雑誌論文(その他):2003:
百周年を迎えるレッチワース田園都市
―姫野侑教授の「研究ノート」によせて―.
東京経大学会誌―経営学―(東京経済大学),234,pp27-40.
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百周年を迎えるレッチワース田園都市
―姫野侑教授の「研究ノート」によせて―.
はじめに
姫野「研究ノート」の射程
公社解体から財団の成立へ
新体制下の中心市街地再開発
おわりに
注
文献
謝辞
百周年を迎えるレッチワース田園都市
―姫野侑教授の「研究ノート」によせて―
山田 晴通
はじめに
1903年,エベネザー・ハワードの構想を実現することになる最初の田園都市(Garden City)の建設が,ロンドンから50kmあまり北方の,ハートフォードシャー北部のレッチワースで始まった。今年,2003年は,レッチワースが,そして田園都市が,百周年を迎える記念すべき年であり,現地で様々な記念行事が行われるほか,英国のみならず日本でも都市計画など関連する分野で,田園都市を再考する機運が高まりつつある1)。
姫野侑教授は,交通論のみならず,広く都市問題全般についても関心を寄せていた。1990年代の初めには,田園都市論とレッチワース田園都市の歴史に関する3篇の「研究ノート」が『東京経大学会誌』に発表されている(姫野,1991,1992,1993)。当時は,まだバブルの余韻が残る時期であった。姫野の「研究ノート」は,歴史的事項を扱ってはいるが,猪瀬直樹の『土地の神話』(1988)に刺激されて執筆されたものでもあり,バブル経済とその破綻という同時代の動きを踏まえた議論として読むことができる。「土地神話」に支えられて土地が投機の対象となり,経済に歪みが生じ,やがてはひとつの経済体制が崩壊するという過程の中で,姫野は,現状とは異なる選択肢の可能性を求めて,ハワードの再読(姫野,1991)と,猪瀬(1988,pp.287-326)が紹介したレッチワースの開発主体をめぐる歴史の検討(姫野,1992,1993)に取り組んだのであろう。一連の「研究ノート」は,猪瀬(1988)を片目で眺めながら,Plinston(1981)などの英文文献に向かい,その要約と論評を一体化させながら綴った,読書ノートのようなものになっている。しかし,残念ながら,こうした「研究ノート」を踏まえた独自の議論を姫野が展開する機会は訪れなかった。
本稿は,姫野(1993)が対象としていたレッチワース田園都市公社が成立して安定した経営が確立された時期の後,概ね1980年代以降のレッチワースにおける展開を,レッチワース田園都市公社の解体とレッチワース田園都市遺産財団の成立を中心に素描しようとするものである。言い換えれば,本稿は,レッチワースが百周年を迎える現在の観点から,姫野の「研究ノート」に書き込む補注のようなものである。
姫野「研究ノート」の射程
姫野(1991)は,ハワード田園都市論への入門的概説として綴られたものである。姫野が強調したのは,「結びにかえて」(pp.246-247)に要約されているように,都市問題の解決策として「土地の共同所有制とトラストにもとづいた田園都市」が「自然と都市的生活様式の共存そして開発利益の地域社会への還元を都市開発の両輪として社会都市へと発展していくことが展望されている」という点であった。田園都市論は都市問題の現実的な解決策として提起された議論だという出発点と,開発利益の地域還元をその受け皿となる地域社会の改革と連動するものとして捉える視点は,ハワードの議論の中でも,姫野(1991)が特に強い関心を寄せているところである。
しかし,東(1991,pp.134-146)が要約しているように,最初の田園都市であるレッチワースの建設に際しても,ハワードの主張は排除されることが多く,ハワードの理念がそのまま実現されることはむしろ少なかった。さらに,英国において田園都市の理念がニュータウン政策へと発展していく過程において,また,日本における田園都市論の受容過程においても,ハワードが掲げていた理想主義的な理念や,田園都市建設を通じた社会改革へのまなざしは抜け落ち,「田園都市」という言葉が一人歩きしたり,もっぱらハード面でのアイデアだけが受容されていくことになった。姫野も,こうした認識に立った上で,ハワードの理念を堅持しようと様々な努力が積み上げられた第二次世界大戦後のレッチワースの経験を検討することで,社会改革への道程を解き明かす手がかりを探ろうとしたのであろう2)。
一連の「研究ノート」のうち,姫野(1991)は,ハワードの田園都市論を,開発利益の地域還元を可能にするような土地所有制度と開発主体の形態に焦点を当てて要約したものである。そこでは,ハワードの理想主義的かつ市場主義的な主張によって,開発利益をほとんど出資者に配当しない民間組織という,矛盾をはらんだ開発主体が編み出された背景が説明されている(pp.239-242)。ハワードはもともと田園都市建設の手法として,法的な土地所有者が,田園都市の一元的な開発主体に土地を信託(トラスト)する,実質的な土地の共同所有制(あるいは一括所有制)を想定していた(姫野,1991,pp.236-239)。しかし,ハワード自身が開発用地を資産として保有しているわけでも,ハワードの理念のために用地を提供する土地所有者が現れるわけでもない以上,まず広く出資を募って株式会社を設立し,土地を確保した上で,田園都市を建設していく必要があった3)。
姫野(1992,1993)は,レッチワースの開発に永年携わった当事者であるプリンストンの『一都物語』(Plinston,1981)に依拠しながら,レッチワースにおける現実の田園都市開発の経緯を,開発主体の組織的変遷に焦点を当てて検討している4)。レッチワースの場合,立ち上がりには若干の経緯もあったが,最終的に1903年には,実際の開発主体となる第一田園都市株式会社(First Garden City Ltd.)が設立された5)。第一田園都市株式会社は,非営利目的の株式会社として,定款に株主の配当請求権や残余資産請求権への制限を謳っていた。こうした形態は,市場原理に順応して効率的な経営を進めつつ,利益の地域還元を実現することができる,有効な手法だと考えられていた。戦後のアトリー労働党政権がニュータウン建設のビジョンを提示し,民間ではなく国家の手による開発に乗り出した際にも,いちはやく1948年に国有化(公社化)されたウェリン6)とは対照的に,レッチワースの第一田園都市株式会社は,1949年の臨時株主総会で,開発完了時点での「会社の町議会への移管」を決議することによって,国有化を免れた。こうした経緯は,政府の非効率性を嫌ったハワードの理念が守られたものと考えても良いだろう。しかし,その背後には,国有化によって資産を失いたくないという一部株主の思惑も働いていた。開発の成功によって含み資産が膨らみ,株主の権利への制限が定款から段階的に外されたため,1960年以降には会社は乗っ取りの標的となり,会社から利益を引き出そうとする大株主と,ハワード以来の田園都市の理念を擁護しようとする反対派の対立の中で,会社清算の可能性も論じられるという危機に直面することとなった。
会社乗っ取りに対抗して「レッチワース田園都市を救え!」というスローガンとともに展開された住民たちの運動は,それまで第一田園都市株式会社が担っていた業務を継承する「公社」の新設へと結実した。1962年8月に成立した「レッチワース田園都市公社法」によって,1963年の年初から発足したレッチワース田園都市公社(Letchworth Garden City Corporation)は,第一田園都市株式会社の業務を引き継いで,レッチワースの一元的な開発主体となった。その後,公社から株式会社へ支払われるべき補償額の確定は司法判断に委ねられたため,裁定が出て補償額が確定したのは1966年7月まで遅れた。これに先立ち,第一田園都市株式会社は,1966年3月に清算が決定していた。
業務の引き継ぎに際して公社が株式会社へ支払うべき債務は,1968年に完済された。この段階ではまだ,レッチワース町議会(Letchworth Urban District Council)からの借入金の返済が債務として残されていたが,公社の利益の一部は地域の社会教育や社会福祉関係の団体に配分されることになった。さらに1972年には,公社はスタンダローン農場の土地を町議会へ売却することによってまとまった資金を獲得し,1973年には町議会への債務を完済するとともに,公社の運営から生じる利益を全面的に地域社会へ還元する体制ができあがった(Miller,2002,pp.180-181)7)。その後,経済情勢などにも左右されて,地域社会への還元に回される資金には変動があったが,大きな債務が一掃されたことによって,「公社の財政基盤は確立し,レッチワース田園都市公社は独り立ちできるまでに成長した」のである(姫野,1993,p137)。
姫野(1992,1993)は,猪瀬(1988)から更に踏み込んでこうした経過を詳しく跡づけながら,田園都市をめぐる様々な立場の利害関係者が,事態の展開の中でそれぞれに理念を訴え,利益を追求し,それらのせめぎ合いの中から新たな展開が生まれてくる過程を描き出している。ハワードの理想主義的な理念に共感する株主,投資からの利益回収を目指す株主,有利な条件での土地所有の可能性を求める借地人=住民,租税負担に敏感な住民,そして町議会と,様々な利害が交錯する中で,例えば公社化案という方策がヘゲモニーを獲得していく経過を捉えることが,姫野にとっては重要な課題だったのだろう。それは,行政機関にありがちな非効率を排しつつ,開発利益を地域の公益に還元するような開発主体が,どういう形で成立し得るのか,という問いかけでもあった。そして,姫野は田園都市の理念とレッチワースの実践の中に,現代日本の都市問題への取り組みにも寄与するような,社会改革の側面も含んだ可能性を探ろうとしたのである。
姫野(1993)は,最後に Plinston(1981)からの引用を置いて論を閉じている。これは,結果として一連の「研究ノート」全体の結びともなっている。その引用の後半は,次のようなものである。
レッチワースは有望な財産を継承している。田園都市の用地はコミュニティーの利益をはかるために公社が保有し管理している。その利潤は,町とそのコミュニティーの利益をはかる用途に充当されることが義務づけられている。世界で最初の田園都市として創設されたこの町は,エヴェネザー・ハワード卿と協力者たちの理想が実際に実現できるものであったこと,そして現在でもそうであることを住民の暮らしがはっきり証明している。」(姫野,1993,pp.138-139 による:Plinston,1981 における出所は未確認)
皮肉なことに,このプリンストンの見解が発表された時期には,1979年に成立したサッチャー保守党政権による行政改革の方針に沿って,公社等の整理が政策として打ち出され始めていた。1980年代におけるこうした動きは,最終的にはレッチワース田園都市公社を解体し,田園都市の運営主体再編成を招いた。しかし,姫野(1992,1993)は,Plinston(1981)の内容を整理したものであり,1980年代については残念ながら何も言及されていない。そこで,以下ではレッチワース田園都市の開発史に関する代表的な文献である Miller(2002)に依りながら,1980年代以降の経緯を整理していくことにする。
公社解体から財団の成立へ8)
サッチャー保守党政権の下では,特殊法人9)の整理が行政改革の柱として注目されるようになった。様々な分野で大鉈がふるわれたことは言うまでもない。もちろん,各地のニュータウン開発公社も整理の対象として槍玉に上げられた。
もともと1946年以降にニュータウン法によって設立された各地域の開発公社は,開発行為が完了すれば地域の自治体に移管されるものと想定されていた。さらに,1959年ニュータウン法によって設置されたニュータウン委員会(the Commission for the New Towns)は,全国的にニュータウン開発の進捗を管理して,開発が終了したニュータウンの開発公社を解散させ,なお残る国有資産の管理を一元的に行うようになっていた。加えて,大都市内部においてインナーシティ問題が深刻化したことを受けて,まだ労働党政権だった1978年に都市内部地域法(the Inner Urban Areas Act)10)が成立し,都市政策は大きな転換を迎え,新たなニュータウンの建設は行われないことになった。つまり,サッチャー政権の登場直前までにニュータウンは既に過去の産物となろうとしていたのである。
サッチャー政権は,ニュータウン開発事業の完成よりも投資の回収を優先させ,各地域の開発公社に対して資本回収と組織解体への計画的な取り組みを求めた11)。資産価値を認められた物件は,民間に払い下げなどが進められ,それ以外の物件は地方自治体への移管が促進された12)。
しかし,レッチワース田園都市公社は,ニュータウン法とは切り離されて成立した公社であり,各地のニュータウン開発公社の整理とは本来は無関係である。レッチワース田園都市の経営に,最初に大きな陰を落としたのは,1972年地方自治法(the Local Government Act)以降の地方自治制度の再編だった。
1972年の地方自治制度改革によって,英国の地方自治体は地位や境界の大幅な変更を経験した。レッチワースの場合,地方自治制度の再編によって,それまで田園都市の領域と一致していた町の領域は大幅に拡大され,レッチワース町議会(Letchworth Urban District Council)に代わって,周辺の町を包括的に統合したノース・ハートフォードシャー市議会(North Hertfordshire District Council)が設置されることになった13)。新制度への移行は,1974年4月からとなっていたが,1973年から,前倒しで市議会を構成する選挙などが進められた。レッチワースの基本自治体は,もはや田園都市の利益追及だけではなく,周辺地域の利害調整もすることになった。(Miller, 2002, pp.177-178)
さらに深刻だったのは,1972年地方自治法の第262条であった。大都市圏外における特定地域を対象とした特例法は1986年12月をもって無効とする,という内容の条文が,レッチワース田園都市公社の存在自体を否定するものと受け止められたからである。しかし,1986年5月に,所轄官庁である環境省が,第262条をレッチワース田園都市公社に適用することはないと言明したため,動揺は収まった。
1987年,レッチワース田園都市公社は設立25周年を大々的に祝った。公社が保有する資産の価値は着実に増大し,地域に還元される利益も順調に増えていた。9月11日にノートン・コモンで行われた花火は「何マイルにもわたって空を照らし,ハワードの夢の実現のように思われた」と Miller(2002,p.191)は記している。9月27日に行われた,初期入居者たちの「パイオニア・パーティー」も,こうした一連の行事の一つだった(猪瀬,1988,pp.268-269)。この頃,レッチワースを取材した猪瀬は,次のように記すことができた。
乗っ取りを撃退したレッチワースは,いまもなおハワードの理想現実に向け地道な活動をつづけている。地道,とあえて記したのはそれほど大袈裟ではない,ささやかな活動のなかに自治の精神が育まれていると感じたからである。(猪瀬,1988,p.294)
しかし,大波は間もなくやってきた。1991年6月,ノース・ハートフォードシャー市議会の保守党市議たちが環境大臣マイケル・ヘーゼルティン(Michael Haseltine)を動かし,レッチワース田園都市公社の解体に向けた運動を始めたのである。1992年9月には,政府から公社に対して,完全な民間組織へと改組するための計画を整えるよう指示が下された。ニュータウン開発公社が一掃された段階で,同種の組織と見なされたレッチワース田園都市公社にも,政府の断固たる意思が示されたということになる。
公社側は,いかなる形態の民間組織へと改組をすべきかを早急に検討した。1992年10月の住民集会で公社が提示した案は,友愛会登録(the Registrar of Friendly Societies)される「レッチワース田園都市遺産財団(the Letchworth Garden City Heritage Foundation)」への改組であった。当初予定では,1993年春に議会で改組に必要な法案の審議を行い,1993年夏には女王の裁下を得て,1994年始めには業務の引き継ぐという見通しであった。議会での審議が始まると,レッチワース土地賃借者・自由土地保有者協会(the Letchworth Leaseholders and Freeholders' Association)と8名の個人から,法案に反対する請願が提出された。また,オンブズマン制度の導入など法案への修正が施されたのにともなって手続きが大幅に遅れた結局,女王の裁下は1995年5月1日にずれ込んだ。
法案の成立を踏まえて,1995年10月1日には公社から財団への移管が行われた。財団に移管された資産の評価額は5750万ポンド(およそ110億円)であった14)。財団の設立とともに,各種の祝賀行事が行われた。財団の新たな標語として掲げられた「誇るべき過去...明るい未来(Proud Past...Bright Future)」は,行事の一環として行われた地域の学校生徒の標語コンテストで選ばれたものだった。
1995年レッチワース田園都市遺産財団法は,財団の設置目的を次のように定めている15)。
(a) レッチワース田園都市内にある美的ないし歴史的な建造物およびその他の環境的特徴物の保存を進めること
(b) 生活条件の改善を目指し,社会福祉に資するため,地域社会のレクリエーションやその他のレジャー活動のために多様な施設を提供し,あるいは提供を支援すること
(c) レッチワース田園都市内における教育および学習の発展を進めること
(d) レッチワース田園都市内における貧困および病苦からの救済を進めること
(e) レッチワース田園都市内に事務所ないし支所を構えるあらゆる慈善団体を支援すること
(f) 地域社会に資するその他あらゆる慈善目的の活動を進めること
新体制下の中心市街地再開発
公社から財団へと,新体制に移行したレッチワースは,1995年以降,新たな活気へとつながる様々な変化を経験していた。例えば,1990年代前半に緊張が高まった公社〜財団とレッチワース土地賃借者・自由土地保有者協会との関係が改善されたことは,地域社会にとって歓迎すべきことであった。1990年当時は,全般的な地価の高騰を反映して,土地賃借者が契約期限に土地を買い取ってしまうために必要な補償金の額が急騰していた。また,99年と設定されていることが多かった土地賃貸借契約の期限が現実的な日程として近づきつつあった。公社と協会の双方は,1991年に,4件の事例について土地審判所(the Lands Tribunal)に妥当な金額の判断を仰いだ。公社は,特に高齢の土地賃借者について,補償額の減額策を打ち出し,これまで賃借人だった人々の土地保有を進めた。共同所有制の理念とは逆行する政策ではあったが,既に自治体による建築規制などの制度化が進み,景観や環境の保全もそうした手法で取り組むことが可能だと判断されたのであろう16)。1990年代半ばにかけては若干の地価下落があったため,賃借人の土地取得は大いに進んだ。1997年の時点では,初期の賃借者の8割が,賃借していた土地を取得したと推測されている。その後,1990年代後半には地価が再び上昇し,新たに土地を取得した人々は大きな含み資産を持つようになった。公社〜財団はまた,99年契約については更新にも応じるという姿勢を示した。こうして,土地賃借人たちの動揺は概ね鎮まっていった。(Miller,2002,pp.198-199)
しかし,最も顕著な変化は,中心市街地などの再開発であろう。ここでは,最近のレッチワースについての文章など(例えば,石川,2001)で言及されていることが多い,駅に近い商業地の事例(Miller,2002,pp.199-201)と,工場跡地の再開発の事例(Miller,2002,pp.202-203)を,一つずつ紹介しておきたい。
1980年代を通じて,レッチワースの駅に近い中心部の商業集積は徐々に魅力を失い,核となる大型店の撤退や,近郊への脱出なども起こっていた。1989年には,購買力の7割が外部に流出していたという。商店街の衰退は,一時は治安に対する不安をかき立てるほどにまで,深刻になっていた。そうした中で持ち上がったのが,ブロードウェイ西側への大型商業施設の誘致という話であった。
きっかけとなったのは,1994年の春に明らかになった,ノース・ハートフォードシャー・コレッジ(North Hertfordshire College)の当地からの撤退と,跡地の商業地への転換という計画だった。駅前から伸びるブロードウェイ西側のタウン・スクエアに近い場所に位置するコレッジの敷地の再開発は,新体制による再開発の試金石となった。この時点で,この用地は市議会の所有となっておりコレッジが賃借権をもっていたので,公社として介入できる根拠は,この土地が教育施設用とされていたという一点にとどまっていた。
[写真1]モリソンズの北側の入口。手前のファサードに注意。
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[写真2]モリソンズの南側の入口。 買い物袋を下げた客が,ブロードウェイの横断歩道を行き来する。
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[写真3]既存商店街 Eastcheap の南端にある映画館は, 200万ポンドで修復された。
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[写真4]既存商店街 Leys Avenue の, 修景された街頭。
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この問題は公社から財団への移管を挟んで,交渉が続けられた。その結果,コレッジは敷地規模を縮小して現地に残留し,これにともなって新たな建物を建てることになった。商業施設(スーパーマーケットを予定)は,当初計画より北側の敷地も含めて,駐車場を十分確保するとともに,ブロードウェイに面した1910年代の建物(かつての下級裁判所と青年会)のファサードを取り込んで景観に配慮をすることになった。1997年春には,スーパーマーケット「モリソンズ(Morrisons)」の進出が決まり,およそ6440平方メートルの建物と,529台分の駐車スペースが設定された。[写真1]
1999年7月にモリソンズが開店すると,駐車場の収容能力が魅力になって週あたり3万人という大きな集客力を見せるようになった(Kenny,2002,p.125)。財団は,モリソンズの進出に際して,隣接する既存の商業集積との共存をはかるため,競合するテナントを入れないことや,モリソンズの買い物に3時間の無料駐車を認めて客が既存のアーケードにも足を伸ばすように誘導することを求めた。こうした狙いはうまく機能しているようで,モリソンズの買い物客のかなりの部分は,ブロードウェイを渡って既存のアーケードでも買い物をしてから駐車場に戻るという行動をとっている。[写真2]
既存の商店街の方でも,モリソンズの進出の少し前から,ランドマークとなる映画館の改装や,舗道の修景などが取り組まれており。モリソンズの駐車場整備とともにレッチワース中心部の商業地としての魅力を高める結果となっている。[写真3][写真4]
一方,工場跡地の再開発の事例として,目覚ましい成果を上げ,注目を集めたのが,スパイレラ(Spirella)の再生であった。元々レッチワースは,ハワードの田園都市の理念を踏まえて,開発地域内に工場などの就業機会を組み込んでいた。こうした工場用地は,後に住宅地に転用されたり,同じ事業用地でもオフィス系の施設に転換していくといった変化を経験しながら,現在に至っている。「コルセット城(Castle Corset)」と異名をとったスパイレラは,レッチワースを代表する工場として長く知られていたが,1989年に廃止された17)。この段階で既に歴史的建造物として指定を受けていたこの工場は,その後しばらく,転用も改装もされないまま放置されていた。これを見かねたレッチワース田園都市公社は,1994年7月に140万ポンドでこの廃工場を買い上げた。
この歴史的建造物は,およそ1000万ポンドをかけて,最先端の情報インフラを整備したオフィス・ビルに再生され,1999年1月に新装オープンとなった。レッチワース田園都市遺産財団自身が,駅前のオフィスから全面移転した18)のをはじめ,テナントは順調に集まり,1999年末にはすべてのスペースが埋った。2000年から2001年にかけては,元々1930年代に整備された前庭が再整備され,観光資源化も意識されている。
おわりに
レッチワース田園都市遺産財団という名称を目にすると,日本語では何やら過去に意識が向いた印象が強く,過去から受け継いだものをただただ保存していくことに意が払われているように思えてしまう。しかし,英国における多くの「遺産財団」「遺産信託=ヘリテッジ・トラスト」がそうであるように,レッチワース田園都市遺産財団も,古いものをただ古いまま保存しようとしているわけではない。歴史的建造物を,改修を加えながら活用し,利益さえ上げてゆくという姿勢は,継承すべきものを見据え,それがその時代においていかなる役割をになうべきかを考える,英国的な文化の構え方に由来していくのかもしれない。ナショナル・トラストが管理するベアトリクス・ポターの「ヒルトップ農場」が,現在も,19世紀末の農法を尊重しながらも,あくまでも現時点で現役の農場として機能しているように,20世紀初頭に生まれたレッチワース田園都市は,これからも20世紀初頭のスタイルを尊重しながらも,時代の要請にきちんと応じた生活空間として,常に再生産され続けていくのであろう。
しかし,現在は順調に機能している財団という形態が,今後とも永続的に維持されるかどうかは,にわかには判断できない。レッチワースの歴史においても,組織の再編を迫る危機は,外からやって来ることが多かった。公益事業に対する中央政府の姿勢が少し変わるだけで,組織はまた動揺することがあるかもしれない。肝心な点は,そうした危機的な状況が到来した際に,継承されるべき理念を語る言葉が,力を発揮できるかどうかである。
注
1)本稿では,田園都市論の既存研究の展望は省いている。関連文献については,とりあえず邦文では,東(1991)の「主要参考文献」などを参照されたい。
2)姫野(1992)が論じている戦後の時期に至るまでの経緯については,さしあたり東(1991,pp.119-165)などを参照されたい。
3)例えば,アシュワース(1987=原著1954,p.166)がニュータウン建設の困難に言及して「19世紀においてこのような新しい居住地を建設しようという事例は,現に繁栄している企業が事業拡大の一つとして取り組んだものばかりであった」と述べたように,19世紀には,羊毛工場主ソルトが建設したソルテーアや,チョコレート工場主カドバリーのボーンヴィルのような事例が,極めて例外的な存在として出現していた。
4)姫野は,参考文献の一つに Miller(1989)を上げている。Miller(2002)はその増補改訂版である。いずれの著作も,それぞれの時点で最も包括的なレッチワースの開発史だと思われる。筆者には,姫野が,あえて Miller(1989)ではなく,Plinston(1981)を「最良の道先案内人」(姫野,1993,p.138)とした理由が少し気になっている。一つには,歴史家の記述より,当事者の証言を重視したいということがあったのだろうが,同時に,猪瀬(1988)の作業を追体験したいという気持ちがあったのかもしれない。なお,レッチワースの開発史など田園都市に関する著作で知られている Miller は,実際には建築家,プランナーでもあり,単なる歴史家ではない。
5)1899年6月に設立された田園都市協会(Garden Cities Association)は,それ自体が事業主体となるような性格の組織ではなかった。
1900年5月に田園都市協会は田園都市株式会社(Garden City Limited)の設立を決議するが,これは現実には至らなかった。1902年6月には,田園都市建設用地の探索と選定を目的とする田園都市開発株式会社(Garden City Pioneer Company)を設立し,7月にレッチワースに用地を確保した。次いで,9月には,同社を清算して,新たに第一田園都市株式会社が設立され,レッチワース田園都市の建設が始まることになった。(姫野,1992,pp.59-60)
6)第二の田園都市であったウェリンでは,1946年ニュータウン法に基づいて,1948年6月にウェリン田園都市開発公社(Welwyn Garden City Development Corporation)が設立され,ウェリン田園都市会社(Welwyn Garden City Company)の開発業務を引き継いだ。当時のニュータウン開発公社は地域ごとに独立した組織を作る形になっていたが,ウェリン田園都市開発公社は,隣接する地域を担当するハットフィールド開発公社と,実質的には同じ組織で,いわば二枚看板の状態であった。一方,ウェリン田園都市会社や関連子会社は,1950年代半ばまで残務整理などのために存続した。(Rook,2001,pp.110-117)
7)この間,公社の財務事情が好転した理由としては,税の軽減措置も大きく作用していた。(姫野,1993,p.137)
8)本節は,Miller(2002,pp.191-195)に沿って,経緯を要約したものである。この範囲について,本節内ではいちいち対応箇所を示していない。ただし,直接の引用箇所の明示と,同書の別の部分への参照については,典拠を示している。
9)ここでいう特殊法人とは,「クアンゴ(QUANGO, Quasi Autonomous Non-Governmential Organisation)」と通称される類のもので,直訳すれば「準自治型非政府組織」とでもなる。政府から一定の距離を置きながら,長期的かつ専門的な観点から公益に資する事業に取り組む組織として評価される面も持っているが,一方では,天下りの温床と揶揄されることも多い。近年,日本において注目されている独立行政法人をめぐる議論においても,英国の特殊法人は類似した制度として注目されている。
10)この訳語は筆者の仮訳である。インナーシティ問題を背景に制定されたこの法律は,言及される文脈によって「インナーシティ法」「都市内部改革法」「都市貧困地域法」などと適宜言葉を補って意訳されることが多く,訳語も分かれている。
11)例えば,英国最大のニュータウンであったミルトン・キーンズの場合,1967年に設置されたミルトン・キーンズ開発公社は,1989年をめどに廃止されるという方針が決められ,1980年代後半には分譲の促進などによって資本の回収が進むようになった。結局,様々な事情から公社の廃止は延び延びになったが,1992年には公社が解散し,残された広大な開発用地はそのままニュータウン委員会の管轄となった。同委員会は,1999年にイングリッシュ・パートナーシップス(English Partnerships)へ統合されたため,現在その資産管理を引き継いでいるのはイングリッシュ・パートナーシップスである。(山田,2002,pp.72-73)
12)ニュータウン法の枠組の下に置かれていたウェリン田園都市でも,最も価値の高い資産が処分された上で,ウェリン田園都市開発公社は解体され,1983年には残された賃貸住宅などが地元の自治体であるウェリン・ハットフィールド市議会(Welwyn Hatfield District Council)に移管された。(Miller, 2002, p.192)
13)ノース・ハートフォードシャー市議会の領域には,Baldock,Hitchin,Royston といった近在の町や,その周辺の農村部が広く含まれていた。
14)公社の保有資産評価は,1990年の段階で6790万ポンドあった。1990年代前半の不況によって評価額はピーク時よりも若干下落したことになる。(Miller,2002,p.195)
15)1995年レッチワース田園都市遺産財団法は,全文をウェブ上で読むことができる。
http://www.hmso.gov.uk/acts/locact95/Ukla_19950002_en_1.htm
16)1990年代始めに,レッチワース田園都市公社とノース・ハートフォードシャー市議会が共同で取り組んだ,建築・増改築への『デザイン・ガイド』の普及については,Miller(2002,pp.204-206)を参照。
17)スパイレラ社は1910年からレッチワースに進出していたが,1912年から1920年にかけて,駅の裏,西側に,後に「コルセット城」と通称される大規模な工場を建設した。最盛期には,コルセットなどの下着類のほか,特注品の水着なども製造していた。1960年代から徐々に生産機能が他の工場へと移されていたが,医療用のコルセットの製造など特殊部門が最後まで残り,1989年まで生産が続けられた。(Miller,2002,pp.106-107)
18)猪瀬も取材に訪れた「駅前のオフィス」は改装され,2階以上の部分は住宅に生まれ変わった。(Miller,2002,p.198)
元来は住居つき店舗として設定されていた中心部の商店街が,永年の変化の中で居住には適さなくなって,商店街周辺の居住人口が減少しつつあることは,治安面を含めて問題として認識されている。公社から財団への転換が起きた1990年代半ばには,中心部の空店舗率は2割ほどで,2階以上のスペースにも,利用されない部分が多かった(Kenny,2002,p.124)。旧財団(公社・会社)オフィスの一部が改装されて質の高い住宅として提供される背景には,中心街における居住の促進という意味がある。
文献
アシュワース,W.[下總薫・監訳](1987):『イギリス田園都市の社会史』御茶の水書房,307ps.
東 秀紀(1991):『漱石の倫敦,ハワードのロンドン』中央公論社(中公新書),192ps.
石川幹子(2001):都市経営の視点からの自然との共生.土木学会誌,86-1,pp.36-38.
猪瀬直樹(1988):『土地の神話』小学館,380ps.
姫野 侑(1991):ハワードの田園都市論。東京経大学会誌,173,pp.231-248.
姫野 侑(1992):第一田園都市株式会社の変遷 ―主として戦後から乗っ取りまで―.東京経大学会誌,178,pp.59-75.
姫野 侑(1993):レッチワース田園都市公社の誕生 ―乗っ取りから田園都市の独立へ―.東京経大学会誌,184,pp.105-141.
山田晴通(2002):英国ミルトン・キーンズ市の地域計画(ローカル・プラン)策定作業.人文自然科学論集,113,pp.69-85.
Kenny, Stuart M.(2002):Letchworth Garden City Today, in Saiki et al (eds), New Garden City in the 21st Century ?, Kobe Design University, 288ps.
Miller, Mervyn(1989):Letchworth, The First Garden City, Phillimore. [未見]
Miller, Mervyn(2002):Letchworth, The First Garden City, 2nd edition, Phillimore, 250ps.
Plinston, Horace(1981):A Tale of One City, Letchworth Garden City Corporation. [未見]
Rook, Tony(2001):Welwyn Garden City Past, Phillimore, 134ps.
謝辞/献辞
2001年9月,国外研究で滞在していたオーストラリアのシドニーから,ミルトン・キーンズについての原稿を『人文自然科学論集』に送ったとき,教務課の担当者に「正規の査読とは別に,姫野先生にも読んで頂けるように」とお願いをした。もちろん,姫野先生の田園都市関係の業績が念頭にあったからである。その後,姫野先生が「問題ないよ」とおっしゃっていたという連絡を担当者からもらった。『論集』の査読者からは,細かい用語の解説が必要だという指摘などがあり,結局それを補って再提出した原稿が印刷されることになった。後に漏れ聞いたところでは,姫野先生も査読者の一人になっていたそうである。この拙稿の査読をめぐるやりとりが,筆者と姫野先生の最後の関わりになってしまった。
姫野先生とは学内の委員会などで何度かご一緒し,助けていただいたことも再三だった。社会経済地理学を出自とする筆者にとって,ある意味では学内で最も専門が近いのが姫野先生だったが,不思議なことに学問的な話題を話す機会はほとんどなかった。今となっては,実に残念である。
2002年に機会を得て渡英した際,レッチワースとウェリンを訪問したのも,姫野先生への追悼の気持ちに後押しされてのことだった。不十分な内容ではあるが,先生との出会いがなければ書かれることがなかったであろう本稿を,感謝とともに姫野先生に献呈申し上げたい。
本稿は,日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(B) 課題番号:14402041,研究課題名「グローバリゼーションとEU統合への文化的対応に関するEU主要都市比較研究」,研究代表者:法政大学経済学部教授 山本健兒)の助成による2002年度の研究成果の一部である。
本稿の写真は,いずれも2002年10月28日に筆者が撮影したものである。
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