ページ作成に際して,原論文の明らかな誤植は改め,若干の必要な補足を加えました。訂正・補足した部分は青字で表示しました。バートン・クレーンに関する情報をお持ちの方は,ぜひご連絡ください。yamada@tku.ac.jp 〒185-8502 東京経済大学 山田 晴通 |
バートン・クレーン 歌唱曲リスト///バートン・クレーン リンク集 |
[冒頭]
1-1 父・クレーン師の背景と,幼少期のクレーン(1901-1914)
1-2 学校教育とジャーナリスト修行(1914-1925)
1-3 経済記者として
1-4 歌手活動について(1931-1936)
1-5 演劇人としてのクレーン(1928-1963)
1-6 帰国前後の事情(1936-1937)
1-7 帰国から日米開戦まで(1937-1941)
―生い立ち,最初の日本滞在(1926-1936),帰国から日米開戦前まで―
バートン・クレーン1)(Burton Crane, 1901-1963)は,戦前,昭和初期の日本で「酒がのみたい」(1931年)などをヒットさせた,日本語で歌う外国人歌手の先駆者であり,また他方では,戦前戦後を通じて活躍した,経済に強い知日派の米国人ジャーナリストでもあった。クレーンについて,主として日本語文献に依拠しながら経歴のスケッチを試みた前稿「バートン・クレーン覚書」(山田,2002)は,不十分な内容ながら,クレーンの再評価を進めるひとつの契機となった。2006年に,石川茂樹氏,郡修彦氏らの尽力で,クレーンの楽曲多数を良好な状態で復刻したCD音源がインディー・レーベルNEACHから商品化された際には,これまた不十分ながらその時点で了解された楽曲のルーツについても解説を試みた(山田,2006)。
もちろん筆者には,最終的に,クレーンについての評伝を何らかの形でまとめたいという思いはあるが,クレーンが書き残した膨大な量の新聞記事を読み進み,ジャーナリストとしての業績を消化して論評することは,到底容易なことではない。しかし,その作業が遅々として進まないうちにも,前稿の時点では利用できなかった,クレーンについての文献や史料,あるいは,口述による情報が,筆者の元には相当蓄積されてきた。その結果,前稿の時点では情報がなく言及されていなかったクレーンの人物像が浮かび上がってきた部分もあれば,前稿の記述に訂正を加えるべき箇所もいくつか見つかった。
こうした状況を踏まえ,前稿発表後に入手した文献や,米国での現地調査で得られた一次史料なども使いながら,クレーンの経歴や業績について,前稿よりも踏み込んだ形で少しずつ再構成を試みることが必要であると考え,連載という形で,評伝の作成に向けた史料紹介を進めていくことにした。初回である今回は,クレーンの生い立ちから,最初の滞日(1926-1936)を経て帰国し,太平洋戦争の開戦に至る頃までの伝記的事実について取り上げる。
筆者は,2006年度に東京経済大学個人研究助成費(C)を受給し,米国ニューヨーク州ニューヨーク,バッファロー,ニュージャージー州プリンストン,ペンシルヴァニア州フィラデルフィアを訪問して,各地の公共図書館,プリンストン大学関係の諸図書館などで資料収集にあたり,また,クレーンの一人娘であるシルヴィア・クレーン・エイゼンロール女史 Ms Sylvia Crane Eisenlohr にもお目にかかった。この現地での資料収集の結果,クレーンと夫人 Esther Crane の伝記的事実に関する包括的な史料としてCrane, B.(1961)およびCrane, E.(1961)の存在を確認し,コロンビア大学でコピーを入手した。
また,これに先立ち,石川氏を介して,シルヴィアさんから Babcock(1984)を提供され,これによって,アマチュア・ジャーナリズム活動という観点を中心に置いたクレーンの素顔について理解を深めることができた。
Crane, B.(1961)および Crane, E.(1961)は,コロンビア大学のオーラル・ヒストリー調査所(Oral History Research Office)が組織的に取り組んだ,日本占領に関与した米国人たちへのオーラル・ヒストリー収集の一環として行われたインタビューである。クレーン夫妻それぞれの語りをそのまま文字記録に起こしたものに,正確を期して本人たちが加筆した証言という意味では,貴重な一次史料であるが,部分的には,思い違いや,筆記者の錯誤に基づくと思われる記述も散見され,十分に注意して扱う必要がある。
Babcock(1984)は,アマチュア・ジャーナリズムの世界で,クレーンと親交が深かった編者が,クレーン自身が発行していた個人新聞や,他の関係者が発表した記事でクレーンへの言及があるものなどを編集し,クレーンを偲ぶという趣旨で刊行した私家版の出版物である。クレーンが個人新聞などで発表していた文章など,貴重な内容を含んでいるが,その内容は,オリジナルのファクシミリないし写真版ではなく,編者自らが活字を組み直して復元したものや,大胆な省略を施して抄録したものであり,どこまで実際の一次史料の内容を反映しているかは,保証の限りではない。
いずれの史料の記述も,他の一般的な歴史的記述との整合性を十分考慮しながら,内容が適切であるかどうかを確認していく必要がある。そうした点を認識しつつ,これらの史料を軸に,前稿でも用いた文献や,クレーン自身が書き残した文書(同窓会からの質問票への詳細な回答などが残されている),その他の一次史料なども活用しながら,前稿で誤りを含んでいた点や,不明確であった点を中心に,クレーンの経歴を再構成していくことにしたい。
1-1 父・クレーン師の背景と,幼少期のクレーン(1901-1914)
バートン・クレーンは,1901年1月23日にニューヨーク州バッファローで生まれた2)。正式な本名は,Louis Burton Crane, Jr. である。末尾に Jr.とあるように,父子は同名であったが,父が Louis B. Crane と自称したのに対し,長子であるクレーンは,それと区別する必要を重んじてか,Louis を省き,もっぱら Burton Crane と称した。また,長老派教会の牧師であった父は,Reverend の敬称で言及されることが多かった。以下,本稿でも父親への言及では「クレーン師」という表現を用いる。
クレーン師は,1869年4月23日にイリノイ州西部の Mount Sterling という小さな町で,Frederick D. Crane を父に,Adelaide Wells Crane を母に生まれた3)。同じイリノイ州Galesburg の高校 Knox Academy を経て,1887年から1889年までノックス・カレッジ(Knox College)で学んでから,3年次に編入する形でプリンストン大学に進み,1891年に卒業した。その後もプリンストンに留まって神学校(Princeton Seminary)に学び,1894年に修士号を取得した。その後,時期ははっきりしていないが,1895年前後にドイツへ留学する機会を得てベルリン,エルランゲン,ギーセンに学んだ後,1896年に,補教師(assistant pastor)としてプリンストンの第一長老派教会(the First Presbyterian Church)で聖職者としての一歩を踏み出した。
1899年にクレーン師は,バッファローのカルヴァリー長老派教会(The Calvary Presbyterian Church)の牧師(主任担任教師 pastor)に招聘され,これに応じた4)。着任後まだ間もない1899年10月25日に,クレーン師はメリーランド州ボルチモア出身のジョセフィン Josephine Hopkinson Smith と最初の結婚をした。1901年には長男が誕生し,自分と同じ名前を与えた。こうしてクレーン師は,バッファローで,いわば一人前の牧師となり,結婚し,子どもを得たのである。ところが,彼はこの地には留まらなかった。
クレーン師はシカゴに移り,1902年から1905年までシカゴ神学校(Chicago Theological Seminar)で新約聖書を教授した。この期間の研究成果が,1905年に刊行された『The Teaching of Jesus Concerning the Holy Spirit』(Crane, L.B., 1905)である。その後,1905年にクレーン師は,牧師代理(Supply)としてペンシルヴァニア州 Scranton の会衆派教会(Scranton Congregational Church)に一年間勤め,1906年にペンシルヴァニア州イーストン Easton のブレイナード組合教会(Brainerd Union Church)で再び牧師となる。この地で,妻ジョセフィンは,幼い息子を残して1908年5月8日に亡くなってしまった。
1910年3月,クレーン師はエリザベスのウェストミンスター長老派教会に着任した。そして,7月9日に,イーストン出身のメイベル Mabel Schuyler と再婚した。クレーン師は,短期間,教会の近くに居住していたようだが,やがて,教会から徒歩で十分余りの 659 Newark Avenue に居を構えた5)。この場所は,エリザベスからニュアークへと向かう街道沿いであり。この場所から坂を下っていった先の中心市街地の外れに,当時はウェストミンスター長老派教会が建っていた。結果的には,この家がクレーン師の終の住処となった。
エリザベスに定着し,再婚して新たな家庭を築き始めた頃のクレーン師は,40代に入ったばかりの働き盛りだった。1916年には,母校ノックス・カレッジから神学博士号を授与されている。また,この頃からクレーン師はプリンストン神学校の運営にも理事(Director)として関わり,1921年(1922年?)には,プリンストン神学校でL・P・ストーン基金講座の講師として教鞭をとった6)。また,1921年から1923年にかけて,長老派教会の米国全体の大会(the General Council of the Presbyterian Church in the U.S.A.)の執行委員も務め,その後も地区レベルでの長老派教会の運営に永く関わった。
晩年のクレーン師は,気管支炎が持病となっていた。1934年の4月に発作で倒れ,一時はフロリダ州で静養生活を送ったが,結局は自宅に戻り半年程の闘病の末に1934年10月19日に亡くなった。遺体はイーストンに葬られた。
こうした父クレーン師の人生は,優れた聖職者として,真摯に生き抜かれたものであったように,第三者の目には見える。しかし,息子バートンの立場から見れば,このような父の下での幼年期は,どのようなものであったのだろうか。クレーン自身は幼い時期についてほとんど語っていないので,敢えて想像力も働かして考えてみたい。
幼いバートンは,生まれてから一家が各地を転々とする中で,7歳にして実母ジョセフィンを失い,9歳で定住の地を得ると直ぐに継母と生活するようになった,ということになる。さらに,その後,クレーン師と後妻メイベルとの間には息子3人と娘2人が生まれ,少年期のバートンは少し年齢の離れた多くの異母弟妹をもつことになった7)。継母は,実子である幼い弟妹たちの世話にかかりっきりだったことだろう。仮に,継母が相当の配慮をしていたとしても,クレーン少年は一種の疎外感を強く感じたことであろう。
クレーン少年は,ボーイ・スカウト活動に参加するなど,活動的な一面ももっていたが,一人で本を読んでいることも多い,物静かな一面もあった。ユーモアもあって人を引きつける魅力があったが,孤独感を漂わせるところもある,早熟な子どもだったらしい8)。こうした性格の一端は,継母や異母弟妹とのある種の緊張関係を孕む家庭環境によって形成されたものであったかもしれない。
クレーン少年は,(広い意味での)ジャーナリズムへの関心という点でも早熟だった。11歳から12歳のころに,教会の業務のために父親が所有していた印刷機を使い,個人新聞を作ったのが,(アマチュア)ジャーナリストとしての第一歩であった。最初に作った個人新聞は「 The Owl」(梟)という題で,まだ11歳だった1912年12月に第1号が作られた(Babcock, 1984, p.5)9)。この個人新聞は,(少なくとも当初は)ほぼ月刊で刊行されていたようで,1913年6月には第7号が出されている(Babcock, 1984, p.6)。後にクレーン本人が1931年10月に刊行した別の個人新聞「Masaka」の第1号で述べたところによれば,「The Owl」は少なくとも第10号までは確実に刊行されたようである。また何号とは明記されていないが,1913年11月に刊行されたものが定期的刊行の最後となり,その後,間を置いて1916年に最終号が刊行された。個人新聞を刊行し始めて間もなく,クレーンは友人が教えてくれたニューヨーク・サン(the New York Sun)紙の切り抜きで,全国アマチュア新聞協会(National Amateur Press Association)10)の存在を知り,12歳にしてこれに参加し,地元(隣町)の Newark Amateur Press Club にも関わった。程なくして父クレーン師は,息子の熱中ぶりを憂慮し,こうした活動を止めさせたという(Babcock, 1984, pp.10-11)。
クレーン少年は,後に伴侶となるエスター・メリック Esther Merrick と,エリザベスに移り住んで間もない時期に出会っている。エスターはエリザベス出身で,生まれたときからずっと同じ家に住んでいた(Crane, E., 1961, p.111)。彼女の一家が通っていた教会に,新たに赴任して来た牧師の息子が将来の夫となるクレーン少年で,二人は同年齢だった。幼い二人は,一緒に賛美歌を(歌うのではなく)口笛で吹いたりしていたという(Crane, E., 1961, p.3)12)。
1-2 学校教育とジャーナリスト修行(1914-1925)
クレーンは,(おそらく)1914年に,エリザベスから西へ60kmほど離れたニュージャージー州 Blairstown にある,長老派教会系の全寮制高校 Blair Academy へ進学した。クレーンがブレア校に進んだのは,学校の性格から見て父親の意向であった可能性が高いが,継母と馴染めなかったクレーンが家を出たがったという面もあったかもしれない。高校の学校演劇では,トロイのヘレンを演じたという13)。
1918年9月,クレーンは,父と同じく名門プリンストン大学へ進んだ14)。在学中は,「バート」(Burt)の愛称で呼ばれ,陸軍の予備役将校訓練課程に砲兵として所属していたという15)。しかし,クレーンは2年間学んだものの卒業はせず,大学を中退してしまう16)。
やがてクレーンは,地元の新聞を振り出しに,いわばジャーナリストとしての修行時代に入った。クレーン自身が書き残したところによると,1920年に大学を離れた後,建設会社 George Dose Engineering Co. で一年間働いた後,1921年から1923年まで地元エリザベスの the Elizabeth Evening Times 紙に記者として勤めた17)。ここでクレーンは,入社時に12ドル,入社半年後に15ドルになっていた週給を,18ドルに上げるよう要求し,上司に「お前は天才のつもりか!」と罵られたという(Babcock, 1984, p.23)18)。その後,1923年には短期間のうちに転職を重ね,the Newark Ledger 紙記者を経て,AP通信(The Associated Press)フィラデルフィア支局に編集者として職を得た19)。
1925年,当時AP通信フィラデルフィア支局に勤めていたクレーンはジャパン・アドバタイザー(the Japan Advertiser)紙の経営者であったB・W・フライシャー B.W.Fleisher と会った。紹介したのは,プリンストン大学の級友で,フライシャーの娘婿だったWilliam Stix Wassermanで,場所は,フィラデルフィアの北郊に位置するペンシルヴァニア州 Whitemarsh の Wasserman 宅であった(Crane, B., 1961, p.2)。
この会見でフライシャーに気に入られたクレーンは,3年契約の経済面編集記者としてアドバタイザー紙へ招聘された20)。後にクレーンは,この招聘はフライシャーが自分を過大に評価した結果であって,フライシャーの期待に応えるため後々大いに勉強をしなければならなかった,と述べている(Crane, B., 1961, p.1)。
クレーンは,日本に職を得たことを受け,既に事実上の許婚者であったエスター21)と(予定を繰り上げて)1925年10月1日にエリザベスで結婚し,1925年の遅い時期に妻とともに日本へ渡った。
1-3 経済記者として
こうしてクレーンは,経済記者として来日することになったが,それまで日本への特段の関心はなく,日本語も学んでいなかった22)。来日後,取材活動ではマルヤマ某(クレーンは,後の占領期にもこの人物を助手にしているにもかかわらず,彼の名を憶えていないとインタビューで語っている)という助手に日本語の文書を英訳してもらいながら,仕事を進めていった(Crane, B., 1961, p.3)。来日後のクレーンは,精力的な取材活動を通して多数の要人と親交を結び23),他方ではカフェーなど夜の街にも出かけて日本語を鍛えた24)。クレーン本人によれば,日本語を習ったとは言えないが,三千語程度の日本語を憶え,生活には困らないようになり,教養ある話し方はできないが,女給やホステスとやりとりできる程度にはなった,という(Crane, B., 1961, p.4)。
クレーンは記者としてたちまち頭角を現し,1927年前半には署名コラム「A Song o’ Sixpence」をもつようになり,1930年に刊行された『日本新聞年鑑』にはアドバタイザー紙の「編輯」責任者として名が記された(山田, 2002, 注3)。当初3年だったアドバタイザー紙との契約は,当然のように更新され,在籍は最終的に11年に及んだ。クレーンはまた,1926年からウォールストリート・ジャーナル紙の通信員(correspondent)となったのをはじめ,1928年からは英国のフィナンシャル・タイムズ紙,1931年からは豪州のシドニー・モーニング・ヘラルド紙の通信員としても記事を書き送った25)。ハリス(1986, pp.56-57)によれば,クレーンは,後に帰国の際に,ヴァラエティ誌やいくつかの業界紙に原稿を送る仕事をまだ20歳そこそこのハリスに引き継いだといい,他にもいろいろなところに原稿を書いていたようだ26)。
来日後,クレーンが居宅を構えたのは,当時の赤坂区榎坂町5番地(枝番は不詳)だった27)。米国大使館が同じ榎坂町の1番地5にあり,そこから歩いてすぐの裏手に住んでいたことになる。しかし,クレーンはニュース源としては大使館を重視していなかった。むしろ大使館側が,日本の経済事情についてクレーンに見解を求めてやって来ることの方が多かったという(Crane, B., 1961, p.6)。
クレーンの妻エスターは,来日当初は日本人に英語を教えたり,アメリカン・スクールで美術を教えたりしていたが,1926年12月21日に長女シルヴィアを出産すると,しばらくは育児に専念した。その後,1929年夏以降は,社交欄の担当者としてアドバタイザー紙で働いた。記者として最初の仕事は,軽井沢の社交界の取材だった(Crane, E., 1961, pp.4-7)。また,その後,1932年に駐日米国大使としてジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew, 1880-1965)が着任した後,エスターは社交欄記者としての仕事と並行して大使夫人Aliceの私設秘書となり,米国人のみならず,他の外国人や日本人要人たちの社交界をつぶさに観察していくことになった(Crane, E., 1961, p.12ff)。
1-4 歌手活動について(1931-1936)
日本語の会話力を付けるため(と称して?)単身でバーに出入りしていたクレーンは,やがて女給たちから日本語の歌を教わり,また,米国の歌に日本語の歌詞をのせて歌ってみせるようになった。その噂がコロムビアに知れるところとなり,クレーンはレコードを出すことになり,それがあっと言う間にヒットした(Crane, B., 1961, p.13)。
通説では,当時外資系であった日本蓄音器商會(後の日本コロムビア)のレスター・ホワイト(Lester H.White)社長が,宴席で米国の曲を日本語の歌詞で歌うクレーンを見つけ,レコード化を進めたという(山田, 2002, 注4)。しかし,別の説では,コロムビアの「ヨネ」某(Mr.Yone)なる人物が,クレーンとの折衝にあたり最初の録音まで漕ぎ着けたという(Babcock, 1984, p.234)28)。
クレーンは,1931年4月新譜(実際には3月下旬までに店頭に並ぶ)として発売された「酒がのみたい/家へかえりたい」でレコード・デビューし,1934年2月新譜「バナナは如何/バルセロナ」まで,SP盤30面分の歌と,歌を盛り込んだ漫談2面分の録音を残した29)。これはすべて,ホワイトの社長在任中のことであった。クレーンは,1934年にホワイト社長が退任した後はコロムビア・レーベルから新たな新譜を出さなかった。詳しい事情は不明だが,その後1936年には,テイチクから上村まり子とのデュエット「二人は若い/恋は荷物と同じよ」が2月新譜として発売され,これがクレーンが日本に残した最後の録音となった30)。
歌手として名の売れたクレーンは,フライシャーの許可を得て,実演の舞台にも立つこともあった。特に,1932年2月には,大阪・道頓堀の大阪松竹座で松竹楽劇部と共演する25日もの長期公演を行った(Crane, B., 1961, pp.13-14)31)。クレーンは,この時の様子について,1932年4月に刊行した個人新聞「Masaka」第3号で「3曲を日本語で歌い,可笑しいはずの話をした。ウケたと思ったし,自分も愉しかった。人生最高のひとときだった」と述べている(Babcock, 1984, pp.26-27)32)。
さらに後には,大阪劇場で,米国のジャズ楽団の司会として出演し,歌も歌ったという(Crane, B., 1961, p.14)33)。この他にも,クレーンは時折ステージに上ることがあったようだ34)。
1-5 演劇人としてのクレーン(1928-1963)
前稿(山田, 2002)ではごく簡単にしか触れていないが,クレーンは演劇への関心も強く,日本の演劇や映画についての記事(例えば,クレイン, 1936=2006)も残している。また,若い頃から戯曲を書いたり,ギリシア古典劇の改作をしたり,素人劇団での上演に取り組んだりと,様々な実践に取り組んでいた。
クレーンは,東京に来てから,特に戯曲の執筆に熱中していたようで,時期は明記されていないが,プリンストン大学の同窓会に送られたアドバタイザー紙を連絡先とする住所届に付されたメッセージには,5本の戯曲を書いたが,おそらくどれも上演される機会はないだろう,などと記されてい35)。クレーンの演劇への情熱は,以降も一生続いた。晩年にクレーン自身が述べているところでは,1928年頃以来18本の戯曲を執筆し,そのうち5-6本はブロードウェイでの上演を目指してプロデューサーに渡されたが,ブロードウェイでの上演は実現しなかったという。
(後述する)エスターの帰国を報じる讀賣新聞の記事(1937年4月13日付)には,「夫君は既に一と足お先に帰國して目下日本に取材したレヴューの作曲に没頭している」という一節がある。これがどんな内容だったのか,そもそも完成を見たのか否かは解らない。しかし,「おそらくどれも上演される機会はないだろう」という謙遜とも自嘲ともとれる言葉に反して,クレーンが脚本と歌詞を書いたミュージカル『Nona』は占領期に東京のアーニー・パイル劇場(the Ernie Pyle Theater)で上演され,同じくミュージカル『Anyone For Love』は,1957年にニュージャージー州 Spring lake で二週間上演された。さらに,クレーンの戯曲のうち一幕物7本は出版されたという36)。
クレーンの戯曲の代表作といえそうなのは,1929年に the Tokyo Women’s Club [不詳]のために書き下ろしたとされる一幕物の犯罪劇『The Mystery of the Silver-backed Hairbrush』で,戦後出版されている(Crane, 1950)。
もう1冊,クレーンの戯曲で出版が確認されたのは,ギリシア古典悲劇の翻案集『The House of Atreus (A Play)』である(Crane, 1999)。『ヘカベ』(原作エウリピデス),『アガメムノン』(原作アイスキュロス),『エレクトラ』(原作ソフォクレス)をそれぞれ30分程度で上演できるよう仕立て直したもので,通して上演することも,それぞれ独立させて上演することもできるようになっており,学校やアマチュア劇団による上演に向いた作品となっているようだ37)。
ニューヨーク・タイムズ紙に出たクレーンの訃報では,戦前か戦後か時期ははっきりしないが,クレーンが東京の在日外国人のアマチュア劇団であるthe Tokyo International Players で6本の戯曲を演出し,うち5本は自作だったという記述があるが,その中には以上で挙げた作品も含まれているのかもしれない。クレーンは晩年にも The Amateur Comedy Club of New York に出演し,演出も行っていたという38)。「素人」と冠を付けるべきではあろうが,クレーンが終生の演劇人であったことは間違いがなく,それが熱心な作劇という形で現れたのは最初の東京滞在の頃だったのである。
ちなみに,1936年に帰国し,転職先を探していた頃にも,クレーンはある高名なプロデューサーに自作の戯曲を渡していたらしい。内容は,中国で宣教師の妻が強姦される,といったものであったという。結局,「生々しいリアリズム」の故か,この作品が陽の目を見ることはなかった(Babcock, 1984, p.235)39)。
1-6 帰国前後の事情(1936-1937)
クレーンは,1936年秋に帰国するが,その理由や経緯ははっきりしていない。なぜこのタイミングで帰国したかをクレーン自身が説明した記録は残っていないようだが,クレーンの妻エスターは,帰国の事情について,インタビューで以下のように説明をしている(Crane, E., 1961, pp.18-19)。
1936年夏の時点で,クレーン夫妻は,日本での将来について悲観的になっていた。当時はまだ,特に日本で何かが進んでいるという感じはしていなかった(戦時体制への傾斜といったことは感じ取っていなかった,という意40))が,二人で勤めていたアドバタイザー紙を買い取るくらいのことができない限り,将来は知れたものだという意識になっていた。しかし,帰国して新しい生活の途を見いだすのも日本にいるままでは容易ではなかったので,クレーンが半年の休暇をとって,単身帰国することにした(二人が一緒に帰国できる程の経済的余裕はなかった)。もし,米国で良い話があれば,妻子が後を追って帰国し,何も見つからなければクレーンが日本に戻ってくるという段取りであった。帰国したクレーンは,「1937年の冬」(1937年初めの意?)にニューヨーク・タイムズ紙に採用が決まる41)。他にも広告関係の仕事の話があったようだが,クレーンは最終的にタイムズ紙を選び,「今度は君が決心する番だ」という手紙をエスターに書き送って来た。当時,エスターは大いに悩んだようだ。アドバタイザー紙はクレーンを必要としていたし,エスターも召使いのいる生活42)や,アドバタイザー紙の社交欄記者と大使夫人の私設秘書という二つの仕事を手放したくない気持ちが強かった。しかし,10歳になっていた娘シルヴィアのことを思うと,母国から離れ,また召使いのいるような生活が,本人のためにはならないように感じられたし43),健在だった自分の両親にとって,シルヴィアはたった一人の孫だったことなど,いろいろなことを考え合わせて,帰国する決断をした。しかし,決断を下した後も,すぐには日本を離れがたく,結局,翌年春の桜を楽しんでから,1937年4月にエスターとシルヴィアは日本を離れ帰国の途についた。クレーンの帰国から半年ほど遅れてのことだった。
同年4月13日付の讀賣新聞は,ベタ記事ではあるが「社交界秘話出版 クレーン夫人」と題してエスターとシルヴィア(記事では「スウビヤ」)が帰国することを伝えている。この記事で,エスターは「社交界の婦人記者として駐日外國大公使が着任した場合,大公使夫人は先づ第一番にクレーン夫人の知己を得なければならぬといはれるほどの東京社交界の名物」と評され,3段の写真も掲載されている。英字新聞の社交欄記者にして,米国大使夫人の私設秘書という立場を足がかりに,エスターがいかに強力な立場を築いていたかを思わせる記事である44)。
1936年といえば,既に満州事変(1931年),血盟団事件(1932年),五・一五事件(1932年),国際連盟脱退(1933年),あるいは天皇機関説事件(1935年)を経ており,また,歌手クレーンが関わった外資系の日本蓄音器商會は1934年に政府の圧力の下で日産財閥系となり,ホワイト社長も既に退任,帰国していた。そして,何よりも1936年は,二・二六事件が起きた年である。事件自体は事実上4日間で終息したものの,戒厳令と戦時警備体制は7月まで解かれなかった。また,反乱軍の兵営や拠点,また襲撃場所の多くは,クレーンの居宅やアドバタイザー紙のオフィスから目と鼻の先ともいえる場所であった45)。事件は少なからぬ衝撃をクレーン夫妻に与えたように思われるが,彼らは,本当に戦時体制への傾斜を感じていなかったのだろうか46)。
インタビューでエスターは,戦前の日本の女性についての話題から,1931年の満州事変の際に,知人の代理で教壇に立っていた実践女学校で,授業中に事変のことが話題になり,なぜ米国の報道は日本に厳しいのかという生徒たちとの議論になってしまったエピソードに言及し,「後になって考えれば,この国が国粋主義的になっていく過程の一里塚であったような出来事にいろいろ気づきます」と述べている。しかし,これに続けて聞き手が,当時の米国の言動に対する反発はよくあったのかと質問したのに対して,エスターは「そういうことはめったにありませんでした。この一回だけ。」と応じている(Crane, E., 1961, pp.10-12)。続けてエスターは(直接質問された事柄ではないにも関わらず)二・二六事件に言及し,その時点では「米国人と仲が良過ぎたり,自由主義的過ぎたりする指導者への,全般的な反感があった」と述べ,事件で殺害された犠牲者のうち3名は前日に米国大使館で開かれた晩餐会(エスター自身も準備に関わった)の客であり47),事件が反米的性格のものだということをすぐに悟ったと述べているが,これに続けて事件は局地的なものに過ぎず,すぐに解決されると思っていた,とも述べている(Crane, E., 1961, pp.12-13)。
要するに,1936年夏以前にも,後から考えれば戦時体制への傾斜を思わせる場面にも時々遭遇していたが,個々の出来事を大事だとは思わなかった,というのが,クレーン夫妻の(少なくともエスターの)実感だったのであろう。一方で,娘の将来を思いやる気持ちや自分の両親への言及があることも考えると,その少し前の1934年にクレーンの父が死去したことも,帰国を考えさせる一因となっていたのかもしれない。
いずれにせよ,このタイミングでの帰国の決断が,クレーン一家にとって極めて幸運なことであったことは間違いない。帰国の決断について,エスターは,次のように述べている。「でも,おそらくこの(帰国の)決断は自分が下した最も賢明な決断の一つでしたね,その直後に日本人の対米感情がとても非友好的になってしまいましたし。私たちは1937年4月に離日しましたが,1937年7月には盧溝橋事件が起こり,事態は一変してしまいました。もし,あのまま私たちが残っていれば,…新聞関係者はみんなスパイ扱いされたでしょう。」(Crane, E., 1961, p.19)
1-7 帰国から日米開戦まで(1937-1941)
帰国後,クレーンはニューヨーク・タイムズ紙の経済記者となり,後から帰国する妻子を待つことになった。帰国してからしばらくの間,クレーンがどこに住所を置いていたのかは,はっきりしていない。1936年秋に単身で帰国した後,クレーンは様々な人脈を活かして求職活動を進めたことだろう。そして,職場を得た後は,妻子を迎える家を探さなければならなかったはずである。そんな頃に,クレーンは意外な形で,また日本と接触することになった。
1937年2月,日米交換ラジオ放送の企画で,ベニー・グッドマン楽団の放送プログラムを,ニューヨークのCBSラジオから,当時としては珍しい国際中継放送で日本へ送ることになった。このとき,既に帰国していたクレーンは,ニューヨーク側の日本語MC担当者として番組に登場した48)。
クレーンが日本語で曲を紹介することは事前に決まっていて,日本の新聞のラジオ欄でも紹介されていた。朝日新聞は,クレーンが「此ジャズバンドを紹介する日本語アナウンスに當ると云う事である」とし,讀賣新聞は,クレーンの顔写真を掲げ,彼が「グッドマン・ジャズバンドの紹介と曲目を日本語でアナウンスする」と予告していた。実際に,クレーンが放送で喋った内容は,新聞記事とは少々異なっていた49)。
クレーンは番組の冒頭で,短い日本語のアナウンスを入れ,曲名を伏せた粋なやり方で最初の曲「Dinah」を紹介をする。
二,三年前で,エノケンさんは「旦那,歌わせて頂戴な」と歌いました。
覚えますか?
これが同じなんですよ。
下線部は,日本語としてはやや怪し気だが,発音もなかなか達者で,「旦那歌わせて頂戴な」の部分はちゃんと歌っている50)。「覚えますか?」は「覚えてますか?」と言いたかったのだろう。
番組の終わり近くでは終曲「Good-bye」に乗せて別れの挨拶をする。
あなたがたは Columbia Broadcasting System の
アメリカから放送した program イ 聴きました。
Benny Goodman のバンドは,日本の大好かれる歌を吹き込みました。
New York で土曜日の夜中は スギ に来ます。
東京で日曜の午後の銀ブラは始まっています。
ですから,「おやすみなさい」と言えば,ダメでしょう。
さよなら。
この番組の日本時間での放送は,中継開始前のアナウンスを含め2月7日(日曜日)の午後0時55分から1時30分までで,ニューヨークから中継放送された部分は,米国東部時間で6日(土曜日)午後11時から11時30分にあたっていた。こうした国際中継放送ならではの放送時間の時差を踏まえた,気の利いたコメントである。これに続いて別の人物による英語のアナウンスメントが入り,番組は曲とともに終わる。以上の二つ以外にはクレーンの日本語アナウンスメントはなかったようだ。
戦前の日本でクレーンがラジオのマイクの前に立ったという記録は,今のところ見つかっていない。一方,占領期に再来日したクレーンは,ジャーナリストとして,しばしばラジオに出演していた51)。クレーンにとって,この国際中継放送は,あるいはラジオ初出演だったのかもしれない。
クレーンの新しい職場であるタイムズ紙は,ニューヨークの中心ともいえる,タイムズ・スクエアに隣接する場所にある。クレーンにとって幸いだったことに,クレーン夫妻の地元エリザベスは,ニューヨークへの通勤圏内にあった。クレーンは,夫妻それぞれの実家のほぼ中間に位置する 1252 Waverly Place に新しい住まいを求め,新しい生活に備えた52)。
新居の地下室には,印刷機が据えられ,版組や印刷の作業ができるようになっていた。第二次世界大戦が始まって間もない頃(おそらく1939年),アマチュア・ジャーナリズム活動を通じて知り合ったアルフレッド・バブコック Alfred Babcock は,仕事の都合で平日だけ下宿としてクレーンの隣家に間借りをすることになった。このときクレーンは,バブコックに,自分の不在時でも自宅地下室の印刷機を自由に使ってよいと告げ,バブコックもこれに応じて,しばらくの間,頻繁にクレーン宅を訪れ,時にはクレーンと一緒に,時には一人で,版組や印刷の作業に没頭した。バブコックによると,クレーンの家はかなり大きく,クレーンの家族の他にも,エスターの妹夫妻が住んでおり,他にも住人がいたようだったが,バブコックは裏口から入ってすぐ地下室に下りていたためか,この家の住人にはめったに会わなかったという(Babcock, 1984, pp.44-46)。
帰国したクレーンは,以前にもまして,NAPAをはじめとするアマチュア・ジャーナリズムの組織に積極的に関わっていった。印刷所となっていた地下室には,バブコックはじめしばしば同好の仲間が訪れ,作業をしたり,会議をもったりしていたようだ53)。1941年になると,14歳になったシルヴィアが(父の手も少し借りながら)自らの個人新聞「Wild Boar」を制作し始めた。第1号は1941年9月に刊行されている(Babcock, 1984, p.78)。大きめの家を構えたクレーン家の地下室は,アマチュア・ジャーナリズムという趣味の絆によって様々な人々を引き寄せる,強力な磁場となっていた54)。
1937年7月4日に,NAPAの大会がボストンで開催された際,クレーンはボストンにあるCBS系列のラジオ局WEEIを通して,大会と絡めてアマチュア・ジャーナリズムについてのラジオ番組を放送した(Babcock, 1984, pp.41-43)。番組の中で,クレーンらNAPAのメンバーは,個人新聞などに馴染みのないアナウンサーからの質問に答えながら,解りやすくアマチュア・ジャーナリズムについて説明したようだ55)。
こうして帰国したクレーンは,本業のタイムズ紙での仕事にも,アマチュア・ジャーナリズムの活動などにも,精力的に情熱を傾けるようになった。一方,遅れて帰国したエスターも,程なくして地元の the Elizabeth Daily Journal で働き始めた(Crane, E., 1961, p.21)。クレーン夫妻は,日本では切り開けないと感じていた将来への手応えを,それぞれに感じとり始めていたのかもしれない。
(つづく)
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