私的ページ:山田晴通
[年記]:2002年を振り返る
今回は「年記」を始めて以来の大幅な遅れで、1月18日〜19日にまとめました。この先が、思いやられます。
例年どおり、「十大ニュース」を列挙するという形で2002年を振り返ります。
- 家族揃ってオーストラリアで過ごす。(〜3月)
一家4人で過ごしたオーストラリア滞在だったが、最後の2週間は義母もシドニーへ来て、ふだん一緒に住んでいる家族全員が揃った。帰国後は、また、あまり家に帰らない生活に戻った。
- ピッチを持つ。(12月)
いよいよ立場上のこともあって、連絡が取れるようにと携帯電話を持つことにした。一番、安上がりにしたいと店に相談して、結局は携帯電話ではなくPHSを持つことになった。操作がさっぱり判らないので、学生に電話帳の管理をやってもらうような調子なのだが、今後どうなることやらである。
- 娘が「スレイヤーズ」にはまる。(通年)
シドニー滞在中に見つけたビデオがきっかけで、娘がしっかり「スレイヤーズ」マニアになり、今さら関係書を集めたり、CS放送でアニメを繰り返し見たりと、はまりきっている。ご本人はアメリアのつもりらしい。ということは私はフィル王子???
- 歌謡曲史に浸る。(4月〜)
国立音楽大学での授業準備を契機として、昭和初年からの歌謡曲資料を聞くようになり、授業と離れたところでも、昭和初年から戦後まで広く流行歌〜歌謡曲を聞くことが多くなった。以前に購入していたダイセルのセットのほか、コロムビアの20枚組、最近の「青春歌年鑑」シリーズを揃えて悦に入っている。
- ブッシュファイアを見る。(1月)
シドニー滞在中に、大規模なブッシュファイアがあり、一時は大学の近くでも火の手が上がって、自宅への送電が一時停止したりもした。しばらくして焼け跡を見に行き、山火事の猛威と、自然の復元力あるいは更新力を目の当たりにした。
- 息子が受験生になる。(通年)
オーストラリアで語学学校に通っていた息子は、帰国後、学籍を残していた高校から地元の通信制に転校し、大検を受けることになった。大検の科目合格と通信制での単位取得で受験資格を得て、大学受験の準備を進めている。
- 娘が中学生になる。(4月)
娘は前年末にオーストラリアで小学校を卒業し、帰国後3月に日本でも小学校を卒業して、中学校へ進んだ。本人は相変わらずのマイペースである。
- 妻がサーティフィケイトを取得。(3月)
オーストラリアのマコーリー大学で、英語教育学(TESOL)のサーティフィケイト(大学院で半年分学んだことの証明)を取得。久々の学生生活で大いにリフレッシュした様子。
- 東京私大教連中執に復帰。(11月)
2年前に退任した東京私大教連の中央執行委員に、復帰することになった。専従のメンバー以外は、以前とは顔ぶれが入れ替わっているが、権利闘争関係など運動の中で既知の方々もいて心強い。権利侵害事案の拡大にも明らかなように、私大の置かれている環境は以前より一層厳しくなっている。
- 集中講義で舌鼓。(9月・11月)
岩手大学の集中講義(9月)の際には盛岡で、くらしき作陽大学の特別講義(11月)の際には倉敷と岡山で、それぞれ実に気持ちの良い店に出会った。今年は美味しい店によく当たったと思う。
- 「入江敏夫先生を偲ぶ会」の準備に関わる。(11月)
2月に亡くなられた名誉教授・入江敏夫先生の「偲ぶ会」を11月に実施するため、実行委員の一人として準備に参加した。この機会に、改めてシニアの先生方とお話しする機会を持ったことは幸いだった。
[「入江敏夫先生を偲ぶ会」について]
- 「サバティカル」期間を無事終了。(〜3月)
国外研究員(中期)としてのオーストラリア滞在を無事終了し、帰国した。4月からは元の忙しい生活に戻ったが、研究成果を出すのに少々手間取っている。
- 一年生ゼミで新しい取り組み。(4月〜7月)
コミュニケーション学部では、以前からずっとフレッシュマン・ゼミをやっているが、今年は、経済学部でも新たに「フレッシュマン・セミナー」が実施されることになり、他学部所属教員としては唯一お手伝いすることになって2コマを担当した。また、コミュニケーション学部の方では、自分としては初めての試みとして村山校舎での合宿(6月)を行った。たまたま同宿になった韓国・培材大学校の学生たちとの交流なども行った。
- 週6日の授業担当。(9月〜)
国外研究から戻り、授業担当も以前の水準(他人より多め)にもどったが、後期にはいるといろいろな事情が重なって、月曜日から土曜日まで毎日授業がある体制になってしまった。毎日1〜2コマとはいえ、日曜日しか休みがないのは、結構不自由だった。
[週間時間割 2002年度・後期]
- 国立音楽大学の教壇に復帰。(4月〜12月)
国外研究から戻り、国立音楽大学での非常勤講師の仕事に復帰した。今年は、大学院の授業がなく、学部での「音楽学講義」と「ポピュラー音楽研究」の2コマだったので、後者は日本のポピュラー音楽の歴史にして授業を展開したが、準備は結構大変で、また勉強にもなった。
- 「バートン・クレーン」の資料集めに取り組む。(6月〜)
論文を書いているときに、次々と資料が出てきて、新たな展開があり、「呼ばれている」感じで書き進めることができることが時々ある。今年は、昭和初期の外人歌手「バートン・クレーン」について調べたときがそんな感じだった。日本ポピュラー音楽学会関東地区例会でも報告し、原稿を仕上げた。刊行は2003年初めになる。
- オーストラリア再訪。(8月〜9月)
半年以上滞在したオーストラリアから帰国した後、改めてコミュニティFMへの聴き取りに絞ったテーマで学内の研究助成得て、オーストラリアへ再渡航した。シドニー周辺のほか、地方小都市であるアーミデールを訪問して、ラジオ局などを訪問した。
[シドニー再訪旅日記]
- 国際地理学会議地域集会に参加。(8月)
国際地理学会議地域集会に参加するため南アフリカ共和国の港湾都市ダーバンへ行き、研究グループで発表をし、街を見て回った。また、式典ではネルソン・マンデラ氏の生演説を聴いた。南アフリカへの途中に立ち寄ったシンガポールも印象深かった。
[発表の英文要旨][ダーバン〜シンガポール日記]
- 英国でのフィールドワークを始める。(10月〜11月)
参加している研究会が科学研究費を受けることになり、英国で都市文化関係のフィールドワークを始めることになり、手始めにロンドン、バーミンガム、グラスゴーなどを訪問する。今後も時々(年に2回ほど)渡英することになりそうだ。
- 書類の山が山体崩壊。(10月〜)
研究室で、書類の山が大規模な山体崩壊を引き起こし、その後も書類が散乱した状態のまま、年を越すに至った。嗚呼。
山田が選んだ世間の「十大」ニュース
- 長野県議会の知事不信任と知事再選。
日本の地方自治史に確実に残るドタバタ劇。この前後の時期には長野県内のローカル紙をよく読んだ。
- サッカーW杯で日本が予選リーグ突破。
戸田のような選手が注目されるというのもよいですね。決勝トーナメントで勝とうなんざ十年早い。次のドイツが、日本のサッカーにとって本当の試金石になるのだろう。
- 小泉訪朝〜拉致被害者5人の帰国。
北朝鮮の体制については以前から関心があり、また被害者とは世代も近いこともあり、帰国できたことは、まさに奇跡的だと思う。
- パレスチナ情勢悪化。
もはや危機が恒常化しつつあるが、アラファトが自治政府庁舎に軟禁されるなど、今年の事態はこれまでになく厳しいものだった。
- 秘書給与がらみで議員辞職が続く。
秘書給与のネコババなんてことで議員辞職とは、それぞれに無念だろうが、もっと大きな公金の私物化にはメスを入れることができないというのも情けないことだ。
- 欧州通貨統合。
まだ、現物は見ていないが、ユーロの流通開始で欧州はいよいよ一つになって行くのだろう。
- 住基ネット始動〜不接続なども。
そのうち、「マックス・ヘッドルーム」の世界のように、「ブランク」(自らの公的記録を消去するハッカー)が出てくるようにもなるのだろうか。
- 「脱北者」の駆け込み事件等が頻発。
「北」の苛烈な体制、支援NGOの関与、日本の在外公館のお粗末な対応ぶりと、いろいろなことを考えさせられた。
- 「田中さん」のノーベル賞受賞。
小柴先生には申し訳ないが、ニュース性といえば田中さんである。政府の運動とは無関係に、隠れた仕事が評価されたというところがよかった。
- 「疑惑の総合商社」ついに逮捕。
とはいえ、いずれ選挙で「みそぎ」を済ませて、国会には出てくるのだろうが。
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