特別企画講義:「ポピュラー音楽と日本人」:1999:

講義資料およびプレイリスト:前期分


第1回(4月14日):  瀬川 昌久(音楽評論家/(社)日本音楽家協会 顧問)
             「戦前日本におけるポピュラー音楽の受容」
第2回(4月21日):  細川 周平(東京工業大学)
             「戦前日本の大衆音楽の諸相」
第3回(4月28日):  「音源紹介と解説(1) 戦前篇」
第4回(5月12日):  西村 秀人(上智大学)
             「戦後日本におけるラテン音楽の受容」
第5回(5月19日):  後藤 雅洋(四谷「いーぐる」店主)
             「ジャズ喫茶という空間」
第6回(5月26日):  杉原 志啓(音楽評論家/学習院女子大学非常勤講師)
             「ロックンロールの受容」
第7回(6月2日):   「音源紹介と解説(2) 戦後篇」
第8回(6月9日):   小泉 恭子(兵庫教育大学)
             「学校教育におけるポピュラー音楽の聞かれ方」
第9回(6月16日):  五十嵐 正(音楽評論家)
             「日本におけるブルースの受容/聞かれ方」
第10回(6月23日): 中河 伸俊(富山大学)
             「教会、ソウル、趣味の共同体
              −日本人は黒人大衆音楽をどう受容したか」
第11回(6月30日): 渡辺 潤(コミュニケーション学部)
             「ロックを聞いていた若者たち」
第12回(7月7日):  難波 弘之(音楽家/東京音楽大学非常勤講師)
             「プログレッシブ・ロックを聞く」
第13回(7月14日): 「音源紹介と解説(3) ロック篇」

講義資料およびプレイリスト:後期分へゆく
講義資料およびプレイリスト:インデックスにもどる
第1回(4月14日):  瀬川 昌久(音楽評論家/(社)日本音楽家協会 顧問)
             「戦前日本におけるポピュラー音楽の受容」

[講義資料]
  • 大正時代
      無声映画館の洋楽演奏
      関西のダンスホール
  • 昭和初年〜
      宝塚レビュー〜浅草レビュー
      ダンスホールの隆盛....ボールルーム・フロリダ
      ラヂオ放送....昭和3年JOAK、JOBK
      レコードとジャズソング....ビクターとコロムビア
      大衆流行歌....歌謡曲の大量生産
  • 昭和10年〜16年
      外国ジャズメン・歌手の流入....米国日系、フィリピン
      外国ポピュラー音楽の大衆化....ジャズ、シャンソン、タンゴ、ラテン、ハワイアン
      J-Pops の誕生....服部良一、佐野金助、笠置シヅ子
      大衆芸能化....コミカルソング、浪曲、あきれたぼういず

[プレイリスト]
  • 『私の青空 My Blue Heaven』 訳詞:堀内敬三 唄:ニ村定一
  • 『アラビアの唄 Song of Araby』 訳詞:堀内敬三 唄:ニ村定一
  • 『ルンバ万才』 作曲:服部良一 唄:美ち奴
  • 『別れのブルース』 作曲:服部良一 唄:淡谷のり子
  • 『ラッパと娘』 作曲:服部良一 唄:笠置シズ子
  • 『エノケンのダイナ』 唄:榎本健一
  • 『浪曲ブルース』 作曲:服部良一 唄:中野忠晴
  • 『ジャズ浪曲』 作曲:服部良一 唄:コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ
  • 『浪曲ダイナ』 唄:川田義雄
  • 『長崎物語』 唄:由利あけみ
  • 『長崎物語』 演奏:桜井潔とその楽団
  • 『新雪』 作曲:灰田晴彦 唄:灰田勝彦  
  • 『新雪』 演奏:桜井潔とその楽団

作成協力:槌矢裕子・関田夕香


第2回(4月21日):  細川 周平(東京工業大学)
             「チンドン屋と日本の近代」

[講義資料]
  • 0.音楽文化からみた日本の近代化
      唱歌−軍歌−壮士演歌(書生節)−寮歌−劇中歌−流行歌
      軍楽−市中音楽隊−サーカス・無声映画館(ジンタ)−ダンスホール−ジャズバンド
      東京音楽学校−コンサート音楽(ピアノ、オペラ、オーケストラなど)

  • 1.チンドン屋とは何か?
      「チンドン」(下座音楽の鉦と太鼓の組み合わせ楽器)を使った路上の宣伝楽団
      劇場の下座音楽(伴奏)のリズム+マーチ+西洋楽器+近代歌謡の旋律
      ベース楽器なし(西洋のブラスバンド系音楽[東欧、ニューオリンズ]との違い)
      リード楽器の即興的な節回し 「空気にあたりに漂っている音楽」(篠田昌巳)
      自由なレパートリー
      サーカスや村芝居や鳥追い女の衣装

  • 2.チンドン屋の歴史
      街頭の「音声広告」(呼び込み)
      明治の市中音楽隊(創業式、園遊会、戦勝祝賀会から商店売出し、初荷まで)
      日露戦争後には多くの軍楽隊員が除隊し、民間活動へ向かう
      街頭演奏への規制から小編成化(大正半ば?)
      昭和初期に第一期の「黄金時代」(トーキー化に伴う映画館楽手の失業など)
      戦後10年間に第二期の「黄金時代」、その後衰退

  • 3.文化的ヒエラルキー
      「本物志向」対「和洋折衷」
      「芸術志向」対「商業主義」
      日本の伝統的な旋律(民謡、邦楽)を西洋楽器で演奏した例は多いが、リズムの折衷はめずらしい(例 河内音頭、沖縄音楽)

  • 港家千鳥山中「開店披露」「特別大売出し」(妻恋道中・赤城の子守唄)
    鈴かん連中「街のチンドン屋」
    陸軍軍楽隊「越後獅子」(1905?)
    三光堂音楽隊「天然の美」(1906?)(1904年、田中穂積作、サーカスのテーマ曲に)
    長谷川宣伝社「竹に雀」(1992)
    同「涙の連絡船」(元唄は都はるみ)
    ソウル・フラワー・モノノケ・サミット「復興節」(1995)
     (元唄は添田さつきが関東大震災の後に作ったもの)
    かぼちゃ商会「パフィー・メドレー」(1998)
    大熊亘ユニット「四丁目」(1998)

  • 細川周平(1991)「チンドン・リズム・マシーン」『季刊ノイズ』第11号(1991 AUTUMN)「特集・東京チンドン」


第3回(4月28日):  「音源紹介と解説(1) 戦前篇」担当:山田晴通

[プレイリスト]

日本帝国海軍軍楽隊「軍艦行進曲」1903 米コロンビア出張録音[1904発売]
 作曲:瀬戸口藤吉(1868-1941)
 『軍艦マーチのすべて』キング(1998)
 初期出張録音盤の一例。洋楽の普及に軍隊の果たした役割は重要であった。

川上音二郎一座「オッペケペー」1900 パリ録音
 詞:若宮万次郎
 『甦るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座』東芝EMI(1997)
 日本人のパフォーマンスが録音された最初の事例と考えられている録音。
 のべ9人の座員が芝居のさわりや、長唄などを残している。
 座長の川上音二郎(1864-1911)、貞奴(1871-1946)は参加していない。

桜井敏雄「ハイカラ節」(1909頃流行) 詞:神長瞭月(1888-1976)/外国曲
    「東京節」(1918年頃流行) 詞:添田さつき(1902-1956)/外国曲
 『ザ・ヴァイオリン演歌』ソニー(1992)
 <最後の演歌師>と称された桜井敏雄(1909-1996)が残した最晩年の録音。
 壮士節から書生節、流しの演歌へという歴史的流れに沿って代表的な歌が取り上げられている貴重な音源。

榎本健一・楠トシエ・友竹正則「ベアトリ姉ちゃん」
 オペレッタ「ボッカチオ」(1879)より
 訳詞:小林愛雄・清水金太郎/作曲:スッペ(Franz von Suppe,1819-1895)
 『懐かしの浅草オペラ』キング(1998[1964])
 浅草オペラは1916/1917年頃から勃興し、関東大震災(1923)を挟んで昭和初年まで、洋楽の大衆化に大きく貢献した。
 音源は、榎本健一(1904-1970)を中心に、浅草オペラの歌曲を再現した1964年のアルバムの復刻。

四家文子(演奏:巴里ムーラン・ルージュ楽員)「フロリダ・タンゴ」1932
 作詞:西条八十/作曲:C.Paknadel
 『フロリダ・タンゴ〜日本のタンゴの名唱選』ビクター(1999)
 1929年に開店した赤坂溜池「ボールルーム・フロリダ」は日本におけるダンス文化の中心であった。
 四谷は東京音楽学校を主席卒業し、オペラから流行歌まで幅広く活躍した。

藤山一郎「キャンプ小唄」1931
 作詞:島田芳文/作曲:古賀政男
 『SP盤復刻による懐かしのメロディ 藤山一郎』日本コロムビア(1993)
 古賀政男とのコンビ第一作。当時、藤山は東京音楽学校在学中だった。

霧島昇・[初代]ミス・コロムビア「旅の夜風」1938
 作詞:西条八十/作曲:万城目 正
 『SP盤復刻による懐かしのメロディ 霧島昇』日本コロムビア(1993)
 松竹映画『愛染かつら』の主題歌として大ヒットした曲。
 霧島昇(1914-1984)には、現在の芸能界に通じるエピソードが多い。

東海林太郎(セリフ:西村小楽天)「名月赤城山」1939
 作詞:矢島寵児/作曲:菊池 博
 『オリジナル(SP)原盤による東海林太郎全曲集』キング(1996)
 無声映画における弁士の役割が、舞台やラジオにおける司会者のスタイルに連続していることがよく判る。

高峰三枝子「湖畔の宿」1940
 作詞:佐藤惣之助/作曲:服部良一
 『SP盤復刻による懐かしのメロディ 高峰三枝子』日本コロムビア(1993)
 高峰三枝子(1918-1990)は、歌でも成功した映画女優の代表例。
 テレビのない時代、映画は流行歌を生み出す有力なメディアであった。

灰田勝彦「アロハ・オエ」1935
 『青空〜あなたとならば/川畑文子・ベティ稲田と仲間たち』BAYBRIDGE/テイチク(1998)
 ハワイ出身の灰田勝彦は、流行歌手となる以前から、ハワイアン音楽の歌手として活躍していた。

ヴィック・マックスウェルと彼のダンス・オーケストラ
 「夢去りぬ LOVE'S GONE」1939
 作詞:V.Maxwell-Hatter/作曲:Hatter
 『服部良一全集』日本コロムビア(1992)
 1936-1940年、日本コロムビアの洋盤部門から出ていた「ヴィック・マックスウェル楽団」最大のヒット曲。当時は誰もが海外のバンドと信じていた。

李香蘭(山口淑子)「夜来香」1944? 上海録音
 作詞/作曲:金 玉谷(黎 錦光?)
 『SP盤復刻による懐かしのメロディ 李香蘭』日本コロムビア(1993)
 中国語のオリジナル録音版。
 


第4回(5月12日):  西村 秀人(上智大学)
             「戦後日本におけるラテン音楽の受容」
「戦後日本におけるラテン音楽の受容」

0、戦前の状況
 戦前の「軽音楽」=ジャズ、タンゴ、ハワイアン
 タンゴ(tango):1920年代ヨーロッパ経由=日本人タンゴ・バンドは多数点在
 ルンバ(rumba)、コンガ(conga)などのキューバ系のラテン・リズム
 :1930年以降欧米経由=日本では主として歌手、他分野のバンドのレパートリー
 ラテンの専門バンドはなく、レコードを通じた情報吸収が中心
 →いずれも基本的にはダンス・ステップの一種としての受容

1、戦後日本軽音楽界の変化
 進駐軍の流入→新しいジャズ・ラテン曲の到来(進駐軍にはメキシコ・プエルトリコ系も)
 進駐軍放送の影響→最新のラテン・ヒット曲
 新しいレコードの発売:1950年代初め頃から
 戦前の人気バンド中心から、戦後の好みの変化を反映した新進グループの登場
  1948年 早川真平とオルケスタ・ティピカ東京結成(歌手:藤澤嵐子)
  1949年 東京キューバンボーイズ(指揮:見砂直照)結成
  1952年 坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア結成
  1954年 有馬徹とノーチェ・クバーナ結成

 主な活動場所:コンサート(日比谷公会堂、渋谷公会堂など)
       ラジオ(NHK・AM、1960年代後半からFMも)
       将校クラブ・進駐軍関係
       キャバレー(旧進駐軍用施設から発展:
             エスカイヤ、美松、金馬車、雅叙園、クインビー)
       ダンスホール(飯田橋松竹、銀座貿易会館、溜池フロリダ)
       カフェ(昼の部・夜の部、コーヒー代で生演奏、1955−1965年頃)
       鑑賞団体(労音、民音など、1960年代)
 →「踊る」受容から、「聞く」「観る」「イージーリスニング」など多様化
 参考データ:1956年日本音楽家ユニオン東京支部のリスト
  スイング部会 79楽団(内ラテン系7)
  タンゴ部会  54楽団(内ラテン系8)
  横浜特別地区委員会 19楽団、13個人(内タンゴ系3)
  〜他に名古屋、大阪、神戸を拠点とするタンゴ・ラテンのバンドが多数存在

2、日本でのラテン音楽のブーム
 1949年   マンボ(キューバ)    1962年頃  クンビア(コロンビア)
 1954年頃  バイヨン(ブラジル)   1963年   ボサノバ(ブラジル)
 1955年   チャチャチャ(キューバ)  
 1955年頃  メレンゲ(ドミニカ)   1975年頃〜 サルサ(ニューヨーク)
 1956年   カプリソ(トリニダート) 1975年頃〜 フォルクローレ
 1959年   パチャンガ(キューバ)  1970年代後半 レゲエ(ジャマイカ)
 1960年頃  スク・スク(ボリビア)  1980年代半ば タンゴ・ダンス
 1961年頃  ドドンパ(フィリピン)  1990年代半ば アストル・ピアソラ

   〜1960年代半ばまではニュー・リズム=ニュー・モードの図式

3、ラテン・アメリカ音楽の「日本化」の諸側面
 a)日本曲のアレンジ:キャバレー等での需要、商業主義的側面、外国アーティストのお土産
〜「ラテン・リズムにおける日本民謡集」「アルゼンチン・タンゴ・ミ−ツ・ジャパン」「これこそラテン尺八」「津軽の休日」「お座敷ラテンムード」など
 b)歌謡曲へのラテンの取り入れ
  b-1)外国曲のカバー:「コーヒールンバ」「バナナボート」「灰色の瞳」「恋心」
  b-2)和製タンゴ・ラテン:
      「黒猫のタンゴ」「お嫁サンバ」「パフィーdeルンバ」「東京バイヨン」「東京ドドンパ娘」
  b-3)トリオ・ロス・パンチョス・スタイルから歌謡ムード・コーラスへの展開:
      ロス・プリモス、ロス・インディオス、コロ・ラティーノ、東京ロマンチカ
 c)戦後のファンの持つ強い本物志向:「日本化」に対して否定的
  1960年代までのレコード・コピー中心のレパートリー(→後に批判・議論)
  1960年代半ばにラテンの全国的なモード終了→ファンの個別化
〜タンゴ・ファン、ブラジル系、フォルクローレ系、サルサ〜キューバ系
 ラテン・ジャズ、レゲエ、ラテンアメリカのロック・ポップスなど
学生活動としての伝統:各大学の中南米音楽サークル、早稲田・中央のタンゴ・バンド

世界レベルで活躍する”本格的”な日本人アーチストの活躍
 小松亮太(バンドネオン)、ルシア塩満(アルバ)、オルケスタ・デ・ラ・ルス(サルサ)
オルケスタ・デル・ソル(サルサ)、オルケスタ・アストロリコ(タンゴ)
瀬木貴将(サンボーニャ)、エルネスト河本(ケーナ)、ソンコ・マージュ(ギター、フォルクローレ)
小野リサ(歌&ギター、ブラジル)、佐藤正美(ギター)


参考音源一覧(*は時間の都合で講義の際には省略されました。)

<戦争直後の録音>
1.悲しみは溢れて/オルケスタ・ティピカ・ビクトール(1948)<「悲壮ソナタ」のアレンジ>
2.アニトラ・マンボ/東京キューバン・ボーイズ<「アニトラの踊り」のアレンジ>
<ラテンアメリカ音楽を聴く「場」>
3.ウィズアウト・ユー〜ベサメ・ムーチョ/東京キューバン・ボーイズ<コンサート・ライブ>
4.カミニート/早川真平とオルケスタ・ティピカ東京 歌:藤沢嵐子<ラジオ放送>
5.ガウチョの嘆き/坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア<カフェ・コンサート・ライブ>
<ラテンアメリカ音楽の日本化の諸側面>
6.マンボNo.5/有馬徹とノーチェ・クバーナ<マンボ/カヴァ−>
7.泣き笑いのマンボ/美空ひばり&東京キューバン・ボーイズ<和製マンボ>
8.アンナ/浜口庫之助とアロハクバーノ<バイヨン/カヴァ−>*
9.東京バイヨン/生田恵子<和製バイヨン>
10.チャチャチャは素晴らしい/雪村いづみ ビクターオーケストラ<チャチャチャ/カヴァ−>
11.バナナ・ボート/浜村美智子<カリプソ/カヴァ−>
12.スク・スク/丘 優子<スクスク/カヴァ−>
13.東京ドドンパ娘/渡辺マリ<和製ドドンパ>
14.月夜にボサノバ(フライ・ミ−・トゥ・ザ・ムーン)/中尾ミエ<ボサノバ/カヴァ−>

<本物指向検証のための比較>
15.フレネシー/レネ・トウゼ楽団
16.フレネシー/東京マンボ・オーケストラ
17.ラ・クンパルシータ/フアン・ダリエンソ楽団
18.ラ・クンパルシータ/西塔辰之助とオルケスタ・ティピカ・パンパ
<日本曲のアレンジ>
19.タンゴ黒田(黒田節)/オルケスタ・ティピカ・コロムビア(日本)*
20.黒田節/オラシオ・サルガン楽団*
21.スキヤキ(上を向いてあるこう)/早川真平とオルケスタ・ティピカ東京 歌:阿保郁夫*
22.さくらさくら/東京キューバン・ボーイズ*
23.さくらさくら/ペレス・プラード楽団*
24.さくらさくら/トリオ・ロス・パンチョス*


来日海外アーティスト&日本の楽団海外公演一覧

1953年 ザビア・クガ−ト楽団(『ルンバの王様』、2回)
    早川真平、藤沢嵐子、刀根研二(いずれもティピカ東京)アルゼンチンへ研修
1954年 フアン・カナロ楽団(アルゼンチンから初のタンゴ楽団)
    ホルヘ・カルダーラ(バンドネオン奏者、9ヶ月滞在)
1956年 ペレス・プラード楽団(『マンボの王様』)
1957年 アルマンド・フェデリコ(アルゼンチンのピアノ奏者、長期滞在)
1959年 トリオ・ロス・パンチョス(メキシコ、以後たびたび来日)
    リカルド・フランシア(アルゼンチンのチェロ奏者、長期滞在)
1960年 ペレス・プラード楽団(二度め)
    ロス・トレス・ディアマンテス(メキシコ)
    テイト・プエンテ楽団(ニューヨーク・ラテン)
1961年 フェルナンド・テル(バンドネオン奏者、2年滞在)
    フランシスコ・カナロ楽団(『タンゴの王様』)
    ホセ・ファハルド楽団(キューバ)
1962年 アルマンド・オルフィチェとハバナ・キューバン・ボーイズ(ラテン)
    マチ−トとアフロ・キューバン・オーケストラ(ニュ−ヨ−ク・ラテン)
1963年 エドゥアルド・ファルー(アルゼンチン・フォルクローレ)
    イマ・スマック(ペルー)
1964年 アタウアルパ・ユパンキ(アルゼンチン・フォルクローレ)
    キンテート・レアル(タンゴ)
    メキシコ・フェスティバル(マリアチ・バスガス他)
    早川真平とオルケスタ・ティピカ東京、中南米公演
1965年 オスバルド・プグリエーセ楽団(タンゴ)
1966年 坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア、北米、中南米、スペイン公演
    アルフレッド・ハウゼ楽団(コンチネンタル・タンゴ)
    エルマノス・アバロス(フォルクローレ)
〜この他にフィリピンのラテン・バンドがキャバレーなどに出演
→日本のラテン・タンゴの動向にも影響、特に本物指向の強化
 

作成協力:槌矢裕子・関田夕香


第5回(5月19日):  後藤 雅洋(四谷「いーぐる」店主)
             「ジャズ喫茶という空間」
<この回は配布プリントなし。以下は、受講生によるメモ等を参考に、山田がまとめたものです。>

  • ジャズ喫茶の歴史
      戦前から(おそらく一部のマニア向けで)存在した。今の若者のクラブに匹敵するもの。
      油井正一氏の話(『ジャズ解体新書』)
      戦争が始まり、一夜にして浪花節喫茶になった店も。
      →営業できない状態、ジャズは敵性音楽だから。
      戦後に復活。(昭和20〜30年代)
      守安祥太郎のエピソード(『そして風が通り抜けていった』)
      進駐軍用の娯楽施設などでジャズが演奏される
      1961年のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの来日を契機に東京で増える

  • ジャズ喫茶の営業形態
      真面目派 (例えば、新宿・二光裏の「DIG」)
        純粋に音楽を聞く。店内では喋ってはいけない。
      軟派 (例えば、新宿・歌舞伎町の「BABY GRAND」)
        文字どおりナンパ目的。
        黒人兵(駐留軍〜ベトナム帰休兵)目当ての若い女性が集まるような喫茶店もあった。
      ...どちらも20-30坪の狭い店
      後者のタイプの店でよく流れた曲(例えば「The Sidewinder」)を前者の方でリクエストすると...
        →嫌な顔をされたり、無視される
      ただし、当時の「ジャズ喫茶」の範疇はあいまいだった
        銀座「ACB(アシベ)」のようにロカビリー中心の大きな踊れる空間のある店もこう呼ばれた。
      全盛期には、レコードの価格水準が(物価換算すると)現在の10倍くらいと高かった。
        →ふつうの喫茶店のコーヒーが100円の頃、ジャズ喫茶では130円くらい。
        →ソース(レコード等)の相対的価格低下と、ジャズ音楽のポテンシャルの低下がジャズ喫茶を衰退させた。

  • ジャズ喫茶の社会的意義
      1960年代 ベトナム戦争や左翼学生運動が盛ん
      ジャズ=黒人音楽=被抑圧者の音楽=は反体制的と考えられた
        →景気付けにジャズを聞いてデモに行く、ということがあった。(例えば、コルトレーン)
      ジャズに惹かれていろんな人が集まって情報交換の場になった。(特に地方都市)
        →例えば、一時期の「ジャズ・ヴィレッジ」には、
         永山則夫が早番の店員、ビートたけしが遅番の店員でいて、中上健二が客で通っていた
      1972年頃にジャズを取り巻く環境が大きく変化した
        連合赤軍事件に象徴される、左翼幻想の崩壊。
        フュージョンの台頭

  • プレイリスト
    • 1961 ジャズ・メッセンジャーズ「モーニング」来日記念盤
    • 1963 リー・モーガン「サイドワインダー」
    • 1961 ジョン・コルトレーン「スピリチュアル」ヴィレッジ・ヴァンガードのライブ
    • 1972 チック・コリア「リターン・トゥ・フォエヴァー」
 

第6回(5月26日):  杉原 志啓(音楽評論家/学習院女子大学非常勤講師)
             「ロックン・ロールの受容」
1.ロックン・ロールの語意
「Rock'n RollとRock」
2.ロックン・ロールの神髄
「ロージー&ジ・オリジナルズ物語」
3.ロックン・ロールの受容パターン
「カヴァー・ポップスの時代」
付論:定着から発展・普及・一般化
「1964-1969年」

参考文献
Edited by Donald・Clarke.
The Penguine Encyclopedia of Popular Music
(Penguine Books,1990)

Edited by Dave・Marsh with John・Swenson.
The Rolling Stone Record Guide
(Rolling Stone Press,1979)

Donald・Clarke.
The Rise and Fall of Popular Music
(Penguine Books,1995)

キャサリン・チャールトン著、佐藤実訳
『ロック・ミュージックの歴史』(音楽之友社、1996年)

高島弘之『ヒット・チャートの魔術師』(紀尾井書房、1981年)

川端茂『レコード産業界』(教育社新書、1979年)

『漣健児カバー・ポップスの時代』(バーン・コーポレーション、1998年)

『秘蔵シングル盤天国 洋楽編』(バーン・コーポレーション、1996年)

  • プレイリスト
    • Rosie and the Originals "Angel Baby"
    • Rosie "Lonely Blue Nights"
    • 飯田久彦「ルイジアナ・ママ」
    • Connie Francis "Pretty Little Baby"
    • 中尾ミエ「可愛いベイビー」
    • 弘田三枝子「バケーション」

作成協力:槌矢裕子・高村雅美


第7回(6月2日):  「音源紹介と解説(2) 戦後篇」担当:山田晴通

[プレイリスト](演奏順...当日の配布資料は年代順)

並木路子・霧島 昇「リンゴの唄」1945
 作詞:サトウハチロー/作曲:万城目 正
 『SP盤復刻による懐かしのメロディ 並木路子』日本コロムビア(1995)
 戦後初の松竹映画「そよかぜ」の主題歌にして、戦後最初の大ヒット曲。
 当時、並木はSKDの女優だったが、この曲の成功で歌手に転じた。

笠置シヅ子「東京ブギウギ」1947録音[1948発売]
 作詞:鈴木 勝/作曲:服部良一
 『服部良一全集』日本コロムビア(1992)
 服部/笠置による一連のブギ作品最初のヒット。
 「敗戦で虚脱状態だった日本人にカツを入れた忘るべからざる作品」と評される。

藤山一郎・奈良光枝「青い山脈」1949
 作詞:西条八十/作曲:服部良一
 『服部良一全集』日本コロムビア(1992)
 石坂洋次郎の小説を原作とした東宝の青春映画『青い山脈』の主題歌。
 戦後の復興期を代表する「青春歌謡」として、長く歌いつがれている。

美空ひばり「悲しき口笛」1949
 作詞:藤浦 洸/作曲:万生目 正
 『映画主題歌集 vol.1』日本コロムビア(1995)
 12歳の美空ひばりの初主演映画『悲しき口笛』の主題歌にして、最初のヒット曲。
 「天才少女」は後に「歌謡界の女王」となる。不幸な私生活も芸能人の典型だった。

江利チエミ「カモン・ナ・マイ・ハウス」1952
 Come On A My House (R.Bagdasarian/W.Saroyan) 訳詞:あらかはひろし/編曲:福井利雄
 『決定版 江利チエミ』キング(1998)
 代表曲「テネシー・ワルツ」以上に江利チエミの資質を示しているカバー曲。

三橋美智也「哀愁列車」1956
 作詞:横井 弘/作曲・編曲:鎌多俊与
 『オリジナル録音による三橋美智也全曲集』キング(1995)
 民謡出身の三橋は、魅力的な高音の美声で、郷愁を誘うヒット曲を連発した。

曽根史郎「若いお巡りさん」1956
 作詞:井田誠一/作曲・編曲:利根一郎
 『有楽町で逢いましょう〜昭和30年代前半〜』ビクター(1994)
 時代背景が風俗描写の中に巧みに描き込まれている。

フランク永井「有楽町で逢いましょう」1957
 作詞:佐伯孝夫/作曲:吉田 正/編曲:佐野 鋤
 『有楽町で逢いましょう〜昭和30年代前半〜』ビクター(1994)
 「低音の魅力」として知られたフランク永井の代表曲。
 都市の風俗描写が巧みに描き込まれた詞にも特徴がある。

有馬徹とノーチェクバーナ「アロハオエマンボ」1956
 編曲:有馬 徹
 『南国の夜』テイチク(1991)
 ラテンバンドがハワイアンの名曲をマンボで演奏するという趣向。

坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア「田原坂」1958
 編曲:岩見和雄
 『FUJIYAMA TANGO』ビクター(1998)
 1950年代後半に同種の企画盤が多数作られた、日本の曲のタンゴアレンジの一例。

和田弘とマヒナスターズ「泣かないで」1959
 作詞:井田誠一/作曲:吉田 正/編曲:和田 弘
 『有楽町で逢いましょう〜昭和30年代前半〜』ビクター(1994)
 ハワイアンからムード歌謡への移行が良く判る事例。

平尾昌晃「リトル・ダーリン」1958
 Little Darlin' (M.Williams) 訳詞:音羽たかし/編曲:村山芳男
 『ベスト・ヒット』キング(1993)
 ロカビリー最大の人気者のデビュー曲はthe Diamondsのカバー曲。
 ブームの中で平尾はオリジナル曲もヒットさせ、後には作曲家としても成功した。

伊東ゆかり「ラリパップ(誰かと誰かが)」1958
 Lollopop (J.Dickson/B.Ross) 訳詞:音羽たかし/編曲:村山芳男
 『ラリパップ』キング(1997)
 小学校5年生でデビューした伊東ゆかりの第2弾シングルで、最初のヒット曲。
 彼女が中尾ミエらとともにカバー曲のヒットを連発するのは1962年頃からの数年。

ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」1963
 作詞:岩谷時子/作曲:宮川 泰
 『ザ・ピーナッツ・シングルズ〜恋のバカンス〜』キング(1999)
 ジャズ出身の作曲家である宮川による和製ポップス。

東京ビートルズ「抱きしめたい」1964
 I Want To Hold Your Hands (J.Lennon/P.McCartney) 訳詞:漣 健児/編曲:寺岡真三
 『meet the 東京ビートルズ』ビクター(1994)
 ビートルズの世界的な大ヒットも、すぐさま日本語でカバーされた。

橋 幸夫「恋のメキシカン・ロック」1967
 作詞:佐伯孝夫/作曲:吉田 正
 『スイム!スイム!スイム!』ビクター(1990)
 「潮来笠」(1960)でデビュー後、多数のヒットを飛ばした橋の「リズム歌謡」。
 歌謡曲が実に貪欲(かつ、いい加減)に洋楽を消化してきたかを象徴する作品。


第8回(6月7日):  小泉 恭子(兵庫教育大学)
             「学校教育におけるポピュラー音楽の聴かれ方」
<譜例・図版は省略>
 

表@ 平成8年度版 音楽教科書掲載のビートルズ・ナンバー
ポールの曲
1.《アンド・アイ・ラヴ・ハー》(KG高3斉)
2.《イエスタデイ》(KG中器)
3.《ミッシェル》(KS高1合、O高3斉)
4.《ヘイ・ジュード》(KG中2・3斉、KS中器,O高2合)
5.《オブラディ オブラダ》(T小6器、O中器、O高合)
6.《レット・イット・ビー》(KS高1斉、KG高2斉、O高2斉、KG高3斉)
7.《ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード》(KG高2斉)
ジョンの曲
1.《ノーウェジアン・ウッド》(KG高3合)
2.《イマジン》(O高2斉)
KG:教育芸術社、KS:教育出版社、o:音楽之友社、T:東京書籍
小:小学校、中:中学校、高:高等学校
合:合唱、斉:斉唱、器:器楽合奏
 

1.ジョンの音楽
 A 声   《ツイスト・アンド・シャウト》《アイ・アム・ザ・ウォルラス》  《愛こそはすべて》(譜例1)
    音楽と歌詞の関係の3つの様相(ミドルトン)  affect: words as expression   
                           story: words as narrative
                          gesture: words as sound
 B ブルースの影響 《ア・ハード・デイズ・ナイト》(譜例2)
 C コード進行 《恋に落ちたら》
 D ミュジーク・コンクレート 《グッド・モーニング・グッド・モーニング》《 レボルーション9》
 E 一人称としての「愛」 《アクロス・ザ・ユニバース》《ジュリア》《ビコーズ》
 
2.ポールの音楽
 A 旋法の多用(フォーク・ソング調)
 B 編曲 《エリナー・リグビー》《シーズ・リービング・ホーム》
 C ブラック・ミュージック志向 《オー!ダーリン》《シーズ・ア・ウーマン》 《アイム・ダウン》

3.教科書の中のビートルズ
 《ヘイ・ジュード》(譜例3:ブルー・ノートの欠落)
  《オブラディ オブラダ》(譜例4:リズムの単純化)

4.ビートルズとジェンダー
 1950〜1960年代前半 cock rock/teenybop

    ☆ポールの歌の聴取者  主として夢見るティーンエージャー女子
      ◇ポールの持つ「隣の男の子」的イメージ →母性本能を刺激 →良妻賢母への道
    ☆ジョンの歌の聴取者  主としてミュージシャン、アーティストを目指すマニア系男子
      ◇ジョンのアート志向(ブルース、ロックンロール →パンク、ハウス等の先駆)
       特定の女性への愛(ポップスの描く虚構の愛から逃れるため、私生活を露呈)

    ☆☆ ビートルズの音楽が聴き手の内にジェンダー・イデオロギーを構成するプロセスは複雑であるはずなのに、学校音楽はポピュラー・ソングの伝統的なジェンダー二分法により、ビートルズ・ナンバーを選別(去勢:effeminate)してしまっているのではないか?

【諸国の教科書におけるビートルズ】
 ex.1Sturman, Paul (1988=1995) Creating Music around the World. Cambridge: Cambridge University Press.
 ex.2Bennett, Roy (1992) Investigating Musical Styles. Cambridge: Cambridge University Press.
 ex.3Lambert, Richard (1990) GCSE Music. Harlow: Longman.
 ex.4Kleinen, Gunter. et al. (1980) Musikunterricht Sekundarstufe Band 1 Mainz: Schott.

※参考文献
    Frith, Simon, and Angela McRobbie (1990)
      “Rock and Sexuality.” in On Record. ed. by Simon Frith and Andrew Goodwin, London: Routledge.
    メラーズ、ウィルフリッド (1973=1984)
      『ビートルズ音楽学』(Twilight of the Gods: The Beatles in   Retrospect. London) 柳生すみまろ訳、東京:晶文社。
    Middleton, Richard (1990)
      Studying Popular Music. Milton Keynes: Open University Press.
    Shepherd, John (1991)
      “Music and Male Hegemony.” in Music as Social Text. Cambridge: Polity Press.


第9回(6月16日):  五十嵐 正(音楽評論家)
             「日本におけるブルースの受容/聞かれ方」
1903年 W.C.ハンディがミシシッピ州タトワイラーの駅で、黒人の男がポケット・ナイフを使ったスライド・ギターを弾きながら唄う“今まで聴いたなかで最も風変わりな音楽”を耳にする
〜ブルーズに関する最も古い記録のひとつ
1914年 W.C.ハンディが「セント・ルイス・ブルース」の楽譜を出版
1920年 最初の“ブルース・レコード”、マミー・スミスの「クレイジー・ブルース」がヒット
マ・レイニーやベッシー・スミスなどの女性歌手による“クラシック・ブルーズ(ヴォードヴィル・ブルーズ)”が競って録音されるようになる
1925年 ブラインド・レモン・ジェファスンがパラマウントに初録音
〜南部のカントリー・ブルーズ歌手の録音が始まる

1931年 「影を慕いて」「酒は涙かため息か」藤山一郎(古賀政男作曲)
〜現在の演歌の原型
1937年 「別れのブルース」淡谷のり子“ブルースの女王”(服部良一作曲)
1938年 「雨のブルース」
(我が身を嘆く厭世の歌詞はジャズ評論家野川香文によるもの。
 「日本でブルースというと、淡谷のり子であり、ビリー・ホリデイであった」
 「哀しい歌は全部ブルースということになってしまった」
→歌謡曲の定番のひとつ、地方の盛り場のブルース[「柳ヶ瀬ブルース」「伊勢佐木町ブルース」など]が生まれることになる)


「スピリテュアルズからスウィングまで」(NYカーネギー・ホール)
黒人音楽を米国主流社会に初めて紹介した歴史的コンサート
〜ブギウギ流行のきっかけに

1943年 ルイ・ジョーダンがヒットを飛ばし始める〜ジャンプ・ブルーズの流行
1948年 「東京ブギウギ」笠置シヅ子(服部良一作曲)
「買い物ブギ」[大阪弁を使った最初の歌謡レコード]

マディ・ウォーターズの最初のヒット「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」
1951年 ビッグ・ビル・ブルーンジーが最初の欧州公演を行う

1954年 エルヴィス・プレズリー「ザッツ・オールライト」でデビュー
1955年 チャック・ベリー、ボ・ディドリー、リトル・リチャードら黒人ロックンローラーが白人の若者の間で人気者となる
1956年 プレズリーの「ハートブレイク・ホテル」が全米第1位
日本語版を小坂一也が唄う
1957年 第7回&第8回ウェスタン・カーニヴァル
〜日本のロカビリー・ブームに火がつく 〜ウェスタン・バンドのロカビリーへの転身 〜ロカビリー3人男登場(プレズリーやジーン・ヴィンセントのカヴァー
1958年 ウェスタン・カーニヴァルが日劇に会場を移す
ロカビリー3人男他レコード・デビュー

マディ・ウォーターズが最初の英国公演を行う
1959年 ロカビリー歌手の歌謡ポップスへの転身。ポール・アンカ来日

1960年 マディ・ウォーターズがニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演
〜大変な評判になり、白人聴衆がブルーズに興味を持つきっかけとなる
1961年 ボブ・ディラン、デビュー(日本でアルバムが紹介されたのは65年)
1962年 ビートルズ、デビュー
1964年 ビートルズの米国上陸と制覇
1965年 ヴェンチャーズ来日〜エレキ・ブーム爆発
ポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドがデビュー
1966年 ビートルズ来日
グループ・サウンズ(GS)ブーム始まる

クリーム(エリック・クラプトン)がデビュー

1967年 第1回関西フォーク・キャンプ開催
〜カレッジ・フォーク[66年の「バラが咲いた」]からアングラ・フォーク/反戦フォークへの転換
1968年 高石友也「受験生ブルース」ヒット
岡林信康「山谷ブルース」でレコード・デビュー
「モータウン・フェスティヴァル」(スティーヴィー・ワンダー他来日)


1969年 ゴールデン・カップスのアルバム「ブルース・メッセージ」
パワーハウスやブルース・クリエイションのデビュー
〜GS・ブームからブルース・ロックへの転換
第1回全日本フォーク・ジャンボリー(岐阜県中津川)


1971年 B.B.キング初来日(翌年早くも再来日)
1972年 ウェスト・ロードがウェスト・ロード・ブルース・バンドと改名
1973年 ロックンロール・リヴァイヴァル(「ロックンロール・カーニヴァル」)
〜キャロル(矢沢永吉)のデビュー
1974年 京都を中心に、関西でブルース・バンドの活動が活発化
(ウェスト・ロード、憂歌団、上田正樹とサウス・トゥ・サウスなど)
「第1回ブルース・フェスティヴァル」開催
(スリーピー・ジョン・エステス、ロバート・ロックウッド来日)
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(宇崎竜童)「スモーキン・ブギ」
エルモア・ジェイムズの「シェイク・ユア・マネー・メイカー」をそのまま下敷きにしたノヴェルティ・ヒット(コーラス部分はルイ・ジョーダン)


1987年 ロバート・クレイ「スモーキン・ガン」のヒット
1990年 ロバート・ジョンスン「コンプリート・レコーディングス」(2枚組)
〜戦前ブルーズの録音としては記録的な売上を示す。日本でもオリコン・チャート入りし、1万枚を越す
1992年 エリック・クラプトン「アンプラグト」の大ヒット
1994年 エリック・クラプトン「フロム・ザ・クレイドル」(全曲ブルーズのカヴァー・アルバム)

第10回(6月23日): 中河 伸俊(富山大学)
             「教会、ソウル、趣味の共同体
              −日本人は黒人大衆音楽をどう受容したか」
********[p.1]***********

● 「教会、ソウル、趣味の共同体−日本人は黒人大衆音楽をどう受容したか」
          By 中河 伸俊at 東京経済大学: 1999.6.23,5限

○ 輸入音楽の受容のタイポロジー
1) 輸入音楽の流通(via.ラジオ、音楽ソフト)→ ヒット曲&マニアックなコレクション;海外アーティストの公演
2) 輸入音楽に対応する踊りやファッション、それを容れる“場“(ex.ダンスホール、ディスコ、クラブ)の輸入 (→ 輸入音楽を使った独自のファッションや場の発明 ex.1960年代英国のモッズ)
3) コピー演奏 → オリジナル曲: a)向こうのことばで歌詞を書き、向こうのシーンに入ろうとする、b)日本語で歌詞を書く(→ しばしば4へ)
4) こちらの流行歌に輸入音楽の要素を取り込む: a)部分的な借用、b)パラダイム革新(新しい流行音楽の形式を作る)

○ 要素の取り入れを通じて、蓄積せず層化してゆく日本のPM
アフリカン・アメリカン音楽の基礎: 聖/俗を抱え込むコミュニティー→ 混血音楽だけどエスニシティの象徴(: homie, ”Boys’n Hood”)
日本: コミュニティやライフスタイルと深く関わらない→ ファッション(流行)& 趣味の共同体
愛はあるが性とは分離されがち/生活感が薄い、社会的メッセージ・宗教はない(cf.ローリン・ヒル)

○ 受容をめぐる日本特有の壁
a)音楽形式の壁、b)ことばの壁
英国におけるアフリカン・アメリカン音楽の受容と日本におけるそれの違い
日本でも、ジャズはこの問題を逃れている
c)ともいうべきミュージシャンの問題については、電子サウンド化・サンプリングと現地録音(ソニーが米メジャー!)によって大幅に解消された

○今のブーム: なぜディーヴァ〈歌姫〉中心か
 男はラッパー(主張するやつら)という分業?; これがパラダイム革新を生むか?

○まとめ
 アフリカン・アメリカンのポピュラー音楽は、まず、1)英米の主流音楽をフィルターにして間接的に、そして、2)近年は直接に、ダンスを一つの契機にしながら、そのリズム感と身体性を日本のポピュラー音楽に提供しつづけてきた
********[p.2]***********

[年表]
(年代)アフリカン・アメリカン音楽日本への受容
1900・ジャズ、ブルーズ成立
1920・ジャズ、ダンス音楽として広がる
・ゴスペルの作曲活発化
・ダンス・ホールの輸入
・流行歌に影響(20sにジャズ・ソング)
1930・大編成のスウィング・バンド盛んに
・ジャイヴ・コーラス・グループの流行
(30s後半から戦争体制下で米音楽を排斥)
1940・西海岸でジャズが小規模バンドのリズム&ブルース(R&B)に“進化”
・ジャズが芸術化しモダン・ジャズに(→50s)
・敗戦後、ジャズが流入
・ブギウギ・ブーム(cf.「東京ブギウギ」:48)
1950・シカゴ・ブルース台頭&モダン・ブルース確立
・ロックン・ロール盛んに(黒人御三家も流行る)
・ドゥー・ワップ・コーラス全盛
・ジャズ・コンサート・ブーム(52-54)
・ジャズ喫茶を基盤にロカビリー・ブーム
1960・R&B、ゴスペル色を強めたソウル・ミュージックになる(ゴスペル歌手がソウルに大量転向)
・ファンキー・ジャズと前衛ジャズ
・モータウン&スタックス
・60年代後半にゴー・ゴー喫茶
・和田アキ子、キングトーンズ、ゴールデン・カップス(柳ジョージ)
1970・ニュー・ソウル&ファンク(実は60年代末〜)
・スウィート・コーラス・グループがブームに
・ディスコ・ブーム(とくに後半〜80s始め)
・ジャズがフュージョン化
・ソウル・アーティストの来日、本格化
・ソウルのマニア誌登場
・フィンガー5、上田正樹、金子マリ
・ディスコの流行
1980・マイケル・ジャクソン、スーパー・スター化(cf.マハラジャ)
・ラップ&ヒップホップ本格的にブレーク
・サンプリング、打ち込みサウンド、ハウス
・ディスコ、ブランド化
・久保田利伸
・「ダンス甲子園」
・J.ラッパー、ブレーク(ex.「だよね」)
・クラブの輸入
・小室哲哉、ジャパニーズR&B(cf.宇多田)

第11回(6月30日): 渡辺 潤(コミュニケーション学部)
             「ロックを聞いていた若者たち」
 

ポピュラー音楽と日本人

1999/6/30

ロックを聴いていた若者達

渡辺潤


*ロックはアイデンティティの音楽である
「アイデンティティ」identity
「近代化」modernization
「青年」adolescence, youth

*ロックは商品化された音楽である
45回転シングルレコード
「ラジオ」
「ティーンエージャー」
「ロックンロール」

*ロックは特殊な時代状況から生まれた音楽である
「アイデンティティ」を自覚した若者
経済的・技術的基盤
政治状況(ベトナム戦争、公民権運動、大学紛争、ヒッピー文化………)

*ロックの新しい波とその背景
「パンク」
「レゲエ」
「ラップ」
東欧と中国

*日本の場合


 図については
 http://www.tku.ac.jp/~juwat/pdf.html
 の「ロック関連資料PDF版」
 ただし見るためにはAdobe Acrobat Readerが必要です。

 

第12回(7月7日): 難波 弘之(音楽家/東京音楽大学非常勤講師)
            「プログレッシブ・ロックを聞く」
 

<この回は配布プリントは、難波先生の1992年の旧稿です。>  

 
  − プログレ以前、プログレ前夜 −  
  by 難波弘之  
   今日の"S.O.N."の難波弘之プロデュース・デイは、予告パンフによるとまるでクリムゾンの曲をやるかのような期待を抱かせるものになっていましたが、僕の企画意図や内容と食い違っているので、簡単なパンフを作ってみました。
 今夜は、プログレ出現前夜、出現寸前の状況にスポット・ライトを当ててみたいのです。ですから後年いわゆる"プログレ"にカテゴライズされたグループの曲は演奏しません。(それらは、秋に予定されている"プログレ・カヴァー・ナイト"で演奏されるでしょう)今日は特に僕が中〜高校時にリアルタイムで聴き、夢中になり、大きな影響を受けたサウンドをやってみたいのです。それらは一言で言うとサイケデリック、アバンギャルド、レコード各社ではアート・ロックあるいはニュー・ロックと名付けていた音楽で、のちに様式化されてしまったヘビ・メタやプログレ、あるいは産業化されたロックやポップスよりも、もっと自由なものでした。
 66年頃から始まったこのサイケデリック・ムーヴメントのわずか4年間のうちに、多くのアーティストやバンドが輩出したのです。それまでの単純なR&RやR&B(もちろんそれらも好きですが)に飽き足らず、新しい方法やスタイルが模索されたこの時期のエネルギー、アーティスト・パワー、楽曲やアレンジの力は、(今聴き返すと古びていたり稚拙であったりしても)ものすごいものがありました。
 その萌芽は、やはりビートルズの「リボルバー」と、クリームの出現でしょう。ビートルズはスタジオおたく化し、様々なレコーディングの冒険を始め、クリームはロックに即興(アドリブ、インプロヴィゼーション)を取り入れました。この同じ66年にアメリカ東海岸(ママ)ではドアーズが結成されています。ドアーズはカリスマ的ヴォーカリスト、ジム・モリソンの象徴的な詞と独自の声、それに"ストレンジ"なアレンジや演奏スタイルで注目を集めました。
 67年にはプロコル・ハルムのシングル「青い影」がヒットしました。バロック風のオルガンにR&B風のヴォーカルを乗せた、一聴忘れがたい曲です。ピンク・フロイドが、ヴァニラ・ファッジがナイスが、この年次々とデビューします。
 ヴァニラ・ファッジはオリジナルよりも斬新なアレンジのカヴァーを得意とし、キース・エマーソンの在籍したナイスは、後年EL&Pで開花するジャズやクラシックのロックへの導入を早くもこの時期始めています。この年はまたビートルズが「サージャント・ペパーズ〜」を、ローリング・ストーンズが「The Satanic Majesties Request」を発表、それまでのポップ・ソングや"R&R、R&B"路線から大きく離れた実験をしています。LP1枚に物語性を持たせたコンセプト・アルバムはこのあとキンクスなども試み、69年ザ・フーの「トミー」で完成されます。この方法論が、70年代のピンク・フロイド「ザ・ウォール」やジェネシス「眩惑のブロードウェイ」などにつながっていくのです。
 68年にはロック史上に不滅の足跡を残した2大グループ、ディープ・パープルとレッド・ツェッペリンがデビューしています。初期のディープ・パープルはカヴァーも手がけ、中期以降の完成されたハード路線とは異なるサイケデリックなサウンド・カラーを持っていました。この2大グループほどA級ではないにしろ、この年アルバム「ヘヴィー」でデビューしたアイアン・バタフライも忘れ難いバンドです。また同じ年、イギリスのジャズ・ロック・バンド、コラシアムもデビューしています。クリームやコラシアムは、後期クリムゾンに影響を及ぼしていると見られます。さらに70年代に入ってサイケの落とし子として盛んになる"グラム"の貴公子、マーク・ボランのティラノザウルス・レックスもこの年のデビューです。
 続く69年にはプロコル・ハルムの名作アルバム「ソルティ・ドッグ」が出、イエスがデビューし、ゾンビーズは惜しくも解散しますが、クラップとコーラスとジャズっぽいオルガンを組み合わせた「ふたりのシーズン」がヒットし、そして秋にはいよいよキング・クリムゾンの「宮殿」がリリースされ、時代は"サイケ"から"プログレッシヴ"へと向かうのです。
 それまでなかったものを求めて、なぜこのようなムーヴメントがわき起こったのかはやはり当時の時代状況を無視しては説明できません。アメリカは泥沼のベトナム戦争に加担していき、自由・愛・平和を求めるステューデント・パワーやヒッピーたちのフラワー・ムーヴメント、ベトナム反戦運動の高まりがありました。"管理"や"体制"に対する反発・反抗が、こうした"何でもあり"の自由なロックやポップのスタイルを作り出していった一因と言えます。
 そして注目していただきたいのは、当時こうしたプログレッシブなロック(この用語を初めて目にしたのはアイアン・バタフライの「ヘヴィー」のジャケ裏の朝妻一郎のライナー・ノーツでした)を演奏するバンドやアーティストたちは、イギリスにもアメリカにもいたのです。70年代後半のように、プリティッシュとアメリカン、あるいは西海岸と東海岸といったサウンド上の区別はあまりなかったし、当時リスナーだった僕たちにとっては、どこの国のものだろうが、カッコ良ければそんなこと関係なかったのです。
 黒人音楽にも、こうした動きは当然ありました。65年5月に黒人指導者マルコム・Xが暗殺され、8月に黒人投票法成立、67年7月にデトロイトとニューヨークで黒人暴動、68年4月に黒人牧師マルチン・ルーサー・キングが暗殺される---といった背景の中で、66年ジミ・ヘンドリックスがシングル「ヘイ・ジョー」でデビュー、67年には「パープル・ヘイズ」がヒットし、5月にジニ・ヘンドリックス・エクスペリアンスがデビュー・アルバムを出します。エリック・クラプトンが「誰も彼のようには弾けない」と評したジミ・ヘンは、アメリカよりもむしろイギリスで先に火がつきました。
 ファンクの元祖、といわれチョッパー・ベースの父ラリー・グラハムが在籍したスライ&ファミリー・ストーンもこの年デビューしています。今日リヴィング・カラーやレニー・クラヴィッツ、プリンスなどがもてはやされていますが、ブラック・ロックやブラック・コンテンポラリーのルーツをたどれば必ずジミ・ヘンやスライ・ストーンに行きつくはずです。ウッドストックのビデオをご覧になればおわかりになると思いますが、圧倒的な白人勢の中で、むしろ一番カリスマ性のあったのはジミ・ヘンとスライです。
 スライは確かにファンクの元祖ですが、同時にすぐれてロックでもあったのです。スライはまたラディカルなメッセージ性を持っていました。
"Dance To The Music, A Message That Say's, All The Squares Go Home"
"America Is My Home" "Say It Loud I'm Black".........。
 白人の中でも、もちろんビートルズやストーンズばかりでなく、ソウルやブルース、リズム&ブルースといった黒人音楽の影響は大きいものでした。ポール・バターフィールドやマイケル・ブルームフィールド、アル・クーパーや初期のBS&Tたシカゴ、あるいはピンク・フロイドのデイヴ・ギルモアにもそれは認められます。ジェネシスのメンバーでさえ、ソウルやモータウンを聴いて育ったのです。そう、黒人音楽の嫌いなミュージシャンなど、いないのではないでしょうか。
 今日はそこまで手をひろげてはできませんが、難波弘之プロデュースの日ですので、当時ユニークなキーボード・プレイヤー(そのほとんどがオルガン)を擁していた僕の大好きないくつかのバンドの曲を演奏します。あの時期の自由な精神や熱気が少しでも皆さんに伝わればうれしいな、と思います。

 
1992. 7.28.  
Hiroyuki Namba

 

第13回(7月14日):  「音源紹介と解説(3) ロック篇」担当:山田晴通

  <この回は配布プリントなし。以下は、プレイリスト。>

ロック音楽の多様な形態:
 ロック音楽をほとんど聴いていない方のための、ロック音楽の多様な形態のサンプル。
  • ロックン・ロール Rock & Roll
    • Bill Haley & The Comets / Rock Around The Clock (1954=大ヒットしたのは1955)

  • ハード・ロック Hard Rock
    • The Beatles / Helter Skelter (1968)
    • Deep Purple / Highway Star (1972)

  • プログレッシブ・ロック Progressive Rock
    • Yes / Close To The Edge (1972)

  • パンク・ロック Punk Rock
    • Sex Pistols / God Save The Queen (1977)

 

講義資料およびプレイリスト:後期分へゆく

レポート課題一覧にもどる

特別企画講義「ポピュラー音楽と日本人」にもどる
1999年度の講義に関するおしらせにもどる
1999年度・特別企画講義「ポピュラー音楽と日本人」講義資料およびプレイリストへゆく

現在の担当授業科目///現在の授業に関するおしらせ///....///担当講義科目関連ページへの入口///


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