コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1992

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

1992/04/15 外国地名の表記法.
1992/04/21 気になる言葉.
1992/04/28 消えた「代かき馬」.
1992/05/12 「ビッテン」のしかた.
1992/05/22 「モスクワのラバ」.
1992/06/03 西瓜の甘味.
1992/06/16 銀世界の夢の跡.
1992/06/26 「父兄会」の行方.
1992/07/08 本当の「田園都市」.
1992/07/21 レタス畑で考える.
1992/07/31 長峰山へ行く.
1992/08/21 「本物」を追い越す.
1992/09/09 一緒に汗をかく.
1992/09/18 美術館で音楽を.
1992/09/26 羊たちの沈黙?.
1992/10/10 答案の誤字、新聞の誤植.
1992/10/21 『ユタ日報』資料の公開にむけて.
1992/10/30 変わった名字.
1992/11/11 「歩ける」街づくりを.
1992/11/26 わが家のキウイ.
1992/12/08 お猿の自動車.
1992/12/22 茶筒を開けて.


1992/04/15 

外国地名の表記法

 クイズを一つ。答は紙に書いていただきたい。では問題「ローマ法王を国家元首とする世界最小の独立国とはどこか?」
 さて、外国地名の日本語表記には、やっかいな問題が多い。中でもいろいろ議論になるのが、使用される片仮名の許容範囲である。
 昨年、新しくなった文化庁の「外来語の表記」は、かなり柔軟に多様な表記を認めている。しかも、この「外来語の表記」は、特殊分野での表記や個々人による表記を規制するものではない、とわざわざ断っている。
 例えば新聞については、日本新聞協会が指針を出して表記の統一を計っているが、最終的には個々の新聞社が表記を決めている。昨年大噴火したフィリピンの火山は、新聞によって「ピナトゥボ」と「ピナツボ」に表記が分かれていた。
 だからといって何でもありというわけではない。例えば、教科書で用いる外来語や外国地名が、教科書によって違っていては都合が悪い。文部省は、文化庁の「外来語の表記」を基に、より厳格に外来語・外国地名の表記の指針を定めており、教科書検定などはこれに従うわけである。
 従来の教科書は、かなり限られた片仮名の範囲で外来語を表記してきた。それが、昨年の「外来語の表記」を受け、学年を追って表記に柔軟性を与え原音に近づけるよう、方針が変更された。実際に新しい表記による教科書が登場するのは、数年先である。
 原音主義も、段階的指導も、それ自体は結構なことである。しかし、教育の一貫性からすれば、問題もある。冒頭のクイズの正解は従来なら「バチカン」市国だった。今後は、小学校低学年で「バチカン」、高学年で「バティカン」、中学校以上で「ヴァティカン」となるらしい。


1992/04/21 

気になる言葉

 松商学園短大は男女共学である。当然、男子学生もいる。昔は、女子の方が少ない時代もあったが、最近では学生の九割が女子、一割が男子といったところである。
 さて、今や少数民族となった男子学生と接していて気になる言葉の一つが、数人の男子学生が使う「自分」という一人称である。例えば「自分は高校から数学は苦手で......」といった、「私」や「僕」に代わる「自分」が、どうも気になってしまうのだ。
 一人称に「自分」を使うのは、軍隊の習慣ではなかったか。私が学生だったふた昔前にも、体育会系のサークルなどでは「自分」が使われていたような気もするが、日常的な場面で使うと、何となく無用の緊張感を持ち込むような、重たい言葉だったような記憶がある。
 今、短大で「自分」を口にする男子学生は決して体育会系の学生ではない。むしろ、ごく普通の、ともすれば集団に埋没しそうなタイプの学生であったりする。彼らが「自分」という言葉を用いるのは、硬派に見せるための演出などではないようである。先日など、提出させたレポートに「自分」があって、私は少々驚いてしまった。それほど、彼らにとっては自然な一人称として「自分」があるらしい。
 言葉は時代とともに変化していくものであるし、人称を表す名詞もその例外ではない。例えば、森鴎外の『舞姫』ではヒロインのエリスを「彼」という言葉で指している。
 軍隊用語の影を引きずらない「自分」が男性の一人称として登場しつつあるとすれば、それも自然な流れなのであろう。しかし、そうだとすれば、この言葉から硬派的な響きを感じ、ある種の無用な緊張感を強制されることになる人も少なくはなさそうである。


1992/04/28 

消えた「代かき馬」

 周知のように、今日「はくばだけ」と読むことの多い白馬岳は、本来「しろうまだけ」と呼ばれるべき山である。この名前は、山腹に現れる「しろかきうま(代かき馬)」の雪形に由来する。春が来て、苗代をつくる時期を知らせるように、山腹に苗代をかく馬の姿が現れる、というのが本来の意味である。
 雪形は、単に自然が生み出す芸術として見いだされたものではない。雪形の多くは、詳しい気象観測データもなかった昔の農民達が春の訪れを知り、耕作の適機を見極めるために生み出し、受け継いできたものである。
 しかし、今日では農業も変化して、雪形は農事暦としての意味を失った。私は、「保温折衷苗代」について中学校で聞いた記憶があるが、苗代を最後に見たのがいつ頃だったかちょっと思い出せない。まして、若者は、「苗代」が何のことかわからなくて当然である。
 さらに、農耕馬の消滅も大きな変化であった。元来、信州には馬産地として著名なところも多く、農耕馬も様々な場面で活躍していた。馬刺しを食す習慣も生活の中に馬がいた証拠である。しかし、戦時には軍馬に動員され、やがて機械化の波の中で動力としての意義を失い、農耕馬は消えていった。
 ずんぐりむっくりした農耕馬である「代かき馬」が、美しいサラブレッドの白馬や、翼をもったペガサスのイメージにすり代わっていくのも、時の流れなのであろう。しかし、人間の都合の犠牲となり、名前さえも消し去られた「代かき馬」の末路は哀れである。
 もっとも、いくら技術が発達しても、野菜の種まきはなくなりそうもないから、爺ヶ岳の「種まき爺」は、まだまだ健在であろう。農事暦とのつながりが消えて、人々の記憶から風化していくことのないよう、爺の健勝を祈りたいものである。


1992/05/12 

「ビッテン」のしかた

 年度の変わり目は、短大にとって一年の中で最も華やかな時期である。季節がどんどんと春らしくなっていく中で、卒業式、入学式と晴やかな行事が続くからである。
 そんな季節に教員の頭痛の種となるのが、単位の認定である。単位が認定されない学生は、悪くすると留年ともなりかねない。
 わが松商学園短大では、例年なら、病気による長期欠席者などはともかく、成績不良による単位不足で留年する者は皆無か、せいぜい一人である。ところが今年は、留年者が数人出てしまった。
 それでも、松商学園短大の留年率は二パーセントにもならない。ある東大の先生の話では、その先生の学部の留年率は以前から一割以上で、最近さらに増加傾向にあるという。さすがに東大は、短大とは桁が違う。
 その先生の説では。学生が勉強しないのは昔も今も大差はないそうだ。最近、目立つのは、うっかりミスの履修漏れや、講義に出ないくせに単位を要求する厚かましい学生だという。「最近の学生はビッテンのしかたも知らん」と、その先生は嘆いておられた。
 「ビッテン」とは、ドイツ語で「お願い」といった意味である。ドイツ語ということは旧制以来の古い学生言葉なのであろう。本来なら認められない単位を、何とかしてもらいたい。そんな学生は昔もいたわけである。
 相手に手間と迷惑をかけて、無理を通す以上、それなりの頼み方があるはずだ。これは単位認定の問題だけではない。最近の若者が恥を忍んで頭を下げるのが苦手で、「ビッテン」下手だとすれば、人間関係に潤滑油がないも同然であろう。
 社会に出れば自然に身につくのかもしれないが、せめて自分のゼミの学生には、上手な「ビッテン」のコツでも教えておきたい。


1992/05/22 

「モスクワのラバ」

 仲間うちやカップルでバーに出かけるようなとき、気の利いたカクテルを注文して自分のセンスの良さをアピールしようとする。これは若い人にありがちな気どり方であり、少し前に流行った言い方をすれば「差異化のゲーム」である。
 さて、文化としての素地がないまま、ブームとして流行っているためか、カクテルについては、見ていて気になることがいくつかある。そうした例を一つだけ紹介したい。
 若い人も注文することが多いカクテルの一つに、「モスコ・ミュール」がある。これを直訳すれば「モスクワのラバ」だが、ここでいうミュール=ラバとは、馬とロバの交配種のことで、「両方の長所を兼ね備えたもの」という意味である。
 このカクテルは、簡単に説明すると「ウォッカのジンジャ・エール割り」である。カクテルとしては比較的単純な部類といえるだろう。ところが、日本のバーで「本物の」モスコ・ミュールを飲めるところは、おそらくほとんどない、と私は考えている。
 今日、最も権威あるカクテル・ブックは英国で出ている。ところが、英国の「ジンジャ・エール」は、日本でそう呼んでいる飲物とは少々違うのである。
 本来ジンジャ・エールは、「じょうが汁」を発酵させた自然な飲物であり、カナダ・ドライのような、過剰な甘味と炭酸の発泡でコーラに近い「ジンジャ・エール」とは別物である。本来のジンジャ・エールは、コーラのようにがぶ飲みできる代物ではなく、スコッチ並みにゆっくりとしたペースで飲むソフト・ドリンクである。
 はたして、甘く発泡した日本のモスコ・ミュールは、本来の味なのだろうか。私も「絶対に違う」という確証があるわけではない。どなたか専門家か、英国でモスコ・ミュールを飲んだ経験のある方に教えて頂きたい。


1992/06/03 

西瓜の甘味

 今年はじめて西瓜を食べた。もちろん、ハウス栽培の小さな西瓜で、値段ほどの味ではない。しかし、初物には初物のありがたさがあり、結構おいしく食べられた。初物を口にしながら、やや気の早い話だが、今年の梅雨はどうなるか、西瓜の出来にどう影響しそうか、などと余計なことを考えてしまった。
 松本平では、西瓜といえば何といっても波田町の「下原スイカ」がブランドである。波田町の西瓜は、扇状地上の畑地の水利が大幅に改善された後、昭和五十年代に自然発生的な産地形成が進んだ。今日では町の農業粗生産額の半分が西瓜によって占められている。
 もともと波田町の下原地区で栽培されていた「下原スイカ」は、とにかく甘く、おいしい西瓜として評判になった。今では首都圏などにも知られている。私も波田町の友人から西瓜を入手しては、夏の楽しみにしている。
 ところが最近、ある波田町の住民と雑談をしていたら「波田の西瓜の味が、段々落ちてきている」という、少々意外な話が飛び出してきた。
 かつて波田町は、甘さを売りものに「下原スイカ」をブランド化させた。ところが、西瓜も近年に至り産地間競争が激化したため、西瓜生産者は、色艶や丸みなど、見た目の良さに気を遣う比重が大きくなり、味の方の改善がおろそかになりがちだというのである。
 この話が本当かどうか、確認することは難しいが、もっともらしい、よくできた話である。実際、消費者であるわれわれが、小売店の店先では確認しようもない「味」よりも、「見た目」を重視して商品を選ぶのは、ある意味では止むを得ないからである。
 しかし、「下原スイカ」のために述べておけば、少なくとも私の舌は、味の変化を捉えていない。味の低落?という危惧が、杞憂であることを願いつつ、今年の夏と今年の西瓜を待ちたいと思う。。


1992/06/16 

銀世界の夢の跡

 乗鞍は、わが国のスキーの歴史の中でも、山岳スキーのメッカとして戦前から有名な場所である。現在でも、冬場には、国設の乗鞍高原温泉スキー場、村が運営する猪谷スキー場が、多くのスキー客を集めている。
 昨年、国設スキー場と猪谷スキー場を結ぶツアー・コースが設定された。ツアー・コースといっても、約三キロで標高差二百メートルを下る、初心者向けゲレンデ並の快適なコースである。
 二つのスキー場を結ぶこの一帯は、かつて溶岩流が押し出して形成された緩斜面と、湿地化した窪地の植生に特徴のある、ハイキング好適地である。ほとんどが地元大野川区の区有地で、猪谷スキー場のごく近くを除けば、国立公園に組み込まれている。
 ツアー・コースは幅十メートルほど。尾根のコブを削り、小さな窪地を埋める、国立公園内としては思い切って大規模な土木工事で作られた。これだけの工事をして冬しか使わないのはもったいないらしく、「遊歩道」という看板がコースのあちこちに立っている。
 昨年、工事後間もない頃は、土がむき出しで、寒々しい風景だった。以前の景観を知る者としては、唖然とするほどの地形改変であった。その後、遊歩道整備の進捗を期待していたのだが、整備はまったく進んでいない。
 それどころか、今年は、遊歩道を横切って新たに牛よけの鉄条網が設けられ、ハイカーは、足場の悪い沢に足を踏み入れないと「遊歩」できない有様である。ブルドーザーで踏み固められただけの地面には、建築廃材やゴム長靴が顔を出している。生えているのは雑草だけで、山道にも劣る「遊歩道」である。
 私は、観光開発を必要と考えるし、盲目的な自然保護の主張は頂けないと思っている。しかし、実際に歩く者の立場からすれば、敢えて自然を破壊し、その後の「遊歩道」としての整備を怠っている開発当事者の姿勢は許し難い。このツアー・コースは、銀世界ではすばらしいコースであるだけに、夏場の無念の思いは余計に強くなるのである。


1992/06/26 

「父兄会」の行方

 先日、わが松商学園短期大学の後援会が定例の総会を開いた。といっても、学外の方には何のことか、とっさには判らないかもしれない。後援会といっても、政治家の後援団体のように、志さえあれば誰もがメンバーになれる会ではない。
 松商学園短大の「後援会」というのは、短大に通う学生の親御さんたちの会である。要するに、小中学校や高校のPTAに相当するものを、短大では「後援会」と称しているのである。他の学校などには、「PTA」のほか、「保護者会」「父兄会」といった呼び方があるようだ。
 こうした親の集まりの名称は、学校などの教育観などを反映し、歴史的にも変化をしてきた。特に、かつて最も普通の言い方だった「父兄会」は、近年ほとんど聞かれなくなっている。確かに「父兄会」は、旧民法の戸主制度に基盤をおいた名称であり、今日の男女同権社会にはなじまない表現である。
 というようなことを考えていたら、先日、偶然に、水田の中に立つ標語看板に、「父兄会」の文字が大書きされているのが目に止まった。それは「自衛隊父兄会」の立て看板であった。
 確かに、いざというときに息子たち(娘たち)を危険な任地に送る「父母会」というのは、どうも語感にそぐわない。「保護者会」というのも、成人を含む場合には不適当だ。「後援会」では意味が曖昧になってしまうのであろう。
 「父兄会」という古風な言い回しは、かつて農家の次三男が、家督を継いだ長男に代わって軍務に就いたことを思い起こさせる言葉でもある。その意味では、学校で目立たなくなった「父兄会」が、こんなところで生き残っているのも、自然なことかもしれない。
 しかし、事実上の軍隊に「父兄会」があるというのも、少々奇妙な話である。それも日本の平和の象徴なのであろう。


1992/07/08 

本当の「田園都市」

 このところ、松本市を中心に、市町村が合併論がいろいろ出ている。この合併論の発端は、有賀松本市長のいう「田園都市構想」にある。どうやら有賀市長は、「田園風景を残した都市」という程度の意味で「田園都市」を使っているようだ。
 しかし、そのような曖昧な意味で「田園都市」を用いるのは、実は誤用といってもよいくらい、不適当なことなのである。このことを有賀市長はご存じなのだろうか。
 「田園都市」という日本語は、英語の「ガーデン・シティ」の訳語である。「ガーデン・シティ」は、日本に紹介された当初、花園都市などとも訳されたが、明治四十年に内務省地方局有志の編纂による『田園都市』という本が刊行され、この訳語が定着した。
 さて、その「田園都市」は、十九世紀末に英人エベネザー・ハワードが『明日の田園都市』を著して、その構想を世に問うた内容に由来する。本来の「田園都市」は、当初は大都市近郊の衛星都市、後には郊外住宅地の開発構想として議論が展開されたものであり、今日のニュータウン計画などの先駆となったアイデアであった。
わが国でも、渋沢栄一らが田園都市株式会社を設立して、郊外住宅地開発にあたり、田園調布などを開発したことは有名である。田園都市株式会社の後身である東急電鉄グループは、現在も横浜市の北部に「田園都市線」という路線をもち、計画的な郊外住宅地開発を続けている。
 こうした文脈で捉えれば、松本市は「地方都市」ではあっても、田園都市であるはずがない。このように学術的背景と一世紀近い歴史をもった言葉が、都市計画などに疎い人々、特に政治家にもてあそばれ、本来の意味を歪曲されるのは、何とも残念である。
 なお、本来の田園都市に関心を持たれた方には、さしあたり東秀紀『漱石の倫敦、ハワードのロンドン』(中公新書)をお薦めしておきたい。


1992/07/21 

レタス畑で考える

 いわゆる「サラダ街道」の南の入口にあたる塩尻市洗馬地区は、わが国有数のレタスの産地である。先日、久しぶりに、東京からきた学生たちと一緒にレタス畑を歩き回った。
 洗馬では、他に先んじて戦前にもレタス栽培を試み、戦後間もない頃から本格的にレタスに取り組んでいた。
 しかし、決定的な産地形成が進んだのは、昭和四十年前後であった。この頃、出荷用段ボール箱の導入で作業量が軽減された。さらに、梓川水系の開発と農地構造改善事業によって農業水利が大幅に改善され、優良農地が一挙に広がった。
 現在、洗馬では、およそ六百五十町歩のレタス畑がある。この辺りは準高冷地で、出荷のピークは初夏六月と秋九月である。最盛期には、東京市場のレタスの三分の一が洗馬産で占められるという。
 一時のように「レタス御殿」の建設ラッシュこそないが、洗馬のレタス農家は経営面でも恵まれている。レタスを数町歩作る農家の中には、年商が三千万円を超え、消費税を納める者もいる。
 レタスは、農繁期には早朝から夜まで手間がかかる。地元の関係者の話では、大規模な農家ほど一生懸命すぎるくらい働くそうである。「これからはゆったりと農業をすることを考えなければ」とその人は力説していた。高齢化などを考えると納得する説である。企業だけでなく農家にも「ゆとり」が求められる時代なのだ。
 しかし、私はこの話に、これとはもっと別の感想ももった。いつの時代も、どんな事業でも、起業家精神と熱意をもって仕事に取り組む人々がいてこそ、次の時代への道が拓かれる。働きすぎる農家の中には、研究熱心な篤農家も多いはずである。
 農業も、利益を追求する事業として取り組む姿勢が必要なのではなかろうか。ちなみに青色申告の農家は、来年から複式簿記の帳簿を用意しなければならないそうだ。農業と他の事業の違いは小さくなろうとしている。


1992/07/31 

長峰山へ行く

 明科町の長峰山(標高九三四メートル)は、穂高町を中心に安曇野の全景を眼下に一望できる気持ちのよい場所である。今春放送された、穂高町を舞台にしたドラマ『あの日の僕をさがして』にも、長峰山の場面があった。
 先日、東京の知人に、その場面がどこかとたずねられた。その場では判らなかったのだが、帰ってからビデオを見直して長峰山だと気がついた。たまたま翌日の午後、時間があったので、ミーハーっ気の強い私は、初めて自分の運転で長峰山へ出かけてみた。
 草地の開けた山頂部の西側斜面からは、安曇野の全貌が見える。あいにく対面する北アルプスに側には霞がかかっていて、峰々の姿は遠望できなかったが、午後の陽差しに輝く川の流れは美しかった。山頂周辺は、ほどほどに手入れがなされており、ぼんやりするには絶好の雰囲気であった。
 しかし、今回、長峰山へ行ってみて、最も印象深かったのは、林道の途中で再三眼を奪われた、美しい猛禽類の姿であった。私は鳥類に詳しくないのでよくは判らないが、複数種の大型猛禽類の羽ばたく姿を間近に観ることができた。
 長峰山はハンググライダーの飛行地として知られるように、良好な上昇気流の得られる場所である。上昇気流に乗って舞い上がり狩りをする猛禽類にとっても、居心地がよいのであろう。
 機会をみて、今度は歩いて登ることにも挑戦したいものである。そうすれば、もっともっとじっくりと、猛禽類たちの優美な姿を眺めることもできるだろう。その時は、図鑑を持参して、出かけることにしよう。
 しかし、もし可能ならば、山頂の一角か、林道の入口にでも、長峰山の鳥類に関する詳しい案内板を設置してもらえないだろうか。そうすれば、多くの人々にとって、長峰山の楽しさが、一層大きくなるに違いない。


1992/08/21 

「本物」を追い越す

 八月はじめ、ポピュラー音楽関係の研究仲間と、エレキ・ギターを製造している松本市のF社の工場を見学した。日産五百本のギター類が出荷されるという、世界的にも屈指の規模の工場である。
 整備の行き届いた生産ラインには実に多様な細工、加工の工程が組み込まれている。精度を要求されるネック部分の加工、何重もの吹き付けと研磨を繰り返す塗装工程は、とりわけ興味深かった。典型的な多品種少量生産であるエレキ・ギターの分野で、大手の総合楽器産業などを相手に回して、生産量が断トツの首位というF社の努力と工夫が行程の端々に感じられた。
 さて、F社も一朝一夕に現在の地位を築いたわけではない。F社は、三十年余り前の設立直後にはバイオリンの製造を試みるなど試行錯誤の時期があり、一九六二年、ちょうど三十年前にエレキ・ギターの製造を始めた。
 その後、東京五輪の一九六四年にはベンチャーズ・ブームが起こり、さらにグループ・サウンズの登場で、需要は国内外とも急成長を遂げた。しかし、当時、まだ国産ギターの評価は低く、米国製が世界市場では主流であり、国内でも高値で取り引きされていた。
 F社も、米国メーカーの人気モデルに外観を似せた普及品が主力商品だった。「本物」に手が届かない者のための「複製」である。私も少年の頃、当時のF社の雑誌広告の写真を通じて、ギターのモデル名を憶えた記憶がある。「複製」の広告が「本物」のカタログ代わりだった。
 ところが、おかしなもので、普及品であるはずの「複製」の品質向上を積み重ねていった結果、F社の技術水準は、やがて米国を凌ぐ域にまで達するようになっていった。そして遂に十年前、一九八二年に、F社は米国の二大メーカーの一方と提携し、メイド・イン・ジャパンの「本物」をOEM生産することになった。物まね同然から始めたのが、本家を超えたわけである。その後も、米国メーカーのブランドによる生産は順調に拡大した。
 今やF社は、国内シェアー首位、世界的にも有数の生産量を誇っている。同様の話は他の業界にもあろうが、地元にこうした元気な企業があるとは、なかなか痛快である。


1992/09/09 

一緒に汗をかく

 日曜日の朝、隣組で動員がかかっていた排水路の掃除に出た。ここ数年、週末は東京へ出ていることが多く、この種の勤労奉仕はいつも「出不足」で勘弁してもらっていた。白状すれば、今の家に引っ越してからは初めて顔を出したのである。
 出かけてみると、総勢二十名ほどが排水路に入って草を刈り、泥を揚げている。私は新参なので顔を名前は一致しないが、よく見かける近所の人たちが、膝まで水に浸かっている。半ズボンに長靴の私も、さっそく水に入り、要領も判らないまま悪戦苦闘した。
 作業をしつつ、休みつつ、おじさんたちはおしゃべりをする。天気の話、農作業の話、いろいろな昔話、話の種は尽きない。わいわいしているうちに作業ははかどっていく。もちろん終わった後はビールが入って、なおさら話に花が咲く。
 わが隣組は「出不足金を出す人が少ないので、飲み食いを節約しなきゃ」というくらい参加率は高い。「昔は道普請やら何やら勤労奉仕も多かったが、今は排水路の掃除くらいしか、みんなでやらない」という話が出る。非農家も含めた隣組が顔を揃え、一緒に汗をかく機会は少なくなっている。作業後の一杯は、貴重な社交の場でもあるようだった。
 しかし、少し気になることもある。ほぼ全戸が作業に出てはいるが、青年層はほとんどいない。この日、働いたのは、孫がいそうな「おじさん」たち、奥さんたち、そして働き盛りの男衆がそれぞれ三分の一ずつで、若い者はたった一人。「遊び」とは限るまいが、日曜日といえども若年層は忙しいようだ。
 よそでは、出不足金ばかり入って人手が足りない、という例もあるようだ。人それぞれに、いろいろ都合があるのだろうが、ちょっと淋しい感じもする。私も、何とか来年も参加しなければと思いながら、まだまだ話の続く座から、一足早く席を立った。


1992/09/18 

美術館で音楽を

 クラシック音楽が成立する以前の音楽、つまり大バッハ以前のバロック音楽は、楽器が特殊なため演奏者も少なく、生の演奏に接する機会は決して多くない。偶然、愛好者による演奏会があることを知って、豊科の「美術館」に出かけた。
 今年の春に開館した豊科近代美術館は、豊科北中学校の旧校地にある。小規模な「美術館」の多い安曇野の中では、最も新しく、やや大きめの美術館である。しかし、国道から入った目立たない場所にあるせいか、地元でも、まだ出かけていない人もいるようだ。
 豊科近代美術館は、彫刻家であり、『ミケランジェロの生涯』の訳業(岩波文庫)や数多くの著作でも知られる高田博厚(一九〇〇―一九八七)の作品を常設展示する美術館だが、同時に、多目的ホールや一般用の展示室も備えられている。演奏会は、その多目的ホールで行われていた。
 演奏会といっても、肩の凝るようなものではない。集まった聴衆は二十名余りだけ。演奏者の腕前も、失礼ながらバラつきがある。しかし、素朴な時代の素朴な音楽に似つかわしい、和やかで手作り感のある、さわやかな演奏会だった。
 開け放たれたホールの音は美術館中に響きわたる。館内に流れる音楽を耳にして、ホールの入口からのぞき込む人たちもいた。ホールをのぞかなかった人々も、彫刻や絵画を鑑賞する場に流れてくる優雅な響きを楽しんだことだろう。
 美術館は、ただ「美術」を陳列するだけの場ではない。文化活動一般の拠点として機能できなければ、その価値は半減する。
 豊科近代美術館は、演奏会への会場提供だけでなく、CD鑑賞会や美術講座など、地道な企画にも取り組んでいる。その姿勢と、学芸員諸氏の努力には敬意を表したい。こうした活動の積み重ねの中から、地域の人間が何度も足を運び、文化活動の拠点となるような美術館が育っていって欲しいものである。


1992/09/26 

羊たちの沈黙?

 夏休みも開けたこの時期、各地で高校生を集めた「進学説明会」が開かれる。わが松商学園短大でも、教職員が各地の説明会に出かける。広報担当の私も出かける機会が多い。
 先日、松本のホテルで説明会が開かれたときのことである。会場は大入。地元ということもあり、松商学園短大のテーブルには説明希望者が列を作って順番を待っていた。
 終了時刻の三十分ほど前だった。やっと順番が来て席についた女生徒二人。なぜか、なかなか口を開かない。仕方なく、こちらから「何から説明しましょうか?」と促すと、型どおりの質問が出てくる。しかし、説明への反応はほとんどない。
 そうこうするうち、質問が途切れる。しばし沈黙が続く。何か質問を考えているのかもしれないから、こちらから「質問がないなら帰れ」とは絶対にいえない。質問が出るか、切り上げの意思表示があるのを期待して、こちらから話を継ぐが、彼女たちはすぐまた沈黙に沈んでしまう。席を立つ気配は全くない。
 その間も、後ろには別の説明希望者が並んでいた。並んでいた生徒たちは、最終的には別の担当者から説明を聞くことができたが、二人の女生徒と私が沈黙して向き合っているのを、どんな気持ちで見ていたのだろう。
 やがて終了の時刻になり、撤収が始まろうとしても、彼女たちはこちらの問いかけへの弱い反応と、沈黙とを交互に続ける。結局、他の説明希望者もいなくなり、周囲で撤収が始まったので、私は仕方なく「質問がなければ、もうおしまいだから」と二人を促した。私はすっかり滅入った気持ちになっていた。
 彼女たちは、ちょっと内気で、素直な、普通の少女たちである。しかし、ここまで主体性が希薄で、状況判断もできない(相手や、待っている者の立場まで、思いが至らない)となると、呆れるのを通り越して、彼女たちのことが心配になってくる。こうした重症の「指示待ち」は増えているのだろうか。考えるだけでも頭が痛い。


1992/10/10 

答案の誤字、新聞の誤植

 「誤字は文章の宿命、誤植は印刷物の宿命」である。といっても、こんな格言があるわけではない。私のでっち上げである。しかし、かなり説得力のある言葉ではなかろうか。誤字、誤植にまつわる話は古今東西いろいろある。私自身、何度も恥をかいてきたが、この際、自分のことは棚に上げて話を進める。
 先日、短大の前期試験が終わった。私が担当する「商業学」は、毎年ほぼ同じ内容を形式を変えて出題しているが、今年も答案には、定番の誤字が多数見受けられた。中でも毎年登場する横綱級が「ハクリタバイ」と「ジンケンヒ」である。
 東の横綱は「簿利多売」。「薄利多売」をこのように書いてしまうのは、字形の類似による誤りである。しかし、この間違いは、それこそ松商学園短大生の宿命かもしれない。
 わが短大の学生の大多数は普通高校の出身で、高校では簿記を学んでいない者が圧倒的に多い。当然、彼らは入学後すぐに、簿記の入門段階に取り組むことになる。特に商学科の学生は、徹底的に簿記と格闘し、「簿」の字を頭に刻むことになる。その結果が「簿利多売」となるらしい。
 これに対し西の横綱は「人権費」。「人件費」をこう書くのは同音異義の取り違えである。確かに基本的人権の一環は、適正な賃金(裏返せば人件費)なのかもしれないが、誤字は誤字である。
 もっとも、学生の答案に限らず、ワープロの普及とともに、この種の同音異義型の誤字は増加しつつあるようだ。この間も、県紙の紙面に平等院鳳凰堂のカラー写真があって、見出しに「和風洋式」という文字が踊っていた。旧開智学校ではないのだから、もちろん「和風様式」が正しい。
 県紙クラスの見出しの単純な誤植は、比較的珍しい。新聞読者の中には、誤り探しのマニアもいて、こうした誤植などを見つけては指摘するのを楽しんでいるらしい。市民タイムスに迷惑をかけないために、私もせめて、原稿提供段階での誤字は撲滅したいと思う。


1992/10/21 

『ユタ日報』資料の公開にむけて

 一九一四年から一九九〇年まで、米国ソルトレーク市で『ユタ日報』という邦字新聞が発行されていた。先頃この『ユタ日報』に関する諸資料が、松本市に寄贈された。新聞の現物や活字一式など、その内容は貴重なものである。松本市は併せて『ユタ日報』全号のマイクロ・フィッシュも購入する。
 最初に、このニュースに接したとき、このような貴重な資料を、どのように管理し、また公開していくのだろうかと考えた。松本市には、この資料の受け入れに適した「博物館」がないように思われたからである。結局、この『ユタ日報』関係資料は、市立図書館で、来年から展示公開されることになった。
 公立図書館は、地元住民へのサービス基本的業務である。しかし、単純に地元住民の最大公約数の希望に応える「貸本屋」となることだけが公立図書館の機能ではない。各地で公立図書館が充実する中で、図書館のネットワーク化など、新しい課題も出てきている昨今では、他の図書館にはない特色あるコレクションを整え、地元以外の人々からも広く利用されるような図書館をつくり上げることも、図書館の大きな課題になっている。
 かつて松本市立図書館には、「山岳文庫」という特色あるコレクションがあり、地元住民のみならず、広く山岳関係者に利用されていた。残念ながら「山岳文庫」は、継続的に拡充されることなく、まとまった「文庫」としての価値を時代とともに失い、結局は図書館の新築移転を機に解体された。現在では旧「文庫」の一部が、一般書と一緒に配架されるだけとなっている。
 せっかく市立図書館に『ユタ日報』関係資料を展示するのであれば、これを機に、海外日系新聞に関する資料を組織的に収集し、新たな「文庫」をつくってみてはどうだろうか。管見する限り、この種のコレクションは全国的にも例がない。
 『ユタ日報』資料への理解を深めるためにも、関連する日系新聞関係の資料収集は、意義が深い。また、『ユタ日報』と同様に、移民対象の邦字紙の一部は、廃刊と資料散逸の危機に瀕している。何も専門図書館をつくる必要はないし、予算の許す範囲でいいから、何とか取り組んで欲しいものである。


1992/10/30 

変わった名字

 秋は学会のシーズンである。学会のようなイベントには「縁の下の力持ち」的な仕事がつきものである。私もある小さな学会の雑用を手伝っているので、この時期にはプログラム発送用の名簿整理などに、けっこう時間をとられている。
 全国に散らばる学会メンバーの名簿を整理していると、実にいろいろな名字がある。例えば、五十音順に名簿を整理するのにやっかいな、読み方の見当がつかないような難読の名字も少なくない。また、思わずニコリとしたくなるような楽しい名字に出くわすこともある。
 例えば、私の学会のメンバーに、奈良県の大学で教えている女性がいる。この先生の名字は「奥」という。ふだん私は、この先生を「奥先生」とか「奥さん」と呼んでいる。
 「奥先生」はそこそこのご年齢でもあり、私たち仲間うちで「奥さん」と呼んでも余り違和感はないのだが、考えてみれば、男性や若い女性の「奥さん」も世の中にはたくさんいるのである。堂々たる紳士が、いんぎんに「奥様」などと呼びかけられる図を想像してみれば、奇妙な感じがよくわかるだろう。
 これに匹敵しそうなは、私の小学校の同級生だった女性が、結婚して名乗ることになった新姓である。彼女は結婚して「上」という名字になった。
 「上さん」というくらいならともかく、これが「上様」となるとまるでお殿様のようである。もっとも昨今では、「上様」の価値も下がっているようで、領収書の宛名には相手が誰でも「上様」と記すのが普通になっている。というわけで、時折、領収書の整理などをしていると、同窓会では昔の通り「みっちゃん」と呼ばれている彼女のことを思い出すのである。
 ちなみに、手元の五十音別電話帳を見る限り、松本には「奥」さんも、「上」さんも、おいでにならないようである。


1992/11/11 

「歩ける」街づくりを

 長野県は、全国的にみても、最も自動車の普及が進んだ地域である。最近の統計では、県民一・五人に一台の割合で自動車がある。
 これだけ自動車が普及していると、日常生活における人々の行動様式も、自動車の利用が前提となる。当然ながら、日常生活の中で自分の足で「歩く」く距離は、だんだん短くなっていく。ちょっとそこまで行くのにも、車のお世話になることが多くなる。
 私は授業の一環として学生を連れて商店街をなどを歩くことが多い。そうした際に見ていると、数キロ歩いただけで疲れた顔になり、うんざりしている学生が結構いる。
 商業面に限らず、地域のことを実際に肌身で知るためには、歩き回るのが一番大切である。自分の町を歩かない学生は、自分の町のことを知らない。実に困ったものだ。
 もっとも、自動車の普及とともに歩かなくなったのは学生たちばかりではない。一般の人々もまた歩かなくなっている。自動車の普及=モータリゼーション進行の必然的な結果として、歩く人々が減っている、という説明には強い説得力がある。しかし、それだけですべてを説明できるのだろうか。
 私自身の「歩く」経験から気になるのは、自動車普及の陰で、歩いて楽しい、歩きやすい街や道が少なくなっているのではないか、という点である。自動車の普及は、「歩きやすさ」の内容や意味を変えた。時の流れとともに変質していく「歩く」楽しみを常に先取りしているような街は決して多くない。
 街づくり、道づくりは、商店街振興や、観光振興といった文脈において大きな課題となっている。しかし、本来、街や道の問題は、地域で生活するみんなが、自分の家や庭の手入れの延長線上で、考えるべきものである。
 景気対策の公共事業か、最近あちこちで工事を見かける。自動車の便を考えた事業ばかりでなく、地域の声を反映した「歩く」環境づくりにつながる事業は、どのくらいあるのだろうか。


1992/11/26 

わが家のキウイ

 わが家の庭には、藤棚ならぬキウイの棚がある。もちろん私が植えたものではなく、庭仕事に精を出していたらしい先住者の置き土産である。
 わが家の先住者たちは庭いじりに熱心だったようで、小さな庭には季節に応じていろいろな草花が咲く。植木も小さな庭には不釣合いなほどある。キウイの樹(蔓?)も一本だけしかないものの、三坪ほどの棚いっぱいに枝を広げ、たわわに実を結ぶ。
 この家に引っ越してきたばかりの頃、初秋にキウイが実を結んだのを見て、さっそくもぎ取り、切って食べてみた。苦みがあって美味しくない。「まだ収穫には早いのか」と考えた。しばらくしてから同じように食べてみたが、やはりまずい。そんなことを繰り返すうちに、冬になり、収穫をしないまま落果となってしまった。
 お恥ずかしい話だが、私は園芸や果樹栽培には関心が薄く、ろくに知識も持っていない。キウイを落果させてしまったときは、「ウチのキウイは食用にならないのか」と思い込んでしまった。当時は、キウイは収穫してから保存して熟すのを待つ果物だということを知らなかったのである。
 山口県の宇部短期大学の伊東裕子先生の論文によると、キウイの「おいしさ」は、甘さと適度の酸味、そして柔らかさから構成されているという。キウイは、追熟とともに甘さを増していくが、一定の限界を超えると酸味が足りなくなってしまい、「甘い」けれども「まずい」状態になるそうだ。要するにキウイは、追熟の加減、食べるタイミングが何より肝心というわけだ。
 とはいえ、素人判断では一番おいしいタイミングをつかむのは難しい。先日収穫したわが家のキウイは、いま台所の一角で袋に入って置かれている。今年も試行錯誤を決め込んで、年が改まった頃から、少しずつ取り出しては味見をしてみるつもりである。


1992/12/08 

お猿の自動車

 列車の無資格運転に関するニュースが相次いでいる。どうやら無資格運転は、かなり当り前の習慣として、広く行われていたようである。関西の私鉄では長年、弁護士会や地検の求めに応じて、司法修習生が「研修」として無資格運転をしていたというのだから根深さも相当である。
 無資格運転が広まった背景には、列車の自動制御化の進行があるようだ、ハイテクを導入した運転台では、運転者が大した操作をしなくても、列車は一通り運転できる。
 昔の遊園地では「お猿の電車」が人気だったが、通常の運転に限れば、現代の列車はほとんどこれに匹敵するくらい運転手の負担が軽減されている。現場の感覚からすれば、非常時に対応できる「プロ」の運転手が介添していれば、「素人」にハンドルを握らせても危険はないということだったのだろう。
 実際、島原鉄道や信楽高原鉄道の衝突事故など、最近の大きな鉄道事故は、自動制御システムがない(止められた)状態で「プロ」の運転手たちが起こしている。無資格運転は確かに問題だが、運転手が介添していたという報道を信じる限り、安全性の面では、実はさほど深刻ではなかったのかもしれない。
 これが急行の座席なら、せいぜい前のシートを回転させて前の席に両足を投げ出すことくらいしかできない。なかなか熟睡できないのが実際である。
 私にとって、むしろ恐ろしいのは「お猿の自動車」である。自動制御できる「ナイトライダー」のような自動車は、今のところないからである。
 私は三十歳を過ぎてから自動車の運転免許をとったが、教習車に初めて乗ったとき、いきなり教官から「運転したことありますか」と質問された。要するに免許を取りにくる人の多くが、無免許運転を経験しているということなのだろう。
 われわれの社会のホンネは、米国ほどではないにしろ、自動車の無免許運転や飲酒運転に寛容である。これからの時期は、若者が集まる機会も飲酒の機会も多くなる。私自身、不注意から交通事故を起こしたことがあるので、偉そうなことは言えないが、運転すべきでない人がハンドルを握る「お猿の自動車」が起こす事故に巻き込まれることだけは何とか願い下げにしたい。


1992/12/22 

茶筒を開けて

 常識のないことを、恥をかきながら教えられるという経験は、結構いい歳になっていてもよくあるものだ。
 先日、ご年輩のM先生の部屋で雑談をしていた時のことである。お茶を入れることになり、M先生の手を煩わせてはいけないと思った私は、卓上にあった茶器に手を伸ばした。
 何気なく茶筒から茶葉を急須に入れていると、M先生が「君、違うよ」と言われたので思わず手を止めた。私は使うべき茶葉を間違えたのかと思った。
 「いや、そうじゃないんだ」とM先生がおっしゃるには、茶葉のとり方、分量の加減の仕方が違うというのである。その茶筒には茶匙が入っていなかったので、私は蓋をとった茶筒を傾け、筒を上からコツコツ叩きながら少しずつ茶葉を急須に落としていた。
 M先生は「蓋にとってから、蓋を回しながら入れるんだよ」といいながら、茶筒を手にやり方を教えて下さった。なるほどこれなら微調整がきくし茶筒を叩くより手つきはずっと優雅である。
 その夜、帰宅してコーヒーを入れているとき、茶筒を叩く私のクセが、インスタント・コーヒーを入れるときに身についたものだと気づいた。そういえば最近は急須の用意や茶がらの処理が面倒なのか、日本茶を自分で入れることはめっきり少なくなっていた。学生時代に四畳半の下宿に茶がらを撒き、箒で掃いていた頃が信じられないくらいである。
 日本茶に比べれば、インスタント・コーヒーやティー・バッグの紅茶の方が何かと手軽である。レギュラー・コーヒーでも、ドリップ式なら後かたづけも日本茶より簡単だ。ふと気づけば、ずぼらな私は、久しく急須で茶を入れていなかった。
 味覚の西洋化とともに、日本茶を飲む機会も減ってきている。お茶を入れる際の何気ない所作が変化していくのも、仕方のないことかもしれない。
 コーヒーを入れたあと、私は台所の茶筒を開けてみた。何カ月も前にもらった茶葉が、ほのかに香っていた。

このページのはじめにもどる
1992年///1994年の「ランダム・アクセス」へいく
テキスト公開にもどる

連載コラムにもどる
業績外(学会誌以外に寄稿されたもの)にもどる
業績一覧(ページトップ)にもどる

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく