コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2013

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2013/03/26 垣間見た銃社会(上).
2013/03/27 垣間見た銃社会(下).
2013/05/29 数字の語呂合わせ健在.
2013/06/22 学生が来ない教室で.
2013/07/30 英国王の名.
2013/09/03 旧宗主国.
2013/11/27 一本のりんごの木から.


2013/03/26 

垣間見た銃社会(上)


 3月中旬、調査のために渡米する機会があり、10日あまりをニューヨーク市周辺で過ごした。もっともその中には、百数十キロ内陸に入った自然豊かな地域の小さな町にも出かけたので、東京をニューヨークに見立てれば、都心部だけでなく、山梨県と長野県の県境近くの町まで足を運んだという感じであった。
 滞在期間中、新しい法王の選出などと並んで、テレビで大きな話題になっていたのは、自動小銃などの殺傷力が高い銃器の規制が米上院で否決されたことだった。昨年末にコネチカット州で起きたサンディフック小学校銃乱射事件が契機となって提案された法案だったが、過去における銃規制の試みと同様に、今回も共和党の反対で銃規制法案は通らなかった。
 そもそも、合衆国憲法修正第2条は「人民が武器を保有しまた携帯する権利」の尊重を規定している。これは、1775年の独立宣言から14年後、1783年の独立戦争の終結から6年後、1787年の合衆国憲法制定から2年後にあたる1789年に制定され、1791年に施行された条項のひとつである。施行当時は、まだ西部開拓の初期段階で、ミシシッピ川より東側だけが合衆国の領土であり、ミシシッピ以東でもフロリダはスペイン領だった。日本では松平定信による「寛政の改革」の時代である。
 当時の社会状況を踏まえれば、憲法にこうした条項が必要であったことは十分に想像できる。「インディアン戦争」と総称される入植者と先住民の争いは、1890年ころまで継続していく。辺境の地では、狩猟による食料の調達も生きのびる手段であったろうし、身を守るためには自力で武装する必要があったのだろう。
 しかし、その後2世紀以上が経過して、社会情勢は大きく変わった。一方、銃器の進歩も目覚ましく、現代ではリボルバー式の拳銃ではなく、半自動拳銃が標準になっている。狩猟免許さえあれば、明らかに鹿撃ち用ではない、殺傷力の高い、連射式の自動小銃も購入できる。
 こうした状況の中で、しばしば銃乱射事件が起こり、多くの人命が失われてきた。2003年にアカデミー賞を受賞したマイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観れば、この間の事情はよく分かる。銃規制法案の否決後、オノ・ヨーコは、1980年にジョン・レノンが射殺されて以来、米国で銃によって死んだ人の数は105万7000人を超える、とツイッターに書き込んだ。(つづく)


2013/03/27 

垣間見た銃社会(下)


 米国での滞在中、たまたま同宿の男性と乗り合わせた連絡バスの中で、ちょっとした世間話になった。彼はもともとニュージャージー州に育ち、そこで長く警官をしていたという。今は、警官を退職してフロリダ州に移っているが、銃の取り扱いを指導する資格を持っていて、様々なところで、銃の取り扱いを含む安全指導をしているという。
 話の途中で、彼の携帯電話が鳴り、彼はしばらく電話で話し込んでいた。通話の後で聞いた話では、電話の主は男性教師で、10歳の自分の息子に銃の扱いを教えて欲しいと頼んできたのだそうだ。詳しい事情は分からなかったが、「自分が直接教えるわけにはいかないので、ネット上の情報の探し方を教えた」と説明してくれた。「それにしても10歳の子どもにねえ」と少々当惑気味にではあったが、「父親が軍隊経験者のようだから、何とかちゃんと教えられるだろう」という。
 淡々とした話し振りで、こちらも平静を装って聞いていたが、内心では強い戦慄を覚えていた。教師なら、銃のみならず武器類を学校に携帯させないという大原則は十二分に承知だろう。それでもなお、何か万一の時のために、銃の扱いを自分の子どもに教えておきたいと、その教師は父親として切実に考えたのだ。
 これまでも、ニューヨークの雑踏の中で、この中に銃所持者が何人いるのだろう、と想像したことはあったが、この話の後に、街中へ出かけたときには、改めて恐怖感が頭をよぎった。
 ネット上で検索すると、米国における銃器の購入方法については、英語のみならず日本語でも相当の情報がある。中にはご丁寧に、米国の市民権がない外国人居住者が合法的に銃を入手する方法や、その資格すらない旅行者が非合法的に銃を入手する方法まで、日本語で説明しているサイトもある。
 元警官氏の話を聞いて、もし、しばらく米国に住むとしたら、自分も武装するだろうか、としばし考え込んだ。どう考えても銃を扱いなれた相手と渡り合えるはずはない。さりとて、一方的に射殺されるのはごめんだという意識も涌いてくる。しかし、それでは北朝鮮の核武装の理屈と変わらない。
 そんな心配をしないで済む日本のありがたさを改めて思ったが、同時に、いろいろな社会の仕組みが米国式になろうとしている昨今、それがいつまで続くのだろうかと一抹の不安も覚えた。


2013/05/29 

数字の語呂合わせ健在

この文章は「3298」という題で入稿しましたが、編集部の判断で上記の題が付け直されました。
 以下は提出原稿によるものです。

3298

 ある日、家内を助手席に乗せて運転していたときのこと。たまたま、しばらく同じ車の後ろを走り続けていたのだが、家内が不意に「ちゃんとナンバーが3298だね」と言った。何のことだか分からなかったので、尋ねてみると、車種をよく見ろという。前を走る車は、英国車「ミニ」だった。
 現在はドイツのBMW社の子会社が英国で生産している「ミニ」は、1950年代にブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が開発した小型車で、以降、モデルチェンジを重ねながら、また、製造販売する会社も二転三転しながら、長く続いてきたブランドである。日本でも根強いファンが多い。
 この「ミニ」をもとに、クーパー・カーというコンストラクター(レース仕様の車体の製造会社)が作った車体が、1960年代にラリー競技で大成功を収め、以降、このレース仕様に準じるデザインの「ミニ」を「ミニ・クーパー」と称するようになった。20世紀後半における英国自動車産業の衰退の過程で、「ミニ」を製造する自動車会社は転々としたが、「ミニ・クーパー」のデザインと呼称は引き継がれた。しかし、最終的には2000年に製造が終了し、以降は、ブランド名としての「ミニ」がBMWに引き継がれ、新たな設計の「ミニ」が市場に供給されている。
 私たちの前を走っていた車は、かつての「ミニ・クーパー」ではなく、最近のBMW「ミニ」だったが、ナンバー・プレートは「ミニ・クーパー」の語呂合わせの「3298」になっていた。1999年に全面的に導入された希望番号制度によって、自分の付けたい番号を自動車登録番号にできるようになったことが、愛好家たちの間に、こうした番号の取得を広げているようだ。
 私の知人が希望番号制度によって手に入れたナンバーは「・178」であった。実はこのナンバー、全国に同好の人々がいる番号で、持ち主のサークルまであるのだが、中でも「松本」ナンバーには特別な意味があり、「松本××―・178」というナンバーは他地域の「・178」ナンバーの人たちから羨望の目で見られるのだという。なぜだかおわかりになるだろうか(答えは、「178 Number Car Owner's Club」で検索を)。
 携帯電話の普及前には、いろいろな電話番号を覚えておくために、語呂合わせを編み出していたものだが、今では電話機が勝手に電話番号を記録しているので、無理矢理の語呂合わせは必要なくなった。それでも、数字を言葉に置き換える語呂合わせは、日本語文化の一部として健在であるようだ。


2013/06/22 

学生が来ない教室で


 教員をはじめて28年目の今年度、非常勤講師を務めている某大学で、まったく初めての経験をしている。数年前から引き受けているこの大学での講義には、例年20名余りの履修登録がある。今年度も、例年同様の授業内容を予告し、準備をして、新年度を迎えたのだが、どういうわけか授業初回の出席者は、例年より格段と少ない数名だけであった。年度始めには、まだ学生の履修科目が確定していない。授業初回には講義内容の紹介をするのだが、まだ学生はこの科目を履修すると決まったわけではない。翌週、2回目の授業に行くと、50人ほど入る教室に、何と見事にひとりも出席者がいなかった。
 大学の授業は、事前に開講が予定されていても、履修希望者がいなければ開講されない。非常勤講師が担当する科目がこうした状態になると、事前の準備に要した労力相当としてひと月かふた月分の給金が支払われて、授業は不開講となる。これは、数年前に一度経験している。
 2回目の授業時間を、教室で待ちぼうけて過ごした後、事務局に出向いて履修登録者の有無を確認したところ、登録者が3名いるという。つまり、不開講にはならないわけだ。翌週、3回目の授業に出向くと、初めて来た学生ひとりが待っていた。その回は、初回と同じ内容を個人指導した。
 ところが、4回目以降は毎回、教室へ行っても学生は誰も来ない。既に前期の授業期間も半ばだが、このままだと平常点は全員0点だ。この大学は、通年で60点未満は不合格なので、このまま全員が期末試験も欠席すると、たとえ後期が満点でも50点にしかならないから、誰も単位はとれない。
 事務局の話では、たとえ単位が取れなくても、履修登録している学生には授業を受ける権利があり、前期試験を全員が欠席しても、授業は後期も成立するという。つまり、履修登録者がいる以上、毎週きちんと教室に行き、授業時間中は教室にいるか、連絡先を黒板に記して教員控え室にいてほしい、というのだ。以降、毎週、学生のいない教室に行き、無線LANでインターネットをしながら90分を過ごし、チャイムが鳴ってから教員控え室に立ち寄って、お茶をいただいてから帰る、というパターンが続いている。
 見方によっては、何も仕事をせず、ただそこにいるだけでお給金をいただけるのだから、実にありがたいことだ。しかし、学生が来ない教室で、ひたすら時間をつぶしながら待機する、というのはなかなか切ないものである。


2013/07/30 

英国王の名


 英国皇太子チャールズの長男ウィリアム王子夫妻に長男が誕生し、ジョージ・アレクサンダー・ルイと命名された。これで、チャールズ、ウィリアム、ジョージと直系長男の3代がそのままの順番で英王室の王位継承順位の上位を占めることとなった。
 以前から気になっているのだが、実はチャールズという名前、英国王としてはあまり縁起が良くない。現在の連合王国が成立する以前、歴代のイングランド国王にはチャールズがふたりいた。チャールズ1世は、17世紀はじめ、スコットランド王から、イングランドとスコットランド両国の王となってステュアート朝を開いたジャームズ1世の息子で、その跡を継いだが、清教徒革命で議会派に敗れ、英国史上唯一の斬首刑にされた王となった。その息子チャールズ2世は、王政復古に成功したが、その体制は永続きせず、没後に跡を継いだジェームズ2世の統治は名誉革命のために短命で終わった。
 現在の皇太子チャールズは前妃ダイアナとの間に、ウィリアムとヘンリーの2王子をもうけた。ウィリアムは歴代4人の王がいるが、1世は、11世紀に、現在のフランスのノルマンディ地方の支配者から、イングランドを武力で征服した「征服王」、2世はその子であった。17世紀の名誉革命によって妻メアリ2世とともにイングランドの共同統治者となったウィリアム3世は、オランダ貴族だった。1世と2世は自分をフランス語でギヨームだと思っていただろうし、3世はオランダ語でウィレムだと思っていたはずだ。自分でウィリアムだと思っていたのは、19世紀に7年間王位にあった4世だけであろう。ちなみに、ヘンリーの方は、中世以来8人の王がいたが、「6人の妻」で有名な16世紀のヘンリー8世を最後に、この名の王は出ていない。
 一方、ジョージは、英王室にとって正しく「王道」の名である。ジョージ1世は、18世紀にドイツ貴族からグレートブリテン王国の王となり、ハノーファー朝を開いた、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒであった。以降、現在のエリザベス2世女王の父、『英国王のスピーチ』のジョージ6世まで、英国が世界覇権を握った時代の記憶と結びつく諸王がこの名を名乗った。
 まだまだ遥かに先の話ではあるが、ジョージ王のために「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」を歌う夢を今から見ている英国人も、少なくないことだろう。


2013/09/03 

旧宗主国


 この原稿を書いている時点では、米国などによるシリアへの軍事攻撃は始まっていない。シリア内戦では日本人ジャーナリストも犠牲となっており、軍事衝突が一日も早く収まることを祈るばかりだが、残念ながら現実はそう進まないだろう。もし、ここで欧米が介入の姿勢を翻せば、内戦が泥沼化するだけだ。
 シリア情勢については、テレビや新聞でも解説されているが、今回のシリア危機においては、かつてのイラク戦争とは異なる、ほとんど言及がなされていないが注目すべき側面がある。それは、フランスの動向だ。
 フランスはイラク戦争の開戦に反対し、結局は米軍に協力したものの関与は消極的だった。一方の米国は、フランスを含む国々の同意を取り付けないまま英国などとの有志連合でイラクに介入した。しかし、有志連合とはいえ実戦部隊の圧倒的大部分は米軍で、英国がまとまった部隊を送ったものの、あとはオーストラリアやポーランドが形ばかりの加勢をしただけであった。もっとも、占領後の国家再建には日本の自衛隊を含む多くの国々が関わったために、このようなイラク戦争の印象は曖昧になっている。
 今回のシリア危機では、米国はフランスの協力を取り付けるために相当の配慮をしている。フランスのオランド大統領もいちはやく軍事介入を示唆する発言に踏み切った。なぜイラクと異なり、シリアについてはフランスの取り込みが必要だと米国は考えたのだろうか。
 少々乱暴かもしれないが、それはフランスが、現在のシリアの領域を植民地として支配していた、かつての宗主国であるからだ。20世紀の半ば以降、かつての欧米列強の植民地の多くが独立し、もはや世界に植民地はほとんど残っていない。しかし、独立後も、多くの旧植民地国家では、旧宗主国との経済、社会、文化面での結びつきが残り、形を変えた旧宗主国の影響下に置かれ続けている。
 かつての欧米列強諸国の間では、かつての他国の植民地に対して勝手な行動をとることには躊躇もあるのだろう。米国単独でも戦えたイラク戦争に、あえて英国の参戦を求めたのも、こうした文脈で理解される。そして、朝鮮半島をめぐる六か国協議に日本が加わっている背景にも、この旧宗主国という観点が色濃く関わっている。
 米国がフランスに仁義を切り、フランスを立てて開戦に踏み切るとすれば、その先にはどんな事態が待ち受けているのであろうか。


2013/11/27 

一本のりんごの木から


 安曇野では、りんごの収穫が最盛期を迎えている。週末のある日、小倉の近くで、ときどき抜け道に使っているりんご畑の中の農道を通った。ふだんは農家の軽トラックや、時期によっては、車体が愛らしい丸みを帯びたスピードスプレイヤー(果樹の消毒に使う自走式噴霧機)を見かける沿道のりんご畑に、乗用車が何台も乗り入れていた。どうやら、収穫にやって来たりんごの木のオーナーさんたちの車らしい。
 りんごの木のオーナーというと、都会の人たちという思い込みがあるかもしれないが、農地の一角に設けられている臨時の駐車場に乗り入れているのは、松本ナンバーの車が多い。年間を通じて、何度も畑に通い、りんごの実の成長を見守ってきたオーナーさんたちなのだろうか。
 自家用車だけでなく、バスでやってくるグループもあるようで、マイクロバスや大型の観光バスも、農道に入ってきていた。いつもなら農道にしては立派すぎる道幅に見えるところも、路上駐車の車が並ぶと、対向車とすれ違うのも少々窮屈になる。ふだんのりんご畑の田園風景とは、様変わりの混み具合だ。車両の誘導をしている人も出ているが、心なしか自信なさげの、戸惑い気味の誘導に見えた。
 一本数万円で特定の木の実りを受け取るりんごの木のオーナー制度は、農家から見れば安定した収入を確保できる、経営上の危険分散策のひとつである。しかし、もっと大切なのは、オーナー制度が、生産者と消費者に直接のふれあいをもたらし、顔の見える関係を作る、貴重な仕組みだということである。
 TPPの話を持ち出さずとも、これからの農業は、遅かれ早かれ、従来よりも厳しい自由競争にさらされることであろう。そのとき、低価格競争に踏み込めば、十分な収益を得られる魅力的な農業経営は実現することは難しい。産地単位でも、個々の農家にとっても、特色のある商品、高い付加価値の商品を開発し、提供していくことが、大きな課題となってくる。
 安曇野のみならず、信州の産地をひいきにしてもらえる県内外の消費者を増やす努力は、今後ますます重要になる。もちろん、個々の農家、生産法人にとっても同様だ。そうした中で、一本のりんごの木が、生産者と消費者を、人と人として結びつけるオーナー制度は、そこから学ぶべきことが数多くある、貴重な取り組みといえるだろう。



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