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00 今日の目的 a 歌謡曲で議論を始める「前に」やっておかねばならないことを確認する。 b 歌謡曲研究の方法論(見田宗介の方法) c 歌謡曲の歴史と社会的背景 d 資料:年表・play list・参考文献 01 「歌謡曲」で、何を/なぜ論じるのか。 # 近代化とわたしたちの関係の理解 a 近代化・・・都市化・工業化・合理化(一元化) b 近代社会の成立と、そこからこぼれるもの c 一元化されていく社会における「わたし」と「うた」 # 3つの視点 a モノゴトの「見方・考え方・感じ方」を一元化するには・・・学校・マスメディア+… b 社会・生活構造の変化・・・余暇の成立 c 研究方法の変化 02 見田宗介の仕事 # 社会意識を探りたい→人々の記録にあたる → 1)日記・投書 2)大衆文化の表層(ヒット曲など) # 方法の決定(歌謡曲の歌詞分析:時代設定・素材の選定・モチーフの分類など) # いくつかのモチーフからなる構造と時代のあり方との関係 03 近代日本の出発点 # 明治という時代 a 音楽(大衆娯楽)的には、江戸時代のまま。(謡曲・長唄・義太夫・常磐津、寄席・芝居) b 明治期の東京の地理 * 神田・日本橋を中心に半径4キロ * 東京の境界線 東:本所・深川 西:四谷・信濃町 南:三田・田町 北:上野 * 3つの地域と音楽受容 1) 神田・日本橋・浅草・・・・・下町:都市自営業者 従来の居住圏内での寄席通いなど 2) 赤坂・麹町・四谷・・・・・・山の手:中流階層(官吏・教員・軍人・会社員) 西欧音楽の受容 ← 江戸の都市文化と無縁 3) 本所・深川(隅田川以東)・・川向こう:明治後期に発展する零細工場群 浪花節の流行(もともと街頭の下品な芸能) c 音楽のチャネル(第2回の細川先生の講義内容参照) * 江戸期からの俗謡などが生き残る・また、その焼き直しが歌われる。 これに 西欧音楽が加わっていく。 * 演歌師(壮士節→書生節)・・・国・政治への批判から風俗描写へ(歌本販売) 瓦版・読売の延長線上だが、バイオリン使用。 * 学校・・・唱歌:お雇い外人メイスンによる選曲(賛美歌も多かった) * 寄席・・・浪曲の隆盛・義太夫(関東では明治20年頃、娘義太夫が人気・どうする連) 04 近代の区切り方 # モノゴトの意味=視点によって異なってくる ex. 年号とは違う尺度を導入して歴史を区切ってみる # 年号・見田の歴史観・大正期各種調査にみる、3つのモノサシ 天皇 政治・社会的事件 工場労働者の家計支出構造 1868(M01) 1868(M01)日本近代形成期 1889(M22) 確立期 *T05年実収入: 28.51円 1910 (M43) 爛熟期 T15/S02年 :122.03円 1912(M45/T01) 1917(T05)食物への欲求 1920(T08)住居・被服への欲求 1923(T11)社会文化生活への欲求 1926(T15/S01) 1927(S02) 1931(S06) 崩壊期 1945(S20) 終戦 1952(S27) 講和条約 05 いくつかの資料 # モノゴトの理解=部分と全体・マクロとミクロなどを関連づけていく * 大文字の歴史にのみ目を向けていると、かえって見えなくなるものがある。 # 学校教育制度の完成 * 就学率は徐々にあがっていくが、実際の登校率は低い。(ことに女子生徒) * 「唱歌」(現在の音楽科)は、教育方法・教材・教員がそろわないため、実際に開始されるのは遅れる。 * 教育の普及=日本全国の小学生たちが、同じ歌(同じことば・同じ"西欧的な"音感覚)を歌う体制が整うこと。 ・・・同じ考え方を身につけることでもある。 # 大正期=近代的な都市の生活スタイルが根づき始める * 貧富の差は激しいが、それなりに生活を楽しもうとしていく。 大正デモクラシー・自由教育 われわれの考える歌謡曲の開始 * 伝統的な俗謡ではない音楽を労働者の娯楽に→須坂音頭(女工の歌える歌を) 蓄音機・レコードの生産が本格化 # 昭和期(太平洋戦争まで) マスメディア産業の隆盛 * 学校とは別のチャネルで、日本人が同じ歌を歌う体制が整うこと。 * とくにラジオの影響力ははかりしれない。 軍部の権力の増大 * 戦後になるまで、ラジオはNHKしかない。=番組選択の余地はない。 * そこへ、軍部が口を出してくるとどうなるか。・・・情報の一元化の意味を再考。 06 年表を見直すと… # 日本の近代=したくもなかった「開国」を諸外国に迫られる→否応なしの国際化 # 諸外国に食い物にされないように頑張るしかない(と、思わされる。) # 富国強兵=なによりも「使える人材」が必要→教育程度の向上=教育制度の完備 * 頑張る必要があるのだと「思いこませる装置」としての学校 * 頑張った結果としての「日清・日露・第1次大戦」での勝利 # 戦争による喜びと悲しみのアンビバレンツの中の国民 * 頑張るための歌←→頑張りたくないための歌 # 日本的なもの(環境・価値観・音感覚)と西欧的なもの(環境・価値観・音感覚)との二重構造 07 「もはや戦後ではない」か? # 一般的な意味での歌謡曲は、たしかに昭和40年を目前にして、その歌としての力を弱めていく。 * 前回の小川先生の講義を参照のこと # また、少なくとも、戦後の日本は、直接的に戦争に参画することはなくなっている。 * 大きな悲しみは、事故と病気が中心となっている。 # しかし、今日の教育=学校は、多様な価値観を与えてくれているのか。 私たちが受けとる情報に対し、かつての軍部が行っていたような検閲はされていないといえるのか。 # 日本−西欧の価値観のギャップに悩まされることはなくなったのか。 もしそうであるなら(あるいは そうでないしろ)、わたしたちは、いまどのような歌をも持っているというのか? play list(■は、用意されていたが省略された曲) ■鳥取春陽・斎藤一聲 (?) 「復興節」『街角のうた−書生節の世界−』 (?) 大道楽 二代目吉田奈良丸 (?) 「大高源吾」『浪花節の黄金時代(上)』 1989 コロンビア 田中旭嶺 (?) 「義士の本懐」『琵琶』 1994 コロンビア 陸軍戸山軍楽隊 1937 「雪の進軍」『軍歌戦時歌謡大全集 1 明治大正の軍歌』 1995 コロンビア 陸軍戸山軍楽隊 (?) 「戦友」『軍歌戦時歌謡大全集 1 明治大正の軍歌』 1995 コロンビア 佐藤千夜子 1928「須坂小唄」『中山晋平の新民謡』 1997 ビクター 霧島昇・松原操 1939 「愛馬進軍歌」『軍歌戦時歌謡大全集 11 国民歌謡 』 1995 ビクター 霧島昇・松原操・二葉あき子 1941 「なんだ空襲」『軍歌戦時歌謡大全集 11 国民歌謡 』 1995 ビクター ■笠木透 1995 「昨日生まれたブタの子が」『昨日生まれたブタの子が−戦争中の子どものうた−』(CDブック) 音楽センターあけび書房 *「湖畔の宿」(1940) の替え歌 ■笠置シヅ子 1950 「買物ブギー」『SP盤復刻による懐かしのメロディ・笠置シヅ子』 1998 コロンビア ■植木等 1961「スーダラ節」『クレージーキャッツ・デラックス』 東芝 井沢八郎 1963 「あゝ上野駅」『井沢八郎全曲集』 1999 東芝 三波春夫 1964「東京五輪音頭」『三波春夫全曲集』 1997 テイチク ■嘉門達夫 1995 「怒りのグルーヴ−震災篇−」 ビクター ■忌野清志郎 1999 「君が代」 『冬の十字架』インディーズ盤 TV番組テーマ曲(音源はともに『オリジナル盤・懐かしのTV番組テーマ大全集』 1986 ソニー) ■藤家虹二・曲 保富康午・詞 1965〜1969 「ちびっこのどじまん」 ■富田勲・曲 1963〜1982 「新日本紀行」 年表 1868(M01) 明治維新 1872(M05) 学制頒布(唱歌は当分これを欠く←教員も教材も揃わない) 1880(M12) 小学唱歌集初編(最初の音楽教科書) 1890(M23) 東京−横浜間で電話交換業務開始 1892(M25) 講談最盛期 1894(M27) 日清戦争(〜95)・軍歌ブーム(雪の進軍など) 1895(M28) 台湾を日本領とする・伊沢修二、総督府民政局学務部に赴任・45年まで唱歌教育継続 小学唱歌と軍歌の普及急速化・学生歌/寮歌 1899(M32) 川上音二郎一座欧米巡演(〜01・00年にはパリ万博参加) 1900(M33) 浪花節の台頭(講談の衰退) 1901(M34) レコード発売(輸入・外国から出張録音しにくるケースも多かった) 1903(M36) 小学校国定教科書令・浅草に映画常設館 1904(M37) 日露戦争(〜05) 1905(M38) 戦友・ラッパ節、日露戦争活動写真興業 韓国に統督府設置(同国公立小学校に唱歌を設置・韓国併合は10年) 1909(M42) 日本製レコードの録音/発売・ハイカラ節(女学生揶揄) 1910(M43) 逗子開成中学生遭難→真白き富士の根・女学唱歌流行 1911(M44) 帝国劇場竣工(オペラは不振) 1912(M45) レコード・蓄音機会社相次いで設立(売れ筋は浪花節) (T01) 古賀政男、朝鮮移住(7〜17歳まで) 1913(T02) 今日は帝劇明日は三越:近代的な都市の生活様式が開始 1914(T03) 第1次世界大戦(〜18)・宝塚第1回公演 カチューシャの唄(中山晋平による劇中歌:録音は17年・小学校に禁止令) 1915(T04) ティペラリーの歌(英国の流行歌/世界的ヒット・楽譜販売により原語で歌われた) 1917(T06) 浅草オペラ(ペラゴロ) 1918(T07) 参戦/戦勝による物価高騰・米騒動(全体的には好況) 1919(T08) 赤い鳥童謡集1発行(雑誌発行は前年) 1920(T09) 大恐慌・第1回メーデー 1921(T10) 船頭小唄(中山) 1922(T11) 社交ダンス流行 1923(T12) 関東大震災 1925(T14) 治安維持法・東京放送局(現NHK・JOAK)放送開始 1926(T15) 講談社9大雑誌・円本ブーム:読書の大衆化 (S01) 日本放送協会発足(東京・大阪・名古屋3放送局合併・聴取者22万人・聴取料1円) 1927(S02) 地下鉄開通(上野−浅草間) 日本ビクター設立(外資系レコード会社の参入・日本コロンビアは翌年設立) 1928(S03) ラジオ体操開始・全国中継網完成(契約数50万) 須坂小唄(中山:新民謡運動の始まり) 1929(S04) 世界恐慌・大学は出たけれど・トーキー映画公開・東京行進曲(中山) 1930(S05) 「エロ・グロ・ナンセンス」 1931(S06) 満州事変・日本初のトーキー映画・酒は涙か溜息か/丘を越えて(古賀政男) 1933(S08) 活動弁士スト・東京音頭(中山) 1934(S09) 出版法改正(検閲のレコードへの適用・内務省警保局) 1936(S11) 2.26事件・阿部定事件 国民歌謡開始・東京ラプソディ(古賀)・忘れちゃいやよ(渡辺はま子・歌) 1937(S12) 日中戦争 1938(S13) 国家総動員法・雨のブルース/別れのブルース(服部良一) 1939(S14) 第2次世界大戦・映画法(シナリオ検閲)・湖畔の宿(服部) 1940(S15) 大政翼賛会結成・ぜいたくは敵だ ダンスホール禁止・蘇州夜曲(服部)・紀元二千六百年 1941(S16) 太平洋戦争・国民学校令・米英映画上映禁止 1944(S19) ラジオの演芸・音楽番組強化(国民に娯楽を与える=戦争の苦しさを忘れさせる) 1945(S20) 昼間のラジオはニュースのみに 終戦 1948(S23) 東京ブギウギ・湯の町エレジー 1950(S25) 朝鮮戦争→特需景気 1951(S27) 民放ラジオ開始 1952(S28) 講和条約発効:国際社会に復帰 1953 (S28) テレビ放送開始 1960(S35) 高度成長時代突入・所得倍増政策(池田勇人) 1961(S36) スーダラ節 1964(S39) 東京オリンピック・東京五輪音頭 1965(S40) ミニスカート流行・勝ち抜きエレキ合戦・ちびっこのどじまん 1966(S41) 米国の北ベトナム空爆激化・バラが咲いた(マイク真木・第2次カレッジフォークブーム) 1968(S43) 大学闘争激化・グループサウンズ 1969(S44) 関西フォーク:新宿西口フォークゲリラ 1971(S46) スター誕生(日本テレビ系列)開始 1973(S48) オイルショック・インフレ・モノ不足・心もよう(井上陽水) 1978(S53) 古賀政男没 1980(S55) 青い珊瑚礁(松田聖子)・ジョン・レノン暗殺 book guide 今回の授業のために参照・引用した文献のうち、ポピュラー音楽研究初学者に有用かつ読みやすい文献を並べてみました。(入手しにくい文献や関連領域の文献は除いています。) 朝倉蕎司 1989 「流行り唄の誕生−漂白芸能民の記憶と近代−」 青弓社 著者は、芸能や犯罪ネタに強い評論家。手強そうなサブタイトルがついているが、もともと雑誌の連載ということもあり、それほど難しいところはない。民衆芸能・大衆娯楽の土台のようなところから、歌に焦点を当てるというスタンスの本はあまりない。 石川弘義(編) 1981 「娯楽の戦前史」 東京書籍 戦前の日本人の生活において、娯楽がどのような位置づけ・役割を担っていたのかの大枠をつかむことができる。加えて、当時の日本人の生活水準・構造との関連で論じられている点が有用。余暇・生活という視点は、ポピュラー音楽研究においてもっと重視されてよい。品切れ残念。 *本書中の都市生活者の生活構造に関する論考は、「生活文化論への招待」(寺出浩司・1994・弘文堂)に再録。 加太こうじ・佃実夫(編) 1979 「流行歌の秘密・増補版」 文和書房 思想の科学研究会が1950年に出版した「夢とおもかげ」の中から、流行歌に関する部分を抜き出し、さらにその後の楽曲についての論考を加えた論文集。大衆文化をバカにする風潮の強かった時代において、きちんとした研究を行ってきた同グループの仕事は無視できない。 北川純子 1993 「音のうち・そと」 勁草書房 著者は本講座の講師のひとり。音楽学と社会学がどのように結ばれ、どのような発展をしてきたのかが、わかりやすくまとめられている。いわゆる歌謡曲については触れられていないが、音楽についてきちんと考えようとする人は、本書を押さえていた方がよい。 北中正和 1995 「にほんのうた−戦後歌謡曲史−」 新潮社 目配りよく・要領よくまとめられており、ジャケット写真なども豊富。しかも、巻末には参考文献一覧に加え、人名索引までついている。値段の安い文庫本で、ここまでしてくれれば文句のつけようがない。ちなみに、本書は文庫書き下ろし。 小泉文夫 1984 「歌謡曲の構造」 冬樹社 → 平凡社(文庫) 歌詞の内容分析が中心であった、初期の日本のポピュラー音楽研究において、音楽学からの分析を行っていたほとんど唯一の研究者。歌謡曲の音階構造の中に、日本の伝統的な音階構造の存在を見いだした。「ヨナ抜き」ということばが一般的になったのは、彼の功績であるといってよい。 園部三郎 1980 「日本民衆歌謡史考」 朝日新聞社(選書) 著者は、「下手でもいい、音楽の好きな子どもを」という本で有名な、音楽評論家・音楽教育研究者。北中の本が対象としていない、戦前の流れが確認できる。戦前史については類書も多いが、内容の充実度と読みやすさのバランスのよさという点からおすすめする。 橋本治 1990 「恋の花詞集−歌謡曲が輝いていた時−」 音楽之友社 「桃尻語訳・枕草子」で有名な、天才・橋本が昭和の名曲について語ったもの。ハードカバーで450ページもあるが、それは、60曲あまりの歌詞を、エッセイの部分よりも「大きな活字+ゆったりした行組み」にしているからである。そのことからもわかるように、本書は歌謡曲への愛にあふれた「詞集」なのである。 平岡正明 1996 「中森明菜−歌謡曲の終幕−」 作品社 山口百恵=菩薩論で有名な評論家。平岡の本はどれを読んでも楽しいが、独特のスタンス・文体のために読者を選ぶところがある。本書は各誌に寄稿したものを集めたもので、平岡の歌謡曲の歴史観および方法論の、基本とその応用を知ることができる。 藤井淑禎 1997 「望郷歌謡曲考−高度経済成長の谷間で−」 NTT出版 著者は日本近代文学の研究者。前著「純愛の精神誌」(新潮社)で部分的に触れられていた、昭和30年代歌謡曲について、よりつっこんだ論考になっている。「集団就職」で都会に出てきた若者と歌との関係を主軸に、音楽と時代との関係を、インタビューなども行いながら解きあかしている。 増井敬二(編著) 1980 「データ・音楽・にっぽん」 民音音楽資料館 約20年前の出版ということで、データ集としては古いものになっている。しかし、戦前・戦後の各種楽器の生産量からラジオ番組の聴取調査結果さらに文化庁予算の動きまで、音楽に関する各種データが一度に見渡せるのはとても便利。 溝尾良隆 1998 「ご当地ソング讃−魅力ある『まち』にはいい歌がある−」 東洋経済新報社 著者は立教大学観光学部教授で、本書は歌謡曲の歌詞を、観光論の視点から論じたもの。同時に、見田の方法論の優れた応用編といえよう。内容面でも、構成に過不足がないだけでなく、方法論上の問題について補論が設けられており、初学者に有用である。本書自体がヒット作。 見田宗介 1978 「近代日本の心情の歴史−流行歌の社会心理史−」 講談社(文庫) 「日本のポピュラー音楽」研究のひとつの基礎。本書を読まずに歌謡曲を語ることはできない。方法論的には、歌詞の内容から抽出されたモチーフの分析。そこから、明治維新(1868)に始まる日本の近代と日本人の心のかたちを浮きあがらせようとしている。品切れ無念。 三井徹(編・訳) 1991 「ポピュラー音楽の研究」 音楽之友社 外国の代表的な研究者たちの論文を集めたもの。そのために、ある程度、洋楽や学問的な文章に慣れないと、歯ごたえがあるかもしれない。しかし、ポピュラー音楽研究における多彩なアプローチを実感することができる。最新の研究をまとめたパート2の出版が望まれる。 南博(編) 1988 「近代庶民生活誌 8 遊戯・娯楽」 三一書房 明治以降の日本人の生活をテーマにわけ、それに関連する一次資料を選択・掲載したシリーズ。戦前の論壇・研究者・関係省庁などが、娯楽問題をどのように考えていたのかがわかる。が、採録されている明治期からのレコード会社のパンフレットを眺めているだけでも楽しい。 安田寛 1999 「日韓唱歌の源流」 音楽之友社 著者は、日本人と西欧音楽との関わりを、キリスト教布教・賛美歌というルートから追い続けている研究者。一見、ポピュラー音楽とは関係なさそうだが、上記のルートから、「古賀メロディ/演歌=韓国起源説」という俗説がどうして成立したのかを解きあかしている。 山中恒 1985 「ボクラ少国民と戦争応援歌」 音楽之友社 妹尾河童の「少年H」中の事実誤認に対し、詳細な反論本を書いたことで有名な児童文学者。本書では、自身の体験を中心に、戦前戦中の子どもたちの音楽環境について記している。ただし、音楽そのものより、音楽を通して軍国主義の非人間性を批判することに主眼がおかれている。 吉野健三 1978 「歌謡曲−流行らせのメカニズム−」 晩聲社 タイトル通り、「業界の暗部をえぐる」というものだが、全体の1/3が資料編になっているというヘン(失礼!)な本。しかし、流行歌についてどのような検閲がされていたのかがわかる資料が多く便利。・・・それにしても、本編自体は現代の話で、資料は戦前のものが多いというのは謎である。 オリコン年鑑 日本のヒットチャートやCD売り上げの動向を知る上で、もっとも一般的な雑誌の年間データ集。データ源としての「オリコン」にはいろいろと問題のあることが指摘されているが、とりあえず、ここから始めるしかない。 以上 |
第22回 歌謡曲から始まる議論 補足メモ #学校という装置 明治になり、従来の身分制度が廃止される=社会の上層に食い込める可能性が出てくる。(男だけだが) 食い込むためには教育が必要 逆に 教育を与えることで、国家に有用な人材を確保できる。 ↑ 個人の夢と国家の利害が一致 #日本の余暇研究 1920年代に開始 産業構造の変化→農村人口の都市流入 ↓ 雇用労働者型の生活構造を持つ社会階層が登場(工場労働者・サラリーマン) * 労働問題をはじめとする新しい社会問題の噴出・・・そのひとつとしての「余暇」 同時に 娯楽産業の大規模化・独占化の進展・・・余暇生活への影響が問題として浮かびあがる 代表的研究者としての権田保之助 1919年から1927年の間の、工場労働者と中間階級(小学校教員)の支出構造 修養・娯楽費の比率が、2ポイント違っていたものが追いついてくる。 #終戦まで:近代国家確立という大きな目標が(個人差はあるものの)共有される。 その際 イヤなことではあるが、(戦争による)犠牲の存在はやむを得ないとも認識する。 戦後:民主主義=個人の欲望が優先する社会という誤解 それでも しばらくは、「国の豊かさ→個人の豊かさ」という図式が有効。 ↓ 日本株式会社社員として頑張る。 #高度成長:戦争なき時代の「産業戦士」を生む。・・・裏返しあるいは本音としての「スーダラ節」 産業戦士の幻想に気づく:集団就職者の離職率の高さ #1962年:高等専門学校設置・・・中堅技術者養成 似たような話として 女子短期大学の定着・・・もともと新制4年制大学となるまでのワンポイントリリーフ ↑ 女性の社会参加意識の向上・中堅労働層の必要 #東京オリンピック=アジアで最初のオリンピック 大変な名誉・外国人(お客様)に笑われたくない→都市大改造→郷土の喪失 国際化をはかろうとして、根っこを失う。(町名変更・日本橋の上に高速道路) #マスメディアの隆盛:大人の世界にさらされる子どもたち もともと 子どもが大人の歌を歌うことは禁じられていた(異形としての美空ひばり) ↓ 子どもが正面切って歌謡曲を歌う時代の到来・・・ちびっこのどじまん(当初はヒンシュク番組) ドリフターズの特異性:「〜節(民謡)」「唱歌」「書生節」「兵隊ソング」ばかりがシングル化 戦前の音楽状況のショーケース 現代:歌=若者・子どものもの さらに 音楽産業の担い手にもなる 昭和40年代:小沢昭一「オレたちおじさんには、歌える歌がない」→唱歌・軍歌をハーモニカで |
[プレイリスト]
神楽坂はん子・古賀政男「モチのロン」 |
[この回の配布資料は、山田の論文『globe:小室哲哉の歌詞が描き出す世界』です。] |
(以下の文中で#印をつけた資料は、当日は添付されていたがここでは省略し
た) 0 はじめに 「演歌」は現在、どのような風景に埋め込まれているだろう? 大晦日の〈紅白歌合戦〉では、遅い時間帯での演歌歌手出演が「お約束」と なっている。「演歌?ウザいぃ〜」と言う女子高生がカラオケで《津軽海峡・ 冬景色》を歌う。モーニング娘。の中澤ゆうこや島田紳助後押しの島谷ひとみ は「企画物」ということも含め情報として受容されている。ゲーセンでは〈ポ ップンミュージック2〉に「エンカ」があり、ゲーマーの楽しみの一つとなっ ている。小学生はテレビCM等から「《与作》は演歌である」ことを「常識」 にとりこんでいる。 つまり、演歌というものが「ある」ことは当たり前として認識され、当の「 演歌」が色々な形で受容されている、ということになる。本講義では、(1)演歌 の誕生 (2)演歌のサウンド の二点に着目して「演歌」を捉え直し、さらに 北 川にとっての私的な(3)演歌の快 を(1)(2)との関わりの中で位置づけることを通し て、演歌の「受容」の一端について考える。 1 演歌の誕生 #別添資料1・演歌関連年表(演歌をめぐって「文章で書かれてきたもの」と 「ヒット曲」の流れ)から、ひとまず次のように整理できる。 1.1 1960年代半ばからの十年間が、「演歌」確立期である。 1.1.1「ポップス歌謡」など洋楽色の強い歌謡曲が台頭。また「フォーク」「 エレキ」の流れが、(若年)聴き手層にコピーされる行動を伴い浸透。それら の「主流」化と並行して「より古くさい」歌謡曲が「演歌」として「腑分け」 されるようになった。 1.1.2 より「古くさい」ことの中身は、次のように整理できる。 (1)歌唱法(ユリ、うなり、民謡調の発声)、音階(ヨナぬき)など、「音 」の側面。 (2)生産システム。作詞・作曲家のレコード会社専属制→60年代にフリーの 作り手台頭。「演歌」と専属制の結びつきは継続。 (3)歌詞内容、歌詞と歌唱者の関係。詞の「情念」「憂い」とそれに対する 思い入れ。 (4)ぴんからトリオ《女のみち》(1972)以降、【ド演歌】露出により「古 くささ」の足元はさらに固められてゆく。 1.1.3 音楽的状況と、同時期の演歌論(ex.五木寛之)が支えあいながら進行 して、同時代の音楽ジャンルをさす語としての「演歌」(艶歌、怨歌)が定着 する。 (1)「支えあい」は次のような面ももつ。(イ)五木原作『艶歌』の映画化・ 水前寺の出演〜同名曲発売、というような戦略および(ロ)「虚構」である五 木の小説『涙の河を振り返れ』(1968)と「実在」の藤圭子との関係性はそれ ぞれ、1980年代以降に(イ′)メディア・ミックス(ロ′)アイドル・システ ム、で顕現・常態化する。ここから、イ′ロ′の先駆としてこの時期の「演歌 」を位置づけることもできる(ただし、媒体としても層としても、80年代のも のよりは限定的であった)。 (2)この時期、演歌論隆盛をひきおこす鍵的存在となったのが藤圭子である。 論者たちは「下層からはいあがってきた人間の凝縮した怨念が一挙に燃焼した 閃光」(五木)「マイクに向かったとき…圭子は純子であることを止める。そ れは圭子と純子が烈しい相克を繰り返す瞬間なのだ」(林田)「大衆操作の定 式に逆行して精一杯体をはって歌う藤圭子」(相倉)など、さまざまな【意味】 およびそれに対抗する【反・意味】を与えてゆく。 1.2 【演歌・日本人・心】の三つを結びつける語り口は「創られた伝統」で ある。『月刊 歌謡曲』(ブティック社)が1995年から、「演歌」を巻末近くに 配置して頁余白にキャッチコピー「▼日本の心が生きてます」を付すようにな ったことにも表されるように、【演歌・日本人・心】に「演歌」を囲い込む力 は、微細なレヴェルでますます強まっている。 2 演歌のサウンド 〔60年代、洋楽色の強いポピュラー音楽の「主流」化によって、より古い感覚 のものが【演歌】として腑分けされ、同時代の論壇も一役買った〕というスト ーリーが析出された。では、「いま現在私たちがイメージする演歌」が60年代 に確立した、と捉えてよいか? 2.1 前・確立期の演歌 レコード『昭和の歌謡史』解説(キングレコード文芸部 KR98-99、1966) より抜粋: 「昭和30年は…日本調歌手に人気の集まった年でした…春日八郎が、そ の独特の節回しでうたう正統派演歌の決定盤が出ました…《別れの一本杉》が それです…この曲はまた、民謡調の典型的なものの一つで…やるせない気持ち のときよりさっぱりした気分のときに歌ってぴったりするのですから、それも 民謡調の特質といえるのかも知れません。 31年、三橋美智也の《男涙の子守唄》は…<浪曲的>な感情を十分に表 現したもので、日本的心情を心ゆくまで歌いあげています。 37年レコード大賞の歌唱賞を受けた三橋美智也の《星屑の町》はまれに みる異色作でした。なにしろ民謡、または民謡調演歌を本領とする彼の歌の歌 としては、まことに変わった歌…はなやかなリズムに飾られたウェスタン調で した。」 この記述には「演歌」「民謡」「浪曲」「ウェスタン調」が混在している。こ こから: [論点1]前・確立期の演歌は、今考える「演歌」イメージよりはるかに無節操 に色々なものを資源としてとりこんでいた。 2.2 「演歌の星」藤圭子の《新宿の女》 (#別添資料2・メロディーラインと声の特徴のトランスクリプション参照) ここでの着眼点は、以下のことがらである。 *イントロ:ブルー・ノート。メロディー請け負い楽器の前景化(聴き手は、 歌部分に入るまでに「メロディーを聴く態勢」を準備)。メロディー請け負い 楽器の受け渡し。 *歌。入りのビハインド=合わせるものとしての拍でなく、感じるものとしての 拍。ビハインドの効果としての、コトバのグルーピング、その結果としてのコト バの「聴こえ」。 *歌と楽器が補強しあうクライマックス。歌詞を補強する声の音色(こんにちの J−POPの「サビ」とは異なる)。 *つぶやきとして聞こえる「馬鹿だな」の箇所の仕掛け。 *キメの部分としての末尾。 2.3 「馬鹿な女」の歌としての《新宿の女》 (#別添資料3・歌謡曲の詞における「馬鹿」の用例参照)。 戦前〜60年代の歌謡曲の詞に「馬鹿」の語が出てくる場合、色々な用例がある。 例えば歌詞主人公の男性=息子が母親から「馬鹿」と言われる用法、歌詞主人公 の男性が「女に未練をもつ自分」を「馬鹿」と言う用法、歌詞主人公男性が女性 の可愛さの表現として「馬鹿」と言う用法、歌詞主人公女性が男性から(可愛さ の表現としての)「馬鹿」を言ってほしいと望む用法、等。60年代、「馬鹿」の 語は演歌歌手の歌に集中し、対自的(自分で自分を馬鹿という)用法がめだつよ うになり、「未練」が女性の領域となる。〔詞に、「男にだまされ捨てられる馬 鹿な女」が出てくる〕という演歌の特徴あるいは演歌イメージは、60年代に確立 するといえる。その一つの区切り点をなすのが藤《新宿の女》である。 2.4 《新宿の女》以前の演歌と《新宿の女》 水前寺清子《涙を抱いた渡り鳥》のイントロは、三味線+洋楽器合奏による刻み をもったメロディー→細かく刻む三味線ソロへの「受け渡し」→オケがメロディ ー を歌う→歌の直前、三味線+オケによる細かい刻み、という流れになっている。 また、歌の部分では母音変化、巻き舌が使われている これらの特徴(+北島三郎、都はるみ)を《新宿の女》と比べると、何の楽器が 刻むか、何の楽器で「受け渡し」がされるか、母音変化の有無などに変化が見ら れる。 2.5 《新宿の女》以後の演歌 細川たかし《矢切の渡し》の歌の部分のコード進行に着目すると、Cの和音の安 定性が「つれてにげてよ」「恋に生きたい」の部分に[静かな決意]という意味を 付与している。和音という(西洋)「音楽の三要素」の一つが、歌詞の意味を補 強している。 また、石川さゆり《天城越え》でのイントロの和楽器使用は、色々な資源を使っ ていた60年代ならありそうな手法であるが、洋楽器が「演歌」の「当たり前」と なったこの時期、「新鮮」という意味付けがなされて話題になったものである。 以上のことから: [論点2]演歌は60年代、「より古い歌」として腑分けされた。しかしその前後の 一連の過程で、「西洋化」は進行をみせてきたという面もある。 【演歌の誕生〜演歌のサウンドについてのまとめ】 演歌は、前・確立期→「演歌の星」藤圭子→藤以降の演歌、という過程で、一方 では「西洋化」を確実に進めてきた。他方、【ド演歌】は特化したキャッチフレ ーズとなり、特に80年代後半からは「演歌の真髄」という意味付けがなされ、 「書かれたもの」の効果とあいまって聴き手に「(ヨナ抜き・コブシ&)心 & 日本 =演歌」イメージを促す(「日本人の心」イメージとしての演歌)。それ ら二つの力関係の中に「演歌」が投げこまれているのが90年代だといえる。【ド 演歌】露出は「演歌のサウンド」の囲い込みにもつながり、《新宿の女》でも使 われた打楽器「ジャーン」のひとうち、「ドコドンドンドン」という刻み、ミミ○ ミ|ミドミファ|ラ 〜〜 のようなフレーズ、等様々な細かい要素が「演歌のサウン ド」の(自己)資源として用いられる。さらに「ヘソ出し」「ミニドレス」等の 要素から「詞」「コブシの回らない歌唱」「音」まで、【演歌】イメージから外 れたものには「逸脱」の記号が付されて売り出され、それらは改めて(正統的) 【演歌】の領域を確定する。 3 演歌の快 演歌にかかわる時、ひとはどのように歌をうけとめているか。「私」の場合: *「カラオケ者」である「私」にとって、演歌の「声」のありかた(声が伴奏、 コード、歌詞、曲のクライマックスと絡み合う)が、カラオケで演歌を歌う時の 「快」に関係しているようだ。 より一般化するなら、演歌ではサウンド自体 が、半強制的な思い入れ装置として働く面があるように思われる。これは一方で 演歌を歌う「快」につながるが、他方で、「思い入れたっぷりの演歌はウザい」 という演歌の「不快」にもつながる。 *聴く人間としての「私」は、演歌を聴くとき、まず「あ、演歌だ」と「聴い て」いる。より一般化するなら、「演歌というものがある」ことがアタリマエ化 している今日、演歌にかかわる時にひとは「なんや演歌やん(うぜぇ)」「あぁ 演歌だっ(けっこうキモチイイ)」など「『演歌』に回収される形で」演歌を受 けとめる傾向がありはしないか。「演歌」で止まってそこから前にも後にもいか ない、閉じた「演歌イメージ」のようなものがある。他のスタイルやジャンルに も同様の面があるが、演歌の場合、その「閉じかた」は、1で触れたように「日 本人−心−演歌」の力が微細なレヴェルで偏在することによって、また、2で触 れたように80年代後半からの演歌の音が自己資源からのリサイクルをするように なったことによって、よりきついように思われる。 この、「演歌に回収される」ということは、演歌の弱みである。つまり、別に 「新しい演歌」はいらない、という考え方が容易に成り立つ。しかしこれは同時 に、演歌の強みであるかもしれない。逆の見方をするならば、「(演歌は)他の ものには回収されず、ただそのまま演歌である」ということになるからだ。 講義では意図的に「サウンド」の語を用いた。「サウンド」の語の従来の使わ れ方は、[歌謡曲〜演歌では聴き手は詞を聴き、メロディーを受けとめていた が、ロックに影響を受けた『サウンド志向』の音楽の出現により受けとり方も変 化した]というものであった。しかし、詞への「思い入れ」は、詞だけの問題だ ろうか?聴き手の「メロディーを聴く態勢」はメロディーのみの問題だろうか? そう考えると、「演歌」の(「演歌に回収される形」での)受けとめられ方自体 に、「サウンド」(をはじめとするポピュラー音楽を考えるこれまでの)概念を 揺さぶる可能性が、僅かに潜んでいるかもしれない。 【プレイリスト】*印は準備していたがかけなかった曲 春日八郎《別れの一本杉》(1955)、三橋美智也《男涙の子守唄》(1956)、三 橋美智也《星屑の町》(1962)、藤圭子《新宿の女》(1969)、水前寺清子《涙 を抱いた渡り鳥》(1965)、 *北島三郎《兄弟仁義》(1965)、* 都はるみ《ア ンコ椿は恋の花》(1964)、細川たかし《矢切の渡し》(1983)、石川さゆり《天 城越え》(1986)、*森昌子《孤愁人》(1986)。 |
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[配布資料を元に、一部省略、表の形式変更をしております。(山田)]アイドル工学 ver.19991.「シッポを隠さないタヌキ」の時代 〜現代アイドルの位相 2.「アイドルシステム」の成立 〜メディアの磁場
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阿久悠を読む、聞く、考える 0.阿久悠とは? 阿久悠(1937年<昭和12>生、作詞家・作家) 1937年、兵庫県淡路島生まれ。59年、明治大学文学部卒業。広告代理店に勤務し、 番組企画やCM制作などを手がける。65年にフリーとなり、本格的な文筆活動に入る。 作詞家デビューは、67年。以後、ポップス、演歌、アイドル・ソングから、童謡、ア ニメ主題歌にいたるまで幅広い作品を手がけ、その数は五千曲以上にものぼる。また 、数々のスターを生みだした番組『スター誕生』(日本テレビ系)には、企画・審査 員として携わった。 作家としても活躍し、主な著作に『瀬戸内少年団』(文藝春秋)『家族の神話』( 講談社)『恋文』(文化出版局)『あこがれ』(文化出版局)『書き下ろし歌謡曲』 (岩波新書)などがある。 九七年、三十年間にわたる作詞活動に対し第四十五回菊池寛賞を受賞。九九年春に 紫綬褒章を受賞した。 NHK人間講座「歌謡曲って何だろう」テキストp.6 1.代表的な作品 日本レコード大賞受賞 また逢う日まで('71)/ 北の宿から('76)/ 勝手にしやがれ('77)/ UFO('78)/ 雨の慕情('80) 日本レコード大賞 作詞賞受賞 ジョニィへの伝言('72)/ じんじんさせて('73)/ 乳母車('75)/夏ざかり ほの字組('85) 熱き心に('86)/ 花束(ブーケ)('90)/ 花のように 鳥のように('94) 日本レコード大賞 童謡賞受賞 ピンポンパン体操('72) 他のヒット曲は別紙参照 2.売上げ オリコンに見る作詞家別ベストテンのトップには、言うまでもなく阿久悠の名が踊 る。最も売れた「UFO」(77年、作曲・都倉俊一、歌・ピンクレディー)でも155.4枚 だから、1曲1曲の売上げ枚数はさほどでもないような錯覚に陥るが、数が違う。ト ップ40にランク・インしたのが計247曲、トップ5が66曲、22曲のNo.1ヒットを含めて 総計 6163万枚の売り上げは、2位の松本隆(総計3347.1万枚)を倍近く引き離して独走状 態である。(略)惜しむらくはNo.1ヒットの数で、この部門のみ計31曲の松本隆が氏 を上回る。(略) (データは『歌謡曲完全攻略ガイド'68〜'85 』96年6月、学陽書房・刊を参照) 北沢夏音「A to Z for YOU」<移りゆく時代 唇に詩 阿久 悠大全集>(1997年ビクター) 3.阿久悠の発言から ・私は遅れて来た作詞家です。遅れた分だけ、時代と重ねる、ということを知っていました。 (阿久[1999-b:3]) ・小説が参ったって言わないかなあ、要するに、小説家が50枚も100枚もかけて書くのにあなた2枚で書けちゃうよね、と言わせてやろうと、やっぱありましたから (東谷[1999-b]) ・ぼくはこの歌[「いちご白書」をもう一度]を聴いたとき、ふとある妬ましさと、ちょっとした後悔のようなものを感じた。ぼくは大学を卒業し、七年近くもサラリーマンをやり、それから放送作家を経て作詞を始めたのだが、その時は三十歳を過ぎていた。しかし、遅れて来た作詞家という自覚はさらさらなく、逆に、あるキャリアののちに詞を書き始めたことが最大の強みであるとさえ思っていたのだが、この歌には、こういう形の青春は書けないと、妬ましさと、スタートの遅さに対する後悔を覚えたのである。 (阿久[1999-a:202]) ・ぼくの作品には比較的私小説風の匂いのものは少ないのだが、「乳母車」をきっかけにそれも出来ると思った。青春を過ぎてから作詞家になったぼくは、常に大人の目で青春を見るようになっていたが、森田公一とともに作るのであれば、たとえそれが過去の時点のことであっても、自分とその時代を素直に書けると思ったのである。大仰にいうと、青春の着地点がみつかったということである。 ぼくは三十八歳、森田公一は三十五歳、ぼくらの青春の風景は、時代の中でセピアに変色しかけていた。しかし、感傷にも意味があると信じ、つづいて、「下宿屋」「人間はひとりの方がいい」「青春時代」「過ぎてしまえば」と発表する。 (阿久[1999-a:207-208]) ・30年の中での作風は変化したか?(東谷[1999-b]) ・彼[上村一夫]の死が僕を変えた。君臨しようとするところがあったが、そういうことが空しくなった。ガツガツはみっともないけど、バリバリすら気が弾まなく思えて来た。上村一夫の死はそのくらい大きかった。(阿久[1999-a:252]) ・なぜ、今、歌謡曲を論じるのか?(東谷[1999-b]) [参考文献等] 阿久悠(1992)『写真詩集 歌は時代を語りつづけた』日本放送出版協会 −−−(1993)『夢を食った男たち』毎日新聞社→(1997)小池書院、道草文庫 −−−(1997)『書き下ろし歌謡曲』岩波新書 −−−(1998)「歌の中に東京がある」『東京人』3月号、教育出版 −−−(1999-a)『愛すべき名歌たち』岩波新書 −−−(1999-b)『歌謡曲って何だろう』NHK人間講座テキスト 阿久悠・和田誠(1985)『A面B面』文藝春秋→(1999)ちくま文庫 東谷護(1998) 「新たなる歌詞研究へむけて―阿久悠の歌詞分析を通して―」『表現研究』67号、表現学会 −−−(1999-a) 「詞作の心を探る」『ユリイカ』3月号、青土社 −−−(1999-b)「阿久悠氏へのインタビュー」(1999.10..15.テープ(90分)) ビクターエンターテインメント(1997) <移りゆく時代 唇に詩 阿久悠大全集>(CD) NHK-BS(1993)<阿久悠の世界・ヒット曲大全集 歌はこの世の魔美夢喪>(1993.12.6,7,8放映) [プレイリスト] 1.朝まで待てない 2.白い蝶のサンバ 3.ざんげの値打ちもない 4.また逢う日まで 5.狙いうち 6.ジョニィへの伝言 7.青春時代 8.UFO<ビデオ> 9.上村一夫の死に捧げる阿久悠の詩<ビデオ、上村の劇画あり> 10.昭和恋唄<NHK人間講座「歌謡曲って何だろう」のために書かれた詞> |
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沖縄音楽の聴かれ方 ●昭和初期 新民謡の曙 普久原朝喜 大阪:マルフクレコード(1925〜) ・《移民小唄》1929年(作曲) ●戦後の民謡ブームと60〜70年代新民謡の展開 沖縄歌謡曲? 洋楽様式の導入 ・《通い船》1959年 喜納昌永・城間ひろみ(普久原朝喜作詞作曲) ・《夫婦船》1965年?亀谷朝仁・仲村民代(比嘉盛勇作詞 亀谷朝仁作曲) ・《芭蕉布》1965年(吉川安一作詞 普久原恒勇作曲) ・《ヘイ!二才達》1968年 ポップトーンズ(朝比呂志作詞 普久原恒勇作曲) ・《うんじゅが情ど頼まりる》1971年 瀬良垣苗子(上原直彦作詞 知名定男作曲) ●オキナワン・ロック〜沖縄フォーク 二つの志向性 普遍〜土着 ・紫《Double Dealing Woman》『紫』TKCA-70485 1994年(1975年LPの復刻CD) ・佐渡山豊《ドゥーチュイムニー》『唄の市『沖縄フォーク村』』CHOPD-053 1998年(1972年LPの復刻CD) ●沖縄ポップの台頭 戦後第二世代 対抗的エスニック・アイデンティティの構築 ・《ハイサイおじさん》『喜納昌吉&チャンプルーズ』TKCA-70396 1994年(1977年LPの復刻CD) ・知名定男《バイバイ沖縄》『知名定男 赤花』PCCA-00581 1994年(1978年LPの復刻CD) ・りんけんバンド《ありがとう》『ありがとう』EVA-2016 1990年 ●ヤマトゥ(大和=日本本土)からの視線 1) 一地方としての沖縄 ・《島のブルース》三沢あけみ 1963年 2) アメリカ文化の窓口としての沖縄 ・《個人授業》フィンガーファイブ 1973年 3) リゾートOKINAWA ・《ふたりの愛ランド》石川優子&チャゲ 1984年 4) 素材としての沖縄(ワールドミュージック) ・細野晴臣《Roochoo Gumbo》『泰安洋行』CRCP-137 1995年(1977年LPの復刻CD) ・坂本龍一《NEO GEO》『NEO GEO』32DH700 1987年 ・上々颱風《海の道》『上々颱風』ESCB1090 1990年 ●90年代沖縄ポップの展開 1) 沖縄新ロマン主義 ・日出克《ミルクムナリ》『神秘なる夜明け』BVCR-679 1993年 ・パーシャクラブ《五穀豊穰》『NANAFA』TOCT-9467 1996年 2) 横断・循環するエスニシティ ・ネーネーズ《黄金の花》『コザ dabasa』KSC2-83 1994年 3) 主体/客体の相互循環 日本/沖縄/ディアスポラ ・トントンミー《Saudade de ウチナー》『サウダージィ・デ・ウチナー』FCD-104 1998年 4) 沖縄フォークからの継承 ・ローリー《おばぁーの琉夏》『永遠の詩』HERB-1 1998年 5) 普遍と土着のはざまで アムロ、OAS、Kiroro... ・Cocco《強く儚い者たち》『クムイウタ』VICL-60205 1998年 |
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本来は、ポップスを中心に先行した授業関連の音源を紹介する回ですが、授業が順調に進行したので、独立した話題提供として二つのテーマについて音源を紹介します。 ・戦前の日本の流行歌と沖縄の民謡の交流について ・「インターナショナル」について ・戦前の日本の流行歌と沖縄の民謡の交流について豆千代「ストトン節」(録音は近年:1924頃流行)詞・曲:添田さつき(1902-1956) 『全曲集 明治大正の唄(下)』日本コロムビア(1993) 震災後の復興期に小唄として流行。藤本二三吉ら芸者歌手のレパートリーとして知られる。 山里勇吉「ストトン節」1997 『八重山書生節』アカバナー(1997) 原曲の旋律が、琉球音階に置き換わり、歌詞が様々な曲から採られた雑多なものになる。 山里は大工哲広の師匠。 大工哲広「ストトン節」1996 『JINTA INTERNATIONALE』オフノート(1996) <たま>の知久と石川が参加した録音。 添田さつきの歌詞を通して歌った後、「与論ラッパ節」でよく聞かれる歌詞が歌われる。 津波恒徳「与論ラッパ節」1999 原曲は 詞・曲:のむき山人 とも 詞・添田唖蝉坊/外国曲 ともいう1905年頃流行した唄。 『津波恒徳』あばさー/VIVID(1999) 津波は、1960年頃、奄美で歌われていた歌詞を採集・再構成して歌っている。 同系統の曲は「与論小唄」とも称され、特に有名な部分から「十九の春」とも呼ばれる。 ソウル・フラワー・モノノケ・サミット「ラッパ節」1995 『アジール・チンドン』ソウル・フラワー/RESPECT(1995) 一番の歌詞は一般的に聞かれる。二番以降は(未確認だが)唖蝉坊、最後が中川のもの。 ・「インターナショナル」についてソウル・フラワー・モノノケ・サミット「インターナショナル」1997訳詞:佐々木孝丸・佐野碩(1922) 作詞:ウジューヌ・ポチエ/作曲:ピエール・ド・ジュイテール(1888) 『レヴェラーズ・チンドン』ソウル・フラワー/RESPECT(1997) 二番までが本来の歌詞。三番は中川の歌詞。 中央合唱団/新星日本交響楽団「インターナショナル」(録音は近年) 『音でつづる日本のうたごえ半世紀』音楽センター(1997) 「うたごえ運動」50周年としてまとめた10枚組セットの冒頭の曲。 中央合唱団は青年共産同盟コーラス隊に起源をもつ。 大工哲広「インターナショナル」1996 『JINTA INTERNATIONALE』オフノート(1996)
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