コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2020
コラム「ランダム・アクセス」→「寄稿」
市民タイムス(松本市).
2020/03/** 臥雲氏の勝利.
2020/04/** 緊急事態の東京で<.
2020/07/07 マスク着用.
2020/08/29 消え去った夏休み.
2020/10/14 住吉先生、お疲れ様でした!.
2020/12/29 「忘年会」のない師走.
2020/03/** 臥雲氏の勝利
まれに見る混戦となった松本市長選挙は、臥雲義尚氏が当選した。4年前の初出馬の際に戦った菅谷昭市長の引退を受けての今回の市長選、菅谷氏を破っての当選とはいかなかったが、雪辱を果たした形である。
NHKの記者、解説委員として活躍し、高祖父は明治時代の発明家として名高い臥雲辰致という背景もあり、前回市長選への出馬以来、地道な活動を続けたことが功を奏したとも言えそうだ。実際、今回出馬した6人の中で、選挙前までにウィキペディア日本語版に記事があった人物は、臥雲氏と、国会議員経験者である百瀬智之氏だけであった。知名度では突出していたわけである。
さて、『市民タイムス』をはじめ各紙は、16年ぶりの市長交代の節目に市民は「変革」を選んだのだ、といった趣旨の報じ方をしたが、これは一面ではその通りであるとしても、素直には頷けないところがある。「変革」を訴えていた候補者は臥雲氏だけではなかった。
今回の選挙で臥雲氏が得た36,357票は、菅谷氏に敗れた前回の35,850票から大きく伸びていない。この間、市の人口は減っているが、投票年齢の引き下げで有権者数は増えている。それを考慮すると、支持は前回から大して広がっていないのである。それでも臥雲氏が勝利したのは、前回選挙で菅谷氏に集まった53,978票が、大月、花村、百瀬の各氏に分散したからである。三氏の得票を合計すると55,640票と、ほぼ前回の菅谷氏の得票と一致する。つまり、菅谷氏の多様な支持層を、まとめ上げられる候補者がいなかった、ということだ。臥雲氏の勝利は、前回以来の支持基盤を守りきった結果なのである。
新市長となる臥雲氏に投票したのは、投票者の38.78%。候補者乱立の結果とはいえ、選挙で過半を得票し続け、無投票当選もあった菅谷氏に比べると見劣りは否めない。投票率は前回より低い48.38%だったから、全有権者の中で臥雲氏に投票したのは、18.6%、つまり5人に1人もいない水準に過ぎない。
もちろん、こうした数字は、臥雲氏を貶めるものではないし、筆者としてもそのような意図はない。しかし、新市長となる臥雲氏には、現状における自らの支持基盤の限界を見据え、肝に銘じてほしい。市長として1期目から目に見える政策を実行し、支持を拡大していけるように取り組むことが不可欠であることは言うまでもない。次回の選挙で大きく得票を伸ばして再選されて初めて、市長としての名声が高まることになろう。新市長の奮闘を祈りたい。
2020/04/**** 緊急事態の東京で
私は普段、生活拠点のある安曇野〜松本平と職場のある東京の間を行き来する生活をしており、大学の長期休暇を別にすると、月に3回ほど信州と東京を往復している。政府が緊急事態宣言を出した4月7日は、家族とともに信州から東京へ移動したばかりだった。正直なところ、思いの外、厳しい内容だったので、どうしたものかと途方にくれた。
長野県知事は戻って来るなと言い、東京都知事も地方へ行くなと言っている。東京には職場があり、信州には介護が必要な身内もいる。もし宣言の段階で信州にいたなら、家族を残して1人で東京へ向かっていたところだったが、家族もそれぞれ東京にいればいたでやることがあり、今さら家族だけを信州に帰らせるのも難しい。結局、しばらく東京から動けないと覚悟して、家族みんなで一緒にいることを決め、あちこちに電話を入れて信州での務めを調整した。
たまたま新年度から役職に就いたこともあり、年度替わりの少し前から、感染症対策がらみの会議の予定が急に入ることがよくあった。それが宣言後は、急遽デジタルな手段での持ち回りになったり、新たにアプリケーションを入れてのオンライン会議になったりと様々な動きが錯綜している。その一方で、少人数で顔を合わせての打ち合わせが「三密」を避けながら重ねられ、そこでの情報交換がかなり重要であったりもしている。
授業の開始が先送りされた上、教室に集まって対面式でおこなわれる授業はできないことになり、インターネットなどを利用したオンライン授業の実施が急遽要請された。教職員は、そうした善後策への対応に忙殺されている。オンライン授業は、通常の授業の内容をそのまま収録すれば良いというものではない。例えば、教材なども、全面的な作り直しが必要で、実際にやってみると、機器の操作に不慣れなこともあって、20分ほどの動画を制作するのに数日かかることもある。安易に残業もできず、仕事はどんどん積み上がっていく。
家に戻れば、家族みんなに、外出できないストレスが重くのしかかっている。東京のアパートは仮住まいで狭いので、窮屈な感じはなおさらだ。出口の見えない閉塞感の中で、根本的な解決策はない。ただただ自重し、冷静に目の前のことに当たるしかない。緊急事態であればこそ、浮き足だたず、外出の機会を減らしながらも、日常の課題を淡々と進めていくしかない。できることなら、そこにほんの少しのユーモアや、ホッとする場面を盛り込んでいきたいものだ。
2020/07/07 マスク着用
春先からの緊急事態の中で、マスクはすっかり日常生活に定着した。昨今では、うっかりマスクを着用せずに外出すると、他人の目を気遣わなければならない。相当のうっかり者である身としては、これが結構面倒である。
その日に使うマスクとは別に、それをどこかに忘れた時の予備を、鞄などに常備することが必要で、家人が心がけてくれている。それでも、一人で車で出かける時などは、マスクが煩わしく運転中に外し、ついそのまま商店などに入り、買い物の途中でハタと気付いてバツが悪くなることもしばしばである。今時「非国民」とは言われないが、それを連想させるような空気があちこちに生じている。
もう遠い過去のようだが、数年前には、風邪の季節でもないのにマスクをして出歩く若者たちが、いろいろ話題になっていた。マスクをし、素顔を隠すことで、ある種の安心感が得られる、護られている感覚がある、という話が、若者の新しい風俗のひとつとして、また大人には奇異に見える現象として語られていた。それが今ではマスク姿の方が、外出時の当然になっている。
言うまでもなく、ウイルスはマスクを容易に通過する。マスクをしてもウイルスの侵入は防げない。通常の布や紙のマスクが一定の効果を示すのは、咳やクシャミの際に飛沫が飛散するのを防ぐという点にほぼ限られる。敢えて極端なことを言えば、自分が感染していなければ、マスクをしてもほとんど意味はない。もちろん、自分では感染していないつもりでも、実は感染しており無症状なだけということがあるので、皆がマスクを着用することには意味がある。だからこそ、マスクを着用していない人には「皆」からの暗黙の糾弾の視線が向かうのだ。
この数カ月で、ソーシャル・ディスタンス、つまり社会的距離とか、社交上の距離の取り方が、ポスト・コロナとか、ウィズ・コロナの時代の当然の前提として広く語られるようになった。マスクの着用も含め、人と人の間の「密接」な関係が、危険視されるようになってきた。
科学的に考えれば、目も保護するフェースシールドの方が、マスクよりも感染防止には有効なはずだが、科学的な根拠よりも、もっぱら社会的な同調圧力でマスク姿は広がっている。人と人の密接な関係、ふれあい=触れ合いを大切に人生の過半を生きてきた世代として、哀しい世の中になったものだと思う。
2019/08/29
[寄稿]消え去った夏休み
新型コロナウィルス感染症のせいで、この春以降、様々な立場の人々が異常事態への対処を強いられている。厳しい状況にある医療現場や、大打撃を受けている観光・飲食業関係をはじめ、多くの人々が、困難の中で必死に奮闘している。
浮世離れした世界と思われがちな大学教員も、その例外ではない。多くの大学は、リモート授業という名のもと、学生が教室に集まる代わりに、自宅から情報にアクセスし、与えられた課題をこなしていく方法で、今年度の前期を乗り切った。教員にすれば、突然、ほとんどトレーニングの機会もないまま、動画を収録してネット上に公開したり、ネット上の会議システムで学生指導をすることを余儀なくされたのである。
授業の開始も遅れ、大学によっては8月の第二週まで授業があった。期末試験ができず、例年の通常の授業よりも、提出課題が増え、学生も大変になったが、それを採点評価する教員の負担も膨らんだ。課題への報告は紙ではなく、デジタル・データで提出され、教員もパソコンの画面を見る時間が格段と増えた。私も、このところ急速に眼精疲労がひどくなり、視力が衰えてきた。
例年、試験や課題報告の提出が終われば、学生はすぐに夏休みだが、教員は成績評価を終えないと夏休みが始まらない。普段の年なら、お盆休み前には成績評価がひと通り終わり、ホッとして夏休みという感じになる。そして、研究調査や論文執筆に着手するという流れになる。
しかし今年は、全ての日程が後ろに倒れ、成績評価の締め切り日も、最も遅い非常勤先では8月24日だった。7月中旬以降は、連日、提出物と格闘し、お盆の間も、墓参りや行事の合間に採点を続けた。全ての採点をようやく終えたのは8月22日。この間に、提出物への評価の累積で成績を付ける6科目、受講者のべ400人以上が提出した合計2000通以上の文章を読み、採点した。
しかし、そこから夏休みらしい夏休みが始まるわけではない。後期の授業の開始は、予定通りの9月中旬から。それまでに、例年よりも手間のかかるリモート授業の準備をしなければならない。また、夏のゼミ合宿に代えてオンラインでのゼミの集中指導もある。何やかや、もう後期の準備はすぐに始まる。夏休みはどこかに消え去り、教員としての仕事は何とか必死にこなしているものの、研究者としては何もできない夏になってしまった。
2020/10/14
[寄稿]住吉先生、お疲れ様でした!
この9月末に松本大学学長を退かれた住吉広行先生は、私が1986年に、松商学園短期大学に就職した時、一緒に入職した同僚だった。商学科だけの小さな単科短大は、その後、定員増、学科増設を経て、2002年に松本大学に昇格した。私は1995年に短大から転出したが、住吉先生は、この間の学園の成長に深く関わり続けた。学園の成長は、もちろん多くの関係者の努力の賜物だが、その過程の要所で住吉先生の貢献があったことは、関係者のよく知るところである。
松商短大の時代から、松本大学の学長は、単に組織の長というだけでなく、大学の顔、地域の名士という一面が強い。歴代の学長は、地元と縁が深い各界の大物が、外部から招聘されてきた。1980年代以降の短大学長だった清水正男、松崎一、赤羽賢司、中野和朗の4先生はいずれも県内出身で、赤羽先生は東京大学、他の先生方は信州大学から招かれた。
昇格した松本大学で、住吉先生は2004年から副学長となり、中野学長を支えた。2008年春、松本出身のNHK元解説委員で第2代学長予定者の水城武彦氏が、着任直前に急逝した。学長不在の中、住吉先生は学長代行として翌2009年春の菴谷利夫第2代学長の就任までをつないだ。菴谷学長も松本出身で、文部官僚から佐久市の信州短大の学長・理事長となった教育界の大物だったが、大学へはあまり顔を出さず、日常業務は住吉副学長がさばいていた。その菴谷学長も、2011年春に事故で急逝してしまう。再び住吉学長代行の登板となった。
大阪府出身で、いわば「他所者」だった住吉先生は、副学長となる以前から長く実質的に学内のまとめ役だったが「大学の顔」にはならなかった。しかし、2012年に、正式に松本大学の第3代学長となる。学園の歴史上も稀な内部昇格の学長であったが、余人をもって代えがたい状況が醸成されていた。住吉学長時代、松本大学は規模拡大、施設拡充、学部新設を重ねた。もちろん先生一人の功績ではないが、先生の穏やかで明るい人格とリーダーシップが、多くの人々から前向きな協働を引き出した結果である。
さて、学長は通常、年度替わりに交代する。本来三月末が任期だった住吉先生が九月末まで学長職にとどまったのは、新学長の菅谷昭先生の着任が市長退任早々とはいかなかったためだ。住吉先生は最後まで粛々とリリーフを務めた。
先生の松本大学への貢献は、まことに大きい。かつての同僚として「長い間、本当にお疲れ様でした」と心から申し上げたい。
2020/12/29
[寄稿]「忘年会」のない師走
例年であれば、この時期になると、東京でも、信州でも、いくつかの「忘年会」にお呼びがかかっていた。私は、まったくの下戸なのだが、若い頃から酒宴は好きで、こうした飲み会に声がかかれば喜んで出向いてきた。しかし、新型コロナ感染症のために、今年は様変わりで、いわゆる忘年会らしい、はしゃいだ忘年会はまったくなくなった。3、4人で会食する機会は数回あり、新たな出会いも、懐かしく旧交を温める機会もあったが、大勢でわいわいと盛り上がり、気の合った仲間と2次会、3次会へといった、昨年まで普通だったことが、なんだかはるか昔のことのように感じられる。
そういえば、今年度に入ってからは、学生たちとのコンパや会食も、まったくやっていない。実は長い目で見ると、私が教員になった1980年代以来、学生たちの飲み会の類の頻度は徐々に少なくなってきている。昔の学生に比べると、今の学生たちはさほど飲み会好きではないし、下戸を公言する者も増えているようだ。もちろん、こちらが歳を重ねるにつれ、学生たちが声をかけにくくなっているという面もあるのかもしれない。しかし、かつては少なからず耳にした学生の飲酒がらみのトラブルも、最近ではほとんど聞かなくなったし、飲酒の機会自体が減ってきていたようにも思われる。社会人の間でも、同様の傾向はあったのではないだろうか。そこへ、今年のコロナ禍である。
しかし、少なからぬ職場や組織は、人間関係のしこりをほぐし、絆を新たにする場をとしての「忘年会」的なものを必要としている。今年のような状況が、何年も続くのか、「新しい生活」の中での飲酒習慣なり、宴席に代わる社交がどうなっていくのか、まだまだ見通すことは難しい。酒の力を借りないと本音を言えない人もいるし、本音を言い合う機会がないと動きが悪くなる組織もある。模索されるべきことは多いといえよう。
ところで、ある程度の年齢となった身としては、飲み会に行くときには、しかるべく振る舞わなければならず、実は昨年まで師走はそこそこ物入りだった。気づけば今年は、その分だけ、少しばかり懐が温かいような気もする。例年なら「忘年会」に出かけていたであろう週末の夜には、家に帰るときに手土産のひとつも買って帰るべきかもしれない。家庭のためにも、経済のためにも。
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