雑誌論文(その他):1994a:
地理学徒として社会学にむきあう、あるいは、空間理論研究の夢想.
松商短大論叢(松商学園短期大学),42,pp143〜170.
ページへの掲出にあたって、必要なコメントを[青字]で補いました。
地理学徒として社会学にむきあう、あるいは、空間理論研究の夢想
目 次
「はじめに」の前に
◆
要旨・キーワード
I はじめに:本稿の成り立ちについて
II 「報告要旨」
III 大会報告内容
1.報告の課題
2.ニュー・アーバン・ソシオロジーの位置
3.わが国における水岡『経済地理学』の受容
4.経済地理学会の危機
5.空転する空間編成論への期待
6.危機の所在
注・文献
◆
追加された注
「はじめに」の前に
本稿は、1993年5月29日〜30日に明治大学・駿河台校舎で開催された経済地理学会第40回大会シンポジウム「空間と社会」における筆者の発表内容をもとにしている。このシンポジウムは、経済地理学の外側において様々な形で「空間と社会」が重要な論題として取り上げられてきている状況を踏まえ、隣接分野の研究者(非学会員)のゲスト・スピーカーによる報告と、オルガナイザーから指名された経済地理学会会員による報告とを交互に重ねるという、ユニークな形式をとるものであった。筆者は、シンポジウム2日目に、町内会組織の研究やニュー・アーバン・ソシオロジーの紹介で名高い都市社会学者・吉原直樹氏の発表を受ける形で、報告を行った。このシンポジウムについては、経済地理学会の機関誌である『経済地理学年報』(以下、『年報』)の関係号を参照されたい。
本稿は、当初、『年報』の大会特集号に「大会報告論文」として掲載されるべきものとして執筆された。従来から、(非会員のゲスト・スピーカーは別として)大会シンポジウムで報告を行った者は、『年報』に「大会報告論文」を寄せるのが当然視されており、筆者も『年報』編集委員会からの執筆の督促を受けていたからである。しかし、本稿の投稿後、『年報』編集委員会は、このままでは掲載に不適であるとして、表現の全面的な書き直しを筆者に求めてきた。『年報』側が書き直しを求めた項目には様々なものがあったが、(建前上のことかもしれないが)最大の問題とされたのは、内容に関することがらではなく、「です」「ます」で貫かれた本稿第III章の表現であった。『年報』執筆要領には、<文章は特に必要な場合を除き,常用漢字・新かなづかい・新送り仮名(例,行う)を用い、「……である.……だ.」調で書く.>とあり、本稿はこれに照らして不適切だというのである。また、こうした文体の書換えに合わせて、「先生」など敬称の省略や、「論文調になじまない」とされる部分の削除も求められた。
筆者としては、現行の大会シンポジウムの運営の仕方や、『年報』特集号の大会報告論文のあり方なども含めて、経済地理学会の現状を相対化していく必要がある、と考える立場から、文体の書換えには応じられないこと、また、書き換えなかったことにより執筆要領不適格として『年報』への掲載が不可能となったとしても致し方ないこと、そして、『年報』に掲載不能の場合には、執筆者の当然の権利として、本稿を別の媒体に発表する用意のあることを『年報』編集委員会に伝えた。結局、双方の話し合いの結果、筆者は『年報』への本稿の投稿を撤回し、特集号には編集委員会の文責で「大会報告記事」が掲載される(ただし、原稿作成に際しては筆者の投稿内容を自由に参照できる)こととなった。本稿はこうした経過を踏まえ、筆者の意に反して撤回を余儀なくされた投稿原稿を、そのままの形で発表しようとするものである。
以下、「要旨」から「文献」に至る部分は、『年報』への投稿原稿に、明らかな誤記の訂正など最低限の修正だけを加えたものである。したがって、この部分は『年報』の執筆要領に準拠しており、文献の表示法などは、筆者がふだんの論文で採用している方法と異なっている。ただし、アスタリスク(*)で表記された「追加された注」は、『松商短大論叢』への掲載にあたって追加したものである。
なお、このシンポジウムの他の大会報告論文等を特集した『年報』は近く公刊されるはずである。こうした変則的な形態で愚考を公刊することは甚だ不本意ではあるが、読者諸賢にはご容赦を頂き、本稿と併せて『年報』特集号をご覧頂くようお願いしたい。
[テキスト公開に際しての注:ここで言及しているのは、『経済地理学年報』40-4 である。]
要旨
「空間と社会」について、与えられた課題にしたがって経済地理学会の会員の立場から次の三点について発言する。まず第一に、吉原直樹の報告に関連して、わが国の都市社会学の中でニュー・アーバン・ソシオロジーが占める位置について、その周縁性を指摘する。第二に、そうした都市社会学の新しい動きに接合し得る経済地理学会内部の成果として、水岡不二雄『経済地理学』を取り上げ、その受容が進んでいない学会の現状を検討する。第三に、「空間と社会」という趣旨に沿って、今後に期待される経済地理学の内側からの展開として、理論への傾斜ではなく、フィールドワークへの回帰こそが重要であることを主張する。
キーワード:空間編成論、経済地理学会、都市社会学、ニュー・アーバン・ソシオロジー、フィールドワーク、マルクス主義
I はじめに:本稿の成り立ちについて
経済地理学会の場合、大会報告(共通論題シンポジウム)は論文としてまとめられることになっている。通常、大会報告そのものと「大会報告論文」は、文体において全く異質なものである。時には、文体のみならず、内容についても両者の間に微妙なズレが生じている場合もあるようだ。しかし、「大会報告論文」は、匿名査読者を通すわけではなく、編集委員会内部でチェックするだけのものであって、通常の「論説」や「研究ノート」のような、形式的にも内容的にもガチガチの学術論文である必然性はもとよりない。この点をまず確認しよう*1。
ところで、「大会報告論文」は何のために掲載されるのであろうか。まず考えられるのは、大会での議論を記録するため、という理由である。しかし、事後的に自在に加除修正され、換骨奪胎されて仕立て上げられた、文体の差異のみならず内容的なズレも抱え込んだ「論文」を並べても、記録としては意義が薄いのではないだろうか。むしろ、講演をそのまま文字にする方が、正当であるような気もする。
あるいは、別の理由として、大会での議論を基礎に、より高度の論説を展開するため、という説明も考えられる。だとすれば、最終的に活字となる「大会報告論文」の段階の前に、報告者各自が展開させる議論の方向を予め調整しておかないと、議論は噛み合わなかったり、守備範囲が重複したり、逆に穴ができたり、あるいは、大会では出なかったような議論(反論の機会が奪われた議論)が紙面に頻出することにもなりかねない。原稿が出てきた上で調整することも可能ではあろうが、効率よい適切な方法だとは思われない。少なくとも今回の大会では、事前の調整が相当念入りに行われた(オルガナイザーの要請によって報告内容がコントロールされた*2)にもかかわらず、大会後に、「大会報告論文」のために調整が行われるといったことはいっさいなかった。
以上のような認識から、ここでは、記録として残すことを「大会報告論文」の意義とする立場をとり、大会に先んじて綴られた「報告要旨」と、シンポジウムにおける報告内容とを、できるだけ原形のまま示すこととする。ただし、報告内容については、<聴く>のではなく<読む>ものだという前提から、論旨を変えない範囲で、最低限必要と考えた修正・補足を行っている。また、報告段階で錯誤を含んだまま議論を進めた点など、最低限説明が必要と思われる箇所には、注記を付した。
なお、以下の第II節「報告要旨」は大会報告の予稿として大会実行委員会(ソフト)に提出された第一稿が、内容不適切として書き直しを求められた後、決定版として再提出し受理され、報告要旨集に掲載されたもの(山田,1993)である*3。また、大会報告内容の中の小見出しは、当然ながら後から加えたものである。
II 「報告要旨」
思索する人間は常に矛盾を抱え込んでいる。少なくとも私自身はそうである。もし仮に、研究者たらんとする者の最低限の倫理として、論述主張の一貫性、整合性が要求されるとすれば、私自身の思索の大半は、研究の名において公表され得ないことになる。実際、私は、この倫理に可能な限り沿うべく実践を積み重ねてきたつもりである(その帰結がどんなものか、敢えて自らは述べないが)。
しかし、ここでは議論全体の枠組みの性質上、私は自らが確信しないこと、自ら反対の議論を展開し得ること、自ら結論を見いだせていないことについて語らなければならない。以下で述べることを、私は確信していない。しかし、同時にそのように考察することが充分正当性を持ち得ること(すなわち他人がそのように主張したときに、それを完全に論破する言葉を私自身持たないこと)を、私は直感している。読者諸賢には、以下の議論を私の「信念の主張」などと誤解されぬことと、同時に以下の議論を侮られぬことをお願いしたい。
一つの制度としての「地理学」は、そこに抱え込まれた前近代的諸要素(その中には「古代的」諸要素すら混じっている)故に、近代における諸学の爆発的な専門分化の中で、実態的に八つ裂きにされながらも、惰性によって学としての一体性を保っている。「学際的」といえば聞こえはよいが、地理学の実際の姿は、現世の地図に投射されたパンゲア大陸の影のようなものである。
こうした中で、自然科学や人文諸学のみならず、実態に即して社会科学に分類されるそうな研究も、(人文)地理学の枠組みの下で少なからず生産されている。ここでは「そもそも社会科学とは何か?」という議論には立ち入らないが、かなりナイーフな形で自らを社会科学者と考えている地理学徒は少なくない。
しかし、社会科学全体の中で、地理学(ないしその一部)が占める位置なり、地理学が果たす貢献を省みるとき、社会科学を指向する地理学徒の多くは、何らかの苛立ちを訴えざるを得なくなるのである(同じ様なことは、自然科学や人文諸学を指向する地理学徒についても妥当しそうだが、ここではその点についての議論は保留する)。こうした苛立ちは、不幸なことに、自らの研究分野に対する非合理的な愛着に基づく言説の中に埋没し、他分野の研究者はもちろん、同僚たる地理学徒にも、まともに扱われることはほとんどない(現代のモンゴル人が、チンギス・ハーンの大帝国を夢想するようなものだ)。一方には、地理学の自己言及としてフンボルト的総合科学を唱えて幅を利かせるテキストがあり1)、他方には、日常の中で苛立ちは共有しつつも本気でそんなテキストを信じない地理学徒がいる。しかし、この苛立ちに取り組み、地理学の自己像としてフンボルト的総合科学に代わるオルタナティブを提示する努力はほとんどない。理由は簡単である。それを担い得る賢明な人々は、その作業の無意味さを最も容易に悟り得る人々でもあるからだ。
もちろん、自身がこうしたオルタナティブの「前衛」たることを主張する地理学徒たちも少数ながら存在する。しかし、彼らの主張は、単に学界内における評価と食い違うばかりでなく、ほとんどの場合、論理のための論理=「空論」として空中を滑走するばかりである。例えば、D・ハーベイを介してマルクスを読み解き、さらにマルクス理論大系の内的整合性を追求するといった作業から得られる、いわゆる「空間編成論」の知見は、知的な高等遊技として読書人の快楽とはなっても、現実に地表面を歩いて人文現象を記述する地理学徒にとっては何の役にも立たない無意味なものでしかない(もちろん、政治活動家ないし「革命家」たるマルキストにとっての意味の所在については、別の議論が必要だろう)。この意味で、「空間編成論」が、極限まで押し進められた「理論・計量地理学」と連続体であることは改めて述べるまでもない(本大会の「開催趣旨」を参照)。
地理学が必要としているオルタナティブは、どうとでも解釈でき、都合のいいようにあらゆる現実に当てはめられる概念を動員して、ただ当然の事を新しい言葉で述べてみせるパフォーマンスではない。元々、人文主義地理学はこうした色彩が拭えない部分があるのだが、マルクス主義さえもが一種の「密教化2)」の過程を踏み始めた今日、フィールドにおける凡庸な思考を術語の魔力だけで磨き上げていく行為はいよいよ幅を利かせている。フィールドに根をもたず空中を浮遊する「空論」は、最善の場合でも、王に侍る道化のように、主人の位置を悟らせる応答者でしかない。優れた道化は王を救い、王に王道を悟らせよう。しかし、道化は王にはならない。「空論」の君臨は、フィールドの思考を窒息させ、地理学の存在理由を葬ることになろう(スターリンという道化を王とした国の経験も同然だ)。もちろん、地理学は容易に扼殺されるほど衰弱しきってはいない。かつての「空間構造論」にみられた生硬な議論は、本大会の開催趣旨が正しく指摘するように「立地論や現状分析・類型化のなかに解消される傾向が生まれ、その中でかえって在来の経済地理学が正統化され再生産されてきている」。しかし、いわゆる「空間編成論」の場合はどうであろうか。
このシンポジウムの課題は、ドン・キホーテ的蛮勇をもって、フィールドの経験の中から出発し、「空論」に舞い上がることのないオルタナティブな空間理論研究への道を探るべく、隣接分野に向き合うことだと私は理解している。そして私が突進する相手は「社会学」という「巨人」、いや風車なのだ。
ここでは「社会学」についても、その厳密な定義など論じない。しかし、諸学の間には(特に隣接分野の間には)、日常的に直感される個々の学問の個性ないし「クセ」のようなものがある。社会学を地理学に比べると、最もはっきりしたクセの違いは、方法論的厳密性や法則定立指向性に現れてくるように思われる。本来、どちらの分野にも、具体的現象に即した記述指向の仕事と、認識体系としての普遍性と整合性を追求する理論指向の仕事、そして両者の中間値が、多様な形で無数に存在する。これは社会科学としては当然のことであろう。一般的には社会学における理論指向と、地理学における記述指向が指摘されることがよくあるが、事はさほど単純ではない。
例えば、地理学は「地誌」という記述指向の仕事を伝統的に抱えており、現在も地誌的記述を社会的に要請されることが多いが、今日(少なくとも<わが国>では)地誌そのものを学会誌に掲載することは不可能に近い。実態として地誌的な内容の論文はあるが、その場合も形式的には、その論考が何らかの新たな理論構築に資するものであるかの如き主張が付け加えられる。しかし、理論指向を標榜する論文は量産されても、(単なる論文集にとどまらない)理論指向の大系的「著作」を紡ぎ出す試みは、地理学には希薄である(もちろん皆無ではない3))。このため仮説検証の形式で論考を展開しようとしても検討に値する仮説を引き出せる大きな理論が乏しく、仮説自体が小さな、当り前のものでしかなくなってしまうのである。
また、地理学は、研究方法論上も定型的なものが部分的にしか確立されておらず、そのことが方法論的洗練を大きく妨げている。要するに、個々の研究が方法論をばらばらに模索してはいるものの、それが手法として継承・発展される歩みは遅いのである。これは、逆にいえば新しい研究に対する方法論的規制の力が弱いということにもなるが、同時に方法論的に対して[ママ]極めてナイーフな議論を横行させることにもなる。
他方、社会学は大系的理論の構築を試みる指向性が強く、そうした方向での著作も比較的数多く刊行される。このためこうした大系的理論構築の試み自体は、フィールドの裏付けが必ずしも強固ではない、机上の作業という色彩も強いが、同時に、その真正性を争う論争の中から数多くの仮説が提起され、その妥当性を論じる記述指向の仕事も量産されることになる。こうした学問分野のクセは、仮説検証型の論考にとどまらず、社会学的研究に広く共有されている。例えばアーバン・エスノグラフィーのように、記述を中心に据えるオルタナティブ指向の社会学においても、記述内容は不断に理論的蓄積に照合され、説明されていく形でテキストが紡がれていくのである。
さらに、社会学は、記述指向の仕事における方法論的な手続きについていろいろと神経質な議論を要求する(社会学と地理学のアンケート調査の仕方の違いを想起されたい、あるいは、同じ様な表題のフィールドワーク入門書を読み比べてみよ)。そうした検討事項の妥当性には、疑問の余地もある気がするが、こうした議論を通過することで方法論的な精緻化が進み、さらにいは理論指向の仕事における、整合性にも資することになっているようである。
要するに、社会学における理論指向、地理学における記述指向とは、個々の研究者の指向を越えて、制度としての学問分野が全体としてもっているクセなのである。(個々の社会学者が、ではなく)社会学が、本質的に社会現象の原理的説明を追求するのに対し、地理学は(たとえ表面上は社会科学を指向しても)、本質的に空間に散布された個々の地域(社会)の個性記述へと回帰していくのである。してみると、社会学において、地域や空間が主張されるとき、それは時代や歴史が主張されるときと同じように、既存の理論の普遍性が取り込み得る現実の広がりに限界が意識されるときであろう。言い換えれば、学問の基盤として組み込まれたある種のフェティシズムの限界を意識するとき、新たなフェティシズムの対象が必要とされるのである。その意味からすれば、例えば本大会の報告者でもある吉原直樹が、マルクス的思想の脱構築への突破口を、ハーベイらを含めた「空間論」に求めているのも当然といえよう。
では、社会学が新たな原理的説明の構築のために現実に立ち帰るとき、地理学は社会学とのパートナーシップを組めるのだろうか。その答えは、地理学が方法論的なナイーフさを克服しない限り、否定的なものにならざるを得ないだろう。もちろん地理学は、他の諸学の侍女ではない。しかし、歴史的惰性に支えられた自らの世界内の評価に甘んじ、侍女にすらなれぬ現実は、放置してよいのだろうか。少なくとも社会科学指向の地理学徒の多くはそう考えまい。そこから、総体科学論に対するオルタナティブへの道を求める声が上がるのだ。
もっとも実際には、そうしたパートナーシップは美しき誤解に基づいた錯覚に過ぎない。学際部分における創造性は、多分に読み手側の(誤読も含めた)創造的解釈力に依存している。地理学徒は社会学者のために論文を綴るわけではないし、その逆も同じである。ただし、優れた社会学者は地理学の仕事の中にも社会学的思考の導きの糸を見いだすのであり、その逆も同じだ、ということである。問題なのは、地理学徒の仕事が、他分野の読者はおろか同学の同僚の間ですら、説得力と魅力を失いつつあるという現実である。そもそも、読まれるべきテキストを読まれ得る場所に置かなければ、誤読されることさえも期待はできない。
社会科学は、例えば、あらゆるエスニシティが絶対的なものではなく、特殊な歴史的事情によって、政治的ヘゲモニーの結果として成立するものに過ぎないことを語る。同時にまた、全ての「形式」は、時と共に「実質」へと凝固し、人間を呪縛することも語る。もし仮に、十八世紀啓蒙思想以降の自由主義、解放思想を根本から否定するのでなければ、社会科学を指向する者は、自らの学問的出自に対するエスノセントリズムと対決し、制度としての学問の相対性を認識した上で、個々人の戦略を立てなければならない。その戦いが、自らの陣地を死守する塹壕戦になるのか、敵地に進入しての遊撃戦になるのか、それはやってみなければわからない。ただ私個人の趣味としては、イラク兵のように砂漠の塹壕で生き埋めにされるのだけはごめんだと思っている。
III 大会報告内容
1.報告の課題
このシンポジウムの報告者の顔ぶれを見ると、私は非常に居心地の悪い立場にあります。なぜ、居心地が悪いのかという理由についてのお話は、おいおいさせて頂くとして、まず、今日の私に与えられた課題が何であるかということを、改めて確認させて頂きたいと思います。
今回、シンポジウムでの発表をお引き受けしたわけですが、私の考えていたシンポジウムのイメージと、オルガナイザー側で考えていたイメージが、かなり食い違っておりまして、実は一回レジュメの書き直しをしております。つまり、「このレジュメではダメです」といわれて、書き直したわけです。
基本的にどういう所がダメかというと、私のレジュメが、オルガナイザー側の意図、つまり、大会レジュメ集にある「『空間と社会』共通論題趣旨」に沿っていない、というのが理由でした。ですからここでは、極力この「趣旨」に沿ってお話をしたいのです。
ところで、私のレジュメの最初にも書いたのですが、だいたい人間というものは矛盾していろいろなことを考えているわけで、ある時は女房を愛しいと思い、ある時は浮気をしたいと思うわけです。これは当り前のことです。ですから、「一貫したことを言わなければならない」とか、「研究者として発言するときは、思想の一貫性が不可欠だ」とする立場からいえば、私は今日これから喋ることができなくなってしまいます。つまり、私はこれから申し上げることを、確信しているわけではありません。
なぜ、これを予めお断りしておくかというと、私が確信していることだけを述べたのでは、オルガナイザー側の意図に照らして、ここでの発表としては不適切なものとならざるを得ないからです。あるいは、不十分なものとなるからです。ですから、ここでは私は、「本当にそうかな」と自分でも疑い得るようなことも含めて、お話をしなければならないのです。この点をご理解頂きたいと思います。
私には、「空間と社会」について、経済地理学会の会員の立場から発言すべく与えられた課題がいくつかあります。すなわち、私の前に発表された吉原直樹先生の発表に対してコメントを述べる、あるいは、事前に頂いたレジュメに基づいて、吉原先生が話題の中心に置かれるニュー・アーバン・ソシオロジーについて、経済地理学の立場からコメントする、というのが第一の課題です。次に、経済地理学会内部には、そうした都市社会学の新しい動きに接合し得るような研究成果として、どういうものがあるのか展望し、紹介するという第二の課題があります。さらに第三の課題として、それらを踏まえた上で、「空間と社会」という趣旨に沿って、経済地理学の内側から今後どのような展開が期待されるか、という点について見解を述べる務めがあります。大きく分けると、以上三つの仕事があるわけです
2.ニュー・アーバン・ソシオロジーの位置
限られた持ち時間で全部をまともにやれというのは無茶な話ですので、吉原先生には申し訳ないのですが、まず、先生のご発表に対するコメントをごく簡単にさせて頂きたいと思います。
肝心なのは、吉原先生のご発表の後の質疑で、最後にいみじくもフロアから質問があったように、「日本でいったい誰がこんな仕事(ニュー・アーバン・ソシオロジー)をやっているんだ」ということです。私は日本社会学会の会員ではありませんが、やっている研究の性格上、社会学会の多数の会員と親しくつきあっております。さらに、社会学の周辺的な学会にいは、会員となっているものもいくつかあります4)。そういう所で、社会学の方々と話をしている限りでは、少なくとも日本人でニュー・アーバン・ソシオロジーのオリジナルな研究をしている人というのは、ほとんどいらっしゃらないんじゃないかと思っています。ヨコタテ(紹介・翻訳)を一所懸命にやっている方が何人かおいでになることは、間違いないと思いますが、オリジナルな研究があるとは考えにくい。少なくとも、日本の社会学界において、「都市社会学」という言葉からイメージされるものの中核は、決してニュー・アーバン・ソシオロジーではない、というのが私の認識です。
ところで、日本の学問は多くの分野において、パラダイムを欧米からの輸入に頼るという性格をもっています。ですから、例えば、社会学において一つのパラダイムとして確率されているシカゴ派社会学についても、今だにその業績をどういう風に日本語で読めるようにするか、ということは大きな課題であるわけです。シカゴ派の業績をヨコタテで日本語にする、しかも、質が高い使いものになる形で供給することは、依然として日本の社会学者にとって大きなテーマです。実際、シカゴ学派の業績は、だんだんと読みやすくなってきました。
既成のパラダイムだけでなく、欧米からは様々なアイデアが次々と登場し、日本へも紹介されてきます。ある意味ではニュー・アーバン・ソシオロジーなどとは無関係な地平からも、例えば、カルチュラル・スタディーズ(文化研究)のような思想の流れを日本に取り込んで、その直接的な導入ではないまでも、同じ様な問題意識、同じ様な観点から、大衆文化論などをひとつの核として都市文化論を展開していく、さらには都市構造論へと論及していく、といったアプローチが出始めています。それを担っているのは、吉原先生よりもさらに若いジェネレーションの人達です5)。
いわゆるニュー・アーバン・ソシオロジーが日本の社会学界で占める位置を考えてみると、吉原先生が相当のご苦労をなさっていることが察せられます。つまり、一方では、相当のヨコタテの積み重ねを踏まえた上でなければ、成熟したオリジナルな研究は生まれず、確固たるパラダイムの成立は期待できない。他方では、既存のパラダイムへの異義申し立てをする立場が、もはやニュー・アーバン・ソシオロジーの独占物ではなくなった、という状況があるわけです。こうした状況認識については、「そこまでいうのは否定的に過ぎる」という反論もあるでしょう。しかし、ニュー・アーバン・ソシオロジーが日本の都市社会学のメインストリームとはなっていない、という点は確認しておきたいと思います。
もっとも、ニュー・アーバン・ソシオロジーそのものが否定されているというわけではありません。むしろ、ニュー・アーバン・ソシオロジーの提起する問題が棚上げにされてしまった所で、それとは別個のアーバンな、そしてソシアルな、要するに都市の人間集団の中で起こっていることをどう捉えるかという新たな視点が、さらに出現しつつある、というふうに私は考えております。昨年、九州大学で日本社会学会が開催された際に、吉原先生も発表されたセッションがありました。私は、この会に参加しておりませんが、そのセッションの参加メンバーなどを後で見せて頂いた印象では、ニュー・アーバン・ソシオロジー以降のいろいろな流れの人が、相乗りでやっているんだなと思いました。
そういう意味合いを踏まえ、ニュー・アーバン・ソシオロジー的な所からスタートした空間論を、例えばここで、経済地理学としてどう受けとめるかを考えると、我々はそれを新しく出てきつつある様々な動きの一つとして位置づけるべきなのであって、それだけを特権的、絶対的な何物かであるように扱うべきではない、という気がしています。以上が、私に与えられた務めの第一です。
3.わが国における水岡『経済地理学』の受容
第二に私に与えられたのは、経済地理学会内部には、そういった研究と接合され得るような業績として何があるかレビューせよ、という課題でした。そうした業績が皆無だとは申しません。水岡不二雄先生の『経済地理学』6)があります。私はこの本を自腹を切って定価で買いました。ですから読んでいます。読んでいますが、まだ全部は読んでいません。非常につらい本です、率直にいって。『経済地理学』と題された、しかも教科書だと銘打たれたこれだけの著作に関して、『経済地理学年報』はじめ日本の地理学界のおもな学術誌が書評にも取り上げず、沈黙しているというのはどういうことなのでしょうか。この状況を考えると、水岡先生の営為は、学界の中で、そして経済地理学会の中でも、メインストリームたり得ていないということが明らかになっていると思います。
私は、単なるヨコタテの作業を否定的には捉えていません。私自身、ヨコタテの仕事をしていますから。しかし、ヨコタテを含めても、空間編成論的な仕事が経済地理学の内部から量産されているといえるような状況にないことは、明白だと思います。竹内啓一先生は、翻訳の仕事を通じて、このニュー・アーバン・ソシオロジーの一端を担われているわけですし、水岡先生も翻訳の仕事をされていますが7)、それに見合うだけのものが、翻訳・紹介という段階を乗り越えた形で、例えばニュー・アーバン・ソシオロジーの言葉を自分の研究に取り込んで、地理学的な研究を展開している人がいるかというと、答えは否定的にならざるを得ません。ある意味では、意義のあるヨコタテに取り組んでいる学界全体の外務省のような立場にある人に、そうした仕事を担うことを期待するのは間違いなのです。むしろ、カステルなりハーベイなりを日本語で読めるようにして頂いたなら、それから先の所で、それを受けとめ、日本のフィールドにおいて実際に仕事をしていくことは、別の人々の仕事だと思います。そうしたヨコタテの後に来る仕事を、少なくとも私は、不勉強のせいもありましょうが、あまり目にしていません。ある程度そうした仕事が量産され、ごく普通に学界内で評価される、といった状況ではないわけです。仮に、「自分はこういう仕事をした」という方がいらっしゃるとすれば、書くべき場所を間違えているのか、書き方を間違えているのではないでしょうか。
4.経済地理学会の危機
以上で第二の務めを果たしまして、第三の課題に移りたいと思います。レジュメに書いたことは、基本的に実行委員会の方で受けとめて頂いているので、この範囲のことに関してはお話ししても良かろうというわけです。これを越える話をするのは、ちょっとまずいかなという気もします。そもそもレジュメに書いたことは、なぜ私がここで発表者の一人になっているかと、よくよく考えてみたことの帰結なのです。
私には、自分で研究だと思ってやっていることが大きく分けて三つほどあります。まず一つには、地域メディアの研究をやっています。東京学芸大で自然地理を教えておられる小泉武栄先生が書かれている話ですが、人文地理の人に何を研究してるかと尋ねると、「私は中小企業をやっています」というふうに答えられるのだそうです。もちろん、「中小企業をやっている」といっても、中小企業を経営しているわけではありません。ある学生の卒論指導の時に、題目を何にするかと質したら「私は雨乞いをやりたいと思います」といわれて、その学生が雨乞いをしている姿を想像してしまった、という話です8)。「地域メディアをやっている」という表現では不適当かとも思いますので、もう少し厳密にいいますと、地域メディアという企業体ないし事業主体が、地域の状況の中でどのように存立し得るのか、どのような形態をとり得るのか、といった研究をやっています。また、全く違う文脈の中で、メディアのソフトウェアに現れる、空間・地域・特定都市のイメージについても研究しています。さらに、もう一つ挙げるならば、これまた全く無関係な所で、商業施設に関する研究もしていますが、これら三つのうち、特に前二者が地理学的な研究であると自負しています。
そういう立場の、一応地理学で学位も頂きましたし、地理学者として世間に通用するはずの人間ではあるわけですが、ここにきて経済地理学会で話をするということについては、個人的な何ともいい難い、一つの感慨を持っております。私は、経済地理学会の会員になってもう十年くらいになるのですが、今から八年ほど前、ある研究の成果を『経済地理学年報』に投稿したことがありました。投稿に対するコメントが返されてきてみると、いろいろと厳しいこと、そうでもないことが書いてありました。そして、コメントの最後には「しかし、この研究のどこが経済地理学か、理解に苦しむ」といった主旨の言葉が記されていたのです。ここには、経済地理学会という組織の、ある意味では矜持が、また、ある意味では閉鎖性の一端が現れていたわけです。ちなみに投稿した論文の内容は、たまたま私の就職、転居とぶつかってしまい活字になっていませんが、地域新聞の広告機能についての研究でした9)。つまり、小さい新聞の広告が地域社会の中でどういう位置づけになっているかを考える研究だったのですが、それが「これは経済地理学ではない」と一蹴されてしまったわけです。それから考えますと、経済地理学会のオルガナイザー側から、「シンポジウムで報告しろ」といわれたのは、非常に不思議な気がするわけです*4。
私自身は、研究分野を問われたときに、「社会経済地理学」と名乗るのを常としています。これは単純なことなのですが、私のやっているのはメディアの研究であり、それを背後で支えている社会の研究です。単に経営を研究しているわけではありません。つまり、算盤勘定ばかりをしているわけではなく、市場性の問題、どういう社会的背景があってメディアが支えられているのか、に取り組んでいます。メディアの場合、CATVが典型的ですが、民間企業では算盤が合わないような所でも、行政などが介入することによって、実際にシステムが成立してしまうことがよくあります。あるいは、毎日新聞社のように、民間企業である以上、本来なら潰れても不思議でない状態になっても、社会の公器であるといった理由から、様々な資本が導入されて支えられる、といったことが起こります。ですから私は、単純に経営学的研究をやっているつもりではなくて、「社会」と「経済」の境目の所でメディアを対象にする、さらにはそうしたメディアを手がかりに「地理」を考える、という作業をしていると思っていますから、「社会経済地理学」と名乗って参りました*5。ところが、もう皆さんの中にはニヤニヤしている方がいらっしゃるかもしれませんが、これは非常にとんでもない誤解であるわけです。1958年生まれの私は、「社会経済地理学」が「マルキシズム地理学」の自称であることを全く知らなかったのです。
経済地理学会は、今年が四十回目の大会です。歴史は四十年以上あります。経済地理学会ができた当初、学会の仕事は、存在理由は、何だったのでしょう。今日から振り返って簡単にいいきってしまえば、人文地理学のメインストリームに対して、いわばマルキストの牙城として、刺としての存在意義があったわけです。実際、そういう文脈の中で、いわば経済地理学会を引っ張ってこられた第一世代の方々が、秘密結社的とはいわないまでも同志的な連帯をもって仕事を量産された、という点に一番意義があったわけです。ですから、「昨日、今日と若手が発表して、『老壮青』じゃないが、ある程度のご年輩の方が質問する構図がある」という発言がありましたが、あの質問をされたジェネレーションの方々は、経済地理学会ができたときから中軸になっているわけです。一貫して。これはもう自民党と同じなのです。要するにできたときから中軸だった連中が、そのままずっと中軸でいる。そして、ここにきて制度疲労がきているわけです*6。
一方で経済地理学というのは、広い意味の経済活動であれば、何でも対象にできる。ところが、考えてみれば、人間の活動は何でも経済活動なのです。文化地理学にだって経済的な基盤があるわけです。実は、この大会と日程が重なって行けなかったのですが、昨日、横浜では文化経済学会という学会が設立大会をやっていたはずです。「あらゆる人文活動は経済活動だ」という立場に立つと、経済地理学はどんどん肥大化していくわけです。水岡先生の用語を茶化して使えば、「経済地理学による人文地理学の包摂」が進みます。ところがそこで完全に包摂したと思った瞬間、経済地理学と呼ぶことがナンセンスになってくるわけです。
とにかく、そういう状況の中で呼ばれてきて「おまえ、喋れ」といわれました。喋らなければいけないわけですが、そういう中で自分が何を喋るのかと突き詰めて考えた結果が、私のレジュメなのです。本当はレジュメをいちいち読もうと思ったのですが、時間がありません。要するにどういうことかというと、空間編成論という問題、これは大会の開催趣旨にも出てくることで、それをどういうふうに紹介するかが問題なのだと私は認識しているわけです。
5.空転する空間編成論への期待
空間編成論といっても、日本語で読めるものは水岡先生のものしかないので、個人的に何らの恨みもないのですが、専ら水岡先生のご研究に対してコメントせざるを得ないわけです。もっとも、水岡先生ご自身が、論争においては相手の名前をイニシャルにするなどという姑息なことをせず、常に相手の名を挙げて論争されておいでですから、ここで水岡先生の名前が挙がることは別段問題ないことだと思います。
空間編成論とは、基本的には「マルキシズムの経済理論の中で欠落している空間性をどういうふうに取り込んで行くか」という営為だと思います。一つの理論体系が、いわば限界に達した段階で、どう生き延びて行くかを模索するとき、一番よく行われるのが接ぎ木です。つまり、それまで変数として算入されていなかった項目を取り込むことを試みて、それによって理論体系として一段飛翔を図ろうとする、これが常道なわけです。ですから最近、経済学のかなりの人たちが、厳密にいえば日本では玉野井芳郎ぐらいからこうした動きがあるのですが、環境の要素を変数として経済学に取り込むことを試みているのと同じように、マルキシズムの体系の中に空間が欠落している、あるいは、不十分である、それをどういうふうに変数として取り込み得るだろうか、そういう試みが空間編成論を生み出してくるんだという認識は、私も共有するものです。
レジュメにも書いてあるのですが、そういう意味において、あくまでも理論が先にあるのです。「現実にある差異から出発してはいけない」と水岡先生は述べています10)。現実にある差異から出発してはいけないのです。理論から演繹しなければいけないのです。
こういうふうに一刀両断でいわれてしまうと、フィールドワーカー(現場労働者)としては「どうもすいません」といって地理学をやめなければならなくなります。要するに、そこで持ち上がってくるのは、フィールドワークと理論との接合の問題です。空間編成論自体は、非常に不完全なものだと私は考えています。というのも、簡単な例を挙げれば、空間編成論によって、この町のこの通りの商店は栄え、別の裏通りの商店は栄えない、といったことを、なぜ必然的にここではこうなり、あそこではそうならないのかを、細かく記述することは夢想でしかないからです。
つまり、別のいい方をすれば、私がある日の昼食にスパゲティを食べるか、より値段の高い寿司を食べるかということを、マルクス主義の経済理論から演繹することは、理論上不可能ではないかもしれませんが、ナンセンスであることは間違いないからです。それに対して、私がスパゲティを食べるのか寿司を食べるのかを記述する作業は、意義ある作業として残るのだと、私は考えます。もし、私がそこでスパゲティを食べるか寿司を食べるかということが何らかの尺度で重要ならば、単なる記述自体には意味はない、とはいえないと思います。ナンセンスだといわれればそれまでですが、少なくともそういうことを記述する作業、そして、例えば「なぜ今日は、寿司を食べたのだろう」という問いに対して「たまたま金が入ったからだ」という説明でもいいかもしれませんし、あるいは、「ブリのおいしいものが出てくる季節だから」かもしれませんが、何らかの理由づけ[を]素朴に積み上げていく作業は、コンベンショナルだとして一刀両断してしまってよいのだろうか、というのが私の立場です。
冒頭で、私がここで居心地が悪いといった理由の一つは、ここに並んだ報告者の中では、相対的な位置づけとして、私は最もフィールドワーカー色の強い存在となるからです。私は、フィールドワークに基づいた実証的なものしか、これまで活字にした頃がありません11)
。少なくとも自分ではそう思っています。私は理論研究をやっているわけではありません。今回、自分の信じていることを語っているわけではない、というのも、そのような意味です。私が振り回すような理論は、容易に反対の議論が構築できるようなものでしかありません。ですから私は、他の人のやることの意義は十分認めていますし、読んで勉強はしているつもりですが、少なくとも自分自身がそこには関心がない、そういう立場で空間編成論をみているわけです。その限りでは、レジュメにも書いてあるのですが、「デビッド・ハーベイを介してマルクスを読み解き、さらにマルクス理論体系の中で[ママ]内的整合性を追求するといった作業は[ママ]、知的な高等遊技として読書人の快楽とはなっても、現実に地域[ママ]を歩いて人文現象を記述する地理学徒にとっては何の役にも立たない無意味なものである[ママ]」と私は考えざるを得ません。現状の空間編成論では。
私個人がこのように思うというだけでなく、空間編成論にとっては、登場してきた時代背景も悪いわけです。私は、今回の報告者の中では、ほんの僅かの差ですが一番若い、1958年生まれです。スプートニク・ショックの翌年に生まれました。私ぐらいのジェネレーションですと、かろうじて、しかるべく勉強している研究者はマルクス主義の基本的タームを駆使して研究発表を行うことができます。例えば、東北大学の上田元君[当時(現在は大東文化大学)]などは、私などにはケニアの自動車修理工場を見てきた話としてしか受けとめられない報告を、非常に的確にマルクス主義の用語で飾りながら発表することができるわけです*7。私は、否定的な意味で上田君に言及しているわけではありません。上田君はしっかりしたバックグラウンドを持っているから上の世代とも話ができる、と肯定的に評価しているわけです。
しかし、私自身も含め、私より若い世代にとってマルクス主義経済学の基礎的知識は、教養としては崩壊しています。それは、漢籍が読めなくなっているのと全く同じです。そういう状況の中で、敢えてマルクス主義経済学の延長線上に、それの脱構築を図ろうという空間編成論が出てきたという現状は、空間編成論が説得力をもって若い地理学徒に訴えかけられるかということを考えると、非常に不利な状況であると考えざるを得ないわけです。
どうしてそうなったのか、誰に責任があるのか、といった不毛な議論は、私はしません。私自身はマルキストではないのですが、ツールとしてのマルキシズムの分析概念は非常に有効であると考えていますから、アドホックに、いわばつまみ食いをして、本来とは違った文脈で自由に自分の枠組みに取り込んでいます。そういう立場からすると、空間編成論が「経済地理学にとってこれから先の展開を開いていく道だ」といわれても、非常に強く疑問が感じられるわけです。
6.危機の所在
ここで、経済地理学会が四十数年を経て制度疲労を起こしているのではないか、という問題に立ち帰って考えるならば、今むしろ問題なのは、ビビッドなフィールドワークへの契機が弱まっているという昨今の状況ではないでしょうか。今から十年くらい前、例えば、日本地理学会の大会に行けば、産業地理学とされる分野で具体的なフィールドワークの話がたくさん聞けました。その当時、大学院生だった諸先輩がここにもいらっしゃると思いますが、あるいは下請け産業の重層構造の話であり、あるいは重化学鉱業の、広域的な再編成の話であり、あるいは繊維工業と地域経済の話であり、実に様々な分野の話が聞けました。はっきりいって、専門外の人間にも面白かった。ところが今日、産業地理学はものすごい勢いで衰退しています。たまに論文を読んで面白いなと思っても、ふと気づくとそれが植木の生産だったりすると、やっぱり何でこんなスケールになったのだろう、と思うわけです。
産業と斬り結んで記述していく作業は、日本では必要なくなったのでしょうか。そうではないはずです。歴史学の分野を考えてみて下さい。歴史は常に書き直されるのです。ローマ史は、二百年前に書くのと今日書くのでは、意味が違うのです。単に新資料[ママ]の発見があるとかだけではなく、歴史記述は、あくまでも書く時点において過去をどう見るか、という問題だからです。歴史は、常に書き直される。本来、地理学をディスクリプション、記述の学と捉える立場からすれば、かつて行われた仕事の繰り返しであっても、時点が変わって、立場が変われば、ディスクリプションへの十分な意義が認められてしかるべきはずなのです。加えて地理学の場合、記述の同時代性を前提とすれば、現実の地域もどんどん変わっているわけです。本来、ディスクリプティブな仕事は、誰かが一時期あそこをやったからもう手を出せないといった形で、手を縛っていくようなものではないはずです。ところが、現実問題として、これは学界の習慣なのか、「他人がやったフィールドで同じようなことをやるな」といわれ、また、やっても評価されない状況があるわけです。
地誌が仕事として評価されない状況も、同様の構図で考えることができます。これについては別の問題もあると思いますし、私の議論がすべて正しいとも思っていません。さっきもいったように、ここでの自分の議論に反論することも容易なのですから。しかし、例えば私が「長野県南安曇郡地誌」を論文として綴っても、『経済地理学年報』にも『地理学評論』にも、掲載されるわけがありません。
そういう認識のあり方が、ある時期に研究の盛り上がりを見せた分野が、その次の段階になると必然的に衰退する原因となっているのです。つまり、研究が進むとやり尽くされた感じになってしまって若い人が取りつけなくなるわけです。それは産業地理学の例ばかりではありません。同じように十年ほど前は、地理学的な消費者行動論の分野でも、大きなピークがあったわけですが、今はどうでしょうか。今、若い人で、消費者行動論をやって一定の研究成果を積み上げ、その先へと突破してやっていけそうな人はいません。ある段階で研究が高まりを見せると、それに対する社会的需要が後退したわけでもないのに、単に研究者間の評価のシステムの下で「生き延びるためには隙間(ニッチ)を狙っていかなくては」というような若手へのプレッシャーがかかるために、既存の研究成果をまともに乗り越えていこうとする研究は展開されにくくなるわけです。
本来ならば、全的な地誌を書く、つまり、あらゆる分野を抱え込んだ地誌を書くということは夢想だとしても、日本の産業地理の全的状況については、経済地理学会が音頭をとって、何年かに一度でもアトラス的なものを作っていくという作業が、そういった営為が積み重ねられて不思議じゃないわけです。しかし、実際にやろうとすると、偉い先生の名前が並んで、配下の大学院生を使って積み上げていく、という方向でしか動けなくなっている。これは、かなり不幸な状況ではないかと思われます。
いずれにせよ、経済地理学の危機を救うのは、理論ではなくフィールドワークへの立ち帰りだという見解を、一応フィールドワーカーの立場から申し上げて、私の報告を終わります。
本報告の準備に際しては、平素より御厚情を賜っている書先輩や同僚各位から多くの御教示を頂戴した。とりわけ、報告の機会を与えて頂いた水岡不二雄先生、水内俊雄先生はじめ、大会実行委員会(ソフト)の諸先生に格段の感謝を申し上げる。報告前に、名古屋で、御宿で、八王子・大学セミナーハウスでそれぞれの機会に討論を頂いた方々、そして、報告のテープ起こしにご苦労をおかけした斉藤奈保子さんにもお礼を申し上げたい。
注
1)例えば、西川(1985)の第1章「人文地理学の本質」(pp1〜13)。
2)この言葉は水岡と筆者の一連の対話から浮上してきたキーワードであり、いろいろと含意があるのだが、差し当りは次のように理解されたい。
「密教的態度」とは、「何らかの意味における真理の探求に際して、言語によって(容易には)明瞭に伝達しえない超論理的要素に触れること、会得することが、真理に近づく前提だ、と主張する姿勢」であり、「密教」的環境において、先学者は後学者に対して(あるいは内部者は外部者に対して)その真理を論理的に説こうとはせず、ただ「おまえは経験(学習・修行)がまだまだ足りない」、「やがて悟ることになる」と抽象的に罵倒したり、諭すばかりで、どうすれば真理が理解されるかは、いっさい論理的に述べない。つまり「密教化」とは、自らの真理を神秘化し、外部からの批判に対して論理的には応じなくなっていく過程である。
さらには、批判に対応する内部者側は論理的に応じているつもりでも、その論理体系が余りに複雑・難解で、外部者を煙に巻く状態になるとすれば、外部者の側からはその論理体系は「密教」同然のものとなる。ここで、マルクス主義の「密教化」といっているのは、こうした外部者からみた意味においてである。
もちろん、「密教化」は、マルクス主義退潮の結果としての内部者の減少/外部者の増加だけを含意しているのではなく、マルクス主義(少なくともその一部)における様々な意味での論理的破綻(あるいは、外部者の目には「破綻」と映るほど複雑化・難解化した論理体系の姿)を前提とした表現である。
3)後述する水岡(1992)のほか、理論・計量地理学の分野における森川洋の一連の著作などが、例外として挙げられよう。
4)筆者は、社会学者が多数参加している日本マス・コミュニケーション学会(旧・日本新聞学会)の会員であり、機関誌に論文を発表したりもしている。その他にも、コミュニケーション論、都市論関係の学会などで社会学者と対話する機会が多い。
5)ここでは、例えば、吉見(1987)などを念頭に置いている。吉見は1957年生まれだが、その周辺で同じ様なアプローチをとる者には、1960年代生まれが目立つ。
なお、文化研究学派については、地理学との関係について紹介したことがある(山田,1991)。文献等は、この報告を参照されたい。
6)水岡(1992)。
7)ハーヴェイ(1980)、スミス(1985)、ハーヴェイ(1989・1990)などが挙げられる。
8)小泉(1992)、参照。ただし、発表時の引用には記憶違いがあり、不正確である。関係する箇所は次のとおり。
「人文地理学を専門にしている大学院生などが自己紹介をするとき、よく「私は中小企業をやっています」とか「私はイチゴ栽培をやっています」とかいう。もちろん彼または彼女が中小企業の社長さんをやっているわけではないし、イチゴ栽培をやっている農家でもない。これが習慣なのである。2年ほど前には「私は雨乞いをやりたいと思います」という女子学生がいて、筆者は失礼ながら彼女が白装束に身を固め、御幣を振っている姿を想像してしまった。」(小泉,1992,104ページ)
9)この投稿のもとになった研究は、要旨のみが公刊されている(山田,1984)。
10)水岡(1992)は、マルクスの『経済学批判要綱』を踏まえ、「都市・地域の本質にかかわる理論的な究明にあっては、眼前にある実在の都市・地域の即自的ありさまをそのまま考察の出発点としてはならない」(p22)と主張し、以降の論述においても繰り返しこの点を強調する。
11)筆者がこれまでに発表した論考のうち、ビデオ・クリップなど映像作品について論じた研究についていえば、映像作品の視聴それ自体が一種のフィールドワークであると考えている。筆者の関心は、映像作品に映し出された現実にあるのではなく、作品そのものに置かれている。映像作品は研究の対象であって、単なる資料ではない。
文献
- 小泉武栄「自然地理学者から人文地理学者へ」
『東京学芸大学紀要第3部門社会科学』第43号,1992年.
- スミス,D.M.著,竹内啓一監訳
『不平等の地理学−みどりこきはいずこ−』古今書院,1985年.
- 西川治
『人文地理学入門−思想史的考察』東京大学出版会,1985年.
- ハーヴェイ,ダヴィド著,竹内啓一・松本正美訳
『都市と社会的不平等』日本ブリタニカ,1980年.
- ハーヴェイ,ダヴィド著,松石勝彦・水岡不二雄ほか訳
『空間編成の経済理論−資本の限界』大明堂,(上巻)1989年,(下巻)1990年.
- 水岡不二雄
『経済地理学−空間の社会への包摂』青木書店,1992年.
- 山田晴通「地域紙の広告機能の実態に関する研究(要旨)」
(所収『昭和58年度助成研究報告集(第17次)』吉田秀雄記念事業財団,1984年)
- 山田晴通「文化地理学から文化研究(Cultural Studies)への関心について」
- 山田晴通「地理学徒として社会学にむきあう、あるいは、空間理論研究の夢想」
(所収『空間と社会−経済地理学会第40回大会報告要旨集』1993年)
- 吉見俊哉
追加された注
*1 『年報』投稿規程は、「原稿の種類」の一つに「大会報告論文」を上げ、「大会の学術大会において,報告あるいはコメントした内容を体系的にまとめたもの.」と定めている。
また、投稿規程に付された「投稿論文の取扱い」は、「論説,展望,研究ノート,批判と討論は,その内容を専門とする閲読者の意見を求める.編集委員会は,それを基に審査し,掲載の可否を決定する.投稿論文に問題があれば,編集委員会が意見をつけて,著者に返却する.著者は,編集委員会からの意見を参考に書き直し,再投稿することになるが,編集委員会の意見に異議があれば,その旨を書面で申し述べることができる.編集委員会は,再投稿された論文や異議申し立てについて審議し,さらに問題があれば再び閲読者の意見を求めたり,別の閲読者を指定して意見を求める.」と、詳細に規定しているが、「大会報告論文」については特別な言及はない。
*2 この大会の実行委員会はシンポジウムのオルガナイズなどを行う実行委員会(ソフト)と、会場の手配等を行う実行委員会(ハード)が全く別個に活動する分業体制が取られていた。ここでオルガナイザーとは実行委員会(ソフト)のことである。
1992年から1993年にかけての時期には、日本地理学会の「社会地理学」作業グループの活動があったり、(筆者は加わっていなかったが)社会地理学者を多数組織した科研費プロジェクトが動いていたりした関係から、このシンポジウムの報告予定者が合宿などで顔を合わせる機会が少なからずあった。そうした機会を利用して、オルガナイザー側は報告予定者との会合を何回か設定し、報告内容についても準備段階から様々な要請を行った。
*3 学会発表などに際して事前に提出される予稿(このシンポジウムの場合は「報告要旨」)の扱いには、研究分野ごと、学界ごとに様々な習慣がある。しかし、少なくとも筆者の知る限り、地理学界の習慣からすれば、予稿について(とりわけオルガナイザー側から報告を依頼した発表について)書き直しを求めることは異例である。
*4 シンポジウムにおいて、都市社会学者と対になる形で報告する、という筆者が演じた役回りは、当初、ある若手の都市地理学者に打診されたものの引き受けてもらえなかったらしい。その後、社会学分野と付き合いが深いという程度の理由から、筆者に白羽の矢が立ったというのが実態のようだ。こうした経過も、この分野における経済地理学会内部の人材の層の薄さを露にするものといえよう。
*5 直接のきっかけは、学生時代に私淑していた竹内啓一がこの表現を用いているのを「カッコいい」と感じたからである。
*6 その後の経過から明らかなように、厳密に考えれば、ここで自民党を引き合いに出しているのは不適切である。
*7 ここでは、1993年3月30日〜31日に、八王子市の大学セミナーハウスで行われた「竹内啓一先生を囲む研究会」における印象に基づいて発言している。
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