コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2018
コラム「ランダム・アクセス」
市民タイムス(松本市).
2018/01/20 福袋を求めて.
2018/05/21 村役場の旧庁舎.
2018/06/17 甦れ! 赤い不死鳥.
2018/01/20 福袋を求めて
客観的な気温などは確認していないのだが、年末までしばらく東京にいたこともあって、地元で過ごした今年の正月三が日は、結構寒い思いをした。三社参りも、福袋狙いの初売りも、下手をすると屋外での行列に1時間近く並ぶことになる。中には、待っている行列にホッカイロや菓子類などを配布してくれるところもあったが。決まった時間が来るまで店内には入れない。
福袋といえば、昔は、中に何が入っているのか、分からないものが多かったように思うのだが、最近の福袋はあらかじめ何が入っているのかがわかっているものの方が多いようだ。商店の初売りも、昔は2日からが一般的だったが、近年は大手の大型小売店が1日から営業するし、中にもフライング気味に12月末に福袋を出すところもあり、数日にわたって早起きし、家族で分担して行列に並んだという方も多かったのではないか。我が家も、家内と二人で元日と2日は早起きをして、5件ほどの福袋や福箱を購入した。
新聞記事のデータベースを検索すると、もともと明治時代の後半に現在の福袋の原型が生まれたということのようである。しかし、さらに遡ると、ルーツになったのは、江戸時代に毎年11月の「えびす講」の時期に呉服店が端切れや不良在庫などを大量に処分した「えびす袋」というものであり、その始まりは、「現金掛け値なし」という当時としては画期的な商法を導入した三井越後屋によるものだったらしい。
中身が公開されている福袋は、平成に入ってから増えてきたという説もあるが、はっきりしたことはわからない。中には、販売額相当の商品券にさらに何らかの商品が加わるというケースもあり、商品券に有効期限があったとしても、その店の常連さんなら飛びついたくなるようなものもある。ささやかなおまけや、踏ん切りがつかなかった商品をリーズアブルに入手できるといったところが福袋の魅力なのであろう。
ちなみにネット上では、期待はずれの福袋を揶揄する言葉がいろいろあるようで、「鬱袋」とか「ゴミ袋」をいう言い方もあるらしい。まあ、福引きのようなものだと思えば、「大当たり」ばかりでなく「末等賞」があっても当然だろう。福袋は、新年の運試しのお遊びだ。向きにもならず、過剰に反応する必要もないのではなかろうか。
2018/05/21 村役場の旧庁舎
先日の紙面で、朝日村役場の「閉庁式」の報に接した。実はここ十年ほどは朝日村へ足を運ぶことがなかったのだが、まだ駆け出しの研究者だった三十年あまり前には、農業政策のことやらケーブルテレビのことやらで、朝日村にしばしば通っていた。当時既に築五十年ほどだった村役場は、古びてはいたが、小規模ながら設計センスの良い、モダンな印象の建物で、手入れも行き届き、いかにも古いものを大切に使っているという感じであった。
都会育ちで農業には浅薄な知識しかない二十代の若造に、当時の経済課長さんをはじめ、役場の方々、また、農協関係者など地域の方々は、多くを教えてくださった。当時の朝日村の公共施設で、最も古かった役場と、その時点で最も新しかったAYT、そしてレタス畑が広がる村内のあちこちを行き来しながら、村の歴史と新しい技術について、浅学なりに、いろいろと思いを巡らせた。今は昔である。
公共建築は、その建設の時点で応分にお金をかけた立派な建物が多い。長く大切に使われた後には、しばしば保存の動きも出てくる。しかし、それが松本市の中心部のような市街地の中にある場合、現地での保存は容易ではない。市街地内の貴重な空間を有効利用しようとすれば、そのまま古い建物は残せない。松本市に残された貴重な近代建築である旧開智学校や旧長野地方裁判所松本支部庁舎は、解体の上で移転、再建され、今に伝えられたものである。
これに対し、朝日村役場と同様に、大正末から昭和初期に建てられた旧波田町役場や旧山形村役場など、松本の市街地から離れた周辺の公共施設の中には、現地で保存されている例がある(旧波田町役場は曳屋により短距離ながら位置が移されている)。ただし、保存はされていても、その後は十分に活用されておらず、外見の補修なども行き届いていない感があるのは残念なことだ。
戦前期から生き延びてきた、木造のしっかりした公共建築は、今後いよいよ文化財としての価値を増していく。しかし、単に古いものを保存するだけでなく、地域における社会教育の場、地域文化の象徴として、あるいは地域を訪れる観光客を引き寄せる観光資源として、積極的に活用する取り組みを上手に連動させなければ、次の世代に文化財としての価値を伝えることも難しい。こうした貴重な公共建築の保存と活用に向けて、地域の知恵が活かされることを願いたい。
2018/06/17 甦れ! 赤い不死鳥
私の母は、昭和三十年前後の日本大学経済学部に学んだ。当時、女学生はほとんどいなかったという。平成三年に縁があって私が日本大学文理学部に非常勤講師として出講することになった時には、母も喜んでくれたし、そのことが私も嬉しかった。その母も今は故人である。
結局、文理学部には十年間通い、その間には商学部でも一年授業をした。非常勤講師の控室を兼ねていた学科事務室で、同じ曜日に出講されていた様々な大学の先生方と交流した経験は、未熟な若手教員だった私にとって貴重な糧となった。
当時も今も、文理学部はアメリカンフットボール部、日大フェニックスの拠点である。私がまだ学生だった頃から、赤いユニフォームの日大フェニックスは、特徴的なショットガン・フォーメーションで関東では圧倒的な強さを誇り、甲子園ボウルで関西学院大学や京都大学と激突していた。この時期のチームを率いていたのは、文理学部の教授で、名将と謳われた篠竹幹夫監督だった。ところが、私が文理学部に通っていた間、日大は低迷期に入り、一度も甲子園ボウルに出場できなかった。
その日大を復活させたのが、今回の件で世間の耳目を集めた内田正人監督だった。母校の職員としてアメリカンフットボール部の指導に長く携わり、篠竹監督の後を受けて監督となると、低迷していたフェニックスを甲子園ボウルに四度導き、昨年ついに優勝を遂げた、叩き上げの監督である。
今回の危険な反則行為をめぐる一件は、ささやかながら縁があり、フェニックスに関心を寄せてきた者として、残念至極としか言いようがない。チームの名誉だけでなく、大学の世評にも決して小さくはない影響が及んでいる。この件の着地点は、まだまだ見えていないし、本当の復活への道は長く険しいものになるだろう。だが、私の中では、歓声の中で圧倒的な強さを見せつけるフェニックスをもう一度見たい、という否めない気持ちがある。改めて言うまでもなく、フェニックスというチームの愛称は、「不死鳥」のことだ。チームの復活を信じて待ちたい。
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