コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2010

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2010/01/29 凍結注意!.
2010/02/25 「みすずかる」は何を刈る?.
2010/03/08 それぞれの四半世紀.
2010/04/28 信州は何州へ?.
2010/05/25 要るけど要らない.
2010/07/08 同姓同名、同業者(ジャズ篇).
2010/08/31 県知事の賞味期限.
2010/11/17 見えなくなる山村の姿.
2010/12/27 卒論ゼミ生、それぞれの年末.


2010/01/29 

凍結注意!


 わが家の前の市道は五メートルほどの幅で、東西の方向に延びている。この辺りはまだ水田もそこそこ残っているが、道路沿いはそこそこ建て込んでいて、この市道沿いには家が並んでいる。
 先だって、ある晴れた日の夕方、近所で集まりがあり徒歩で出かけた。帰り道、日が暮れた後の夜道を目を凝らしながら自宅近くまで戻って来たところ、この市道の路上で、見事にすってんころりんと転倒してしまった。実のところ、ばたんと倒れた、と表現した方がよい倒れ方だった。両足が前に滑り、尻餅では済まず、肩甲骨の辺りを中心に背中をしたたか強打する羽目になった。
 この時期は、少しでも雪が降ると路面はすぐに凍結してしまう。それでも日中に日射しにさらされる部分は、きれいに乾いてくれるが、道路の南側に家があって塀や生垣があると、東西に延びる道路の南側の端は積もった雪が凍った氷の固まりになって、歩行者は歩きにくい状態になる。南側に少し背が高い家屋などがあると、道路幅いっぱいに氷が残ってしまうこともある。
 実は、行きがけに同じところを通ったときに、路面の一部が凍結していたことには気づいていた。帰り道にもそれを頭に入れて、道の北側の端を歩き、注意はしていたつもりだったのだが、東京から履いて来た滑りやすい堅い底の靴のまま、不用意に外出したのがまずかった。いつも近所を歩くときに履いているスニーカーだったら、まだ滑りにくかったかもしれない。
 たまたま、革ジャンの下にセーターと、周到に厚着をしていたので、それが衝撃を和らげたのと、とっさに首をすくめたので後頭部を打たなかったのが不幸中の幸いで、とりあえず今回は大事には至らなかった。しかし、車道の真ん中で大の字になってしまったわけで、もし折悪しく車が通りかかっていたら、などと考えるとぞっとする。万一、頭を打って脳しんとうでも起こしていれば、凍った夜道に横たわって起きられないという可能性もあった。かなりの危険と紙一重だったと思うべきなのだろう。
 日常の中の小さな危険は、本当に身近なところにいろいろ潜んでいる。些細なことに見えても、一つ間違えれば命に関わることもある。実際に、危うい目に遭い、痛い目も見て、改めて、文字通りこれを「痛感」した経験だった。
 この時期は、寒気の作用で、身近な危険が他の季節よりも多くなっている。凍結ばかりでなく、例えば、室内外の温度の寒暖差が健康に負荷を与えることも注意しなければならない。読者の皆様にも、既にしているはずの注意に、もう一段の注意を重ね、身近にある小さな危険を上手に回避して、冬場を乗り切って頂きたいと思う。


2010/02/25 

「みすずかる」は何を刈る?


 枕詞(まくらことば)という和歌の約束事をよく理解していない方でも、「みすずかる信濃の国」という言い回しは、どこかで目や耳にしたことがあるかと思う。古文の授業なら「みすずかる」は「信濃」にかかる枕詞で、その歌を解釈するときには意味を考えなくてよい、と教わる。だが、「みすずかる」の本来の意味は何だろうか。
 お手元の国語辞典などでも確認して頂きたいが、「みすずかる」の「かる」は「苅る」つまり「刈る」であり、信濃は「みすず」という植物を刈る国、というイメージが大昔はあったということだ。
 この「みすず」は「御篶・水篶」であり、クマザサと総称される笹の一種であるスズタケのこととされている。スズタケは漢字では「篠竹」と書くが、「ささたけ」「しのだけ」と読むと意味が変わるので少々厄介だ。
 「みすず」が指し示す植物が何かには異説もあるが、「篶」の部首は竹冠であり、笹の一種を指すことに間違いはない。山野に笹が生い茂るイメージが、昔から信州にはあったということだろうか。
 実は、枕詞「みすずかる」には、これだけでは済まない少々厄介な背景がある。八世紀に成立した『万葉集』で「信濃」という言葉が出てくる久米禅師と石川郎女の贈答歌(第二巻)の冒頭は、いずれも原文では「水薦苅信濃乃真弓」と記されている。これを素直に見れば、「みすずかる」ではなく、「みこもかる信濃の真弓」と読めるのである。
 「みこも(水薦)」は、水辺で見られるイネ科の多年草マコモのことで、日本のどこにでもある植物だ。してみると、なぜ特に信濃でそれを刈るイメージがあったのか、少々不可解ではある。
 それもあってか、近世に『万葉集』などが普及していく過程で、「みこもかる」の「薦」を「篶」の誤字とする見方が生まれ、「水篶苅」すなわち「みすずかる」と読むべきとする説が有力となった。江戸時代の国学者・賀茂真淵などもこれを支持し、「信濃」にかかる枕詞は「みすずかる」が定着したのである。
 今日では、『万葉集』の「水薦苅」は「みこもかる」であり、「みすずかる」は誤解から生じて広まった表現とする説が強く、国語辞典でもその旨の記述がなされている。
 ところが、インターネット上のサイトなどには、「みすずかる」のことを『万葉集』以来の表現のように記述しているものが散見される。また、「みこも」と「みすず」を混同して、「みすず」を「水辺に生える多年草」と説明したり、「みすずかる」の説明として「みこもかる」の意味を記している例もある。
 「みすず」は美称として「美篶」となり、さらに「美須々」や「美鈴」にも音写されて地名などに用いられて今に至っている。また、今さら「みすずかる」を間違った日本語だと考えるのは暴論だ。しかし、信濃の国に縁のある者としては、この枕詞の来歴について、もう少し踏み込んだ理解が、もう少し広く共有されてほしいという思いがする。


2010/03/08 

それぞれの四半世紀


 自宅で古い文書の整理に手をつけ、不要書類を燃していたとき、二十四年前の選挙のビラが出てきた。二十四年前、一九八六年七月六日には、衆議院と参議院の選挙が重なる、いわゆる「同日選挙」があった。時の首相は中曽根康弘。この選挙で自民党は、衆議院三百議席と大勝した。
 紙束から出てきたビラを読むまで、県選出の参議院議員である北澤俊美防衛大臣と、衆議院議員を長く務めた村井仁長野県知事が、いずれもこの同日選で国政初出馬だったとは知らなかった。父が県議会議長も務めた北澤氏は、県議会議員を三期務め、この参院選に自民党公認候補として臨んだ。一方、通産官僚出身の村井氏は、建設官僚出身で前年に急逝した塩島大の後継者として、当時の衆議院長野県第四区から、やはり自民党公認で出馬した。
 この時、村井氏四十九歳、北澤氏四十八歳。北澤氏のビラ(『自由新報』号外)では、肖像写真に「若さ、行動力、思いやり」と記され「Fresh Power」のロゴが見える。村井氏のビラ(『村井仁後援会だより』)には「若さ、誠実、実行力」と文字が題字下に大書され、「確かな政治リレーを…」と故塩島代議士の後継が強調されている。いずれも、国政での実績がない新人候補が、県政や官界での実績を踏まえて、若さと行動力をアピールするという内容だ。
 村井氏は、中選挙区で唐沢俊次郎に次ぐ得票を得て初当選を果たした。北澤氏は、この同日選では次点に留まり、その後県議会に復帰。参院選に再挑戦した一九九二年に初当選した。両氏とも、当時の自民党で有力者だった羽田孜との結びつきが強く、一九九三年以降の政界再編の激流に翻弄される。
 村井氏は、羽田孜が自民党を離党して結成した新生党に参加、その後の再編で新進党所属となったが、野党では地元の声が国政に届かないという後援会の声を受けて一九九七年に自民党に復党し、二〇〇一年には小泉内閣の国家公安委員長・防災担当大臣で初入閣した。一方、北澤氏は、新生党→新進党→太陽党→民政党→民主党と一貫して羽田に従い、昨年、鳩山内閣の防衛大臣で初入閣した。どちらも、政界再編がなければもっと早く大臣になっていただろう。
 村井氏は二〇〇五年の郵政選挙の際に、民営化には賛成ながら、法案の内容には賛成できないとし立候補を断念、引退した。しかし、翌年の県知事選に担ぎ出されて田中前知事を破って当選、今年、最初の改選を迎える。四年前とは様変わりの情勢の中で、県知事選はどうなるのだろうか。
 北澤氏も今年で三回目の任期満了を迎える。もし再び当選すれば、次の改選時は七十八歳、おそらく今回が最後の選挙になるだろう。
 改めて村井氏と北澤氏の四半世紀を振り返ると、それぞれの現在の公職が、運命のいたずらで入れ替わったのではないか、などと妄想が膨らむ。ともに七十代に入り、政治家として総決算の時期を迎えつつある両氏は、難題を抱える防衛大臣、県知事として、それぞれどのような業績を残していくのだろうか。

 用字用語の観点から整理段階で文章に手が入ったようで、実際に紙面に掲載されたものと、提出原稿では食い違いがあります。上記は提出原稿によるものです。
 掲載されたものでは、漢数字は算用数字に置き換えられました。


2010/04/28 

信州は何州へ?


 二〇〇六年、道州制特区推進法が公布されて、将来の「道州制」を見据えた諸施策の試行が北海道で始った。以来、「道州制」は様々な議論を呼んできた。推進派は、都府県より大きい広域行政単位のメリットを説くが、各地の知事には慎重な意見も多い。また、具体的な線引きなど踏み込んだ話となると、地域の利害が絡んで甲論乙駁となり、議論は一向に深まらない。インターネットには「道州制をどう修正?」と、議論の混沌を駄洒落で揶揄するコメントが広まっている。
 もっとも、昨年の政権交代後は、難問山積という国政の状況もあるのか、道州制自体がメディアの注目を集めることは少ない。全国的に注目されている橋下徹・大阪府知事は、かねてから「関西州」を見据えた発言を繰り返し、メディアにも取り上げられてきたが、ごく最近は「大阪都」構想の方が注目を集めている。
 主観的な印象でしかないが、これまで長野県では、踏み込んだ道州制の議論は、あまりなされてこなかったように思う。その背景には、道州制は州都への一極集中を招き、基盤の弱い地域の一層の弱体化を引き起こす、という考え方があるようだ。各地の県知事の慎重な発言も、こうした発想を踏まえている。一定の経済基盤をもつ長野県は、どこかの州の周縁に慌てて組み込まれる必要はない。国からの権限委譲の促進を目指す北海道や、関西州の州都として飛躍を目指す大阪と、長野県では、立場が違う。
 しかし、暴論を承知の上で少し見方を変えれば、どこと束ねられるのであれ、州都への機能集中で困るのは現在の県都だけだ、という議論もできる。松本平から見ても、長野市は東京や名古屋よりも近い。しかし、県の権限が基礎自治体の市町村レベルに相当程度降ろされ、地元と東京なり名古屋なりへの出張で様々な用が足りるなら、それはそれで悪い話ではない。本来、道州制をめぐる利害は、県単位で一枚岩という訳ではない。県庁まかせ、県都まかせではない、地域の視点からの独自の道州制論は、各地に多様な形で成立するはずだ。
 既に示されている道州制の様々な具体的提案の中で、長野県はかなり恣意的に、あるいは北関東と、あるいは北陸や、東海と束ねられており、今後どういう方向に進むのか、皆目見当がつかない状況にある。いずれの場合も、長野県は州の周縁でしかない。中には、道州制の導入に際して長野県を二つないし三つに分割すべしとする論もあり、村井知事も「長野県がばらばらになってもおかしくはない」という主旨の発言を以前からしている。こうした危うい状況の中で、道州制をめぐる議論の下駄を、中央や、州都候補地や、県都に預けたままでいて、よいのだろうか。



2010/05/25 

要るけど要らない


 五月末が近い。普天間基地の移設問題は、どう展開するのであれこの夏の参議院選挙に少なからぬ影響を及ぼすことになろう。
 日本の安全保障にとって、米軍基地の存在は不可欠だ、としばしば主張される。また、日米安保体制を公然と否定する政党は、国会ではごく少数だ。日本国民の多数は、日本のどこかに米軍基地が存在することが必要だと判断している。もちろん、その中には、望ましくはないが止むを得ない、と考えている人も多いことだろう。
 しかし、現に米軍基地がある地域で、基地の拡大を積極的に歓迎するところはない。また、進んで新たに基地を誘致する地域が現われる気配もまったくない。日本のどこかに必要なものであっても、「わが地域には要らない」、「もし地元にやって来るなら断固反対」というのが、大方の日本人にとっての米軍基地である。
 新たな立地に、地域が強く抵抗する施設のことを、「迷惑施設」とか「NIMBY施設」という。「NIMBY(ニンビー)」は、英語で「ノット・イン・マイ・バックヤード(ウチの裏庭ではダメ)」という語句の頭文字をとった表現だ。基地や演習場などの軍事施設のほか、原子力発電所、廃棄物処理施設などが典型とされ、さらに火葬場や墓地、空港、あるいは病院や大学も、事故などの危険性や、日常的な異臭や騒音などを理由に、「ウチの近所には来るな」と嫌われることになる。
 現に、そうした施設を引き受けている(引き受けざるを得なくなっている)地域から見れば、「NIMBY」の主張はワガママな地域エゴに過ぎない。しかし、ワガママを言う側は、自分たちの当然の環境、あるがままの郷土を護りたいだけであり、自らの「NIMBY」意識に絶対の正義があると信じている。その間には、政治的な妥協の落としどころはない。常に、誰かが被害者になる。
 長野県は、米軍施設も、原発関連施設も、設けられる可能性が極めて低く、私たちは自分たちの「NIMBY」意識に正面から向き合う事態ことはまずない。そうであればこそ、私たちは想像力を働かせる必要がある。
 合理的なシナリオではないので、そのようなことは起こり得ないが、例えば、国が、民間機の運用の空隙を用いた戦闘機の離発着訓練の場を松本空港に求めたら、私たちはどう対応するのだろう。日米合同訓練の一環で自衛隊駐屯地などに米軍のヘリコプターが飛来することになったら、どうだろう。そのとき私たちは、防衛大臣や総理大臣の言葉を冷静に、理性的に聞けるだろうか。そして、米軍にどこへ行けと言えるのだろうか。
 そうした想像力なしに紡ぎ出される言葉が、メディアにも街中にも溢れている。自らの「NIMBY」意識を直視し、安全保障問題の厄介さを真摯に考える責任は、大臣たちなどごく一部の人々だけのものではないはずだ。



2010/07/08 

同姓同名、同業者(ジャズ篇)


 執筆中の原稿で、ある人物に言及した。最初は、単純に名前を記したのだが、推敲するうちに、もしかすると同姓同名の別人と勘違いされるかもしれないと気になり始め、しばし頭を抱えた。
 世の中には同姓同名の別人はよくいる。私も、神奈川県の某社の社長さんと同姓同名であるし、ネットで検索するとさらに何人も私ではない「山田晴通」さんが見つかる。まったく別分野で活躍している人なら、同姓同名を混同することはまずない。しかし、同分野や、微妙に関連する分野に同姓同名の人がいると、時として誤解を招くこともある。
 例えば、ドラマーの「中村達也」といえば、そこそこ知られた方が二人いる。一人はジャズドラマーとして日米で活躍し、アフリカの打楽器の演奏でも知られる「中村達也」氏。もう一人は、ブランキー・ジェット・シティというロック・グループの元メンバーで、前衛的なジャズ奏者たちとのセッションもおこなっている「中村達也」氏である。
 この二人を区別するときは、後者に言及するだけなら「元ブランキーの」でよいが、前者については「元ブランキーではない方の」と説明するわけにもいかないので、「ジャズドラマーの」とでもすべきなのだろう。しかし、近年では後者もジャズの文脈での活動実績があるので、事情を知らない人にわかりやすい説明ではない。生年で区別して、前者を「一九四五年生まれの」、後者を「一九六五年生まれの」とでもすべきなのだろうか。
 執筆中の原稿で困ったのは、ある資料に「ジャズ評論家」と紹介されていた「鈴木道子」さんである。この方は、『スイングジャーナル』誌などで活躍し、ラジオ番組の制作にも長く携わったベテラン音楽評論家だが、ジャズ・シンガーの「鈴木道子」さんと混同されることがある。評論家と歌手というのは、実はさほど職業上の距離があるわけではない。悠雅彦氏のように、歌手出身の評論家もジャズの世界にはいる。結局、原稿には、二人は別人ということを注記で追記した。
 ちなみに、世界的に有名なジャズ・ミュージシャンには「ビル・エヴァンス」が二人いる。一人は、一九五〇年代末のマイルス・デイヴィスとの共演などでジャズの歴史に名を残し、一九八〇年に没した名ピアニスト。もう一人は、一九八〇年代にマイルス・デイヴィスのグループで注目され、その後、フュージョンの分野を中心に活躍しているサックス奏者である。松本のジャズ喫茶「エオンタ」の壁面にサインを残したのは後者ではなく、晩年の前者である。

 用字用語の観点から整理段階で文章に手が入ったようで、実際に紙面に掲載されたものと、提出原稿では食い違いがあります。上記は提出原稿によるものです。
 掲載されたものでは、漢数字は算用数字に、「サックス奏者」は「サクソホン奏者」に置き換えられました。



2010/08/31 

県知事の賞味期限


 阿部守一次期県知事は、一九六〇年生十二月生まれの四十九歳。今回の選挙の立候補者で最も若かった。選挙で選ばれるようになった戦後の長野県知事の中でも、四十四歳で当選した林虎雄と田中康夫に次ぐ若い知事ということになる。
 戦後の地方自治制度改革で公選制になって以降、長野県知事は、林虎雄が三期十二年、西沢権一郎が六期二十一年(最後は任期途中で辞任)、吉村午郎が五期二十年を務め、長期安定政権が続いた。ところが、二〇〇〇年の田中康夫知事の登場で状況は大きく変わった。田中知事は一期目途中で県議会の不信任決議によって失職しており、二期務めたといっても在任期間は六年足らずであった。
 その田中知事を破った村井仁現知事は、就任時六十九歳。初当選就任時の年齢では、歴代長野県知事の最高齢であった。ただし、今月末で退任する時点での七十三歳は、七十四歳まで務めた吉村知事には及ばない。
 この間、国政は、四年半の長期政権を守った小泉純一郎の後、毎年のように首相が交代する時代に入った。その背景には衆参の「ねじれ」現象や、党派の再編など、国会の新しい状況がある。
 県知事の任期は四年で、国政のようにトップが毎年変わることはない。しかし、知事と県議会が対立すれば、田中県政の一期目の再現も起こり得る。
 国会の「ねじれ」現象にしろ、知事と県議会の緊張関係にしろ、適切な牽制の積み重ねの中で、より適切な政策決定が模索されるという意味では、決して悪いことではない。かつての自民党長期安定政権下において、しばしば参院不要論が主張されたことを思えば、「ねじれ」で国会が活性化することは、憲政の本旨に沿った歓迎すべき事態である。
 県議会にしても、田中知事の登場で、県民が注ぐ眼差しには質量とも大きな変化があった。一部には、村井県政下ですべてが元に戻ったと見る向きもあるが、それは安易な見方であろう。田中知事の時代ほどではないとしても、阿部新知事との対峙の中で、県議会には再び注目が集まることだろう。田中県政下とはまた異なる対立軸の中で、政策論が深化することを、この際、期待しておく。
 このまま長野県知事も短期政権が続くようになるのか、それとも現職が当選を重ねる安定した県政が復活するのか、県知事の賞味期限は、まだどこにも表示されていないし、まだ誰もその期日を知らない。まずは若き新知事の一期目の取り組みを注目したい。

 上記は提出原稿によるものです。



2010/11/17 

見えなくなる山村の姿


 せんだって、信州大学で開催された経済地理学会の地域大会に参加した。シンポジウム「今日の山村問題と経済地理学の課題」では、日本の山村が直面する現状について様々な報告があった。いろいろ勉強になり、認識を新たにしたことも多かったが、特に気になったのは、何人もの報告者が、平成の大合併の影響に言及していたことだった。
 財政面の特例措置を追い風に、この10年ほど盛んに推進された平成の大合併には、いくつかの狙いがあった。基礎自治体の規模を引き上げ、財政基盤を充実させることは重要な目的であったし、過度に細分化された業務を合理化する行政改革の効果も期待されていた。
 他方では、合併によって小さな町村が消えと、身近な存在だった役場が地域から遠い存在になってしまう、という危惧が合併論が盛んだった頃からよく聞かれた。合併後の自治体は、こうした声に応えて、支所機能の充実に取り組んでいることが多い。しかし、大合併の影響は、こうした住民サービスの問題に留まるものではなかった。
 シンポジウムで、まず指摘されたのは、統計の連続性という問題だ。独立した基礎自治体として各種の統計の数値が得られていた山村が合併によって消滅すると、従来なら統計の数値で捉えられた山村の姿も消えてしまう。村単位の統計によって長期的に把握されてきた山村の状況が、合併によって平場の数値と合算されてしまえば、実態は見えなくなる。統計上は山村が消えても、山村の現実が雲散霧消し、問題が解決するわけではない。実態が分かりにくくなることは、研究者に不都合なだけでなく、当事者である山村に住む人々にとっても決してよいことではない。
 さらに深刻なのは、村役場や村議会がなくなることで、地域のリーダー層が細っていくという問題である。小なりとはいえ独立した自治体だった頃には、山村にも、単に地域のリーダーというだけでなく、公的な裏付けのある首長なり、町村議員という立場の人々がいて、様々な役割を担っていた。しかし、合併後、自治体議会に1人か2人の議員を送るのが精々で、悪くするとそれも叶わないという状況になると、地域内のリーダー層を再生産することが困難になっていく。議員とは別の形で、地区代表の声を行政に反映させる工夫も各地で模索されているが、それが、山村の地域社会の中でどのように定着し、機能するかは、まだ判断が難しい。ここでも、山村の姿が外に伝わりにくくなるおそれがある。
 松本市は、平成になって以降、4村1町を合併してきたが、このうち安曇村、奈川村は、山村としての性格が強い地域だった。合併は山村地域をどう変えてきたのか、どう変えていくのか。それは、山村地域の住民の、また、市民全体の意向に添ったものなのか。問い続けられるべきことは、いろいろあるように思う。



2010/12/27 

卒論ゼミ生、それぞれの年末


 日本の大学は、後期末の定期試験を、だいたい1月下旬から2月上旬に行う。しかし、卒業論文は、教員が読んで審査する期間や、時として書き直しの追加指導のために時間が必要になるため、かなり早い時期に提出が締め切られる場合が多い。
 東京経済大学の中でも、経済学部などでは卒業論文は必修ではない。しかし、私が所属するコミュニケーション学部では、卒業論文か卒業制作が必修になっており、締切は、例年12月上旬である。
 本来、卒業論文は、ゼミで報告を重ねて、徐々に作っていくものだが、残念ながら昨今ではそのような書き方ができる学生は多くない。締切日に一応の形式基準を満たした論文を出しても、実質的には追加の作業が必要になるのが普通だ。また、普段のゼミにはあまり顔を出さないまま、いきなり論文を提出する者も現れる。
 そこで仕方なく、クリスマス後の年内や、正月の三が日明けにも、学生を研究室に呼び出し追加指導をすることになる。学生が真剣になることは、指導教員として率直にうれしいが、同時に、どうして数ヶ月前にそのやる気が出せなかったのかと、ため息も出る。
 この時期にはまた、卒論の提出を断念し、留年や退学を覚悟した卒論ゼミ生が、ぽつぽつ相談にくることもある。大学の授業料は私立文系で年間100万円前後、安易に留年などはできないはずだ。しかし、授業料を親が払っているためか、学生はついつい安易な方に流れ、大学から足が遠のくことがある。やがて単位取得が危うくなっても、状況の打開のために動くよりは、親に事実を隠して問題を先送りにし、取り返しがつかない事態に陥る、というパターンが跡を絶たない。
 せめて、通年科目である卒業論文の単位取得が困難になった前期までで休学手続きをとっていれば、後期の授業料を無駄にしなかったのに、などと思っても後の祭りで、学期途中で退学しても授業料は返還されない。中には、ほかの単位はすべて取得しているのに、卒論だけのために留年する者もいる。
 壁に当たり、悩み、やがて教員に相談しにくる学生は、実はまだマシな方である。中には、途中からゼミに全く出てこなくなり、卒業論文も出さず、こちらから連絡しても何の応答もない、いわば逃亡者もいるからである。
 とはいえ、相談にくる卒論ゼミ生は、休学と退学の区別もつかず、制度を理解していないことが多い。大学入学以来、様々な機会に説明されてきたはずの基本的ルールも、必要に迫られなければ学生の耳には届かない。退学を急がず、休学も選択肢に入れて、家族とよく話し合うよう諭しながら、こちらも無力感にいたたまれない気持ちになる。



このページのはじめにもどる
2009年の「ランダム・アクセス」へいく//2011年の「ランダム・アクセス」へいく
テキスト公開にもどる

連載コラムにもどる
業績外(学会誌以外に寄稿されたもの)にもどる
業績一覧(ページトップ)にもどる

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく