山田晴通・阿部 潔・是永 論(1993):
長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動
I・社会的コンテクストとしての山形村
1.山形村の概況
2.山形村の社会状況と「地域」
3.「地域」活動の広がり
1.山形村の概況
長野県東筑摩郡山形村は、松本市の西隣に位置し、7千人弱の人口4)を擁している「典型的な」といってもよいような、地方都市近郊農村である。山形村は、就業人口が第1〜3次産業によってほぼ等しく三分されるように、農業就業者も多いものの、自動車による通勤を前提とするならば都市的な就業機会にも恵まれている。元々、山形村は、松本藩時代に「山方三ヵ村」と称された藩制村を引き継いで1871(明治4)年の廃藩置県の際に置かれた大池村・小坂村・竹田村が、1874(明治7)年に合併して成立した行政村であるが、その後は隣接町村との合併や境界変更がないまま現在に至っている。このためか山形村は、やや小じんまりとした、まとまりのよい農村という印象を与える。
約25km2の面積がある山形村の村域のうち、山林を除いた部分は全体の4割ほどであるが、その大半は松本盆地西縁の連合扇状地斜面上にあるため、元々は水利条件の悪い緩斜面の土地が多く、水田に適するような完全な平坦地は少ない。こうした地形条件から、山形村には自然状態のままでは条件のよい農地が少なく、古くから水利条件の整備が農業生産と密接に結びついていた。このため山形村では、江戸時代から大規模な用水の建設が試みられたりもしてきたが、近年に至るまでは営農環境に恵まれているとはいい難い状況が続いた。換金性の高い野菜類を中心とした現在の山形村の農業経営の形態は、1971年に完成した第1次農業構造改善事業や耕地区画整理事業による耕地整備と、梓川の総合開発によってもたらされた潤沢な水資源を利用しながら1960年代後半から1980年代にかけて進められた中信平総合開発事業などによって、1970年代以降に確立されたものである5)。
現在の山形村は、農家の整理淘汰が一通り終わっており、残っている農家には、経営基盤のしっかりした専業指向の強い農家が多い(図2)。こうした状況は様々な統計数値に依って示される6)。作物としては、ながいも(農業粗生産額に占める比率7):24%)、すいか(14%)、りんご(7%)、を中心に、レタス、キャベツ、白ネギ、ごぼう、パセリなど、多様な野菜類や、花卉類などが作られている。水田も少なくはないが、そのほとんどは自家消費用である。
こうした多品種生産の経営は、準高冷地農業の形態としては、類例が少ないといえよう。近年では、野菜類などは産地間競争の激化とともにいわゆる「ブランド化」が進んでおり、高値で取り引きされる産地となるために、市場に供給できる出荷量の大きさを重視する傾向が強くなっている。このため特定品目への特化の動きが各地で力を得ている。しかし、山形村のような多品目生産には、市況の急激な変動に対する危険分散といった意味あいもあり、特に昨今のような野菜市況の低迷期には、その意義が見直されるようにもなっている8)。なお、これまで山形村には村単独の山形村農協があったが、1992年9月に、松本平農協(松本市西部)、波田町農協との三者合併が実現し、新しく松本ハイランド農業協同組合(JA松本ハイランド)が誕生した。
このように山形村は、現在では農業の生産条件に恵まれた農村となっているが、一方では近年、松本市など隣接都市に通勤する住民も増加している。国勢調査によると、山形村に常住し村内で就業する者の数は、1970年から1975年にかけて大きく減少した後、ほぼ横ばいで推移している。これに対し村外へ通勤する者の数は、順調に伸びており、この傾向は最近になるほど著しい(図3)。これは、自動車の普及と共に通勤圏が拡大し、旧来の住民が村外へ勤めに出るようになったためでもあるが、それ以上に重要なのが村外からの転入者の増加である。山形村は、松本通勤圏内では比較的地価が安く、新たに村内に宅地や住宅を購入して転入してくる住民が、近年いよいよ増加しているのである9)。国勢調査によると、それまで減少を続けていた山形村の人口は1975年の調査を底として増加に転じ、現在に至っている。このため村内社会では、絶対数の上では少数ながら、「新住民」の存在が意識される局面も生じることになる。
「旧住民」と「新住民」の間には、基本的な生活条件の上で様々な相違点がある。例えば、山形村に生まれ育った「旧住民」の場合、大半の世帯が農地を所有しており、最も小さい規模の場合でも、わずかな農地で自家消費用の米や野菜を作っていることが多い。これに対して「新住民」は、農家に嫁いできたり、養子に入るような場合は別として、農業に関わる機会はほとんどない。また、山形村の子供たちは、小学校は村立山形小学校、中学校は以前なら村立山形中学校、現在は組合立鉢盛中学校へ全員が通うため、「旧住民」の間では、同年齢=同学年の横のつながりは非常に強い。現在、村内には高等学校以上の学校はないので、中学を卒業して進学するとき初めて、全員が村外に出ることになる10)。
村内には、公的な性格を帯びた様々な組織がある。「常会」と呼ばれる自治組織の基本単位(正式には「連絡班」という、「隣組」に相当)の世話役は、当該地区内の全ての世帯が持ち回りで務めるのが原則なので、「新住民」世帯がこれに当たることも当然あるし、住宅団地として開発された地区などではそもそも住民全てが「新住民」ということもある。しかし、「消防団」などは、拘束時間等の関係で、村外への通勤者である「新住民」の参加は困難であり、農業や自営業者を中心として、事実上「旧住民」だけによる組織が編成されることになる11)。それでも、組織の維持が不可欠な「消防団」などは何とか編成されるが、同じような条件から「新住民」の参加がほとんど期待できず、また「旧住民」の若い層からも敬遠されがちな組織は、近年に至って活動が停滞する傾向にある。例えば、かつて村の文化活動の中心にあった「青年会」は、徐々に活動を縮小して現在に至っているし、村全体としての「婦人会」は現在では活動していない。
山形村では、1960年代から耕地整理が進んで、道路網の整備されてきたが、1979年の山形村農業者トレーニング・センター(体育館)とグランドの建設以降、村の行政機能は下大池東原に集中配置されるようになった。現在、同地区には村役場をはじめ、山形村商工会館、農業エポック館、ミラ・フード館などが配置されるとともに、信濃山形海洋センターや農協購買部の「やまがた中央店」も隣接地に置かれている。このうち農業エポック館の二階に置かれているのが、1989年7月に正式開局したMPIS施設「山形村ケーブルサービス(YCS)」である12)。
YCSは、農水省の補助を受けて建設され、全戸加入を原則とする「農村情報連絡施設」(=MPIS施設)である。もともと山形村には、1962年以来、農協が管理運営する有線放送電話施設があったが、その老朽化を受けて導入されたのがCATVを軸とするMPIS施設であった。YCSは、自主放送、再送信を含む通常のCATVに加え、音声告知サービスとファクシミリ放送サービスからなる多重情報伝送の機能と、農業気象観測データの処理・放送の機能を備えている。1991年3月現在の郵政省データでは、引き込み端子数2242、受信契約者数1630、となっており、ほぼ全戸の加入が達成されている。利用料は月額1300円で、契約料は開局時には不要だったが、現在、転入者などが新規加入を申し込む場合には2万円必要となる。(郵政省、1992)
YCSは村営のCATVであり、当初はMPIS施設として農水省からの補助金を利用する関係で、経済課が担当部局となっていた13)。その後、YCSの開局に合わせて農業技術情報課が新設され、そこに置かれた農業情報係がYCSの実際の運営に当たってる14)。同係には現在、係長1名のほか職員4名(開局時は2名)が所属している15)。1992年12月現在のYCSのサービス内容は、空中派再送信8波(NHK2波、県内民放4波、NHK衛星放送2波)、自主放送3波(YCS、気象情報、信毎文字ニュース)である。県外波の域外再送信は、今のところない16)。また、YCSが制作しているチャンネルは、YCSと気象情報の2波ということになる。
2.山形村の社会状況と「地域」
本節では主に、山形村が置かれている社会状況の焦点を、1992年1月から12月にかけて断続的に実施した参与観察ならびに聞き取り調査の結果から得られた知見をもとに紹介していく。ここでは特に、YCSを担当している農業技術情報課のK課長からの聴き取り内容を軸として、問題点の把握を試みることとする。その場合に、山形村を理解しようとする際に必要不可欠な視点としての「地域」、さらにはそのような「地域」と密接に関連した社会集団として、多様な層の住民によって構成されたCATV番組制作集団であるホワイトバランス会と、若年層から構成される現代版の「祭り青年」組織とでもいうべきトライズ・カンパニーの活動が持つ意義を中心に論を展開していく。というのも、そのような「地域」活動を行なうものとしての二つの社会的集団は、現在の山形村が置かれた状況、そこで解決すべき問題、さらにはそのような問題解決へ向けての一つの方向性を如実に表しているように思えるからである。
ホワイトバランス会とトライズ・カンパニーは、会員の重複はあるものの、それぞれの会の目的、構成員、日頃の活動などは異質で、一見したところの全く性格の違う組織のようにも思われる。しかし、組織としての社会的意義には明らかに共通性があり、その点を考察していくことは、二つの具体例としての社会集団の考察にとどまることなく、より広く山形村全体が置かれている社会状況を、現在という視点から考えていくことにつながる。
前節でも指摘したように、山形村の主要産業は伝統的に農業でありる。しかも、行政側の当事者たちが自ら認めるように、山形村は他の農村地域と比較して「豊かな」地域だといえるのである。換金性が高くて商品性の強い農産物の開発・育成に成功し、地元産業的には安定した地位を比較的永きにわたって得ているという話は、行政側の人間であるYCSのK課長からも聴くことが出来た。山形村に導入されたCATVはいわゆる「農村型CATV」であり、そこで期待されている役割としては、気象情報、農業技術情報など直接に農業に関連したものが大きな位置を占めている17)。このようなことからも明らかなように、他の地域との比較を考える場合にも、山形村における農業の重要性、しかもそれが比較的に順調に営まれているという点を明記しておく必要がある。
このような「相対的豊かさ」を背景として、言い換えれば物質的豊かさが確立されたことを前提として、さらにその上をゆく生活環境の整備、いわば「ライフ・スタイルの豊かさ」を求める動きが現れてくる。山形村に限らず、一般に農村型CATVは、農協などが運営主体となる場合も含め、行政が主導権を握って運営されている。YCSの場合にも、CATVの有効な活用方法は、主に行政側から考えられてきたという経緯がある。先に述べたようにMPIS施設の基本的な機能は、農業活動に必要な諸情報の提供にあるとされる。しかし、MPIS施設の建設が実現する以前の段階から、CATV自主放送における自主制作番組を通して、村における何らかの「精神的豊かさ」を実現できないだろうかという問題意識が、K氏などCATV事業の推進に中心的役割を果たした人々の間に共有されていたことは、非常に興味深い。
以上、ここで押さえておきたいことは、何よりもまず第一に、農業を基幹産業とする山形村が比較的に豊かな経済的地位を占めており、またそれは1970年代以降、現在まで続いているという事実である。このようなある程度の経済的豊かさ・安定性がなければ、後に詳述するような、個人の直接の利益・利害を越えた「地域」活動への人々の積極的なコミットメント(たとえそれが義務感に基づくものではなく「自分がしたいこと」を中心原理にしていようとも)は生まれてこないであろうという厳しい現実を、我々は認識する必要があると考える。非常に俗な言い方をすると、「衣食足りて礼節を知る」ということは、何も個人にだけではなく、地域に関しても妥当するのではないだろうか。社会的事象、歴史的事柄に関して「もし」を考えることは無意味ではあろうが、もし、山形村が現在のように比較的に豊かな農村社会でなかったならば、そもそもCATVの導入は困難であったろうし、たとえ技術・ハードとしてのCATVが導入されていたとしても、現在とは大きく異なる用いられ方をしていたことだろう。
このように考えると、「物質的豊かさ」を得た後の「精神的豊かさ」の希求の高まりとして現在の山形村の状況を捉えるK氏の分析は、ある意味でCATVに限らず、この地域での社会的活動の意義を考えていくうえで、非常に示唆に富んだものであると思う。物質的価値の実現の後に追求される、ポスト物質主義的価値の実現というイングルハート(1978)が描くような現代先進社会での価値観の変容過程は、山形村が近年置かれた社会状況、そこで解決すべき問題とは一体何なのかを論じていくうえで、有効な理論的道具になるといえる。
ふたたびK氏からの聞き取り調査の結果によると、物質的豊かさが保障された上での精神的豊かさを実現していくうえで、ある意味で阻害要因となっているものが「農村的生活」であるという。当然のことであるが、農業従事者の生活においては都市型サラリーマン生活者のような公的生活時間・空間と私的生活時間・空間との明確な区別はない。仕事の場は同時に生活の場であり、また自然が相手の仕事では当然仕事に拘束される時間も長くなる。K氏の言によれば、このような要因によって従来の農業従事者の生活には、労働とは空間的・時間的に異なるものとしての余暇が欠けていた。そして、現代的問題として、そのような生活における余暇の欠如が、若者層にとって農村での生活を魅力に乏しいものとしている18)。以上が、K氏が精神的豊かさを実現していくうえでの阻害要因として考える、農村的生活の特徴である。もちろん、回数の限られた聞き取り調査によって得られた、一個人の意見を客観的事実として受け入れることは大きな過ちであろうが、長年山形村に住み、地域の問題が最も切実に感じられる役場という場所に身を置いてきたK氏のこのような意見は拝聴に値する。
さらに興味深いことは、このような精神的豊かさの実現にとって阻害要因であるとされた農村的生活が、近年の山形村において崩れてきており、そのことの原因として、いわゆる「新住民」と「旧住民」との間で生じている小さな摩擦をK氏が指摘していることである。既に指摘したように、近年、山形村は松本市のベツドタウンとしての色合いを強めてきている。それに伴い、村の人口構成も、昔からの居住者である「旧住民」に加えて、松本市などに通勤しながら、「ベッド」だけを山形村に置いているような「新住民」19)の数が増えてきている。このような「新住民」と「旧住民」とではライフ・スタイルが異なり(多くの新住民は農業従事者や自営業者ではない)、そのことが村での生活の中に摩擦を生じさせているとのことであった。K氏によれば、これが大きな摩擦であれば村の社会的解体・崩壊という危険をもたらしてしまうのであるが、現在のところそれが小さな摩擦にとどまっているために、むしろ旧住民が自分たちのこれまでの農村的生活の問題点を見直す契機となり、そのことが先に指摘した精神的豊かさの実現の方向へ人々を導くという肯定的効果をもたらしているとのことであった。つまり、内部の視点だけではなかなか見えてこない従来からの農村的生活に潜む問題点が、外部の視点としての新住民との接触を通じて当事者たちにも認識され、そのことが、これまでの農村的生活とは違った形での物心ともに「豊かな生活」の実現へと人々を向かわしているということであろうか。
近年の山形村の状況としてのベッドタウン化、それに伴う村内の「新住民」の増加という現象は、現代の山形村が置かれた社会・経済・文化的状況を考えていく際に、非常に重要な意味を持っている。本論では山形村における様々な社会的活動を、象徴的・社会的意味も含めた「地域」との関連において考えていこうとするのであるが、そうした「地域」が人々の社会的活動において中心的地位を占めている背景には、このような近年の変化(人口構成、生活スタイルという観点から見た場合の、大きな変化)が影を落としているのである。
このような「新住民・旧住民問題」とでもいうべき近年の変化が、山形村の地域社会に対して持つ意味の大きさを知る一つの事例として、近隣村20)での「祭り青年」組織の崩壊を挙げることが出来る。「祭り青年」とは、この地方に伝統的に見られる夏の祭りを企画・運営する若年層から構成される集団のことであるが、そこでは特定の年令ごとに役割が明確に分担されており、「祭り青年」組織の中での年長者が下のものに自分の経験に基づき、祭り運営のノウハウを伝承していく体制が整えられている。山形村の近くの村でこのような「祭り青年」組織が崩壊したということを聞いたとき、我々は最初、過疎による人口減少のために祭りの担い手となるような若者の数が減ってしまったためであろうと考えた。しかし、聞き取りを重ねて行くと、実際には、逆に若年層の人口は近年のベッドタウン化の進行により増加しているにもかかわらず、それらの若者を組織化することが困難になったことが、「祭り青年」崩壊の原因であることが明かになった。過疎による人口減少ではなく、人口は増加しているもののそれは新住民の増加であり、そのような新住民と旧住民との交流が必ずしも円滑に行なわれていないことを、「祭り青年」組織の崩壊は物語っているように思われる。
山形村における「地域」の意義は、以上で述べてきたような社会状況の変化を背景として考察される必要がある。そのように考えると、現在の山形村での「地域」の重要性という問題は、これまで伝統的に伝承されてきた「地域」の生活・社会・文化などを継承・復古していくということ以上のものを含んでいるように思われる。先ほどから論じているように、物質的豊かさから一歩進んで精神的豊かさを実現しようとする試みにおいては、村の遺産である伝統的な農村的生活は、むしろ否定的に捉えられる局面も見受けられている。また、後述するように、若年層から構成される現代版の「祭り青年」組織とでも呼ぶべき組織であるトライズ・カンパニーは、伝統的な村の組織原理・価値原則とは明らかに異なる組織原理・価値原則に依拠しているが、彼らは地域を意識していない訳ではなく、従来とは違う形で「地域」の意味を追求しているものと判断される。要するに、現在の山形村で展開する社会的活動を通して考えられている「地域」は、伝統的に継承されてきた地域の要素を受け継ぎながらも、さらに進んで「新たに創り上げていく」対象としての側面を強く持っているのである。こうした活動が「地域」の創出を指向していることは、現段階では活動の積極的な担い手が旧住民中心であるとしても、潜在的には新住民をも取り込んでいく可能性が開かれていることをも示唆しているといえよう。そのようなダイナミクスを内に含んだ「地域」活動であればこそ、以下で論じるように、多様な展開への動きが認められるのである。
3.「地域」活動の広がり
前節で指摘したような「地域」活動の具体例として、本稿ではホワイトバランス会とトライズ・カンパニーを取り上げる。しかし、こうした「地域」活動が、具体的にどのような社会的広がりの中で機能していくのかを考えるために、ここではまず、「地域」の創出という観点からみて示唆に富む一つの事例として、YCSが1990年に自主制作した『水色山路』というテレビ・ドラマをめぐる行政側と住民との共同作業を紹介しておきたい。そもそも、CATVによるドラマの自主制作が全国的にも前例のない画期的なことであり、ドラマづくりの企画自体が様々なマス・メディアに話題として取り上げられ、CATV関係者の注目を集めた21)。こうした背景もあって、ドラマ『水色山路』は1991年の日本ケーブルテレビ大賞番組コンクールで審査員特別賞を受賞した。
この作品は、ふるさと創生事業の一環として作られた漫画作品『水色山路』22)を、若い頃に地域での演劇活動に熱中していたS氏が監督し、ホワイトバランス会などの協力によってテレビ・ドラマにまとめ挙げたものである。『水色山路』制作過程についてここでは詳述しないが、この試みが山形村に対してもった意義、とくにその後のトライズ・カンパニーという組織の誕生、その組織による新たな形での「地域」活動の試みに対してもつ意義は、外部からの観察者である我々の目にも明かであり、当事者たちにもかなり明確に意識されている23)。
『水色山路』のストーリーは、東京に住む若い女性が3年前に死んだ父親が大切にしていた道祖神を通じて山形村と出会い、そこでの人々との交流の中で都会では失われてしまった大切なものを見つけるという内容である24)。明らかにこの作品は外部に対して山形村をアピールするという意図を持ったものであるが、関係者への聞き取り調査を通じてわかったことは、外部に対するアピールと共に、ドラマ制作過程で多くの村民たちが共同で一つのことを行ない、素晴らしい作品を自分たちの手で作り上げることが出来た(「皆で一緒にやったことによって、村が一つになった」)ことへの満足が、『水色山路』への評価として大きな位置を占めているということであった25)。
監督のS氏も、『水色山路』の前までは村は「とても静か」であったが、これを契機としてトライズ・カンパニーに代表されるような新しい活気に満ちた運動が起きてきた、と我々の聞き取りに対して答えてくれた。『水色山路』の試みは、行政側のNe氏の積極的な働きで可能になった側面が強い。そのNe氏によれば、「新住民・旧住民問題」に象徴されるような近年の山形村の社会状況の変化の中で、村民たちに自分たちが住んでいる山形村の素晴らしさを今一度知ってもらいたいとの想いのもとに、『水色山路』の一連のプロジェクトを打ち上げたと、のことであった。しかしながら、このような試みが行政側からの一方的な働き掛けに終わってしまうのではなく、それに対する住民側の積極的な参加が見られ、行政と住民との協力関係の中で『水色山路』が作られていったことは、『水色山路』の内容と共にその制作過程そのものが、山形村の人々が『水色山路』において目指していたものにほかならないといえる26)。
前節でも指摘したように、現在の山形村が置かれた経済的・社会的・文化的諸条件の中で、将来に向かって新たに創出されていく「地域」という問題は、伝統的に継承される現状としての地域の問題以上に、様々な次元において様々な人々にとって、意識的にせよ無意識的にせよ、重要な位置を占めているものと判断される。少なくとも、そのような意識を共有した、潜在的な地域社会への積極的な参加者たちは少なくなかったはずである。『水色山路』を一つのイベントとして捉えてみると、このイベントの意義は、住民の曖昧な形で存在した不定形な「地域」への指向に、個人の意識のレベルでも、集団としての活動のレベルでも、具体的な形をとる機会を与えたことにあった。聞き取りの中でも、『水色山路』を契機として、意識を新たにした人や、社会活動のネットワークに飛び込んだ人もいた。また、一つの活動のモデル・ケースとして、『水色山路』の経験は、いわゆるアイス・ブレーカー(「氷を砕くもの」の意)の役割を果たしたといえるのである。こうして、このイベントは、既に存在したホワイトバランス会の活動を刺激を与えるとともに、トライズ・カンパニーへの道を開き、村内全般のモラール(士気)向上に寄与した。これに対して、一時的なイベントとしてではなく、継続性をもった組織として、「地域」指向を体現しているのが、ホワイトバランス会とトライズ・カンパニーなのである。
ホワイトバランス会とは、村が運営するMPIS施設=CATVであるYCSからの呼びかけに応じて組織された、民間のボランティアからなるアマチュアの番組制作集団である。結成後に名称がつくまでは、「CATV協力者会」と仮称されていた。ホワイトバランス会は、YCSの自主放送チャンネルに自主制作した番組を定期的に供給したり、YCS制作の季節行事的な中継番組に協力して制作・出演などに人手を動員するなどしながら、YCSの自主放送を支えている。しかし、CATVの自主放送へのアクセスならば、他の地域にも見られるし、またビデオ番組を制作するアマチュアのビデオ・カメラマンは日本全国に数多く存在する。それゆえ、以上の二点だけでは、ホワイトバランス会の特徴を述べたことにはならない。むしろ、ここで考察すべき問題は、このような住民による番組制作組織の活動を成立せしめている大きな要因としての「地域」なのである。
ホワイトバランス会が成立している基盤を考える上で、まず第一に押さえておくべきなのは、施設の提供者である行政側(山形村)当局が、MPIS施設導入に際して早くから「地域」との関連においてCATV自主放送を中心的なものとして位置づける確固たるビジョンをもっており、また、事前の調査・検討の段階で住民による「協力者会」の編成を構想に組み込んでいた、という点であろう27)。一般に行政当局がMPIS施設を運営する場合には、広報活動の一環と位置づけられることが多いが、元々山形村では、自治体としての規模の小ささも手伝って、制度的な広報への指向は強いものでなく、以前には公民館報が自治体広報の機能を兼ねるという状況もあった28)。こうした状況は、伝統的に長野県地域において公民館活動が盛んなことと無関係ではないが、いわゆる自治体広報に比べると、公民館報は住民参加の色彩が強くなりやすい。CATVの導入とともに、行政広報の一環として自主放送チャンネルを位置づけていく過程で、いわば公民館報的な自主放送チャンネルのあり方が構想され、「協力者会」の導入なども組み込まれやすかったのであろう。行政情報のみならず、より広い意味での地域の情報を提供するメディアとして、公民館報と同様の機能を、映像の利点を活かしてより効果的に発揮するものとしてCATVは捉えられていたのである。
技術的可能性としてのメディアが具体的にどのように実際の社会において用いられるようになるかには、メディアに対する人々の社会的認知の仕方が大きく影響を与えるものである。この地域において活字メディアとしての公民館報が地域社会に深く受け入れられていた事実は、その後のニューメディアであるCATV自主放送のあり方にも密接に関係している。この地域での公民館活動の伝統が、ニューメディアの利用のされ方に影響を与えているという事実は、先に述べた近年の山形村の「地域」活動活性化の契機ともなった『水色山路』の制作者の中核を担ったホワイトバランス会のメンバーの幾人かが、かっての公民館活動の館報の編集などに係わっていた人々であることからも、伺い知ることが出来る。
もちろん、CATVの自主放送を村民の「統合」に用いようとの行政側の思惑は、あくまで「送り手」側の論理である。また、ニューメディアであるCATVを地域の活性化・統合化に利用しようとする試みは、何も山形村の事例に限らず、他の地域にも見られる。しかし、山形村の事例は、このような「行政側の思惑」が、現況を見る限りでは相当にうまく運んでおり、成果を上げていると判断される点で、注目に値するといえるのである。こうした成功の背景には、もちろん行政側の熱心な取り組みもあるが、それ以上に重要なのは、行政側からの呼びかけ(「地域」メディアとしてのCATVの利用)に応じた、住民側からの積極的な反応である。行政側からの地域活性化の試みが、結局のところ「笛吹けど踊らず」的な状況に陥る場合の多い昨今の地方の状況とは異なり、吹いた笛に呼応して、住民が主体的に踊っている姿が山形村の現在のあり方といえるのではないだろうか。
同様なことは、若年層からなる地域活性化のための集団であるトライズ・カンパニーに関してもいえる。先に論じたように山形村周辺の地域では、ベッドタウン化が進行するに伴って、若者の数はむしろ増加しているのに、「祭り青年」が崩壊し、若者を組織化する集団が成立し得なくなっているという社会的問題状況が生じている。このような近年の状況に鑑みて、行政側から新たな形での若者集団、いわば現代版の祭り青年組織を作ろうとの意図の下に組織化されたのがトライズ・カンパニーである。組織成立の細かな経緯に関しては後述するとして、ここで押さえておきたいことは、ホワイトバランス会の場合と同様に、この集団の成立に際しても最初にイニシアティブを取ったのは行政側の人間であったという点である。行政側の積極的な人物(総務課Ne氏)の働き掛けに応じる形で生まれたのがトライズ・カンパニーなのである。
このような両組織の成立の経緯を考えると、それらは住民側からの積極的な参加に基づくボランタリーな組織ではなく、むしろ行政側から作られた官製組織ではないかとの疑問を多くの人が持つであろう。もちろん、将来における両組織の運動の展開方向を考えてみた場合に、行政側からの指導・介入が地域の住民の自由意志と乖離し、その結果として組織活動が今とは違ったものになっていく可能性を否定することはできない。しかしながら、聞き取り調査や参与観察を経ての現時点での我々の判断では、ホワイトバランス会も、トライズ・カンパニーも、ともに行政側との「健全な距離」とでもいうべきものを維持しており、そのことが単に行政側の指導による地域活動とは違った、住民側の積極的な参加に根ざした活発な「地域」活動の担い手になることを可能ならしめているように思われる。
このような行政側のイニシアティブに起因するものの、それが住民側のニーズとかけ離れ、活力を欠いた官製の地域活動になってしまうのではなく、呼びかけに対する積極的な対応によって、活力ある「地域」活動になっていることの何よりの理由は、やはり山形村に生きる人々に「地域」への愛着が、意識的・無意識的な形で共有されているからであろう。そのことは村が実施した全世帯への意識調査29)。の結果が示しているように、多くの人々が将来にわたってこの土地に住み続けたいと思う(69.1%)など、地域としての山形村に対するコミットメントが高いことからも判断できる。同じ意識調査の結果から、「地域活動は村の住民と行政とが協力し合って進めていくべきである」と考える人が多い(44.8%)ことも明かになっている。このことも、山形村での行政のイニシアティブに端を発する「地域」活動が、官製のものに終わるのではなく、住民側からの積極的な参加による活動に展開していく理由の一つとして、考えることが出来よう。
こうした視点から考えると、ある意味では大学生のサークル活動にも似た、若者の自由な集まりであるトライズ・カンパニーの活動が、単に自分たちの好きなことだけをやるのではなく、他のメンバーのことも考えに入れ、さらには意識・無意識の内に他の人々との関わりとしての「地域」をも考慮したものとなっていることは、非常に興味深い。我々部外者の目から見ると、トライズ・カンパニーの活動には色々な形で「地域」が意識されているが、当事者自身にはそのことは必ずしも明確には意識されていない。しかし、それは彼らの活動が「地域」と関係が希薄なことを意味するものではない。むしろ、彼らの「地域」意識(あるいは、「地域」無意識)は、彼らの活動が、一種の義務感を帯びた形での「地域」活動に陥ることを防いでいるものとして、肯定的に捉えるべきものなのである。トライズ・カンパニーの面々は、第一義的には自分たちがしたいこと、楽しいことを追求していきながら、その過程で自然な形で「地域」という要素を活動に取り込んでいる30)。そして、それを可能にしているのは、住民に広く共有された「地域」へのコミットメントに外ならない。
こうした状況を踏まえて、比喩的な言い方をすれば、「地域」とは空気のようなものである。濁っていたり希薄であるときには人々はそれを意識し、不平を述べるが、それが澄んでおり豊かに存在しているときには、別段取り立てて意識したり、そのことに感謝したりすることは無いのである。
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長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動
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