「私淑」していた先生
山田 晴通
1985年の初夏、東大本郷の院生室で、小林正夫君(現在は東洋大学、以下所属は現在のもの)が声をかけてきた。彼は院生の図書係で、図書室への収書を希望する新刊書の選書作業もしていた。「こんな本があったんで、山田さんが必要かと思って入れておきました」と言って「Geography, the Media & Popular Culture」という書名を教えてくれた。
やがてこの本を借り、自分でも購入して読み、翻訳を出版できないかと考え始めた。しかし、実績のない院生が翻訳しても出版は難しいし、何より自分の独力でまともな翻訳ができる自信はなかった。駒場で廣松悟君(明治大学)とこの話をしているうちに、やがて「竹内先生を<担いで>みよう」と思い至った。
もともと私は、学部の頃(1978年後期〜1980年度のいつか)に、一度だけ駒場で竹内先生の講義を受けている。科目名は忘れたが、先生はイタリアの南北問題を中心に地域開発について講じられた。その時は、中空を見上げながら話し続ける独特の語り口が印象に残ったものの、特に感銘は受けなかった。竹内先生の「凄さ」の片鱗を知るようになったのは、大学院に進学して、地理学評論などの学会誌を読むようになった1981年頃からである。頻々と見かける竹内先生による洋書(それも数カ国語に及ぶ)の紹介は、ひたすら驚異的なものと感じられ、私は竹内先生に「私淑」するようになった。以前に直接教えを受けているのだから、「私淑」は不適切なのだが、自分の認識の上では、読者として書かれたものから学び、憧れる=「私淑」であった。後に、自分の専攻を「社会経済地理学」と勘違い気味に自称するようになったのも、「私淑」していた竹内先生を真似てであった。
1983年に博士課程に進んだ私は、修論から素材を切り出して投稿論文に仕立てる作業に取り組んだ。学会発表と論文投稿の繰り返しである。修論の先行研究展望に加筆して展望論文とする前段階として、1984年秋の日本地理学会(香川大学)で発表をしたが、このとき不遜にも、竹内先生が雑誌地理に寄稿された小文を指して「雑文」と予稿の冒頭に書き記した。この発表には、竹内先生が「私の<雑文>を取り上げて頂きありがたいことですが…」と切り出して建設的な批判をされたためか、多様な意見をフロアから頂いた。そして、これ以降、私は学会などで、竹内先生といろいろなお話をするようになった。
一橋大学に足を踏み入れたのは、1985年の秋、翻訳の提案のために竹内研究室へ伺ったときが生まれて初めてであった。先生は前向きにお考え下さり、ゼミへもお誘いを頂いた。お言葉に甘えて、2回ほどだったと思うが、竹内ゼミにもお邪魔させて頂き、そこで小川葉子さん(慶應義塾大学)と知り合った。原田ひとみさん(マガジンハウス)とは、それ以前に学会でお目にかかっていた。
この時点で、試訳があったのは、全10章のうち一番短い第4章だけだった。各章の一次稿作成担当者は、先生の指揮で決められた。一次稿の作成は、私の就職を含め諸般の事情で延びてしまい、実際の読み合わせは1987年から1988年にかけて、竹内研究室で行われた。この間、半日から丸一日缶詰になって検討する機会が十回ほどあった。こうして、1988年秋の先生のローマ赴任までにおおよその形は見えてきたものの、積み残した仕事はまだ多々あった。先生は、作業の遅れを随分と心配されていた。私は出版社の編集者との調整やら、留学に出た共訳者との連絡などで汗をかいたが、事をスムーズには運べなかった。結果的に、「監訳者のあとがき」に「1991年4月ローマにて」とある『メディア空間文化論』(出版社の意向による書名:先生は『メディアと大衆文化の地理学』という書名を考えておられた)は、ようやく1992年3月になって刊行された。
その後、私は学会業務などで先生をお手伝いする機会はあったが、研究上は特に近しい位置には立たなかった。ところが、2001年から、科研費を念頭に山本健兒さんが立ち上げた「ヨーロッパ都市研究会」にお呼びがかかり、この事実上「竹内先生を囲む会」の一員として、密度の高い時間を何回も経験した。半日を丸々使っての研究会の途中で、当初のメンバーだった磯部啓三さんの訃報が先生の携帯に入り、夕刻になってから、私の運転するワンボックス車に全員が乗り込んで磯部さんのご自宅に伺い、帰宅されたばかりのご遺体に線香を上げる、という悲しい場面にも遭遇した。愛弟子に先立たれた先生は、「何も病気まで師匠に似ることはないのに」と呟かれていた。
科研費プロジェクトが終了し、日常に埋没しつつあった2005年の春、ある方から「竹内先生、だいぶお悪いようだ」と耳打ちされた。先生の再入院は既に知っていた。人文地理の学界展望(2004年)「学史・方法論」欄で、先生が駒澤大学の紀要に発表された「ナショナルスクール」論文について「大著への展開を予感させる序論的なスケッチ」と記したのも、先生のご快復を祈る気持ちからだった。しかし、その願いが虚しいことは、そう記した時点で薄々感じていた。そして、結局、特に何もしないまま、訃報を受け取ったのである。
こうして振り返ると、私は最後まで竹内先生の「弟子」にはなれなかったが、最後には「客分」の末席には置いて頂けていたように思う。もともと「私淑」していた者としては、結果的に望外のお付き合いを頂いたということである。ただただ学恩に深く感謝するばかりである。
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