雑誌論文(その他):2006:

英国バーミンガム市の都市経営にみる「欧州」と「文化」
 ―『バーミンガムのルネッサンス(再生)』(2003年)を読む―.

人文自然科学論集(東京経済大学),121,pp23-46.


原論文では、図1〜2は、出典のページからの複写になっていますが、このページでは、htmlで表現しやすい形に改めております。(2006.03.24.)

本稿は、pdfファイル形式で、こちらのページから入手することができます。(2006.11.29.)

英国バーミンガム市の都市経営にみる「欧州」と「文化」
 ―『バーミンガムのルネッサンス(再生)』(2003年)を読む―.

I 英国の都市経営における「欧州」と「文化」
II 『バーミンガムのルネッサンス(再生)』(2003年)を読む
   a)産業構造の改革
   b)中心市街地の再開発
   c)コミュニティ再生への投資
III バーミンガムにおける「欧州」と「文化」の射程


参考文献
付記/献辞


英国バーミンガム市の都市経営にみる「欧州」と「文化」

『バーミンガムのルネッサンス(再生)』(2003年)を読む―

山田 晴通   




I 英国の都市経営における「欧州」と「文化」

 英国の都市政策をめぐる議論においては、近年になって新たに重要度を増してきた論点がいくつかある。その中で、欧州との関係を政策の視野に入れるという論点と、文化事業を通じた都市の活性化という論点は、本来相互に独立しながら、それぞれに展開され、重要性を増してきたものである1)
 1973年に英国が当時の欧州共同体(EC)=現在の欧州連合(EU)(以下、言及される時期に関係なくEUと表記する2))に参加する前後から、英国の都市、とりわけある程度以上の規模を持った地方の産業都市にとって、欧州との関係は大きな関心事となってきた。統合への参加の結果として新たに課されるEU共通の地域政策が、個々の都市にどのような影響を与えるのか、また、英国の都市政策にどのような変化を起こすのか、英国の各都市の行政担当者は強い関心を寄せた。より具体的には、従来からの中央政府の補助金等に加え、EUから投じられる資金の受け皿となるべく各都市がしのぎを削るようになってきたのである3)
 英国に限らず、EUの中で経済的優位にある諸国の国内世論には、EUの補助金政策について、自国の拠出した分担金がEU圏内の経済的に立ち後れた諸国に垂れ流されるだけなのではないか、という懐疑が根強く存在しており、例えばEUの東方拡大に関連して、こうした議論がしばしば蒸し返されてきた。このため、各国政府も、またEU側も、自国内の低開発地域に対するEU資金の環流に努めており、構造的な不振に陥ってきた古くからの産業都市などに対するEU資金の投下が進められてきた。
 英国の場合、EUが積極的に地域政策に取り組み始めた1970年代以降の変化を、地方都市の立場に立って捉えれば、一方ではサッチャリズムの時期4)以来、各種の補助金などの形で提供される中央政府から資金が後退してきたところに、新たな資金的枠組みとしてEU資金が登場したということになる。こうして英国の各地域へ投下されることになるEU資金は、結局のところ英国の負担する分担金の部分的な環流に過ぎないとしても、この資金は「欧州からの贈物」と位置付けられ、政治的に言説化されてきた。競争的な性格を持つ資金導入のためには、欧州とのつながりや、欧州というスケールのコンテクストを強調した言説に溢れたテキストが用意されて、(都市の立場から見て)対外的(対EU、対中央政府)にも、対内的(対市民)にも広報努力が積み上げられるようになる。もともと、東海岸の港湾都市などは、定期航路の存在などもあって歴史的に欧州との関係を意識した都市経営を行ってきた面があったが、今や、リヴァプールのように従来むしろ米国を意識することが多かった西海岸の港湾都市や、本稿で取り上げるバーミンガムのような内陸の産業都市も、EU資金を意識し、こぞって欧州の一員としてのアイデンティティを表明し始めている。そうした言説は、とってつけたような擬態に過ぎないと見ることもできるが、他方では、こうした言説の反復的な量産が、都市行政の現場や一般市民の間に、意識の変化をもたらしつつあると考えることもできるだろう。
 「文化」というキーワードが都市経営のみならず、経済活動の理解の上で重要な、あるいは決定的な要素として注目されるようになってきた過程は、かなり以前にまで遡ることができる。経済のサービス化、ソフト化、あるいは脱産業化といった文脈における議論は、英国を含めた先進諸国の経済がそのような方向で実体的に変化していく中で、都市経営の上でも重要な課題となってきた。人口なり、経済規模で計測される都市の規模は、直接的には税収を柱とした都市財政の規模に比例するものであり、ある時代に繁栄を経験した都市が、経済構造の変化に伴う産業の盛衰の中で、都市の規模を望ましい水準に何とか維持・管理しようと努めるのは当然のことである。英国の場合、サッチャリズムの時期を経て、都市経営の経済政策的な側面で「文化」への意識が高まり、「文化」を誘因の梃子として人を集め、それに伴う新たな投資を呼び込むという戦略的な議論が一般化したといえるだろう。最も分かりやすい形でこうした取り組みが強化されたのは、観光客の誘引であるが、とりわけコンベンション事業などを通したビジネス需要への対応が焦点を集めてきた。こうして、大規模で高機能を備えたコンベンション会場のほか、宿泊施設、アクセス交通網の整備などが、都市にとって投資の課題となり、都市間の競争も徐々に激しさを増してきている。こうした動きは、狭義のビジネスコンベンションに限られたものではなく、主にサッカー場などとして機能する大規模スタジアムの運営のような局面にも当てはまる。
 経済活動を誘致する要素の一つとして、文化的要素を考えてみると、通常の経済活動の立地をめぐる議論とは少々異なった論点がそこで浮上してくる。通常の産業立地論に置いては、ほとんどの要素は抽象化され、数値に換算され、経済合理性が追求されることになるのだが、文化的要素はしばしば数値への還元が困難であり、また、特定の場所に固有の(他の場所では代置できない)価値として立ち現れ、単純な経済合理性の追求を許さない。そして、まさしくこの点が、従来型の産業立地における合理性追求の中で優位性を失った地域が見出した、経済的な浮揚の足掛かりなのである。もちろん、空間の中で、数値に還元される要素の競争で産業立地を促進する、という観点がなくなったわけではない。しかし、他の場所と代置ができない、その場所固有の価値を全面に押し立てて演出し、ユニークネスを主張しながら人や投資を呼び込むという戦略の重要性は、都市経営の現場で、かつてないほど強く意識されるようになっている。こうした傾向は、英国でも日本でも、また先進諸国のどこでも広く共有されつつある。
 このように、それぞれの背景を踏まえて英国における都市経営の場で重要性を増してきた「欧州」と「文化」という二つのキーワードであるが、同時に、この両者がしばしば強力に結びついて展開されるという面にも注目しておく必要があるだろう。欧州の一員として、欧州にも開かれた文化(必ずしも欧州起源の文化とは限らない)を共有しようという姿勢が強調され、欧州を含め、国内外からの来訪者を増やし、投資を迎えるというロジックは、英国の諸都市が、様々な場面で動員するものとなっている。こうした現状を招来した(唯一の、ではないとしても)決定的に重要な契機は、EUが指定する「欧州文化都市」として選定されたグラスゴーの経験であった5)
 「欧州文化都市」とは、順番に毎年一カ国ずつ選ばれたEU加盟国が、自国内の一都市を「欧州文化都市」として選定し、各種の文化事業への取り組みを奨励するというものである。EUとしては、選定された都市に特別な予算措置をするわけではない。しかし、これに選定された都市は、文化事業が数多く展開される当該年を中心に観光客などが大幅に増加するため、経済効果は小さくない。
 「欧州文化都市」の順番が初めて英国に回って来た1990年に選定されたのは、スコットランドの伝統的な産業港湾都市であるグラスゴーだった。グラスゴーは当該年の前後に一連の文化事業を大々的に展開し、コンベンション関連施設の整備と新たな観光資源の構築に成功し、「衰退した産業都市」から「新しい文化都市」へとイメージの脱皮に成功して広く注目を集めた。このグラスゴーの成功は、英国の諸都市の行政当局に影響を与え、多くの都市が文化を都市づくりの重要な側面と認識するようになった。
 その後、「欧州文化都市」の事業は名称を「欧州文化首都」と改め、2008年には再び英国に順番が巡ってくることとなった。2008年の欧州文化首都候補には英国各地の多様な都市が名乗りを上げ、2002年から2003年にかけてその選考過程がしばしばメディアの注目を集めた。最終的に選出されたのはリヴァプールであったが、一次選考によって6都市に絞り込まれた中に残ったバーミンガムなどを含め、選考の過程では、欧州というアイデンティティと文化を通じた地域振興をめぐって、様々な言説がメディアに露出し、社会に浸透していった6)
 欧州文化首都の取り組み自体は、最終的にはもっぱら一つの都市だけに関わる一連のイベントに過ぎない。しかし、この過程に参加した諸都市は、バーミンガムのように最終的に選出されなかった都市を含め、「欧州」と「文化」を都市経営のキーワードに掲げて多様な事業を展開している。その意味では、欧州文化首都の取り組みは、広く英国における都市経営政策に影響を及ぼすものでもある。以下、本稿では、2008年欧州文化首都の候補都市として名乗りを上げたものの最終的には選から漏れることになった、英国第二の都市バーミンガムを例に7)、選考過程で市当局から公表された報告書の内容を踏まえながら、都市経営における欧州関係の取り組みと文化を通じた地域経済活性化の試みについて検討を加えていく。


II 『バーミンガムのルネッサンス(再生)』(2003年)を読む

 バーミンガム市は、EU地域内の都市自治体の協力組織であり、またEUに対して一種のロビー団体として機能している「ユーロシティーズ Eurocities」に初期から参加し8)、また、独立した部局(現在の名称は「欧州国際局 European And International Division」)を設けて、単なる自治体国際交流の域を超えた、国際的な事業の受け入れを模索してきた。2002年から2003年にかけて展開された2008年欧州文化首都への立候補キャンペーンは、結果的に成功しなかったとはいえ、バーミンガムにとっては都市のアイデンティティを市民に対しても、また英国全国に対しても、そして少なくとも建て前の上では欧州全体に対して表明する機会となった。
 欧州文化首都へのキャンペーンの過程で、バーミンガムがどのような都市像をアイデンティティとして表明したのか、またそこにはどのような「演出」があったのかを検証する上で、最も有効な資料となるのが、『バーミンガムのルネッサンス(再生):いかにして欧州資金は当市を再活性化したのか』と題された報告書である(Birmingham City Council, 2003)。この報告書は、裏表紙に「2008年には欧州文化首都バーミンガムへおいでください Be in Birmingham 2008 a European Capital of Culture」というキャッチフレーズが刷り込まれているように、欧州文化首都の候補地選定の過程で関係者に広く配布されたものである。この報告書の構成は、目次を参照して頂きたい(図1)。以下、本章では、必ずしも報告書の構成には従わず、「産業構造の改革」「中心市街地の再開発」「コミュニティの再生」という論点にそって内容を整理し直し、バーミンガム市当局が描く都市のアイデンティティを明らかにしていく。なお、以下ではこの報告書からの引用はページ数のみを表示する。
BIRMINGHAM'S RENAISSANCE

CONTENTS

PAGE
FOREWORD1
CONTENTS3
1.INTRODUCTION4
A developing regional approach6
OF EUROPEAN FUNDED PROJECTS7
2.BIRMINGHAM'S SUCCESS:
A BRIEF OVERVIEW
8
Introduction8
The decline of Birmingham's traditional economy8
A strategic approach to renaissance9
The renaissance of Birmigham's economy10
Birmigham economy -
key performance indicators
10
Birmigham'srenaissance as a modern
European City
11
3.CITY CENTRE RENAISSANCE14
Revival of the core15
Expansion to the west15
    The International Convention Centre16
East side: the future18
    Masshouse Circus18
    Millenium Point19
4.MODERN BIRMINGHAM'S
BUSINESS BASE
22
Introduction22
Birmingham's new sectors
  Business tourism23
  Finance and professional services23
  High-technology sector23
    Aston Science Park24
  Creative industries25
    The Greenhouse and Custard Factory25
    The Bond26
  Business support for high growth sectors26
    Mustard Programme - Examples27
Renewing the manufacturing base27
Recovering derelict land and
creating new product space
27
  Land assembly and reclamation28
  Heartlands28
  Provision of workforces for SMEs and
  upgrading of industrial estate
28
  Upgrading industrial access and
  transport facilities
28
Centres of excellence and business support29
  Intelligent Manufacture Programme -
  an example
29
  Jewellery Industry Innovation Centre30
PAGE
5.INVESTING IN TOURISM
AND CULTURE
32
  The CBSO Centre33
  The Ikon Gallery34
  The Hippodrome35
  The Drum36
6.COMMUNITY REGENERATION
FOR FLOURISHING
NEIGHBOURHOOD
  3B Business Village38
  Community Roots Enterprise Centre39
  Soho Road Improvement Project40
  The West Northfield / Great Park Project41
7.INVESTING IN LOCAL PEOPPLE42
Introduction42
Linking local people to opportunities43
  Support for the workforce on strategic sites43
Tuckling social exclusion44
  Training in Childcare44
  Gallery 3745
  Widening Basic Skills Project46
Upskilling employees at risk46
  Accelerate47
Investing in local people -
a strengthening strategic response
48
8.CONCLUSION50
APPENDIX 1
- A financial summary of assistance
received by the City Council
THE PRODUCTION TEAM53
THE EUROPEAN AND
INTERNATIONAL DIVISION
OF THE CITY COUNCIL
53

 『バーミンガムのルネッサンス(再生)』目次 Birmigham City Council(2003, p.3)

a)産業構造の改革
 産業革命以来の工業都市としての伝統を誇るバーミンガムは、1960年代半ばに工業都市としての繁栄を極めた後、構造的な諸問題を抱え込むこととなった。労働党政権に代わってサッチャー首相率いる保守党政権が登場したのは1979年であった。1980年代前半の段階では、自動車など在来型の工業に依存する比率の高いバーミンガムにおける産業の不振は極めて深刻であり、失業率などの指標は最悪の状態にあった(p.8)。
 この状況は容易には好転せず、英国全体としては雇用が拡大した保守党政権下の1980年代においても、バーミンガムでは雇用が後退し続けた。1980年代当時に指摘されていたバーミンガムの問題点としては「新規雇用創出力の弱さ」「男性肉体労働者を雇用していた部門の衰退」「市場のニーズに合った技能やサービス経験のない者からなる長期失業者や無業者の存在」「(小規模起業が重要な時代であるのに)自営の伝統の欠如」「古い産業施設(新しい産業の受け皿とならない)」「知識産業が求める人材の欠如」などがあった。こうした声を受け、1984年に公表された報告書『バーミンガムにおける経済開発のための優先課題 Priority for Economic Development in Birmingham』では、
・ 経済開発の対象を産業誘致にとどめず、対象を広げる
・ 社会的に不利な立場にある人々を、経済再生の重要な部分として位置付ける
・ 市当局自身の資源を、優先課題の取り組みに組み込む
・ 多様な資源、特にEU資金を動員して、投資を刺激する
といった方向性が明示された(p.9)。
 当時は保守党政権の下で、それまでの公的資金による開発行為が縮小され、民間ベースの競争的投資による開発へと大きく舵がきられた時期であり、都市自治体は国庫補助に多くを期待することが徐々に難しくなっていた。さらに中央政府に直結した都市開発公社が自治体とは別個に設定されることにより、開発行為の主導権は動揺していた9)。そうした状況の中で、都市自治体が新たにEUの資金に注目したのは半ば必然的なことであった。
 バーミンガムは1983年以降、構造的な経済不振に陥っていることを理由として、EU資金の導入をめざして働きかけを進めた。1984年に最初にEU資金が提供されたのは、前年から建設が始まっていたアストン・サイエンス・パーク(工業団地)の計画であった。以降、バーミンガム市は、様々な事業に、様々な規模でEU資金からの補助を受け、都市再生を進めてきた。その主力となったのは、ERDF(欧州開発資金)とESF(欧州社会資金)であった10)(p.9)。
 ERDFは、ハード面の開発から、産業育成まで様々な使途に用いることができる資金であり、バーミンガムへの投資されたEU資金の中核となった。ESFは、教育や職業訓練など、主に社会的格差の是正に資するような、ソフト面の開発に使うことができた。バーミンガムは1980年代後半から、「産業が構造的問題を抱えた地域を対象とする」と定められた「目的2」に該当する地域であると認定され、ERDFとESFの受け入れを継続的に進めることとなった。また、「一般的な地域における就業支援事業を対象とする」「目的3」に則った資金も受け入れている11)
BIRMINGHAM ECONOMY
- KEY PERFORMANCE
INDICATORS
198119912001
Unemployment92,20060,00031,400
Output (£billion)8.6410.8712.01
Real household disposable income (£billion)5.097.119.39
Share of employment %
a) Manufacturing31.722.816.5
b) Distribution, hotels and restaurants18.518.719.7
c) Banking, finance and insurance13.916.921.8
d) Public administration, education and health19.123.524.9
e) Other services4.14.65.6
source BEIC/LEFM
Figures for employment are total employment, which includes employees
and the self-employed. All prices are in constant 1995 prices.
Output is measured in terms of Gross Value Added.
 EU資金を受け入れて以降、およそ20年の間に、バーミンガムの経済は大幅な改善をみせた。失業者数は、最悪だった時期の3分の1以下に改善し、1970年代初頭の水準まで押さえ込まれた。もっとも、それでも英国の中では厳しい状況にあり、失業率は全国平均のほぼ2倍の高水準で推移している。生産額は成長し、1995年基準で換算(補正)した値でも120億ポンドに達している。一般世帯の可処分所得はほぼ倍増し、雇用と自営を合わせた就業者総数は20年前よりやや減少したが、1993年以降は事業所の雇用が堅調に増えている。専門的なサービス、対事業所サービスの部門が急成長しており、新規事業者の参入は、全国平均を上回る水準で推移している(図2)(p.10)。
 バーミンガムの再生は、その主要な部分が中央政府からの補助金や国内からの民間投資によって担われてきたことは間違いないとしても、EU資金や、欧州からの民間投資が上乗せされることによって財政的に大きく支えられてきたことは明らかであり、バーミンガムの再生は「現代ヨーロッパの都市」の一員としてもたらされたものである。バーミンガム市当局は、通算で3.74億ポンド、市と共同で事業に取り組む事業体は1.25億ポンドを、EUの提供する構造資金から得てきた。欧州との関係は、資金の導入にとどまるものではなく、ユーロシティーズを通じた都市自治体間の情報交流などにつながっている。バーミンガムが欧州の他の都市から学んだ点としては、
 ・ハイテク産業、知識産業の重要性、そして企業と高等教育機関のシナジーが鍵となること
 ・金融サービスや(調査、会計、保険などの)専門サービス(それ自体も知識産業)の充実が他産業の振興に繋がること
 ・情報(ICT)技術に適合した教育訓練を受けた労働力養成の必要
 ・現代的な、物理的・電気的インフラの整備
などがある(p.11)。労働力の再教育やインフラの整備が優先的な政策課題として取り組まれるようになった背景には、欧州の諸都市との経験交流があったのである。


b)中心市街地の再開発12)
 産業構造の改革や中心市街地の再開発などを含む近年のバーミンガム市の都市経営政策の全体的な流れにとって、政策の起点として重要な契機となったのは、会場の名をとって「ハイベリー」と通称される、1987年に開催された賢人会議である13)。バーミンガムの都市経営戦略を構想するために、広く各界の声を集約するという意図をもって開かれたこの会議では、市全体の経済活動の後退によって著しい衰退の様相を見せていた市街地中心部の問題が重要な論点の一つとなった。もともとバーミンガムでは、1960年代にモータリゼーションに対応した道路整備が積極的に取り組まれ、市街地中心部においても、市役所や主要駅であるニューストリート駅を含むCBDを取り囲むような形で、内部環状道路が形成されていた。しかし、ハイベリー会議では、内部環状道路の存在が、市街地中心部に大気汚染や交通渋滞といった問題をもたらしているという批判がおこった。また、城壁のように中心部を取り巻く自動車道路が人の流れの障害になっていることも問題視された。こうした問題は、交通ネットワーク体系の見直し(内部環状道路に流入する交通量を規制し、より外側の中部環状道路を整備し、交通量をそちらへ誘導する)、内部環状道路の部分的な路線変更や一部街路の完全歩道化などの取り組みを含めた、中心市街地の再開発という成果に繋がった。市役所の前のヴィクトリア広場の整備をはじめ、中心部の市街地再整備に投じられたERDF資金は1500万ポンド以上に達した(p.15)。
 こうした中心市街地における再開発によって、オフィス・スペースの供給は質量ともに改善され、高次の専門サービス業を誘致する受け皿となった。量的な面でみても、1985年以降オフィス・スペースの供給は50%以上増加したという。その結果、バーミンガムはコンピュータ産業においても金融サービスにおいても、ロンドン大都市圏の外では英国最大規模の集積が形成されるに至った。また、ビジネス・ツーリズムは年間3億ポンド相当の規模と推定されている(pp.11-14)。
 質の高いオフィスの提供から、道路網の整備、市街地の再開発に至るまで、多様なスケールにおけるインフラ整備が自治体行政主導で進められ、同時に若年労働者や失業者を対象とするものをはじめ、広く労働力の再教育が進められた結果、特に1990年代以降、バーミンガムでは情報関連などハイテク産業の立地が加速された。研究開発型の企業を対象とした工業団地の整備や、ベンチャー支援基金の創設などが取り組まれたが、特に小規模のベンチャー起業を支援するような仕組みを設け、そこに欧州資金の支援を仰ぐというパターンでのベンチャー支援策が積極的に取り組まれた。コンピュータ関連を中心としたハイテク部門だけでなく、デザインやファッションなどクリエイティブで付加価値の高い部門、あるいは宝飾加工や自動車関連などバーミンガムが伝統的な優位性を発揮できる部門における小規模起業にも、様々な支援策が用意された(pp.24-30)。
 また、ビジネス・ツーリズムへの対応策も、ハイテク産業や専門サービスと並ぶ、バーミンガムの新たな産業の3本柱の一つとして意欲的に取り組まれた(p.23)。コンベンション関連施設が整備されるとともに、関連施設が誘致され、市街地内の運河や公園、既存の建築物などを、観光資源として活用するための再開発などが取り組まれた。
写真
ICC一帯:
道路を隔てて南東側から撮影
奥左手がコンサートホール
現在はコンサートホール前に
観覧車が設置されている
2003.02.26.

写真
ICCコンサートホールの
コンコースに埋め込まれた
パネル
2003.02.26.

写真右側のパネル(ベンチ背後のEUのシンボルが入ったパネル)の内容
The construction of the Birmingham International Convention Centre
was financed in part by grants from the European Regional
Development Fund.

Birmingham City Council is proud of its partnership with
the European Commission in helping to regenerate the City.
This project is one of many supported by European funds through
the Birmigham Integrated Development Operation (1987-1992).
 とりわけ注目されるのは、14億ポンドあまりの建設費のうち5億ポンドをERDF資金から調達して建設され、1991年に開設されたICC(国際コンベンション・センター)とその周辺である(写真1)。バーミンガムには、中心市街地から離れた、南部の郊外に英国有数の大規模展示場であるNEC(ナショナル・イグジビジョン・センター)があるが、ICCは中心市街地の活性化と連動する形で提起されたものであった。もともと荒廃した運河施設が集まっていた地区である市街地中心部の西側に位置するICCは、有機的に関連する形で配置された中高級ホテルやナイトライフの場を提供する飲食業の集積を出現させ、周辺の景観を劇的に変貌させた。現在では、ICCの一帯には、民間による投資によって8000とも9000ともいわれる規模の雇用機会があり、この地を訪れる観光客は年間100万人といわれるまでになっている(pp.16-17)。
 バーミンガムは、特に1990年代以降、ビジネス・ツーリズムのみならず、一般の観光客などの入れ込みを増大させることにも意を払っている。文化芸術分野への投資の拡大によって、「文化とは無縁の産業都市」というイメージを払拭することが目指され、欧州文化首都への立候補も、その集大成としての取り組みという側面があった。BCSO(バーミンガム市交響楽団)は、1920年に創設された伝統あるオーケストラであるが、1991年にICCが開設され、その施設の一つとして良質のコンサート・ホールが確保されたことで評価が一層向上した。また、1998年にはBCSOの恒常的な拠点となるBCSOセンターが、500万ポンドの建設費のうち75万ポンドをERDF資金から調達して建設された(p.33)。バーミンガム市当局は、このほかにも各種の美術ギャラリー(ガスホール、IKON、ウォーターホール)や劇場(バーミンガム・レパートリー、ヒッポドローム)の再整備に取り組み、それぞれに欧州資金を獲得していった。ランドマークとなるような主要な施設の整備ばかりでなく、比較的小規模な取り組みでも同様の展開があり、黒人文化芸術センターやジュエリー・クォーター・ディスカバリー(伝統的に宝飾加工関連の工房などが集中していた地区の展示施設)などにも、欧州資金からの資金提供がなされた。さらに、箱ものばかりでなく、観光旅行宣伝活動やホテル関係従業者の職業訓練などにも、ERDFを中心とした欧州資金の導入が進められた(pp.34-36)。
写真
ブルリング(部分):
南側から撮影
奥右手の曲線的な建物が、
核店舗の百貨店 Selfridge
奥中央の高い高い建物は、
再開発前の旧ブルリングか
ら残されたオフィス・ビル
Rotunda
奥左手は、聖マーティン教会
2003.10.29.

写真
ブルリング(部分):
南西側から撮影
手前右手が、聖マーティン
教会
なだらかな斜面(階段)を見
上げる形で撮影されている
写真のネルソン像はほぼ
中央の樹木の右側、出入り
口の上、写真の空き店舗
はほぼ中央の樹木の背後の
位置となる
2003.10.29.

写真
ブルリング(上段の通路):
南側から撮影
手前の銅像は、歴史的にブ
ルリングのランドマークと
されてきたネルソン像
かつて置かれていたのと平
面上はほぼ同じ位置にある
が、下に地上1層分のフロ
アが建設されたため、土台
がかさ上げされた形になっ
ている
2003.10.29.

写真
ブルリング(ニューストリー
ト側の入り口):
北側から撮影
飾り付けのある通路の奥に、
聖マーティン教会の尖塔が
見える
ネルソン像はこの通路の突
き当たりに位置する
2003.10.29.

写真
ブルリング(空き店舗):
TAKE YOUR PLACE IN
EUROPE'S
NEW SHOPPING CAPITAL
UNIT TO LET とある
2003.10.29.

写真
ブルリングの求人情報宣伝車
(市役所前のヴィクトリア
広場):
2003.10.29.

 ICC周辺を中心とした中心市街地西部の再開発は、民間投資の誘導、雇用の創出という意味でも大きな成功をおさめた。これに続いて、中心市街地中央部の南縁、バーミンガム・ニューストリート駅に近接する大ショッピングセンター「ブルリング」の再開発が民間投資主導で2003年秋に完成し14) (写真3〜6)、さらに中心市街地東部では、2001年に職業訓練施設などが入館する「ミレニアム・ポイント」がランドマークとして建設されたのをはじめとする一連の大規模再開発が、2005年現在も継続中である。計画上は、一連の再開発が完成した段階で、ブルリングで8000人、中心市街地東部の再開発地区で12000人の雇用を達成することが見込まれている(写真8)。ブルリングでも、東部でも、内部環状道路の一部を(半)地下化して、人の流れを活かす方向が模索されるなど、再開発手法の基本的なアイデアは西部の経験を活かしたものとなっている(pp.18-19)。

c)コミュニティ再生への投資

 欧州資金導入による恩恵を受けているのは中心市街地だけではない。バーミンガムの郊外には、多民族が集住する状況や局地的に高い失業率などによって特徴付けられ、多くの社会問題を抱えている地区がある15)
 こうした地区におけるコミュニティ再生への取り組みにも、欧州資金は導入されており、主に黒人労働者に起業のための場所と資金を提供することを目的とした3B(ブラック・ビジネス・イン・バーミンガム)プロジェクトや、起業支援、職業訓練、(主に女性労働者のための)託児施設などに場を提供する施設であるCREC(コミュニティ・ルーツ・エンタープライズ・センター)にERDFからの資金が投じられた。さらに、荒廃の象徴ともいわれた中心街ソーホー・ロードを全面的に改修し、街頭や公共スペース、歩道、駐車場、そして街頭監視カメラなどを整備した事業では、エスニック・コミュニティの拠点としてこの地区をテコ入れするという観点から事業費320万ポンドのうち、ERDFから130万ポンドが投じられた。この街路整備事業が呼び水となって、この地区には民間投資も520万ポンドが投じられたといわれている(pp.38-41)。
 このような荒廃した郊外における再開発投資の金額は、中心市街地に対するものに比べれば、ささやかな、限定的なものでしかない。しかし、問題を抱えた地区に資金を投下し、失業者のみならず、独り親(特に母親)やホームレスなど社会的弱者の立場に置かれている人々に(直接/間接に)投資することには、ERDFのみならずESFからも多額の資金が流入している。長期失業者、エスニック・マイノリティ、女性をそれぞれ対象としたものなど、様々な職業訓練の取り組みに対して、1994年以来ESFからは累積1.5億ポンド以上が導入されている(p.43)。
 先に言及したハイベリー会議を踏襲し、2001年に開催された「ハイベリー3」では、近隣レベルのコミュニティの強化が重要であると強く主張された。その背景には、中心市街地やNEC周辺で実現したような経済活性化を他の郊外地域にも波及させたいという考え方があるようだ。

 以上、3つの論点に整理して示したように、『バーミンガムのルネッサンス(再生)』は、バーミンガムの現状と、バーミンガムの活性化に欧州資金が果たしてきた役割を広く紹介した上で、
 ・すべての取り組みが成功したわけではないが、一連の取り組みの中で「やればできる」という文化がもたらされたことが重要
 ・すべての問題が解決したわけではなく、失業率が極端に高い地区もあるし、欧州資金の現行制度が見直される目処である2006年までに解決する見込みはない
 ・欧州資金の獲得は決して容易ではなく、手続きを適正に踏み、説明責任を果たし、さらに様々な形で影響力を行使していかなければならない
という3点を報告書全体の総括として提示している。さらに、EUの東方への拡大を視野に入れ、今後のEUが政策の見直しを迫られることを踏まえつつ、2006年以降も構造問題が深刻な課題として残り、また、都市の発展なしに欧州の経済成長が見込めない以上、従来バーミンガムが多くの恩恵を受けてきた「産業が構造的問題を抱えた地域を対象とする」資金提供は何らかの形で継続されるべきであるという主張が締めくくりとして述べられている(pp.50-51)。

III バーミンガムにおける「欧州」と「文化」の射程

 もともと、前章で紹介した報告書は、2008年の欧州文化首都への立候補に伴って用意されたものであり、そこでは当然のこととして、「欧州」との関係が強調され、同時に「文化」の面における特長が繰り返し主張されている。欧州との関係は、もっぱら再開発計画への欧州資金の貢献の記載として言及されているほか、簡単にではあるが、ユーロシティーズの活動などを通した欧州諸都市との経験交流から、政策への示唆を得ていることが言及されている。しかし、実際のところ、(港湾都市ではなく)内陸に位置する産業革命以降の新興産業都市であるバーミンガムには、欧州との歴史的紐帯はほとんど存在せず、欧州との伝統的連係を強調するようなストーリーを組み立てることはできなかったのであろう。
 しかし、欧州資金を積極的に導入してきたバーミンガム市当局の実践は、欧州との関係を示すものとして必ずしも有効なものとはいえない。EUの中で経済情勢が堅調な英国は、資金面でも相当の貢献をEUに対して行っている。バーミンガムに限らず英国内でしばしば強調される欧州資金の意義や、「EUのおかげです」といったニュアンスを含んだスローガン(写真2)にもかかわらず、欧州資金の英国内の構造不況地域への投下は、もともと英国が負担してEUに提供した資金の環流という側面がある。そうであればこそ、EUが東方に拡大し、英国内の産業不振地域よりも、東欧諸国へと支援の焦点が移ることを、バーミンガムをはじめ英国内の都市自治体関係者は強く警戒しているのである。ERDFにせよ、ESFにせよ、名称には欧州が刻印されているとしても、実質的には英国の資金と見なすことが可能であり、サッチャリズム以降において変則的形態をとることとなった一種の国庫補助金と捉えることができるだろう。
 それでは「文化」についてはどうか。現代の英国社会において「文化」という言葉は多様な含意をもち得るが、バーミンガムの主張においても、また、欧州文化首都に立候補した他の都市の言説においても、「文化」への言及は、半ば紋切り型のパターンに埋没している。そこでは、一方では高尚なエリート的芸術文化への関与が強調され、バーミンガムにおけるBCSOのように公的資金で支えられている芸術の担い手への貢献が強調されるとともに、他方では、主として旧英領植民地から英国へ移住してきた人々やその子孫からなるエスニック・マイノリティ集団の存在が、多文化主義にもとづく共生の実践として、誇らし気に強調される。実際には、明瞭なセグリゲーションといえるかどうかは別として、カリブ海地域や南アジアにルーツがある民族集団が都市圏の中で特定の地域に集中して居住するといった傾向があることは事実である。また、英国社会で主流派となっている白人の立場からみれば、エスニック料理店での食事を時折楽しむといったレベルでの接触16)を超えて、他の民族集団と恒常的に接する機会は限定的なものにとどまっているというのが実際であろう。そして、そのような日常的生活文化のレベルにおける多文化主義が取り組まれている場合においても、その実践は、高尚な文化とはほとんど何も接点をもたないまま展開されるのが常態となっている。
 このように、少々意地の悪い見方をすれば、欧州との関係の強調にせよ、文化都市の標榜にせよ、必ずしも実態を反映したものではなく、欧州文化首都を目指す上で持ち出されたレトリックに過ぎない、と断じることもできるかもしれない。しかし、一方では、そうしたうがった見方では捉えきれない、無視できない事実も少なからず存在するのである。
 例えば、ビジネス・ツーリズムの興隆の結果、バーミンガムでは大陸からの来訪者が確実に増えている。また、もともと自動車関連産業などの蓄積があったバーミンガムは、自動車産業の国際的な再編の中で、欧州からの民間資本の投資を積極的に受け入れてきたという経過がある。さらに、大規模な再開発事業によって最先端の商業集積として2003年に生まれ変わった「ブルリング」は「欧州文化首都」をもじったかのように「欧州の新しい買い物首都 Europe’s New Shopping Capital」という宣伝文句を掲げ、一方ではフランスをはじめとする欧州各国のブランドものを扱う店鋪を並べ、同時に飲食店や食材販売においても欧州各国との結びつきを想起させるような演出がしばしばとられている。こうした点を踏まえると、報告書で強調された欧州との紐帯は、むしろ今後に向けた課題なり、可能性として提示されているものだと理解すべきなのであろう。
写真
ブルリング(公設市場):
北側から撮影
ネルソン像前から、公設市
場方向を眺望
2003.10.29.

写真10
ブルリング(屋外市場):
ブルリングは建設中
聖マーティン教会にも補修
工事の囲いがある
2003.02.26.

写真11
ブルリング(屋外市場):
ブルリング完成後
買い物客には高齢者と南ア
ジア系住民が目立つ
2003.10.29.

 一般市民の認識も、また、広く英国内外に共有されている認識においても、バーミンガムは製造業に依存した過去の産業都市というイメージに塗りつぶされている。1980年代以降にバーミンガム市当局が、地域の活性化のためにとった戦略は、経済のソフト化、サービス化の流れに乗って産業構造を改革することであり、それは一定の成功をおさめている。『バーミンガムのルネッサンス(再生)』と標題を掲げたこの報告書は、なかなか認知がされていないこうした努力の成果を総括することで、バーミンガムの都市戦略の方向が「欧州」との紐帯を重視し、「文化」を経済活動に取り込む方向へ進んでいることを、市民にも、外部者にも伝えようとしたものであり、読み取るべきなのは、バーミンガムが、一定の具体的成果を踏まえて主張する都市としての新しいアイデンティティの内容なのである。報告書が結論で自ら述べるように、一連の取り組みはすべてがうまく運んだわけではない。少し注意深く観察すれば、ブルリングにも出店のあてがない空き店鋪がぽつりぽつりと散在している(写真7)。しかし、仮に現状における到達地点が不十分なものであるとしても、将来に向けたバーミンガムの都市経営上の方向性が、経済のソフト化、サービス化、そして高次化を見据えた経済政策や社会政策であり、そこでは「文化」指向が導入され、欧州との紐帯が特に重視される、というシナリオが揺るぎのないものであることは、報告書の文面のみならず、バーミンガムの市街地を観察することでも、明瞭に読み取ることができる。例えば、いわば内陸型のウォーターフロント再開発である運河の再整備を考えても、古い産業施設の再生であり、また産業遺構の観光資源化であり、単なく産業振興策でも、文化政策でもなく、文化を取り込み経済活動を刺激し、成功体験を通じて市民に誇りと自信を回復させようという射程をもった政策なのである。
 ブルリングの再開発に際しては、隣接して設けられていた公設の小売り市場のリニューアルが平行して進められた(写真9〜10)。一般市民にとって、バーミンガムの商業的繁栄を象徴し、しばしば郷愁とともに記憶される公設市場は、屋内市場も、屋外市場も、近代的な施設に更新され、ブルリングの隣接地に存続している。2003年秋に、ブルリングの開設から間もない時に現地を訪問した際には、市役所に併設されているギャラリーの一角で、ブルリング再開発についてのパネルや模型の特別展示とともに、新旧の公設市場で働く人々の姿を捉えた写真展が開催されていた。書店には、ブルリングの開設にあわせて出版された大型の写真集(いわゆるコーヒーテーブル・ブック)などが山積みにされ、著者のサイン会も催されていた。写真を通した過去への郷愁の視線も、現在を記録するという意識も、再開発のプロジェクトと調和するように動員され、組織化されているのである。
 公設市場を訪れる買い物客は、ブルリングよりも高齢者が目立つような印象があるが、公設市場は単に過去の遺物として残存しているわけではない。今日では、市場を拠点とする小規模な店鋪の経営者には、明らかに南アジア系とみえる者が少なくない(写真11)。市場の活気は、この都市に新たに流入する人々によっても支えられているのである17)。報告書で感じられた「文化」というキーワードをめぐる分断を繋ぐ手がかりは、このような施設の配置と、その間を行き交う人の流れが生み出す、都市の活気の中にあるのだろう。




1)文化経済学の入門書であるスロスビー(2002)は、都市再生と文化産業について以下のように言及している(pp.195-197)。
 「概して、一九五〇年代と六〇年代は、芸術、とくにエリート芸術が都市生活に不可欠な要素として認められ始めた時代であったと考えられる。一九七〇年代は、個人とコミュニティの発達、参加、平等主義、都市空間の民主化といった概念の周辺に政策の統合がなされた時期であり、都市生活における文化的、社会的、環境的側面が注目されるようになってきた。しかし、一九八〇年代から九〇年代にかけて、都市環境の文化にかんするこの種のソフトなアイデアは、都市の文化開発の経済的可能性というハードな概念に道を譲る傾向になってきた。例えば、雇用や収入の面で地域経済への経済的利得を最大化することや、経済活力の中心としての都市のイメージを宣伝普及すること、衰退している都市区域の社会的物理的な再生への積極的な経済力としての文化の選択があげられる。  現在では、グローバル化という現象およびそれが都市の文化的・社会的生活にもたらすインパクトとどう折り合っていくのかが、政策の焦点である。」(p.196)
2)辻(2002, p.iv)は、その書名を『EUの地域政策』としたことについて、「現在のEUは、当初のEECから発展したECを基礎に、1992年のマーストリヒト条約によって形成されたものである。しかし、共同体の地域政策は正確にはEUのうちのEC(欧州共同体)によって実施されるものである。」と確認した上で、「EUの方がECよりも広く知られていること」を理由にEUという表現を優先させている。
 本稿の話題に関しても、厳密な用語法を意識すれば、時期に関係なくEUとするのは少々乱暴である。しかし、実際の聞きとりの場面などでもEUという表現が一般的であることを踏まえて、このように表現することとした。
3)室田(2002, p.137)によれば、EUからの資金の柱である構造基金のうち、全体の94%は「加盟国イニシアチブ」と呼ばれる「加盟国が地域開発計画を欧州委員会に提出し、加盟国と欧州委員会の交渉を経て、加盟国の提案した開発プログラムを欧州委員会が採択する方法」によって配分されており、また「基金による支援は加盟国や地方の肩代わりをするものではなく、EU自身の政策と位置付けられており、このため、支援を受けている地域の当該国は、支援を受けている間は、その地域に対してそれまで実施してきた公共投資のレベルを引き下げてはならないとされている」という。EUからの資金という建前はあっても、その具体的な分配の決定には、加盟国政府の意向が強く反映されるのである。
4)都市開発資金の調達に限らず、現在の英国の地方行政の様相は、1980年代にサッチャー政権が推進した地方自治改革の帰結という色合いが強い。サッチャー政権の地方自治改革については、邦文でも多数の文献がある。さしあたり、君村・北村(1993)、高寄(1996)を参照。
5)1985年にアテネが最初に選ばれて始まったこの事業の名称は、2004年までは欧州文化都市(the European City of Culture)、以降は欧州文化首都(the European Capital of Culture)である。
 欧州文化都市は、当初は各年1都市の指定であったが、加盟国の増加や誘致競争の過熱化などを踏まえ、2000年には例外的に9都市が指定され、さらに2001年以降には、各年2都市の指定が可能となった。この方針は、2005年からの欧州文化首都にも引き継がれている。欧州文化首都については現在、2019年までの継続が決定している。
 なお、1990年に欧州文化都市となったグラスゴーの取り組みについては、山田(2003)で簡単に言及している。
6)2008年の欧州文化首都の選考は、2000年に始まり、当初は12都市が立候補した。2002年10月には第一次選考を通過した6都市が発表され、最終的には2003年6月にリヴァプールが2008年の欧州文化首都に決定された。
 立候補都市のうち、一次選考で落選したのは、ベルファスト、ブラッドフォード、ブライトン(およびホウヴ)、カンタベリー、インヴァネス(およびハイランド地方)、ノリッジ、二次選考に残ったのは、最終的に選ばれたリヴァプールのほか、バーミンガム、ブリストル、カーディフ、ニューカッスル(=アポン=タイン)/ゲイツヘッド、オックスフォードであった。
7)以下の論述において、バーミンガムに関する基礎的な事実関係については、各種のウェブサイトのほか、Berg(1999)を参照したが、いちいち典拠としては示していない。
8)ユーロシティーズについては、山本(2004)に概要が紹介されている。バーミンガムは、バルセロナ、リヨン、ミラノ、フランクフルト(=アム=マイン)、ロッテルダムと共に、1986年にユーロシティーズを結成した創設メンバーである。
 公式ウェブサイトの記載によると、ユーロシティーズは現在、正規加盟118都市のほか、準加盟18都市があり、さらにその他にも提携都市があるなど、EU圏外も含め欧州の多数の都市をネットワーク化している。http://www.eurocities.org
 英国の都市では、バーミンガムのほか、ベルファスト、ブラッドフォード、ブリストル、カーディフ、エディンバラ、グラスゴー、キングストン=アポン=ハル、リーズ、リヴァプール、マンチェスター、ニューカッスル/ゲイツヘド、ノッティンガム、シェフィールド、サウザンプトン、が正式加盟都市となっている。2008年の欧州文化首都へ立候補した都市(特に一次選考を通過した都市)との重複に注意しておきたい 。
9)サッチャー政権下で、都市政策の柱として、また労働党系都市自治体への対抗手段として導入された都市開発公社(UDC: Urban Development Corporation)については、時期による性格の変化もあり、その評価をめぐっては様々な議論がある。さしあたり邦文では、イギリス都市拠点事業研究会(1997)所収の諸論文を参照されたい。
 バーミンガムの市街地中心部に近い工業地域を対象とする都市開発公社として、1992年に設立されたバーミンガム・ハートランズ都市開発公社(Birmingham Heartlands UDC)は、プリマスとともに、都市開発公社としては最も遅い第4期の設立ということになる。1998年まで存続したバーミンガム・ハートランズ都市開発公社には、1992/1993会計年度から1996/1997会計年度まで、合わせて4千万ポンド近い補助金が中央政府から投じられた。この間、民間からの投資も積極的に行われ、レバレッジは非常に高い数字を示していたという(1995年時点で4.6倍)。邦文では、イギリス都市拠点事業研究会(1997, pp.264-268)を参照。
 なお、現在、地域開発に関わる中央政府に直結した行政組織としては、ブレア労働党政権成立後の1999年に制度化された地域開発庁(Regional Development Agency)があるが、その性格は都市開発公社とは大きく異なり、より広い地域を対象に多数のプロジェクトに関わる調整機関としての色彩が強い。バーミンガムを含むウェストミッドランズ地域については、地域開発庁の一つとして、アドヴァンテージ・ウェストミッドランズ(Advantage West Midlands)が設立されている 。
10)ERDF(European Regional Development Fund)はEUの地域政策の最も大きな柱であり、1975年に設けられたが、1988年の構造基金改革を経て規模が拡大し、現行の形態に至っている。この間の事情については、辻(2002, pp.57-111)を参照。
 ESF(European Social Fund)は、ERDF以前から存在していた。辻(2002, pp.44-45)は、「ローマ条約に基づいて1960年に発足したESFは、その当初の形態では、地域政策の真の手段ではなかった..(中略)..ところが、1971年のESF改革は、それまでよりも明確に、その活動の一部として、地域政策の一翼を担うようになった」と述べた上で、実際には「さして強力な要素とはならなかった」と評価している。
11)ERDFの「目的」は時期によって異なっている。ここで「目的2、3」と記述されているのは、第3期(2000-2006)の用語としてである。それ以前の時期の用語との対照については、辻(2002, pp.151-155)を参照。
12)近年におけるバーミンガムの中心市街地再開発に関しては、邦文でも中原・加藤(2000)、加藤(2002)などの報告がある。特に、鈴木(2004)は、ごく簡単ながら、欧州文化首都への立候補と落選についても触れている。
 また、都市開発公社の事業を中心にまとめられたイギリス都市拠点事業研究会(1997)にも、都市開発公社による事業ではないとわざわざ断った上で、バーミンガムの運河地区の再開発について触れたコラム(pp.276-277)がある。
13)ハイベリー(Highbury)は、バーミンガム市長を経て国会議員となり、商務相、植民地相などを務めた大物政治家ジョセフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain, 1836-1914)のバーミンガムにおける私邸として1880年に完成した。名称は、チェンバレンがかつて住んでいたロンドンの北部の地名に由来する。このチェンバレンは、蔵相、外相を歴任し、ノーベル平和賞(1925年)を受賞したオースティン(Austin Chamberlain, 1863-1937)と、その異母弟でバーミンガム市長、保健相、蔵相を経て首相(1937-1940)となったネヴィル(Arthur Neville Chamberlain, 1869-1940)の父である。
 なお、文中にもあるように、新世紀を迎えた2001年にはバーミンガムの将来像を論じる「ハイベリー3」と称する賢人会議が開催されたが、その会場はハイベリーではなく、ICCであった(Birmingham City Council, 2001)。
14)現在のブルリング(Bullring)については、公式サイトを参照。http://www.bullring.co.uk
 ブルリングは、バーミンガムの中心市街地の南側から中心市街地のある丘へと登っていく斜面の途中に位置しており、古くから、聖マーティン教会に隣接して市の立つ場所として市民に親しまれていた。名称は、家畜として取引される牛を留め置く囲い(bull ring)に由来するという。1809年にはネルソン提督像が建立され、以降、バーミンガムの中で人々が多く集まる象徴的な場所となった。
 1833年には現在のブルリングの西翼と重なる位置にマーケット・ホール(Market Hall)が整備された。この建物はガス灯など、当時としては最新鋭の設備をもっており、以降、永く市民に親しまれた。マーケット・ホールは、1940年の空襲で破壊され、壁面だけが残ったが、その後も1962年に再開発のために撤去されるまで、屋根がない状態のまま市場として使用されていた。
 バーミンガムの経済状態がよかった1960年前後には、ブルリング一帯の再開発が構想され、自動車の便を考慮した内部環状道路を貫通させるとともに近代的ショッピングセンターの整備や、南西側の隣接地への各種市場の展開が始まった。こうして建設された(旧)ブルリングは、1963年から1964年にかけて、段階的に供用された。現在も残る円筒形のオフィス棟「ロトゥンダ(Rotunda)」もこのとき建設されたものである。
 この(旧)ブルリングは、永年バーミンガム中心部のランドマーク的存在であったが、施設の老朽化や、市街地の再開発に伴う人の流れの変化を受けて、全面的な再開発が必要だと認識されるようになった。再開発の議論は1980年代からあったが、1990年代には民間主導で計画の具体化が進められた。最終的に、現在のブルリングの建設はバーミンガム・アライアンス(Birmingham Alliance)と称する民間の共同事業体によって担われた。再開発事業は1999年から着手され、2001年には(旧)ブルリングが解体され、本格的な建設が進められて、2003年に現在のブルリングが開業したのである。
 ブルリング周辺の歴史については、Price(1989)を参照。
15)代表例として、1980年代初頭に犯罪多発地区としてセンセーショナルに報道された通称「ハンズワース」地区を含む、バーミンガム北西部が挙げられる。スミス(1985=1992)は、この「ハンズワース」地区における犯罪の実態が人種性を反映していないにもかかわらず、認知においては人種性が存在するという状況を、地元の新聞の報道などを手がかりに分析した先駆的な論文である。
16)バーミンガムは、いわゆるバルチ(balti)料理の発祥地としても知られている。これは南インド系の鉄鍋を使った料理であるが(より広義には鉄鍋料理以外も含めてこう称することもある)、バーミンガム(ないしは近傍のウェストミッドランズのどこか)で1970年代後半に原型が成立し、急速に普及するようになったものとされている。バルチは、バーミンガムでは白人層にとっても日常的な(安上がりの)外食の選択肢となっているし、観光パンフレット類の中でもバーミンガム独自の料理であることが強調され、推奨されていることが多い。
 さしあたり、バーミンガム大学さくら会(日本人会)による、下記のページを参照されたい。http://bhamsakurakai.at.infoseek.co.jp/balti/balti.htm
17)Henry et al. (2002) は、近年におけるバーミンガムの都市再開発投資を、グローバリゼーション、世界都市、といった文脈から批判的に検討する議論を紹介した上で、「下からのグローバリゼーション」という論点から、エスニック・マイノリティの経済活動が都市の活性化につながる可能性について問題を提起している。

参考文献

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Birmingham City Council, 2001: Highbury 3: dynamic diverse different: report of proceedings, Birmingham City Council, 67ps.
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Henry, N., McEwan, C. and Pollard, J.S., 2002: Globalization from below: Birmingham - postcolonial workshop of the world ?, Area, 34-2, p.117-127.
Price, Victor J., 1989: The Bull Ring Remembered: The Heart of Birmingham & Market Areas, Brewin Books (Studley), 80ps.

イギリス都市拠点事業研究会, 1997: 『検証イギリスの都市再生戦略』風土社, 283ps.
加藤 秀雄, 2002: バーミンガム市都心における再開発事業と土地利用の現状, 社会文化研究所紀要(九州国際大学), 51, pp.171-193.
君村 昌・北村 裕明, 1993: 『現代イギリスの地方自治の展開』法律文化社, 249+5ps.
鈴木 茂, 2004: バーミンガムの都市再生政策, 文化経済学(文化経済学会), 4(2), pp.91-98.
スミス, スーザン・J(廣松 悟 訳), 1985=1992: ニュースと恐怖の伝播. バージェス+ゴールド編『メディア空間文化論』古今書院, pp.277-302. Smith, Susan J.: News and the dissemination of fear, in Burgess, J. & Gold, J.R. (eds.): Geography, the media & popular culture. Croom Helm, 273ps.
スロスビー,デイヴィッド(中谷武雄・後藤和子 監訳), 2001=2002:『文化経済学入門』日本経済新聞社,317ps.Throsby, David: Economics and Culture, Cambridge University Press, Cambridge.
高寄 昇三, 1996: 『現代イギリスの地方自治』勁草書房, 204ps.
辻 悟一, 2002: 『EUの地域政策』世界思想社, 264ps.
中原 弘二・加藤 秀雄, 2000: 英国バーミンガムおよびウエスト・ミッドランズにおける地域再活性化について, 経営経済論集(九州国際大学), 6(3), pp.68-102.
室田 哲男, 2002: 『欧州統合とこれからの地方自治』日本法制学会,163ps.
山田 晴通, 2003: 「文化都市」グラスゴーの新しい顔 国際地理学会議(IGC)2004年大会の会場周辺, 地理学評論(日本地理学会), 76(2), pp.i-ii.
山本 健兒, 2004: ユーロシティーズとEUの都市政策, 経済志林(法政大学経済学会), 71(4), pp.47-84.


 本稿は,日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(B) 課題番号:14402041,研究課題名「グローバリゼーションとEU統合への文化的対応に関するEU主要都市比較研究」,研究代表者:法政大学経済学部教授 山本健兒)の助成による2003年度・2004年度の研究成果の一部であり、本稿の原型にあたる報告は、科学研究費研究成果報告書『グローバリゼーションとEU統合への文化的対応に関するEU主要都市比較研究』(山本健兒・編/発行、2005年)に収録されている。また、本研究の内容の一部は、東北地理学会・2005年度春季学術大会において口頭発表した(仙台市戦災復興記念館、2005年5月22日)。

 上記の科研費研究グループは、「ヨーロッパ都市研究会」と称し、科研費の申請以前を含め数年にわたって研究会を重ね、その多くが東京経済大学で開かれた。この研究グループの中心は、竹内啓一先生(一橋大学名誉教授)であり、研究会は竹内先生を囲む勉強会という趣があった。誠に残念ながら、竹内先生は、この科研費プロジェクトの完了後、2005年6月25日に逝去された。研究会で至らぬ報告を重ねる筆者に、しばしば激励と助言をいただいた竹内先生の学恩に深く感謝し、本稿を先生に捧げるものである。


 本稿の写真は、2003年2月26日、および、10月29日に、筆者がデジタル画像として撮影したものである

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