ページ作成に際して、原論文の明らかな誤植は改め、若干の必要な補足を加えました。訂正・補足した部分は青字で表示しました。 表は、一部にhtml文書で表現しやすい形に改めている部分があります。また、表1にあった誤植(26636の作曲者名の記載位置の誤り)は訂正してあります。 バートン・クレーンに関する情報をお持ちの方は、ぜひご連絡ください。yamada@tku.ac.jp 〒185-8502 東京経済大学 山田 晴通 |
バートン・クレーン 歌唱曲リスト///バートン・クレーン リンク集 |
はじめに
歌手 バートン・クレーン
「異色外人歌手」の背景
クレーンの歌の由来
記者 バートン・クレイン
「ジャパン・アドバタイザー」時代
「ニューヨーク・タイムズ」時代
おわりに
はじめに
バートン・クレーン(Burton Crane, 1901-1963)は,多才な人物であった。クレーンの名は,昭和初期に,怪しげな日本語で歌った多数のコミカルな録音を残した歌手として,あるいは,敏腕の米紙東京特派員,経済ジャーナリストとして記録されている。しかし,不思議なことに,この興味深い人物について,歌手としての経歴とジャーナリストとしての経歴を包括的に取り上げた評伝は,管見する範囲では見つかっていない。
本稿は,論考としてまとめられたものではなく,クレーンの業績や経歴について,比較的容易に入手できる資料類を中心に,基本的事項の整理を試みた覚書である。その意味では,やがてまとめられるべき評伝に向けた,資料整理の最初の一歩といってよい。
こうした中途半端な形で作業の途中経過を発表することには,もちろん躊躇もあった。しかし,情報は,手持ちのものを積極的に発信してこそ,より多くの情報を得られるものである。筆者としては,このように拙い形であっても,クレーンに関心をもつ方々や彼に関する知識のある方々と情報交換する機会がもたらされるきっかけとなるのではないかと期待し,不十分な内容であることを顧みず,本稿の発表に踏み切った。至らぬところは,ぜひとも諸賢のご教示をいただきたい。
歌手 バートン・クレーン
日本でレコードに声を残したヘンな外人,と言えば第1号は快楽亭ブラックということになろうが,ほぼ彼に次ぐのが昭和初年に片言の日本語で歌った新聞記者,バートン・クレインだろう。(中村,2000,p.128)1)中村とうようは,クレーンを紹介する短い記事を,こんな一文で書き始めている。ここで中村は,「クレイン」という表記を選んでいるが,歌手として記録された資料では,レーベルやカタログの記載を含め,この人物の名は一貫して「クレーン」と表記されているので,本稿でもしばらくそれに従うこととしよう。
クレインはジャパン・アドヴァタイザーという英字新聞の記者。アメリカの古い歌などに片言の日本語歌詞をつけて宴席で歌ったのを,これも米人のコロムビア社長ホワイト氏が聞き面白がってレコード化を実現し,第1作がヒットしたので前述のように力を入れたわけだ。しかしアメリカの本社に転勤になったとかで,姿を消す。(中村,2000,p.128)
表1 バートン・クレーン、レコード一覧(コロムビア盤:1931-1934)
このリストの対象はコロムビア盤のみで、リーガル盤などのデータは含まれていない。 ・通常、新譜発表月は、実際の発売日の翌月となる。 ・☆は共演者。 ・作曲者名の注記がない曲は、外国曲またはクレーン作曲。 |
新たに副社長の椅子に選ばれた米国コロムビアのL.H.ホワイト氏は,年齢こそ若かったが経営者としてすこぶる敏腕であった。ホワイト氏は,日蓄は日本における最大のレコード会社ではあるが,欧米各社と比較して近代産業として充分な組織と形態を備えておらずとして,着々その改革を行ない,その手腕にはまことに見るべきものが多かった。(コロムビア,1961,ページ記載なし[50年のあゆみ,電気吹込みの採用])1929年6月,新設された会長職に就いたJ・R・ゲアリー社長を引き継いで,ホワイトは日本蓄音器商會の第三代社長になった。その後,英米のコロムビアが,日本蓄音器商會の株式を手放し,社長が交代となる1934年10月まで,ホワイトは社長の座にあった7)。クレーンの最初のレコードは1931年4月,最後のレコードは1934年2月に出ているので,クレーンの歌手としての活動はホワイトが社長だった時期に収まることになる。
掲載の写真は彼のレコードではなく店頭掲示用らしい宣伝物。SPレコードの表面にエナメルみたいなもので絵と文字が印刷してある。他に見たこともない不思議なしろもので,溝の入った盤面に塗料を厚く盛り付ける印刷だから音は出ない。つまりピクチャー・レコードとは違うわけで,むしろ看板の一種と言うべきだろう。こんなものを作ったというのが,コロムビアがクレインを熱心に宣伝したことの証拠なのだ。(中村,2000,p.128)9)こうした宣伝もあって,第二作もそこそこのセールスを上げたようだ。しかし,その他のレコードの売れ行きは,大したものではなかったように思われる。
表2 CDで聞けるバートン・クレーンの歌
「作詞」「作詩」などの使い分けも上記資料による。 |
コロムビアのホワイト社長は,自分がジャズやダンスが好きだったせいか,日本の流行歌の中に,色々な形のジャズの要素を注入することに熱心だった。ジャズ・ソングを,米国生まれの邦人二世,又は生粋のアメリカ人に,カタコトの日本語でうたわせることを考えたのも,ホワイト社長であった。そして,歌詞の一番を日本語でうたい,二番を原語の英語でうたう,という日本独得のパターンが出来上った。(のすたるじあ生,1976,p.116)13)実際には,5曲のうち「威張って歩け」は全編日本語の歌詞であり,「ニッポン娘さん」は一番が英語で以降が日本語となっているが,ここで作り出されたスタイルが戦後のポップスにまで通底するものだという指摘は重要である。
そんな時に,友人の鈴木俊夫の推挙によって,コロンビア・レコード[ママ]の米山文芸部長に紹介されレコードの作詞と訳詞を頼まれた。試みに一枚か二枚やってみたが,それが及第となって毎月のように注文が来た。(森,1975,p.144)そして,最初に回されてきたのがクレーンの仕事だった。
クレーンは当時Tジャパン・アドバタイザーUの記者で,ジャパン・アドバタイザーはTニューヨーク・タイムズUと縁の深い新聞で,クレーンは恐らくタイムズからの特派記者ではなかったかと思う。専門は経済方面で,歌は道楽であった。クレーンはもとより日本語は堪能ではなかったが,古い,歌い馴れた故国の曲に,自分でたどたどしい日本語訳をつけて得意になって歌っていたのを,コロンビア[ママ]が採り上げてレコードにしてみた。それが大当りをとった。「酒飲みは」というのがそれであった。(森,1975,p.145:傍点は原文[『たどたど』に傍点がついている])森はこれに続いて「酒がのみたい」の歌詞(ただし,一部に異同あり21))を紹介し,さらに次のように述べている。
まことにもって奇想天外,日本語としては支離滅裂なものである。しかし,それをクレーンさんが歌うと一層不思議な面白さが出る。これは私の訳詞ということになっているが,これはこれでこのままがいいので,私はただ名前を貸しただけで,もしこれが面白いとするなら,その名誉のいっさいはクレーンさんのものである。しかし,その後続々とクレーンさんはこしらえてくるが,なんとも奇妙すぎるものが多いので,それには多少の手を加えて,クレーン調をこわさぬ程度のものにまとめる仕事をした。そのなかには一,二枚だったが,ほんものの日本語の歌を私が書いたものもあり,大真面目にクレーンさんも歌い,なかなか出来栄えもよかったが,これは全然売れなかったようである。(森,1975,p.146)結局,森は,クレーンとの仕事のほか,川畑文子に作詞・訳詞を提供するなど,コロムビアを中心に作詞・訳詞を書く生活をしばらく続けた22)。
表3 1933年ころの英字紙2紙の比較
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こうして,殺人や火事や窃盗の記事ばかり書く修業に明け暮れるぼくを,手取り足取り指導してくれる先輩記者がいた。バートン・クレイン,《ジャパン・アドバタイザー》を代表するベテラン・ジャーナリストだった。(ハリス,1986,p.47)自伝的回顧録の一節に,先輩記者クレインの仕事振りを記録したのは,平柳秀夫ことJ.B.ハリスである26)。1933年,ロンドン・タイムズ紙の極東特派員だった父を失ったハリスは,16歳の身で,家計を支えるため英字新聞ジャパン・アドバタイザー紙に就職し,記者修業をはじめた。
ぼくより十五歳ほど年長のバートン・クレインは,アメリカのプリンストン大学の出身で,当時《ジャパン・アドバタイザー》の経済部長の要職にあった。プリンストン大学は,ハーバード,イエール,ノートルダム,MIT(マサチューセッツ工科大学)などと並ぶアメリカの超一流大学だ。日本でいえば東大・一橋といった名門だが,クレインはそこでジャーナリズムを修め,博士号まで持つパリパリで,《ジャパン・アドバタイザー》に勤めるかたわら,《ニューヨーク・タイムズ》と,経済新聞としては世界でもトップ・クラスの《ウォール・ストリート・ジャーナル》の特派員をも兼ねていた。(ハリス,1986,pp.47-48)高等教育への進学を断念し,家計を支えるために新聞社に入ったハリスにとって,クレインはあこがれの先輩記者であったに違いない。その分,クレインを紹介する文章にも,やや筆が滑っている感があり,クレインが「博士号」を持っていたとか,この段階で複数の米紙の「特派員」だったという記述には少々疑問もある29)。しかし,ハリスの心理的事実としてはこれでよいのだろう。[上述のように、クレーンは大学を中退しており、学位も持っていなかった。]
やがて,三回に一回ぐらいはほめてもらえ,手直しをされながらも採用してくれることが多くなった。そうなるとぼくは有頂天になり,持ちまえのうぬぼれも頭をもたげて,翌日はまた張り切って原稿を書いてクレインにさし出す。すると,きのうの上機嫌はどこへやら,またまた苦虫を噛みつぶしたような表情でつき返してくる。ようやくつかみかけた自信が,その瞬間スルリとぼくの指のあいだから抜け落ちて,木っ端みじんにこわれてしまう。こうした職人の親方と徒弟のような関係の中で,クレインは「まるで出し惜しみをするように少しずつ」ハリスに仕事を教えた。クレインにすれば,まだ十代のハリスを記者として一人前に育てるのは,楽ではないにせよ,楽しい仕事だったのだろう。やがてクレインは大阪や神戸への出張にハリスを伴い,自らの取材活動をハリスに見せるようにもなった。やがてハリスは,クレインにも「なかなかスジがいいぞ,これなら十分使える」と激励されるほどになる。ハリスは,クレインの下での駆け出し時代を回想した一節を,後年,自分が署名記事を書くほどの記者になれたのは,「若い日にバートン・クレインに受けたきびしい薫陶のおかげだと,いまでも深く感謝している」という言葉で締めくくっている(ハリス,1986,p.50)。
──コンチクチョー,この男はおれにいやがらせをしているのか?
そんなぼくの心の動きを察したのか,あるときこういってぼくにアドバイスをしてくれた。
「いいかジミー,よくおぼえておけよ。新聞の記事というのはこんなに狭いスペースに印刷されるんだ。それなのにおまえのようにやたら長ったらしい文章を書いてみろ,だらだらするばかりで読みにくくってしょうがない。そんなもの誰も読んでくれるもんか。いいか,アメリカの優秀なジャーナリストはな,センテンスをできるだけ短くして簡潔な文章を書くんだ。形容詞は単なるデコレーションにすぎないんだから必要最小限にとどめる。そのためには動詞が重要な働きをするんだ。まず動詞の使い方に気を配って,なるべく短いセンテンスになるように勉強してみるんだな」(ハリス,1986,p.49)30)
半世紀ちかい年輪を重ねてきた《ジャパン・アドバタイザー》はここにピリオドを打ち,純粋の日本英字紙《ジャパン・タイムズ》に吸収される形で姿を消した。所属の記者たちもそっくり《ジャパン・タイムズ》に移ることになった。その中にぼくもいたわけだが,日本の新聞に移籍することをいさぎよしとしなかったアメリカ人記者の多くは,フライシャーとともに帰国していった。ぼくを育ててくれたバートン・クレインや同僚のリチャード・テネリーもその帰国組に入っていた。(ハリス,1986,p.56)32)ハリスによれば,クレインは帰国に際して,自分が「在日特派員」をしていたバラエティ(Variety)誌に,ハリスを後任者とすることを勧める推薦状を送り,ハリスに有利な原稿料収入の途を与えた。クレインは,ほかにも細々とした業界紙の仕事などをハリスに引き継いだ。「ほかより高額だったとはいっても,まだまだ若造にすぎないぼくの給料では母を養い一家を支えていくのはけっして楽ではない」というハリスにとって,クレインが回してくれた「予定外の収入」は実にありがたいものだったという(ハリス,1986,pp.56-57)。
バートンさんは前記の「酒呑みの歌」にも窺えるように,非常に洒脱な一面があり,アメリカ人特有のユーモリストでもあつたので,殊に私のような喜劇役者とは意氣投合したのであろうし更に更にお互に酒呑みであつたと云ふことが,より以上近親感をもたせたのであろう。昔から良く戀愛に國境なしと云はれてゐるが,私の場合には酒にも國境がないと云ひたいのである。榎本は,エッセイの最後に,帰国直後にクレインが米国で発表した日本の映画界に関する記事(Crane,1936)に言及している。この記事でクレインは,日本の映画界で,洋画に匹敵する集客力のある唯一のスターとして,榎本の名を挙げ,その作風を大いに評価しているのだが,それについて榎本は,「これは單に酒友であり[ママ]私にだけ向けられた愛情ではなく,日本全體に向けられたバートンさんの愛情の一つの表現であると,當時の私は解釋してゐた」(p.72)と述べている。
當時バートンさんは麻布の六本木の邊りに居宅を構えて居たが,そこから毎夜の如く淺草へ現れて,あちらのカフエー,こちらのバーで酒を呑んで廻るのが唯一の樂しみであつたらしいのである。時に私達の樂屋へ飄然と姿を現し,「どうです。ビール飲みませんか」と,いとも正確なる日本語で誘ひをかけるのであつた。例へ不正確な日本語,つまり片言で誘はれても同行を辭さない私のことであるから,勿論O・Kは云はずもがな,國境を越へて酒友相交はるの圖をしばしば展開したものであるが,思へばそれも懐しい思ひ出の一つとなつてゐるのである。
前記「酒呑みの歌」には少々呂律の廻らぬ片言にも等しい言葉の調子が見受けられるが,バートンさんの日本語は仲々立派なものであつた。むしろ東北辯や九州辯よりは尠くとも正確に受取れるだけの日本語であったと記憶してゐるのである。(榎本,1947,pp.68-69)
あくる日,内幸町にある三井ビルのプレス・センターに移っていたバートン・クレインに会いに行った。彼もぼくが兵隊だったことを知らなかったので,かなり驚いた様子だった。クレインはぼくのみすぼらしい格好を見ながら,こういった。程なくしてハリスは,ニッポン・タイムス紙に復帰し,記者生活に戻る。クレインがプレゼントした背広は,しばらくの間ハリスの一張羅だったに違いない。
「ジミー,これからPX(Post Exchange 米軍の酒保)に行こう。きみに背広を買ってやるよ。いくらなんでも,その格好はひどすぎる」
ぼくは彼の申し出をありがたく受けることにして,銀座の松坂屋を接収したPXまでついて行った。クレインはそこで,背広だけでなく,牛肉の缶詰やミルクなどを袋いっぱい買ってくれ,おまけにステーキのご馳走までしてくれたのである。
「なあ,ジミー,きみはおれの古い友だちだ。困ったことがあったらいつでも来いよ」
ぼくはクレインの昔に変わらぬ友情に心から感謝した。(ハリス,1986,p.230)
表4 バートン・クレインの著作
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