研究の道具箱:山田晴通

バートン・クレーン(Burton Crane, 1901-1963)歌唱曲リスト


このページは、バートン・クレーン(Burton Crane, 1901-1963)が録音を残した歌唱曲についての情報を集約するために設けられました。
クレーンについては、下記の拙稿(2002)の発表後、2006年に多数の楽曲を復刻したCDが発売され、徐々にその再評価が進んでいます。このページでは、拙稿(2002)、および、復刻CDの「解説」(2006)から、楽曲についての説明を抜粋して録音順に並べ、さらにこうした既発表稿に盛り込めなかった情報や、その後に入手した関連情報などを列挙しています。
背景が緑色になっているのが拙稿(2002)、同じく黄色が「解説」(2006)からの、抜粋です。また、白色はその他の未公刊情報に相当します。

[2006.07.22.開設:2011.01.25.最終更新]
関連する論文:山田晴通(2002):バートン・クレーン覚書
関連するページへのリンク:バートン・クレーン リンク集
 バートン・クレーン、SPレコード一覧(コロムビア盤:1931-1934)(テイチク盤:1936)
レーベル番号原盤番号録音日発売日曲名作詞作曲編曲伴奏注記(共演/作曲)
コロムビア 26177NE34504-41931.01.下旬1931.03.20.
1931.04.新譜
酒がのみたい森岩雄バートン・クレーンコロムビアオーケストラ
NE34505-31931.01.下旬家へかえりたい森岩雄バートン・クレーンコロムビアオーケストラ
26327NE34780-51931.03.下旬1931.06.20.
1931.07.新譜
ニッポン娘さん森岩雄バートン・クレーンコロムビアジャズバンド女性(不詳)の台詞入り
NE34779-61931.03.下旬おいおいのぶ子さん森岩雄バートン・クレーンコロムビアジャズバンド
26371NE35103-21931.05.下旬.1931.07.20.
1931.08.新譜
人生はかない森岩雄井田一郎コロムビアオーケストラ☆天野喜久代
NE34504-31931.05.下旬かわいそう森岩雄コロムビアオーケストラ
26723NE35275-11931.06.中旬.1931.08.20.
1931.09.新譜
月を眺めよ森岩雄トービス井田一郎コロムビアオーケストラ
NE34504-31931.06.中旬コンスタンチノープル森岩雄カールトン井田一郎コロムビアオーケストラ
26484NE35403-11931.07.--.1931.09.20.
1931.10.新譜
威張って歩け森岩雄井田一郎コロムビアオーケストラ
NE35426-21931.07.--.夜中の銀ブラ佐々紅華 戯作井田一郎コロムビアオーケストラ☆天野喜久代
26549NE35402-11931.07.--.1931.10.20.
1931.11.新譜
仕方がないバートン・クレーン宮田東峰宮田ハーモニカバンド五重奏団男性(不詳)のハーモニー入り
NE35401-21931.07.--.モダーン百万パーセントバートン・クレーン宮田東峰宮田ハーモニカバンド五重奏団
26585NE35635-31931.09.29.1931.11.20.
1931.12.新譜
天の岩戸森岩雄井田一郎コロムビアジャズバンド
NE35501-71931.09.29.雪ちゃんは魔物だ森岩雄ハーバート・エルカコロムビアジャズバンド
26636NE35768-21931.10.26.1931.12.15.
1932.01.新譜
酒場の唄黒田幸夫井田一郎井田一郎コロムビアジャズバンド
NE35769-21931.10.26.ジョッキー・ビール時雨音羽杉山はせを杉山はせをコロムビアジャズバンド
26701NE35911-21931.12.07.1932.02.20.
1932.03.新譜
アルコール行進曲(上)正岡容和洋楽伴奏
NE35912-21931.12.07.アルコール行進曲(下)
26896NE36282-21932.03.31.1932.05.20.
1932.06.新譜
よういわんわバートン・クレーン井田一郎コロムビアオーケストラ☆淡谷のり子
NE35500-11931.08.19.僕色男だ!森岩雄ハーバート・エルカコロムビアオーケストラ
27022NE36560-41932.06.22.1932.07.20.
1932.09.新譜臨
恋人に失恋したバートン・クレーン井田一郎コロムビアジャズバンド
NE36283-41932.06.09.誰方かやるじゃろ森岩雄井田一郎コロムビアジャズバンド
27319M37238-21933.01.30.1933.02.20.
1933.04.新譜臨
女の天下森岩雄杉田良造コロムビアジャズバンド
M37237-11933.01.30.金の世の中森岩雄杉田良造コロムビアジャズバンド
27440M37683-21933.05.15.1933.06.15.
1933.07.新譜
のんきなパパさん森岩雄杉田良造コロムビアジャズバンド
M37682-21933.05.15.のんきなママさん森岩雄杉田良造コロムビアジャズバンド
27459M37684-21933.05.15.1933.07.15.
1933.08.新譜
アイ・ラヴ・ユー安東英男益田銀三仁木他喜雄松竹少女歌劇オーケストラ☆淡谷のり子
弥生ひばり/花の精の歌安東英男田代与志
27584M37953-11933.08.15.1933.10.20.
1933.11.新譜
トンコ節時雨音羽菊地博コロムビア和洋合奏団
M37954-21933.08.15.ハレルヤ妹尾幸陽菊地博コロムビアジャズバンド
27690M38466-41934.01.23.1934.01.29.
1934.02.新譜追
サイド・バイ・サイド村瀬好夫トーマス・ミスマンコロムビアジャズバンド☆川畑文子
川畑文子/フー宇佐不吟
27691M38313-11933.11.25.1934.01.20.
1934.02.新譜
バナナは如何宇佐不吟シルバー&コーン仁木他喜雄コロムビアジャズバンド
M38314-21933.11.25.バルセロナ妹尾幸陽エバンス仁木他喜雄コロムビアジャズバンド
テイチク 50192T65301935.11.28.1936.01.10.
1936.02.新譜
二人は若い玉川映二古賀政男古賀政男ALキング・エンド・ヒズ・フロリダ・リズム・エーセス☆上村まり子
T65311935.11.28.恋は荷物と同じよ玉川映二古賀政男古賀政男ALキング・エンド・ヒズ・フロリダ・リズム・エーセス☆上村まり子


酒がのみたい  .....<「作品集」1>、<「昭和の流行歌」1-12>、<「流行歌史大系」C1-7>、<「日本のジャズ・ソング」1-16>
[「作品集」発表後に寄せられた情報+α]
 加藤登紀子は、1980年代にライブでこの曲を取り上げており、坂本龍一と上野耕路がプロデュースしたLP『夢の人魚』(1983)と、ライブアルバムLP『TOKIKO Best Live 酔夢』(1985)にこの曲が収録されている。
加藤登紀子 ディスコグラフィー アルバム編 2
加藤登紀子 ディスコグラフィー ライブアルバム編
(via 石川茂樹)

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 クレーンの第一作にして,最大のヒット曲。原曲は未確定だが,「Drunk Last Night」の名称で広く歌われた「酒飲み唄 Drinking Song」の系譜に入る俗謡であるようだ。作詞は森岩雄だが,森自身は回顧録『私の藝界遍歴』で「これは私の訳詞ということになっているが,これはこれでこのままがいいので,私はただ名前を貸しただけで,もしこれが面白いとするなら,その名誉のいっさいはクレーンさんのものである」と述べている。榎本健一の回顧録『エノケンの泣き笑ひ人生』によれば,サトウハチローは,「この歌は歌そのものが既に酔拂つてゐるんである」と評し,泥酔して「ああ,俺もこんな酔拂つた歌が作りたいんである」と言ったという。

[バートン・クレーン覚書 2002]
...「酒がのみたい」については,曲目解説(「別冊解説書」p.72)には何の記載もないが,のすたるじあ生[瀬川昌久](1976,p.116)に「曲はアメリカで昔から歌われている「ドリンキング・ソング」という奴だった」という簡単な言及がある。「ドリンキング・ソング(Drinking Song)」というのは一般的な名称で,「何々ドリンキング・ソング」というタイトルでも,歌詞や旋律が全く異なる歌がいろいろある。クレーンの歌とよく一致する歌詞は,カリフォルニア大学の学生歌(応援歌)の一つである「カリフォルニア・ドリンキング・ソング(California Drinking Song)」の一部にも見え,曲の旋律も,歌詞が一致する部分についてはほぼ同一である。しかし,この歌詞自体が,先行した複数の歌をつないで1939年頃に現在の形に作り上げたものと説明されているので,クレーンの歌詞と「カリフォルニア・ドリンキング・ソング」に先行した,おそらくは共通の「ドリンキング・ソング」があったものと思われる。「カリフォルニア・ドリンキング・ソング」との一致を考えれば,クレーンが当時一般的に流布していた歌詞のままで歌っていることは間違いない。しかし,今のところこの曲の原曲は確定できていない14)。

14)「カリフォルニア・ドリンキング・ソング」については,University of California Marching Band によるページ:
http://www.calband.berkeley.edu/calband/multimedia/calsongs/drinkingsong.html
を参照されたい。
 クレーンはプリンストン大学出身なので,東部アイビー・リーグの古い(現在は残っていない?)学生歌に「ドリンキング・ソング」の源を探すべきようにも思われる。


家へかえりたい  .....<「作品集」2>、<「昭和の流行歌」1-13>、<「日本のジャズ・ソング」1-17>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 アーヴィング・キング(Irving King)作曲による1925年の「Show Me The Way To Go Home」が原曲で,英語の歌詞は原曲のままである。これも森岩雄作詞となっているが,支離滅裂な歌詞が際立っている。

[バートン・クレーン覚書 2002]
 出所が一番はっきりしているのは「家へかえりたい」である。のすたるじあ生(1976,p.116)は「ショー・ミー・ザ・ウェイ・トゥー・ゴー・ホーム」という「一九二四年に作られた流行歌」が原曲だと述べており,瀬川昌久による曲目解説(「別冊解説書」p.73)は「アーヴィング・キングが一九二五年に作ったコミカルな流行歌」としている。アーヴィング・キング(Irving King)作の「ショー・ミー・ザ・ウェイ・トゥー・ゴー・ホーム(Show Me The Way To Go Home)」は,多くの資料で1925年の作として扱われているので,ここでは後者に従ってよいだろう。ここでも英語の歌詞は原曲のままである15)。
15)この曲の楽譜表紙の画像や,歌詞は,ウェブ上で見ることができる。The About Network によるページ:
http://cocktails.about.com/library/weekly/blsheet5.htm
を参照されたい。ただし,このページには楽譜の出版年は明記されていない。
 また,今のところ,オリジナルの吹き込みが誰かは確認していない。確認できた録音例としては,カリフォルニア・ランブラーズ(The California Ramblers)による,1925年12月5日のニューヨーク録音があるが,タイミングから見てレコードの発売は1926年に入ってからと思われる。クレーンがこの録音を聞いたとすれば,それは来日後に後から輸入されたSP盤で聞いたということになる。
 カリフォルニア・ランブラーズについては,The Red Hot Jazz Archive によるページ:
http://www.redhotjazz.com/caramblers.html
および,Timeless Records によるページ:
http://www.timeless-records.com/CBC1053.html
を参照されたい。
 なお,『オリジナル盤による昭和の流行歌』所収の「家へかえりたい」の歌詞(「別冊解説書」p.73)では,英語歌詞の6行目が「On land or sea or fall」となっているが,これは「On land or sea or foam」の誤記である。実際,クレーンも「foam」と歌っている。このほかには歌詞の異同らしい箇所はない。


ニッポン娘さん  .....<「作品集」3>、<「昭和の流行歌」1-19>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 「ポクポク小馬」とも称されるこの曲は,第一次大戦中に自然発生的に成立した「Hinky Dinky Parlez Vous」が下敷きになっている。この曲には,歌詞の異なる多くのバージョンがあるが,コロムビアの資料では,作詞作曲と原曲について,Al Dubin, Irving Mills, Jimmy McHugh & lrwin Dash「Hinky Dinky Parlay Voo」とあり,参照されているのは,1925年のMGMの無声映画『大行軍 The Big Parade』の伴奏用に編集されたものらしい。しかし,クレーンの歌う英語の歌詞は,独自のものと思われる。戦地の米兵が片言でフランス女性を口説くという原曲の構造は,米人男性が各地の日本娘さんに言及する歌詞にも通じる。

[バートン・クレーン覚書 2002]
 「ニッポン娘さん」の原曲について,森一也による曲目解説(「別冊解説書」p.76)は「第一次世界大戦の後,米兵がさかんにうたっていた「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」なのです」とし,この曲が1927年に日本でも公開された無声映画『大進軍(The Big Parade)』(1925年・MGM)で使用され,日本語の歌詞をつけて歌われたため「その頃一寸流行しました」と述べている16)。クレーンが直接参照したものも,この映画のために書かれた歌詞と楽譜による録音であったものと思われる17)。しかし,「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブーはどうなった? バル・ル・デュックのお嬢さんはどうなった? みんな出かけて七つの海を越え 今じゃ日本語で歌ってる ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」といった内容になる「ニッポン娘さん」の英語詞は,冒頭の一行を別にすれば他所に同じものが見当たらず,この歌の内容に合わせて創作されたものである。これはクレーンの詞と考えるのが自然であろう。
16)映画『大進軍』は,無声映画ながら歌のシーンなどがあり,弁士とは別に歌手を用意して,日本語で唄わせるという趣向もあったらしい。「ニッポン娘さん」の曲目解説(p.76)で森一也が参照している徳川夢聲『くらがり廿年』(1940)には,新宿・武蔵野館での興行(作品名は『ビック・パレード』となっている)の様子が活写されている(pp.201-204)。
 ところで,森一也は「ニッポン娘さん」の曲目解説(p.76)で,徳川(1940)からとして,「武蔵野館で二村定一にこの唄を頼んだら,三人ばかりコーラスを連れてきてた。そのなかに目玉の大きい青年がいて,いかにも兵隊らしいダミ声でうたってくれた。その男こそ後のエノケンである」と鈎括弧で文を示しているのだが,この記述には少々疑問を感じている。
 まず,この文は引用ではなく,森による要約であり,対応する原文(徳川,1940,pp.203-204)は半ページほどに相当する長さがある。しかも榎本健一の声について,要約にある「ダミ声」は原文にはなく,原文は「ドラ聲」「酷い聲」としか書かれていない。引用の仕方としては適切とは言い難い。
 また,森の示す歌詞(徳川,1940,p.203 からの引用と思われる)を見る限り,これが「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」の旋律に乗るとは思えない。映画の中で歌われる歌が複数あった可能性もあるし,原作で指定された旋律とは違う曲で間に合わせた可能性もあり,徳川(1940,p.203)が記録した歌詞が「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」とは異なる旋律で歌われた可能性もあるのではなかろうか。もちろん,1915年生まれの森は映画公開時(1927)をリアルタイムで知り得る立場にいるので,筆者のまったくの誤解,言いがかりである可能性も否定できない。「俺は軍人,百姓じゃない」という歌詞を「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」の旋律に乗せる歌いかたがどこかで(録音や楽譜ではなく口承であっても)伝えられていれば,筆者の疑問は氷解する。
 なお,映画『大進軍』については,The Greatest Films によるページ:
http://www.filmsite.org/bigp.html
を参照されたい。
17)「ヒンキイ・ディンキー・パーレ・ブー」は,元々第一次大戦中に自然発生的に流行したもので,曲名も,歌詞の最初の行から「Mademoiselle from Armentieres」とされることもある。曲名ばかりでなく歌詞にもいくつか異なるものがある。
 例えば,トロント大学図書館のサイトにあるページでは,共通の部分もありながら,互いにかなり異なった2種類の歌詞が紹介されている。
http://www.library.utoronto.ca/utel/rp/poems/anon20_3.html
 もちろん,これ以外にも様々な歌詞が乗せられ,替え歌のように歌われたことであろう。駐屯した地方の違いによって,具体的な地名も,異なるものが歌いこまれた可能性がある。第一次世界大戦中の歌に関する Doughboy Center のページには,この曲が,英国軍(およびカナダ軍)から生まれたとする説があることを紹介している。ノール(Nord)県の町である Armentieres は,当時,英国軍の戦線の後方に位置し,休息地になっていたという。ちなみに,クレーンの歌詞に見える Bar-le-Duc はずっと内陸のムーズ(Meuse)県の中心都市で,Armentieres とは広義の北フランスであることは共通しているが,関連性はほとんど感じられない。
http://www.worldwar1.com/dbc/music.htm#1
を参照されたい。
 「ニッポン娘さん」の「作詩・作曲」のクレジットが,Al Dublin, Irving Mills, Jimmy McHugh and Irwin Dash と4名の連名になっていることから判断すると,クレーンが直接参照しているのは,映画『大進軍』のために歌詞が新たに書き下ろされたもののようである。「ニッポン娘さん」の英語の歌詞は,冒頭の一行をこの『大進軍』用の歌詞からとっている。
 作者の一人,Jimmy McHugh を顕彰するページの作品リストに,1924年の「Hinky Dinky Parlay Voo ?」として上げられているのが,この『大進軍』用の歌らしい。
Jazz Roots によるページ:
http://jass.com/jimmymchugh/othersong.html
を参照されたい。
 この歌詞による吹き込みのオリジナルかどうかは判然としないが,1924年6月20日に,Al Bernard and Chorus が吹き込んだものが「What Has Become Of Hinky Dinky Parlay Voo」という曲名でエジソン・レコードのリストに載っている。
Richard Densmore によるページ:
http://homepages.bw.edu/~rdensmor/EdisonRecordsList/#E118
を参照されたい。
 いずれにせよ,米兵が戦地で片言の言葉をあやつりながらフランス女性と恋をするというライト・モチーフは,すべての歌詞に共通している。クレーンが歌う日本語の歌詞が,米人男性が各地の日本娘に言及するという形をとっていることを考えると,原曲と「ニッポン娘さん」の歌詞世界は同じ構造をもっているといえるだろう。


おいおいのぶ子さん  .....<「作品集」4>、<「流行歌史大系」C1-10>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 原曲はドイツのヴィルヘルム・リンデマン(Wilhelm Lindemann)が1927年に作詞作曲した「Trink, Bruderlein trink」,日本では「トリンク・トリンク」と通称される曲である。また,独語の歌詞は,クレーンの歌う英語の歌詞に通じるところがある。クレーンは,来日後にビア・ホールなどでこの曲に接した可能性もあるが,旋律がリンデマンの著作登録以前から存在し,米国でも知られていたという可能性もある。また,「のぶ子さん」「すみ子さん」などの固有名詞は,特定の女性を指した楽屋落ちかもしれない。

[バートン・クレーン覚書 2002]
...「おいおいのぶ子さん」の旋律は,「トリンク・トリンク」という通称で日本でも知られているドイツの俗謡「トリンク・ブリューダーライン・トリンク(Trink, Bruderlein trink)」によっている。ビア・ホールなどでも聞かれるこの曲は,ヴィルヘルム・リンデマン(Wilhelm Lindemann)が1927年に作詞作曲したとされているが,旋律はそれ以前から存在していた可能性が大きい。そうでなければ,クレーンは来日後に新曲としてこの曲に接したことになる18)。いずれにせよ,この「おいおいのぶ子さん〜トリンク・トリンク」を含め,クレーンが酒席にふさわしい陽気な俗謡に通じていたことは,間違いない。
18)この曲の歌詞は,ウェブ上で見ることができる。The Leader in Lieder によるページ:
http://www.ingeb.org/Lieder/trinkbru.html
を参照されたい。
 ドイツ語原曲のリフレインは,「呑め呑め,兄弟よ,呑め/面倒はほっておけ//苦悩などするな,心痛などするな/そうすれば人生は戯れのようなものだ」といった内容で,前2行と後2行がそれぞれ繰り返されて8行分の長さになる。クレーンの歌う「おいおいのぶ子さん」の英語詞では,原曲で「トリンク(呑め)」が繰り返される箇所が「ドリンク(drink)」の繰り返しに置き換わっていたり,リフレイン前半の4行(英語詞では行の繰り返しはない)で「呑め呑め,みんな,呑め/面倒は全部放り出せ/呑め呑め,みんな,呑め/今日は人生をじっくり味わおう」と原曲の大意が生かされていたり,歌詞の構成は原曲に準じたものになっている。他方,日本語詞では,酒を称賛する歌であることには変わりないが,酒に加えて,女性への言及が原曲よりもはっきり盛り込まれるなど,その内容は単純な原詞(あるいは英訳詞)の焼き直しではない。
 また,「のぶ子さん」など,女性の固有名詞を歌詞に盛り込むというアイデアは,原曲にも英訳詞にもない。おそらくはクレーンの創意であろう。全くの想像だが,具体的な酒場を意識した「楽屋落ち」のような要素もあるのかもしれない。


人生はかない  .....<「作品集」5>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 浅草オペラ風の3拍子のデュエット曲。クレーンは,浅草オペラ出身の天野喜久代と,息の合ったハーモニーを聴かせる。原曲不詳。森岩雄が『私の藝界遍歴』で,クレーン作品について「そのなかには一,二枚だったが,ほんものの日本語の歌を私が書いたものもあり,大真面目にクレーンさんも歌い,なかなか出来栄えもよかったが,これは全然売れなかったようである」と述べているのは,この曲のことか。


かわいそう  .....<「作品集」6>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 テンポの速い演奏なので印象は違うが,原曲はイングランド民謡を基にトーマス・ヘインズ・ベイリー(Thomas Haynes Bayley, 1797-1839)が作曲した「Long Long Ago」,つまり「思い出」「久しき昔」などの題で知られる曲である。無銭飲食,法螺話,挙げ句に牢屋行きという顛末を説経気味に語る歌詞は,不景気な世相と,牧師の放蕩息子というクレーンの姿を重ねて考えると味わい深い。


月を眺めよ  .....<「作品集」7>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 「月光価千金」の邦題で知られる「Get Out and Get Under The Moon」が原曲。チャールズ・トビアスとウィリアム・ジェローム(Charles Tobias & William Jerome)作詞,ラリー・シャイ(Larry Shay)作曲による,1928年のヒット曲で,日本にもすぐに紹介され,榎本健一などが吹き込んでヒットした。クレーンの歌う歌詞は他には見ないものだが,英語の歌詞に沿った趣向となっている。


コンスタンチノープル  .....<「作品集」8>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 原曲は,1928年にヒットした,ハリー・カールトン(Harry Carlton)作詞作曲の「C-O-N-S-T-A-N-T-I-N-O-P-L-E」。原曲ではノエル・ノエル先生がダメ生徒のトミー・トンプキンスを鍛えており,歌詞全体に早口言葉的な面白さがある。


威張って歩るけ  .....<「作品集」9>、<「流行歌史大系」C4-7>
[「作品集」発表後に寄せられた情報+α]
 曲の中間部では、「岩をぶっちわり」あるいは「お、可愛いアウグスティン」の名で知られるドイツ民謡の旋律が、もともとの3拍子を2拍子に編曲した形で聞かれる。
 国立音楽大学附属図書館へ照会した結果、『世界民謡全集5 ドイツ篇』門馬直衛編(音楽之友社 1960)にこの曲に関する記載がある(p.195)という回答を得た。それによると、この曲は、「何もない Alles ist hin」という題名で、1799年頃にベーメン(チェコ)の民謡として記載されたもので、作者は不明だが、17世紀のウィーンの演歌師マックス・アウグスティン(Max Augustin, ?-c1678)の作とする説もある。
 日本では、明治期の1910年に唱歌「舞踏」に用いられて、旋律が知られるようになった後、1933年に原詞を踏まえた門馬直衛訳詞の「お、可愛いアウグスティン O du lieber Augustin」が普及し、その後、中野忠八作詞の「岩をぶっちわり」の詞が作られ、おもに戦後のボーイスカウト運動の中で広まり、一部の音楽教科書にもこの名で記載されるようになった、ということのようだ。

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 マーチに載せて,不景気なんか吹き飛ばそうという楽天的なメッセージが歌われる,クレーンの本業が垣間見られる佳曲。原曲不詳。1936年にはリーガルから,川畑文子「君のマザー」とカップリングの廉価盤で再発された。


夜中の銀ブラ  .....<「作品集」10>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006(下記)への訂正]
 「森岩雄の貢献が大きいものと思われる」とあるのは、原稿用のメモを記した段階で、この曲が佐々紅華作であることを資料の読み誤りから見落としたため生じた、誤解に基づくものです。この曲には、森岩雄は関わっていないものと思われます。

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 天野喜久代(女給と未亡人の二役を演じる)との会話が挟まれる掛け合い仕立ての曲。銀座で帰れなくなる一番も,借金の貸し主の葬儀でバツが悪い思いをする二番も,歌詞がよくできており,森岩雄の貢献が大きいものと思われる。二番の葬儀は,うちわ太鼓風の音がするかと思えば,南無阿弥陀仏と念仏が聞こえ,宗派がさっぱり分からない。


仕方がない  .....<「作品集」11>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 米国などでボーイ・スカウトの愛唱歌となっている,作者不詳の「It Ain't Gonna Rain No More」という大変長い曲が原曲。英語の歌詞は原曲とほぼ同じだが,日本語の歌詞は原曲とは関係がない。「産業合理化なんて誰がいい出した/僕には妻子があり二号まである」という嘆き節は秀逸。英語詞の繰り返し部分でハーモニーを付けている人物は,コロムビアの米国人スタッフであろうか?

[作品集「解説」に盛り込めなかった情報]
 「It Ain't Gonna Rain No More」という題名の曲には、旋律は同じで、リフレインされるコーラス部分もほぼ同じだが、歌詞は異なるいくつかのバージョンがある。クレーンの唄う英語の部分とよく一致する(部分的には異同がある)ものは、1923年にWendell Hallが録音したものである。少なくともこの録音では、この曲は、Wendell Hall の作として扱われている。
Wendell Hall についての記事...バンジョー・ウクレレについての記事
ボーイスカウト関係の歌として歌詞を紹介してるページ


モダーン百万パーセント  .....<「作品集」12>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 原曲は作者不詳の「Little Liza Jane」だが,この曲には,女性の名を呼ぶ「Little Liza Jane」という繰り返しだけが共通する,子供の遊び歌からラブ・ソングまで多様な歌詞がある。曲名は,当時「モダーン百パーセント」といった言い回しが流行っていたのを踏まえている。歌詞の「ヴァンプ」とは,サイレント時代の映画女優のタイプで「毒婦」「魔性の女」といった意味。「イット・ガール」とは,クララ・ボウ(Clara Bow)主演の映画『あれ(It)』(1927年)から,肉感的な性的魅力のある女性のこと。


天の岩戸  .....<「作品集」13>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 クレーンにしては少々真っ当すぎる感じのラブ・ソング。原曲不詳。


雪ちゃんは魔物だ  .....<「作品集」14>
[作品集「解説」に盛り込めなかった情報]
 この曲は、1904年に「He Done Me Wrong」という題名で、Hughie Cannon(ミンストレル・ショーの芸人)が著作権登録をしているが、歌詞はその後広く知られるようになるものとは大きく異なっていた。現在「Frankie and Johnny」として広く知られている歌詞の系列は、1912年に the Leighton Brothers と Ren Shields が共作したものが起源となっている。
 原曲の歌詞の起源については諸説があるが、一般的には実際に起こった事件(1831年の事件という説と、1899年の事件という説がある)を踏まえた内容と理解されている。また、原曲に唄われたストーリーは何度も映画化されており、特に1966年のエルヴィス・プレスリー主演作が知られている。また、この曲は近年まで様々な歌手が録音しているが、歌詞には細かい異同のある多数のバージョンがある。
The Bluegrass Messengers による記事...URL末尾の数字を変えると、全部で10通りの歌詞が表示される

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 原曲は,トラディショナルの「Frankie and Johnny」で,殺人事件の顛末を語るこの曲は「カントリー音楽の父」ジミー・ロジャース(Jimmie Rogers)も取り上げている。クレーンの歌詞は原曲とは関係なく,なかなかシュールである。


酒場の唄  .....<「作品集」15>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 作曲は,多くのクレーンの曲でモダンな編曲を聴かせる井田一郎だが,この曲はさほどモダンには感じられない。旋律は器楽的な音の跳躍などもあり,少々歌いにくい。


ジョッキ・ビール  .....<「作品集」16>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 作詞の時雨音羽は,藤原義江『出船の港』,二村定一『君恋し』などが代表作。作曲の杉山はせをは童謡作品などで知られる。この盤では,B面だったこちらの方がクレーンらしい。


よういわんわ  .....<「作品集」17>
[「作品集」発表後に寄せられた情報]
 原曲は、"That's My Weakness Now" といい、バド・グリーン(Bud Green)とサム・H・ステプト(Sam H.Stept)の作品。1928年に、ヘレン・ケイン(Helen Kane)のバージョンが大ヒットした。ケインは、「ブブッピドゥ」といったスキャットがウリで、"I Wanna BE Loved By You" などをヒットさせ、ベティさん(Betty Boop)のモデルとされた。このため1928年の曲として扱われていることが多いが、Bix Beiderbecke & Bing Crosby with Paul Whiteman & His Orchestra による録音を1927年とする記述もあり、詳細は未確認。
midi ファイルへのリンクのあるページ...weakness でページ内検索してください
[2006.11.18.]

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 大阪出張帰りのクレーンとカフェーの女給役の淡谷のり子との会話が挟まれる掛け合い仕立ての曲。クレーンは,本業の記者の仕事でしばしば関西方面へ出張しており,大阪や神戸との縁もある。最後の方では,「酒は涙か溜息か」のさわりが替え歌で聴かれる。原曲未詳。


恋人に失恋した  .....<「作品集」18>
[「作品集」発表後に寄せられた情報+α]
 原曲は、作者不詳の「Hand Me Down My Walkin' Cane」。最古の録音は1926年らしい。歌詞が異なるいくつかのバージョンがあり、よく知られているのは投獄された男の嘆き節の歌詞のものである。日本語詞にはこの原詞のモチーフの断片は盛られているが、訳詞という感じではない。特に最後の「ほかの別嬪さんを...」のくだりは、クレーンの(あるいは森岩雄の)オリジナル性が強い。
[2006.11.18.]

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 失恋し,酔っぱらって巡査の世話になりながら,牢屋は寂しいから別嬪さんを捕らえてきて,と巡査(看守?)にねだるクレーンらしい趣向。原曲未詳。


誰方かやるじゃろ  .....<「作品集」19>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 原曲は,日本でも様々な形で身近にある「The Battle Hymn of the Republic」つまり「リパブリック讃歌」。1856年にウィリアム・スティーフ(William Steffe)がキャンプ・ソングとして作曲した旋律だが,1861年に奴隷解放論者ジュリア・ウォード・ハウ(Julia Ward Howe)が詞を載せ,南北戦争中に北軍の歌として広まった。クレーンの歌詞は,青島幸男=クレージー・キャッツの「無責任男」の世界を先取るものである。


女の天下  .....<「作品集」20>
[「作品集」発表後に認識した情報]
 おおもとの原曲は、フリードリッヒ・フォン・フロトー作の歌劇『マルタ』第一幕で聞かれる二つの旋律をつなげたもの。最初の16小節のメロディは、「Mädchen, brav und treu」、それに続く8小節のメロディは、「Der Markt beginnt, die Glocke schallt!」を踏まえている。
 詳細は未確認だが、おそらくは浅草オペラか、昭和初期のボードビルで「爺さん酒飲んで酔っ払って死んじゃった...」という歌詞で歌われるようになった際に、本来は同じ歌劇中の別々のテーマであった旋律を繋げた歌い方が成立したのではないかと推察されるが未確認。この形の曲は、戦後にも広く歌われていたようで、黒澤明の映画『酔いどれ天使』の中でも聞かれるという(これも未確認)。引き続き情報募集中。
(この曲については長谷川由美子さんから情報をいろいろ頂戴しました。)[2011.01.25.]

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 女性に縁の薄い若い男性なら,今でも身につまされる歌詞だろう。原曲未詳。


金の世の中  .....<「作品集」21>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 旋律は「Yankee Doodle」,つまり「アルプス一万尺」である。原曲はアメリカ独立戦争の際に普及したが,その元となる旋律は欧州各地にあるようだ。当然,クレーンの歌う歌詞は全く独自のもので,金を持て余して困るという法螺話であり,当時の不景気への強烈な世相風刺である。


のんきなパパさん  .....<「作品集」22>
[「作品集」発表後に得た情報+α]
 原曲がヒットした経緯については、典拠の明記はありませんが、踏み込んだ説明がネット上にあります。
遥かなティペラリー
 この曲は、「チッペラリーの歌」として、「セノオ楽譜第五番として大正四年九月にセノオ音楽出版社が発行した」旨の記載が、佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』にあるそうです(未確認)。
 この曲は、浅草オペラの初期のヒット作とされる伊庭孝・作『女軍出征』(1917)で使われました。宮沢賢治は、この曲の旋律に歌詞を載せ、オペレッタ「飢餓陣営(バナナン大将)」に盛り込んでいます。
ブン大将とバナナン大将
佐々紅華と浅草オペラ3

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 原曲は1912年にジャック・ジャッジ(Jack Judge)とハリー・ウィリアムス(Harry Williams)が作り、第一次世界大戦が勃発した1914年に英軍で流行った「It's a Long Way to Tipperary」。ティペラリーはアイルランド中部の州名。


のんきなママさん  .....<「作品集」23>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 「一つ出たホイの」という歌詞で知られる春歌「よさほい節」の旋律にのせて,ほのぼのとした歌詞が歌われる。


アイ・ラヴ・ユー  .....<「作品集」24>
[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 淡谷のり子とのデュエット,とはいえ主役は淡谷のり子である。雰囲気のある作品だが,ヒットにはならなかった。


ハレルヤ  .....<「日本のジャズ・ソング」1-18>
[作品集「解説」に盛り込めなかった情報]
 1927年にニューヨークで初演されたミュージカル『艦隊は踊る Hit the Deck』のために書かれた「Hallelujah !」が原曲。クレーンの歌う英語歌詞も、原曲の歌詞と一致する。1930年にはRKOが映画化したが、クレーンはおそらくこの映画を通してこの曲に触れたものと思われる。後に1955年にはMGMによって再度映画化され、現在ではこちらの方がよく知られている。
 クレーンの録音では、曲名が「ハレルヤ」と表記されているが、この曲は原題に倣って「ハレルヤ!」と表記されることも多い。
 作曲者ヴィンセント・ユーマンス(Vincent Youmans, 1898-1946)は、1930年前後に活躍したミュージカルの作曲者で、プロデューサーも務めた。スタンダード曲となって残っている代表的な作曲作品に「二人でお茶を Tea for Two」がある。
 作詞者Leo Robin + Clifford Greyについては、なお調査中。


サイド・バイ・サイド  .....<「日本のジャズ・ソング」2-09>、<「川畑文子/青空」未確認>
[基本情報]
 1925年にハリー・ウッズ(Harry Woods)が作り1927年作とする記述もある)、1927年に、ニック・ルーカス(Nick Lucas)やポール・ホワイトマン楽団(Paul Whiteman & His Orch. (vocals: The Rhythm Boys) )などの競作で知られるようになった曲。後に、ケイ・スター(Kay Starr)が1953年にリバイバル・ヒットさせた。
[2006.11.30.]


バナナは如何  .....<「作品集」25>
[「作品集」発表後に寄せられた情報+α]
 原曲は、1923年に、フランク・シルヴァー(Frank Silver)とアーヴィング・コーン(Irving Cohn)がヴォードヴィルのために作った「Yes, We Have No Bananas」。この曲は、ニューヨーク州ロングアイランド島リンブルックにあったブロッソム・ヒース・インという闇酒場(speakeasy)で書かれたものであるが、原詞の内容はリンブルックのギリシア系の野菜売りの様子を唄ったものといわれている。後に、エディ・カンターがこの曲を取り上げて有名になり、いろいろな歌手たちが録音を残した。1920年代を代表するヒット曲の一つという評価もある。
Cynthia Blair による記事
原曲の楽譜

 クレーンの歌唱は、原曲から冒頭16小節分の導入部を省いた旋律に基づいている。また、歌詞の内容は「バナナ banana」がキーワードになっている点では原詞と通じるところがあるが、内容は全く異なっている(原詞は「バナナはありません」、クレーン詞は「バナナはいかが=バナナはある=」)。また、キーワードの置かれる位置もほとんど一致しない。その意味ではクレーンの歌詞のオリジナリティは高いといえるだろう。

[バートン・クレーン作品集「解説」2006]
 ラジオのアナウンスを模した口上で始まるバナナの「経済市況」?の歌。原曲不詳。この曲をA面とした1934年2月新譜が,クレーン最後のコロムビア盤となった。




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