コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2019

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2019/01/** 天皇誕生日.
2019/02/03 伯父の笑顔.
2019/03/28 たらふく食えば.
2019/09/** ガラス窓を破る.
2019/12/06 「失礼しました」.


2019/01/** 

天皇誕生日


 先だってのクリスマス前の連休は、あまり厳しい冷え込みにはならなかった。12月23日の天皇誕生日も、山上はともかく、松本平は雪にはならず、穏やかな雨になった。
 諸外国には、様々な人物の誕生日を祝日に定めている例があるが、日本では誕生日が祝日なのは天皇だけだ。天皇の誕生日は古くから宮中などでは祝われ、行事が行われていたが、これを一般の祝日として制度上の休日にしたのは、もちろん明治以降のことである。明治天皇の誕生日である11月3日は、明治6年(1873年)に「天長節」として祝日と定められた。大正に入ると明治天皇祭の休日となり、昭和2年(1927年)に改めて「明治節」となって、戦後もそのまま「文化の日」として祝日になっている。
 大正天皇の誕生日は8月31日だったが、残暑の折に式典等を行う困難を考慮して、代わりに10月31日が諸行事を行う天長節祝日とされた時期もあった。
 昭和天皇の誕生日だった4月29日は、「天長節」から、戦後の「天皇誕生日」となり、平成に入ってからは1989年に定められた「みどりの日」を経て、2007年から「昭和の日」となっている。この日は、春の大型連休、いわゆるゴールデン・ウォークの入口であるが、特に今年は、新天皇の即位行事との関係で連休が例年以上に大型化する。連休自体はありがたいという人が多いかもしれないが、その分のしわ寄せも、いろいろと懸念されるところだ。
 さて、皇太子殿下の誕生日は2月23日で、即位前になるので、今年は「天皇誕生日」がない一年となる。ちなみに、秋篠宮文仁親王殿下は11月30日、悠仁親王殿下は9月6日が誕生日である。
 私は皇太子殿下や、この春に皇嗣となる秋篠宮殿下よりも年長なので、9月6日はもちろん、11月30日が祝日になるまで生き延びられる気はしない。仮に生き延びたとしても、その頃にはとっくに、毎日が日曜日という生活になっているはずだ。
 そんなことを考えながら、静かに過ごした平成最後の天皇誕生日だった。


2019/02/03 

伯父の笑顔


 先日、家内の伯父、自分にとっては義理の伯父が亡くなった。
 伯父は、性格は豪放、かつ能弁で、酒豪だった。そう頻繁に会う機会があったわけではない。たまに会うのは、親族が集まる宴席が多かった。私は全くの下戸だが、酒が入った上機嫌で何のかんのと話題を繰り出す伯父は、同席していてなかなか楽しい人だった。ただしこれは、姪の連れ合いという、身内ながら少し距離のある関係だったことが幸いしていたかもしれない。
 伯父も義父もまだ健康を損なう前だった十年ばかり前には、宴会となると伯父が座を仕切り、義父が聞き役に回りながら、二人でとんでもない勢いで酒を酌み交わしていた。記憶の中の伯父は、顔を真っ赤にしながら、少々怪しい呂律で意気軒昂に笑顔で語り続けている「やんちゃ」な爺である。
 しかし、一度こんなことがあった。まだ元気だった義父がリンゴの枝打ちの手伝いに出ていた頃、落とした枝の始末が面倒だという話を聞いた私は、薪ストーブの焚き付けに使えると思い、枝を貰うことにした。約束の日にリンゴの枝を満載した軽トラックに乗って義父が穂高の我が家へやって来た。その時、もう一人連れが乗っていて、一緒に枝を下ろすという。私はてっきり初対面のリンゴ農家さんだろうと思い込み、作業着姿で眼鏡をかけていたその人に「初めまして」と挨拶した。実は、その人こそ、義父の兄である伯父であった。伯父はたいそう面食らっていた。こちらは平謝りである。
 若い頃から農家を継ぎ、JAに勤めていたこともあった伯父は、70代半ばで健康を損うまで農業に取り組んでいた。伯父の作業着姿は、いわば仕事の正装で、それを着た時の気合の入ったシャンとした姿は、宴席で心地よく酔っている伯父とは全く違っていた。「御見逸れしました」である。
 納棺された伯父に手を合わせ、顔を見た。瞼は閉じられ、顔に赤みはなかったが、見覚えのある笑顔がそこにあった。その表情は、「俺の人生は楽しかった」と雄弁に語っていた。しかし、しばらく見つめていると、「その分、家族には迷惑もかけたがな」と、少し小さな声で言いながらニヤリとしているようにも見えてきた。


2019/03/28 

たらふく食えば


 家族に言ったら叱られそうだが、自分を筆頭に、我(わ)が家はみんな食いしん坊であるように思う。家族で外食する機会があると、しばしば「食べ放題」の店を選び、好きなものを食べたいだけ、食べられるだけ食べる。
 最近入ったあるチェーンのしゃぶしゃぶ店では、注文の終了まで90分という時間制限がテーブル上のタブレットに刻々と表示され、給仕された料理や食材を、残り時間を気にしながら、一種のゲーム感覚で 追い立てられるように食べていくという状態になった。もちろん自分が好きなものを注文し、美味(おい)しくいただいてはいるのだが、途中からは、少しでも多く腹に詰め込むことが目的のような錯覚に陥っていた。
 「たらふく」を「鱈腹」と書くのは当て字だが、鱈の腹とはよく当てたものである。食後には胃のあたりが膨れ上がっているのが自分でもよくわかった。家までの帰り道、また、家に帰ってからも、満腹の幸福感と腹の重い不快感が混じり合い、なんとも言えない気分が続いた。
 もともと体質的に酒が飲めなかった私は、若い頃から暴食だけがストレス解消法だった。よく言えば健啖(けんたん)家だが、単なる食いしん坊、大食らいである。フランス語で「美食家」を意味する「グルメ」は、今やすっかり日常語になったが、私は「グルメ」には程遠い「グルマン」、つまり大食漢である。
 それでも、加齢とともに健康が少し怪しくなり、流石(さすが)に日常的に食べる量は減ってきた。一時は100キロ近かった体重も、80キロ台前半まで落ちてきた。
 「うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽(あ)き足(た)らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。」と書いたのは、夏目漱石である。『草枕』の冒頭、「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた」に続けて「智(ち)に働けば角(かど)が立つ」と始まる有名なくだりの先にある一節である。漱石自身、かなりの食いしん坊だったらしいから、食べ過ぎて「不愉快」な思いをすることも多かったのだろう。
 満腹を通り過ぎた「不愉快」の域になると、もう還暦過ぎなんだから歳を考えないと、とか、やっぱり「腹も身の内」、「腹八分目」じゃないと、とか、いろいろな声が頭の中で繰り返される。それでも時には暴食をしてみたくなる。それは、まだ自分に残っている若さを感じてみたいからかもしれない。


2019/09/** 

ガラス窓を破る


 夜遅く東京から車で安曇野に戻ってきた。やっと着いたと安堵し、家の玄関を開けようとして、鍵がないことに気づいた。そんなはずはないと探したのだが、どうやら勘違いをして、自宅の鍵が付いていない鍵束を持って東京を出てしまったようだ。
 我が家は、置き鍵はしていない。鍵を預けてある身内もいるのだが、折悪しく入院中だ。このままでは家に入れない。連れもいて、小さな子どももいる。何としてもすぐに家に入らなければならない。鍵の業者を呼ぶか、いっそガラス窓を破ろうかと悩み、結局、小窓を破ることを決意した。
 そう考えると、もし隣家に通報されたら、と不安がよぎる。安曇野署に電話し、事情を話して、これから自分の家のガラス窓を破ると伝えると、対応してくれた警察官に、業者を呼んだ方がいいですよ、と強く勧められた。危ない、というのだ。また、もし通報があれば、いずれにせよ警察官が急行する、とも説明された。一度決めた覚悟が、揺らいでしまう。
 警察への通話を切り、携帯電話で検索して、鍵の業者を探して電話をかけて見たが、明日の朝にならないと現場に派遣できない、とつれない返事。2軒目も同様だった。しかも、「明日午前10時までは予約が埋まっています」という訳の分からない言い訳をされる。
 再び覚悟を決め、コンビニで粘着テープを購入し、倉庫にあった小さな鉄亜鈴を持ってきた。意図して家のガラス窓を割るのは、人生初である。そういえば子どもの頃は、遊んでいて投げたものがよその家の窓ガラスを割ったことも何回かあった。当時のガラスは、今のものよりずっと脆かった。もちろん、わざと割ったわけではなかったが、今でも申し訳なく、苦い思い出である。
 テレビドラマの場面を思い出しながら、粘着テープをガラスに貼り、サッシに付いているクレセント錠の近くを狙ってガラスを割った。連れのひとりが、窓から中へ入り、玄関を開けてくれた。ガラスの破片の飛散は完全には防げなかったが、幸い誰かが怪我をすることもなく、何とか処理できた。
 翌日、修理にきてくれたガラス屋さんは、窓枠を外して一旦持ち返り、小一時間ほどで新しいガラスを嵌めて元に戻してくれた。代金は4000円であった。


2019/12/06 

「失礼しました」


 さほど頻繁にではないが、大学でも、学生を呼んで面談することがある。先日、同僚教員と二人で、学生を呼んで割と形式張った面接をする機会があった。「失礼します」と言いながら面接室に入ってきた学生が、面接を終えて退出した後、同僚が「いま『失礼しました』って言ってたよね?」と問いかけてきた。実は、自分は特に何も気にかけず聞き流していたのだが、確かに「失礼しました」と言いながら出て行った学生がいた。こうした場面で、退出する際に、自分なら「失礼します」と言うと思う。もちろん実際にそう言う学生も多いのだが、意識してみると「失礼しました」と言って出て行く者も結構いる。
 「失礼します」にせよ、「失礼しました」にせよ、そこで言っている「失礼」とは何なのだろう。例えば、誰かの部屋を訪ね、ドアをノックし、応答に対して自分の名を名乗り、「どうぞ」と言う声を聞いてドアを開けるとき、口をついて出るのが「失礼します」であることに間違いない。この「失礼」は、自分が現れて相手の都合を乱すこと、あるいは、しかるべき手順を踏んで、儀礼的口上なども縷々述べるべきところを省略することを意味していると解せる。
 では、用事が終わって、退出するときはどうだろう。「失礼します」であれば、入るときと同じく、手順なり儀礼を省略して退出することが「失礼」なのであろう。ところが「失礼しました」になると、自分がそこにいたこと、あるいは、そこでしたことが「失礼」だと言っているように聞こえる。芸人がネタを披露して「失礼しました」と締めくくることがあるが、それに近いものを感じてしまう。
 「失礼しました」と言って退出する学生が、面接で「失礼」に当たるような何かをやらかしたわけではない。もちろん、面接自体が「失礼」というわけではない。いったいどんな「失礼」をしたというのだろう。些細なこととはいえ、こうしたちょっとした違和感を覚える言い回しを聞くと、学生たちが、例えば就職活動などの場面でどういう言葉遣いをしているのか、教員としては気になってしまう。
 とはいえ、今年を締めくくるコラムがこんな締まらない話というのも情けない。取り留めもない言葉尻を捉えた雑文で、お目汚し「失礼しました」。



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