンパニーは、単なる若者の集まりとしてだけではなく、特に年配の者に対して、「地域」としての特徴をもった組織として認められたようである。
 このような外部からの認知が、トライズ・カンパニーのメンバーにも少なからず影響を与えたと考えられる。それは、特に村における「外へ向けての広がり」を求めるメンバーの声が見られたことによって象徴される。「若い人だけの集まりに終わってしまったのが残念だった」という意見から、自分たちのやっていることを「父ちゃん母ちゃん」にも知ってもらいたいという意見まで、より広い年齢を対象としたイベントを次回に望むものが多かった78)。さらには、村長の訪問を歓迎して、村長を囲む形で何かをやろうという意見まで見られた79)
 このような間接的な形だけでなく、このイベントが地域紙のみならず、地方紙や地方版によって村外に報道されたこともあり、近隣市町村において多く行なわれている他の「夏のイベント」との比較において、直接に「山形村のイベント」としてメンバーに意識されていた面を指摘する必要がある。当日の打ちあげが、ほぼ同じ時期に近くの四賀村で行なわれたイベント(ロック・グループ「ハウンド・ドッグ」のコンサート)に対して、「四賀村のハウンドドッグに勝った!」という掛け声で締めくくられたことは、この証左となるものであろう。

5.現在の状況と今後の可能性

 以上、トライズ・カンパニーの成立の経緯、その集団の特徴、これまでの具体的活動の内容に関して概括してきた。そこでも述べたことであるが、トライズ・カンパニーは、当初の目的としてはかっての「祭り青年」のように地域活動を担う若者の集団として形成が試みられた。しかし実際の組織化の段階では、個人の好きなこと、やりたいことに重きを置くサークル集団的な方法が取られた。このような地域活動集団としての側面とサークル集団・同好会集団的な側面との微妙なバランスが、トライズ・カンパニーの組織としての最大の特徴であろう。トライズ・カンパニーのメンバーへの聞き取り調査とイベント計画・実行段階への参与観察を通じて、このような微妙なバランスが少なくともこれまでのところ、組織の運営において非常に有効に作用しているとの印象を我々は持った。山形村で生まれ育ったという共通の体験を一つの核として、「誰か他者を介して顔の見える関係」にある者同志から構成されていることに起因する組織としての凝集性の高さを有効に利用しながらも、それが他者を排除してしまうのではなく、新たな参加者に対して開かれた組織である点は、注目に値する。このことはトライズ・カンパニー成立以降、会員数が増加していること(1992年12月現在36名)、またイベントへの参加者が山形村内の若者だけではなく、近隣からの参加者が少なからずいることなどに、現われている。
 このような側面は、組織全体としての目標・目的を敢て掲げず、各人の「したいこと」を中心的な価値原則として組織を運営していくという戦略が、成功裡に機能していることを示している。行政側からのイニシアティブに基づく組織化の試みにおける「戦略変更」に関して述べたように、「自分の好きなこと」を中心として組織を形成するという発想は、極めて柔軟なものである。そのような柔軟さにこそ、今後の新たな「地域」形成の可能性が潜んでいると我々は判断する。しかし、このような「柔軟さ」は、組織形成・運営の戦略が柔軟であるが故の問題をはらむことも事実であろう。現在までのところ、トライズ・カンパニーの諸活動は直面する様々な困難に対して柔軟に対応し、組織内的にも組織外的にも閉鎖的になることなく開放的に自己展開をおこなっている。しかし、容易に予想されることであるが、このような組織としての「柔軟性」を今後とも維持していくことは、決して簡単なことではない。特に、組織が大きくなり、成立当初のようなメンバー間の「親密性」が必ずしも全てのメンバーに期待できなくなる状況が現われれば、先に指摘した「微妙なバランス」にも変化が生じることも予想される。本論を展開していく中でも繰り返し指摘したように、トライズ・カンパニーの活動はまさに展開の途上にあり、今後の方向性に関してここで机上の抽象的議論を展開することは、大して意味のあることではない。しかしながら、現時点までの比較的に成功裡のうちに進んでいる「地域」活動としてのトライズ・カンパニーの諸活動に対して、反省的な視点から考察を加えることは、決して無意味なことではないであろう。

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山田晴通・阿部 潔・是永 論(1993):
長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動
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