私的ページ:山田晴通
山田が聴いている音楽(CD)
(1998年)
山田は、ポピュラー音楽についていくつか文章を書いていますが、聴いている音楽の内容は、決して専門的だったり、マニアックだったりということはなく、浅く広く、表層的です。
好きな音楽、コメントすべき音楽について触れていくときりがないので、ここでは、このページ作成作業をしているマックで山田がかけているCDの紹介を中心に、山田がふだん実際に聴いている音楽を、近況報告風に紹介していきます。
CD紹介は、書き込みが新しい順に並んでいます。( )内は、レーベルと発売年月日です。
このページでは、1998年に書き込んだ内容を保存公開しております。
///(1997年)///(1999年)///(インデックス)///
1998年度は、国立音楽大学で音楽学講義を担当している関係で、その授業内容の紹介も兼ねて書き込んでおります。(前期のみで挫折しました....ゴメンナサイ)
1998年
- 1998.10.30.記:タイム・マシン・ネットワーク
- 渡辺香津美『KYLYN』(BETTER DAYS/日本コロムビア:1994.11.21.:オリジナルは1979)
- 渡辺香津美『KYLYN LIVE』[2枚組](BETTER DAYS/日本コロムビア:1994.11.21.:オリジナルは1979)
- YMO『FAKER HOLIC』[2枚組](ALFA/日本コロムビア:1991.05.21.:録音は1979)
ここ数日、globeを素材に原稿を書いている。当然、かけている音楽もglobeか関連するTMNなどばかりになったいる。本当は締切を過ぎているのが、締切を数日延ばして貰えたので、今日はちょっと頭を切り換えなければと、最近CDを手に入れた懐かしい音源をかけている。
『KYLYN』は、ジャズの流儀に則って言えば、1979年にリリースされた渡辺香津美のリーダー・アルバムである。しかし、今となっては、YMOとの結びつきで語られることが多いようにも感じる。実際、ライブのYMOより先に「KYLYN バンド」を聴いていた者にとって、渡辺香津美を迎えたYMOのライブ・セットは、KYLYNからジャズ・フュージョンのテイストを洗い落として、(当時の)テクノ・ポップで武装したような印象を与えたものだ。
『KYLYN』のセッション・メンバーは1979年初夏に「KYLYN バンド」としてライブを展開し、その記録として『KYLYN LIVE』が残された。当時の僕はどちらのアルバムも持っていなかったが、大学のサークルの部屋に『KYLYN LIVE』を置いていった仲間がいて、その部屋でよく聴いていた。特に、2枚組の2枚目A面(CDだと DISC 2 の前半3曲)、矢野顕子をフィーチャーした坂本龍一のカラーが強いところは、非常に魅力的で、歌詞を覚えてしまうくらい何度も聴いた。2枚目B面(DOSC 2 の後半2曲)もユーモアがあり、お洒落で、大好きだった。
今ふりかえってみると、本来ジャンルの「融合」を意味した筈の「フュージョン」が、それ自体一つのジャンルになっていた頃に、さらに新しい音楽の要素を取り込んでいこうという意欲を見せたところが、「KYLYN バンド」の最大の魅力だったのだろう。今改めて聴いてみると、(直前に嫌というほどglobeを聴いていた反動かもしれないが)生の音の楽しさ(ホーン・セクション、ピアノ、ヴォーカル)と渡辺香津美のクールなギターのバランスが絶妙なものだと感じる。
『FAKER HOLIC』については、余計なことは言わない。ただ『公的抑圧』(1980)から11年、(非公式音源にアクセスできたマニアは別として)普通のファンにとっては、渡辺香津美のギターが聴けるまでの時間は長かったということは記憶に留めておきたい。
ずっと後になってからの話。確か1987年頃、松本に公演に来ていた渡辺香津美が、当時の僕の行きつけの店だった「Dollar House」(現在の「J-Creek Bar」のところ:松本市ローカルな話で恐縮)に、スタッフ一行と一緒に現れた。最初は、あれっ、と思って離れて見ていただけだったのだが、そのうち、大いに盛り上がっていた他のメンバーとは別席に、渡辺香津美が一人でいたので、ちょうど学会で来ていた後輩のS君(現在は都立大の先生)と一緒に席を移って同席させて貰い、3人で話すことができた。もう何を話したか覚えていないが、思ったより細身の小柄な人物で、物静かだが笑顔の絶えない、素敵な人だった。
(「街で見かけた有名人」というノリだなァ。この手の話は、そのうちまた書きます。)
- 1998.10.09.記:万古不易
- KRAFTWERK『THE MIX』(ELEKTRA:1991.--.--.)
このところ、原稿が立て込み、とてつもなく忙しい。その上、気力が今一つだ。国立音大の講義の報告も滞っている。何とかせねばと思いつつ、しばらくは放置するしかなさそうだ。
さて、研究室に遊びに来た元ゼミ生からクラフトワークでお薦めのものをというリクエストがあり、久々に聴いたのがこの1枚。アメリカ市場向けのコンピレーションである。ふだん自分の作業のBGMには、『AUTOBAHN』あたりをかけていることも多いのだが、この『THE MIX』はしばらく聴いていなかった。改めて通して聴いてみると、ポップなクラフトワークの入門としてなかなかよいコンピレーションになっている。クラフトワークなんか知らないという人は、これを聴いてから、オリジナルのアルバムへと進むのをお薦めしたい。
(今日いう意味での「テクノ」以前の)古い「テクノ・ポップ」ファンなら、(1)「THE ROBOTS」から(11)「MUSIC NON STOP」まで、1時間あまりの至福の時間が詰まったCDである。(4)「DENTAKU」は(3)「POCKET CALCULATOR」の日本語版。しかし、万古不易の名曲(?)(5)「AUTOBAHN」の冒頭を聴く度にKISSの「Detroit Rock City」を思い出してしまうのは、私だけではないと信じたいものだ。
- 1998.09.04.記:「革命の夏」なのか
- 渋さ知らズ『渋祭』(地底レコード:1997.--.--.)
去年のライブに続いて、今年もまた松本で「渋さ」のテントに出かけた。これは、ライブ当日に松本で求めた一枚。「しぶさい」と読むらしい。内容は、1995年12月と、1996年10月のライブを編集したもの。カバーの曲名記載は6曲となっているが、実際には7曲目として「本多工務店のテーマ」が収録されている。「渋さ」のライブではノリノリの定番になっている(2)「P-chan」と(6)「反町鬼郎」が入っているのがうれしい。
今年の松本のテントは、19日が芝居「反町鬼郎」(音楽は不破大輔)で、20日が「渋さ」のライブだった。19日は行けなかったが、洋行(ヨーロッパ)帰り?の渋さは、昨年とはまた違った趣向もあって面白かった。
とにかく「渋さ」はライブを見るべし。
- 1998.09.03.記:夏休みの収穫
- V.A.『軍艦マーチのすべて』(キング:1998.04.24.)
もう丸々一月以上前になるが、7月下旬に国立音大の音楽学科の合宿に参加(乱入?)した。そこで、学生から教えてもらったCDである。作曲者・瀬戸口藤吉生誕130年記念の「永久保存盤」と謳われている。戦前の「行進曲」の中で、唯一無二といってよいくらい例外的に今日まで親しまれている「軍艦行進曲」だが、解説も含め、余り具体的には知られていない(と思う....私が知らなかっただけか?)背景などが見えてくる。
冒頭におかれた(「軍艦」の旋律で唄われる)(1)盛岡第一高校校歌に、まず驚かされるが、以下では吹奏楽の様々なアレンジ版、(6)三島由紀夫がタクトを振るオーケストラ版、「軍艦」がいわば窯変したような(7)「ミャンマー国軍」(ミャンマー)、(25)「日本海軍の歌」(インドネシア)の類、あるいは(17)ベルリン・フィルや(18)ムーラン・ルージュの演奏をはじめ、(23)バッキー白片、(24)寺内タケシや(26)チンドンの菊乃家など、合唱・吹奏楽以外の演奏まで、様々な変わり種を聞くことができる。
ちなみに、1903年録音の(10)海軍軍楽隊による初録音は、私の手許にある日本の音源としては最も古い。
(1998.10.02.追記:小久保さん、メールありがとうございました。)
- 1998.07.08.記:音楽学講義...11:多様なジャズの姿
- John Coltrane (ss), etc. (1960)「My Favorite Thing」....『My Favorite Thing』(Atlantic:1988)
- John Coltrane (ts), etc. (1964)「Acknowledgement」....『A Love Supreme』(Impulse:1986)
- Bill Evans (p), etc. (1958)「Night And Day」....『Everybody Digs Bill Evans』(Riverside:1987)
- Bill Evans (p), Stan Getz (ts) etc. (1964)「Night And Day」....『Stan Getz & Bill Evans』(Verve/ポリドール:1990)
- Ornette Coleman Double Quartet (1960)「Free Jazz」....『Free Jazz』(Atlantic:1988)
- Grant Green (g), etc (1970)「Sookie Sookie」....『Alive !』(Blue Note/Capitol Records:1993)
- Miles Davis (tp), etc. (1972)「On The Corner」....『On The Corner』(Columbia:1993)
- Weather Report (1979)「Birdland」....『8:30』(Columbia:1994)
- John Zorn (1989)「Batman」....『Naked City』(Elektra Nonsuch:1989)
- Helen Merrill (v), Stan Getz (ts), etc. (1989)「Just Friends」....『Just Friends』(Nippon Phonogram Co./PolyGram Classics:1989)
国立音楽大学の音楽学講義も前期の最後、11回目となり、ジャズの部を締めくくるために、大忙しで1960年代以降の音源を紹介した。
まず、前回を引き継いで、モード・ジャズの古典的な作品として、コルトレーンのヒット作(1)(2)をかけた。コルトレーン自身は「モード」という発想ではなく「細分化されたコード・チェンジ」という考え方に基づいて自分の演奏を認識していたが、ここでは、モード・ジャズの範疇に入れておく。
次に、モード・ジャズの成熟という視点から、ビル・エヴァンスのピアノで同じ曲(3)(4)を聞き比べてみよう。もちろん、(3)の段階でもモード的な響きはあるし、(4)についてはスタン・ゲッツの貢献を無視できないが、それらを差し引いても、(4)におけるエヴァンスの演奏の奔放さは魅力的で、数年の間に進んだモード奏法の成熟が感じられる。
モード・ジャズは、より自由な即興への試みが生み出したものであったが、それをさらに乗り越え、極限にまで進めていこうという動きが、やがて1960年代にフリー・ジャズを生み出していく。(5)は、その第一歩となった歴史的な録音。フリー・ジャズを通過した1960年代以降のジャズは、クラシック〜現代音楽とは別の意味で、芸術音楽として制度化されていくようになった。ジャズは、インテリが難しい顔をして聴く音楽として再編されていくことになると同時に、黒人アイデンティティの高揚の中で、黒人文化の粋として称揚されていくことにもなる。
同時に、ポピュラー音楽が、ロックの時代、あるいは黒人音楽にとってのソウル/ファンクの時代に入ったことから、そうしたポピュラー音楽の文法をジャズに持ち込む試みが、様々な形で展開した。(6)は、単純化されたフレーズ(というかリフ)と、巧みに刻まれた16ビートのリズムを特徴とするソウル/ファンク風で、近年イギリスのUS3がラップをのせるトラックに使ってヒットさせた佳作である(もっともそこでは、肝心のグリーンのギターは聞こえないのだが)。ジャズと他分野、特にロックとの交流の試みは、クロスオーバーとかフュ−ジョンと呼ばれたが、そこでは、(7)のように、いわば硬派な実験的な取り組みもあれば、(8)のように、軟派な聞き易い音楽を生み出す方向もあった(もっと屑みたいな超軟派は多いし、実際セールスは良かった)。
1980年代以降、ポストモダン状況の下で、ジャズは多様な歴史的文脈への引用を行い、ますます多様なジャズが展開されている。ジャズはアメリカでは大学で教えられるものとなり、大学でジャズの楽理を学んだプレイヤーが輩出するようになった。授業では紹介しないが、マルサリス兄弟のような「新伝承派」から、(9)ジョン・ゾーンのパンクまで、ジャズのフロンティアも多様化している。そして確実なことは、もはやジャズがポピュラー音楽の中で占める比重は小さくなったという状況である。
ちなみに、最後の(10)は、自分の趣味を反映させたおまけ。このアルバムは、日本の会社のプロデューサーがフランスの財団の金を引き出して録音し、世界で発売したもの。ゲッツ最晩年の充実した演奏が聴かれる名盤だと思う(ちなみに、ゲッツは駄作も多いというのが通説)。パリで活躍するヨアヒム・キューンのピアノ・トリオを従えたゲッツが、気持ちよく演奏している様子が伝わってくる。もちろん、ヘレン・メリルの声は「おばさん」になっても魅力的だ。
というわけで、前期の講義は終了した。後期は、ロックンロールの誕生前後から、メディアや社会と音楽の関わりに注目しながら、「ロック時代」のポピュラー音楽の姿を追いかけていくこととしたい。
- 1998.07.07.記:音楽学講義...10:バップ革命
- Charlie Christian (g), Thelonious Monk (p), etc. (1941)「Swing To Bop」....『Charlie Christian/Swing To Bop』(Natasha Imports:1993)
- Thelonious Monk (p), Art Blakey (d), etc. (1947)「Thelonious」....『THE BEST OF THELONIOUS MONK』(Blue Note/Capitol Records:1991)
- Dizzy Gillespie (tp), Charlie Parker (as) (1945)「Groovin' High」....『Groovin' High』(Savoy/日本コロムビア:1992)
- Dizzy Gillespie (tp), Charlie Parker (as) (1945)「Salt Peanuts」....『Groovin' High』(Savoy/日本コロムビア:1992)
- Dizzy Gillespie (tp), Charlie Parker (as) (1945)「Shaw 'Nuff」....『The Complete "Birth Of The Bebop"』(STASH:1991)
- Ella Fitsgerald with The Dizzy Gillespie Orchestra (1947)「How High The Moon」....『IT HAPPENED ONE NIGHT』(Black Label (Canada):n.d.)
- Dizzy Gillespie (tp), Charlie Parker (as) (1947)「Night In Tunisia」....『IT HAPPENED ONE NIGHT』(Black Label (Canada):n.d.)
- Miles Davis (tp), Max Roach (d), etc. (1949)「Move」....『BIRTH OF THE COOL』(CBS:1989)
- Miles Davis (tp) (1957)「Generique」....『Ascenseur pour l'echafaud』(Fontana/日本フォノグラム:1988)
- Miles Davis (tp), Wynton Kelly (p), etc. (1959)「Freddie Freeloader」....『Kind Of Blue』(CBS/SONY:1990)
国立音楽大学の音楽学講義の10回目は、1940年代から1950年代の、いわばジャズの黄金期でもあるビバップ/バップ革命について論じた。以下、選曲と曲順は実際の講義とは若干入れ替えてあるが、講義の流れに沿った音源を紹介する。
スウィング・ジャズの時代に、コンボ演奏によるジャム・セッションの中から、より自由な即興演奏(インプロヴィゼイション)を求める試みが模索されたことは、前回既に説明した。例えば、いわゆる「ミントン・プレイハウスのチャーリー・クリスチャン」として知られる歴史的なプライベーイト録音の記録である(1)では、自由奔放なギターの動きを聞くことが出来る。この時期から、コードの束縛から逸脱し、なおかつ気持ちの良い音、言い換えれば、ぎりぎりのところで「楽音」に踏みとどまるような音を連ね、即興演奏を組み立てることに、多くのプレイヤーが熱中した。その結果、安定したコード転換から脱する多様な試みが展開され、バップ革命の名で総称されるようになっていったのである。
スウィングと対置する形で、バップの革新性を楽理的に述べることは、一応可能であろう。しかし、肝心な点は、プレイヤーたちは、新しい楽理を発見し、それに沿って演奏したわけではなく、彼らの感性が発展させた新しい音の体系が、後から楽理的に、あるいは細分化されたコード・チェンジとして、あるいはモード奏法的な手法として、説明されるに過ぎないということである。
通常のコード進行からの逸脱と、それに変わる音の体系の構築という意味では、バップの特色はピアノ曲によく表れるといえるかも知れない。(1)ではおとなしい伴奏者だったセロニアス・モンクも、(2)で聞かれるように、バップ革命の体現者となっていった。しかし、バップ革命を体現した人物といえば、何といってもチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーを挙げなければならない。(特に、伝説的存在であるパーカーとの対比で、軽視されがちなガレスピーの貢献は特に強調されるべきである。)(3)〜(7)は、二人の絶妙なコンビネーションと、当時としては画期的なキーワークが聴ける演奏である。(5)〜(7)は、ライブ録音で、(5)はMCなども入って雰囲気がよくわかる。(6)(7)は、プライベート録音。(6)ではエラ・フィッツジェラルドのこれまた圧倒的なスキャットが聞かれる。この演奏は、当時の彼らの最高のものとは考えにくいが、逆にベストでなくてもこれだけの質の演奏を展開していたという事実は重要であろう。
バップの大きなうねりの中で、パーカー/ガレスピーに代表される「ホット」な演奏とは異質な流れを作り出したのは「クール」なスタイルを作り上げていったマイルス・デイヴィスだった。元々、(8)のようにブラス中心の特異な音を模索するなどしていたデイヴィスは、「クール」と称された個性的なスタイルで人気を博し、(9)のように様々な場面で活躍したが、やがてピアニストのビル・エヴァンスとの共同作業の中から、モード・ジャズのスタイルを確立していく。(10)のピアニストはエヴァンスではなく、むしろよりオーソドックスなスタイルのウィントン・ケリーだが、それだけにこの時期のデイヴィスが到達したモード奏法がよく表れている演奏である。
さて、ポピュラー音楽を、商業的に成功し、風俗として社会的に大きな広がりをもつ音楽と捉えるならば、ジャズが間違いなくポピュラー音楽の中心にあったのは、ある意味ではこの頃、つまり1950年代までかも知れない。モード・ジャズ以降のジャズは、クラシック音楽とは別の意味での芸術音楽としての指向性を色濃くしていくことになる。また、これ以降の時代に登場した様々なメディアが、ロックという新しいポピュラー音楽の核を生み出したことも考慮しておくべきだろう。しかし、メディアとの共鳴の中で展開してきたジャズは、これ以降もポピュラー音楽の一角で一つの流れを形成し続けるのである。
- 1998.06.26.記:音楽学講義...9:スウィング・ジャズの展開
- Benny Goodman Trio (1936)「Tiger Rag」....『JAZZ TRIBUNE No13 BENNY GOODMAN VOL.1/2』(RCA/BMG France:1992)
- Benny Goodman and His Orchestra (1938)「Don't Be That Way」....『JAZZ TRIBUNE No65 The Indispensable BENNY GOODMAN VOL.5/6』(RCA/BMG France:1994)
- Benny Goodman and His Orchestra (1938)「Sing Sing Sing (With A Swing)」....『CARNEGIE HALL JAZZ CONCERT』(Sony:1992.10.21.)
- Benny Goodman Sextet (1939)「Flying Home」....『BENNY GOODMAN SEXTET, FEATURING CHARLIE CHRISTIAN (1939-1941)』(CBS:1989)
- Glenn Miller Orchestra (1939)「Moonlight Serenade」....『MOONLIGHT SERENADE』(RCA/BMG:1992)
- Glenn Miller Orchestra (1939)「In the Mood」....『MOONLIGHT SERENADE』(RCA/BMG:1992)
- Tommy Dorsey and His Orchestra (1940)「It's A Lovely Day Tomorrow」....『TOMMY DORSEY/FRANK SINATRA-ALL TIME GREATEST HITS, VOL.3』(RCA/BMG:1989)
- Tommy Dorsey and His Orchestra (1940)「Shadows On The Sand」....『TOMMY DORSEY/FRANK SINATRA-ALL TIME GREATEST HITS, VOL.3』(RCA/BMG:1989)
- Django Reinhardt, Coleman Hawkins etc. (1935)「Avalon」....『DJANGO REINHARDT』(RCA/BMG Victor:1994.11.23.)
- Django Reinhardt, Stephen Grappelli etc. (1936)「Oriental Shuffle」....『DJANGO REINHARDT』(RCA/BMG Victor:1994.11.23.)
国立音楽大学の音楽学講義の9回目は、スウィング関係の音源を紹介した。
スウィング・ジャズは、白人の消費者のために白人が担う(しかし黒人ミュージシャンへも一定のリスペクトを払った[ふりをする])ポピュラー音楽として、1930年代のアメリカを席巻した。スウィングの音楽様式的な意味での革新性については、ニューグローブ音楽事典の「ジャズ」の項目に典型的に現れているような、黒人作編曲者の貢献を強調し、メディアを通じてポピュラリティを獲得したスターたちとは異なるミュージシャンたちを、歴史的に高く評価しようとする言説がしばしば展開される。しかし、一方では、1950年代のハリウッド映画、例えば『ベニー・グッドマン物語』や『グレン・ミラー物語』に表現された言説(そこには多くの美化=歪曲、神話化の操作が施されている)も存在している。
講義では、こうした言説の多様性を指摘しながら、後者のタイプの言説において、スウィング・ジャズの成立に重要な役割を果たしたとされるベニー・グッドマン関係の音源をまず紹介し、さらに「スウィート」で「白っぽい」方向へと幅を広げながら、いくつかの音源を紹介した。
スウィング・ジャズのスタイルは、楽団=ビッグ・バンドを中心に成立したものだが、同時にスウィングの手法を少人数編成の「コンボ」で表現する試みも積極的に展開された。特にグッドマンは、楽団としての演奏活動と並行して、精力的にコンボでの演奏を重ねた。(1)は、O.D.J.B.以来のスタンダードの演奏だが、リズムや楽器間のやりとりなど、スウィングの革新性がよく表れた演奏になっている。(2)(3)は、ビッグ・バンドによるスウィングの典型的な演奏で、ソロ楽器と他の管楽器のやりとりや、リズム・セクションの動きなど、特徴がよく分かる((3)は、歴史的なカーネギー・ホール公演のフィナーレの演奏)。ユダヤ人であったグッドマンは、(当時の水準としては)積極的に黒人プレーヤーと共演し、楽団のメンバーにも採用した。楽団の曲の多くを黒人編曲者フレッチャー・ヘンダーソンに委ねたことが、楽団の成功を支えたことは、『物語』でも象徴的に描写されている。(4)は、(グッドマンの相棒であるテディ・ウィルソンではなく)ヘンダーソンがピアノを弾き、チャーリー・クリスチャンのギター・ソロが聞かれるという、興味深い演奏である。
スウィングの時代には、無数の楽団が活動していたが、その人気は必ずしも音楽的革新性と直結していたわけではなかった。例えば、グレン・ミラーは、傑出した存在とはいいにくいが、WASPの出身で、軍人として最期を迎えたことから、その死後において米軍の軍事放送網を通じて世界的に知られるようになった。(5)はミラーの資質をよく表した代表曲であり、(6)は日本の戦後世代にとって、時代を象徴する曲と受けとめられているほどである(例えば、『瀬戸内少年野球団』)。
また、現代における「ロック」という言葉があらゆる音楽を包含するように、同時代的にもスウィングには多様な広がりがあった。「スウィング王」グッドマンに対し、「スウィングのセンチメンタル・ジェントルマン」と呼ばれたトミー・ドーシーは、「スウィート」で「白っぽい」スウィングを担っていたが、彼の楽団は、楽団付き歌手であったフランク・シナトラのアイドル的な人気によって加速された側面がある。クルーナー(さえずるように歌う人)と称されたシナトラの歌唱スタイルは、マイクロフォンの性能の向上によって可能になったものであった。シナトラの歌うドーシー楽団の演奏には、(7)のようにインストゥルメンタルが中心で歌も付いているというスタイルと、(8)のように全面的にシナトラの歌を聴かせるスタイルとがある。
さらに、スウィングは、メディアを通じて米国のみならず欧州にも広がり、例えばフランスでも独自のジャズ・シーンが形成された。その中でスターだったのが、ジプシー出身のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトである。(9)のようなバンド編成による演奏もさることながら、(10)のような少人数編成の演奏を聴くと、その特異なスタイルがよく理解できることだろう。
スウィングの一つの魅力は、スコアに記された編曲によって緻密に組み上げられたリズムとハーモニーであった。しかし同時に、少人数の編成=コンボにおける自由な即興演奏への指向性も、スウィングがもたらした帰結であった。スウィング時代の演奏者たちは、スコアを読みそれを奏でることで生計を立てながら、より自由な演奏スタイルを模索していたのであり、それがやがて次の時代におけるジャズの変貌への道を用意したのであった。
- 1998.06.18.記:音楽学講義...8:アメリカ社会の消費社会化とジャズ
- Artie Shaw (1936)「The Japanese Sandman」....『THE ESSENCE OF ARTIE SHAW』(COLUMBIA/LEGACY:1994)
- Bessie Smith acc. by Armstrong and Longshaw (1925)「St. Louis Blues」....『The Complete Louis Armstrong & the Singers 1924/30』(King Jazz/Camarillo Music [スイス]:1993)
- Duke Ellington and His Cotton Club Orchestra (1928)「The Mooche」....『Duke Ellington Volume 4 1928』(Masters of Jazz/Media 7 [フランス]:1992)
国立音楽大学の音楽学講義の8回目は、音源はほとんど紹介せず、初期ジャズの歴史をあえて単純に図式化して説明した。
19世紀末から20世紀初頭にかけて形成されたニューオリンズ・ジャズが、ポピュラー音楽として重要な役割を果たすようになった背景としては、まず、20世紀初頭から1920年代にかけてのアメリカ社会が、消費文化を基軸とした豊かな社会として経済成長を遂げ、日常生活の中に商品としての音楽=録音盤が浸透していったことが挙げられる。また、当時のアメリカ社会における白人/黒人という対立の構図と、黒人文化に向けられた白人の建て前としての嫌悪(黒人=罪深い、という図式)と、好奇心が、「白人が安心して接触できる黒人文化」への受容を形成していたことを、理解しておく必要があろう。特に、ミンストレル・ショーの伝統、初期ジャズにおける白人(例えば、O.D.J.B.)やクレオール(例えば、Jelly Roll Morton)の役割などは、十分理解しなければならない。
ニューオリンズ・ジャズが、メディア=ラジオとレコード=を介して、ポピュラー音楽として成功したことは、一方では有力な黒人ミュージシャンたちに活動の場を作ることになったが、それ以上に「スウィート・ミュージック」と称された、弦楽などを大幅に取り入れた編成の白人楽団が、「ジャズ」という呼称を独占する状況を作り出した。1920年代については、ジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーターから、ミュージカル/ミュージカル映画への流れを本当は抑えておかなければならないのだが、ここでは割愛する。大事な点は、「ジャズ」という呼称が、メディアによってダンス音楽の呼称として今日とは異なるイメージで用いられたという点である。(スウィート・ミュージックの流れは、次のスィング時代になっても(1)アーティー・ショーらによって継承されていった。)
黒人ミュージシャンが一定の活動の場をニューオリンズのみならず、ニューヨークなど、各地の大都会で確保するようになったこと、白人ミュージシャンの中に黒人音楽への関心を持つ者が登場するようになったことは、次のスウィング時代への道を開く現象であった。この当時に台頭した黒人ミュージシャンたちの中には、(2)ルイ・アームストロングのような卓抜したブレーヤーや、(3)デューク・エリントンのような作編曲者がいた。彼らはその後、ジャズの歴史に長く足跡を刻むことになる。
- 1998.06.18.記:音楽学講義...7:初期のデキシーランド・ジャズ(ニューオリンズ・ジャス)
- Original Dixieland Jass Band (1917)「Livery Stable Blues」「Dixie Jass Band One Step」....『THE COMPLETE ORIGINAL DIXIELAND JAZZ BAND U.S.A. RECORDINGS 1917/21』(King Jazz/Camarillo Music [スイス]:1993)
- Jelly Roll Morton (piano roll: date unknown)「Shreveport Stomp」....『ORIGINAL RAGTIME CLASSICS FROMTHE ORIGINAL PIANO ROLLS』(Charly Records:1993)
- Original Dixieland Jazz Band (1919)「Tiger Rag」....『THE ORIGINAL DIXIELAND JAZZ BAND IN LONDON 1919/20』(King Jazz/Camarillo Music [スイス]:1993)
- Jelly Roll Morton (1938)「Tiger Rag」....『The Library of Congress Recotdings Vol.1』(Solo Art Records:1990)
- Jelly Roll Morton's Kings of Jazz (1924)「Tiger Rag」....『JELLY-ROLL MORTON 1924-1926』(Classics Records [フランス]:1991)
国立音楽大学の音楽学講義の7回目、今回から、いよいよ、ポピュラー音楽の代表的なジャンルであるジャズの歴史を取り上げる。
ジャズの最古の録音とされるもの(1)は、白人のみのオリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド(O.D.J.B.)によるニューヨークでの録音である。しかし、彼らが演奏したスタイルの音楽は、それ以前の19世紀末から、ニューオリンズの黒人社会の社交場を中心に練り上げられてきたものと考えるべきだろう。ニューオリンズ・ジャズ、あるいは、(初期の)デキシーランド・ジャズと称されるこのスタイルは、管楽器のポリフォニックな合奏を特徴とし、コミカルな要素(動物の鳴き声を模写するアニマル・ノベルティなど)をも取り入れた、陽気な音楽である。
デキシーランド・ジャズのスタイルを考える上では、管楽器のアンサンブルの問題と並んで、ラグタイム・ピアノの音楽について検討する必要がある。ピアノ・ロールに残されたジェリー・ロール・モートンの演奏(2)のように、ラグタイムは、踊りの場面を盛り上げるための華やかな音楽である。低音部でビートを叩きだしながら、過剰なほどの装飾音を盛り込んで変奏を重ねるラグタイムは、踊りの伴奏という場面における試行錯誤の中から生まれたスタイルであった。そうした経緯をよく表しているのが、晩年のモートンが米議会図書館の求めに応じて収録した解説つきの『タイガー・ラグ』の演奏(4)である。この曲はO.D.J.B.の曲であるが、モートンはこれを自作だと主張しながら、フランスのカードリル舞曲からモチーフをとって『タイガー・ラグ』が構成されている過程を「再現」してみせる。モートンの主張には誇張や嘘が盛り込まれており、それを鵜呑みにはできないが、当時のラグタイムが、文字どおり既存の曲のリズム改編を軸とした変形から生まれたものであり、それが管楽器のアンサンブルにインスピレーションを与えたというプロセスには、説得力がある。
(授業では詳しく触れていないが、『タイガー・ラグ』は自分の作だ、というモートンの主張が怪しいのは、O.D.J.B.の演奏(3)より後に発表されているモートンの楽団の演奏(5)で、議会図書館録音でモートンが強調していた主張<肘で鍵盤を叩く「虎の吼え声」にちなんで俺が曲名をつけた>に反して「虎の吼え声」が聴かれないことなどからも、明らかであろう。)
- 1998.06.05.記:音楽学講義...6:マーチ(ブラス・バンド)
- フレデリック・フェネル指揮/東京佼成ウィンド・オーケストラ『決定盤! 世界のマーチ・ベスト20』(キング:1986)
作曲者(作曲年)
- Joseph Franz Wagner (1890): Under the double eagle 双頭の鷲の旗のもとに
- John Philip Souza(1888): Semper Fidelis 忠誠
- John Philip Souza(1892): Manhattan Beach マンハッタン・ビーチ
- John Philip Souza(1895): King Kotton キング・コトン
- John Philip Souza(1897): The Stars and Stripes Forever 星条旗よ永遠なれ
国立音楽大学の音楽学講義、5月20日の5回目の講義の最後から、5月27日の6回目にかけては、ポピュラー音楽への前史となる19世紀の音楽の諸形態について言及した。本来なら、ここで、例えばオペラ(特にアリアの扱い)〜オペレッタ〜ミュージカルといった流れについても、触れるべきだが、山田の能力の限界と時間配分の関係で割愛し(^-^;)、もっぱら19世紀における軍楽としての行進曲の発展と、軍隊を通じた金管楽器および演奏法の普及、産業革命期における金管楽器の急速な技術的改良(木管楽器の金属化も含む)について講じた。
楽曲として取り上げたうち、最初の2曲は第5回の最後に、残りは第6回にかけた。
マーチという形式の楽曲は、日常生活の中で耳にする機会が多い割には、あまり真剣に聴かれることの少ないものである。その意味では「消費」されている音楽の典型かもしれない。行進という機能的な性格も、芸術音楽の基準から見れば、格の低いものであることを示唆している。しかし、芸術音楽としてクラシック音楽が完成期を迎えた19世紀に、そこで用いられた管楽器を動員して構成されるようになったマーチは、様々な意味で、ポピュラー音楽の先駆けとなった、と位置づけることができる。
オーストリアの軍楽隊のために書かれた(1)や、アメリカの海兵隊のために書かれた(2)のように、マーチは軍隊の実用の中から生まれ、実用上の都合から様々な制約条件や特徴をもっていた。多くのマーチの曲が、専業の作曲家によってではなく、実際に楽団を指揮する指導者によって書かれたのは、そうしたマーチの特殊性のためであった。しかし、実用指向のマーチも、やがてエンターテイメントとしての性格を強くしていく。「マーチ王」と称されたJ・P・スーザ(1854-1932)は、軍隊を離れた後、遊園地での演奏(3)や、博覧会での演奏(4)のために名曲を数多く生み出した。クラシックに通じる荘重な響きと、大衆性の同居するマーチは、儀式的イベントにおいて大きな力を発揮するようになる。「アメリカの第2国歌」と称される(5)は、その好例である。
(.....しかし、今回はCD1枚で済ませちゃった。ちょっと手抜きかな???)
(2000.05.18.追記:東経大OBの荒尾秀春さんからコメントをいただきました。別ページでやりとりを公開しています。荒尾さん、ありがとうございます。)
- 1998.06.05.記:音楽学講義...5:アコースティック録音の時代
- August Junker (1907)「A Bier will i hab'n」...『Munchen』(TRIKONT [ドイツ]:1994)
- Geraud Sudre (1906)「Delai lo bouscotel」...『L'ACCORDEON EN AUVERGNE』(SILEX/AUVIDIS [フランス]:1996)
- Lovey's Trinidad String Band (1912)「Trinidad Paseo」...『TRINIDAD 1912-1941』(Harlequin [イギリス]:1992)
- Orquesta Casas (1919)「Poca Pena」...『Early Music of the North Caribbean 1916-1920』(Harlequin [イギリス]:1995)
- ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/アルトゥール・ニキシュ指揮 (1913)「ベートーヴェン交響曲第5番『運命』」...『ベルリン・フィルと大指揮者たちI−ニキシュ』(Deutsche Grammophon/Polydor:1990)
- Joseph Moskowitz (1916)「Hungarian Dance No.5 (Brahms)」...『The Art of the Cymbalom』(Rounder Records [アメリカ]:1996)
ちょっと手が空かず、国立音楽大学の音楽学講義の5回目以降の報告が遅くなってしまった。
5月20日の5回目の講義は、前回最後にかけたカストラート、テノールに続いて、様々なアコースティック録音の音源を紹介した。(ここでは事前の準備段階でのメモを元にリストアップしているので、実際の講義の時は多少違った順番・選曲であったかもしれないが、悪しからず。)
まず(1)は、寄席芸人の歌(ピアノ伴奏つき)。このCDのライナーには、歌い手であるアウグスト・ユンカー(ともう一人)が録音機の集音ラッパに向かって歌っている様子をとった写真が載っている。
(2)は、アコーディオンの独奏。CD表題に「オーベルニュ地方のアコーディオン」とあるが、ここで演奏されるのはオーベルニュの三拍子の舞曲ブレー。
伴奏付きの歌唱や、楽器の独奏の場合と違い、アコースティック録音による大きめの編成の楽団の録音には、適正な音量のバランスをとりにくいという困難があった。それでも、初期の段階から、様々な形態の録音が試みられていた。また、録音機材が普及し、改良されるまでが、様々な録音がもっぱらニューヨークで行われた。(3)は、トリニダードの楽団によるニューヨークでの録音。しかし、やがて録音機材の改良・普及により、フィールド・レコーディングあるいは出張録音によるレコード制作が可能になっていく。(4)は、そうした中で、1919年にハバナで録音されたもの。
(5)は、最も初期のオーケストラの録音の例。この録音については、楽器ごとの配置などについて、様々な工夫が成されたことが「伝説」となっている。
(6)は、この時期の録音の中で、山田が個人的に気に入っているチンバロンの演奏(ピアノ伴奏つき)。奏者ジョセフ・モスコウィッツ(1879-1953)は、ルーマニア生まれのユダヤ人で、ニューヨークでレストランなどを経営し、自分の店で演奏を披露していた(!)のだという。
- 1998.05.16.記:音楽学講義...4:自動演奏機械と初期の録音
- Haydon organ clock (c1790)...『De koekoek en de nachtegaal』(Nationaal Museum van Speelklok tot Pierement:?)
- ディスク・オルゴール「カリオペ」(1880年頃)...『アンティーク・オルゴール・コレクション』(ビクター:1988)
- Libellion book-playing musical box...『Musical Memories』(Nationaal Museum van Speelklok tot Pierement:[1989年録音])
- Raffin R31/301 Trompetenorgel...『Lasst Euch gruessen』(Domino Vision:1988?)
- Piano Melodico (c1900)...『Festival of STRINGS』(Nationaal Museum van Speelklok tot Pierement:1993)
- Cafe' cylinder piano "Tingel-Tangel" (c1930)...『Festival of STRINGS』
- Reproduction grand piano YAMAHA Disklavier (1989)/ played by G.Gershwin...『パーフェクト・ピアノ・ロール〜ガーシュウィン・プレイズ・ガーシュウィン』(NONESUCH/ワーナー:1993)
- Reproduction grand piano Steinway Welte (c1915)/ played by C.Debussy...『Festival of STRINGS』
- Alessandro Moreschi(カストラート:1902年録音)...『Moreschi-the Last Castrato』(PAVILION RECORDS:1987)
- Enrico Caruso(テノール:1905年録音)...『Caruso sings Verismo Arias』(BMG:1992)
国立音楽大学の音楽学講義の4回目は、はじめて音源紹介中心の講義にして、多数のCDをかけた。
前回を引き継いだ13日の講義は、自動演奏機械の音を8種類、初期のアコースティック録音(電気録音=電気的に信号を増幅させる方法=以前の録音のこと)を2種類紹介した。自動演奏機械については機種名、歌手については名前と、出典のCDの表題のみを記した。
(1)は「機械仕掛け=クロックワーク」のオルゴール付き時計。固定したメロディを奏でるところから自動演奏機械の歩みははじまった。やがて、(2)ディスク・オルゴール(ここの収蔵品)などによって、いろいろな曲の演奏が可能になり、さらに、(3)ブック型の記録方法によって、演奏時間の制限などが緩和され、様々な形態の演奏が再現可能となった。その多くは、録音の精度の向上の結果、姿を消していったが、(4)手回しのストリート・オルガンのように現在まで生き延びているものもある。
あらかじめプログラムされた指示に従って音を奏でる自動演奏は、(5)人間の演奏とは異なる「超絶技巧」が表現されたるなど、独自の発展を遂げ、(6)酒場のアトラクションとして1930年代まで生き延びた。また、自動演奏の機構を逆に利用して演奏を記録することが発想され、リプロダクション(再生)ピアノが出現し、録音技術の未熟な時代の演奏が数多く記録された。こうして(7)ガーシュウィンや(8)ドビッシーらのピアノロールが残されたが、その再生方法の性格故に、キータッチの加減は記録されていない。
録音技術は、エジソンによる蝋管蓄音機の実用化以降、徐々に発展をしたとはいえ、アコースティック録音の時代(19世紀最後の四半世紀から20世紀最初の四半世紀にかけて)には、鮮明な音を得ることは困難であった。手元にある年代の古い録音(をCD化したもの)として、(9)カストラート、や(10)テノールを聴かせた。以下、次回は、20世紀初頭の様々な形態の音楽の録音を聴かせる予定。
- 1998.05.07.記:音楽学講義...3:音楽の複製への試み
- Nationaal Museum van Speelklok tot Pierement『A History of Mechanical Music』(英語版ビデオ:宮崎商会を介して通信販売で入手したもの)
国立音楽大学の音楽学講義の3回目は、CDは使わず、ビデオを使ってみた。
6日の講義では、ポピュラー音楽を「もっぱら<近代的な産業社会における商品生産の枠組みの中で生産消費される音楽>として様式が確立された音楽」と捉える視点から、ポピュラー音楽への移行期、ないし、前史としての十九世紀ヨーロッパの娯楽・都市文化について、おおよその枠組みを示した。
キーワードとして、音楽の「商品化」と「複製/大量生産」を取り上げ、おもに前者との関係でパトロネージと興行の問題、都市における演奏会場の問題などに言及した上で、「商品化」にもつながる音楽の「複製」への動きとして、楽譜出版とともに自動演奏機械のことを話した。
このビデオでは、カリオン、からくり時計、シリンダー式オルゴール、ディスク・オルゴール、ブック式自動演奏オルガンなどが紹介されている。こうした機構が、今日のMIDIや通信カラオケ、打ち込みに繋がるものであることを説明したのだが、時間が不十分だったこともあって、十分に趣旨が伝わったかどうかは心許ない。次回で、蓄音機の話をする際に、補足しなければいけないだろう。
- 1998.04.24.記:音楽学講義...2:純粋に音を聴く....なんて可能なのだろうか?
- ショルティ指揮+ウィーン・フィルハーモニック管弦楽団『「ニーベルングの指環」/管弦楽名演集』(ポリドール/LONDON:1983.07.01.→1993.04.24.)
再度、国立音楽大学の音楽学講義の時間に紹介したCDに触れる。
22日の講義では、前回のフォローの後、まず解説なしで(1)「ヴァルキューレの騎行」をかけ、次に背景としての北欧神話の知識を講義した上で再度かけ、さらに映画『地獄の黙示録』(本当はビデオを見せたかったが果たせず)におけるこの曲の使われ方について説明した。時間の関係で、映画の説明の後で再度CDをかけることはしなかった。講義では、このほか、ロダンの「考える人」などの例で、コンテキストの与えられ方で作品の印象が変わることを説明した。
その上で、「クラシック音楽」的なコンテクストへの知的欲求のあり方と、「ポピュラー音楽」的なコンテクストへの知的欲求のあり方が違うことを明らかにし、「クラシック音楽」にもみられる「ポピュラー音楽」的なファンダムの問題などに触れながら、音楽そのものというよりも、音楽を契機として生じる知的欲求、情報の希求のあり方が「クラシック」と「ポピュラー」の差異の根本にあることを説明した。
私たちは、めったに音そのものと純粋に向き合うことはない。何の説明もない未知の音をはじめて聴くときも、私たちはこれまで耳にした音の記憶との対比の上で、その音を意味づけようとする。私たちは、音を聴くとき、必ずそれに付随する知識や「物語」、あるいは音の記憶や理念を、一緒くたに消費しているのである。その「音以外」の部分にこそ、「クラシック音楽」と「ポピュラー音楽」を区切る側面が存在しているのだろう。
- 1998.04.16.記:音楽学講義...1:これは「クラシック」か?
- すぎやまこういち(作曲・指揮)+NHK交響楽団『交響組曲「ドラゴンクエストV」』(APOLLON:1992)
- 石川セリ『翼 武満徹ポップ・ソングス』(DENON/日本コロムビア:1995.11.21.)
わざわざ「私的ページ」として置いてあるこのページだが、今年度は、ときどき「公私混同」させて、国立音楽大学の音楽学講義の時間に紹介したCDについて、このページでも書き込んでいきたい。昨日(4/15)はじめて国立音大の教壇に立った。実は、先週から開講だったのだが、何と初っぱなからポカミスで無届け休講をやらかしたので、昨日から始める形になったのである。(関係者の皆さま申し訳ございません_0_)
さて、講義の最初は「ポピュラー音楽」という言葉が指し示す内容についての検討に数回をかけるが、その第一歩として簡単なアンケートをやった。<間違いなく「ポピュラー音楽」といえる音楽の例は何か?>、<どのような意味でも「ポピュラー音楽とはいえない音楽の例は何か?>といった質問を通して、各人がもっている「ポピュラー音楽」という言葉の語感をあぶり出そうというわけである。
1回目の講義ということで、言葉の「定義付け」の試みなり、言葉を巡る「言説」の整理などは踏み込んでいないが、考えさせる(考えを混乱させる?)ヒントとして紹介したのが、この2枚からの各1曲。どちらも、予備知識をいっさい与えず(タイトル等も告げずに)聴かせてみた。
前者は、ドラクエVのゲーム音楽を、組曲化し、N響で演奏したもの。オリジナルのゲーム音のCDと2枚組になっている。かけた曲は終曲の『結婚ワルツ』。これだけ聴かせてもワルツであること以上は、学部学生には察せられなかったようだった。「クラシックだと思う」と答えた者もいた。同じ曲を大学院の講義でもかけてみたのだが、こちらではさすがに「ディズニー風」「映画音楽風」「少なくともクラシックとはいえない」といった的確なコメントが出てきた。面白いことに、(学部の講義で)『結婚ワルツ』を全曲聴いても誰一人、作品が何か判らなかったのに、冒頭に戻ってファンファーレ(『序曲のマーチ』)を聴いた瞬間に「ドラゴンクエスト!」と叫んだ女子学生がいたのである。結局、ゲームを開始するときに何度も聴いたテーマと、全てクリアしないと聴けないメロディの違いがあったということだろう。
後者は、結構話題になった石川セリが歌う武満徹の「ポップ・ソング」作品集。そこから、服部隆之がボサノバ風に編曲した『死んだ男の残したものは』を聴かせた。36名の出席者中、武満作品と知っていたのは2名だった。ちなみに、この曲について個人的なことを補足すれば、子どもの頃、森山良子(だったと思う)が(今にして思えば演出過剰気味で)歌っていたバージョンを聴いたとき、谷川俊太郎の詞に随分衝撃を受けた覚えがある。
- 1998.03.31.記:これもジャズかな、こっちはどうかな。
- 渋さ知らズ『BE COOL』(地底レコード:1995.04.10.)
1997.08.13.にも取り上げた「渋さ」の4枚目にして、初の完全スタジオ録音盤。11名という「渋さ」としては小規模な編成だが、ライブのお祭り騒ぎのコアとなる音の塊が確固とした響きで立ち現れてくる。ライブで聴いていた曲を、スタジオ録音で後から聴き直してみて、不破大輔の書くテーマがキャッチーであることを改めて確認した感がある。怪獣映画をおもわせるテーマで始まる『アングラーズの決闘』(2)は、昨夏の松本でもオープニングで演奏された曲。松本のライブでは、藁で作った大きな<モスラ>がテントの中で羽ばたいていた。(3)『行方知れズ』、(6)『犬姫のテーマ』と、20分前後の大曲が2曲もあるが、いずれも「渋さ」の本領をよく表した演奏になっている。
(1998.06.05.追記:Akaneさんによるページ渋さ知らズ)
- THE MANHATTAN TRANSFER『VOCALESE』(ATLANTIC/WARNER-PIONEER:1985)
おしゃれなコーラスの代表格として、一世を風靡した「マントラ」だが、最近はあまりメジャーな場面に出てこない。国分寺には中古屋「珍屋」の店が数カ所あるのだが、先週末、南口の店で600〜800円で売っていた「マントラ」を5枚もいっぺんに買ってしまった。そのうちの1枚がこれ。(他にも、中野サンプラザのライブとか、錚々たるメンバーをリードヴォーカルに迎えた共演集とかを手に入れた。)
ジャズの名演とされる曲を取り上げ、そのソロ演奏のメロディーに歌詞を付けて歌ってしまう、という VOCALESE の趣向は、もともと彼らのお家芸の一つだが、ここではリーダーのティム・ハウザーが自らプロデュースし、アルバム一枚を丸ごとそうしてしまったところがミソ。歌詞は、歌手でもあるジョン・ヘンドリックスが手がけており、自ら歌手として参加している曲も3曲ある。
特に、ボビー・マクファリンが客演している(6)『アナザー・ナイト・イン・チュニジア』は面白い。(3)『エアージン II』では、ジョンが、オリジナルの録音(1954年)で自分がスキャットしたメロディを歌詞付きで歌っている。
- 1998.03.24.記:ヨーヌ ヨーシュヌ マイハリ〜。
- 大工哲弘(ほか)『チバリヨーウチナー』(音楽センター:1997)
同僚の人類学者M氏に紹介されたCD。「企画・構成:大工哲弘」とクレジットされているように、彼を中心に先島出身のアーティストたちが共同作業で作ったアルバム。実は、下で紹介しているモノノケ・サミットのケースと同じように、かつての労働運動の歌を取り上げているということで、わざわざ取り寄せた。
リフレインの「を」を「へ」に替えるだけでラディカルに含意を転換させた(1)『沖縄を返せ』や、アルバムタイトルと対応している(14)『がんばろう』は、モノノケ・サミットとは微妙にずれたアプローチを見せ、30年以上を経た歌を、歌い嗣ぐことの意義を感じさせる。
しかし、思いがけない収穫だったのは若手の2人組「寿」にパーカッションが加わった3人のユニットによる(5)『与那国ぬ猫小(ゆなぐにぬまやーぐわ)』。八重山民謡とクレジットされているが、モダンなリズム感覚と民謡に通じる女性ヴォーカルの織りなす緊張感が心地よい。音は三線とパーカッション類だけのシンプルで、スカを思わせるノリの良さがある。
- 1998.03.10.記:ふと気づけばこのページも1周年を過ぎました...。
- ソウル・フラワー・モノノケ・サミット『アジール・チンドン』(SOUL FLOWER RECORD/RESPECT RECORD:1995.)
- ソウル・フラワー・モノノケ・サミット『レヴェラーズ・チンドン』(SOUL FLOWER RECORD/RESPECT RECORD:1997.10.26.)
このページをはじめて1年経って(といっても最後の3カ月は更新なしでしたが)、取り上げていなかったのが不思議だったのが、このソウル・フラワー・モノノケ・サミットである。ニューエスト・モデル、メスカリン・ドライブ、ソウル・フラワー・ユニオンといった「ソウル・フラワー」の流れについては、「海賊版電子魂花時報」におまかせしてここでは詳述しないが、要するにソウル・フラワー・ユニオンのアコースティック=チンドン版として、阪神大震災後の被災地における出前ライブ以降、各地で独自のライブ活動を続けているのが、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットである。
とにかく聴いてもらった方が早いのだが、民謡やはやり唄、労働・革命運動との関わりで歌われた唄等々、今日あまり歌われる機会のない「民衆」の唄を、あくまでも現在の状況の中で歌っていく彼らの姿勢には確固たるものがある。もちろん、リーダーである中川敬のポリシーがそこには色濃く反映されている。かつての演歌師同様に、元歌の改作や歌詞を追加といった操作や、その他諸々の工夫を加えながら、歴史の中に封じ込められた「民衆」のエネルギーを呼び起こし、現在を撃つ作業を、彼らほど真摯に、また鮮やかに伸びやかにやってのける表現者は少ないだろう。CD収録曲も大半が生々しいライブの録音である。
2枚とも、ストレートに歌われた哀歌(1枚目の(9)『竹田の子守歌』:2枚目の(6)『安里屋ユンタ』、(9)『カチューシャの唄』など)も取り上げられているが、やはり、1枚目の(1)『復興節』や2枚目の(1)『インターナショナル』のように、巧みに歌詞がいじられたもの、リズムを少し変えただけで面目を一新させた1枚目の(4)『聞け万国の労働者』、等々、にぎやかな曲調のものが特に魅力的。
- 桜井敏雄『ザ・ヴァイオリン演歌』(SONY RECORDS:1992.10.21.)
モノノケ・サミットが取り上げている曲の中でも、演歌師が歌っていた古い演歌は、元の形で聴かれることが少ないものと思う。このCDは、いわば「最後の演歌師」であった桜井敏雄(1909-1996)が、晩年に残した録音の一つ。なぎら健壱が聞き手となったインタビュー(対話)を挟みながら、明治・大正期の15曲が収録されており、演歌師の世界を理解する上では、入門編として重宝である。
(6)『ハイカラ節』、(10)『カチューシャの唄』、(19)『復興節』は、モノノケ・サミットも取り上げている。
演歌師については、「明治・大正期の演歌師」を参照。
このページのはじめにもどる
山田が聴いている音楽(CD):
///(1997年)///(1999年)///(インデックス)///
山田の私的ページへの入口にもどる
山田の公的ページへの入口へゆく
山田晴通研究室へゆく
CAMP Projectへゆく