コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2011

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2011/01/27 後味の悪いニュース.
2011/03/01 「先生各位」?.
2011/06/15 安易に「災後」と言うなかれ.
2011/08/26 「おいでなさんし」の謎.
2011/10/05 「おいでなさんし」の謎、再考.
2011/12/18 眼下の風景.


2011/01/27 

後味の悪いニュース


 年末のある日、ある私立大学の学部長が研究費の不正受給で大学から告発された、というニュースを目にした。報道では名は伏せられていたが、容易に人物が特定できる情報が記されていたため、ネット上では実名でこの件に言及したブログや掲示板の書き込みがいくつもあった。問題の教授とは学会での面識があったので、少なからず驚かされた。
 報道によれば、大学側はこの教授が10年近くの間に2000万円ほどの研究費を不正受給していたとして詐欺罪で警察に告訴状を出したという。教授は不正の一部を認めながらも、金額はこんなに多くないと主張しているという。
 それにしても、年平均200万円以上の不正支給が10年近く続くとは、同業者としてはなかなか不思議である。理系ならいざ知らず、この教授は私と同じく文系の研究者である。国からまとまった補助金を受ける大型の科学研究費(科研費)に採択されない限り、年間の研究費総額が100万円を大きく超えること、それが何年も続くことは考えにくい。公開されている科研費のデータベースには、この教授が科研費を得た形跡はなかった。また、正当に支出した研究費もあったはずで、不正分だけで2000万円とは信じ難い数字だ。
 などと思っていたら、結局、大学が刑事告発したのは3年度分の481万円だけという報道が出ていた。年平均で160万円だが、それでも私が同じ3年間に受け取った研究費等の補助金の総額よりも、ずっと大きな数字だ。それだけ、この教授は研究者として高い評価を受けていたのだろうか。
 この件について、ある国立大学教員のブログは、国立大学の研究費管理の厳しさを紹介して私立大学の管理のずさんさを指摘していた。だが、同じ私立大学でも私の勤務校では研究費は当然きちんと管理されている。100円そこそこの立替払いの領収書もいちいち事務方とやりとりするし、出張すれば出張目的の学会などの参加証明が求められる。十把一絡げに、私立大学は「ずさん」で「おおらか」と揶揄されるのは残念だ。
 別のブログでは、普通は穏便に退職させて被害額を弁済させるものだ、というコメントもあった。確かに、大学はスキャンダルを嫌うことが多いので、そうした表に出ない事例もあるだろう。問題の大学は、昨夏、当時の学長が再選を目指した学長選挙を目前に、週刊誌のスキャンダル報道で退任し、その執行体制に批判的だった現学長が選挙に当選したという経緯があった。不正受給の槍玉に挙がった教授も、前学長の下で学部長を務めていたので、事が穏便には済まなかったのか。
 この先、この事件がどう展開するのかは分からないが、いずれにせよ後味の悪いニュースだった。


2011/03/01 

「先生各位」?


 期末試験を採点していたら、解答用紙の担当教員欄に「山田T」と書かれた答案があった。この書き方は、出席票などでも時おり見かけるのだが、何のことだかおわかりになるだろうか?
 もう20年くらい前に、この書き方を出席票で見かけたとき、当時の学生に何のことなのかとたずねた。すると、「T」は英語のティーチャー、つまり教師のことで、「先生」と書く代わりに「T」と記している、という答えが返ってきて、随分と困惑した覚えがある。
 いうまでもなく「先生」は敬称であって、「教師」や「教員」のように職業名でも、「教授」や「教諭」のように職位でもない。教師だけでなく医師や議員なども「先生」と呼ばれる。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳もあるが、ここで揶揄されているのは、教師だけではなく、世の中の偉そうにしている、あるいは周りから持ち上げられている、すべての職業のことであろう。
 「先生」は職業名ではないので、自分の職業を「先生」と答える人はいない。「先生」を英語に訳すなら、「教える人」つまり教師しか意味しないティーチャーではなく、ミスター、ミス、ミセス、ドクター、サー、マダムなどに訳し分けなければならない。
 本来、教員の名前だけを書けばよい欄に記入する際に、あえて敬称をつけたいのなら、略さずに「先生」と書くべきだろう。英文字一字を書いて済ますのでは、敬語のようで実はぞんざいな、ある種の接客表現のようなものだ。そこに敬意は感じられない。
 しかし、「先生」が教師と同義ではなく、敬称であるという意識は、いい大人でも忘れてしまうことがあるようだ。非常勤講師をしているある大学から先日もらった文書の中に、「先生各位」と記されているお知らせがあった。堅い内容の公的文書だったので、少々驚かされた。
 多数の相手に同文で送る文書に用いる「各位」は、それぞれ適切な敬称が異なる人々に宛てる「それぞれの地位に応じた敬称」という意味で、「各位」と書くだけで敬意は十分に表現される。また、「会員各位」とか「株主各位」のように書くのは、「会員」や「株主」の中には、「様」ばかりでなく、「殿下」「閣下」や「先生」など他の敬称で呼ぶべき方がいるかもしれませんが、まとめて敬意を表現します、という意味である。
 文書にあった「先生各位」は、「教員各位」とするのが正しい。さもなければ「教員の皆様」とでもすべきだろう。日本語では基本的に敬称は重ねない。つい「先生各位」と書いてしまった大学の職員も、「先生様」などと言ったり、書いたりはしていないだろう。多分。そう信じたい。


2011/06/15 

安易に「災後」と言うなかれ


 このところ、町を歩いていても、テレビを見ても、大震災直後の何でも自粛という雰囲気は薄らいできたようだ。梅雨を迎え気候が厳しくなる中、節電は盛んに取り組まれているし、原発の状況は依然として予断を許さない。それでも、春先の非常時という実感は、夏の到来とともに変質してしまったように思う。
 このところ、テレビやインターネットのブログなどで、「災後」という表現を見かける。ちょうど敗戦と同じように、大震災が社会の在り方を根本的に変える、という認識に立って、「戦前/戦後」と同様に「災前/災後」という区切りができる、あるいは、区切るべきだ、ということらしい。それだけ大震災は、私たちの社会にとって画期的な経験であったのだろう。
 しかし、最初に目にしたときからこの表現には違和感がある。最大の理由は、「災後」という字面が、既に「災い」が終わった「後」である、という認識を示唆するからである。
 今も、津波の被災地域では多くの人々が困難に直面している。生活の基盤、人生の蓄積をほとんど失った人々が不自由な生活を強いられ、老人の孤独死や自殺も出ている。原発関係の避難地域の人々は、目に見えない放射能に理不尽な生活の激変を強いられている。そして、原発の現場では下請け労働者たちが文字通り命賭けで作業をしている。そうした人々に向かって「災後」と言ってよいのだろうか。
 また、余震はまだまだ続いているし、梅雨から台風の季節を迎える中で、土砂災害の危険性は平年と同じではない。また降雨は、放射性物質の思わぬ集中や拡散にも影響してくる。さらに、海洋への放射性物質の放出が海産物へ与える影響は、むしろこれから様々な形で現れてくる。何より、大震災と同水準以上の大地震が人口密集地域で発生する可能性は、確実に高まりつつある。それらを思えば、今が「災後」ではなく、「災中」である、という覚悟が必要なことは明らかであろう。
 もし、あえて「災後」と言うなら、それは、時間の経過の上で災害の「後」ではなく、私たちの多くが現場に身を置いていない、前面に立っていない、という意味で、ちょうど「銃後」という言葉が表現していたのと同じ意味で「災後」と言うべきであろう。その意味での、「銃後」ならぬ「災後」を生きる私たちは、どのような「戦地」ならぬ「災地」に思いをいたすべきなのか、日常の中で考えていかなければならない。


2011/08/26 

「おいでなさんし」の謎


 NHKの朝の連続テレビ小説『おひさま』を、時々見ている。しかし、ストーリー上の「安曇野」や「松本」は、あくまでも架空の世界なので、現実を連想するといろいろ違和感を覚えることが多い。
 とりわけ気になっているのが、主人公の嫁いだ蕎麦屋「丸庵」で聞かれる「おいでなさんし」という挨拶である。私は他県出身なので、一九七〇年代末に松本を訪れる機会ができて以降、また、一九八六年に松本に住み始めて以来、松本平の方言には敏感に過ごして来た。しかし、『おひさま』以前にこの表現を耳にした記憶はない。そこで、地元の知人にいろいろ尋ねたのだが、誰もがこうは言わない、聞いたことがないと言う。
 インターネットで検索すると、「おいでなして」(北信、諏訪など)、「おいでなんし」(東信)、「おいでなんしょ」(伊那)などは具体的な説明が見つかる。また、こうした表現を耳にした自分自身の記憶もある。しかし、「おいでなさんし」については、はっきりした記述は見当たらない。
 さらに検索すると、『おひさま』の方言指導が北信出身の方なのでそちらの言葉ではないか、とか、九十歳を超えるご高齢の方の話では松本でも戦前は使っていたそうだ、といった話が出て来た。しかし、いずれの話も、推測を含み、今ひとつ根拠が弱く、この言葉がどこから来たのか、謎は深まるばかりである。
 本当はどうであったのか、つまり、戦前から戦後はじめの松本平で「おいでなさんし」が使われていたのかどうか、判定は難しそうだ。むしろ注目したいのは、この表現を肯定的に捉えるコメントがインターネット上に少なからず存在し、この言葉で歓迎されてみたいと考える来訪者がいて、受け入れる観光関連事業者の中にも、この言い回しを使ってはどうかと考えている向きもある、という状況だ。
 全国放送のテレビのようなマス・メディアは、方言を変質、衰退させる働きをしてきた。もし、今回のようにテレビ番組がきっかけで、長く忘れられていた、あるいは、元々存在しなかった方言の普及が進むようなことがあるとしたら、その善し悪しは別として、大いに注目すべき現象に相違ない。
 今のところ、実際に「おいでなさんし」と呼びかけられた経験はない。しかし、いつか不意にそう声をかけられるかもしれない、と思うと、知らない店のドアを開ける時にちょっと緊張したりもする。


2011/10/05 

「おいでなさんし」の謎、再考


 安曇野、松本を舞台にしたNHKの朝の連続テレビ小説『おひさま』が、放送を終えた。地元が取り上げられ、松本平での注目度は特に高かったかと思う。
 前回、8月26日付の本欄で、『おひさま』で聞かれる「おいでなさんし」という挨拶について触れたところ、市民タイムスにコメントを寄せられた方や、直接わが家にお電話頂いた方など、あわせて20件ほどの反響をいただいた。本欄への反響としては、最も多数の声をお寄せ頂いたことになる。まずは、ご愛読に感謝したい。
 お知らせ頂いた内容から、「おいでなさんし」が間違いなく、松本平で昭和初期に使われていたことがわかった。また、もっとちゃんと取材してコラムを書くように、というお叱りもいただいた。恐縮至極である。
 前回のコラムを書く際、安曇野市(旧穂高町)、松本市内、山形村の知人に「おいでなさんし」を使うかとたずねたときには、こうは言わない、聞いたことがない、という反応ばかりだったのだが、このとき質問した相手は最高齢でも60代半ばだった。コラムへの反響では、70代以上の年長の方々を中心に、この言い回しを使っていた、聞いた、というコメントを数多く頂戴した。
 中には、今でも地域によっては「おいでなさんし」を使うのではないかというご意見もあったが、多くの方々は、戦後は使わなくなったとコメントされていた。しかし、使わなくなった時期は、はっきりしなかった。一般的には使われなくなった後も、ご高齢の方々が使っているのを耳にした、自分は使わないが、祖父母が使っていた、といったコメントもあった。
 『おひさま』では、蕎麦屋に来る客を「おいでなさんし」と迎えていた。「おいでなさんし」は、「おいでなさいませ」や「いらっしゃいませ」に相当する丁寧な歓迎の挨拶なので、そのような場面で使われても不思議ではない。しかし、寄せられたコメントの中には、劇中のように食べ物屋や商店が客を迎える時には使わなかったはずだ、という意見が複数あった。この辺りは、その当否の判断が難しいところであるように思う。
 というわけで、「おいでなさんし」が、戦前や戦後間もない松本平で、実際に使われていた表現であることは確認できた。しかし、それがいつ頃まで使われていたのか、どういう経緯で使われなくなったのか、商店等で客に対して使ったのか、といった点は、まだ謎のまま残っている。


2011/12/18 

眼下の風景


 ある週末、土曜日に秋田市で研究会、翌日の日曜日に東京で研究会と予定が入っていた。直前の金曜日には東京で、明けた月曜日には朝から松本で授業である。強行軍で東京から秋田へ、秋田から東京へ、東京から松本へと移動しなければならない。北海道や九州ならともかく、東北地方への出張に飛行機を使うことは普段はない。しかし今回は、初めて秋田空港を利用し、羽田に向かう日曜日午前中の便に乗り込んだ。東北の空港を利用したのは初めてだった。
 前日夜は雨が降り、朝も空はどんより曇っていた。座席は左の窓側で、しかも主翼より前の眺望がよい席だった。せっかくいい席が当たったのに、離陸して上空に昇っても雲ばかりかなと思っていると、案の定、離陸時には地上からぐいぐいと離れていく様子を見て取ることができたものの、水平飛行に入るころには眼下は一面の雲の海であった。
 雲ばかり見ていても仕方ないので、しばらく視線を窓から逸らして雑誌を読んでいたのだが、ふと再び窓に目を向けると、眼下の雲が途切れはじめ、遠方には太平洋が見えている。雪は降らずとも、しっかり冬型の気象になっていたのである。海寄りの平地に滑走路が見え、近くに河口付近で蛇行する大きな川がある。どうやら、仙台空港や名取川河口部の西方上空にいるようだ。
 やがて飛行機はさらに南下し、雲はすっかり見えなくなって、眼下は起伏の多い地形のあちこちに道路や人家が見える中山間地域になってきた。福島県東部の上空である。福島第一原子力発電所が見えるか、と目を凝らして海岸線沿いを探すと、ごく小さくそれらしい施設が見えた。
 遠くを凝視し続けて少し疲れたので、眼下の手前に見える集落の光景にしばし目を転じる。こちらは、農家一軒一軒が、手に取るように見える。しばらく眺めていたのだが、ふと、かなりの広範囲にわたって、車など動くものがまったく見えないことに気づいた。ちょうど原発事故の避難区域なのだろうか、地域の主要道であるはずの大きめの道路にも、見える範囲に車の影はひとつも見つからない。
 程なくして、福島県上空を抜けて、茨城県上空に入ると遠方には犬吠埼が見え始めた。午前中なので南東方向にある太陽の日射しを反射して、霞ヶ浦や利根川の水面が美しく光っている。しかし、それ以上に、眼下の道路を車が走っているという当たり前の風景が、強く印象に刻まれた。



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