私的ページ:山田晴通
[年記]:2005年を振り返る
2005年は、新たに始まった仕事もあり、忙しくなってきた年でした。それなりに成果も出すことができたので、まあまあよい年だったのでしょう。しかし、相変わらず、ポカから取りこぼしという、というパターンが時々起こっています。後始末に追われることになり、結局は自分で自分の首を絞めているわけです。
以下、例年どおり、「十大ニュース」を列挙するという形で2005年を振り返ります。
- 視力の衰えを痛感(通年)
年相応と言ってしまえばそれまでなのだろうが、ここにきて視力の衰えを強く感じるようになってきた。秋の眼科検診の時は、たまたま調子がよかったのか、そんなに悪い結果は出なかったのだが、普段は疲れが先ず目に来る感じになっている。これまで他人より少しばかり目がよいことで随分得をしていたので、視力の衰えはなかなかつらい。
- 「リカちゃん」のコレクションに入れ込む。(〜8月)
もともと、ここ数年少しずつ関心を広げてきてはいたのだが、いろいろきっかけがあって、「リカちゃん」人形のコレクションを一挙に加速させた。ターゲットは、タカラと他企業とのタイアップで作られる「ダブル・ネーム」ものである。そして、最後にオークションで大物(ANA 50周年記念CAリカちゃん 8体セット)を入手して、ひと区切りをつけた。およそ半年とちょっとで、数十万円をこの趣味に投じたことになる。思い入れのあるものはわざわざ出向いて受け取り、和歌山や福岡にも足を運んだ。
- ハードロックカフェ(HRC)で「熊狩り」を始める。(8月〜)
ふとした偶然から、HRCのパーティーベアを7月に入手した。これ以降、月ごとに新作が出るこのミニベアを入手すべく、平日にパーティーをする「熊狩り」を始めた。日程を合わせてメンバーを集めるのは、ひと苦労なのだが、それも楽しみの内ということだ。
[Party Bear Present !]
- 弘前へドライブ。(11月)
日本ポピュラー音楽学会が弘前で開催された。当初は新幹線を使って八戸経由で行くつもりだったのだが、諸般の事情で車に3人が乗り込んで、しかも酔狂なことに高速道路は使わないという方針で行くこととなった。ドライバーは私ともう一人。途中で仮眠をとったり、観光したりしながら、それぞれ片道に丸々一日をかけるの往復だった、往路に通った盛岡から秋田県をかすめて弘前までのルートは、紅葉が素晴らしかった。宇都宮の餃子は往復とも堪能し、ほかにも青森の寿司、仙台の牛タン塩焼き、喜多方のラーメンと、美味しいものをいろいろ食べた。
- 竹内啓一先生のご逝去と、追悼行事への参加。(6月〜)
学生の頃から、様々な形でお世話になることが多かった竹内啓一先生(一橋大学名誉教授、駒澤大学名誉教授)が、6月25日に亡くなられた。10月に行われた「偲ぶ会」では、呼びかけ人の末席に名を連ね、裏方を務めた。
[竹内啓一先生逝去(駒澤大学地理学教室)]
- 「のまネコ」問題にはまる。(9月〜)
- 体重がリバウンド。(8月)
昨年からの一時期は83キロ前後で安定していた体重が、なぜか8月に急増し、90キロにまで達してしまった。慌てて食事を気にし始めたのだが、87キロくらいからは下がってくれない。加齢とともに体質も変わって、基礎代謝が落ちているのだろう。
- ゴーギャン夫妻にアテンド。(12月)
とりあえず、相当すごい人らしいジョセフ・ゴーギャン教授(カリフォルニア大学サンディエゴ校)夫妻にアテンドして、銀座の安い居酒屋で食事をしたり、美術館巡り(原美術館、庭園美術館)をした。ギンズバーグやケージを生で知っている人だけに、即興演奏の話などを興味深く聞いた。
[Joseph Goguen:今はもう少しおじいさんぽくなっている感じ]
- ソウルへ行くも、当てはずれ続き。(3月)
将来の研究に向けた資料収集のためソウルへ出かけたのだが、あてにしていた書店が無くなっていたり、同行者が次々順番に体調を崩したりして、予定していた作業がほとんどできなかった。最後の帰国直前には、それまで唯一ピンピンしていた自分まで体調不良になって動けなくなった。自分だけ平気でいる、という状況に精神的に耐えられなかったのかもしれない。
- 和食系の居酒屋探しに悩む。(通年)
国分寺のみならず、これまで出かけた和食系の店で最高に居心地のよかった「かや乃」が、2004年の末に閉店してしまった(今にして思えば、2004年の十大ニュースに入れるべきだったと思う程の一大事だった)。今年に入ってから、和食系の店で波長が合う所を探して、いろいろ放浪する機会が増えた。国分寺駅周辺のビルにはいろいろ居酒屋が入っているのだが、結局なかなかよい所は見つけられないままである。比較的よく利用するのは、以前、交差点の所のジョナサンと同じビルにあったのが移転して、内容ががらっと変わった「魚民」だが、これはあくまでも消極的選択の結果である。お勧めの店の情報歓迎。
- 16年ぶりに査読論文が掲載される。(8月)
日本地理学会の学会誌『地理学評論』8月号に「オーストラリアの地方都市アーミデールにおけるコミュニティ放送とナローキャスティング」が論説として掲載になった。形式的な査読にとどまる学内学会誌は別として、学会誌の査読論文は16年ぶりだ。つまり、東京経済大学に移ってから初めての学会誌査読論文というわけである。地理学評論への査読論文としては、1986年の2月号以来、19年半のブランクがあったことになる。どうやら、私が査読論文を発表する時期は、日本経済のバブルと重なるようだ。
- 研究室の留守番体制が強化される。(4月〜)
博士課程の院生の川島君は、これまでも研究室の留守番役をよくしてくれていたのだが、今年はTAとしての仕事を回せたこともあり、従来よりも長時間、ボランティアで研究室にいてもらえるようになった。私がいないときに研究室に電話して、川島君に応答された人は少なくないはずである。
[THE★KAWASIMA'S LABORATORY@WEB]
- 「学界展望」に執筆。(7月)
人文地理学会の学会誌『人文地理』の「学界展望」から初めて声がかかり、「学史・方法論」を担当した。必ずしも(細分化された意味での)専門ではない分野だったが、自分なりのスタイルを出して書けたのではないかと思う。
- パソコンを次々と購入。(1〜2月)
研究室では、マックを中心に複数のラップトップやデスクトップ機を使っているのだが、2004年度はそこまで節約した?成果で、1月にiBook G4を個人研究費で買うことができた。さらに、2月にはiMac G5を、研究室に割り当てられた別予算で買った。白っぽいラインナップが入ったというわけである。ちなみに、2005年度に入ってからは周辺機器の更新が進んでいる。
- パソコンが次々とクラッシュ。(7月前後)
研究室では、マックを中心に複数のラップトップやデスクトップ機を使っているのだが、どういうわけか7月頃にクラッシュが続き、研究や業務関係のデータが部分的に失われるなどして、対応に追われた。ここ数年使っていた、PowerBook G4を含め、ラップトップ機2台が、最終的におシャカになり、さらに1月に導入したiBook G4までが、クラッシュしたのである。ここ数年、研究室のシステムの面倒を見てもらっている某君の活躍で、かなりのデータが復旧できたが、改めてマーフィーの法則(だったかな)「悪いことは、起こるとすれば、一番悪いタイミングで起こる」を実感した次第。
- 大スランプを何とか脱出。(通年)
2003年の夏休み頃から2004年の冬まで、論文が書けない大スランプで、2004年は論文ゼロになってしまった(以上は昨年の「十大ニュース」の一つ)。昨年末頃から今年に入り、論文をぼちぼち書けるようになってきて、昨年のうちに原稿を上げていた『東京スタディーズ』の分担執筆をはじめ、今年に入ってから仕上げた地理評の査読論文、人文地理の学界展望が、次々刊行された。また、来年に入ってからの刊行に向けて、書評論文や翻訳が4件ほど並行して進んでいるし、その他にも少しずつ原稿を書けるようになってきた。調子が悪いときには、コツコツ翻訳をやるのが、ペースづくりに有効だった。何とか、この調子を維持したい。
- 明治大学大学院で地理学科目を担当する。(4月〜)
2003年度から、明治大学政治経済学部で地域開発論を担当していたのだが、2005年度からは、大学院文学研究科と文学部にも出講することになった。東京経済大学では大学院に地理学関係科目はないので、地理学について大学院で授業を担当する機会はこれまでも余りなかった(1990年度に東京大学、2000年度に法政大学で集中講義を担当しただけ)。今回の機会は大学院通年科目「人文地理特論I」の担当なので、はじめて(集中講義ではなく)腰を据えて地理学を講じることになった。
- JASPM会長として汗をかく。(通年)
ひょんなことから会長などと大それた肩書きがつき、小さな学会の会則の見直しや、財政の立て直しに、取り組んだ。総会ではほとんど議論もなく理事会の提案が承認されて一安心したが、まだまだ懸案は山積みである。
- 国際ポピュラー音楽学会ローマ大会に参加しそびれる。(7月)
ローマでのIASPMに参加するつもりで、昨年秋からエントリーをしていたのだが、発表が認められず、結局出張旅費もおりないので、参加を断念した。後で聞いた話では、昨年IASPMのコンピュータがクラッシュしたことがあり、折悪しくその時期に申込をしてしまったらしい。いずれにせよ、直前になって事情が分かったときには、もう学内手続きが間に合わないタイミングになっていて、結局ローマ行きを断念した。次回、2007年の大会は、メキシコ・シティである。
- テレビが壊れる。(10月)
研究室で愛用していた、1982年製のテレビが遂に壊れてしまい、音声しか聞けなくなってしまった。もともと、研究室関係者から譲り受けたものだったが、さすがに寿命なのだろう。すぐに新しいのを買ってもよかったのだが、何となく撤去と設置をおっくうがっているうちに、壊れたテレビが置かれたまま年末を迎えることになった。テレビは、いざ無くなっても、大して困らないということを実証したような気もする。
- 新聞の電話取材を経験。(10月)
新聞社の取材を(電話ではなく)受けたことは以前もあったし、テレビ番組制作会社のリサーチの人たちからはけっこう電話が来る。しかし、典型的な電話取材でコメントし、それが紙面に載ったというのは初めての経験だった。関心のある方は『東京新聞』11月3日付の「輝き放つ洋楽ロック懐メロ」という署名記事の最後の方を見て頂きたい。ただし、こうした記事にありがちなニュアンスの違いが生じている箇所もある。私は「実力派」という概念は使っていないはずなので、そのくだりは記者氏の判断であると思ってほしい。
山田が選んだ世間の「十大」ニュース
- バブル再燃の予兆。
ライブドアのニッポン放送株を巡る騒動から始まり、みずほと東証のチョンボで終わった一年だった。所詮は資本家同士の化かし合いの世界の話である。
- 福知山線脱線事故。
多数の死者が出たというだけでなく、JRの労務管理の非人間性が改めて浮き彫りにされたという意味で、重大な事件だった。年末の羽越線特急脱線事故では、「東日本よお前もか」と一瞬思った(でもこちらは本当に天災のようだ)。
- 郵政民営化「小泉劇場」選挙。
ファシズムの足音を聞き取るべきなのかもしれない。しかし、政治の世界が流動化してきたことは確かである。自民党は壊れないだろうが、確実に変質を余儀なくされている。
- ハリケーン「カトリーナ」。
やはり大天災なのだろうが、多分に人災でもある。軍の動員をめぐるごたごたやら、連邦政府(共和党の大統領)と州政府(民主党の州知事)の政治的さや当てやら、日本の方がまだまともな国であるように思えてくる報道ぶりが目立った。ファッツ・ドミノが救出されてよかったと思った。
- アスベスト被害の表面化。
同じ建物でも耐震強度問題のような、悪意の結果ではない。ある時代まであたりまえに、有用なものとして大いに使われていたものが、数十年の潜伏期間を経て多くの人の命を奪っているのだ。不気味であり、また今後の取り組みも息長く続ける必要がある。
- ロンドン爆破テロ。
五輪開催が決定した翌日、またその後も、同時多発の爆弾テロがロンドンを襲った。現場のほとんどが、歩いたことのある場所だっただけに、他人事とはとうてい思えなかった。
- 平成の大合併が大いに進む。
特定の年のニュースとしにくいテーマだが、今年は大合併が最高潮という感じで、見慣れない地名が増え、困惑することが多かった。長野の自宅も、合併で10月から安曇野市になった。
- イラク情勢の泥沼化。
選挙で政府ができても、テロが日常茶飯事という事態は続く。泥沼化したのは、開戦の根拠が虚偽だったと認める羽目になった藪大統領も同じ。
- 鳥インフルエンザの脅威。
これも、徐々に話が積み上げられてきており、特定の年のニュースという感じではない。しかも、理屈は分かるがSF的な感じもするし、スイスの製薬会社の陰謀のような気がしなくもない。しかし、人類がいつの時代にも新たな疫病に直面してきたのも事実であって、やはり脅威は脅威である。
- 「監禁王子」事件。
今年は、小学生の殺害事件などショッキングな事件が多かったが、いかにも現代的なこの事件が一番印象に残った。「合意の上での躾けはしました」という文句がぽんと出てくる犯人は、獄中で結婚、離婚し、姓をまた変えた。
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