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シドニー再訪旅日記:2002年8月19日〜9月8日


 今回の旅行は、最初の一週間は妻との二人旅、その後の二週間は単独の調査旅行でした。滞在期間中、1ドルは、70円くらいでした。
 この日記は、書き溜めておいたものを、事後的に整理して編集したものです。
■ 2002/08/19 (Mon)
渡航
大学でばたばたと仕事を片づけ、というより、片づけようとして片づけきれないまま、午後4時に大学を出発。JRを乗り継ぎ、錦糸町から乗り込んだ快速エアポートの車中で妻と合流、成田空港へ向かった。
3月に帰国して以来の第二ターミナルで出国手続きをして、そのまま搭乗。機中は、比較的空いていたが、座席の位置の関係で、数席分を占領して寝るようにはならず、足の位置を高めにして休む。
■ 2002/08/20 (Tue)
5ヵ月ぶりのシドニー
無事シドニー空港に到着。5ヶ月ぶりである。
電車で中央駅(シドニー・セントラル)へ行き、ロッカーに荷物を預ける。身軽になったところで、バスでロックスに向かう。ツーリスト・インフォメーションがまだ開いていなかったので、近くのカフェで一休みする。9時を回ってインフォメーションは開いてから、ホテルを手配してもらい、ウィンヤードのメンジース・ホテルに泊まることになった。インフォメーションの隣のカドマンズ・コテージにある国立公園協会のオフィスで、明日のフォート・デニスン行きの予約をする。
バスでウィンヤードへ行き、ロウズでカーディガンを買う。今回は、長袖のシャツも上着も持ってきていなかったので、とりあえず、唯一の長袖である。19ドル95セント。コモンウェルス銀行で口座の解約手続きをとる。1000ドルほどが残っていた。妻もここで小遣いを両替した。
そのままホテルに向かったのだが、ホテルの手前にあった、ジャパン・ブック・プラザがシドニーから撤退する旨のお知らせを残して閉店していたのに少々驚く。
メンジース・ホテルにチェック・イン。10時近くになっていた。1009号室。二人一部屋で110ドルは、このクラスのホテルとしては安いが、部屋は窓の外が向かいのオフィスという具合で、ずっとカーテンを引いておかなければならない。バスタブがあるのはありがたい。
部屋にパソコンなどを入れたリュックを置き、歩いてセンターポイント(AMPタワー)のレストランの予約をしに行き、さらにQVBで11時半からのウォーキング・ツアーの予約をする(妻のみ参加)。いったんホテルに戻ってから、11時半のツアーに間に合うように11時過ぎにホテルを出る。妻がツアーに参加している間に、中央駅へ行って荷物を取り出し、ホテルに戻り、ちょうどツアーが終わる12時半頃に、待ち合わせたジェット・カフェに到着する。
妻がやってきて一緒に昼食。そこで、ボンダイ・ビーチへ出かけてみることにする。電車でボンダイ・ジャンクションへ行き、ターミナルで「半年くらいじゃ余り変わらないね」という話をしつつバスに乗り、角を曲がったとたん、建物がひとブロック丸ごと壊されている最中なのに出くわした。オックスフォード・ストリートを挟んだ反対側の、バス停が並ぶ辺りの店も、軒並み改装中になっている。ともかくノース・ボンダイ行きのバスでビーチへ到着。スイスグランド・ホテルへ行き、宿泊料金を尋ねる(かなりリーズナブルに値引きした価格を示してくれたが、結局、予約せず)。近くにあった、焼鳥屋の「トリヨシ」が潰れているのを見つける。前回の滞在の時に、この店のTシャツを買っておいてよかったと思った。
道をとって返して、南へ進み、ホテル・ボンダイに妻がいる最後の2泊(24日と25日の晩)の予約を入れる。エレベータがぴかぴかの新品に変わっていた。
さらに南へ行き、マンボの店を冷やかす。隣の日本料理店「相撲」は、廃業したわけでもなさそうだったが、営業していない。さらに進んでジョーンズ・ザ・グローサーで一服しようと思ったのだが、何と改装中だった。今はシーズン・オフで、盛業中の店でも改装に入る例が考えられるとはいえ、知っていた店がなくなったり、姿を変えたりしているのを立て続けに目にして、少々驚いた。
結局、ボンダイではお茶を飲まないまま、バスでシティへ戻る。一眠りしているうちに、ハイド・パーク近くまでバスは進んでいた。マーチン・プレイスでバスを降り、歩いてホテルに戻る。しばらく部屋で休む。
タワーのレストランを7時30分に予約していたので、7時過ぎにホテルを出て、歩いて行く。AMPタワーのレストランは3層に別れていて、真ん中のビュッフェの層にしたのだが。たまたま日本人の中学生?の団体が来ていて、食べ物をとる列が長蛇になっており、閉口する。確かに夜景はすばらしい。ちょうど90分の食事時間で一周するようにできているのだが、ある程度シドニーの地理が頭に入っているおかげで、大いに楽しめた。しかし、料理は決してほめたくなるようなものではない。結局、一人50ドル近いビュッフェの料金は、タワーの入場料分が随分入っているということだろう。食事中に、カメラマンがやってきて写真を撮ろうというのも、まあ気にくわないので当然断ったが、若いカップルの客には、確かにサービスかもしれない。
なんのかんの文句を言いつつ、満腹になり、一応満足してレストランを出て、ホテルに戻る。
妻を先に休ませ、日本から持ち越しになっている仕事を少ししてから寝る。
■ 2002/08/21 (Wed)
フォート・デニスン見物
前夜、2時過ぎまで仕事をしていたせいか10時頃まで起きられなかった。フォート・デニスンへのツアーは11時半集合なので、11時頃部屋を出て、ウィンヤード駅のコールズで飲み物(ジンジャー・ビアーとミネラル・ウォーター)を買い、電車でサーキュラー・キーへゆく。
フォート・デニスンは、もともとピンチガットという名で知られた湾内の砂岩の島だったが、19世紀に砲台が築かれたところである。結局、実戦は全く経験しなかった幸運な砲台である。唯一、実戦らしき経験は、太平洋戦争中に日本軍の小型潜水艦がシドニー湾内に進入した際、米海軍の「シカゴ」という軍艦が発砲した弾が、この砲台にも着弾して、岩を少し削ったという事件だったそうだ。
ここで残された施設をひとまわりし、午後1時の時砲を鳴らし、食事をして、午後3時過ぎにきたフェリーでサーキュラー・キーに戻るという、なかなか面白いツアーだった。
ツアーは、3時半過ぎにサーキュラー・キーで流れ解散になったので、電車でタウン・ホールへ行き、QVBから288番バスに乗って、マコーリー・センター周辺へ行ってみることにする。まず、へリング・ロードとエッピング・ロードの交差点にあるザ・ランチ(旧エル・ランチョ)へ行き、22日と23日の宿泊を予約する。二人で110ドル(ただし朝食付き)と、ここは相変わらず強気の値段である。無事予約できたので、歩いてマコーリー・センターへ向かう。センターでは、一部の店の入れ替わりが目に付いた。結局ボーダースへ行き、妻が本を探している間に、ゆっくりコーヒーを飲む。
夕食は、ノース・ライド・センターのタイ料理店プララムへ行き、美味しい食事を堪能した。8時少し前に店を出て、288番バスでホテルに戻る。
風呂にも入らず、仕事を始め、結局また2時過ぎまで作業を続けていた。
■ 2002/08/22 (Thu)
ザ・ランチへ移動
目が覚めたのは9時を回ってから。チェックアウトが10時なので、とにかく風呂に入り、無理矢理目を覚まして荷造りし、ぎりぎりのタイミングでチェックアウトする。バスでウィンヤードからQVBへと移動し、ジェット・カフェでブランチをとる。
店に入るとき、この店のポスターに登場する、藤村俊二のような雰囲気の親父さん本人と思しき人物を見かけた。
11時過ぎの288番バスで、ザ・ランチへ向かい、12時少し前にチェック・インした。12号室。
荷物を降ろして、大学へ行くことにし、ホテルの前に出たら、ちょうど大学行きのバスが来たので、これに乗り込む。
音楽学教室へ行くと、事務員のAさんが相変わらず親切に対応してくれた。ややぶっきらぼうな技官のD氏も相変わらずである。結局、フェローだったときに使っていた部屋を開けてもらい、インターネットをしようと作業を始める。
妻は、自分が所属していた教育センターの様子を見に出かけたのだが、偶然途中でHさんと合ったということで、二人で戻ってきた。結局、思うようにインターネットにつなげることができなかったのだが、翌日会う予定だったHさんと一日早く会えたので、三人で教員クラブの食堂へ昼食をとりに行く。
結局、Hさんとは、食事をしながらいろいろ話をしてから、書店と図書館を一緒に回り、図書館のインターネット・コーナーで別れた。学食の近くの公衆電話を使って、妻は知人と観劇に行くことを手配し、こちらはアーミデールのニューイングランド大学を訪問する手配を済ませる。いったんホテルに戻って、パソコンを置き、少しうとうと寝る。
6時少し前に、荷物のない身軽な格好でホテルを出て、288番バスでQVBへ行く。妻と知人が明日観劇に行くステイト・シアターの場所を確認し、新しくリニューアルして、都心部に大きな店を構えるようになった紀伊国屋書店を見に行く。ここで妻に時間を潰してもらうことにして、電車で中央駅まで行き、来週後半のアーミデール行きの切符を手配してくる。ぎりぎりで一週間前割引になり、正価の4割引程度の値段で切符を買った。往復で94ドル60セント。
紀伊国屋に戻って妻と合流してから、レバノン料理を食べようということになり、中央駅の裏手を少し行ったところにあるプロフェットというこれまで何度か行ったことのある店へと向かう。電車で中央駅へ行き、歩いて店に着いたのは8時頃。結局、食べきれず、ほうれん草のパイをほとんど丸ごと持ち帰りにして、電車とバスを乗り継いでホテルに戻る。
ホテルの部屋から、インターネットへの接続にようやく成功し、この間にたまったメールを読み出す。その後、仕事の続きと思ったのだが、もっぱらこの日記を書いているうちに2時になってしまう。
■ 2002/08/23 (Fri)
グールズ詣で
7時に目覚ましで起床、まだぼんやりしているうちに8時になってルーム・サービスが来る。
朝食を済ませて、満腹になったせいか眠くなり、9時過ぎまでベッドに戻ってぐずぐず休む。
フロントで、ルーム・キー(2本目の方)のキーホルダーを取り替えてもらい、妻と一緒に歩いてマコーリー・センターへ向かう。郵便局などの用を足すためにセンターへ行く妻と、大学の入り口で別れ、研究室へ行く。
研究室のイーサネット環境も、接続できるようになった。これで、随分気楽になった。10時過ぎにHさんが来たので、彼女の原稿を見せてもらい、内容のことで少々議論する。そうこうしているうちに昼近くなって、妻が研究室に顔を出した。三人で、まず書店生協の店に行き、今年出たばかりのオーストラリアのメディアについての本などを買う。学食の前で、ダッフォディル・デイのピンなどを買い、そのまま、センターまで行き、シンプリー・ヌードルで昼食。シーフード・トム・ヤムを食べる。
食後、妻はホテルで休むというので、288番バスでホテルの前で下車する彼女にパソコン一式の入った重い荷物を預けて、HさんとQVBまで行く。
Hさんの用事につきあって、日本人や韓国人の学生向けの情報センターのようなオフィスへ行き、日豪プレスなどをもらい、さらにブリッジ・ストリートのアシアナ航空のオフィスへ行く。一通り用事が済んでから、メンジース・ホテルのロビーでお茶を飲みながら、情報交換の続きをする。月曜日までに完成原稿の形にして、再度見せてもらうことにする。
ウィンヤードから電車でチャツウッドへ行き、ここでHさんと別れ、駅で安い巻きずしを買って、545番バスで、元の家に近い交差点まで行き、さらにマースフィールド行きのバスに乗り継いで、5時半過ぎにホテルに戻る。ところが、ほんの僅かなタイミングの差で、妻は出かけた直後だった。彼女は、知人とステイト・シアターでミュージカル「キャバレー」を見に行くことになっている。
一休みしてから、6時過ぎに288番バスでQVBへ行き、ステイト・シアターでちょうど入場したところだった妻に声をかける。
終演まで3時間近くあるので、時間つぶしに本屋を回ることにし、まずバスに乗ってベイスメント・ブックスへ行く。ここは、建設中のビルの一階で営業しているとことだが、近くここでの営業はできなくなるらしい。日豪関係史の本を1冊買う。再びバスに乗り、ニュータウンの外れのグールズに行く。こちらは相変わらずの雰囲気だ。それでも、恒常的に本が散乱していたメディア論関係の本が並ぶ書架の辺りが、一応片づけられ、床にはほとんど本がない状態になっていた。ここではメディア関係の本を4冊買う。
バスでQVBに戻り、ウルワースで持ち帰る飲み物を買ってから、ジェット・カフェでお茶とケーキをとって、1時間ほど本を読む。10時半を少し回って、妻が戻ってきた。
288番バスでホテルに戻る。
最初は仕事に手をつけるつもりだったのだが、二日続きで仕事をせずに寝ることになる。
■ 2002/08/24 (Sat)
ボンダイからクローベリーまで
7時過ぎに目覚めた、妻はもう起きて読書をしていた。8時に朝食がきて、テレビでレイジを見ながら食べる。このところ、またリバイバルものが多くなっているのか、トップ50で、たまたま3曲続けてカバー曲が流れる。
チェックアウトして、288番バスでQVBへ行き、電車とバスを乗り継いで、ボンダイ・ホテルへ行く。103号室にチェックインし、荷物を置いて、11時半頃に妻と一緒に出かける。海岸沿いの遊歩道を南へ進み、タラマラからブロンテを経て、墓地の先のクローベリーまで行く。ここのシーソルト・カフェで昼食にする。2時少し前にミラーズ・ポイント行きのバスに乗り込み、終点まで行く。ミラーズ・ポイントからハーバー・ブリッジを歩いてミルソンズ・ポイントまで渡る。風が結構あったが、晴天に恵まれ気持ちのよい眺望だった。ミルソンズ・ポイントから電車でタウン・ホールへ戻り、歩いてヘイマーケットのマーケット・シティへ行き、妻はケン・ドーンのアウトレットでお土産を買い、こちらは新しくできていたマンボのアウトレットでTシャツを3枚買う。
バスで再びサーキュラー・キー経由でロックスへ戻り、4時を回って閉店し始めている店もあるロックスのマーケットを見て回る。その後で、ロックス・カフェに入って大きなブルーベリー・チーズケーキでお茶にする。ここでは、Tシャツとキャップも買う。
サーキュラー・キーからバスに乗ってボンダイ・ホテルに戻る。7時近くになっていた。
iBook を使おうとして、CDドライブが壊れているのに気づく。先日は、開かなくなって困ったのだが、今度は閉まらなくなったのだ。もしかすると、部品が破損しているのかもしれない。
8時過ぎに妻と部屋を出て、タイ・テリフィックへ行く。チャーハンと野菜スープ、シーフードの炒め物をとる。チップも入れて45ドル。妻は、エスニック系の味は苦手なことも多いのだが、ここの料理は適度にオーストラリア人向けにアレンジされているので、食べやすかったようだ。
夜は早めにテレビを消して、ベッドに潜る。例によって下のバーの音楽が響いてくるが、もう体は慣れているようで、すぐに眠れた。
■ 2002/08/25 (Sun)
ボンダイからクローベリーまで
朝は8時前に起きる。妻はもう起きて読書をしていた。
9時頃に、妻と一緒に部屋を出て、小学校の校庭でやっているマーケットを見に行く。まだ開店準備中という店が多かったが、妻はお目当てのものを入手できたらしく、すぐに引き上げる。そのまま部屋にも戻らず、サーキュラー・キー行きのバスに乗り、中心部へ行く。11時発のフェリーでサーキュラー・キーからマンリーへ行く。マンリーの埠頭一帯は改装工事中だった。コルソ(フェリー埠頭から外海のビーチへ続く商店街)をビーチまで行き、少し戻ってチャーリーズというカフェでブランチをとる。妻のとったカボチャのスープ(スープというよりペイストのよう)もたこのサラダも、美味しかったのだが量が多くて食べきれなかった。こちらがとったアメリカン・ブレックファストも結構ボリュームがあったので、妻の残した分を全部は食べきれなかった。満腹になって埠頭に戻り、12時45分のフェリーでサーキュラー・キーに戻り、そこで1時半発のパラマタ直行便のフェリーに乗り継いで、パラマタへ向かう。
パラマタでは、駅に近いウェストフィールドのショッピング・センターで少し買い物をしただけで、午後4時のフェリーに乗ることにする。途中で、以前2回ほど入ったコスモポリタンというレストランが、閉店して「FOR LEASE」になっているのを見つける。ウィンドウから覗いてみると、調度や什器備品から、ショーウィンドウの菓子(タルト?)まで、昨日まで営業していたかのように残されていて、ちょっと驚いた。パラマタを出る頃から小雨が降ってきたので、帰路は船室内にいたのだが、このルートは何度乗っても楽しい。
サーキュラー・キーに着いてから、昨日買いそびれた買い物があると妻がいうので、ロックスのケン・ドーンのブティックへ入る。妻が買い物をしている間、店に飾られていた油絵や水彩を眺める。水彩画が額込みで25万円というのは、もちろん強気の値付けだが、意外に安いかな、などと考える。油はさすがにその倍くらいの値段が付いている。もちろん当分は、自分の経済力では手が出ないのだが。
サーキュラー・キーからボンダイ・ビーチ経由でその先まで行く急行バスに乗り、ホテルへ戻ったのだが、ビーチで下車した時は雨が本格的になっていた。部屋に戻ると6時半近くになっていたので、一休みしてから食事に出ることにする。
8時頃、一緒に部屋を出て、昨日と同じタイ・テリフィックへ行く。チャーハンと野菜炒め、シーフードのスープと、今日もエスニック度の低そうなメニューを選んで食べる。チップも入れて40ドル。
いったん部屋に戻ってから、今ひとつ体調がよくない妻を部屋に残して、一人で、昨日見つけた古本屋へ出かける。リデル・ハートが書いたT・E・ロレンスの伝記を18ドルで買って戻ってくる。
■ 2002/08/26 (Mon)
妻が帰国
朝7時過ぎに一度目が覚めたが、結局9時近くになってようやくちゃんと起きた。
10時少し前にチェックアウトしようとしたのだが、今夜と明日の晩に入れてあるはずだった、シングルの部屋の予約が入っていないと言われる。そんな馬鹿なと思いながら、仕方ないので妻の分だけでなく自分の荷物もまとめて、雨の中、10時頃に宿を出る。ついていない一日になりそうだと予感する。
タクシーで空港へ向かったのだが、この運転手が機嫌が悪く、こちらには当たらないものの、交差点でのろのろしていた先行車に腹を立てたり、見ていてはらはらした。空港まで、チップ込みで35ドル。
空港で妻の荷物を預けて、一緒に電車でシティへ向かう。タウン・ホールで下車し、QVBで別行動することになる。ちょうど11時だった。夕方7時に空港の荷物預け所の前で待ち合わせる。
雨の中、歩いて安宿のCBホテルまで行き、シングル3泊をとる。一泊49ドルで、147ドルになる。ここは、部屋には電話はおろか電源さえない、まったくのバックパッカー用だが、立地がよいのでこの程度の値段になる。
不必要な荷物を置いて、バスを乗り継いでマコーリー大学へ行く。1時少し前に大学へ着いたが、音楽学教室のスタッフが出払っていて、研究室の鍵が開かない。講師のC氏に出会ったが、彼は鍵を持っていない。しばらく学内を散歩した後、昼休みが明ける2時過ぎに戻ってみたのだが、C氏が授業をしているものの、スタッフはまだ誰も戻っていない。仕方なく、5階のコモン・ルームへ行き、ここでパソコンを電源につないでしばらく作業する。3時過ぎに6階を覗きに行ったときは、まだ誰も帰ってきていなかったが、4時過ぎに再度行くと、D氏がオフィスに戻っていた。研究室を空けてもらい一安心。
ところが、インターネットへの接続にまた少々手間取る。作業の途中で、ボンダイ・ホテルに電話を入れて最後の一週間のシングル滞在を予約する。CBホテルとほぼ同じ一泊50ドルでちゃんとしたところに泊まれるのだから、ありがたい。そうこうしているうちに何とか接続ができるようになり、ようやくメールチェックができたときには、D氏が帰る5時近くになっていた。確認したいページがいくつかあったのだが、時間が足りなくなるのは必至だったので、断念する。
290番バスで大学からセント・レナーズへ行き、電車を中央駅で乗り継いで、6時10分頃に空港に到着。しばし、ロッカー前の一角で、日記を書く。安全上の理由でこの辺りのロッカーはいっさい使えないようになっている。
7時ちょうどに、待ち合わせていた荷物預かり所の前に、妻がやってきた。搭乗手続きを済ませてから、実際に出国手続きにはいるまで2時間ほど時間がある。その間、ロビーでお茶を飲んで話をする。結局、9時を少し回った頃、妻は出国手続きに入っていった。
電車で中央駅に戻り、歩いてCBホテルへ帰る。バッテリーがなくなるまで作業をして、12時頃に就寝。
■ 2002/08/27 (Tue)
原稿を書き、原稿を読む
朝は、7時台に目覚めたので、シャワーを浴びに行く。シャワーを出たところですぐ服を着ていなければならないというのはなかなかやっかいだ。しかも、タオル類はないので、自前のものを使わなければならない。それでも何とかしゃっきりとした気分になり、下着類も洗濯できた。
8時頃にホテルを出て、CBAAのオフィスへ、内容をチェックしてもらう本を預けに行く。結局、道を探しながら一時間ほど歩いて、ようやく目的地にたどり着いた。オフィスでは、先週出したメールでちゃんと話が通じていて、Jさんが対応してくれた。連絡を待つ旨を伝え、オフィスを出たところで、前回の訪問の際にお世話になったCさんとばった会い、挨拶する。
近くのバス停からバスに乗り、デイトリッパーを買う。13ドル40セント。レッドファーンから電車に乗り継いで、タウン・ホールまで行き、292番バスで大学へ向かった。11時頃に大学に着いたのだが、また今日も、部屋の鍵を開けてもらえるスタッフがいない。昨日同様、5階のコモン・ルームで作業の続きに取り組む。結局昼休みあけまで、そのままコモン・ルームに陣取っていた。2時過ぎに様子を見に行くと、D氏が自室に戻っていて、鍵を開けてくれた。
作業を仕上げ、インターネットでメールをやりとりし、また必要な情報を探してサーチをする。そのまま4時半頃まで作業を続け、ここのところずっと取り組んでいた作業に一区切りがついた(終了したわけではまだない)。
研究室を出て、マコーリー・センターへ行き、郵便局で切手、ウルワースで菓子類を買う。545番バスでチャツウッドへ行き、6時過ぎにHさんと合流。グロリア・ジーンズというコーヒー屋で、Hさんの論文原稿を読み、アドバイスをする。8時でそこが閉店時刻になってしまったので、ベトナム料理店に移動。食事をとりながら、原稿の点検を続ける。何とか学会誌の査読をクリアできるとよいのだが、あとはHさん自身の責任である。まだまだ遅くまでインターネット・カフェで仕事をするというHさんと駅前で別れ、電車でタウン・ホールまで戻り、歩いてホテルに帰ろうとする。既に10時になっている。途中で10時半まで開いているベイスメント・ブックスに立ち寄り、音楽関係の本を2冊ほど衝動買いする。
部屋に戻って見ると、案の定、シーツは交換されていなかった。まあバックパッカー用だから仕方ない。荷物を整理し、ハガキを書き、パソコンの日記も書く。そうこうしているうちに12時になり、就寝。
■ 2002/08/28 (Wed)
紀伊國屋書店の大きな新店舗
朝は7時に目覚ましをかけていたのだが、二度寝をしてしまい9時少し前にベッドから起きあがる。アーミデールへいっている間、大学に置いておく荷物をまとめ、それも持ってホテルを出る。QVBまで、何度かジグザグと寄り道しながら歩いて行く。途中で、古書店のテイラーが閉店予告を出して半額セールをしている(この時間はまだ開店していない)のを見つける。
QVBから292番バスに乗り、デイトリッパーを買う。11時前には大学へ着いたが、今日も事務のAさんはいない。D氏に部屋を開けてもらう。
書くべき原稿もあるのだが、集中できず、アーミデール行きのことを考えて現地の情報などをウェブ上で探したりする。2時少し前に、P氏のオフィスを訪ね、再訪の挨拶をする。来週のどこかで昼食をともにすることになりそうだ。
2時半頃、Hさんが研究室へやってくる。それから一緒に学食の上のバーのフロアへ行き、S君らSAM=日本人学生たちが数人いるところへ合流、居合わせた数名を紹介され、しばし雑談。
中途半端な時間になってしまったが、昼食をとりそびれていたので、やはり昼食を食べていなかったHさんと545番バスでイーストウッドへ行き、ファゲで午餐をとる。時間が早かったせいか、店主夫妻は店に出ていなかったが、ブルゴギBBQ、キムチチゲ、スンドゥブ、と三人前を二人で平らげる。
Hさんも日本の履歴書の用紙を紀伊國屋書店に探しに行くというので、一緒に電車でタウンホールへ行き、Hさんがしばらくいろいろ買い物をしている間に、こちらも別行動で、明日の列車の車中で食べるつもりの菓子類などを買う。結局、履歴書用紙は売り切れで、彼女は折り紙などを買っていた。
買い物の後、6時頃に、近日中に廃業するテイラーズを覗きに行ったが、既に閉店していたので、近くのマキアートMacchiatoというカフェに入り、ブルーベリーチーズケーキをつつきながら、Hさんとこちらでの生活のことなどを話す。
ここでHさんと別れ、ホテルの部屋に戻ったのは7時少し過ぎだった。まだ早いはずだが、微妙に眠たかったので、部屋を暗くしてうとうとする。そのまま夢うつつをしばし行き来する。夜中と午前3時頃に目が覚めたが、その後は熟睡。
■ 2002/08/29 (Thu)
アーミデールへ列車の旅
前日早めに横になったおかげで、6時台には目が覚める。7時過ぎに荷物をまとめ、チェックアウト。とりあえず駅まで歩いて行くが、出発までまだ2時間ほど時間がある。駅前を少し歩き回り、以前甥に鉄兜を買ったアウトドアの店が、火災にあった後、数軒先で営業を再開しているのを見つけた。その隣の古本屋だった店は今も空き店舗のままだ。
駅に戻り、12番ホームで列車を待っていると、出発の30分ちょっと前に列車が入線してきた。6両編成で、アーミデール行きは前の3両、後ろ3両はモリーMoree行きである。座席はB29、進行方向右の窓側である。
列車は最初にストラスフィールドに停車し、イーストウッドやエッピングを通って行くが、ホーンズビーから先は全く未知の景観だ。ホーンズビーから少し先で市街地がとぎれると、ブルーマウンテンズを思い出させるような景観が続くが、その次には、リアス式海岸沿いを進む、一瞬、仙石線沿線を思わせるような景観が続き、ゴスフォードへ到着する。しばらくすると森林と牧草地がゆっくりと交代しながら車窓に現れるようになる。
列車にはビュッフェがついていて、昼食にはローストチキンのセットを注文。12時に、昼食の用意ができたという車内放送があり、1号車のビュッフェへ行くと、熱々のチキンのパッケージとカップ入りのティラミス、パンとコーヒーが段ボール紙のトレイに入って10ドルで用意されていた。自分の席に戻って、さっそく食べる。
シングルトンという町を出た午後1時頃から、車窓にさかんにカンガルーが見えるようになった。最初はなかなか写真に納められなかったのだが、そのうち車窓に現れる回数も増えてくる。気のせいか、牛や馬を飼っているような平たいところより、羊を飼っている斜面のあるような草地や、ブッシュによくいるようだ。何とかカメラに納めようとバタバタしていると、真後ろの席のおばさんが声をかけてきた。アーミデールに住んでいるというこの彼女によると、グレーのカンガルーがこの辺りに元々いる種で、やや小型の茶色いカンガルーは、本来はずっと西の乾燥地にいる種らしい。今年は干魃気味なので、えさを求めてこの地域に移動しているのだという。そういえば、列車が時々速度を緩めることがあるのだが、カンガルーが線路に近づいてくるのが理由ということもあるようだ。実際、線路際を、列車と併走しようとするカンガルーまでいる。
このおばさんの夫は英国人のパイロットで、今はニュージーランド航空に所属しながら、オーストラリア国内の小型コミューターの操縦をしているのだという。彼女はオーストラリア人だが、あと2年で夫が退職したら、英国のサセックスに引退する予定で、家も買ってあるのだという。彼女の話では、アーミデールには「ミツイ」が開発した日本人退職者向けの住宅地があるのだそうだ。すっかり忘れていたが、一昔前に言っていたシルバーコロンビア計画という話だろうか。確かに自分でも、退職後で体が動くうちはオーストラリアに住むのも悪くないように思うことがある。
すっかり日が暮れた6時少し前に、終点のアーミデールに到着。駅のホームにあった小さなプラークには、1993年に旅客営業が再開されたことを記念する、と記されていた。町はずれの駅で、周りには普通の住宅しかないようだ。中心地まで2キロちょっとのはずなので、とりあえず見当をつけて歩き出す。駅前の道を1キロほど行った辺りで、広めの道を左折し、少し進んでカトリックのカセドラルの前を通り、中心地のモールに出た。ここで右折しモールの東の端まで行く。さてどこに泊まろうか。列車の中であった例のおばさんが教えてくれたスミス・ハウスがあるというバーニー・ストリートの辺りの地図を確認すると、ほかにもいろいろモーテルがある一角だと判ったので、とりあえず、少し南へ進み、バーニー・ストリートの宿の構えを見て回る。数軒小ぎれいな宿があった先に、スミス・ハウスがあった。ちょうどカトリックのカセドラルとラウンドアバウトを挟んだ対角線上だった。
スミス・ハウスは、元は大学の寄宿舎だったそうで、シングル一泊32ドル(簡単な朝食付き)という安さである。CB8、つまり中央ブロック8号は、正面玄関からまっすぐ階段を上がって進んだ右手にある。他にもけっこう宿泊客がいるはずなのだが、たまたま周りの部屋は空いているのか、随分と静かである。
部屋に落ち着いて、時間を見ると、7時になっていた。部屋は、テレビ、ポット、冷蔵庫付きだが、トイレ・シャワーは共用で、電話は外線がかけにくい仕組みになっている。インターネットはあきらめて、久々に、ゆっくり紅茶を入れ、テレビを見ながら、日記をつける。
テレビは、最初はSBSのニュースを見ていたのだが、途中からABCに替える。ABCは、8時半からバラエティが続き、ビル・コナリーの英国紀行、ハロッズの会長をゲストに迎えたアリ・G、最後がバックバーナーという構成になっている。コナリー、アリ・G、バックバーナーと、それぞれ十分の一も判らないのだが、それでも十分面白い。
11時頃にはテレビを消して就寝。

シドニー→アーミデール・車窓写真:2002年8月29日(木)
■ 2002/08/30 (Fri)
ニューイングランド大学地理学教室のBBQ
朝は7時前に目覚める。けっこう寒い。標高が高い(1000メートルくらいある)ので、朝の感じは秋の信州のようだ。8時頃、シャワーを浴び、シリアルなどを勝手に食べられるようにしてある朝食をとってから、散歩のつもりで近所の宿を一回りして相場を聞いてくる。基本的にシングルの部屋はないこともあって、55ドルから80ドル以上という値段を言われる。シドニーなら決して高いとは思わないが、何しろスミス・ハウスがシングル32ドルなので、ついついそちらが魅力的に感じてしまう。結局、一回りして戻ってから、延泊の手続きをする。
もう一泊する気になったので、荷物を少し部屋に置き、その分だけ身軽になって出かける。今日は金曜日で、滞在中にオフィスが開いているのは今日だけなので、ニューイングランド大学を含め、回れるところはひと回りしなければならない。
まず、ツーリスト・インフォメーションへ行き、少し買い物をし、いろいろ情報を得てから、地元の新聞「アーミデール・エクスプレス」へ行く。これは、週3回刊の新聞で、少し南(列車で2時間ほど)のタムワース(ここには日刊紙がある)で印刷されている地方紙シンジケートの新聞だ。ここでは、近隣の町の新聞も含め一部ずつ見本紙をもらってきた。次にコミュニティ放送の2ARMへ行ってみる。ここは、事前にメールを送ったのだが返事がもらえず、電話をしても応答がなかった所である。もう10時半を回っているが、オフィスには誰もいないのか応答はない。仕方なく、後でまた来ることにしてメインの商店街であるベアディ・ストリートのモールに戻る。
手持ちの現金が心細くなってきたので、コモンウェルス銀行で両替をしようと思ったら、何と口座のある顧客でなければできない、と言われる。つい先週まで口座があったと言っても無駄なので、旅行者で口座などあるはずないではないか、どこなら両替できる?と聞いてみると、ウェストパックにきいてみたらという。またも競争相手へ行けと言う、オーストラリア流の返答だ。と言うわけで、実際に行ってみると、ウェストパック銀行では手数料こそ8ドルと僅かに高いが、何の問題もなく両替してくれた。
銀行を出て、モールの中央近くにあるバス停へ行くと、ちょうど大学行きのバスが止まっていた。運転手に、人間・環境学部はどこで降りればよいのかと聞くと、終点だという。運賃は1ドル70セント。バスは程なく出発し、広大な大学のキャンパスにたどり着き、寮というか宿舎のならぶ一角から丘を登り、上り詰めた先でちょっと下って終点についた。確かに目と鼻の先に人間・環境学部がある。時間は11時を少し回っていた。さっそく見当をつけて建物に入り、学部の事務局と思しき一角へ行き、そこに地理学の主任教授W氏の部屋があり、その手前に地理学教室の秘書がいた。自己紹介をして、今日会うことになっているM氏を呼んでもらう。その間、たまたま今日は不在だというW教授に、名刺とメモを残す。
M氏がやってきて、とりあえず話をしようということで一緒に学食の喫茶コーナーへ行き、コーヒーを飲みながら持参した土産や抜刷などを渡す。午後3時から教室のBBQパーティーがあるということで、それまで仕事の邪魔にならないように、学内を散策することにする。まず、学生自治会が経営している古本屋(おもに教科書類を扱っている)で100ドルちょっと本を買い、次いで学生自治会のオフィスへ行って、学生自治会が運営しているナローキャスティング局に話を聞きに行く。幸い、パートタイマーで関わっているA氏に話を聞くことができた。ここでは、資金援助の意味も込め、ロゴ入りのTシャツを3枚、45ドル分買う。その後、売店で少し買い物をして、家へハガキを書い足り、それを学内の郵便局で出したりしているうちに、3時になる。
郵便局では、9月から郵便料金が値上げになるということを知ったのだが、手元には日本へハガキや封書を送る際に使う国際郵便用の1ドル切手が残っている。新料金は1ドル10セントなのだが、額面10セントの国際郵便切手があるのか、それとも国内用の10セント切手(GSTがあるので、正味は9セントの切手)を貼ればよいのか、と聞いてみた。すると答えは、1ドル切手の在庫があるうちは1ドルで出してかまわない、という何ともおおらかなものだった。これまたオーストラリアらしい、というかひょっとするとこれが世界標準ではなかろうか。
3時を少し回って、校舎の裏のBBQの場所へ行ってみると、M氏ら数人が準備をしているところだった。教室のスタッフはなかなか気さくで、次々といろんな人といろんな話をする。結局、2時間あまりがあっという間で、なかなか楽しかった。C教授には署名入りでブルーマウンテンズの探検史の著書を頂く。5時半過ぎに、市内まで他の2人を車で送ってゆく秘書さんに便乗させてもらい、スミス・ハウスまで戻る。
身軽になって、部屋で一休みしてから、M氏とそのパートナーのJさんと一緒に食事をすることになっているニューイングランド・ホテルへ行き、バーでまたハガキを書いていると、約束通り6時半過ぎにM氏がやってきた。奥のレストランで、あとから加わったB教授ご夫妻と5人で、大いに話し、また料理を楽しむ。久々にカンガルー肉のステーキを食べた。話の途中ので日本語のコンピューティングのことになり、いったん宿に戻ってiBookを取り出し、具体的に日本語入力をする所などを見せながら、話をした。結局、電池切れになるまでいろいろと遊びながらiBookをいじっていた。確かに、英語話者にとっては、キーボードがどうなっているのかということから始まって、日本語の変換操作など、見てみなければ判らないことも多いのだろう。こういう話のネタにするというiBookの使い方もあるということを実感した。
結局、食事を終え、宿舎に戻ったのは午後10時を回っていた。今日はなかなか充実していたが、その分けっこう疲れている。今夜はシャワーではなく、バスタブにつかろうと思ったのだが、結局、テレビと電灯とつけたままベッドに潜り込み、そのまま寝てしまう。
■ 2002/08/31 (Sat)
ダンガース滝など、近郊をまわる
昨夜は、中途半端にテレビと電気をつけたまま寝てしまったのだが、朝5時前に目が覚め、しばらくテレビをぼんやり見てから、起きあがって作業をし始める。5時半になったのでSBSにしてみると、NHKの9時のニュースを流している。今回の旅行では初めて見るSBSのNHKニュースである。小泉訪朝がメインだった。その後、またベッドに戻って小一時間眠り、8時前に起きてバスタブにつかり目を覚ます。8時40分頃に荷物をまとめて、食堂へ降りて行き、紅茶とパンの朝食を取る。9時になってオフィスが開いてから鍵を返し、建物の外のバルコニーで本を読みながら待っていると、9時を少し回った頃にM氏が迎えに来てくれた。
彼の車で、Jさんと3人で近郊をドライブするのである。
しばらく普通の道路を走ってから、未舗装の道に入り、乾燥した放牧地を抜けて壮大なダンガース滝(Dangars falls)を見物する。テーブルランドから100メートル以上と思われる落差で水が落ちる様は、乾季とはいえ迫力がある。
次に向かったのは、ユラーラ(Uralla)の町の古本屋である。ここには2軒の古本屋があるのだが、訪ねてみると経営は一緒ということだった。こじんまりとした、比較的安めの値付けの店で、合わせて65ドル分の古書を買う。次に、本店にあたる方の広い店に行ったが、ここではM氏の関心分野の本が値段(25ドル)の割には比較的よい状態であったので、プレゼントすることにした。彼は、この本を大学の図書館から借り、博士論文で何度も引用したそうだ。ユラーラは、最近、ほんの100メートルほどの町並みをいろいろ小ぎれいにして、観光客を呼び込むようになっているらしい。昔の酒場を再現したようなホテルや展示館のようなものもあった。
ユラーラからさらに南のウォルカ方面へ進み、途中のウォルカ・ロード・ヒストリック・レストランで昼食をとる。ビールと紅茶に始まり、キノコの料理やフィッシュ・アンド・チップスなどをとって随分とゆっくりした。途中からJさんに先日来書いていた英文論文のチェックをしてもらう。分量が多いので、結局半分くらいやってもらったところで時間も遅くなり、電池も切れてしまった。ここの勘定、チップも込みで80ドルをこちらで持つことにして、夕方から身内の会食があるという二人の都合も考え、ここからもう町に戻ることにした。
帰路では、道路沿いにエミューが居るのを発見、車を止めて近寄ると、何と向こうも近づいてくる。間近で撮影をする。結局、今夜はインターネット環境が確保されている、やや高級な部類に入るシーダー・ロッジ(スミス・ハウスの筋向かい)に泊まることにして、そこまで送ってもらう。彼らに次に会う機会があるとすれば、きっと二人が今年中には転居するというキャンベラだろう。
5時少し前に宿に入り、8号室に落ち着く。ダブルベッドとシングルベッドが置かれた本来は3人用の部屋である。2人で泊まって75ドル、1人で泊まっても67ドルだが、貨幣感覚がオーストラリア標準になっているのか、一泊5000円もしないのに、これでも少々値が張るように思ってしまう。早速、電話線をはずして、アクセスに成功し、メールを読み出すことができてほっとする。
6時頃少し街を歩こうと思い、部屋を出る。ずっとコンタクトがとれなかった2ARMを覗きに行くと、何と事務所に電灯がともっている。早速ドアへ行き呼び鈴(実際には音が鳴るのではなく光で来訪者を知らせる)を押してみると、ちょうど数人のインドネシア人の学生が6時からの放送を始めるところで、それに立ち会っていた局の運営の中心になっているMさんと運良く話をすることができた。ノートを持っていなかったのだが、Mさんと、途中からやってきたN氏から小一時間話を聞くことができ、資料をもらう。7時にまた作業があるMさんに遠慮して、早めに話を切り上げて局を出る。カメラを用意していなかったので局舎内の撮影はできなかった。さっそく宿に戻ってメモを書き出し、名刺を持って局に戻ると、もう事務所の明かりは消えていた。名刺をドアの下の隙間から投げ込んでおいた。
そのままぶらぶら街を歩き、8時頃に部屋に戻り、日記をつけたり、カメラの画像を吸い上げたり、いろいろ作業をする。テレビではSBSで世界貿易センターのドキュメンタリーをやっていた。ツインタワーの構造の話はわかりやすかったし、二つのビルの間で綱渡りをした人がいたというのは初めて知った。その後、CNNでも、グラウンド・ゼロの今後の話などを特集した番組をやっている。9月11日が確実に近づいているわけだ。
■ 2002/09/01 (Sun)
ボンダイの常宿へ
朝6時過ぎに目が覚め、しばらくぼんやりテレビを見る。7時半頃にシャワーを浴びて出発する支度をはじめる。随分と本を買ってしまったので、荷物が増えている。8時頃にチェックアウト。その際に20ドルほど電話料金を請求される。意外に高かったので不審に思ったのだが、後でよく考えて確認してみたら、アーミデールに接続しているつもりで、途中からずっとシドニーに接続していたことが判った。いやはやお粗末。
タクシーを呼んでもらい、駅まで行く。年輩の白髪の運転手だったが、ラジオのカントリー音楽に合わせて鼻歌を歌っていたので、ラジオはどの局かと聞いてみると、コミュニティ局だった。ラジオのことを少し話しているうちにあっという間に駅に着く。チップ込みで7ドルちょっと。
駅にはもう列車が停車しているが、人気はない。駅の近くで五分咲きくらいに咲いている桜を眺め、駅の脇に展示してある昔のトロッコの類を見物したりして時間を潰しているうちに、スタッフや乗客がぼちぼち集まり始めた。8時半頃乗り込む。B号車49番の席は進行方向左側で、来たときと同じ車窓景観を逆に見て行くことになる。シドニーまで行く乗客もけっこういるようだが、この地方の中心都市タムワース(Tamworth)まで遊びに行く少年たちなども乗っている。
9時定刻に発車した列車は、その後も順調に進んで行く。ユラーラで買った本をパラパラめくったり、朝食代わりに用意しておいたショートブレッドをかじったりしているうちに、時間が過ぎて行く。昼少し前には、途中のウェリス・クリーク(Werris Creek)でいったん車両から降り、モリー(Moree)方面から列車と連結するところを見物する。昔のように人手で作業をするわけではないから面白味には欠けるが、座席から離れて歩き回れるだけでも気分転換になる。再度発車してから程なく、昼食の車内放送があり、行きと同じ10ドルのローストチキンのセットを食べる。けっこう美味しい。スコーン(Scone)を過ぎてしばらくした1時頃、急に激しい雨の降っている所にさしかかった。稲妻も光っている。恵みの雨なのだろうが、30分ほど走るとまた晴天に戻ってしまった。その後は、論文集を読もうとしたせいか、すぐに心地よい眠りに落ちて、気づくと3時過ぎになっていた。そのまま定刻の5時には中央駅に到着した。
ここでウィークリーパス・イエローを買い、電車とバスを乗り継いでボンダイ・ビーチへ向かう。ボンダイ・ジャンクションで地上に出ると、雨がぱらついていた。重たいリュックと本が入った破れかけのビニール袋二つを下げて、バスを降りようとしたら、ブチッという音とともに、リュックの背負いひもの付け根が抜けてしまった。まあ、ここまで持ったことを感謝すべきなのだろう。何とかそのままホテル・ボンダイにたどり着き、チェック・インする。シングル一週間で300ドルである。
このホテルにはシングルは一部屋しかないということだったのだが。割り当てられた208号室は、本来はダブルの部屋で、3階(英国式では2階)の一番奥にある。とりあえず荷物を置いて、ほっとする。午後6時になっていた。
夕食をとろうと思い、外へ出て、ノース・インディアン・フレーバーでカレーを食べる。3種類の野菜カレーを大盛りでとり、マンゴ・ラッシーをつけて11ドルほど。腹一杯で、部屋に戻ろうとしたのだが、雨足が強くなっているので、近くのニュースエージェントを冷やかし、絵はがきなどを買う。雨足が弱まったところで、ホテルに戻る。
部屋では、ボンダイFMをかけながら、満腹を抱えてぼんやりする。少し落ち着いてからパソコンに向かう。論文を書くというところまでは行かないが、その素材となるようなメモの作成を始める。結局、時々お茶を飲んだりテレビ(SBSのカンボジアのドキュメンタリーなど)を見たりしながら、断続的に夜中の1時過ぎまで作業をしていた。
■ 2002/09/02 (Mon)
古本に出会う
7時前に目が覚める。シャワーを浴びて、靴下を洗濯する。
そのまま、メールチェックをし、昨夜始めた作業の続きをする。9時過ぎにCBAAに電話を入れ、10時前に部屋を出てシティへ出かける。
まず、ボンダイ・ジャンクションでバスと電車を乗り継いで、中央駅まで行き、ABCに問い合わせに行くが、ウェブを見てくれというばかりで余り訳にたたなかった。次に、セントレナーズの2MBSへアポイントをもらいに行こうとしたのだが、中央駅から乗った電車の中で居眠りをしてしまい、一つ乗り過ごしたアターマン(Artarmon)で下車する。これは「呼ばれている」のだろうと思い、古本屋の「FURUHON-YA」に行くと、何とリック・タナカ(在豪二十年を越える信州人で、今はブルーマウンテンズのカトゥンバに住んでいるらしい)の日本語の文庫本を見つけた。5ドル80セント。この人はものを見る目が自然体なので、頷きながら読む感じになる。もう時刻は12時少し前になっている。当然のように、向かいの「ラーメン元気」で塩ラーメンを食べる。けっこう重たいブランチだ。
ちょうどランチタイムになってしまったが、メールを送ったままで連絡が来ていないセントレナーズの2MBSへ向かうことにする。電車でひと駅戻り、12時半頃に2MBSに到着する。受付でメールを出したが返事がないこと、話を聞きたい背景などを説明し、誰か今週のどこかで時間をとってもらえないかと尋ねると、フルタイムのスタッフの一人が午後1時からだったら対応できるということになった。やはり、直接来てみるものである。すぐにまた戻ってくることを約して2MBSを出て、セント・レナーズ駅周辺を散歩し、飲み物を買って一休みする。
午後1時に再度2MBSへ行くと、営業担当のM氏が対応してくれた。話はコーヒーでも飲みながら、ということになり、局の筋向かいのカフェで小一時間話を聞く。その後、局内を一通り見学し、最後はお土産に局が制作したCDまでもらってしまい、恐縮しながら局を後にする。
既に、午後3時近くになっていたので、電車で中央駅へ戻り、UTSの2SERにいるWさんに会いに行く。今日はスケジュールの打ち合わせと、UTSの施設の写真撮影だけで、詳しい話は木曜日にすることになる。帰りがけに、日本ではほとんど理解されないであろう、ハワード首相を揶揄したTシャツを記念に買う。24ドル。
古書店の「テイラーズ(Taylor's)」が9月7日で閉店するという予告と、残っている在庫は半額という告知をしていたので、行ってみたのだが、まだ営業時間内のはずなのに店には人気がない。ひょっとするとこのままなくなってしまうのかもしれない。既に4時半になっていたので、ホテルに戻ることにして、タウン・ホールから電車とバスでホテルに戻る。戻ってみると、部屋はきれいに鳴っているのだが、冷蔵庫には、少し古くなったミルクしかなく、テレビのコントローラーは故障していた。レセプションに一声かけに行くと、少し経ってから電気工が来たのだが、結局直せないまま、一度帰ってしまい、しばらくしてからまた来て、今度は何とかなった。
7時頃、外へ出て、ジュース類と果物を買って部屋に戻る。一仕事してから遅めに食事に出直そうと思ったのだが、8半過ぎににわかに眠たくなり、ベッドでしばらくテレビを見ながら、そのまま寝てしまう。夜中に2回ほど起きたのだが、そのまま部屋の明かりも消さずに寝る。
■ 2002/09/03 (Tue)
NU COUNTRY のドキュメンタリー
目が覚めると6時になったばかりだった。
昨日、早く寝てしまったので、さっそく起きてコーヒーを入れ、一服してから昨日するつもりでしなかった仕事に手をつける。8時頃、作業に飽きてシャワーを浴び、下着を洗濯してから、しばらくまたぼんやりする。
9時を回ってからCBAAに電話を入れて、明日朝10時のアポイントメントを確認する。9時半頃ホテルを出ていつものようにバスと電車でシティへ向かう。タウン・ホールで下車し、QVBから288番バスで大学へ向かう。バスを待つ間に、バス停に近い書店をデジカメに収める。バスに乗り込むとすぐに眠たくなり、マコーリー・センター近くまで熟睡していた。
今日もAさんは不在だが、D氏に研究室を開けてもらい、しばしインターネットに没頭する。メールをチェックして、こちらからのメールもいくつか書き、県知事選関係の記事を信毎のサイトなどで読む。2MBSで訪問を勧められた2NSBに電話を入れてみたところ、明日の正午から午後1時ならOKという返事をもらう。明日は、CBAAに行ってから、大急ぎでチャツウッドへ向かわなければならない。結局そのまま午後2時半頃まで研究室でインターネットを楽しむ。
アーミデールへ行っている間、研究室においていた荷物を回収し、帰路に就く。途中で、以前の滞在の際にお世話になった地名調査室のSさんやアジア諸語の事務室のKさんに会って立ち話をする。地理学教室へ顔を出しておこうと思い立って、人文地理学の事務室へ行き、前回も会ったF先生と、前回会えなかったL先生に面会が可能かどうかを聞いてみる。結局、木曜日の朝10時にL先生の都合を聞きに再度顔を出し、F先生とは同じ日の午後3時に会うことになった。ちょうどこの日は、正午にマコーリー大学内の2SERオフィスでWさんに会うことになっているので、好都合だった。
荷物を抱え、288番バスでQVBへ向かう。今日も、バスを乗り継いで古書店「テイラーズ」まで行ってみたのだが、営業時間内のはずなのに店は閉まっていた。どうやらもう営業はしていないようだ。そのまま電車とバスを乗り継いで、4時半にはホテルに戻る。
コーヒーを入れ、しばらくぼんやりしてから、テレビのニュースを見始める。6時半頃に部屋を出て、前回の滞在中も何回か足を運んだ「トゥー・ファッツ(Too Fatz)」でピザと紅茶の夕食をとる。チップも入れて11ドル。朝も昼も、ビスケットと果物をつまんでそれきりになっていたので、今日はじめてちゃんと食事をした感じだ。ここのピザは特別美味しいわけではないが、店の雰囲気なども開放的で居心地が良く、つい足を運んでしまう。7時半頃部屋に戻り、しばらくパソコンに向かう。
8時過ぎからABCで、メルボルンのコミュニティ・ラジオの実験局として数年活動し、結局本免許が認められなかったカントリー音楽専門局「NU COUNTRY」のドキュメンタリーを見る。からっとした中にも、哀愁が感じられる、気持ちのよい番組だった。その後もだらだらとテレビを見てしまうが、最後はテレビの電源を切って1時間ちょっとパソコンへ向かい、11時過ぎに就寝。
■ 2002/09/04 (Wed)
NU COUNTRY のドキュメンタリー
朝4時に一度目が覚めるが、飲み物を飲んでもう一度ベッドに入る。もう一度6時に目が覚めるが、どうも夢見が悪いようだ。起きてしまうとはっきり覚えていないのだが、仕事が輻輳して破綻する夢である。帰国後に正夢にならなければよいが。
結局、もう一度眠り、昨夜にかけておいた目覚ましで7時に起きる。すぐにシャワーを浴びて、目を覚まし、お茶を入れ、あり合わせの朝食を取る。8時にはホテルを出てバスと電車を乗り継ぎ、レッドファーンのCBAAのオフィスに向かった。約束の時間は10時なのだが、途中で心配していた朝のラッシュに全く会わなかったので、9時15分頃にはCBAAのオフィス近くまで来てしまった。結局の近くのカフェで時間を潰すことにして、朝食のセットを食べ、紅茶を飲む。10ドルちょっと。
9時45分頃、オフィスへ行くと、会うことになっていたMさんが、何と預けていた本を自宅に忘れて取りに戻ったと判明。そのまま10時15分頃まで待つことになった。Mさんが戻ってきて、コーヒーを出してもらい、B氏も加わって3人で内容のことや、最近のコミュニティ・テレビのことなどを話し、関連した資料をもらう。11時少し前にCBAAを出て、レッドファーン駅まで歩き、電車でチャツウッドへ向かう。何とかぎりぎりで、約束の時間通り正午にヴィクトリア・アヴェニュー112番地の、ごく普通の家のように見える2NSBに到着した。スタジオ・マネージャーのR氏にインタビューする。本業は看護士だったが、今はこの局唯一のフルタイム職員だというR氏は、なかなか忙しい人で、話をしながらも電話を処理したり、ライブ放送の手伝いをしたり、てきぱきと仕事をしていた。professhionally という副詞はこういう仕事ぶりを指すのだろう。こちらも約束通り、時間内で話を切り上げて、午後1時少し過ぎに局を辞した。
歩いてチャツウッド駅へ戻り、545番バスを待ったのだが、ちょうど1台が行ったばかりだった。古レコード屋の「テン・カウンツ・ダウン」へ入り、セキデンのシングルなどを買う。セキデンは「赤電」と字を当てるらしい。
時間を見計らってバス停に戻ったのだが、定刻を過ぎてもなかなか545番バスが来ない。結局、大幅に遅れてきたバスに乗り、大学まで行ったのだが、いつものように老人ホーム前のバス停で下車して、ふと道路を見ると、何と次の545番バスがもう来ていた。音楽学教室へ行き、H教授の研究室をノックする。一声かけて、後で少し話をすることにして、研究室でインターネットの作業をする。その後、H教授の研究室で小一時間ほど話をし、その後、アジア諸語の事務室のKさんの所へ行って、そこでもしばらく話をする。
ふと気づくともう5時になっている、急いで研究室に戻り、部屋を片づけ、D氏に声をかけて帰路に就く。まず、歩いてマコーリー・センターのウールワースに行き、菓子類などを買い、フードコートのバンブー・キッチンで最後に残っていたシンガポール・ヌードルのボックスを買う。今日の夕食は、この買い物で済ませることにして、バス停から294番バスに乗り、QVBへ向かう。今日は本格的な帰宅ラッシュに捕まったようで、随分時間がかかってQVBへ到着した。タウン・ホール駅でもボンダイ・ジャンクション行きの電車が、けっこう遅れて到着し、さらに、ジャンクションでのバスへの乗り換えも、何本か待つ羽目になった。ホテルの部屋に戻ったのは7時20分頃。さっそく、シンガポール・ヌードルを食べる。けっこうお腹がいっぱいになる。
少しパソコンで作業したが、満腹で集中力がわかず、8時過ぎにいったんベッドにはいることにする。
■ 2002/09/05 (Thu)
マコーリー大学で丸一日すごす
深夜0時台に目が覚め、ちょっと眠れない感じだったのでそのまま3時頃までパソコンに向かうが、効率はきわめて悪い。
3時頃に寝て、7時少し前に起床。シャワーを浴びて、下着を洗濯する。
昨日、マコーリーセンターで買ったパンなどで食事を済ませ、8時半頃部屋を出る。いつものように、バス、電車、バスと乗り継いで、10時少し前に研究室にたどり着いたのだが、鍵を開けてもらえる職員が誰もいない。しかたなくパソコンなどの荷物を持ったまま、10時に地理学教室へ行き、L先生と会うことができた。初対面だが、研究分野が近いこともあって、いろいろな話ができ、先生の最近の関心の所在なども判った。
11時少し前にL先生の研究室を辞したのだが、次にL先生に面会を求めてきていたのは、私よりけっこう年長と思しき日本人女性の学生だった。一言二言、日本語で挨拶したが、こういう年齢になっても学ぶ姿勢があるというのは尊いことだ。
音楽学教室へ戻ると、D氏がいて研究室の鍵を開けてくれた。メールの処理をしているうちに正午近くなってきた。正午には、2SERのマコーリー大学スタジオに行き、月曜日にUTSで会ったWさんに話を聞く。ところが、少し話をしたところで、彼女にいろいろ仕事が飛び込んできたのと、こちらの質問がけっこう突っ込んだものになっていたこともあり、すぐには判らないということが多くなったので、話は30分ほどで切り上げて、2SERの施設と、コミュニケーション学教室のラジオ・スタジオの見学を先して、午後遅くに再度訪問するということになる。
研究室へ戻ってみると、再び施錠されていた。昼食時間に入っているので午後2時過ぎまではD氏もいない。仕方なく、学生食堂へ行き、ケーキとコーヒーでしばらくぼんやりする。それから図書館へ行き、新着雑誌の棚を見に行く。少しレイアウトが変わっていたが、地理学関係の棚の所在はすぐ判ったので、いろいろ眺める。また、豪州日本研究学会という組織のジャーナルを見つけ、興味深く見る。
2時半頃に研究室へ戻り、またD氏を煩わせて研究室を開けてもらう。3時近くになったので、今度は荷物も持って研究室を出て、今度はF先生に会いに行く。以前の滞在の時も話をしているので、気楽にいろいろな話ができた。コミュニティFMに関わってきた経験談に始まり、NSW大学の研究者に関心範囲が近そうな若手がいるという話や、2006年のIGU地域集会のケアンズ招致は個人的には反対だったんだけど、などという話も出てきた。
4時過ぎにF先生の部屋を出て、2SERのスタジオに戻ると、Wさんがいくつか資料を用意しておいてくれた。ここでコピーをとってもらうのはかまわない、といわれて、主に90年代のアニュアル・レポートを、やや旧式の卓上コピー機でコピーし始める。結局この作業に3時間半以上がかかった。コピー代を支払うというと、要らないといわれたので、デッド・ストックになっているTシャツなどを買うという形にして、ようやく50ドルを受け取ってくれた。途中で、先にWさんは帰ってしまうので、作業終了時の段取りを教えてもらい、最後は一人残った部屋で黙々とコピーをとるということになった。8時少し前に作業を終え、しばらくぼんやりしていると、ころころとお相撲さんのような体格の男女二人の警備担当者がやって来て、一緒に部屋を出た。
今夜は、学生バンドのコンテストの予選が学生食堂の上のバーである。Hさんが様子を見に来ているはずなので、電話を入れ、学生食堂前で落ち合い、会場へ上がっていったのだが、まだ始まるまで時間があるようだったので、バスでマコーリーセンターへ行き、先に食事をとることにする。ペント・タイで、グリーンカレー、トムヤム・ヌードル、サラダと飲み物などをとり、二人で40ドル足らずだった。
8時半過ぎにバーに戻ると、既に演奏が始まっていた。バンドを二つ見た後、ラップ・グループを一つ見る。最初のバンドはキーボードが達者なのに感心した。最後のラップ団は、アメリカ人ではなく、アフリカのいろいろな国からニューカッスル大学へ来ている黒人学生のグループだという。アフリカ人が、ヒップホップやダンスホールのスタイルでラップする、それもオーストラリアでという辺りが、なかなかシュールだ。ラップの技量自体は大したこともないように思えたが、応援団も結構やってきていて盛り上がり方は一番だった。しかし、やはりパトワの破壊力はすごい。
10時半頃、歩いてマコーリー・センターへ行く。既にチャツウッド行きの545番バスは夕方までで終わっているので、Hさんと一緒に、290番バスに乗ってセントレナーズへ行く。まだ上下とも電車があり、Hさんを見送った後、こちらはタウンホールへ向かう。ボンダイ・ジャンクション行きの電車は既に終わっているが、バスは深夜もあるので、歩いてハイド・パークへ行く。しばらく待っていると、ノース・ボンダイ行きの380番バスが来たので、これに乗り込む。途中で通過するオックスフォードストリートのゲイ・クラブの集まる辺りでは、表から(つまり、バスからも一瞬は)見えるところで、男性のストリップをやっている。少しだけうとうとしたが、寝過ごしてはいけないと頑張っているうちに、ボンダイ・ビーチに到着。部屋に入ったときには0時を回っていた。さすがに疲れていたので、そのまますぐにベッドに入る。
■ 2002/09/06 (Fri)
クラブ?を見て回る
前夜の疲れがとりきれない感じで、7時に目が覚めたのだが、そのまま8時過ぎまでベッドにいる。荷物の整理を少しして、昨日とったコピーなど、文書類を小包で送ることにする。朝食はあり合わせのものをかじりながら済ませ、9時半頃に郵便局へ行き、僅かに10キロを超えていた中身を10キロ以内にして、印刷物〜エコノミーで、55ドルで送れることになった。テープ代を合わせて60ドル足らずである。部屋に戻って、日記をつけ、シャワーを浴びる。それからまた、しばらくぼんやりしているうちに11時を回ってしまった。結局、11時20分頃に部屋を出て、大学へ向かう。
バスと電車を乗り継いでQVBまで行く。今日は、バッヂ・デイで、茶色系の迷彩服を着た兵士?が、募金集めにピンを売っている。ちょっと興味を持ったのだが、急いでいたので素通りし、バス停へ向かった。ところが、ちょうど目の前でマースフィールド行きの292番バスがドアを閉めて発車した。しかし、発車はしたものの、車体を僅かに右へ寄せただけで、渋滞している右車線へ出られずに、止まっていた。乗車口に近づいて女性の運転手にアピールしたが、もう乗せられないというそぶりである。しかし、QVBに面したヨーク・ストリートも、バスが折り返してくるクラレンス・ストリートも、どうやら混んでいる様子だ。駄目元で数百メートル先のクラレンス・ストリートのバス停まで行ってみることにする。グレイス・ホテルの先でクラレンス・ストリート側に出て、しばらくしてから件のバスがやってきた。ラッキー!と思って乗り込むと、運転手に「あらもう来てたの」という感じで声をかけられた。
午後1時に、H教授の研究室へ行く。今日で大学へ来るのは最後なので、昼食を一緒にすることになっていたのだが、先方の都合が変わったらしく、「午後2時に戻ります」というメモがドアに貼ってあった。D氏に部屋を開けてもらい、しばらくメール・チェックなどをしているうちに2時を回り、再度H教授の部屋へ行く。結局、食事は一緒にできなかったが、これで帰国する旨の挨拶をして、渡しそびれていたお土産の菓子を渡す。今度会えるのは、モントリオールの国際学会になるのだろうか。
3時前に研究室を出て、歩いてマコーリー・センターへ行き、自宅へのお土産の干しトマトと菓子類を買う。さらに、バス停に面したディミックスの安売りの店で、本を3冊買ってから、バスに乗り込みQVBへ向かう。QVBでバスを乗り継いでヘイ・マーケットへ行き、ケン・ドーンのアウトレットでTシャツなどを80ドルほど買う。マンボは、妻と一緒の時にけっこう買ってしまったので、今回はこれでパスする。
バスでタウンホールへ行き、いつものように5番線までエスカレータで降りると、何と「マーチン・プレイス」行きの列車が来る。この5番線に、「ボンダイ・ジャンクション」行き以外が来るのは初めて見た。とにかく、その次の列車でボンダイ・ジャンクションまで行き、L82番バスでホテルへと帰還。時間は5時になっていた。一休みにして、シャワーを浴び、少し横になる。
7時頃にHさんに電話し、8時をめどにウールワース・メトロの前で待ち合わせることになる。バスと電車でタウンホールへ行き、電話をかけてみたのだが、なかなかつながらない。たまたま、タウン・ホールの正面階段に赤絨毯が敷かれて、いつもはここを待ち合わせの場所にした人々が集まっているあたりが立ち入り禁止になっている。何だろうと眺めていたら、何と、仮面舞踏会などという酔狂なことが始まろうとしているのだった。バウンサー?も、カツラをかぶった正装で、すっかり気分は18世紀である。
8時少し前に、元フラットメイトのYさんを連れたHさんと合流。まず、腹ごしらえに中華街へ行き、太源酒楼という店で食事をする。ここはHさんのおごり。味は、まあこんなものかというレベル。腹ごしらえができたところで、金曜の夜の盛り場を見て回ることになり、まず、先日入った喫茶店マキアートの向かいのシャーク・ホテルを覗き、ジョージ・ストリートを北上してメトロの前を通るが、ここは今夜は何か特別なイベントらしく、既に入場券を持っている人が長蛇の列になっている。
さらに北上し、ダーリングハーバーの方へ少し下ったスピット・インへ行く。入り口でいったんは格好がカジュアルすぎると入店を断られたが、連れの二人が入っていってしまったのを見て、こちらを押しとどめたバウンサーも、まあいいやという感じで入店させてくれた。ここは、明日が大きなイベントらしく、最下層の踊り場は今日は開いていないが、客は多く雰囲気はよい。ポーキーのある部屋を見つけ、写真を撮るために、Hさんに実際に遊んでもらう。全くたまたまだが、ほんの数分のうちに一回大当たりが出たようで、5ドルが20ドル45セントになった。こういうことがあり得るマシンだから、小銭をどんどん投じてしまうのだろう。
店を出てタクシーを拾い、オックスフォード・ストリートへ行く。チップ込みで10ドル。以前は気づかなかった古本屋があるのを見つけ、ざっと雰囲気を見る。バス停でボンダイ行きのバスの時間を見ると、ちょうどやって来る時間だったので、これに乗り込む。
ボンダイに着いたのは11時半頃、とりあえず、ホテル・ボンダイの踊り場であるジンク(Zinc)に二人を待たせ、Hさんが情報を見つけてきたビーチ・ロード・ホテル(Beach Road Hotel)の場所をフロントで聞く。10分ほど歩いて、途中で道を聞いたりしながら、目的地に到着。ここではヒップホップのライブを12時までやっているので、少しでも雰囲気を見ようというわけだ。結局わずか2トラック分だけだったが、重低音に乗せて二人のラッパーが文字通りとぎれなくラップし倒すパフォーマンスを楽しむ。最後は12時半頃にビーチのバス停に戻り、二人を見送る。
さすがに疲れて、部屋に戻るとすぐ、ベッドに入って眠る。
■ 2002/09/07 (Sat)
完全にオフ
今日は完全に休みなので、朝8時過ぎに目が覚めてもまたそのまま寝直しぐうたらしていたのだが、10時過ぎにルームサービスのノックで目が覚める。メイドに後できてもらうように声をかけてから、シャワーを浴び、結局11時半過ぎに部屋を出た。 380番バスで、ボンダイ・ジャンクションの先のウェーバリー・バス・デポに行く。今日は、ここの創立百周年で、オープン・デイの行事として、普段は博物館に集めてある古いバスが並べられているのだ。集まっているのはほとんどが家族連れで、小さな子供たちが嬉々としてバスのドライバー席に座って遊んでいる。偉い人がスピーチしているのを立ち見してまで見ている人がいると思ったら、ソーセージに並ぶ列だった。自分には場違いな感じだったが、のどかな感じが味わえてよかった。 バス・デポの前で389番バスに乗り、オックスフォード・ストリートの三叉路に近い、裏手の道のバス停で降り、歩いてオックスフォード・ストリートに出て、昨夜冷やかした古書店「エリザベス」に入る。店内は良く整理されていて、棚は高いのだが、通路は気持ちゆったり出し、踏み台がいくつもおいてある。ここでは、クーリンガイの古い写真が集められた郷土史の本など、50ドルほどを買う。この店は、今年の5月末に開店したばかりだそうだ。 更に歩いて、ハイドパークに面したトラベル・ブック・ショップに入る。ここではスコットランドの古い旅行ガイドを買う。10ドル。またまた歩いて、例の「テイラーズ」へ行くと、今日が最終日の営業をしていた。昨日までも営業はしていたようだが、本来の閉店時間よりだいぶ早く、3時頃に店じまいしていたようだ。結局ここでは40ドルあまり、オーストラリア関係の本などを買う。 テイラーズを出てタウンホールの駅に向かって行こうと、裏路地の抜け道に入ったら、何とこちらのテレビで有名な「クロコダイル・ハンター」の本人がいて、スタッフと何か車の用意をしている。そのまま道をすり抜けてジョージ・ストリートへ出ると、その先の映画館で映画版の「クロコダイル・ハンター」の封切りイベントがあるのだと判った。そうこうしているうちに「クロコダイル・ハンター」が車の上に乗って映画館前に登場し、大騒ぎになっていた。こちらは、ちらりと遠目に眺めるだけで駅へ向かう。電車とL82番バスを乗り継いでボンダイ・ビーチへ到着。遅い昼食のつもりで、ボンダイ・サーフ・シーフードでフィッシュ・アンド・チップスを買い、部屋へ戻って早速食べる。少し休んでから、5時半頃にもう一度出かけて、さっき通りかかったときに気になった靴屋へ行く。オーストラリアでは、ブーツはひものないタイプが主流なのだが、サイドの伸縮する部分が水に弱そうなので、日本向きではない。ひものついた、普通の靴より少しだけ深い、登山靴のような感じのブーツを、ディスカウントの棚から見つけ、買ってくる。30ドル。 さっきのフィッシュ・アンド・チップスで満腹になったせいか、午後6時頃から8時頃まで、ベッドで熟睡する。目が覚めても、そのままベッドの中でテレビを見てぐうたらしている。SBSでやっているジョン・サフランの「ミュージック・ジャンボリー」は実に面白い。今夜は、オジー・オズボーンのネタや、フェアライト(1979年に発明された世界最初のサンプラー)はオーストラリア生まれだという話、イランの楽器で演奏するメンタル・アズ・エニイシングといった内容だった。 11時近くなって、少しお腹が減ってきた気がしたので、何か食べに行こうと思い、さっき買ったばかりの靴に履き替えて、部屋を出る。まず下のフロアに降りていったのだが、ふと思い立って、ポーキーのある所へ行き、「日本人の観光客で何も判らないのだが、遊び方を教えてくれ」と言って、一通り説明を受ける。1ドルすったところで席を立つ。ところが、ホテルを出て、辺りを歩き始めると、意外に空腹ではないことに気づく。結局、無目的にしばらくぶらついて、グリーク・サラダを買い、部屋に戻る。5ドル50セント。 隣のスイスグランド・ホテルのバーで演奏しているバンドの音が、なかなかいい感じで聞こえてくる。U2の曲などを演奏している。テレビではチャック・ノリス主演の戦争アクション映画「ミッシング・イン・アクション」をやっている。合間に入るCMが陸軍と海軍というところが、洒落にならない。テレビの音は消して、部屋の明かりを落として窓を開け、隣のホテルの演奏を、借景か、隣家の鰻の香りのように楽しみながら、ベッドでぼんやりして過ごす。まあ、今日が実質的にはのんびりできる休みの最後で、明日は移動、明後日からは日本で激務が待っている。こうしているのが一番の贅沢なのだろう。結局、1時頃までそうしていたのだが、1時を回ってからテレビを消し、部屋の明かりを点けて、荷造りを始める。窓を閉めるときに誤って右手の人差し指に血豆を作ってしまった。こんなことは実に久々だ。結局、今日買い込んだ本もあって、作った荷物はだいぶ重量オーバーしていそうだが、とにかくこれで空港に行くしかない。 結局、最終的に寝たのは3時を回ってからだった。
■ 2002/09/08 (Sun)
再び機上に
目覚ましは8時にかけたのだが、直前の7時55分頃にきちんと起きることができた。
シャワーを浴び、あり合わせの朝食を済ませてから、9時少し前に一度部屋の外へ出て、小学校のマーケットへ行ってみる。まだ、店開きの最中でしばらく様子を見て、出直すことにして部屋へ戻る。9時半過ぎにチェックアウトを先にして、しばらく荷物をフロントに預かってもらい、再度小学校へ行く。今度は、2ヶ所の屋台で2冊ずつ本を買った。全部で23ドル。
10時20分頃にホテルで荷物を回収し、380番バス、電車と乗り継いで、中央駅のロッカーに荷物を入れる。一番安い4ドルのロッカーにぎりぎりで荷物が全部収まった。バスでQVBへ行き、さらに288番に乗り継いで、今日が学校祭のノース・ライド小学校へ出かける。校庭にはいろいろな物売りのテントや、小さい子供が遊べる空気式の遊具などがたくさん出ていて、人手も多い。演芸会をやっている講堂にはいると、ちょうどスコティッシュ・ダンスのパフォーマンスをやっている最中だった。後ろのドアから入って見ると、最後列の中央にA校長がいて、先にこちらに気づいて声をかけてきた。手短に挨拶する。相変わらずオーストラリア人としては小柄な体にエネルギーが満ちあふれている感じだった。そのまま校庭や、ノース・ライド・センター辺りをカメラに収め、288番バスでシティへ戻る。車中で、少し思いつき。タウン・ホールから電車とバスを乗り継いで、再度ボンダイ・ビーチに戻り、小学校から、キャンベル・パレードの端のノアズ・バックパッカーズまで、店ごとの様子を1枚ずつカメラに収める。キャンベル・パレードの端から381番バスに乗り、今度はロイヤル・ホテルの前で下車して、しばらく歩きながら、ときどきカメラを使う。カトリック教会の近くでまた381番バスに乗り、ボンダイ・ジャンクションで下車、再びタウン・ホールに戻るが、今度はミラーズ・ポイント行きのバスが来たので、そのままMCAへ行き、展示を見て回る。帰りは、サーキュラー・キーからマーチン・プレイスまでバスに乗り、そこから歩いてQVBへたどり着く。
5時にHさんと待ち合わせて録画を手配してもらったビデオを受け取ることになっているのだが、4時40分頃から5時15分まで待ち合わせのジェット・カフェにいたのだが、現れる気配がない。5時15分に店を出て電話をしてみると、午前中にビーチバレーで動き回って、倒れてしまってらしい。ビデオの手配も間に合わなかったということだったので、そちらは後で送ってもらうことにして、とりあえず滞在中のアテンドのお礼を言う。 まだ空港に向かうには小一時間早いので、ジョージ・ストリートをゆっくり中央駅方面に歩いて進み、途中の古本屋を冷やかして回る。結局、1冊だけマクルーハンのペーパーバックを買う。7ドル25セント。
中央駅には6時を少し回る頃に着いた。まず、長距離列車を運行するカントリーリンクの窓口に行き、次回以降のためにパスの類の案内書をもらう。しばらく、ベンチで一息入れてから、ロッカーから荷物を取り出し、かなり無様な感じでよろよろと空港行きのホームまで移動する。ちょうど悪いタイミングで一本電車が出てしまったが、急ぐ必要もないのでとにかくベンチに荷物を置く。十数分間の待ち時間に少しうとうとする。そのまま電車で国際ターミナルへ。ゲート・パスを買うために最後の10ドル札を使う。残りはコインだけだ。
預ける手荷物の重さが心配だったのだが、計ってみると24キロで一安心。30キロ以内は大目に見るということだったので、さらに本などを詰め込み、29キロにして預ける。空港の売店で、クリケットのナショナル・チームのマークが入った公式のキャップ(選手が着けるものとは違うがFILA製で、ACBの公式商品:ただし製造地はベトナム)を、安売りの7ドルで買う。これでコインもほとんどなくなった。
8時前には出国手続きも済ませ、待合室でぼんやりしながら、日記をつけたりする。こっちはバッテリーで動かしていたのだが、少し先の席では、iBookを電源につないでいじっている白人の男性がいる。
機内では三人がけの窓側で、一人置いてやや年配の男性がいるが、間に席が空いていたので気楽だった。イヤホンはせず、見るとはなしに「スパイダーマン」を見る。

Campbell Parade, Bondi Beach・全店写真:2002年9月8日(日)


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