雑誌論文(その他):2011:

1980年〜2005年の北海道における日刊新聞市場の変動.

コミュニケーション科学(東京経済大学),33,pp.115-148.


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1980年〜2005年の北海道における日刊新聞市場の変動.

はじめに
I 北海道の新聞市場の特徴
II 部数データにみる1980年以降の北海道の新聞市場
  データについて
  北海道における人口・世帯数の動向
  朝夕刊で異なる部数増減の動向
  札幌周辺の比重の増大
  全国紙の市場占拠率
  新聞全体の世帯普及率
III 1980年以降の北海道における日刊地域紙の動向
  『北海タイムス』の休刊と後継紙の苦闘
  『北海道新聞』と『十勝毎日新聞』の競争と『函館新聞』の定着
  小規模日刊地域紙の興亡
おわりに




1980年〜2005年の北海道における日刊新聞市場の変動.

山田 晴通

はじめに

(A)朝夕刊セットを1部として計算した場合
(B)朝夕刊をそれぞれ1部として計算した場合
 1990年代以降,インターネットや携帯電話の普及と高機能化などに象徴される,情報機器の普及とデジタル化によって,在来のメディアは市場における地位を脅かされてきた。例えば,電通による「日本の広告費」のデータは,1990年ころには媒体別広告費のほぼ25%を占めていた新聞が,徐々にその占拠率を下落させ,2005年には15%を切る水準にまで落ち込み,新たに登場したカテゴリーであるインターネット広告に,占拠率で抜かれるのも間近であることを示している(電通,2009,pp.73-74)。在来型のメディアの代表的存在である新聞は,日本においては世界的に見ても高い普及水準を維持し,全国紙を中心とする巨大な部数を何とか維持して来たが,1990年代後半を境に,新聞業界全体の規模は縮小傾向に転じている1)[図1]
 新聞同士が販売競争を展開する「市場」が,デジタル・メディアをはじめ他のメディアの伸張によってどのように変化するのか,という問いは,容易に実証的な答を得られるようなものではない。例えば,広告費については,スポンサーが負担する広告費の総額が一定の枠として存在すると想定し,新たなメディアの伸張が既存メディアの相対的な地位を押し下げるという関係が推定できる。同様に,インターネットの普及によるネット情報の閲読時間の増大が,新聞の閲読時間の低落と関係することも予測できよう。しかし,それが新聞の発行部数の増減とどの程度まで関連性をもつかは,容易には実証できない。
 筆者はこれまで,地域紙をはじめ,様々な地域メディアに関心を寄せてきたが,新聞や,テレビなども含めた既存メディア全般の凋落という大きな議論の中では,新聞業界の中でも事業規模が最も小規模な部類となる業界紙や地域紙などは,ほとんど無視されている。デジタル化,インターネット,携帯電話といったキーワードと地域紙を結びつける議論は,実務の現場でも,研究の観点からも,きわめて不十分な状況にある。例えば、日刊地域紙(週5回以上刊行される,県域よりも狭い範囲を対象とする一般紙)まで含めた新聞業界の市場競争環境,あるいは業界秩序に対して,デジタル化というキーワードに象徴される近年のメディアの新しい動向が与えたインパクトを捉えるためには,具体的な分析の積み上げが不可欠である。そこで本稿では,多数の日刊地域紙が刊行されている北海道を事例に,デジタル化以前の1980年に起点を置く長めの射程の中で,地元の新聞業界にどのような変化が生じて来たのかを描き,そこからデジタル化の影を浮き彫りにしていこうと試みた。
 以下,本稿では,まず北海道における新聞市場の特徴を概観し,次いで,日本ABC協会の公査部数(ABC部数)と国勢調査の世帯数を用い,1980年から2005年までの5年おきの6時点について,日刊紙の配布部数の推移など,北海道における新聞市場の競争状況を検討する。さらに,ABC部数の分析では捉えられない日刊地域紙の動向について,地域ごとに異なった様相を見せる競争状況の要点を,各地域の具体的な事情を踏まえながら検討していく。

I 北海道の新聞市場の特徴

 日本の新聞市場は,業界秩序の頂点に大規模な全国紙が少数ながら複数存在して,全国で全国紙同士の競争を展開する一方,戦時統制の「一県一紙」体制によって成立した(あるいは立場を確立した)地方紙(県紙・ブロック紙)と全国紙各紙との競争が,各地域の事情を反映しながら様々な様相で展開する「二重構造」として説明される(服部,1980;山田,1985)。いわゆる「主読紙」間の競争は,全国紙同士,全国紙対地方紙の関係は競争的になるが,地方紙同士は(原則として)配布域が重ならないため共存的になる。これに対して地域紙には,戦時統制によっていったんは一掃されたものの,戦後,各地に叢生し,その後は淘汰や新創刊を重ねながら,各地の地域社会に定着して来たという歴史がある。地域紙の分布には都道府県によるばらつきが大きく,一方では日刊地域紙がほとんどみられないところもあるが,領域内の各地に日刊地域紙が分布している都道府県もある。日刊地域紙の大部分は,全国紙や地方紙の主読紙としての競争とは異なる地平に立つ併読紙として定着しており,主読紙としての地位をめぐる競争に地域紙が割って入る例は少ない2)[図2]この図2は、このページでは公開しません。内容は、山田(1985)第1表、第1図です。こちらからご覧ください。)
 こうした日本全体に通じる業界秩序の構図を踏まえると,北海道の新聞市場は際立った特徴をいくつか備えている。その第一に挙げられるのは,全国紙に対する『北海道新聞』の圧倒的な優位である。北海道は,日本の都道府県の中で最大の面積をもち,最も人口密度が低い地域であり,また,国土開発政策の歴史の中でも特殊な位置づけがなされて来た地域である。「中心と周縁」という議論を日本国内に当てはめて展開するならば,北海道は,様々な意味で最も周縁性の高い地域のひとつと見なされよう。メディアの発達史においても,こうした事情は鮮明に反映されている。例えば,日刊紙について見てみれば,「一県一紙」統制の体制下に,他県に遅れ,1942年にようやく新聞統合が完成して成立した『北海道新聞』は,県紙並みの位置づけながら,ブロック紙に匹敵する広域を対象とし,発行部数でもブロック紙に肩を並べる新聞となった。実際,戦後には,『中日新聞』,『西日本新聞』とともに,『北海道新聞』をブロック紙のひとつと位置づけることが定着した。また,1950年代後半に全国紙の発行拠点が道内に設けられるまでは,『北海道新聞』による事実上の市場独占体制が成立していた。こうした経緯は,新聞業界の階層構造の中で,全国紙がその配布域の周縁部で十分な競争力を発揮できなかったことが,地元に拠点を置く『北海道新聞』に有利に働いた結果と理解することができる。
 周縁性を反映する形で,地元紙が競争上優位に立つという構図は,入れ子構造のように道内においても成り立ってきた。札幌を拠点とする『北海道新聞』に対して,それぞれ地理的に孤立した形で一定水準以上の人口を擁した道内の主要都市には,「一県一紙」統制以前の戦前期においても,統制が解除された戦後においても,独自の地元地域紙が成立することが多かった。このため,道内の主要都市には,しばしば主読紙として『北海道新聞』と競合する有力な日刊地域紙が成立し,各地の小規模な都市にも日刊地域紙が併読紙としての基盤を築くことができた3)
 こうした地域紙の経営に有利な側面をもつ北海道の状況は,他地域であまり見られない,類例の少ない特徴的事例を生んでいる。例えば,戦後間もなく1945年12月に創刊した『室蘭民報』は,全国の地域紙で唯一,朝夕刊セット体制での刊行を1956年以来,半世紀以上続けている。また,1997年に創刊された『函館新聞』は,一方で休廃刊が相次ぐ地域紙の業界にあって,数少ない近年の創刊例であり,堅調に社業を伸ばし,創業から10年を経た2007年に日本新聞協会への加盟を果たした同協会で社歴が最も若い新聞社会員である。さらに,1987年以来,日刊体制で発行されている北見市の『経済の伝書鳩』は,全国で唯一,日刊で配布されている無代広告紙,あるいは無料の日刊地域紙である。こうした事例については,各地域の状況の検討の中で,改めて言及していくこととする。
 このような北海道固有といえる特殊な事例,特異な競争環境が成立している一方で,北海道の新聞市場においては,全国的傾向が,しばしば先鋭化した顕著な形で現れる。例えば,道内で朝夕刊セット販売を行っている『北海道新聞』や一部全国紙は,相当に厳しい水準での朝夕刊セット率低下に直面している。また,いわゆる「第二県紙」の立場にあった『北海タイムス』の休刊(1998年)や,2000年代に入って目立つようになって来た弱小地域紙の休廃刊なども,ポストバブル期以降,全国的に散見された現象の顕著な事例である。また,一部に例外もあるが,ほとんどの地域で,市場占拠率首位紙の優位の固定化が進みつつあることも,全国的傾向であるとともに,北海道で広く観察される現象である。

II 部数データにみる1980年以降の北海道の新聞市場

データについて:
 本稿で分析に用いる新聞各紙の部数は,社団法人日本ABC協会の公査を受けた,いわゆる「ABC部数」である4)。ひとくちにABC部数といっても,いろいろな種類があるが,ここで取り上げるのは,毎年4月と10月に調査が行われ,年に2回レポートが発行されている「新聞市区郡別部数表」のデータ(市区郡別データ)である5)。以下,本稿では,国勢調査による世帯数と時期を合わせ,1980年から2005年まで5年おきの10月分の市区郡別データを用い,6時点における推移を分析していく。
 ABCの市区郡別データは,北海道に関しては,郡レベルのデータにはなっておらず,札幌市の各区・各市・支庁別のデータが公表されている6)。本稿で検討対象とした期間は,ちょうど昭和の大合併と平成の大合併の間にあたり,データの一貫性という点では深刻な問題はない。1980年時点で,市区郡別データは,北海道を札幌市の7区,札幌以外の31市,14支庁の合わせて52区域に区分していたが,2005年時点では,札幌市10区,札幌以外の33市,14支庁の合わせて57区域になっていた7)。分析に際して,札幌市における区の分割,北広島市と石狩市の新設については,各時点におけるデータを1980年時点の52区域に組み替えるため,データの合算を行った8)。ただし,合併による市域の拡大(2004年の函館市=4町村を編入合併,2005年9月の士別市=朝日町と合併),2005年10月1日の二海郡八雲町の新設にともなう支庁境界の変更については,組み替えが技術的に難しく,数値に影響が及ぶとしても2005年の1時点だけであり,またその影響は小さいものにとどまると判断し,データの加工はしなかった9))。また以下では,もっぱら道内各地域の地域性を捉えるため,北海道全域を札幌市と14支庁の15区域に区分した集計も,必要に応じて用いる。
表1 国勢調査による北海道の人口・世帯数の推移(1980年~2005年)
北海道
1980年
1985年
1990年
1995年
2000年
2005年
5,575,989 
5,679,439 
5,643,647 
5,692,321 
5,683,062 
5,627,737 
1,841,730 
1,930,078 
2,031,612 
2,187,000 
2,306,419 
2,380,251 
3.03 
2.94 
2.78 
2.60 
2.46 
2.36 
2005年/1980年 1.01  1.29  0.78 
札幌市 札幌市以外の北海道
人口世帯数人口/世帯数人口世帯数人口/世帯数
1980年
1985年
1990年
1995年
2000年
2005年
1,401,757 
1,542,979 
1,671,742 
1,757,025 
1,822,368 
1,880,875 
507,420 
566,287 
646,647 
718,473 
781,948 
837,371 
2.76 
2.72 
2.59 
2.45 
2.33 
2.25 
4,174,232 
4,136,460 
3,971,905 
3,935,296 
3,860,694 
3,746,862 
1,334,310 
1,363,791 
1,384,965 
1,468,527 
1,524,471 
1,542,880 
3.13 
3.01 
2.87 
2.68 
2.53 
2.43 
2005年/1980年 1.34  1.65  0.82  0.90  1.16  0.78 
札幌市以外の石狩支庁 札幌市・石狩支庁以外の北海道
人口世帯数人口/世帯数人口世帯数人口/世帯数
1980年
1985年
1990年
1995年
2000年
2005年
292,439 
321,692 
352,299 
397,621 
420,196 
429,152 
88,696 
99,609 
115,163 
138,495 
154,861 
165,094 
3.30 
3.23 
3.06 
2.87 
2.71 
2.60 
3,881,793 
3,814,768 
3,619,606 
3,537,675 
3,440,498 
3,317,710 
1,234,701 
1,264,182 
1,269,802 
1,330,032 
1,369,610 
1,377,790 
3.14 
3.02 
2.85 
2.66 
2.51 
2.41 
2005年/1980年 1.47  1.86  0.79  0.85  1.12  0.77 

北海道における人口・世帯数の動向:
 部数データを検討する前提として,まず,対象期間中に北海道の人口や世帯数がどのような変化をしてきたのかを確認しておこう。対象期間の四半世紀の間,北海道の人口はほぼ横ばいの状態が続いたが,核家族化の進行によって世帯数は増加した。北海道全体としては,人口は560万人ほどであり続けたが,平均世帯人員が3.02人から2.36人へと20%ほど低下したのを反映して,世帯数は30%近くまで増加ししている。しかし,この時期の北海道における最も顕著な変化は,人口の札幌市への集中であった。この時期における札幌市の数値と北海道全体から札幌市を除いた数値を比較すれば,札幌市が一貫して人口増を重ねているのに対し,他地域は一貫して人口減となっていること,世帯数はどちらも伸びているものの,札幌市の65%,札幌市を除く石狩支庁の86%ほどの伸びに対して他地域は16%ほどにとどまっていることが,一目瞭然である。1980年の時点で,北海道の人口・世帯数に占める札幌市の比率はほぼ4分の1だったが,2005年にはほぼ3分の1に拡大している。[表1]
 新聞は事業所などでも購読されるが,一般的には配布部数を世帯数で除した世帯普及率の数値が分析に用いられる10)。対象期間の北海道においては,人口減と世帯数増が進行しつつ,人口においても世帯数においても,札幌市周辺の比重が増大したが,新聞市場の競争環境についても,札幌市周辺と他の地域では異なる状況が生じていたと考えるべきであろう。

朝夕刊で異なる部数増減の動向:
 対象期間の北海道における『北海道新聞』と全国紙(『産経新聞』を除く4紙)の朝刊部数の推移をみると,『北海道新聞』が2000年まで部数を伸ばしていったのに対し,全国紙の合計は,大局的に見れば横ばいとも考えられるものの,1990年以降は緩やかな減少になっており,主読紙同士の競争において『北海道新聞』の優位が強化されたことが分かる。全国紙だけに注目すると,朝刊部数がほぼ横ばいといえる『読売新聞』と『朝日新聞』,朝刊も減った『毎日新聞』,朝刊のみの配布で着実に部数を伸ばした『日本経済新聞』,といった対比ができるが,総じてこの時期の全国紙は『北海道新聞』との競争において守勢に回っていたのである。一方,夕刊のデータを見ると,『北海道新聞』も,朝夕刊を発行している全国紙3紙(『読売新聞』,『朝日新聞』,『毎日新聞』)も,いずれもが部数を減らしている。この結果,『北海道新聞』のセット率は1980年の82%から2005年の54%へと,ほぼ3分の2の水準に低下したが,全国紙の落ち込みはより厳しく,全国紙として道内最多の朝刊部数をもつ『読売新聞』は52%から29%へ,全国紙で最もセット率が高い『朝日新聞』は71%から35%へ,『毎日新聞』は51%から26%へと,ほぼ半分の水準にまでセット率を落した。全国紙は,朝刊部数の減少もさることながら,夕刊部数がより厳しい落ち込みを見せていたのである。ちなみに『毎日新聞』は,対象期間後の2008年8月末に,北海道における夕刊を廃止するに至っている。[図3a〜c]
 こうした全道的な傾向は,必ずしも道内各地域で均一に生じた現象ではなかった。北海道を札幌市と14支庁に区分して,地域ごとの『北海道新聞』朝刊の部数を見ると,部数増が,もっぱら札幌市と石狩支庁,そして上川支庁の伸びに支えられていること,裏返せば,この期間を通して部数が横ばいにとどまった地域も多かったことがわかる。[図4]

図3a 北海道の朝刊部数の推移(1980年~2005年)

図3b 北海道の夕刊部数の推移(1980年~2005年)

図3c 北海道の朝夕刊セット率の推移(1980年~2005年)

図4 札幌市・支庁別にみる『北海道新聞』朝刊部数の推移(1980年~2005年)
表2 『北海道新聞』の部数変化倍率(1980年→2005年)
(a 朝刊、b 夕刊)
 そこで,前述の52地域による区分ごとに,1980年から2005年の期間における『北海道新聞』の部数増加率(2005年の部数を1980年の部数で除した値)を算出したところ,最上位には恵庭市,千歳市,江別市と石狩支庁の市が並び,これに次いで,札幌市の白石区(2005年は白石区と厚別区の計),西区(2005年は西区と手稲区の計)が続いた。石狩支庁以外では,岩見沢市(空知支庁),富良野市(上川支庁),登別市(胆振支庁)が札幌市全体の朝刊部数の伸び(1.43)を上回る値になっているが,このうち岩見沢市は江別市に隣接し,地形的にも石狩平野の一部にあり,石狩支庁と連続した地域と見なすこともできる。この表からは,『北海道新聞』朝刊部数が大きく伸びた地域が,札幌市と石狩支庁一帯であったことが分かる11)。これは『北海道新聞』が,人口増加をともなう世帯数の増加分を取り込むことに成功したことを意味するのであろう。[表2a]
 『北海道新聞』夕刊の部数データについて同様の計算をすると,朝刊の場合とは異なる傾向が読み取れる結果となった。この期間には,世帯数が顕著に増加した札幌市においても,夕刊の部数は減少した(0.89)。最も数値が大きく,夕刊部数が増加した江別市でもその伸びは25年間で10%にも満たない水準である。札幌市全体の値を上回る上位には,朝刊が大きな部数増を見せた札幌市の区や石狩支庁の市も並んでいるが,それとともに,朝刊の部数に関しては横ばい状態であった,(札幌から)遠い地域が並んでいる。その数値は1に近く,夕刊の部数も朝刊同様にほぼ横ばいであったことを意味している。こうした遠隔地においては,全国的に夕刊の部数減を生じさせている営力が働きにくい何らかの事情があったのかもしれない。[表2b]

札幌周辺の比重の増大:
 札幌市と石狩支庁一帯で世帯数増を取り込んだ結果,『北海道新聞』にとってのこの地域の重要性は増大した。これは,1980年と2005年の配布部数に占める札幌市や石狩支庁の比率の変化から読み取れる。1980年の時点で,札幌市が『北海道新聞』の配布部数に占める比率は,朝刊27%,夕刊32%であったが,2005年の時点では,朝刊32%,夕刊35%と拡大した。これは,札幌市に石狩支庁を合算するとより顕著な傾向となり,朝刊で7ポイント,夕刊で5ポイントの増加があったことになる。[表3]
表3 配布部数に占める札幌市と石狩支庁の比率
 一方,全国紙については,対象期間を通して朝刊部数は横ばいないし減少,夕刊部数は減少で推移していた。また,対象期間の6時点全てにデータがある全国紙4紙について,地域ごとの部数の推移を検討したところ,必ずしも顕著な差異ではないが,減少傾向は,他の地域に比べると,札幌を中心とした石狩支庁ではやや緩やかであったことが示唆された。そこで,1980年と2005年の配布部数に占める札幌市,石狩支庁の比率の変化を,『北海道新聞』と同様に算出した。対象期間における全国紙各紙の部数の増減は,まちまちであり,『日本経済新聞』は部数を大きく伸ばしたが,『読売新聞』と『朝日新聞』は朝刊部数では横ばい状態に踏みとどまったものの夕刊部数を大きく減らし,『毎日新聞』は朝夕刊とも大きく部数を減らした。こうした相違にも関わらず,各紙の朝夕刊は,配布部数全体に占める札幌市を含む石狩支庁の比率を,それぞれ10ポイントほどの水準で揃って拡大していた。これは,対象期間において,全国紙各紙の石狩支庁への集中が,『北海道新聞』以上のペースで進んだこと意味している。集中といっても,その性格は石狩支庁以外の地域における後退の結果であったと考えるべきであろう。

全国紙の市場占拠率:
 次に市場占拠率を用いた分析を試みるが,ここで留意しておくべきことがある。特定の新聞なり,数紙の新聞から成るカテゴリーについて,市場占拠率を算出しようとすれば,母数となる新聞全体の部数をどう算出するのか,何らかの形で定義しなければならない。つまり,どこまでの範囲を数えて「新聞全体」の部数と考えるかを明確にしておく必要がある。また,後段で触れるように,世帯普及率を検討する場合にも,特定の新聞やカテゴリーのABC部数と国勢調査世帯数を用いて世帯普及率を求めることには問題はないが,新聞全体の普及率,すなわち配布されている新聞全体の部数を世帯数で除した値を算出しようとするなら,部数を合計する新聞の対象をどこまでとするかが問題となる。

図5a 札幌市・支庁別にみる全国紙朝刊の市場占拠率の推移(1980年〜2005年)

図5b 札幌市・支庁別にみる全国紙夕刊の市場占拠率の推移(1980年〜2005年)

表4 札幌市・支庁別にみる全国紙の市場占拠率の地域性
 一般的に,世帯普及率の算出には,朝夕刊セット紙については朝刊の部数を用いるのが原則であるが,対象期間を通じて朝刊のABC部数が得られるのは,『北海道新聞』と,(『産経新聞』を除く)全国紙4紙だけである。この他に,部分的にデータが得られるものとして,『北海タイムス』(1982年10月まで),『十勝毎日新聞』(1985年10月から),『産経新聞』(2001年10月から)の3紙があるが,このうち『十勝毎日新聞』は,帯広市と十勝支庁だけを配布域とする夕刊のみの日刊地域紙であり,全国紙や『北海道新聞』とはやや性格を異にしている。また,『北海タイムス』と『産経新聞』は,6時点のうち1時点についてしかデータがない。『産経新聞』は,データのある2005年の配布部数が1000部程度と少数なので,これを算入してもしなくても世帯普及率の数値が大きく動くことはないが,ここでは全国紙という括りを尊重し,2005年の部数合計に算入した。一方,1980年の『北海タイムス』は,北海道全域で15万部以上のABC部数をもっており,これを部数合計に合算すると世帯普及率を8ポイントほど押し上げる。しかし,『北海タイムス』は,その後も1998年まで存続したにもかかわらず1982年にABCから離れたため,対象期間の6時点は,ABC部数データがある1時点,新聞は存在したがデータがない3時点,新聞が存在しなかった2時点と,位置づけがばらばらになってしまう。これを踏まえて,1980年のデータだけ『北海タイムス』を新聞部数の合計に算入するのは不適切と判断した。以下の分析では,『産経新聞』は朝刊の新聞部数の合計に算入するものの,『十勝毎日新聞』と『北海タイムス』は算入せず,また,「その他」部数も算入しない12)。要するに,『北海道新聞』と全国紙5紙の部数を合算したものを新聞全体の部数と見なすわけである。なお,『日本経済新聞』と『産経新聞』は,対象期間中も現在も北海道では夕刊がないため,夕刊については『北海道新聞』と全国紙3紙の合計を新聞全体の部数となる。
 さて,『北海道新聞』と全国紙の競争関係において,前者の優位が進んだと考えられることは,既に見た通りであるが,その動向は,より直接的に市場占拠率によって捉えることができる。全国紙の市場占拠率(全国紙5紙の部数合計を,新聞全体の部数合計で除した値)は朝夕刊とも低下しており,札幌市と14支庁の15区域による区分で地域別に見ても,(一部に1985年や1990年に最大値が来る例もあるものの)対象期間中はほとんどの地域で全国紙の市場占拠率の漸減が続いていたことが分かる。また,全国紙の市場占拠率が高めか低めかを朝刊と夕刊に分けて見ると,網走支庁を例外として,朝夕刊の普及水準はほぼ連動しており,朝夕刊とも上位となる地域は札幌市や石狩支庁に隣接する支庁に限られていることが分かる。こうした道央において,全国紙は2005年の時点で市場の30%から40%程度を占めており,市場の過半を占める『北海道新聞』に対抗しているとも言えるが,1980年の時点では40%から50%程度を占めていたことを踏まえれば,競争において劣勢にあることは間違いない。[図5a・b][表4]
 このように,『北海道新聞』が全国紙に対する優位をより確固たるものにしてきたことは,市場占拠率首位紙の優位の固定化という全国的な傾向の反映と見ることができる。こうした傾向は,新聞市場の成熟,ないし停滞の結果と受け止めることもできるかもしれない。

新聞全体の世帯普及率:
 同様に,札幌市と14支庁の15区域による区分にしたがって,新聞全体の世帯普及率を見ると,最も顕著な十勝支庁をはじめ,対象期間に世帯普及率が著しく低下した地域がある一方で,ほぼ横ばいの地域も多いことが分かる。北海道全体の世帯普及率は,1980年の84%から,2005年の73%まで10ポイント以上低下したが,十勝支庁では61%から39%まで22ポイント,胆振支庁では84%弱から62%強まで21ポイント,札幌市では93%から74%まで19 ポイントの低下が起きている。これを下落率にすると,もともと世帯普及水準の低い十勝支庁は36%,胆振支庁は25%,札幌市は21%となる13)[図6]
 ここで特徴的なのは,世帯普及率が横ばいに踏みとどまっている地域は,世帯数が横ばい,ないし減少している地域であることが多い,という傾向である。15区域の区分について,世帯数増加率(2005年の世帯数を1980年の世帯数で除した値)を横軸にとり,世帯普及率の増加率(2005年の世帯普及率を1980年の世帯普及率で除した値)を縦軸にとると,世帯普及率が62%から71%まで9ポイント(率にして14%)増加した日高支庁が世帯数は横ばいであったこと,これに準じて世帯普及率が横ばいの水準にとどまった地域のほとんどが,世帯数の横ばいや減少を経験した地域であったことが分かる。これらの地域は,世帯人員の減少にも関わらず世帯数が増えなかったわけであり,厳しい人口減と相まって地域経済活動の停滞を経験しているものと思われ14)。世帯数が増えた地域において,世帯普及率が減ったということは,新たに増加した分の世帯では新聞購読が低い確率でしか行われなかったということであり,逆に,人口が流出しても世帯数が横ばいに留まった地域では,世帯構成員の一部が流出しても世帯としての新聞購読は継続したということになる。[図7]

図6 札幌市・支庁別にみる新聞全体の世帯普及率の推移
(1980年〜2005年)

図7 札幌市・支庁別にみる新聞全体の世帯普及率と世帯数の変化
(1980年→2005年)

III 1980年以降の北海道における日刊地域紙の動向

 冒頭でも述べたように,北海道は広大な領域に人口が分散的に分布していることから,歴史的に日刊地域紙が各地で発行されてきた。日本新聞協会加盟紙に限っても,『釧路新聞』,『十勝毎日新聞』,『苫小牧民報』,『函館新聞』,『室蘭民報』と,都道府県別では最も多い5紙がある。こうした日刊地域紙については,その概況を網羅的に把握できる資料はなく,非日刊紙なども含めたリストである『雑誌新聞総カタログ』や,『日本新聞年鑑』が隔年で収録している「全国新聞要覧」,さらにネット上の情報などにより,全体的な状況を把握する必要がある。また,刊行形態,公称部数,創刊年月日をはじめ,細かいデータが資料により食い違うこともしばしば生じる。したがって,直接当該社に確認をとれたデータ以外は,誤りを含む可能性があるものと思わなければならないし,当該社に聞き取りができた内容でも,しばしば食い違いや,聞き取りに応じた担当者の思い違いなどで不正確なデータとなっていることもあり得る。こうした留保を付けた上で,以下の記述では,表に示した27紙の日刊地域紙が対象期間に(一時的にでも)存在していた,ということを議論の前提とする15)[表5][表6]
表5 北海道の日刊地域紙の創刊/休廃刊時期による分類
表6 北海道における日刊地域紙の類型

表7 『北海道新聞』に対する『北海タイムス』の部数比率(1980年10月)
『北海タイムス』の休刊と後継紙の苦闘:
 上の表に示した日刊地域紙には該当しないが,『北海タイムス』は,戦前の同名紙の関係者らによって戦後創刊された新聞であり,1950年代に各地の地域紙が合流して全道での配布体制が形成され,いわゆる「第二県紙」の立場を築いた「県域紙」であった16)。ABC部数が得られる1980年の時点で,『北海タイムス』はおよそ15万部で,既におよそ100万部だった『北海道新聞』には,部数の上で大きく引き離されていた。しかし,その15万部という部数は,『朝日新聞』の道内での部数に匹敵し,他県の小規模な県紙に比肩する水準にあった。『北海タイムス』が各地域でどの程度の部数をもっていたのかを,同じ地域における『北海道新聞』の配布部数に対する比率で見ると,『北海道新聞』の30%から50%程度の部数がある地域もあれば,1%にも満たない,事実上は配布実績がないも同然というところもあった。主要都市の中では,旭川市と小樽市ではある程度まで普及していた『北海タイムス』も,道央から離れた函館市,帯広市,釧路市や,胆振支庁の室蘭市,苫小牧市などでは,『北海道新聞』にまったく対抗できていなかった17)[表7]
 『北海タイムス』は,経営の苦境が常態化しながらも1980年代を乗り切ったが,ポストバブル期の1990年代に入ると経営危機が表面化し,最終的には1998年9月に倒産,休刊した。『北海タイムス』の休刊後,その関係者は再興を期して1999年6月に,札幌市と旭川市を拠点にタブロイド判の『フロンティアタイムス』を週刊で旗揚げし,7月から日刊化(朝刊)した(堀井,1999)。しかし,同紙は旭川市からは程なくして撤退し,夕刊化して,札幌市周辺を対象とする日刊地域紙となった。その後,2001年には『札幌タイムス』と改題したが,2005年11月には事業を整理して週刊に戻り,2009年にはそれも休刊となった。対象期間の6時点には,1995年までの4時点に地方紙としての『北海タイムス』が,2000年には札幌市周辺の日刊地域紙『フロンティアタイムス』,2005年にはそれを改題した『札幌タイムス』が存在していたことになる。
 1990年代には,戦後になってから県紙に対抗して登場した,いわゆる「第二県紙」が,経営危機に陥って休刊に至る例が相次いだが,その実態は,もともと経営難が常態化していながら,かろうじて存続していた新聞が,ポストバブル期の広告収入の減少や,それまで事業を支えていた親会社や金融機関からの支援停止によって,遂に行き詰まったという場合が多かった(山田,1998)18)。『北海タイムス』もその典型的な例であり,同紙の休刊は,全国各地で生じていた現象のひとつであったと考えられる。

図8 帯広市・十勝支庁の新聞配布部数の推移
(1980年〜2005年)

『北海道新聞』と『十勝毎日新聞』の競争と『函館新聞』の定着:
 既に指摘したように、地方紙(ブロック紙,県紙等)と地域紙は,主読紙と併読紙という棲み分けをして,正面からの競争関係にはならず,共存関係にあることが多い。しかし,日刊地域紙が有力となり,全国紙や地方紙を取らずに地域紙だけを購読する読者の比率(単読率)が高まってくると,競争は厳しいものとなる。帯広市を中心とする十勝支庁において高い普及率を築いている『十勝毎日新聞』は,この地域において『北海道新聞』と激しい競争を展開している。
 地元で「勝毎(かちまい)」の愛称で知られる,道内最有力の日刊地域紙『十勝毎日新聞』は,日本ABC協会に加盟する全国的にも例の少ない地域紙のひとつであり,対象期間についても1985年以降のABC部数が得られる19)。『十勝毎日新聞』は夕刊紙であるが,帯広市と十勝支庁における『北海道新聞』や全国紙(合計)の朝夕刊部数(ただし全国紙各紙の夕刊は事実上ないに等しい)の推移と同紙の部数を比較すると,この地域においては『十勝毎日新聞』の一人勝ちといってよい競争状況が続いて来たことが分かる。『十勝毎日新聞』は,この期間において,『北海道新聞』との部数差を着実に拡大し,地域における最高普及率という競争上の優位を確固たるものにした。これは,北海道全体としてみれば市場占拠率首位紙の優位の固定化という傾向の中で紙勢を伸ばしてきた『北海道新聞』が,帯広市・十勝支庁という地域的市場において,同じ原理によって劣勢に立たされてきたことを意味している。また,世帯数の推移を併せて参照すると,『十勝毎日新聞』の成長が,『北海道新聞』や全国紙の部数を奪ってきたというよりも,おもに世帯数の増加分を吸収する形で進んだことが読み取れる20)[図8]
 『十勝毎日新聞』と『北海道新聞』の競争関係は,それぞれの系列企業を巻き込んで様々な分野に及んでいる。例えば,コミュニティ放送局の設置をめぐる両者の対立は,日本で初めて同一地域複数波を実現するに至るほどのものであっ21)。特に,対象期間中に,この両者の対抗関係が,『函館新聞』の創刊前後に展開された,いわゆる「函館新聞戦争」によって全国的注目を集めたことは,特記しておくべきであろう。1995年に函館の地元企業テーオー小笠原と十勝毎日新聞社が出資して会社が設立され,1997年に創刊した『函館新聞』は,創刊前から『北海道新聞』との間で様々な局面で争うことを余儀なくされた。その詳細はここでは深入りしないが,特許庁,公正取引委員会を巻き込み,最後は新聞社間の裁判となって2006年にようやく和解するという経緯が,類例のない特異なものであったことは指摘しておきたい22)
 もともと函館は,戦前から有力地域紙が存在した地域であり,戦後も日本新聞協会加盟紙であった『函館新聞』(1946年〜1954年)が存在していたが,同紙が倒れて以降は,長い間,地元独自の地域紙がない状態が続いてい23)。これに対して『北海道新聞』は函館に発行拠点を置き,函館市を含む渡島支庁では道内の各支庁のなかでも高いセット率を維持してきた。[図9]
 1997年に,夕刊として創刊し,2000年に朝刊に移行した『函館新聞』は,『北海道新聞』に対して地元の声を反映させた新聞として,地域に定着することに成功している。『函館新聞』は日本ABC協会には加盟しておらず,ABC部数はない。ABC部数のある『北海道新聞』と全国紙各紙の朝刊の函館市における部数の推移を見ると,『函館新聞』の創刊前であった1995年から,創刊〜朝刊化後の2005年にかけては,比率としては6%程度ながら『北海道新聞』が5000部強の部数を失ったことが読み取れる。同時期の全国紙が全体として3%弱,400部程度の部数減であり,世帯数は8%近い増加であったことを考えると,『函館新聞』創刊による影響は全国紙よりも『北海道新聞』により強く現れていたと考えられる。直接の影響を実証することは難しいが,新たに登場した日刊地域紙『函館新聞』が,『北海道新聞』の部数に一定の影響を及ぼし,『北海道新聞』の世帯普及率を押し下げる変化を生じさせた可能性は十分に考慮されるべきであろう。[図10]

図9 札幌市・支庁別にみる『北海道新聞』朝夕刊セット率の推移
(1980年〜2005年)

図10 函館市の新聞配布部数の推移
(1980年〜2005年)

写真1 函館新聞社
(2009年8月17日撮影)

写真2 『函館新聞』の電柱看板
(2009年8月16日撮影)
 『函館新聞』への聞き取りでは,現状について,当初の目論見ほどの収益はないが,安定した経営を維持できる水準の普及を達成している,という主旨の説明があった。『函館新聞』の公称部数は2万2090部(2009年4月現在)であるが,この数は同紙が主読紙的性格の地域紙として,函館市周辺における主読紙間の競争に割って入ることに成功したことを示している。地域紙創刊を企図した函館市の地元企業が,同じ道内とはいえ道路距離にして450km以上も離れた帯広市の有力地域紙である『十勝毎日新聞』の支援を仰いで日刊地域紙を創刊し,創刊後10年で日本新聞協会への加盟を果たす(2007年)まで事業が成長したというこの事例は,しかるべき市場において,地域内で社会的威信をもつ地元資本が,他地域の有力地域紙のノウハウを導入できれば,それまで数十年間も日刊地域紙がなかった地域で,事業を成功させる可能性があることを実証したものである24)[写真1〜2]

小規模日刊地域紙の興亡:
 もともとぎりぎりの水準で辛うじて存続していたメディアが,ポストバブル期に経営危機を表面化させるというパターンは,「第二県紙」だけではなく,地域紙にも当てはまる。それでも地域紙は,他の小規模紙に比べれば,より強固な存立基盤をもっていると考えられる(山田,1998,p.32)。
 対象期間中やそれ以降に休廃刊した道内の日刊紙は,休廃刊した順に『北見毎日新聞』(1989年),『日刊旭川新聞』(1992年),『オホーツク新聞』(北見市:1993年),『北海タイムス』(1998年),『北見新聞』(2001年),『網走新聞』(2004年),『札幌タイムス』(2005年週刊化:2009年休刊),『オホーツク新聞』(紋別市:2009年),『日刊岩見沢新聞』(2009年)の8紙があるが,このうち『北海タイムス』以外の7紙はいずれも地域紙である。

写真3 日刊岩見沢新聞社
(2009年8月14日撮影)

写真4 空知新聞社
(2009年8月18日撮影)
 しかし,こうした日刊地域紙の休廃刊は,多くの場合,その地域における地域紙の消滅を意味しない。北見市の『北見毎日新聞』と『北見新聞』,さらに前者の後継紙だった『オホーツク新聞』(北見市)は,同市を拠点とする無代日刊紙『経済の伝書鳩』などとの競争に敗れて市場から退場したものであり,無代紙という特殊な形態ではあるが,北見市から日刊地域紙がなくなったわけではない。同様に,『オホーツク新聞』(紋別市)休刊後も,紋別市には『北海民夕新聞』が存続している。『網走新聞』は,2004年7月末に廃刊となったが,同年11月にはその後を埋めるように,新たな日刊地域紙『網走タイムズ』が登場した。このように,競争紙が存続したり,短期間のうちに日刊の後継紙が登場するのは,その地域に日刊地域紙への需要,ないし強固な存立基盤が存在する証左であろう。また,そこまで強い需要がない場合にも,新たに非日刊の地域紙が事実上の後継紙として登場することがある25)。『日刊旭川新聞』が1992年11月に休刊した後,翌1993年6月には,関係者の一部が週刊紙『あさひかわ新聞』を創刊した。同様に,『日刊岩見沢新聞』は,2009年8月末の休刊後,滝川市を中心に『プレス空知』(週2回刊)を発行している空知新聞社に事業が継承され,同年10月から『プレス空知岩見沢版』(週2回刊)が発行されるようになった26)。こうして見ると,競争紙も後継紙も存在せず,地域紙が断絶したといえるのは『札幌タイムス』の事例だけである27)。これは,北海道の各地域における地域紙への根強い潜在的な需要の存在を示唆するものであろう。[写真3〜4]
 北海道の中でも,特に道央から離れた,北海道の中での周縁にあたる地域では,地域紙に限らず,地元地域の情報を普及させる役割を果たす地域メディアには,強い需要が存在する。日刊紙が成立しなくても,非日刊の地域紙や,無代広告紙がその欠落を埋める,といった関係だけでなく,コミュニティ放送(コミュニティFM)が盛んであることなども,こうした観点から注目され28)。伝統的に日刊地域紙が地域社会の中で一定の役割を果たしていた場合,その役割を別の媒体が担わない限り,地域紙が消滅すれば,その地域社会にとっては情報回路の欠如による不都合が生じる。こうした場合,その不都合を解消するため,別の媒体の創設が模索されることになるだろう。あるいは,もともとあった地域紙が健在のうちに,別の媒体が成長してその役割を担うようになれば,他媒体との競争の中で,在来の地域紙の存立基盤は脆弱になるだろうし,場合によっては地域紙が消滅するということも起こる。こうした観点から見れば,本来は無代広告紙でありながら,応分に地域情報を提供する事実上の日刊地域紙として大きく成長してきた『経済の伝書鳩』の存在は,大いに注目されるところである。

写真5 伝書鳩(2階)が入っている
フヂサワビル (2009年8月24日撮影)

写真6 伝書鳩・美幌事務所
(2009年8月24日撮影)
 『経済の伝書鳩』は,北見市で不動産業を営んでいた株式会社フヂサワの傘下にあったグループ企業・大和商事が,おもに建て売り住宅の宣伝のために行っていた独自のチラシ作成の経験を基に,1983年に創刊した無代紙である。創刊当初は,週2回刊,B4判2ページであった。創刊当初の大和商事のもくろみは,地域情報の記事を載せ,無代広告紙の体裁をとることで,チラシの広告内容を少しでも読んでもらいたい,というところにあった。『経済の伝書鳩』の狙いは当たり,多くの広告が集まるようになった。こうした事態に『北海道新聞』は,広告が『経済の伝書鳩』に流れてしまうのを阻止すべく,1986年から,やはり週2回刊の無代紙『どうしん情報誌みんと』を創刊して対抗した。これに対して『経済の伝書鳩』は,1987年10月1日付から,他には例を見ない日刊化(週6回刊)を実現するとともに,エリアの拡大を模索し始めた。一時期進出した帯広からは撤退したものの、網走市を含む網走支庁の隣接市町村へと、徐々に配布域を広げていった。1991年には社名が大和商事から株式会社伝書鳩となり,1993年にはテレビ欄を設け,さらに,2003年には全面カラー印刷へと突き進んだ。『経済の伝書鳩』は,最盛期となった2005年前後は12-24頁建であったが,その後は8-16頁建に落ち着いている29)。[写真5〜6]
 『経済の伝書鳩』の創刊当時,北見市には『北見毎日新聞』と『北見新聞』という日刊地域紙2紙があり,地域情報の担い手として一定の役割を果たしていた。しかし,『経済の伝書鳩』の台頭と『どうしん情報誌みんと』の登場による広告料収入の減少も影響して,1989年には『北見毎日新聞』が廃刊し,その後継紙として同年に創刊された『オホーツク新聞』も1993年には廃刊に至った。さらに,戦前に遡る背景をもち戦後一貫して北見市の代表紙であった『北見新聞』も,2001年には日刊紙として休刊となった(無代紙『週刊北見新聞』が2001年から2003年まで存在)。この結果,北見市の日刊地域紙は,市街地に無料で全戸配布される『経済の伝書鳩』のみという,全国的にも他に例のない状況となった30)

おわりに

 本稿では,北海道を事例に,1980年から2005年という対象期間について,日刊新聞市場の変化を捉えようと試みてきた。その当初の狙いは,新聞市場へのデジタル化の影響を具体的なデータの裏付けによって捕捉することにあった。以上の検討から,当面の結論として指摘できることはふたつある。北海道では,全国的な傾向としての夕刊紙市場の縮小,セット率の低下が顕著な形で現われているが,この傾向は,携帯電話やインターネットの普及が進んだ1990年代後半よりも前の段階から生じており,新聞市場の変化の主要因をデジタル化のみに求めることは適切とは言えない。北海道の事例を見る限り,新聞市場の変化の多くは,単純にデジタル化の影響とは言い切れないのである。さらに,夕刊紙市場の縮小傾向や,朝刊紙部数の動向には,道内の地域ごとに大きなばらつきがあり,そのばらつきは,『北海道新聞』と各地の日刊地域紙との競争関係によってある程度まで説明されることも明らかになった。
 大局的に見た場合に,デジタル・メディアの出現や普及が,既存メディアとしての新聞市場の動向に影響することは認められるとしても,その影響は単純なものではない。また,本稿で検討した具体例でいえば,『函館新聞』や『経済の伝書鳩』の事例のように,むしろデジタル化の時期において紙勢を伸ばしている例も存在する。本稿で検討した北海道の事例においては,デジタル化とは無関係に,ある種の新聞市場の成熟と飽和がいち早く生じていたところに,デジタル化や,有力な日刊地域紙の台頭など,複数の要因が作用して,主読紙である『北海道新聞』や全国紙各紙(『北海タイムス』を加えてもよい)の長期的な停滞,ないし後退が生じた,と理解すべきであるように思われる。
 コンピュータの普及や通信手段の発達など,広義のデジタル化の進行それ自体は,取材から印刷まで,新聞製作の諸工程の合理化につながるものである。新規に小規模紙を立ち上げるような場合を想定すると,デジタル化は,初期投資額を圧縮する可能性をもっているが,他方で,従来から旧式の製作体制で刊行を続けてきたような小規模紙にとっては,移行期におけるデジタル化への投資が大きな負担となることも考えられる。こうした,デジタル化がもたらす,広い意味での新聞製作過程の変化,特に小規模紙における変化については,より具体的で詳細な検討が必要となってくるだろう。
 本稿の冒頭でも論じたように,今日では新聞業界は既に,成熟,停滞から,縮小,衰退の過程に入ったという見方も可能な状況にある。しかし,インターネット経由のニュースでは,海外や全国のニュースは得やすくても,生活に密着した地元地域のニュースや生活情報はなかなか得られない。在来型の印刷媒体としての地域紙を含め,地域における情報の担い手として大きな役割が,地域メディアに期待されている地域は多いのである。本稿で検討した北海道の事例は,個々の新聞が直面している状況は単純にデジタル化の帰結として理解されるべきものではないし,少なくとも日刊地域紙にとっては成長の可能性もあることを示唆するものである。

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1) 図1のグラフは,『日本新聞年鑑 ’09-’10』所載の表「発行部数1部あたり人口の変遷」のデータ(日本新聞協会,2009,p.393)により作成した。原表には人口(3月末の住民登録〜住民基本台帳による:千人単位),発行部数(セット紙43紙,朝刊単独紙63紙,夕刊単独紙15紙の計:千部単位),1部あたり人口(「普及率」と表現されている)が示されている。グラフでは,この表の人口と発行部数の数値に基づいて算出した,人口千人あたり部数を示している。
2) 本来「主読紙」とは,個々の家庭で複数紙を購読している場合に,最もよく読む新聞という意味で用いられる表現である。実際の質問紙調査などでは,もし現在購読している新聞を1紙に限定するとしたらどれを選ぶか,といった質問で主読紙を判定する。もちろん,最初から1紙しか購読していない世帯の主読紙は,現に購読している新聞である。このような意味での主読紙として選択されない(選択される確率が低い)新聞は,主読紙に対して「併読紙」と称される。
 全国紙や地方紙が主読紙として購読される確率が高いのに対し,地域紙はもともと併読紙としての性格をもっていることが多い。前者が,海外ニュースや全国ニュースなどを取り上げるのに対し,後者はもっぱら地域ニュースのみを取り上げることが多いためである。しかし,少数ながら有力な日刊地域紙の中には,海外ニュースや全国ニュースなども扱い,他紙との併読ではなく,自紙を単独で購読してもらう,いわゆる「単読」を目指し,結果的に主読紙を指向する例も存在する。
 そこで,「主読紙」を「(本来の意味の)主読紙として選択される確率が高い新聞」,「併読紙」を「主読紙として選択される確率が低い新聞」と捉え直すことで,例えば,併読紙的な地域紙と主読紙的な地域紙を区別した議論が可能になる。また同様に,「一県一紙」体制下の県紙など地方紙であっても,競争関係の中で劣位におかれて併読紙化している例も見いだされる。
 実際に,個々の新聞が,どれほどの確率で読者から主読紙として選ばれているのかは,調査をしてみなければ判定できない。しかし,紙面構成の上で広く海外ニュースや全国ニュースにも紙面を割き,またテレビ欄などを充実させている新聞は,「単読」なり主読紙を指向しているものと見なすことができるし,逆にもっぱら地域ニュースだけを扱う地域紙は併読紙と見なせる。こうした観点からすれば,『長野日報』(諏訪市)のように,紙面構成から主読紙指向と見なせる地域紙は全国的に散見されるが,実際に主読紙としての確立された立場を築いていると言えそうなのは,北海道以外では『デーリー東北』(八戸市)などごく一部に限られる。
 ただし,近年では併読紙としての紙面構成をもっている地元ニュース専門の地域紙だけを購読する世帯も無視し難い規模で存在する。特に高齢者世帯が支出を切り詰めようと新聞購読を見直す場合,(テレビでは取り上げない規模の)地元のニュースが得られる地域紙だけを残して,主読紙の購読をやめてしまうことが往々にしてあることには注意しておきたい。
3) 最終的には1998年に休刊してしまったが,『北海道新聞』に対抗する「第二県紙」の立場にあった『北海タイムス』も,1950年代に,『小樽タイムス』(1951年合併),『東北海道新聞』(釧路市:1953年合併),『北海日日新聞』(旭川市:1958年合併)と,各地の日刊地域紙を合併することで,全道規模の配布網を構築した経緯がある。
4) ABC部数は,日本ABC協会の会員となっている新聞社が発行する新聞について調査された部数であり,当然ながら会員社以外のデータは得られない。
 全国紙各紙については,原則として「朝日新聞(北海道)」のように表記して北海道支社の発行分だけを数えた数値になるが,北海道支社が置かれず,東京発行分が道内に配布される場合は「産経新聞(東京)」のように表記される。独立した項目が立てられていない会員社の新聞が北海道に配布されている実績がある場合は「その他」にまとめられる。例えば,読売新聞の東京発行分が北海道に継続的に配布されていれば,その部数は「読売新聞(北海道)」ではなく,「その他」に加えられることになる。朝毎読の三紙は対象期間中ずっと北海道支社の数値が示されているが,日本経済新聞は1987年4月分までは「日本経済(東京)」,10月分からは「日本経済(北海道)」と表示されている。また,産経新聞は2001年10月から登場し,「産経新聞(東京)」と表示されている。
 地方紙では,北海道新聞が全期間を通して会員社となっているほか,1982年10月までは北海タイムス(1998年に休刊)も会員社として部数が表示されていた。また,1985年10月からは,有力な日刊地域紙である十勝毎日新聞が会員社として部数が表示されるようになり,現在に至っている。
5) 市区郡別データは,新聞社の印刷工場から地域の各販売店へ配送される部数を,販売店の所在地によって数えたものである。このため,例えば,A市に所在する販売店が,隣接するB郡の一部への配布を行っているような場合には,その部数はA市のものに算入されることになる。なお,郵送などによる部数は,購読者の所在地に算入される。
6) 北海道の支庁は,本稿で取り上げている時期より後に再編され,2010年4月1日から改称されて,総合振興局ないし振興局となった。その際に,旧・網走支庁はオホーツク総合振興局と改称され,また,一部で境界が変更された。ただし,再編後の総合振興局・振興局も,地方自治法上は支庁として扱われる。
 本稿は,もっぱら再編以前の時期について論じているものであり,文中では「支庁」のみを用いる。
7) その後,2006年2月1日に,渡島支庁管内だった上磯郡上磯町と亀田郡大野町が合併して北斗市が成立したため,それ以降は58区域の区分でデータが提示されている。
8) 札幌市は,1989年11月6日に白石区から厚別区,西区から手稲区を,1997年11月4日に豊平区から清田区を,それぞれ分区新設している。北広島市と石狩市は,いずれも1996年9月1日に市制を施行した。両市の市制施行により,ABC部数の区分上は,それまでの石狩支庁から両市の数値が独立するかたちとなった。組み替えに際しては,「白石区+厚別区」,「西区+手稲区」,「豊平区+清田区」,「石狩支庁+北広島市+石狩市」の組み合わせで数値を合算した。
9) 函館市は2004年12月1日に亀田郡戸井町,恵山町,椴法華村,茅部郡南茅部町と合併した。2000年の国勢調査によれば,これら4町村の人口と世帯数の合計は,17,674人,5,814世帯であったが,これは同時点の函館市の5%ほど,渡島支庁の10%ほどに相当していた。士別市は2005年9月1日に上川郡朝日町と合併した。朝日町は,2000年国勢調査人口と世帯数が,1,926人,847世帯であったが,これは同時点の士別市の10%弱,渡島支庁の20%ほどに相当していた。2005年の両市のデータについては,特に部数のように絶対数が問題となる数値については,合併の影響がある程度留意されるべきであろう。
 2005年10月1日には渡島支庁の山越郡八雲町と檜山支庁の爾志郡熊石町が合併し,渡島支庁管内の新たな郡・町として二海郡八雲町が新設された。これにより支庁境界が変更され,旧熊石町の領域が渡島支庁に移った。2000年国勢調査による熊石町の人口と世帯数は,3,802人,1,479世帯であったが,渡島支庁の2%ほど,檜山支庁の7%ほどに相当していた。この程度であれば,数値に現れる影響は,ほとんど無視できる範囲と思われる。
 なお,2005年10月1日には,石狩市が厚田郡厚田村,浜益郡浜益村を編入合併しているが,今回の分析ではもともと石狩市の数値を石狩支庁に合算しているので,影響はない。また,2005年10月11日には,釧路市が阿寒町,音別町と合併しているが,ABC部数データは,部数については当該月の平均という考え方に立っているが,行政区画については当該月1日付によっているため,2005年10月のデータでは合併前の釧路市の数値が示されており,こちらも分析に影響はない。
 このほか,1986年に,恵庭市と長沼町(空知支庁)との境界が一部で変更されているが,世帯数や配布部数のデータに影響を与えるものではないと判断した。
10) 国際比較などに際しては,平均的な世帯の構成が異なり,世帯人員に大きなばらつきが考えられることなどを考慮し,人口千人あたりの発行部数といった指標が用いられることも多い。
11) 上川支庁における部数増については,必ずしも明確な説明ができない。しかし,1995年と2000年の間で,部数の伸びが見られることに注目すれば,もともと相対的にこの地域で健闘していた『北海タイムス』の休刊後,『北海タイムス』単独の購読者が『北海道新聞』へ切り替えたことが,部数増の主な原因である可能性もある。後掲の表7も参照。
12) もともと1980年代には,「その他」とされる朝刊は600部前後の水準にあったが,1990年代後半には部数が伸長し2001年4月には,1000部程度の水準にあった。ところが,2001年10月に「産経新聞(東京)」の項目が立てられると,一挙に30部ちょっとまで落ち込む。立項後の「産経新聞(東京)」朝刊の値が1000部程度であることを考えると,それ以前の「その他」はほとんどが『産経新聞』であったと推測できるが,いずれにせよ,「その他」を算入しても数値は大きく動かない。
13) 一般論として,主読紙的な性格をもっていたり,紙面構成上は併読紙的であっても単独率が高い日刊地域紙がある地域では,全国紙と地方紙の合計に基づく世帯普及率は低めに出るはずである。後段で検討するように,十勝支庁と胆振支庁には,有力な日刊地域紙(『十勝毎日新聞』,『苫小牧民報』,『室蘭民報』)が存在しているが,それがどの程度影響しているかは判断が難しい。
14) 世帯普及率が対象期間に増加,ないし減少幅が小さかった支庁を具体的に列挙すると,日高支庁(世帯普及率14%増,世帯数3%増),檜山支庁(世帯普及率2%増,世帯数15%減),後志支庁(世帯普及率1%増,世帯数3%増),留萌支庁(世帯普及率0%増,世帯数11%減),上川支庁(世帯普及率0%減,世帯数19%増),空知支庁(世帯普及率1%減,世帯数6%減),宗谷支庁(世帯普及率2%減,世帯数4%減),となり,上川支庁以外は世帯数が減少,ないし増加幅が小さかった支庁である。
15) 表5,表6のデータは,『雑誌新聞総カタログ』,『日本新聞年鑑』所載「全国新聞要覧」,各社のウェブサイト等の記述に加え,現物の確認や聞き取りで得られた内容などから集成したものである。時期によって変動の可能性のある,建てページなどのデータは,現状を反映していない可能性もある。また,「夕刊」と特記されていない「日刊」は「朝刊」として扱っているので,必ずしも実態を反映していない可能性がある。
16) 注3を参照。「県域紙」とは,「一県一紙」体制における県紙ではないが,それに準じる配布域をもつ地方紙を,特に県紙と区別して指す表現であり,県紙に対抗する「第二県紙」のほか,何らかの事情で県紙が消滅した後に,それに代わる存在となることを目指して創刊されたもの(『千葉日報』,『山口新聞』など)が含まれる。日常的な言葉遣いとしては,こうした「県域紙」も「県紙」と称されることがよくある。
17) 『北海タイムス』は,1950年代に合流した『小樽タイムス』や『北海日日新聞』(旭川市)への支持を引き継ぎ,小樽市や旭川市,さらに上川支庁においては一定のまとまった部数を確保していた。特に,旭川市では『北海タイムス』を「旭川の新聞」と見る見方が強かったと言われている。これに対し,釧路市では『東北海道新聞』(1946年〜1953年)が合流したものの,釧路支社は程なくして廃止され,『北海タイムス』と袂を分かった『東北海道新聞』関係者らによって1955年に『釧路新聞』が発刊されるといった経緯があり,『北海タイムス』への支持は伸びなかった。
18) 具体的には,福岡県の『フクニチ』(1992年休刊:以下同様),『日刊福井』(1992年:中日新聞福井支社が事業を継承し1994年から『日刊県民福井』を刊行),『栃木新聞』(1994年)などが該当する。21世紀に入ってからは,『新いばらき』(2003年),『鹿児島新報』(2004年)が,同様の状況の中で休廃刊した。
19) 2010年現在,日本ABC協会加盟の日刊地域紙は,『十勝毎日新聞』のほかは,『デーリー東北』(八戸市)と『紀伊民報』(田辺市)が挙げられる。また,『経済の伝書鳩』は「フリーペーパー」として会員になっている。なお,過去には,『南海日日新聞』(奄美市)も会員であった。
20) 地域の世帯数が増加した時期に,その時点での最有力紙が,その増加分にほぼ相当する部数増を見せる(他紙は,さほど部数を増加させない)という現象は,山田(1984)で検討した,1960年代後半から1970年代にかけての石巻市における『石巻日日新聞』の成長を連想させるものである。ただし,諸々の条件の違いもあり,安易に両者を同一視はできない。ここでは類似現象であることを指摘するにとどめる。
21) 1992年に制度化されたコミュニティ放送(コミュニティFM)は,当初「1市町村ごとに1波割り当てる」という免許方針が,当時の郵政省から示されていた。郵政省は,コミュニティ放送の免許申請の審査に際して,地域のコンセンサスを踏まえた申請であることを免許の条件としていた。ところが帯広市について,『北海道新聞』グループと『十勝毎日新聞』グループから免許の申請が出され,一本化できない情勢に陥った。これを契機に,1994年 5月に免許方針が緩和され,同一地域複数波に途が開かれた。1994年12月22日,申請していた 2社に同時に免許が下り,翌23日には「おびひろ市民ラジオ」(FMウィング:『北海道新聞』系)が,24日には「エフエムおびひろ」(FM-JAGA:『十勝毎日新聞』系)が正式開局した。その後,各地で地域第二局が認可されるようになった。(山田,2000,pp.66-67)
22) 函館市での地域紙新創刊を目指す動きをいち早く察知した北海道新聞社は,過去に函館で定着していた地域紙の紙名9件(『函館新聞』を含む)について,1994年に特許庁への商標登録申請し手続きをとった。その後,諸々の経緯があって,結局のところ申請は認められず,1995年には『函館新聞』が創刊された。その後,1998年に公正取引委員会は一連の北海道新聞の行為が独占禁止法に触れるとして排除勧告を出し,これを不服として北海道新聞社は審判の手続きに入ったものの,2000年に同意審決に至った。さらに,北海道新聞系の事業者と函館新聞社の取引をめぐる諸々の事件があり,函館新聞社は2002年に北海道新聞社に対して損害賠償裁判を起こし,2006年には北海道新聞社が2億2千万円を和解金として支払うという内容で両者の和解が成立した。事実上,函館新聞社側の勝利和解であった。
23) 『函館新聞』を名乗った新聞は,現在のものを含め,4紙あった。まず,1878(明治11)年に北海道で最初の新聞として刊行された明治の『函館新聞』がある。同紙は1898(明治31)年5月22日付で『函館毎日新聞』と改題し,1937年9月まで存続した(渡辺,1956,pp.1-2,p.7;辻,1990)。
 次いで戦後,1946年11月29日に創刊された『函館新聞』があり,1954年5月まで存続した。同紙は創刊に際して,『朝日新聞』からノウハウや人材の支援を受けていた。『函館新聞』は,1949年12月5日付で,別会社の体裁をとって『夕刊はこだて』を創刊,後に1950年8月には両紙を統合して朝夕刊セットの体制となった。しかし,『北海道新聞』との競争で劣勢に立たされて経営が逼迫し,朝刊は1954年5月3日付,夕刊は同5日付で廃刊となった(函新会,1988,pp.3-20)。
 この戦後の『函館新聞』が廃刊に至った直後,1954年6月28日に,別会社によって『函館新聞夕刊』が創刊され,7月1日には『函館新聞朝刊』も登場したが,『函館新聞夕刊』はひと月ほど後の7月31日付で廃刊となり,『函館新聞朝刊』も1956年3月31日付で廃刊となった(函新会,1988,pp.3-20)。
 以降,現在の『函館新聞』の登場まで,函館市には日刊地域紙は成立しなかった。
24) 既存の有力地域紙が,新たな地域紙の創刊に関わることはよくあるが,その多くは自社の事業拡大として,隣接地域に別題号の新聞を展開させるものである。北海道における例では,『苫小牧民報』が千歳市で別題号の『千歳民報』を1963年7月20日から発行し,安定した部数を確保している(苫小牧民報社,2003,pp.98-100)。他方,『釧路新聞』は,『東北海道新聞』(1981年9月1日〜1997年3月31日)の題号で,帯広市で『十勝毎日新聞』に対抗する地域紙の発行を試みたが(釧路新聞社,1996,pp.92-93),大きな部数を確保することができずに撤退している。
25) この時期の北海道では,『北見新聞』の休刊後,同紙の経営者によって無代週刊紙『週刊北見新聞』が2001年から2003年にかけて発行された例や,末期の『札幌タイムス』が2005年から2009年まで週刊紙として存続した例のように,日刊紙のブランドを維持するために,非日刊になっての存続を図る試みも見られた。これは類例がない特異な取り組みであるように思う。
26) 『プレス空知』は,タブロイド判の旬刊無代紙として1980年に滝川市で創刊し,翌1981年に有料の週刊紙に移行,1984年から現在の週2回刊となった。配布エリアは滝川市を中心に空知支庁中部に広がっている。隔日刊程度(週2〜3回刊)の地域紙が地域の中でまとまった部数をもち,地域社会に一定の役割を果たしている地域紙の例は,全国的にはさほど多くない。北海道では,他に週3回刊の地域紙として『日刊富良野』(富良野市),『美幌新聞』(網走郡美幌町),『羽幌タイムス』(苫前郡羽幌町)などがある。
27) 県庁所在都市は,県紙の地元になり,県紙が地域のニュースもよくフォローし,また,読者も県紙を地元紙と認識しやすいため,人口集積という地域紙発行に有利な条件のひとつがあるにも関わらず,日刊地域紙は成立しにくい。そうした中で実際に成立している例外的な日刊地域紙である『盛岡タイムス』は,地域業界紙『日刊岩手建設工業新聞』が母体となっており,業界紙の収益が『盛岡タイムス』の経営を支えているという面がある。
28) 北海道におけるコミュニティ放送は,日本初の認可局である「FMいるか」(函館市)を含め25局が運営されている(このほか2局が既に廃局)。こうしたコミュニティ局の中には,有力な地域紙が出資などの深い関係をもっている例もあるし,より一般的に地域紙と事業の連携などの関わりをもつものも散見される。
29) 『経済の伝書鳩』の沿革については,聞き取りとウェブサイトの記述によっている。 http://denshobato.com/hato_profile/enkaku.html (最終アクセス:2010年10月28日)
30) 欧米や韓国などの都市部では,おもに街頭や交通施設に置かれたラックにより無料で提供される一般日刊紙が定着しているが,日本ではこうした都市型の日刊無代紙は存在していない。こうした無代紙の動向については,稲垣(2008)を参照。
 『経済の伝書鳩』は,購読するものではなく,無料で全戸配布されるものであるが,実際には,地元の北見市を含め,配布圏内の市町村であっても市街地から離れた家屋には配布されなかったり,何日分かがまとめて投入される場合もあるらしい。また,一般的なチラシの場合と同様に,『経済の伝書鳩』を拒む旨のメッセージを記した郵便受けが見られることもあるが,他方では『経済の伝書鳩』が配布されていないという苦情も,発行社には少なからず寄せられるという。


文献

稲垣太郎(2008):『フリーペーパーの衝撃』集英社(集英社新書),190ps.
函新会(1988):『函館新聞 小史と回想』函新会,125ps.
釧路新聞社(1996):『釧路新聞50年史』釧路新聞社,191ps.
苫小牧民報社(2003):『苫小牧民報五十年史』苫小牧民報社,237ps.
辻 喜久子(1990):第一三章 社会・文化諸相の光と影 第二節 マス・メディアと活字文化 一 函館新聞の発刊,二 明治二,三十年代の函館の新聞事情.函館市史編さん室 編『函館市史 通説編第2巻』函館市,pp.1427-1454.
服部敬雄(1980):『現代日本地方新聞論 多層性とその機能』講談社,245ps.
堀井英喜(1999):「フロンティアタイムス」発刊-北海タイムス休刊を越えて.新聞研究(日本新聞協会),578,pp.56-59.
山田晴通(1984):宮城県石巻市における地域紙興亡略史 −地域紙の役割変化を中心に−.新聞学評論(日本新聞学会),33,pp215-229.
山田晴通(1985):東北地方における日刊地域紙の立地.東北地理(東北地理学会),37,pp95-111.
山田晴通(1998):新聞界の「先端」から学ぶこと-大不況下における小規模紙経営.新聞研究(日本新聞協会),569,pp.29-32.
山田晴通(2000):FM西東京にみるコミュニティFMの存立基盤.人文自然科学論集(東京経済大学),110,pp.59-84.
渡辺一雄(1956):北海道新聞史.日本新聞協会 編『地方別日本新聞史』日本新聞協会,pp.1-10.

日本新聞協会『日本新聞年鑑』各年版

謝辞/献辞

 本稿は,2009年夏にほぼひと月をかけて実施した北海道での現地調査と,日本ABC協会の資料の分析によって構成したものである。個々のお名前は挙げないが,現地調査にご協力をいただいた新聞社,放送局など各社のインフォーマントの方々,資料の入手と閲覧にご配慮をいただいた各地の公共図書館の司書の皆さん,社団法人日本ABC協会の皆さんに,深く感謝を申し上げる。

 本稿は,松本光太郎君の追悼号に掲載される。この際,本稿を松本君の郷里のご家族に献呈申し上げたい。
 本学では先任の同僚であり,大学の同じ学科の後輩でもあった松本君の追悼号に寄稿することになるとは,誠に断腸の思いである。1995年にコミュニケーション学部の新設とともに着任して以来,童顔でいつも笑顔を絶やさない松本君とは,単なる同僚や先輩後輩の付き合いを超えて,強い信頼関係で結ばれていた。それが,新しい職場に着任したばかりの自分にとって,どれほど心強いことであったかは,言葉にしきれない。今はなくなってしまった居酒屋「かや乃」をはじめ,松本君とはよく出歩き,語り,笑い,また激論も交わした。酒席は好きでも酒が飲めない私は,しばしば彼を車で家まで送り届けることもあった。昭島のマンションにも,国立のマンションにも何度となく行ったし,時には大きく寄り道して深夜のドライブとなることもあった。少年の笑顔と確固たる思想性,そして,周到なフォールドワーカーとしての技量と経験を備えていた松本君と共にする時間は,いつも幸福なものだった。
 2001年に,松本君が最初に体調を崩したとき,私は国外研究で豪州におり,何の力にもなれなかった。その後,二人とも生活のスタイルが大きく変わり,私自身が私的な生活で問題を抱えたこともあって,以前のように頻々と飲み歩くようなことはなくなったが,松本君との信頼関係は変わらなかった。しかし,彼が再び体調を崩して以降,最後の1年以上の間,遂に会う機会をもたないまま訃報に接することになったことは,返す返すも残念の極みである。
 松本君は透徹した唯物論者だったし,私は不信心者である。それでも彼の冥界の旅路が,フォールドワーカーとしての彼にとって豊かな驚きに満ちたものであることを祈らずにはいられない。私の記憶の中の松本君は,いつまでも「かや乃」にいて,笑顔を崩さないまま立て板に水のような語り口で森羅万象を語り続けている。


 本研究には,2009年度-2010年度の東京経済大学個人研究費の一部,および,2009年度の東京経済大学個人研究助成費(C09-31)「近年の北海道における日刊地域紙市場の変化についての聞き取り調査」を用いた。
 本稿の内容の一部は,2009年6月24日に韓国安東市・韓国学研究所で開催されたDigital Communities 2009,および,2009年8月25日に北海学園大学で開催された経済地理学会北東支部例会において口頭発表した。

 本稿のテキストは,当研究室のウェブサイト上で公開している。(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html



本研究に関する研究助成費支出明細

////社会経済地理学/地域研究/地誌////コミュニケーション・メディア論////

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