雑誌論文(その他):2002:
バートン・クレーン覚書
コミュニケーション科学(東京経済大学),17,pp.191-227.


 ページ作成に際して、原論文の明らかな誤植は改め、若干の必要な補足を加えました。訂正・補足した部分は青字で表示しました。
 表は、一部にhtml文書で表現しやすい形に改めている部分があります。また、表1にあった誤植(26636の作曲者名の記載位置の誤り)は訂正してあります。

 バートン・クレーンに関する情報をお持ちの方は、ぜひご連絡ください。

  yamada@tku.ac.jp   〒185-8502 東京経済大学 山田 晴通
バートン・クレーン 歌唱曲リスト///バートン・クレーン リンク集


バートン・クレーン覚書.

はじめに
歌手 バートン・クレーン
「異色外人歌手」の背景
クレーンの歌の由来
記者 バートン・クレイン
「ジャパン・アドバタイザー」時代
「ニューヨーク・タイムズ」時代
おわりに


文献/ディスコグラフィ
謝辞/献辞


バートン・クレーン覚書

山田 晴通


はじめに

 バートン・クレーン(Burton Crane, 1901-1963)は,多才な人物であった。クレーンの名は,昭和初期に,怪しげな日本語で歌った多数のコミカルな録音を残した歌手として,あるいは,敏腕の米紙東京特派員,経済ジャーナリストとして記録されている。しかし,不思議なことに,この興味深い人物について,歌手としての経歴とジャーナリストとしての経歴を包括的に取り上げた評伝は,管見する範囲では見つかっていない。
 本稿は,論考としてまとめられたものではなく,クレーンの業績や経歴について,比較的容易に入手できる資料類を中心に,基本的事項の整理を試みた覚書である。その意味では,やがてまとめられるべき評伝に向けた,資料整理の最初の一歩といってよい。
 こうした中途半端な形で作業の途中経過を発表することには,もちろん躊躇もあった。しかし,情報は,手持ちのものを積極的に発信してこそ,より多くの情報を得られるものである。筆者としては,このように拙い形であっても,クレーンに関心をもつ方々や彼に関する知識のある方々と情報交換する機会がもたらされるきっかけとなるのではないかと期待し,不十分な内容であることを顧みず,本稿の発表に踏み切った。至らぬところは,ぜひとも諸賢のご教示をいただきたい。

歌手 バートン・クレーン

 日本でレコードに声を残したヘンな外人,と言えば第1号は快楽亭ブラックということになろうが,ほぼ彼に次ぐのが昭和初年に片言の日本語で歌った新聞記者,バートン・クレインだろう。(中村,2000,p.128)1)
 中村とうようは,クレーンを紹介する短い記事を,こんな一文で書き始めている。ここで中村は,「クレイン」という表記を選んでいるが,歌手として記録された資料では,レーベルやカタログの記載を含め,この人物の名は一貫して「クレーン」と表記されているので,本稿でもしばらくそれに従うこととしよう。

「異色外人歌手」の背景

 中村は,クレーンが1931年から1934年の間にコロムビア・レーベルで録音したのべ30曲を書き並べ(表1),さらにLP『日本のジャズ・ソング』に寄せられた瀬川昌久の解説によると断わった上で,次のように述べている2)
 クレインはジャパン・アドヴァタイザーという英字新聞の記者。アメリカの古い歌などに片言の日本語歌詞をつけて宴席で歌ったのを,これも米人のコロムビア社長ホワイト氏が聞き面白がってレコード化を実現し,第1作がヒットしたので前述のように力を入れたわけだ。しかしアメリカの本社に転勤になったとかで,姿を消す。(中村,2000,p.128)
 表1 バートン・クレーン、レコード一覧(コロムビア盤:1931-1934)
番号新譜A面:曲名[作詩]B面:曲名[作詩]注記(共演/作曲)
261771931.04.酒がのみたい[森岩雄]家へかえりたい[森岩雄]
263271931.07.ニッポン娘さん☆おいおいのぶ子さん☆女性(不詳)の台詞入り
263711931.08.人生はかない[森岩雄]☆かわいそう[森岩雄]☆天野喜久代
267231931.09.月を眺めよ[森岩雄]コンスタンチノープル[森岩雄]
264841931.10.威張って歩け[森岩雄]夜中の銀ブラ[森岩雄]☆☆天野喜久代
265491931.11.仕方がない[クレーン]モダーン百万パーセント[クレーン]
265851931.12.天の岩戸[森岩雄]雪ちゃんは魔物だ[森岩雄]
266361932.01.酒場の唄[黒田幸夫]ジョッキー・ビール[時雨音羽]A・井田一郎作曲、B・杉山はせを作曲
268961932.06.よういわんわ[クレーン]☆僕色男だ![森岩雄]☆淡谷のり子
270221932.09.恋人に失恋した[クレーン]誰方かやるじゃろ[森岩雄]
273191933.04.女の天下[森岩雄]金の世の中[森岩雄]
274401933.07.のんきなパパさん[森岩雄]のんきなママさん[森岩雄]
274591933.08.アイ・ラヴ・ユー[安東英男]☆(弥生ひばり/花の精の歌[安東英男])☆淡谷のり子、A・益田銀三作曲
(B・田代与志作曲)
275841933.11.トンコ節[時雨音羽]ハレルヤ[妹尾幸陽]
276901934.02.サイド・バイ・サイド[村瀬好夫]☆(川畑文子/フー[宇佐不吟])☆川畑文子
276911934.02.バナナは如何[宇佐不吟]バルセロナ[妹尾幸陽]
『オリジナル盤による昭和の流行歌』付録冊子「資料編」所収「コロムビア・レコード流行歌年表」の記載による。
このリストの対象はコロムビア盤のみで、リーガル盤などのデータは含まれていない。

・通常、新譜発表月は、実際の発売日の翌月となる。
・☆は共演者。
・作曲者名の注記がない曲は、外国曲またはクレーン作曲。
 本稿の後段で検討するように,中村もぼかして書いている最後の一文はやや不正確なのだが,クレーンが,当時東京で発行されていた英字新聞ジャパン・アドバタイザー(The Japan Advertiser)紙の記者であったことは間違いない3)。しかし,宴席で歌っていたクレーンを売り出そうとホワイト社長が考えたという話は,他所にも見える逸話だが,いずれも同じ系統の話の焼き直しと思われる4)
 このホワイト社長,すなわちレスター・H・ホワイトについては,伝記的記述が入手できていない5)。日本コロムビアの社史である『コロムビア50年史』によれば,ホワイトは,米国コロムビアから派遣されて1927年遅くに来日し,1927年12月に日本蓄音器商會の副社長となった6)。副社長となったホワイトは,電気式吹込みへの移行,直営販売網の整備,レーベルの刷新(音符マークへの移行など)を矢継早に断行した。『コロムビア50年史』は,その功績を大きく称えている。
 新たに副社長の椅子に選ばれた米国コロムビアのL.H.ホワイト氏は,年齢こそ若かったが経営者としてすこぶる敏腕であった。ホワイト氏は,日蓄は日本における最大のレコード会社ではあるが,欧米各社と比較して近代産業として充分な組織と形態を備えておらずとして,着々その改革を行ない,その手腕にはまことに見るべきものが多かった。(コロムビア,1961,ページ記載なし[50年のあゆみ,電気吹込みの採用])
 1929年6月,新設された会長職に就いたJ・R・ゲアリー社長を引き継いで,ホワイトは日本蓄音器商會の第三代社長になった。その後,英米のコロムビアが,日本蓄音器商會の株式を手放し,社長が交代となる1934年10月まで,ホワイトは社長の座にあった7)。クレーンの最初のレコードは1931年4月,最後のレコードは1934年2月に出ているので,クレーンの歌手としての活動はホワイトが社長だった時期に収まることになる。
 クレーンの一連のレコードのうち,第一作の「酒がのみたい/家へかえりたい」は,かなりの力を入れて宣伝されたようであり,その甲斐あって大ヒットを記録した8)。瀬川昌久は,「家へかえりたい」の曲目解説(『オリジナル盤による昭和の流行歌』「別冊解説書」p.73)で,「昭和六年四月新譜でデビューした異色外人歌手バートン・クレーン自作自演の,「酒がのみたい」とこの「家へかえりたい」の二曲は,銀座を歩くとどの街角からも,このレコードが流れるという大ヒットとなりました。」と述べている。また,LP『日本のジャズ・ソング』の解説に収められた旧コロムビア・ジャズ・バンドのメンバーによる座談会においてアルト・サックス奏者・橋本淳は「あの頃,銀座を歩くと,どこの店からも,このレコードが聞えてくる程流行っていた」と述べている。これを裏付けるように,クレインの一人娘であるシルビア・クレイン・エイゼンロール(Sylvia Crane Eisenlohr)も,筆者宛の書簡(2002年7月18日付:以下,単に「書簡」と記し,引用は筆者の訳による)に,「子供の頃には,銀座へ連れてゆかれる度に,いろんな流行音楽を一日中流している拡声器から,一曲やそこらは父の録音が聞こえてきたものでした」と綴っている。銀座ばかりでなく,浅草でもこの歌はよく流れており,榎本健一は「當時かりにもカフエーやバーの軒をくぐり,屋台店のおでんやの暖簾をくぐつて,一杯の酒盃を手にした經驗のある人達なら,必ずこの歌を歌つた經驗があると云へるのである」と述べている(榎本,1947)。
 中村(2000)は,第二作の「ニッポン娘さん/おいおいのぶ子さん」のディスプレイ・レコード(宣伝用レコード盤)の写真を掲げて次のように述べている。
 掲載の写真は彼のレコードではなく店頭掲示用らしい宣伝物。SPレコードの表面にエナメルみたいなもので絵と文字が印刷してある。他に見たこともない不思議なしろもので,溝の入った盤面に塗料を厚く盛り付ける印刷だから音は出ない。つまりピクチャー・レコードとは違うわけで,むしろ看板の一種と言うべきだろう。こんなものを作ったというのが,コロムビアがクレインを熱心に宣伝したことの証拠なのだ。(中村,2000,p.128)9)
こうした宣伝もあって,第二作もそこそこのセールスを上げたようだ。しかし,その他のレコードの売れ行きは,大したものではなかったように思われる。
 現在,比較的容易にCDで聞くことのできるクレーンの歌は,「酒がのみたい」「家へかえりたい」「ニッポン娘さん」「おいおいのぶ子さん」「威張って歩け」と,合わせて5曲ある(表2)10)。この5曲は,第一作,第二作のAB両面と,第五作のA面であり,いずれも1931年のうちに発表されている11)
[その後、クレーンの楽曲を25曲収めたCD『バートン・クレーン作品集』(2006)が発表された。]
 表2 CDで聞けるバートン・クレーンの歌
酒がのみたい家へかえりたいニッポン娘さんおいおいのぶ子さん威張って歩け
録音1931.01.中旬1931.03.下旬[不明][不明]
発売1931.03.20.1931.06.20.1931.10.新譜
[1936.08.?]
26177A面26177B面26327A面26327B面26484A面
[リーガル67853]
作/訳詞森 岩雄 作詩*森 岩雄 作詩森 岩雄 訳詩クレーン 作詞
森 岩雄 訳詞
森 岩雄 訳詞
原曲アメリカ俗謡
「Drunk Last Night」
Irving King 作曲
「Show Me The Way To Go Home」
Al Dubin, Irving Mills, Jimmy McHugh & lrwin Dash 作詩作曲
「Hinky Dinky Parlay Voo」
Wilhelm Lindemann
「Trink, Bruderlein trink」
[不明]
演奏時間2分38秒3分14秒3分12秒3分23秒2分56秒
CD『昭和』1-12
『大系』C1-7
『昭和』1-13『昭和』1-19
『大系』C1-10

『大系』C4-7
 注記   *『大系』は、
クレーン 作詞
森 岩雄 訳詞
としている。
『オリジナル盤による昭和の流行歌』付録冊子「別冊解説書」および『日本の流行歌史大系』の付録冊子「総覧」の記載による。
「作詞」「作詩」などの使い分けも上記資料による。
 いずれにせよ,結果として現在でも聞くことのできるこれら5曲は,いずれもクレーンの代表作と見なして構わないだろう。この5曲に共通した特徴は,アメリカで一般的なものになっていた民謡(俗謡)なり流行歌をとりあげ,これに日本語の歌詞をつけて,日本語と英語の両方の歌詞で歌う,といったところである。こうしたスタイルによる外国曲の紹介はそれ以前には,ほとんどなかったようだ12)
 コロムビアのホワイト社長は,自分がジャズやダンスが好きだったせいか,日本の流行歌の中に,色々な形のジャズの要素を注入することに熱心だった。ジャズ・ソングを,米国生まれの邦人二世,又は生粋のアメリカ人に,カタコトの日本語でうたわせることを考えたのも,ホワイト社長であった。そして,歌詞の一番を日本語でうたい,二番を原語の英語でうたう,という日本独得のパターンが出来上った。(のすたるじあ生,1976,p.116)13)
 実際には,5曲のうち「威張って歩け」は全編日本語の歌詞であり,「ニッポン娘さん」は一番が英語で以降が日本語となっているが,ここで作り出されたスタイルが戦後のポップスにまで通底するものだという指摘は重要である。

クレーンの歌の由来

 現在も聞くことのできる5曲のうち,『オリジナル盤による昭和の流行歌』に収められた3曲については,原曲についての情報がある。まず,「酒がのみたい」については,曲目解説(「別冊解説書」p.72)には何の記載もないが,のすたるじあ生[瀬川昌久](1976,p.116)に「曲はアメリカで昔から歌われている「ドリンキング・ソング」という奴だった」という簡単な言及がある。「ドリンキング・ソング(Drinking Song)」というのは一般的な名称で,「何々ドリンキング・ソング」というタイトルでも,歌詞や旋律が全く異なる歌がいろいろある。クレーンの歌とよく一致する歌詞は,カリフォルニア大学の学生歌(応援歌)の一つである「カリフォルニア・ドリンキング・ソング(California Drinking Song)」の一部にも見え,曲の旋律も,歌詞が一致する部分についてはほぼ同一である。しかし,この歌詞自体が,先行した複数の歌をつないで1939年頃に現在の形に作り上げたものと説明されているので,クレーンの歌詞と「カリフォルニア・ドリンキング・ソング」に先行した,おそらくは共通の「ドリンキング・ソング」があったものと思われる。「カリフォルニア・ドリンキング・ソング」との一致を考えれば,クレーンが当時一般的に流布していた歌詞のままで歌っていることは間違いない。しかし,今のところこの曲の原曲は確定できていない14)
 出所が一番はっきりしているのは「家へかえりたい」である。のすたるじあ生(1976,p.116)は「ショー・ミー・ザ・ウェイ・トゥー・ゴー・ホーム」という「一九二四年に作られた流行歌」が原曲だと述べており,瀬川昌久による曲目解説(「別冊解説書」p.73)は「アーヴィング・キングが一九二五年に作ったコミカルな流行歌」としている。アーヴィング・キング(Irving King)作の「ショー・ミー・ザ・ウェイ・トゥー・ゴー・ホーム(Show Me The Way To Go Home)」は,多くの資料で1925年の作として扱われているので,ここでは後者に従ってよいだろう。ここでも英語の歌詞は原曲のままである15)
 「ニッポン娘さん」の原曲について,森一也による曲目解説(「別冊解説書」p.76)は「第一次世界大戦の後,米兵がさかんにうたっていた「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」なのです」とし,この曲が1927年に日本でも公開された無声映画『大進軍(The Big Parade)』(1925年・MGM)で使用され,日本語の歌詞をつけて歌われたため「その頃一寸流行しました」と述べている16)。クレーンが直接参照したものも,この映画のために書かれた歌詞と楽譜による録音であったものと思われる17)。しかし,「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブーはどうなった? バル・ル・デュックのお嬢さんはどうなった? みんな出かけて七つの海を越え 今じゃ日本語で歌ってる ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」といった内容になる「ニッポン娘さん」の英語詞は,冒頭の一行を別にすれば他所に同じものが見当たらず,この歌の内容に合わせて創作されたものである。これはクレーンの詞と考えるのが自然であろう。
 以上3曲とは異なり,原曲に関する既存の記述はないが,「おいおいのぶ子さん」の旋律は,「トリンク・トリンク」という通称で日本でも知られているドイツの俗謡「トリンク・ブリューダーライン・トリンク(Trink, Bruderlein trink)」によっている。ビア・ホールなどでも聞かれるこの曲は,ヴィルヘルム・リンデマン(Wilhelm Lindemann)が1927年に作詞作曲したとされているが,旋律はそれ以前から存在していた可能性が大きい。そうでなければ,クレーンは来日後に新曲としてこの曲に接したことになる18)。いずれにせよ,この「おいおいのぶ子さん〜トリンク・トリンク」を含め,クレーンが酒席にふさわしい陽気な俗謡に通じていたことは,間違いない。
 こうした旋律の明るさもさることながら,クレーンの歌の魅力は,何といってもその珍妙な歌詞にある。特に,第一作であり,大ヒットとなった「酒がのみたい」は,多くの人々に強い印象を与えた。榎本健一の回想によると,当時,彼の劇団の文芸部長だった詩人サトウハチローは,「酒がのみたい」について「この歌は歌そのものが既に酔拂つてゐるんである」と評し,泥酔して「ああ,俺もこんな酔拂つた歌が作りたいんである」と言ったという19)
 この「酒がのみたい」を含め,クレーンの歌には,森岩雄が作詞なり訳詞のクレジットを連ねている。森は,主に映画界で活躍した人物であるが,当時は作品が映画化される機会も少なく,もっぱら映画評論や雑文を書くことで生活していた20)
そんな時に,友人の鈴木俊夫の推挙によって,コロンビア・レコード[ママ]の米山文芸部長に紹介されレコードの作詞と訳詞を頼まれた。試みに一枚か二枚やってみたが,それが及第となって毎月のように注文が来た。(森,1975,p.144)
そして,最初に回されてきたのがクレーンの仕事だった。
クレーンは当時Tジャパン・アドバタイザーUの記者で,ジャパン・アドバタイザーはTニューヨーク・タイムズUと縁の深い新聞で,クレーンは恐らくタイムズからの特派記者ではなかったかと思う。専門は経済方面で,歌は道楽であった。クレーンはもとより日本語は堪能ではなかったが,古い,歌い馴れた故国の曲に,自分でたどたどしい日本語訳をつけて得意になって歌っていたのを,コロンビア[ママ]が採り上げてレコードにしてみた。それが大当りをとった。「酒飲みは」というのがそれであった。(森,1975,p.145:傍点は原文[『たどたど』に傍点がついている]
森はこれに続いて「酒がのみたい」の歌詞(ただし,一部に異同あり21))を紹介し,さらに次のように述べている。
まことにもって奇想天外,日本語としては支離滅裂なものである。しかし,それをクレーンさんが歌うと一層不思議な面白さが出る。これは私の訳詞ということになっているが,これはこれでこのままがいいので,私はただ名前を貸しただけで,もしこれが面白いとするなら,その名誉のいっさいはクレーンさんのものである。しかし,その後続々とクレーンさんはこしらえてくるが,なんとも奇妙すぎるものが多いので,それには多少の手を加えて,クレーン調をこわさぬ程度のものにまとめる仕事をした。そのなかには一,二枚だったが,ほんものの日本語の歌を私が書いたものもあり,大真面目にクレーンさんも歌い,なかなか出来栄えもよかったが,これは全然売れなかったようである。(森,1975,p.146)
結局,森は,クレーンとの仕事のほか,川畑文子に作詞・訳詞を提供するなど,コロムビアを中心に作詞・訳詞を書く生活をしばらく続けた22)
 おそらく,クレーンと森の「共作」の実態は,日本語の詞もクレーンがほとんど作詞し,森は補作詞をしていたという程度だったものが多かったのではないかと推測される。文法的に明白な誤りなどは,おそらく森が手を入れて歌詞から除いたのだろう23)。そう考えると,最初に出会ったクレーンの珍妙な詞に手をつけずにおきながら,訳詞者として自分の名を書き加えたセンスには,未来の大プロデューサーの片鱗を見る思いがする。
 クレーンの歌詞の面白さは,思いがけない言葉が,まったくの誤りというわけでもない言葉づかいで,微妙なずれを感じさせながら積み上げられて行くところにある。例えば,「おいおいのぶ子さん」に見える「若い日は二度来ない 機会を捕えよ!」という歌詞は,いったん「take a chance」という英語の表現に還元してみると,「一か八かやってみよう」,さらに「思いきって口説いちゃおう」といったニュアンスが出てくる。これを「機会を捕えよ!」とするところに妙味が感じられる。
 また,「ニッポン娘さん」では,「いかがです」が,初対面の挨拶としての「How are you ?」の意で用いられ,「東京の娘さん 今日は[こんにちは] 東京の娘さん いかがです」(地名は,次々入れ替わる)と歌われるのだが,「いかがです」が日本語の挨拶としては唐突に感じられるところや,あるいは,受け取りようによっては各地の「娘さん」を商品として勧めているようにも誤解しかねない危うさを含んでいるところが,この詞の面白さになっている。歌が終わった後に,クレーンは「それきり,以上,おわり」と喋っているのだが,ここで「それきり」が「以上」や「おわり」と並ぶという感覚も,クレーンらしいところである。
 クレーンの歌の魅力の大部分が,その奇妙な歌詞にあったことは間違いない。「ほんものの日本語の歌」を「大真面目に」歌ってもヒットしなかったのは,ある意味では当然だったのだろう。しかし,こうしたいわば「ノベルティもの」としてのクレーンの歌は,すぐに飽きられてしまったはずである。今日でもCDで聞くことができる例外的な数曲を除けば,クレーンの歌はほとんどヒットはしなかったのであろう24)。しかし,ヒットといえそうな曲が出なくなった後も含め,丸々3年,足掛け4年にわたってクレーンがレコードを吹き込み続けた事情は,判然としない25)

記者 バートン・クレイン

 歌手バートン・クレーンが新聞記者だったことは,歌手の簡単なプロフィールなどで繰り返し述べられている。しかし,実に不思議なことに,歌手クレーンに言及した記事は,彼の記者としての仕事には具体的に触れていない。比較的最近の記事においても,彼のジャーナリストとしての仕事は,歌手であった時期を含む昭和初期のものも,戦後におけるものも含めて,ほとんど無視されているのが現状である。そして,さらに不思議なことに,英字新聞記者,東京特派員,経済記者としての彼について言及した文章において,彼の名は「バートン・クレイン」と表記される場合が比較的多く,さらに,その人となりの紹介に,かつて数多くの曲を録音した歌手であったという事実が正確に付記されることはなかったのである。以下しばらく,ジャーナリストとしての「クレイン」の軌跡をたどることにしよう。
 もともとクレインは,十代からアマチュア・ジャーナリストとして新聞に関わっていたらしいが,職業的な記者となったのは,1922年にプリンストン大学を卒業してからだった[クレーンは、実際にはプリンストン大学を中退しており、卒業していない。]
。書簡によると,クレインは二十代前半に,まずニュージャージー州エリザベスのエリザベス・タイムズ紙の「見習い」記者となり,次いで,大手通信社であるアソシエイテッド・プレス(AP)のフィラデルフィア支局に移った。このフィラデルフィアにいた時期に,クレインは,大学時代の友人ウィリアム・ヴァッサーマン(William Wasserman)を通じてジャパン・アドバタイザー紙の社主であるベンジャミン・W・フライシャー(Benjamin W. Fleisher)に会い,東京へ招かれた。この誘いに乗ったクレインは,1925年の秋,予定していた式を繰り上げて結婚した新妻エスターとともに太平洋を渡ったのである。

 表3 1933年ころの英字紙2紙の比較
ジャパン・タイムス・エンド・メール
The Japan Times & Mail
ザ・ジャパン・アドバタイザー
The Japan Advertiser
創刊1897.03.22.1890.11.01.
組織匿名組合株式会社
社長芦田 均B・W・フライシャー
資本50万円
1921年より外務省の影響下
15万円
米国系(米国人社長らが大部分を所有)
形態夕刊 8-16頁
日曜は朝刊8頁/海外号は週刊8頁
朝刊 8-18頁
系列に週刊雑誌「The Trans-Pacific」あり
部数27,000部(1933年公称)15,000部(1932年公称)
購読料月額 2円50銭月額 3円30銭
広告料1インチ 4円1インチ 4円50銭
支局横浜、神戸、大阪横浜、神戸、大阪、「米國合衆國各地」
社員数84名89名
工場員数20名28名
『日本新聞年鑑』昭和9年版、『新聞総覧』昭和9年版などによる
「ジャパン・アドバタイザー」時代
 こうして,殺人や火事や窃盗の記事ばかり書く修業に明け暮れるぼくを,手取り足取り指導してくれる先輩記者がいた。バートン・クレイン,《ジャパン・アドバタイザー》を代表するベテラン・ジャーナリストだった。(ハリス,1986,p.47)
 自伝的回顧録の一節に,先輩記者クレインの仕事振りを記録したのは,平柳秀夫ことJ.B.ハリスである26)。1933年,ロンドン・タイムズ紙の極東特派員だった父を失ったハリスは,16歳の身で,家計を支えるため英字新聞ジャパン・アドバタイザー紙に就職し,記者修業をはじめた。
 当時,日本の英字新聞で最大規模だったのは,1921年以降は日本政府が事実上のスポンサーになっていたザ・ジャパン・タイムス・エンド・メール(The Japan Times & Mail)紙だった。これに対し,米国人社長フライシャー以下,外国人の役員とスタッフを揃えたアドバタイザー紙は,独立した英字新聞として在日外国人社会の支持を集め,「有料読者数最多」を謳って,タイムス紙に対抗していた(表3)27)。1925年にアドバタイザー紙に加わったクレインは,たちまち頭角を現したようで,1927年には経済面に署名コラムを持つほどになった28)。ハリスが出会ったとき,クレインは32歳だったことになる。
 ぼくより十五歳ほど年長のバートン・クレインは,アメリカのプリンストン大学の出身で,当時《ジャパン・アドバタイザー》の経済部長の要職にあった。プリンストン大学は,ハーバード,イエール,ノートルダム,MIT(マサチューセッツ工科大学)などと並ぶアメリカの超一流大学だ。日本でいえば東大・一橋といった名門だが,クレインはそこでジャーナリズムを修め,博士号まで持つパリパリで,《ジャパン・アドバタイザー》に勤めるかたわら,《ニューヨーク・タイムズ》と,経済新聞としては世界でもトップ・クラスの《ウォール・ストリート・ジャーナル》の特派員をも兼ねていた。(ハリス,1986,pp.47-48)
 高等教育への進学を断念し,家計を支えるために新聞社に入ったハリスにとって,クレインはあこがれの先輩記者であったに違いない。その分,クレインを紹介する文章にも,やや筆が滑っている感があり,クレインが「博士号」を持っていたとか,この段階で複数の米紙の「特派員」だったという記述には少々疑問もある29)。しかし,ハリスの心理的事実としてはこれでよいのだろう。[上述のように、クレーンは大学を中退しており、学位も持っていなかった。]
 ハリスにとって「クレインの指導はことのほかきびしいものだった」。原稿を書いて持っていっては,一瞥をくれただけで無言で破られる,ということが何度も繰り返される。クレインは,「不採用の理由」を告げないまま,「新聞社は小学校や中学校の作文教室じゃない」と,書き直しを命じるのだが,「こう答えるクレインの顔が,正直いってぼくには悪魔か鬼に見えた」とハリスは記している(ハリス,1986,pp.48-49)。以下,少々長くなるが,ハリスの記述を引用する。
 やがて,三回に一回ぐらいはほめてもらえ,手直しをされながらも採用してくれることが多くなった。そうなるとぼくは有頂天になり,持ちまえのうぬぼれも頭をもたげて,翌日はまた張り切って原稿を書いてクレインにさし出す。すると,きのうの上機嫌はどこへやら,またまた苦虫を噛みつぶしたような表情でつき返してくる。ようやくつかみかけた自信が,その瞬間スルリとぼくの指のあいだから抜け落ちて,木っ端みじんにこわれてしまう。
──コンチクチョー,この男はおれにいやがらせをしているのか?
 そんなぼくの心の動きを察したのか,あるときこういってぼくにアドバイスをしてくれた。
「いいかジミー,よくおぼえておけよ。新聞の記事というのはこんなに狭いスペースに印刷されるんだ。それなのにおまえのようにやたら長ったらしい文章を書いてみろ,だらだらするばかりで読みにくくってしょうがない。そんなもの誰も読んでくれるもんか。いいか,アメリカの優秀なジャーナリストはな,センテンスをできるだけ短くして簡潔な文章を書くんだ。形容詞は単なるデコレーションにすぎないんだから必要最小限にとどめる。そのためには動詞が重要な働きをするんだ。まず動詞の使い方に気を配って,なるべく短いセンテンスになるように勉強してみるんだな」(ハリス,1986,p.49)30)
 こうした職人の親方と徒弟のような関係の中で,クレインは「まるで出し惜しみをするように少しずつ」ハリスに仕事を教えた。クレインにすれば,まだ十代のハリスを記者として一人前に育てるのは,楽ではないにせよ,楽しい仕事だったのだろう。やがてクレインは大阪や神戸への出張にハリスを伴い,自らの取材活動をハリスに見せるようにもなった。やがてハリスは,クレインにも「なかなかスジがいいぞ,これなら十分使える」と激励されるほどになる。ハリスは,クレインの下での駆け出し時代を回想した一節を,後年,自分が署名記事を書くほどの記者になれたのは,「若い日にバートン・クレインに受けたきびしい薫陶のおかげだと,いまでも深く感謝している」という言葉で締めくくっている(ハリス,1986,p.50)。
 この駆け出しの頃の修業のほかにも,ハリスは回顧録の中で,社内で発言した軽口のためにクレインが憲兵隊本部へ連行されたというエピソード(ハリス,1986,pp.55-56)や,クレインとの戦後の再会(ハリス,1986,pp.230-231)など,クレインについて数ヵ所で言及している。注意しておきたいのは,クレインの帰国時期に関わる記述である。
 1930年代末から,日本では新聞統廃合に向けた動きが強まっていた。いわゆる「一県一紙」体制への移行が,国策に沿った新聞社の自主的判断という形をとりながら,実際には印刷資材への統制を含めた内務省〜警察機構の様々な圧力によって,強引に進められた。もちろん英字新聞もその例外ではなく,とりわけ米国人が経営するアドバタイザー紙への圧力は,相当に大きかったようだ。1940年10月に,アドバタイザー紙の経営権は,ザ・ジャパン・タイムス・エンド・メール紙に売却され,11月からは,統合されたザ・ジャパン・タイムス・アンド・アドヴアータイザー(The Japan Times & Advertiser)紙が刊行されるようになった31)
 半世紀ちかい年輪を重ねてきた《ジャパン・アドバタイザー》はここにピリオドを打ち,純粋の日本英字紙《ジャパン・タイムズ》に吸収される形で姿を消した。所属の記者たちもそっくり《ジャパン・タイムズ》に移ることになった。その中にぼくもいたわけだが,日本の新聞に移籍することをいさぎよしとしなかったアメリカ人記者の多くは,フライシャーとともに帰国していった。ぼくを育ててくれたバートン・クレインや同僚のリチャード・テネリーもその帰国組に入っていた。(ハリス,1986,p.56)32)
 ハリスによれば,クレインは帰国に際して,自分が「在日特派員」をしていたバラエティ(Variety)誌に,ハリスを後任者とすることを勧める推薦状を送り,ハリスに有利な原稿料収入の途を与えた。クレインは,ほかにも細々とした業界紙の仕事などをハリスに引き継いだ。「ほかより高額だったとはいっても,まだまだ若造にすぎないぼくの給料では母を養い一家を支えていくのはけっして楽ではない」というハリスにとって,クレインが回してくれた「予定外の収入」は実にありがたいものだったという(ハリス,1986,pp.56-57)。
 しかし,このハリスの回想には,少々思い違いもあるようだ。この回想を読んだ印象では,アドバタイザー紙のなくなる1940年秋まで,クレーンが日本にいたように思われるが,クレインの帰国は1940年ではない。ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事(1963年2月4日付)は,アドバタイザー紙勤務を,1925年から1936年までとし,ニューヨーク・タイムズ紙勤務は1937年からとしている。また,アドバタイザー紙の経済面には,1936年8月までクレインの署名コラムが掲載されているので,クレインが東京にいてアドバタイザー紙に勤めていたのは,同年夏までと考えられる。書簡によると,クレインは「1936年に帰国してニューヨークで職を探し,幸運にもタイムズ紙に雇われた」という。おそらくクレインは,秋から冬にかけて帰国し,職を探し,タイムズ紙に職を得て,東京に残っていた妻子を呼び寄せたのだろう。妻エスターと娘シルビアは,1937年に入ってから帰国の途についた。1926年に東京で生まれたシルビアにとっては,はじめて向かう母国だったことになる。
 クレインの帰国は,ハリスの回想とは異なり,まだ英字新聞の統合が具体化していない時期だった。しかし,ハリスがこのように誤った印象を持った背景には,1937年頃の段階で,アドバタイザー紙に対する圧力が既に相当なものとなっており,クレインも同紙に将来のないことを悟って帰国したといった事情があったのかもしれない
 ハリスと出会った1933年,クレインは,既に歌手クレーンとしては活動が終わろうとしていた。1934年にホワイトが日本蓄音器商會の社長を降りて帰国し,歌手クレーンがマイクの前に立つことはなくなった。本稿の冒頭で紹介した中村が,クレーンが歌手活動を続けている最中に急に帰国してしまったように読める書き方をしているのは,やや不正確である。同様に,のすたるじあ生(1976,p.117)が,「彼は余技として昭和八年頃まで,盛んにレコード吹込で名を売ったが,仕事の関係で間もなくニューヨークのタイムス本社に転勤になって帰国した」と述べているのも,誤りである33)。レコード吹き込みを止めたクレインは,なお3年ほど東京に踏みとどまって,本業で活躍していたのである。
 筆者にとって不思議なのは,ハリスがクレインを語るなかで,歌手クレーンについて全く何にも触れていないという点である。ハリスが,歌手クレーンについてまったく知らなかったという想定も,記者クレインと歌手クレーンが同一人物だと悟らなかったという想定も,どちらも現実性がない。ハリスは,歌手クレーンの歌を,いくつか知っていたはずである。思うに,ハリスがこの点に触れていないのは,クレインの意向を慮ったからではないだろうか。おそらく当時既に記者クレインは,道楽でやっていた歌手業を,過去として封印しようとしていたのだろう。
 そうした観点に立つと,この時期の記者クレインのことを歌手クレーンと結びつけて貴重な証言を残しているのが,当時の大スター榎本健一である34)。榎本は,戦後間もない1947年に刊行したエッセイ集に「バートン・クレーンさんのこと」と題した章を設け,「酒呑みの歌」(「酒がのみたい」のこと)とそれが流行した当時の反響を紹介し,アドバタイザー紙記者だった頃のクレインとの親交を語っている。榎本の目に映ったクレインは,「當時の在留米人間でも,大の日本通として知られた人」(p.67)であり,それは「自由な立場で色んな人物と交際も出来,その交遊を通じて眞の日本の姿に觸れようと努力してゐた」(p.68)おかげだった。
 バートンさんは前記の「酒呑みの歌」にも窺えるように,非常に洒脱な一面があり,アメリカ人特有のユーモリストでもあつたので,殊に私のような喜劇役者とは意氣投合したのであろうし更に更にお互に酒呑みであつたと云ふことが,より以上近親感をもたせたのであろう。昔から良く戀愛に國境なしと云はれてゐるが,私の場合には酒にも國境がないと云ひたいのである。
 當時バートンさんは麻布の六本木の邊りに居宅を構えて居たが,そこから毎夜の如く淺草へ現れて,あちらのカフエー,こちらのバーで酒を呑んで廻るのが唯一の樂しみであつたらしいのである。時に私達の樂屋へ飄然と姿を現し,「どうです。ビール飲みませんか」と,いとも正確なる日本語で誘ひをかけるのであつた。例へ不正確な日本語,つまり片言で誘はれても同行を辭さない私のことであるから,勿論O・Kは云はずもがな,國境を越へて酒友相交はるの圖をしばしば展開したものであるが,思へばそれも懐しい思ひ出の一つとなつてゐるのである。
 前記「酒呑みの歌」には少々呂律の廻らぬ片言にも等しい言葉の調子が見受けられるが,バートンさんの日本語は仲々立派なものであつた。むしろ東北辯や九州辯よりは尠くとも正確に受取れるだけの日本語であったと記憶してゐるのである。(榎本,1947,pp.68-69)
 榎本は,エッセイの最後に,帰国直後にクレインが米国で発表した日本の映画界に関する記事(Crane,1936)に言及している。この記事でクレインは,日本の映画界で,洋画に匹敵する集客力のある唯一のスターとして,榎本の名を挙げ,その作風を大いに評価しているのだが,それについて榎本は,「これは單に酒友であり[ママ]私にだけ向けられた愛情ではなく,日本全體に向けられたバートンさんの愛情の一つの表現であると,當時の私は解釋してゐた」(p.72)と述べている。
 記者クレインは,経済記事を主な専門分野とし,その方面でしっかりと仕事をしながら,日本の演劇や映画などについても関心を寄せ,情報を集めていた。そして,時にはこの方面でも記事を書いていたのであろう。もともと演劇への関心を持っていたクレインにとって,そうした取材活動は,趣味,あるいは道楽との境目がない仕事だったはずである。

「ニューヨーク・タイムズ」時代

 1937年にニューヨーク・タイムズ紙に移ったクレインは,経済記者として活躍する。書簡によれば,「第二次世界大戦のはじまった1939年には,彼は既にウォール街の記者としての地位を確立していた」という。クレインはまた,特に太平洋戦争の開戦後は,日本通として重用されたものと思われるが,この時期のニューヨーク・タイムズ紙の内容は未調査なので,本稿では取り上げない。
 まだ終戦前の1945年,つまり太平洋戦争の帰趨が決し日本占領が迫りつつあった頃,クレインは戦略局極東班(the Office of Strategic Services in the Far East)の任務につき,中国の昆明へ派遣された35)。次いで,終戦を受けて,ニューヨーク・タイムズ紙の東京特派員となった。書簡によれば,OSSの任務で既に極東にいたクレインを,ニューヨーク・タイムズ紙の外報部が経済部から「借りる」形で終戦後の東京へ派遣したということらしい。
 一方,日本兵・平柳秀夫として中国戦線に従軍したハリスは,1946年5月に復員した。東京へ戻ってニッポン・タイムス紙(戦時中の1943年にザ・ジャパン・タイムス・アンド・アドバタイザー紙から改題していた)へ行き,クレインが「従軍記者になって東京に来ている」ことを知らされる(ハリス,1986,p.227)。
 あくる日,内幸町にある三井ビルのプレス・センターに移っていたバートン・クレインに会いに行った。彼もぼくが兵隊だったことを知らなかったので,かなり驚いた様子だった。クレインはぼくのみすぼらしい格好を見ながら,こういった。
「ジミー,これからPX(Post Exchange 米軍の酒保)に行こう。きみに背広を買ってやるよ。いくらなんでも,その格好はひどすぎる」
 ぼくは彼の申し出をありがたく受けることにして,銀座の松坂屋を接収したPXまでついて行った。クレインはそこで,背広だけでなく,牛肉の缶詰やミルクなどを袋いっぱい買ってくれ,おまけにステーキのご馳走までしてくれたのである。
「なあ,ジミー,きみはおれの古い友だちだ。困ったことがあったらいつでも来いよ」
 ぼくはクレインの昔に変わらぬ友情に心から感謝した。(ハリス,1986,p.230)
程なくしてハリスは,ニッポン・タイムス紙に復帰し,記者生活に戻る。クレインがプレゼントした背広は,しばらくの間ハリスの一張羅だったに違いない。
 ハリスと再会した頃のクレインは,特派員として目覚ましい活躍を見せていた36)。ニューヨーク・タイムズ紙への送稿はもちろんだが,日本の事情に通じ,「堪能ではなかった」にせよ「仲々立派な」日本語を操ることができたクレインは,国内の各紙やラジオ放送にも露出する機会が多かったようだ。榎本(1947,p.67)は「今日マツカーサー司令部の民間情報教育部にあつて,新聞紙上に,又ラヂオ放送に大活躍をつづけてゐる」とクレインのことを紹介している。
 さらに,この頃のクレインは,記者クラブの役員としても忙しく働いていた37)。東京に駐在する来日特派員たちが,記者クラブにあたるコレスポンデンツ・クラブ(The Tokyo Correspondents Club)を結成したのは,1945年10月だった。この「特派員クラブ」は,後年,現在の社団法人日本外国特派員協会(The Foreign Correspondents Club of Japan)に発展することになる組織だが,占領期には情報交換や社交の場ばかりでなく,特派員用の住居や事務所を確保するためのクラブという側面もあり,丸ノ内のビルを一棟まるまる使用していた38)。クレインは,1946年から1948年にかけて,このコレスポンデンツ・クラブの書記(Secretary)であった。この当時,東京には五十名前後の特派員がいたが,クレインはこの小さな,しかし影響力の大きいコミュニティの中心人物の一人だった39)。クレインにとって,戦前の滞日経験は,同僚である特派員たちの信頼を得る上で大きな財産になっていたことだろう40)。1950年の役員選挙の結果,クレインは,コレスポンデンツ・クラブの会長に選出された。任期は7月1日からの一年だった。
 1950年6月25日,朝鮮動乱が勃発した。当時,主要メディアの極東における取材拠点は東京にあり,ソウルの取材陣は手薄であった。第一報が入ると,東京にいた特派員たちは,現地ソウルへ乗り込もうとしたが,北側の侵攻が急で金浦飛行場の安全も確保されない状態であることを理由に,東京からの定期便は羽田に引き返してしまった41)。そこで,一部の特派員たちは,福岡の板付飛行場へ行き,ソウルからアメリカ人らを避難させるために運行されていた救援機に逆方向で便乗し,現地に入って取材をしようと試みた。6月27日の夕刻に「最後の救援機」で,4人のアメリカ人記者が現地に入った。シカゴ・デイリー・ニューズ紙のキーズ・ビーチ[名の発音は「カイズ」に近い。],ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のマーガレット・ヒギンズ,タイム=ライフ社のフランク・ギブニー,そしてクレインである42)。しかし,既にソウルは陥落寸前の状態になっていた。この夜から翌28日(ソウルが最初に陥落した日)にかけて,ビーチら一行がソウルから脱出する顛末は,ビーチによって生々しく記録されている(Beech,1954,pp.103-122)43)。このときクレインは,頭部にかなりの重傷を負った。
 負傷したクレインがどれくらい半島にとどまったのか,いつ日本に戻ったのかは,今のところ確認していない。しかし,そんなに長く半島にいたわけではないようだ。書簡によると,東京に戻ったクレインは,独断で半島へ渡ったことをめぐって東京支局長リンゼイ・パロットと衝突し,程なくして台湾へ派遣されてしまうが,1951年のはじめには,ニューヨークへ戻って経済部に復帰した44)。これ以降,クレインが日本を訪れることはなかった。
 表4 バートン・クレインの著作
Crane, Burton (1956):Getting and spending; an informal guide to national economics.
New York, Harcourt, Brace, 303ps.
[邦訳あり:クレイン(1957)]
Crane, Burton (1957):Century of financial advertising in the New York times.
New York, New York times, 128ps.
Crane, Burton (1959):Sophisticated investor : a guide to stock-market profits.
New York, Simon and Schuster, 273ps.
Crane, Burton (1960):Practical economist.
New York, Simon and Schuster, 242ps.
Crane, Burton (1962):Practical economist [New, rev. ed.].
New York, Collier Books, 225ps.
[Crane (1960) の改訂版]
Crane, Burton (1964):Sophisticated investor : a guide to stock-market profits.
Rev. and expanded by Sylvia Crane Eisenlohr.
New York, Simon and Schuster, 249ps.
[Crane (1959) の増補改訂版]
  
クレイン、バートン[熊取谷武・訳](1957)『稼いで費つて』六月社(大阪)264ps.
 その後のクレインの足跡は,もっぱらニューヨーク・タイムズ紙の経済記者として,記録されている。帰国後,クレインはニューヨーク・タイムズ紙の株式欄のコラムを担当するようになる45)。また,1952/1953年度に,クレインはニューヨーク大学(New York University)の教壇にも立った46)。それ以降,クレインが教壇に立つことはなかったようだが,彼は次々と4冊の著作を発表し,そのうち1冊は邦訳された(表4)47)。特に,素人向きに書かれた投資指南書2冊は,売れ行きがよく,版を重ねて改訂版も出版され,大学教科書として使用されることもあった。
 最晩年のクレインは,体を壊し,しばらく療養生活をしていた48)。クレインの死後に刊行された『The Sophisticated Investor』増補改訂版の序文に,娘のシルビア・クレイン・エイゼンロール(Sylvia Crane Eisenlohr)が記しているところによると,死の前年である1962年には,半年も仕事ができない状態に陥っていた。しかし,病気のために毎日のコラムを書くことができなくなった後も,しばしば妻や娘に口述筆記させて,病院からニューヨーク・タイムズ紙に記事を送っていたという(Eisenlohr,1964,p.9)。
 クレインは,1963年2月3日に「長い闘病の後,自宅で亡くなった」。まず,翌日の紙面に出たニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事の内容を確認しておこう。クレインは「1901年1月23日に長老派教会の牧師の息子として生まれ,プリンストン大学を1922年に卒業した」という。また,「国内でいくつかの新聞関係の仕事をした後,1925年に東京へ行った」とも述べられている49)。また,東京の在日外国人のアマチュア劇団である「the Tokyo International Players」で6本の戯曲を演出し,うち5本は自作だったという記述もある50)。ここで『Smart Money』という表題で予告されている最後の本は,正確には『The Sophisticated Investor』の増補改訂版のことであろう。親族に関する情報から,クレインには,妻エスターと娘シルビア,そして孫3人がいたことがわかる。
 日本の各紙も,2月4日付夕刊でクレインの死亡記事を載せた。各紙の見出しで,彼の名は「クレーン」と表記されていたが,歌手としての経歴に正確に触れた記事はなかった。朝日新聞の記事はAP電によるもので,アドバタイザー紙の経済記者,ニューヨーク・タイムズ紙の経済記者,東京特派員という経歴を並べただけだった。日本経済新聞のUPI電は,経歴を並べた上で「昭和初年に流行した「養老の滝がのーみたい」などを作詩したこともある」,とだけ付記している。同じUPI電による記事だが,毎日新聞は「昭和初期に流行した「養老の滝がのみたい」の作詩者でレコードに吹き込み,日本の芸能界の異色な存在でもあった」とし,顔写真を掲げた51)。歌手クレーンの「酒がのみたい」が「銀座を歩くとどの街角からも,このレコードが流れるという大ヒット」をしてから,既に三十年以上の時間が経っていた。

おわりに

 2000年3年に,米国で「二十世紀のビジネス・ニュースをつくった百人(100 Business News Luminaries of the 20th Century)」という顕彰事業が行われ,それ以来,経済記者の「殿堂」にあたるものとして,毎年数名の人々が顕彰されるようになった。クレインは,ニューヨーク・タイムズ紙の経済コラムニストとして評価され,「二十世紀の百人」のひとりに選ばれた52)。彼は,証券市場についての記事の標準的な形式をつくり,多くの記者に影響を与え,様々な専門用語を編み出した人物として称えられた。クレインが後半生において「本業で重きをなす」ようになり,専門分野の仕事において歴史に名を残すほどの人物であったことは,この顕彰事業の件からも明らかであろう。この「二十世紀の百人」の簡単な経歴は,インターネット上で見ることができ,当然クレインについてのページも存在する。興味深いことに,そこにおいても,東京時代にアマチュア演劇の脚本を書き,演出したという話は言及されているのだが,歌手だったという言及はない。
 ジャーナリストとしてのクレインが,歌手クレーンとしての経歴を封印し,その後半生において自ら言及しなかったことは間違いない。アマチュア劇作家,演出家であったことが,後年の経歴においても言及されることがあるのとは,対照的といってよい。故国ではなく異国・日本においてではあれ大ヒットも記録した彼の歌手としての足跡がこれだけ無視されているのには,何らかの理由があったはずである。しかし,その動機,理由が何であったのかは,今のところ憶測することしかできない。もしかすると,クレインは,作詞作曲者のはっきりしない歌,いわばパブリック・ドメインにあった歌について,自らの名をクレジットしたと受け取られる(誤解される)ことを嫌ったのかもしれない。あるいは,歌手活動を忌まわしい過去を感じさせるような何らかの隠された事情があったのかもしれない。
 職業的な作曲家や作詞家,俳優はもとより,詩人や小説家などには,歌手としての顔を持った人々がいる。棋士や力士,あるいは研究者にも,商業的なレコード吹き込みや演奏活動をするような歌手がいる。しかし,ジャーナリストで歌手でもあるという人物は,なかなか思いつかない。その意味ではクレイン/クレーンは,非常に例外的な存在のようにも思われる。もっとも,歴史をたどれば,日本でも川上音二郎から大正時代の演歌師に至る,ジャーナリズムと歌の,ある意味では前近代的な融合形態を見ることが容易にできる。あるいは,現代にも息づく形態として,河内音頭の新聞詠みのようなものに思い至ることもできるだろう。しかし,今日的な意味でのジャーナリストたちの中から,<そこそこのヒット曲を出した経験のあるジャーナリスト>や,<歌手活動でも知られたジャーナリスト>の例を具体的に上げることは難しい。そう考えると,ジャーナリストたるクレインが,歌手としての経歴を封印した背景には,彼の個人的な事情を超えて,もっと普遍的な価値観,職業倫理,美意識とでもいうべきものがあったのかもしれない。歌うこと,歌手であることを否定的に捉えるような,何らかの支配的な<文化>が,ジャーナリストの間には存在するのだろうか。こうした方向での議論は,今後の課題としたい。
 冒頭でも述べたように,本稿は「基本的事項の整理を試みた覚書」である。しかし,ジャパン・アドバタイザー紙,ニューヨーク・タイムズ紙を通じて,クレインが書き残した膨大な量の署名記事やコラムを読み通すという,本来ならまずやらなければいけないやっかいな作業は,今のところ着手できていない。また,素人演出家,劇作家としての彼の仕事については,まったく情報を得ていない。他にもなすべき作業はいろいろあるが,いずれも他日を期すばかりである。
 また,「一次史料」を重視する立場からすれば,当時の新聞,雑誌類を十分検討していない上,SP音盤の現物を一点も確認せず,クレインの遺物にも接せず,家族・関係者への聞き取りなどもいっさい行っていない本稿は,ただただ「二次文献」の記述を配列し直しただけの無価値なものである。本稿に価値があるとすれば,それは便覧としての価値にすぎない。
 また,より多くの情報を得る契機にしたいという意図から,本稿は発表後のウェブ上へのテキスト公開を考えて執筆されており,著作権の問題を考慮してクレーン/森岩雄の詞を全面的に引用することは避けている。クレーンの音源に接する機会のない読者には不親切であろうとは思うが,ご了解いただきたい。本稿によってクレーンの歌に関心を持たれた方には,ぜひ直接クレーンの歌声を聞く機会をもっていただきたいと思う。




1)快楽亭ブラック(Henry James Black, 1858-1923)と,日本最初の出張録音(英国グラモフォン)であるガイズバーグ録音(1903)については,CD『全集日本吹込み事始』の付録冊子を参照。
2)表1は,中村(2000)によるクレーンの曲のリストをもとに,CD『オリジナル盤による昭和の流行歌』の付録冊子「資料編」に収録された「コロムビア・レコード流行歌年表」と照合して作成した。このCDは,1990年にLP盤で発売された『昭和の流行歌・上』の再発である。
 この「年表」には,コロムビア・レーベルから発売されたものしか上がっていないため,クレーンの曲が,コロムビア系の他のレーベル,例えば大衆盤(廉価盤)のレーベルだったリーガルからどの程度出ていたのかは判然としない。後述の注11を参照。  なお,LP『日本のジャズ・ソング』の瀬川昌久による解説については,後述の注4を参照。
3)後段で検討する,ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事(1963年2月4日付)は,クレーンが1925年から1936年までジャパン・アドバタイザー紙に勤めていたとしている。以下,当時の英字新聞の紙名のカナ表記は,同時期の『日本新聞年鑑』などに見えるものによる。このため,The Japan Times は戦時中までは「ジャパン・タイムス」,戦後は現在の社名の日本語表記を尊重して「ジャパン・タイムズ」とする。
 一橋大学付属図書館は,1933年以降,ジャパン・タイムス(The Japan Times)紙[アドバタイザー紙合併直前は,The Japan Times & Mail,合併直後は,The Japan Times & Advertiser と称した]に統合される1940年までのジャパン・アドバタイザー紙を,紙面合本で所蔵している。クレーンは,1933年年初の段階で経済面に署名コラム「A Song o' Sixpence」をもっており,以降,コラムが終了することを述べている1936年8月30日付の最後のコラムまで,この署名コラムは数日おきに掲載されている。また,最後のコラムでクレーンは「9年半続いたコラム」と述べているので,この署名コラムの始まった時期は1927年前半と推察される。
 昭和初期の新聞業界の年鑑である『日本新聞年鑑』と『新聞総覧』を点検したところ,唯一『日本新聞年鑑』昭和6年版(1930)[当該年版は前年末に刊行されている]にクレーンの名が見い出された。「現勢」編のジャパン・アドバタイザー紙の記述に,「(編輯)バートン・クレイン」とあるのだが,この前後の年次にはクレーンの名は現われない。また『新聞総覧』にはいっさい記載がない。
4)ホワイトがクレーンを見つけたという逸話は,今のところ出所がよくわからない。歌手クレーンについて書かれた記述で,管見する範囲で最も詳しいものは,瀬川昌久による1976年の記事である。この記事は,当初「のすたるじあ生」という筆名により「栄光のコロムビア・ジャズ・バンドとその輝かしきメンバー達」というタイトルで『jazz』誌に発表された(のすたるじあ生,1976)。連載の文章は,わずかな語句の修正を経て,瀬川昌久名義の解説「コロムビア・ジャズ・ソングの主役たち」にまとめられ,LP『日本のジャズ・ソング』の付録冊子に収録された(ただし,記事に添えられた写真類は,雑誌とLP付録冊子で違っている)。本稿では初出を尊重し,この記事からの引用は,のすたるじあ生(1976)によることを原則とする。なお,この記事では記述の典拠は示されていない。(この『jazz』誌の記事は,貴島公より提供を受けた。LP『日本のジャズ・ソング』の解説は,森川卓夫より提供を受けた。)
 瀬川昌久は,LP『日本のジャズ・ソング』のほか,CD『オリジナル盤による昭和の流行歌』所収の「家へかえりたい」の曲目解説(「別冊解説書」p.73)でもこの逸話に触れている。同氏に尋ねたところ,この記述は,戦前の音楽雑誌記事を参照して書いたもので,はっきりした出典は記憶していないということであった。
5)氏名のフルネーム,スペリング,生没年,来日前の経歴,帰国後の経歴など,いずれも未確認である。
 日本蓄音器商會(1940,p.61)と,コロムビア(1961,ページ記載なし[歴代社長])にあるポートレートの印象では,滞日当時は三十代だったのではないかと思われるが,もとより確たる根拠があるわけではない。しかし,この推測が正しいとすれば,クレーンよりやや年長とはいえ,大して年が違わない,同じ米国東部の出身者だったことになる。クレーンはプリンストン大学の出身だが,ホワイトもアイビー・リーガーだった可能性は高そうだ。
 なお,『コロムビア50年史』(コロムビア,1961)には,ページの記載がいっさいないので,以下,引用・参照にあたっては,出典箇所を[部門,項目見出し]によって示す。
6)1924年にレコード盤や蓄音器を含む奢侈品の従価関税率が10割に引き上げられたことを契機に,欧米のレコード各社は日本への直接投資に乗り出した(森本,1975,pp.15-16:ただし,ここで関税率が「一○パーセント」とあるのは誤り)。その結果,昭和の初めには,コロムビア,ポリドール,ビクターといったレーベルが出揃うことになった。
 コロムビアの場合は,日本蓄音器商會が1927年5月に株式の35.7%を英国コロムビアに,次いで10月には11.7%を米国コロムビアに売却し,「英米コロムビアの傘下」に入った(コロムビア,1961,ページ記載なし[50年のあゆみ,英米コロムビアの傘下へ])。折しも,録音技術は,機械式(アコースティック)録音から電気式録音へと移りつつあり,SP盤の製造技術にも変革があった。ホワイトはそうした新技術の導入と,販売体制の刷新を担うべき経営者として,米社から送り込まれた人物だったのである。
7)1931年の満州事変以降,外資系企業への風あたりは強くなっていた。外資の傘下にあった日本蓄音器商會は,ホワイトを引き継いで社長となる三保幹太郎の斡旋によって,株式の大部分が共立企業に移り,日産コンツェルンの傘下に入った。1935年10月26日の臨時株主総会で,社長はホワイトから三保に交代した。ホワイトはなお名目的に取締役にとどまったが,11月8日には帰国の途につき,年内の12月16日付で取締役も辞任した。(日本蓄音器商會,1940,p.77:コロムビア,1961,ページ記載なし[50年のあゆみ,外国資本からの離脱:50年年表])
8)『三十年史』附録の年表「主要レコード内容抜粋」は,「昭和六年度四月」にクレーンの第一作をAB両面の曲名を上げて記載しており,このレコードが両面ヒットであったことを示唆している(日本蓄音器商會,1940,[附録]p.4)。
 なお,『コロムビア50年史』の年表では「酒がのみたい」だけの記載となっているが,本文中の図版に,「酒がのみたい」を宣伝するアドバルーンの写真(「当時の宣伝としては尖端的なものであった」という注釈付き)と,クレーンが淡谷のり子ともう一人氏名不詳の女性歌手と三人で写った写真(森,1975,p.145 にも同じ写真がある)が収録されている(コロムビア,1961,ページ記載なし[50年のあゆみ,総営業部東京へ進出])。『三十年史』と『50年史』で,クレーンの名が確認できたのは,これだけである。なお,日本コロムビアには『80年史』が存在するが,こちらの内容は未確認である。
9)レコードの宣伝がもっぱらポスターなどに依存していた段階から,宣伝媒体の多様化へと進んだのは,1930年頃のことらしい。クレーンのレコードについても,アドバルーン(注8 参照)や,宣伝用マッチ(下記ページ参照)の作成といった,当時としては斬新な宣伝方法がいろいろ試みられた。
http://isso5.tripod.co.jp/match/match.html#音楽
を参照されたい。
 『三十年史』の「街頭宣傅・外部宣傅」という一節(日本蓄音器商會,1940,pp.148-151)によると「昭和六年の夏には浴衣地問屋とタイアップして...レコードからヒントを得た圖案を染め出したコロムビア浴衣を發賣」するなど,新たな宣伝策が模索されていた。このほか,特約店を対象に,ショーウィンドーの飾り付けを競う「ウインドウ・コンテスト」が盛んに行なわれた。  レコードの宣伝用に幟や厚紙スタンドを用意することも,この頃から行なわれたことのようである。『コロムビア50年史』には,音丸「船頭可愛や」(1935)のものが紹介されている(コロムビア,1961,ページ記載なし[50年のあゆみ,レコードはコロムビア時代])。
 こうした中で,ウィンドーの飾り付け用として工夫されたのが,ディスプレイ・レコードである。「昭和五年五月から試みられたディスプレイ・レコードは,レコードの實物に圖案を數色で現はした宣傅物で,特約店の店頭に飾る變つた宣傅物として好評を博し」たという(日本蓄音器商會,1940,p.149)。中村が紹介しているように,ディスプレイ・レコードは,宣伝の対象となっているレコードそのものではなく,不用のレコード盤を廃物利用した宣伝素材だったのであろう。このディスプレイ・レコードの作成は「その後數年間續けられた」という。
10)クレーンの歌声が聞けるCDで,現在,通常の流通経路で入手できるものとしては,『オリジナル盤による昭和の流行歌』(1998)がある。このセットの1枚目には,「酒がのみたい」「家へかえりたい」「ニッポン娘さん」の3曲が収録されている。しかし,古レコード市場で,新古品の状態で比較的手に入りやすい『日本の流行歌史大系』(1990)に,「酒がのみたい」「おいおいのぶ子さん」「威張って歩け」の3曲が収録されているので,比較的容易に聞くことのできるのは,全部で5曲ということになる。
 なお,このうち「ニッポン娘さん」については,後年に,酷似した歌が別名で発表されている。もともと「ニッポン娘さん」は,リフレインの語句から「ポクポク小馬」という名で言及されることもある。例えば,田中(1985)には「第一次大戦のヨーロッパ戦線でのアメリカ兵の歌のニホン版『ポクポク小馬』」という一節がある(種村・編,1987,p.277)。問題の曲は,ニッチモ&サッチモ「テキサス・ノーキョー・ジュニアの日本漫遊記〜ポクポク仔馬」(1972年)で,この曲のレコードは確認できていないが,ネット上に存在するデータによれば,クレジットは「ニッポン娘さん」とはまったく異なる形になっている。後述する森岩雄の回顧録(森,1975,p.147)には「最近になって,クレーンと作った曲と詞を盗んで新譜を出した人があったので,私はとにかくクレーンにすまないと思い,コロンビア[ママ]に注意した」とあるが,この記述は「ポクポク仔馬」を指したものと思われる。最近でも,「ポクポク仔馬」とは異同があり,むしろ「ニッポン娘さん」(の一部)とほぼ同じといってよい歌詞が,「ポクポク仔馬」とクレジットされて引用されている例(犬童,1999,pp.177, 213)があり,注意を要する。(「ポクポク仔馬」については,山田裕通の教示を得た。)
11)『日本の流行歌史大系』の付録冊子「総覧」の年表では,「威張って歩け」を1936年11月発売,B面は川畑文子「君のマザー」としている。SP盤の現物は未見なのだが,レコード番号と「リーガル・ジャズ・バンド」という伴奏のクレジットからみて,1936年のものは,リーガル・レーベルで発売されたものであろう。これが,実際には1931年の録音を流用したものか,新規の吹き込みだったのかは判然としない(廉価盤というリーガルの性格から考えると流用の可能性が高い)。また,コロムビア盤については,前出(注2)の「コロムビア・レコード流行歌年表」があるが,リーガル盤については,こうした網羅的なリストが公表されていないため,これ以外にリーガルから出たクレーンのレコードがあったどうかは確認できないのだが,コロムビアレコード制作部の森淑によると,リーガルでは,1936年に「威張って歩け」「サイド・バイ・サイド」「月を眺めよ/コンスタンチノープル」が再発されたという。いずれにせよ,『日本の流行歌史大系』所収の音源は,1931年のコロムビア盤ではなく,1936年のリーガル盤なのであろう。
 リーガルは,1933年1月に新設されたレーベルで,コロムビア・レーベルのものより廉価な「大衆盤」を扱うものであった。当時,コロムビア盤は1枚が1円50銭だったが,リーガル盤は80銭で売り出された。それまで日本蓄音器商會は,従来からの経緯もあってコロムビアのほかに,イーグル,オリエントという二つのレーベルをもっており,さらに子会社の合同蓄音器がヒコーキというレーベルをもっていた。これらを整理統合して,コロムビアとリーガルの体制に移行したわけである。
 なお,『三十年史』には「リーガル・レコードが世に現はれたのは昭和八年の正月新譜から」(日本蓄音器商會,1940,p.152)という記述があるが,『コロムビア50年史』は,1932年1月で一貫している(コロムビア,1961,ページ記載なし[50年のあゆみ,「酒は涙か溜息か」の登場:年表])。この社史の記述の食い違いについて,林諄は,LP盤『秘蔵盤 続昭和の流行歌』(1981)の解説に収められた「リーガル・レコード盛衰史」と題する記事で検討を加え,「リーガル・レコードの誕生は,正しくいうならば昭和七年十二月十五日発売,昭和八年正月新譜」と結論づけている(p.8)。
(リーガル・レコードについては,森淑の教示を得た。)
12)たとえば,大正時代のオペラ〜オペレッタは,ほとんどが日本語訳によって上演され,歌も日本語のみで歌われた。例外的に原語で上演する場合には,そこに日本語訳を交えて歌うことはなかったようである。大正末から昭和初期にかけて,録音されたSP盤音源を集めたCD『浅草オペラ』全20曲(23トラック)などを参照されたい。
13)試みに,川畑文子,チェリー・ミヤノら,日系二世歌手のテイチクでの録音を集めたCD『川畑文子・ベティ稲田と仲間たち/青空〜あなたとならば』に収録された曲を数えて見たところ,戦前録音の18曲のうち,一番(前半)を日本語,二番(後半)を英語という構成をとるものは5曲,日本語のみのものが13曲,原語(ハワイ語と英語)のみのものが1曲(灰田勝彦「アロハ・オエ」)だった。
 また,『オリジナル盤による昭和の流行歌』の収録曲には,戦前録音でまとまった英語の歌詞を含む曲が,クレーンの3曲の他に,川畑文子「沈む夕日よ(セントルイス・ブルース)」(1933),ニッポン・ベティ・ブープ(アリス浜田)「恋の思案顔」(1934),ベティ稲田「懐かしのホノルル」(1935)と3曲あるが,いずれも一番(前半)を日本語,二番(後半)を英語という構成をとっている。
14)「カリフォルニア・ドリンキング・ソング」については,University of California Marching Band によるページ:
http://www.calband.berkeley.edu/calband/multimedia/calsongs/drinkingsong.html
を参照されたい。
 クレーンはプリンストン大学出身なので,東部アイビー・リーグの古い(現在は残っていない?)学生歌に「ドリンキング・ソング」の源を探すべきようにも思われる。
15)この曲の楽譜表紙の画像や,歌詞は,ウェブ上で見ることができる。The About Network によるページ:
http://cocktails.about.com/library/weekly/blsheet5.htm
を参照されたい。ただし,このページには楽譜の出版年は明記されていない。
 また,今のところ,オリジナルの吹き込みが誰かは確認していない。確認できた録音例としては,カリフォルニア・ランブラーズ(The California Ramblers)による,1925年12月5日のニューヨーク録音があるが,タイミングから見てレコードの発売は1926年に入ってからと思われる。クレーンがこの録音を聞いたとすれば,それは来日後に後から輸入されたSP盤で聞いたということになる。
 カリフォルニア・ランブラーズについては,The Red Hot Jazz Archive によるページ:
http://www.redhotjazz.com/caramblers.html
および,Timeless Records によるページ:
http://www.timeless-records.com/CBC1053.html
を参照されたい。
 なお,『オリジナル盤による昭和の流行歌』所収の「家へかえりたい」の歌詞(「別冊解説書」p.73)では,英語歌詞の6行目が「On land or sea or fall」となっているが,これは「On land or sea or foam」の誤記である。実際,クレーンも「foam」と歌っている。このほかには歌詞の異同らしい箇所はない。
16)映画『大進軍』は,無声映画ながら歌のシーンなどがあり,弁士とは別に歌手を用意して,日本語で唄わせるという趣向もあったらしい。「ニッポン娘さん」の曲目解説(p.76)で森一也が参照している徳川夢聲『くらがり廿年』(1940)には,新宿・武蔵野館での興行(作品名は『ビック・パレード』となっている)の様子が活写されている(pp.201-204)。
 ところで,森一也は「ニッポン娘さん」の曲目解説(p.76)で,徳川(1940)からとして,「武蔵野館で二村定一にこの唄を頼んだら,三人ばかりコーラスを連れてきてた。そのなかに目玉の大きい青年がいて,いかにも兵隊らしいダミ声でうたってくれた。その男こそ後のエノケンである」と鈎括弧で文を示しているのだが,この記述には少々疑問を感じている。
 まず,この文は引用ではなく,森による要約であり,対応する原文(徳川,1940,pp.203-204)は半ページほどに相当する長さがある。しかも榎本健一の声について,要約にある「ダミ声」は原文にはなく,原文は「ドラ聲」「酷い聲」としか書かれていない。引用の仕方としては適切とは言い難い。
 また,森の示す歌詞(徳川,1940,p.203 からの引用と思われる)を見る限り,これが「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」の旋律に乗るとは思えない。映画の中で歌われる歌が複数あった可能性もあるし,原作で指定された旋律とは違う曲で間に合わせた可能性もあり,徳川(1940,p.203)が記録した歌詞が「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」とは異なる旋律で歌われた可能性もあるのではなかろうか。もちろん,1915年生まれの森は映画公開時(1927)をリアルタイムで知り得る立場にいるので,筆者のまったくの誤解,言いがかりである可能性も否定できない。「俺は軍人,百姓じゃない」という歌詞を「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」の旋律に乗せる歌いかたがどこかで(録音や楽譜ではなく口承であっても)伝えられていれば,筆者の疑問は氷解する。
 なお,映画『大進軍』については,The Greatest Films によるページ:
http://www.filmsite.org/bigp.html
を参照されたい。
17)「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」は,元々第一次大戦中に自然発生的に流行したもので,曲名も,歌詞の最初の行から「Mademoiselle from Armentieres」とされることもある。曲名ばかりでなく歌詞にもいくつか異なるものがある。
 例えば,トロント大学図書館のサイトにあるページでは,共通の部分もありながら,互いにかなり異なった2種類の歌詞が紹介されている。
http://www.library.utoronto.ca/utel/rp/poems/anon20_3.html
 もちろん,これ以外にも様々な歌詞が乗せられ,替え歌のように歌われたことであろう。駐屯した地方の違いによって,具体的な地名も,異なるものが歌いこまれた可能性がある。第一次世界大戦中の歌に関する Doughboy Center のページには,この曲が,英国軍(およびカナダ軍)から生まれたとする説があることを紹介している。ノール(Nord)県の町である Armentieres は,当時,英国軍の戦線の後方に位置し,休息地になっていたという。ちなみに,クレーンの歌詞に見える Bar-le-Duc はずっと内陸のムーズ(Meuse)県の中心都市で,Armentieres とは広義の北フランスであることは共通しているが,関連性はほとんど感じられない。
http://www.worldwar1.com/dbc/music.htm#1
を参照されたい。
 「ニッポン娘さん」の「作詩・作曲」のクレジットが,Al Dublin, Irving Mills, Jimmy McHugh and Irwin Dash と4名の連名になっていることから判断すると,クレーンが直接参照しているのは,映画『大進軍』のために歌詞が新たに書き下ろされたもののようである。「ニッポン娘さん」の英語の歌詞は,冒頭の一行をこの『大進軍』用の歌詞からとっている。
 作者の一人,Jimmy McHugh を顕彰するページの作品リストに,1924年の「Hinky Dinky Parlay Voo ?」として上げられているのが,この『大進軍』用の歌らしい。
Jazz Roots によるページ:
http://jass.com/jimmymchugh/othersong.html
を参照されたい。
 この歌詞による吹き込みのオリジナルかどうかは判然としないが,1924年6月20日に,Al Bernard and Chorus が吹き込んだものが「What Has Become Of Hinky Dinky Parlay Voo」という曲名でエジソン・レコードのリストに載っている。
Richard Densmore によるページ:
http://homepages.bw.edu/~rdensmor/EdisonRecordsList/#E118
を参照されたい。
 いずれにせよ,米兵が戦地で片言の言葉をあやつりながらフランス女性と恋をするというライト・モチーフは,すべての歌詞に共通している。クレーンが歌う日本語の歌詞が,米人男性が各地の日本娘に言及するという形をとっていることを考えると,原曲と「ニッポン娘さん」の歌詞世界は同じ構造をもっているといえるだろう。
18)この曲の歌詞は,ウェブ上で見ることができる。The Leader in Lieder によるページ:
http://www.ingeb.org/Lieder/trinkbru.html
を参照されたい。
 ドイツ語原曲のリフレインは,「呑め呑め,兄弟よ,呑め/面倒はほっておけ//苦悩などするな,心痛などするな/そうすれば人生は戯れのようなものだ」といった内容で,前2行と後2行がそれぞれ繰り返されて8行分の長さになる。クレーンの歌う「おいおいのぶ子さん」の英語詞では,原曲で「トリンク(呑め)」が繰り返される箇所が「ドリンク(drink)」の繰り返しに置き換わっていたり,リフレイン前半の4行(英語詞では行の繰り返しはない)で「呑め呑め,みんな,呑め/面倒は全部放り出せ/呑め呑め,みんな,呑め/今日は人生をじっくり味わおう」と原曲の大意が生かされていたり,歌詞の構成は原曲に準じたものになっている。他方,日本語詞では,酒を称賛する歌であることには変わりないが,酒に加えて,女性への言及が原曲よりもはっきり盛り込まれるなど,その内容は単純な原詞(あるいは英訳詞)の焼き直しではない。
 また,「のぶ子さん」など,女性の固有名詞を歌詞に盛り込むというアイデアは,原曲にも英訳詞にもない。おそらくはクレーンの創意であろう。全くの想像だが,具体的な酒場を意識した「楽屋落ち」のような要素もあるのかもしれない。
19)榎本(1947)では「サトー・ハチロー」と記されているサトウハチロー(1903-1973)は,作家だった父・佐藤紅緑に反抗し,十代から浅草に入り浸たる不良少年だったが,西条八十に師事して文筆に進み,詩人,作詞家として戦前・戦後を通じて活躍した。「酒がのみたい」が流行した当時は,榎本健一が,カジノ・フォーリーを争議によって退団し,新たに旗揚げした劇団の文芸部長だった。この劇団は,当初は観音劇場で「ニュウカジノフォリー」と名乗り,次いで玉木座に拠って「プペ・ダンサント」と称し,榎本の人気で成功を納めていた。しかし,当人の回顧(サトウ,1971)によると,脚本はほとんど菊田一夫らが書いていたという。
20)森岩雄(1899-1979)は,脚本家を振り出しに映画会社を渡り歩いて映画制作に携わり,最後は東宝副社長などを歴任した。また,脚本がなかなか作品化されなかった若い頃には,映画評論家として知られていた。1925年〜1926年には,作品買い付けなどのため初めて欧米旅行を経験した。
 帰国した森は,1926年に,日活金曜会を組織してトーキー導入に向けた活動をするが,この会は1930年に解散してしまう(森,1975,pp.137-144)。森が作詞を手がけるようになるのは,それからである。
 ちなみに,一瀬正巳は,ごく短い記事で,1928年に京都で開催された『キネマ旬報』愛読者大会で,森の講演を聞いたことに言及しているが,その演題は「第八芸術を論じて,レーニンより大根足に至る」という珍妙なものだったらしい(一瀬,2001,p.158)。ここでいう「第八芸術」とは,映画芸術=第七芸術の次に来る新たな芸術形態,といった意味であろうか。
 なお,森には,映画制作に関する著作のほか,晩年にまとめた回顧録『私の藝界遍歴』(森,1975)があり,作詞活動についてもまとまった記述を残し,クレーンのことにも言及している(pp.144-147)。以下,森については主としてこの回顧録の記述に依拠する。なお,のすたるじあ生(1976)は,記述の典拠を明記していないが,明らかに森(1975,pp.144-147)を主要な典拠の一つとしている。
21)森が,ここで「酒飲みは」という曲名で「酒がのみたい」に言及しているのは,歌い出しの文句で曲名に代えるという習慣によるものだろう。
  『オリジナル盤による昭和の流行歌』所収の「酒がのみたい」の歌詞(「別冊解説書」p.72)と,森(1975,pp.145-146)に掲げられた歌詞を対照させると,表記上の異同以外に,語句の異同が2つある。これを,「別冊解説書」,森(1975)の順に並べると,次のようになる。
 2行目:「酒があれば オイ 怠け者」「酒飲みは おい なまけ者」
 7行目:「もしなければ 酒徳利」「もしなければスットコドッコイ」
前者については,「別冊解説書」,後者については森の示す歌詞が実際の録音に近い。ただし,後者の当該部分を,クレーンは「ストッコドッコイ」と歌っているようだ。
22)当時は専属作詞家の制度があり,『三十年史』の「昭和三年以降活躍の主たる專屬藝術家」のリストには,「サトウ・ハチロウ」と記されたサトウハチローも含め,9名の作詞家の名が列挙されているが,当然,森の名はここにはない(日本蓄音器商會,1940,pp.100-101)。
 森はフリーの立場なりにコロムビアのために積極的に作詞・訳詞に取り組んでいたということだったのだろう。森の作詞・訳詞の仕事は,ほとんどがクレーンと,コロムビア所属時の川畑の歌であり,後年になって森が「コロンビア[ママ]に提供したものを調べてもらったら,全部で四十四曲もあったのには驚いた」という(森,1975,p.147)。また,これとは別に,友人・松山芳野里作曲の「ウィ・ウィ・パリ」に詞をつけたところ,藤原義江がビクターで吹き込んだことなども,森(1975,p.147)には述べられている。
 当時,著作権がどのように処理されていたのかは判然としないが,少なくとも森のケースでは,レコード会社の買い取りであった可能性が高い。森自身は「こうした仕事をすると,レコード会社からは一曲に対して三十円から五十円の報酬をくれた。これは半浪人の生活には大いに役に立ったことを覚えている。」(森,1975,p.147)と述べている。
 『オリジナル盤による昭和の流行歌』には,クレーンの曲以外にも,森の作品(訳詞)として川畑文子「沈む夕日よ(セントルイス・ブルース)」(1933)が収められている。ちなみに「セントルイス・ブルース」は戦前から知られており,いろいろな訳詞・歌手で録音されている。『日本の流行歌史大系』には,宗近明(1936:西原武三訳詞),ミッキー松山(1937:坂口淳訳詞)の歌が収められている。
23)クレーンの詞に森が手を入れている場合,森の加筆がどのようなものだったのかは,クレーンの歌詞が残っていない以上,推測が難しい。しかし,録音に残されたクレーンの歌唱と,印刷された歌詞の間に異同がある箇所は,歌唱の方がクレーンによる元の歌詞に近いものと考えられる。
 例えば,「ニッポン娘さん」の歌詞には,「僕大好きです」という一節があるが,ここをクレーンは「僕大好きます」と歌っている。クレーンにとって「です」と「ます」の使い分けは難しかったのだろう。「です」となっているのは,森による修正と考えられる。
 こうした歌詞の異同は,文法上の誤り以外にも見受けられる。「威張って歩け」には,印刷された歌詞では「お金を持っておらんかわりに 君と一緒にニコニコと」という一節があるが,クレーンの歌唱では「お金を儲けほがらかに」と歌われている。歌詞全体が,経済的な苦境にあっても元気を出せ,胸を張れ,といった主旨のメッセージになっていることを考えると,クレーンの歌唱(つまり元の歌詞と推測されるもの)でよいように思えるが,印刷された歌詞(森の手が入ったと推測される)の方が,金儲け自体を相対化してしりぞけているようで,金儲けを必ずしも肯定的に捉えない日本的な感性に沿っているといえるだろう。
24)京都を中心に活動している歌手・渕上純子は,クレーンの歌をステージで取り上げているが,その経験から「バートン・クレーンは本当に流行っていたのか?」という疑問を抱き,「バートン・クレーンを聞いて懐かしい,と思う人に会おう!」と,老人ホームでの演奏など,様々な機会に探しているがなかなか見つからない,という主旨のエッセイを書いている(渕上,2002)。
 個人的なことだが,筆者の義母は,昭和ひとけた生まれで神奈川県で育った。義母は,子供のころ親が持っていたSP盤の中にクレーンの曲があったことを記憶している。それは,「威張って歩け」と「夜中の銀ブラ」をカップリングしたコロムビア盤だったようで,子供だった彼女がこうした歌を意味もわからず面白がって歌っていると,たしなめられることもあったらしい。クレーンのレコードを面白がって買って来たのは義母の父か兄たちだったのだろうが,義母も「クレーンを聞いて懐かしい,と思う人」に数えてよいだろう。残念ながら,彼女の家のSP盤は,終戦後の「たけのこ生活」の中ですべて失われてしまった。
25)筆者は当初,事実を踏まえた上で,想像も交え,次のように考えていた。
 『日本の流行歌史大系』の付録冊子「総覧」の年表の記述(p.41)によると,クレーンが吹き込みをしていたのとほぼ同じ頃(1932年)に,ディック・ミネ(三根徳一)が立教大学を出て逓信省に入ったときの初任給が37円で,彼は「すぐにやめてダンスホールのバンドでドラムを叩いたりジャズソングを歌った。この方が月給の何倍かになった。」という。彼は1934年にテイチクから「ダイナー」と「黒い瞳」でデビューするが,その際には外国曲を編曲,訳詞,自演したが,そのすべてに対する「ギャラは一曲35円,初め印税契約はなかったからAB面合わせて70円だけだった」そうである。当時の歌手にとっては,実演の方が吹き込みよりも重要なビジネスだったことが察せられる。
 以下は,筆者のまったくの想像である。ホワイト社長は,同じ東部人で自分と似た背景をもっていた,やや年少のクレーンと意気投合し,小遣い稼ぎの機会を与えるつもりでレコーディングをさせた。ところが,第一作が予想外に大ヒットし,宣伝に力を入れた第二作もまあまあだった。当時は歌手の著作隣接権は確立されておらず,曲がヒットしてもそれに応じて歌手の収入が増えるわけではない。職業的な歌手であれば,ギャラが上がって実演を興行する機会も増え,収入の増加に結び付くが,記者として職業をもっていたクレーンはレコードがヒットしても追加的な収入があったわけではないし,実演の機会を増やすことは難しかったことだろう。ホワイトにすれば,自分の在任中はクレーンに引き続き吹き込みの機会を与え続けることで,ヒット作を出したクレーンに報いていたのではないだろうか。
 しかし,当時の社内資料を知り得る立場にある森淑は,クレーンがかなり有利な印税契約を結んでおり,レコード売上によって相当の収入を得ていたと考えられること,さらに,当時の歌手で,ディック・ミネのように実演の機会に恵まれていた者は少なかったことなど,筆者の推測の問題点を指摘した。こうした森の指摘は,的確なものである。ただし,森も,クレーンが有利な印税契約を結ぶことができた背景に,ホワイトの存在があったのではないかと考えている。
 いずれにせよクレーンは,実演をする余裕も,必要も,あまりなかったのであろうが,かといって,実演をまったくしなかったわけではない。『オリジナル盤による昭和の流行歌』所収の「酒がのみたい」の曲目解説(「別冊解説書」p.72)で南葉二は,「大阪の松竹座に臨時出演をしたときは虚無僧姿で舞台に登場して観客をびっくりさせたそうです」と述べている。同じ話は,のすたるじあ生(1976,p.117)も言及しているので,何らかの共通の典拠があるのだろう。
26)筆者の世代には,ラジオ英会話の講師として懐かしいJ.B.ハリス(James Bernard Harris, b.1916)は,英国人の父と日本人の母の間に神戸で生まれた。横浜のミッション校セント・ジョセフ・カレッジを卒業後,父の死を受けてアドバタイザー紙に入り,新聞の統合でジャパン・タイムス紙記者となるが,戦時中は収容を経て応召し,中国戦線に従軍した。ハリス(1986)は,この戦争体験を中心に,終戦直後までのことを綴った自伝的な著作である。戦後は,現在のジャパンタイムズ紙の前身であるニッポン・タイムス紙,米フォーチュン紙を経て,文化放送のラジオ英会話番組『百万人の英語』の中心的な講師として活躍した。
 ハリスは,生まれたときには父と同じ英国籍だったが,父の死後,日本国籍に戻った母とともに日本人となり,以降,平柳秀夫が本名となった。
27)現在のジャパンタイムズ紙につながる新聞の起源は,1897年創刊の The Japan Times にさかのぼる。その後,1918年に The Japan Mail(1978年創刊)を合併し,The Japan Times & Mail となった後,後述のように,1940年に The Japan Advertiser を合併し,さらに神戸にあった英国系の The Japan Chronicle(1891年創刊)を合併して,太平洋戦争開戦前には日本における唯一の英字紙となった。戦争中の1943年に「ニッポン・タイムス」The Nippon Times と改題し,戦後もその題号を維持したが,1956年に「ジャパンタイムズ」The Japan Times に復し,現在に至っている。
 一方,アドバタイザー紙は,1890年に横浜で創刊された英字紙で,1908年にフライシャーが経営権を買い取り,1909年に本拠を東京へ移した。1930年には社屋の火災という不運に見舞われたが,順調に再建され,新聞統制の一環として強制的にタイムス紙に統合されるまで存続した。
28)「6ペンスのうた(A Song o' Sixpence)」と題された彼の経済面に署名コラム(注3 参照)のタイトルは,英国の伝承童謡から採られている。元になっているのは「6ペンスのうたを歌おう(Sing A Song o' Sixpence)」で,多くの伝承童謡の例に漏れず,歌詞には様々な解釈がある。クレインが経済コラムのタイトルにこの曲名(の一部)がふさわしいと考えたのは,おそらく歌詞2番の最初の2行「The king was in the counting house / Counting out his money」(谷川俊太郎の訳では「おうさまは おくらで / おかねかんじょう」)を踏まえてのことだったろう。この童謡は,英国人だけでなく米国人でも誰もが口ずさむものだが,2番の歌詞は意外にきちんと思い出せないものらしい。この辺りにも,クレインの歌好きなところが顔を出している。(以上は Irith T. Bloom の教示を得た。)
 このコラムのタイトルは,記者クレインが,歌に通じ,愛着をもっていたことを示唆しており,その意味では,歌手(作詞者)クレーンの経済や金融への関心を示す「威張って歩け」の歌詞(「赤字なんか驚くな 世界中がマイナスだよ」,「お金が欲しけりゃ 何処にもある / 探してもない時は 借りて来りゃいいじゃないか」といった文句が出てくる)と好一対をなすものといえる。
29)参照しているハリスの文章は,英文で執筆され,後藤新樹が訳したものである。残念ながら英文は未見である。
 クレインが来日前に博士号を取得していたとすれば,24歳以前での学位取得であり,例外的なことであろう。また,このハリスの記述以外に博士号への言及がない(Dr Crane と言及されている例は見つけていない)のは不自然である。ハリスの思い違いか,不正確な訳による,誤った記述ではなかろうか。
 また,「特派員」というからには,最初からニューヨーク・タイムズ紙に身分があって,そこから東京のアドバタイザー紙に送り込まれてきたというニュアンスになる。いわば出向だ。そうだったとすれば,「本社に戻る」といった表現が妥当なものになる。前出の森(1975,p.145)の記述は「ジャパン・アドバタイザーはTニューヨーク・タイムズUと縁の深い新聞で,クレーンは恐らくタイムズからの特派記者ではなかったかと思う。」と,断定は避けながらも「特派記者」だったのだろうと推測している。
 書簡によれば,クレインはアドバタイザー紙に加わる以前にニューヨーク・タイムズ紙に所属していたわけではない。クレインが,アドバタイザー紙に職を得てから,ニューヨーク・タイムズ紙はじめ各紙に原稿を書き送っていたことは間違いないし,後のタイムズ紙への転職の際にはその実績が買われたものと推測される。しかしそれは,委嘱されてニュースを書き送る,いわば「通信員」としての仕事だったろう。
 いずれにせよ英文では correspondent なのだろうが,「特派員」と「通信員」では,日本語のニュアンスはかなり異なってくる。
30)ウェブ上には,クレインがハリスにどんなアドバイスをしたのかを推測する材料として興味深い記事が存在する。これは,アマチュア記者にアドバイスをするという形で書かれた「Use the Meat-Axe」(肉切り斧を使え=「大鉈をふるえ」の意)という1940年代に書かれた記事で,The American Amateur Press Association という団体のサイトにある。
http://members.aol.com/aapa96/meataxe.html
 不要な修飾語を使うな,形容詞は極力使わないで表わすべきことは名詞と動詞を工夫しろ,といった内容は,ハリスが記憶するクレインの教えそのままである。
31)1940年10月13日付のアドバタイザー紙には「Japan Times & Mail Buys Japan Advertiser」と題した社告があり,同日付で経営権が委譲されたこと,移行期間をおいて,両紙を統合することなどが告知されている。両紙を統合した「The Japan Times & Advertiser」の表題が最初に使われたのは,紀元二千六百年の記念行事がはじまった11月10日付の紙面からであるが,この日の一面下に掲載された社告では,11月11日付から両紙が統合されると告げている。おそらく,業務の統合は月曜日の11日からという意味なのであろう。
32)既に,日本国籍になっていたハリス=平柳秀夫には,生活のためにジャパン・タイムス紙に残るほか選択肢はなかった。「社屋は《ジャパン・タイムズ》の方が《ジャパン・アドバタイザー》のあったビルに移ってきたため,移籍に伴う違和感はほとんどなかった。」とハリス(1986,p.58)は記している。ネイティブの外人記者が少なくなったため,ハリスは重用されるようになる。しかし,日米開戦直後に,ハリスは「外国人」として拘束され,続けて「日本人」として戦地に送られることになった。
33)ここで,のすたるじあ生(1976,p.117)が,ハリスとは逆に帰国時期を実際のよりも早かったと判断し,「昭和八年頃」から「間もなく」だったように述べているのは,明らかに誤りである。また,「ニューヨークのタイムス本社に転勤になって帰国」というのも不正確である。おそらくは,森(1975,p.145)を踏まえた記述なのだろう。ただし,「夫人のエスター・クレーンも大の親日家でしばらく日本に残ったが彼女も昭和十二年に帰米した」というのは正しい。さらに,「昭和十二年春に,日米交換ラジオ放送が行われた時,クレーンは,米側アナウンサーになって,ベニー・グッドマン楽団の対日放送の司会をつとめた」とあるのだが,この日米交換ラジオ放送についての記述は,典拠も事実関係も未確認である。  この例に限らず,クレインの帰国の事情については,不正確な記述が散見される。
34)榎本健一(1904-1970)は,浅草オペラの根岸歌劇団を振り出しに,軽妙な身のこなしと個性的な歌声で天才ボードビリアンとして人気を得ていった。歌手クレーンが活動していた当時,榎本は既に圧倒的な人気を背景に,自身の劇団をもっていた。榎本(1947)は,榎本が書いた最初の本だが,これが出版された戦後占領期にも,彼の一座は日比谷の有楽座に拠って人気を集めていた。舞台と平行して多数の映画にも出演し,後にはテレビでも活躍した。浅草オペラからテレビ時代まで第一線で活躍し続けたその軌跡は,「喜劇王」の名に恥じないものである。
35)OSS は,中央情報局(CIA: the Central Intelligence Agency)の前身となった組織で,字句を補って「戦略情報局」とか「戦略作戦局」などと訳されることもある。1941年,前身のOCIから改組されて,第二次世界大戦中の情報収集活動や秘密工作などを担い,1945年9月にいったん解体されるが,その組織の大部分は再編され,1947年に設立されるCIAの基礎となった。(フリーマントル,1984,pp.27-38)
 クレインがOSSの任務についていたことは,ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事(1963年2月4日付)に見える。また,Beech(1954,p.118)には,朝鮮動乱初期のソウルで,北側の捕虜になるおそれがあると判断した時に,クレインが財布から一枚カードを引き出して焼却したことが記述されており,「私はクレインが中国でOSSの任務についていたことを知っていた」というコメントが添えてある。昆明におけるクレインの具体的な任務など,これ以上の詳しいことは判っていない。
 書簡では,クレインがOSSの任務に就いた時期を「1944年(だと思う)」と,断定を避けた記述にしているので,ここではタイムズ紙の死亡記事に記された1945年と判断した。
36)『日本新聞年鑑』昭和26年版(1950年12月刊行)には,「国内新聞の近況」の中の「編集(外電)」欄の最後に「外国特派員の活躍」という項目を設けて「ニューヨーク・タイムスのバートン・クレーン特派員」を含む5名の名を挙げ,「相変らず活発な報道戦を展開した」と述べている(p.53)。前後の年次にはこうした記述がないので比較はできないが,クレインの活躍が,日本の新聞記者たちにもよく知られていたことを示すものであろう。
37)コレスポンデンツ・クラブには,会長以下,副会長(2名),会計担当幹事,書記が役職として設けられていた。役職名の訳は『日本新聞年鑑』による。
 クレインは,1946年の前半に,前任者が転勤のため任期途中で退いた後を受けて書記となり,そのまま1946年と1947年の役員改選でも書記に再選されて,1948年前半までその職にあった。
 コレスポンデンツ・クラブは,この間にインフレに翻弄されたことなどもあって財政状態が悪化した。そこで,一部の従業員の整理解雇を試みたが,それをきっかけに組織に亀裂が走り,1949年には一時的に分裂状態(メンバーの大量脱退)に陥る。一連の騒動でクレインの役割なり責任がどのようなものであったのかは,判然としない。しかし,事態が収まった直後の選挙で会長に選出されたことを考えると,同僚からの信頼は失っていなかったと考えてよい。
38)コレスポンデンツ・クラブは,当初は総司令部(GHQ)の本部となった第一生命ビルの中に仮に置かれたが,1945年11月に,丸の内会館へ移った。丸の内会館は,地下1階地上5階建ての建物で,地下が厨房,1階がラウンジ,3階が大広間で,2,4,5階は会食用の個室になっていた。この個室を改装し,トイレなど水回りを整備して,オフィス兼住居にすることになった(FCCJ,1998,p.14)。1946年には,40名いたクラブのメンバーのうち,35名がクラブを居所としていた(p.18)。本来は1人用のものを2人で使用していたと思しき部屋の写真(p.45)も参照のこと。
 丸の内会館の所在地は「千代田区三丁目二番地」だったが,この建物は「No.1 Shimbun Alley(新聞横丁1番地)」と名づけられ,以降,特派員クラブの愛称となった。
39)この時期の『日本新聞年鑑』には,年次によって形式は異なるものの,毎年,特派員の名簿が掲載されている。戦後最初の『日本新聞年鑑』である昭和22年版(1947年10月刊行)には,「在日連合國記者名簿(昭和二二・三・一現在)」が掲載されており,「クレーン(バートン)」と表記されたクレインを含め,65名が列挙されている。同様に,昭和23/24年版(1948年12月刊行)の「在京外國特派員一覧(23.3.5.現在)」は59名,昭和25年版(1949年11月刊行)の「外國通信支社局と特派員」に個人名があるのは41名となっている。
 FCCJ(1998)から関連する記述を拾ってゆくと,1945年のコレスポンデンツ・クラブ設立メンバーは58人,1946年の会員数は40人,翌1947年の総会出席者は41人,1948年の会員数は47人,翌1949年の会員投票の投票総数は47票,などとなっている。
 フランク・ギブニー(Frank Gibney, b.1924)は,戦後の日本とアジアを米国メディアに報じ続けたジャーナリストである。1945年から1946年にかけて,設立したばかりのコレスポンデンツ・クラブに海軍の広報担当情報将校(海軍大尉)として出入りしていた彼は,退役後の1949年に『タイム』誌の特派員として東京に戻り,クラブの一員となった。後述のように,ギブニーは朝鮮動乱でクレインと苦難をともにすることになる。
 ギブニーが1949年当時のクラブの雰囲気を回想した文の中に,短くクレインの名前が出てくる。東京へ戻ってみると,クラブには相変わらずの仲間がいて雰囲気は変わっていない。「バートン・クレインは占領軍の将軍たちを相手に,彼らの経済運営がいかにお粗末かを語っていた」そうだが,これも以前と変わっていなかったということだろう。物おじしない経済記者クレインらしいエピソードである。(FCCJ,1998,pp.xii-xiii)
 当時のクレインの日本経済に対する見解は,クレイン(1950)によって知ることができる。翻訳(抄訳)が刊行されたのは1950年3月だが,もともとの記事は1949年10月に発表されている。ここでクレインは,性急な自由競争の導入をはかる当局者に対して,漸進主義的な立場から批判を加えている。
40)Beech(1954,p.107)は,クレインのことを「an old Japan hand(古くからの日本通)」と記している。
41)ビーチは,藤沢市の自宅で第一報を受け,その日のうちにソウルへ飛ぶべく羽田飛行場へ向かった。彼のほか,マーガレット・ヒギンズ(注42を参照),フランク・ギブニー(注39を参照),UP通信のピーター・カリシャー(Peter Kalischer)らを乗せた定期便は,大幅に遅れて羽田を飛び立つが,結局,羽田に引き返してしまった。(Beech,1954,pp.105-106)。
42)キーズ・ビーチ(Keyes Beech, 1913-1990)は,1948年から1949年にかけて,分裂の危機に瀕したコレスポンデンツ・クラブの会長を務めるなど,東京駐在特派員の中でも中心人物の一人だった。後年には,ベトナム戦争の報道でも活躍した。
 マーガレット・ヒギンズ(Marguerite Higgins, 1920-1966)は,当時本国から派遣されてきたばかりの女性記者で,第二次世界大戦時の欧州戦線での取材とベルリン駐在の経験があった。
 ビーチとヒギンズは,朝鮮動乱の報道によって,それぞれ1951年度のピュリッツァー賞(国際報道部門)を受賞している(Brennan & Clarage, 1999, pp.327-328)。
 フランク・ギブニーについては,注39を参照。
 既に50歳近かったクレインは,同行した他の3人とはかなり年齢が離れていたことになる。
43)「ソウルからの脱出」と題された,Beech(1954, pp.103-122)の記述を,彼等の行動に沿って要約しておこう。
 金浦飛行場に降り立った一行は乗り捨てられていた車で,漢江大橋を北=右岸へ渡り,米軍事顧問団(the Korean Military Advisory Group)の指令部にたどり着く。ところが,事態が既に危険な状態にあることを告げられ,自力で水原方面へ脱出するよう指示される。紅一点だったヒギンスは,本人の意思に反して軍事顧問団の保護下で組織的に退避することになった。
 ビーチ,ギブニー,クレインは,ジープを使って水原へ向かうべく夜半に出発するが,途中で韓国軍の指令部に立ち寄ったこともあってタイミングを失し,漢江大橋にさしかかったところで,避難民の群れのなかで立ち往生してしまう。動けなくなってしばらくしたとき,不意に前方で漢江大橋が爆破される。その時には北側の砲撃と思われたが,これは橋を破壊するために韓国軍によって仕掛けられていた爆発物が,命令系統の混乱から誤って爆破されたものだった。
 運転席にいたクレインと助手席のギブニーは,爆風で吹き飛ばされたフロント・ガラスの破片で頭部に大怪我を負う。特にクレインが重傷だった。3人はジープを放棄し,韓国軍の少年兵たちの道案内で闇の中を水田を横切って,軍事顧問団の住宅地区へ歩いて移動する。これは,北側が侵攻してきたときに,米軍地区にいたほうがむやみに殺されず捕虜になる望みが持てるという判断からだった。米軍地区はソウルの中心市街地から南山を挟んで反対側=南側にあたる南山と漢江の間にあり,この段階ではまだ戦火は及んでいなかった。
 一行は,米軍住宅の一角に,韓国人の従卒とメイドたちが残っていた家を見つけ,ここで休憩して傷の手当(ガラスの破片を取り除いて,サルファ剤を浴びせるだけだが)をして,食事をとり,再び脱出を試みる決意をする。翌朝,一行は新たにジープを調達して,避難民が船で漢江を渡っている場所にたどり着く。そこで大型の筏にジープを乗せて,漢江の南=左岸に無事脱出した。
 以上が,事態の推移の要約だが,このビーチの記述には,クレインの人となりを知る上で興味深い描写が数ヵ所出てくる。
 「強面の大男(A large man with craggy brow)」(p.107)で「身長6フィートのからだは,われわれの誰よりも大柄だった」(p.121)クレインは,「古くからの日本通,経済分野の専門家で,熱心な演劇愛好家にして素人劇作家」(p.107)と紹介されている。
 軍事顧問団の指令部から出発するとき,3人はクレインの運転するジープで,ライトを消したまま夜道を進んだ。ビーチはクレインの運転を危なっかしく思っていたようで,「バートン・クレインは多才な男だが,その才能の中に運転が含まれているとは思えない」などとも述べている(p.113)。
 負傷して頭から血を流し,ほとんど目が見えない状態のクレインは,雨の降る中,ビーチに手を引かれて暗闇の水田を泥だらけになって進みながら,「ラテン語の諺を引用したり,橋を吹き飛ばすのに必要なTNT火薬の量を暗算したり」していたが,盛んに鳴いている蛙に毒づいて,「[蛙がこんなに喧しいと]知っていたら,[アリストファネスの]『蛙』の翻案なんかやらなかったのに」などと口走っている(p.116)。
 米軍地区の家で手当をした後も「クレインは休みなく家の中を歩き回り,出血が再び始まった」ので,ビーチはクレインにスコッチを注いでやり,横になるよう説得した。「彼はベッドに横になり,幸せそうに,卑猥な歌を低い陽気な声で歌っていた」という(p.118)。ちなみに,記者クレインが歌ったことを記録した記述は,今のところこれしか見つけていない。
44)クレインのコレスポンデンツ・クラブ会長としての任期は1950年7月から1951年6月であったが,朝鮮での負傷に加え,台湾への派遣もあったためか,彼は任期を全うすることができなかったようである。これについて,FCCJ(1998)には,矛盾した記述が見える。「後にクレインは朝鮮での負傷から辞任し,ヘッセル・ティルトマン(Hessell Tiltman)に交代した」(p.50)という記述がある一方,任期いっぱいまで会長はクレインであったように見える記載(p.60)もある。後者が単純な誤記である可能性は大きいが,ティルトマンが副会長などの役員として選出されていたわけではないことを考えあわせると,彼はクレインが事務をとれない間に事務を預かっただけで,クレインは名目的な会長として名が残っていたのかもしれない。
45)ニューヨーク・タイムズ紙の紙面分析にはまだ手がつけられていないので,株式コラムの名などは未調査である。
46)ニューヨーク・タイムズ紙に載ったクレーンの死亡記事には,何を教えたのかは記載されていない。ニューヨーク大学へは,照会を試みたが,回答は得ていない。ニューヨーク大学については,
公式ホームページ:
http://www.nyu.edu/
を参照されたい。
47)Library of Congress Online Catalog を利用して検索した結果による。
http://catalog.loc.gov/
48)最晩年のクレーンの病気が何であったか,具体的に述べた資料はほとんどない。『オリジナル盤による昭和の流行歌』所収の「酒がのみたい」の曲目解説(「別冊解説書」p.72)で南葉二は,クレーンについて「戦争中はニューヨークに帰っていましたが,終戦後,再度日本を訪れた親日家で,足に腫瘍ができたのが悪化して亡くなったそうです。」と述べているが,必ずしも信頼性の高くない伝聞による記述と考えるべきであろう。
 森(1975,p.146)は,「大戦後[ママ],クレーンは本社のニューヨーク・タイムズに戻り,経済部のトップ記者になり,本業で重きをなすようになり,私も再会して共に無事を喜び合ったこともあったが,六十二歳でこの世を去ってしまった。」と述べている。この「再会」がニューヨークでのことなのか,クレインが東京に駐在した占領期のことかは判然としない。森(1975)の記述から判断すると,彼は戦後,1952年3月(pp.189-193)と1963年1月(pp.242-243)の少なくとも2回,ニューヨークに滞在しているが,それぞれの滞在に関する箇所にはクレインに関する記述はない。クレインは1963年2月3日に亡くなっているので,「再会」が1963年1月ならば,森はクレインを病床に訪ねたことになる。
49)前述のように,書簡では,クレインが来日以前に関わった媒体として,エリザベス・タイムズ紙と,APフィラデルフィア支局の名が挙げられている。
 しかし,前出の注30で紹介した,AAPA のページの記述によると,クレインは1912年から,つまり11歳のときからアマチュア・ジャーナリズムに関わっていたというくらいだから,このほか,学生時代にも何らかの形で新聞社などでの経験があったのかもしれない。
50)東京インターナショナル・プレーヤーズは,1896年創設の非営利組織,つまり在日外国人の素人劇団として息の長い活動を続けている。
公式ホームページ:
http://www.tokyoplayers.org/
を参照されたい。
51)毎日新聞と日本経済新聞は,同じUPI記事のはずなのに多少の違いが生じている。これはなぜであろうか。以下,推測を交えて考えて見よう。
 UPI通信の配信記事といっても,英文で送信されてきた原稿を翻訳する際に,翻訳する日本側のスタッフが追加情報を追記するという可能性は十分にある。米国のUPIから英文記事が送信されてきたのを受け取った日本側のUPIスタッフは,亡くなった記者が,歌手クレーンであることに気付き,やや不正確な情報を追加して日本語訳を配信したのであろう。その翻訳者は「酒がのみたい」の正しい曲名を覚えておらず,印象的だった「養老の滝がのーみたい」を曲名と思い込んで原稿を綴った。配信を受けた日本経済新聞の記者は,行数を抑えるため,作詞の方に事実をしぼり,歌手として吹き込んだ事実は削除されてしまった。一方,毎日新聞の記者は,曲名が「〜のーみたい」ではなく「〜のみたい」だったはずだと判断して修正したのであろう。
 毎日新聞は写真を載せている。これが資料写真だったとすれば,毎日新聞にはクレーンの顔写真を見つけ出してくる余裕があったということになる。一応は各紙が各通信社とつきあう形を取りながら,朝日とAP,毎日とUPIが強い提携関係をもっていたという事情を勘案すると,毎日は,UPIの日本語配信記事を多少なりとも他紙(例えば日経)より早く入手できたのかもしれない。
 他方,AP通信の翻訳者や朝日新聞の記者は,クレーンが歌手だったことに,まったく気付かなかった可能性が高いように思われる。
52)TJFR Group という情報企業が,スポンサーにクレジット・カード会社を得て展開している事業である。
この事業の公式ホームページ:
http://www.newsluminaries.com/
クレインの簡単な経歴を記したページ:
http://www.newsluminaries.com/crane.htm
を参照されたい。

文献

一瀬正巳(2001):『耳の至福,眼の悦楽』一瀬正巳(富士レコード),493ps.
犬童一心(1999):『大阪物語』吉本興業,223ps.
榎本健一(1947):『エノケンの泣き笑ひ人生』日本アート社,187ps.[復刻版(大空社,1998)による]
クレイン,バートン[石丸義富・訳](1950):反トラスト資本主義とカルテル資本主義,公正取引(公正取引研究協會),創刊號(1950年3月号),pp.9-11.
コロムビア50年史編集委員会(1961):『コロムビア50年史』日本コロムビア,ページ記載なし[およそ220ps].
サトウハチロー(1971):『落第坊主』R出版社.[日本図書センター版(1999)『人間の記録91 サトウハチロー「落第坊主」』による]
田中小実昌(1985):ポクポク小馬,『オトコの気持ち』日本経済新聞社.[種村季弘・編(1987)『東京百話 地の巻』筑摩書房(ちくま文庫),pp.270-278,による]
徳川夢聲(1940):『くらがり廿年』春陽堂文庫出版,286+9ps.
中村とうよう(2000):レコードの裏おもて[連載],レコード・コレクターズ,19-8(2000年6月号),p.128.
日本蓄音器商會(1940):『日蓄(コロムビア)三十年史』日本蓄音器商會,178+31ps.
のすたるじあ生[瀬川昌久](1976):栄光のコロムビア・ジャズ・バンドとその輝かしきメンバー達(其の三),jazz(アン・エンタープライズ),8-9(1976年8月号),pp.116-119.
ハリス,J.B.[後藤新樹・訳](1986):『ぼくは日本兵だった』旺文社,245ps.
渕上純子(2002):探しています──バートン・クレーン探索記,彷書月刊(弘隆社),200(2002年5月号),pp.37-39.
フリーマントル,B.[新庄哲夫・訳](1984):『CIA』新潮社,327ps.
森 岩雄(1975):『私の藝界遍歴』青蛙房,387ps.
森本敏克(1975):『音盤歌謡史 歌と映画とレコードと』白川書院,252ps.

Beech, Keyes(1954):Tokyo And Points East,Doubleday (Garden City, New York),255ps.
Brennan, Elizabeth A. & Clarage, Elizabeth(1999):Who's Who of Pulitzer Prize Winners,The Oryx Press (Phoenix, Arizona),xxi+666ps.
Crane, Burton(1936):Japan Goes Hollywood,Cue,5-4,pp.6-7/37.
Eisenlohr, Sylvia Crane(1964):Foreword,in Crane, Burton, The Sophisticated Investor, Revised and expanded by Eisenlohr, Sylvia Crane,Simon and Schuster (New York, New York),pp.9-12.
Foreign Correspondents Club of Japan, The(1998):Foreign Correspondents in Japan,Tuttle (Rutland, Vermont & Tokyo, Japan),xvi+367ps.

新聞研究所『日本新聞年鑑』昭和初期各年版[復刻版(日本図書センター,1986)による]
日本電報通信社『新聞総覧』昭和初期各年版[復刻版(大空社,1993-1994)による]
日本新聞協会『日本新聞年鑑』占領期各年版[復刻版(ゆまに書房,2001)による]

ディスコグラフィ(CD)

クレーンの音源を収録しているもの:
ダイセル化学工業
 『日本の流行歌史大系』(1990)(60枚組)
日本コロムビア
 『オリジナル盤による昭和の流行歌』(1998)COCP-30171-90(20枚組)

その他:
おんがくのまち/山野楽器
 『浅草オペラ 華ひらく大正浪漫』(1998)YMCD-1056
テイチク
 『川畑文子・ベティ稲田と仲間たち/青空〜あなたとならば』(1998)TECW-28770
東芝EMI
 『全集日本吹込み事始』(2001)TOCF-59061-71(11枚組)



謝辞/献辞

 本稿執筆の直接の契機は,国立音楽大学における「ポピュラー音楽研究」の2002年度の講義のために,昭和初期の流行歌に関する資料を読み直したことにある。講義の機会を与えていただいた,国立音楽大学音楽学教室に,まず感謝を申し上げる。
 本稿は,多くの方々からのご協力があって形をとることができた。資料の提供を受けたり,資料の所在を教えていただいた方は多数にのぼるが,瀬川昌久,森淑,平島高文,森川卓夫,貴島公,渕上純子の各氏には特にお世話になった。また,いちいち団体名を挙げることはしないが,文中に見えるいくつかの団体には,いろいろな形で照会に応じていただいた。さらに,クレインの一人娘であるシルビア・クレイン・エイゼンロール女史には,貴重な証言の書簡を頂いた。以上,ご協力に心よりの感謝を申し上げる。
 東京経済大学図書館の参考係には,これまでにないほど多様なリクエストに応えていただいた。参考係の司書諸氏の努力で,津田塾大学,愛知大学,成蹊大学,文教大学の各図書館から資料を提供していただくことができた。また,国立音楽大学,武蔵野美術大学,一橋大学の各図書館も,資料の閲覧に便宜を計っていただいた。こうして収集した資料の中には,本稿ではまだ活かせていないものもある。その意味では,感謝とともに,お詫びも申し上げなければならない。
 本稿執筆の中間段階で,あるいは草稿を読んでコメントしていただいき,あるいは,疑問点にアドバイスをいただいた,多くの方々にも,改めて謝意を表するものである。

 香内三郎先生は,筆者が東京大学新聞研究所の研究生となった当時,研究所の看板教授のお一人であった。その後,先生は東京経済大学へ移られたが,十年あまりの時間をはさんで同じ学部で同僚となる栄に浴するとは思ってもいなかった。再会した先生は,万全ではなくなった健康に慎重に対処されながら,執筆を続けておられた。結局のところ筆者は,香内先生の学生として直接教えを受ける機会は得られなかったが,先生の書かれた文章から学んだことは計り知れない。
 また,本稿の執筆は図書館に大いに助けられたものである。その意味では,本学における最後の大きな職務として図書館長を務められ,情報インフラの整備に尽力された香内先生に大いにお世話になって,本稿は何とか形をとったということもできる。
 本来ならば,本稿のような中途半端な性格のものを献呈するのは望ましいことではないのだが,これも自分の力不足であり,筆者のありのままである。ご叱責を覚悟しつつ,内容未完成のまま提出する卒業論文のようなものではあるが,ご笑覧を乞い願うところである。香内先生の末永いご健勝と,ご健筆をお祈り申し上げる次第である。


 本研究には,2002年度の東京経済大学個人研究費を用いた。

 本稿の概要は,日本ポピュラー音楽学会(JASPM)関東地区2002年度第5回例会(2002年10月19日,東京経済大学)において発表した。

 本稿のテキストは,当研究室のページで公開している。(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html)



ヤマトレコードさんによるバートン・クレーンの部屋(相互リンク)
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