コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1994

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

 発表時のテキストの誤字・脱字を訂正した部分は青字としています。
1994/01/18 年年歳歳.
1994/02/08 CATV波田町へ.
1994/02/26 冬の上高地.
1994/04/05 ビンゴ!.
1994/04/30 図書館の工夫.
1994/06/03 案内看板.
1994/06/28 朝鮮学校のこと.
1994/07/29 ダイヤルを押す.
1994/08/09 いかがわしい「電話帳」.
1994/09/14 「生き/死に」の問題.
1994/10/18 講義から学ぶ.
1994/11/19 昔の新聞.
1994/11/29 畔・畊・畦.
1994/12/21 カラオケでクリスマス.
1994/12/29 現金をいくら持つか.


1994/01/18 

年年歳歳

 松の内も終わりの頃は、年賀状の整理をしつつ、寒中見舞いを書くことになる。もらった年賀状を見て、住所変更などを確認しながら、住所録を書き換えていると、旧知の人たちが、それぞれに人生の節目を迎えていることを知ることになる。
 職場の異動や転居は、挨拶状をもらっていてもうっかり忘れていて、年賀状で改めて気づくことが少なくない。以前、釧路から奈良に移った友人が、今度は茨城県のつくば市にいる小松にいる先輩は、今年中に横浜へ移るという。そうかと思うと、一時は福島と茨城の三カ所に家を構え、精力的に活動していた恩師からの賀状には、退職して住所が一つだけになったことが記されていた。
 同じ転居でも、住所の細かい変化が興味深いこともある。アパートからマンションへと移った後輩。結婚して実家近くのアパートに新居を構えた教え子。同じマンションの中で部屋番号だけが変わった友人。中には、手元の住所録と少しだけ番地が違い、どちらが誤植か、判断に苦しむ年賀状もあった。
 結婚、妊娠、出産などの知らせは、類型的になりがちだが、それでも知らせる側の喜びがこちらに伝わってくるものだ。しかし、中には逆に、余り多く語りたくないことを知らせなければいけない年賀状もある。
 離婚した女性からの年賀状を今年は複数受け取った。男性の場合は、離婚してもつきあいの浅い人間にまで知らせる必要は薄い。しかし、女性の場合は姓も住所も変わることが多いから、どうしても年賀状で触れざるを得ない。言葉少ない文面の行間からは、重い痛みが伝わってくる。
 さて、清水義範の作品集『ビビンパ』(講談社文庫)に、二人の人物の二十年以上にわたる年賀状の交換を綴った「謹賀新年」という短編がある。かつての上司と部下が、上司の転勤後も年賀状の交換だけを続けるという話である。もちろん内容は架空だが、今回ここで取り上げたような話の仕掛が細部まで随所に施されていて、実によくできている。
 『ビビンパ』は昨年読んだ文庫本の中で、最も面白いものの一つだった。今年、年賀状を整理しながら、例年にも増して、何ともいえないほろ苦い感慨に浸ることが多かったのは、この短編が何度も頭をかすめたせいであったかもしれない。


1994/02/08 

CATV波田町へ

 来年四月の開局を目指している波田町のCATVが、いよいよ本格的に動き出しているようだ。新年に入り、本格的な工事の着工に向けた地区別説明会が町内各区で行われた。波田町周辺には、民間型CATVの雄・テレビ松本や、あづみ野テレビに加え、農村型の村営CATVである朝日村有線テレビや、山形村ケーブルサービスが、いち早く展開している。こうした先行例に学びながら、いわば満を持して登場しようとしているのが、波田町のCATVシステムなのである。
 波田町のCATVシステムは、従来の民間型と農村型の特徴を折衷して取り込んだユニークなもので、自治省から「リーディング・プロジェクト」つまり「先進的企画」に指定され、補助金も得ている。波田町のCATVは、民間企業も巻き込んだ官民一体の事業なのである。  テレビ松本は、松本などをエリアとするわが国有数の民間CATVである。今回のプロジェクトでテレビ松本は、町から資金提供を受け、町内全域にケーブル網を敷設する。
 一方、町は、このケーブル網を利用して、これまでの有線放送電話網の機能を発展的に継承したサービスを行うとともに、町内向けのCATV自主放送を行うのである。もちろん希望すれば、波田町でも松本市内と同じ多チャンネルCATVのサービスを利用できるようになる。
 官民協力によって、民間型と農村型の長所を兼ねたシステムができつつあることは歓迎すべきことである。地区説明会での反応なども、なかなかよいものらしい。順調に、農村型に準じた全戸加入に近い形が実現すれば、NTTとは別個の地域電話網・有線放送網とCATVが結びついた全国的にも例のない高度なシステムが構築されることになる。問題は、これをどうやって活用していくかということだろう。
 町は、ここ数年の間に、CATVを中心とした情報文化センターを実のあるものとするため、経験や資格をもった人材をいち早く確保するなど、少しずつ準備を重ねてきた。こうした蓄積を活かし、ハード面での充実と先進性に見合いように、運営ソフトの面でも、地域に根ざしたCATV・有線放送電話の素晴らしい活用法を編み出してほしいものだ。
 CATVと同様に、情報文化センターに入る予定ながら、CATVの影で見落とされがちな図書館の内容についても注目しつつ、波田町のシステムの成功を切に祈りたい。


1994/02/26 

冬の上高地

 松本平にも大雪の降った先だっての連休、私は上高地にいた。河辺林に関する調査を行うグループに同行して、まるまる三日間も、雪の中をうろうろしていたのである。
 お天気の方は、やはり寒気団のせいか全体に荒れ気味だった。初日こそ快晴だったものの、その晩からしんしんと雪が降り始め、二日目は一日中雪が降り止まず、三日目にはとうとう吹雪になった。
 私は夏場にはあちこちへ出かけて山道も歩いているが、雪道となると、まるで勝手が違う。これまでは冬の登山はもちろん、平地で雪の中を歩いた経験もほとんどなく、輪かんじきを履くのも今回が初めてだった。
 もちろん、今回も、上高地の谷底を梓川沿いに明神の辺りまで歩いただけで、登山をしたわけではない。それでも、途中で肉離れを起こして倒れたり、輪かんじきが緩んで締め直したりと、同行したベテランたちに迷惑をかける羽目に何度も陥った。随分と恥ずかしい思いもしたが、三日間の悪戦苦闘の甲斐あって、最後には無理の少ない歩き方を何とか体得できた。
 さて、こうして初めて入った真冬の上高地では、実に美しく、また厳しい自然の姿を見ることができた。氷雪の造形、風の音、複雑に駆け回る地吹雪の舞い、木々の枝から落ちる雪塊、強風に木の幹がきしむ音。そして、姿の見えない鳥のさえずり、出し抜けに姿を見せたカモシカ。いろいろなものを目にし、耳にし、感じるとき、自然の中に身を置いているという実感が、一種の爽快さとなって身体に満ちてくる
 もっとも、自然の素晴らしさと裏腹に、見ていたて残念な後継にもいくつか出くわした。それは、ルールを守らない人間の姿である。
 一例を挙げよう。上高地では、テントを張って野営できる場所は小梨平と徳沢の指定地に限られている。しかし、私たちが歩いた範囲だけでも、釜トンネル上のシェルター内に二張り、大正池付近の県道上に二張りのテントがあったほか、指定地外の河童橋付近にもいくつものテントがあった。同行したベテランたちも、道路上のテントを見たのは初めてだと驚き呆れていた。
 野営地の指定は、もちろん夏場だけのものではない。また、指定地以外での野営の禁止には、衛生関係(野営地には冬季用のトイレもある)はじめ、しかるべき理由があり、緊急避難でない限り、軽々しく無視してはいけないのである。
 バス・ターミナル脇に放置されたゴミ、冬季閉鎖された建物に無闇に近づく人、等々、ルール軽視は他にもまだある。この時期に上高地を訪れる人々は、当然、素晴らしい自然との出会いを求めてきているはずである。そうであればこそ、自然と接する場所でのルールは、きちんと守って欲しいものだ。


1994/04/05 

ビンゴ!

 先だって、好天に恵まれた日、松商学園短大では卒業式が行われた。そして、夕方には卒業記念パーティーである。昔風なら「謝恩会」というところだろうが、今の学生は「学恩に感謝する」などといった堅苦しい気風とは無縁だ。あくまでも「卒業を祝ってみんなで楽しもう」といったパーティーである。
 卒業を楽しく祝おうという趣旨は変わっていないが、ここ数年、会場や趣向は、毎年いろいろ変化してきた。
 バブル景気の華やかな頃には、自由に動き回れる立食形式だったこともあって、会場は賑やかだった。余興にバンドの演奏もあったし、仮装パーティーまがいの奇抜で大胆な装束で現れる者もいた。
 今年はなぜか着席する形になり、学生の服装もフォーマルでおとなしい。最初のうちはテーブル・マナーの講習会かと思うほど落ち着いた雰囲気だった。生演奏される音楽も弦楽三重奏で、ビバルディからサティまでを達者にこなしていた。
 そんな中で、私の記憶する限りでもこの十年間近く、変わることなく行われる余興が、今年もあった。ビンゴ・ゲームである。
 このゲームでは、予め各自に配られたカードに二十四個の数字が印刷されている。ゲームが始まると、一から七十五までのボールが入った抽選器から、一つずつボールが取り出され、数字が読み上げられる。出てきた数字が自分のカードにあれば、その位置に穴を開ける。縦横五個の平方に並んだ数字(中央の一個分は最初から穴が開いている)に次々と穴が開き、どこかで一列全部が開けば、そのカードを持っている人は「ビンゴ!」と叫んで上がりとなる。
 賭事に明るい人ならば、これが単なるくじ引きに途中経過の妙を加えたものであることが、すぐ判るだろう。数字に強い人ならば、このゲームから、なかなか面白い確率の問題ができることに気づくかも知れない。ひま潰しに計算してみたら、最短の四回で上がりが出る確率は三十万回に一回もなく、五回目での上がりも七万回以上に一回という結果になった(いい加減に計算しているので違っているかも知れない)。
 最近読んだある週刊誌の記事には、温泉への社員旅行で夜になると、中高年は麻雀で、若者はビンゴで盛り上がる、とあった。実力の入る余地のない、運まかせの勝負事が、現代の若者には似合うのだろう。もちろん私は中高年の側にいる。


1994/04/30 

図書館の工夫

 この四月から、短大の図書館長を引き受けた。わが松商学園短大図書館は、司書一名、年間予算一千万円程度の小さな図書館である。館長職も、学内の役職としては、気楽に勤まる方のようだ。
 さて、新入生を迎える四月には、図書館にも大事な仕事がある。誤解を恐れずに簡単に言えば、それは「呼び込み」の仕事である。
 一部の勉強家を別にすると、大半の学生は、期末のレポートや、卒業研究に追われて、図書館を利用し始める。ところが図書館は、普段から足を運んで、どんな設備があり、どんな文献・資料がどこに配置されているかを心得ていないと、要領よくは利用できない(本学図書館は開架式)。レポートに追われて図書館に来ても、館内の様子が頭に入っていないと、悪戦苦闘は必至である。
 そこで図書館では、年度の始まりにあたって、新入生を中心に、新二年生も含めて、この時期から足を運んでもらえるよう、PRに努めることになる。新入生のオリエンテーションなどでも、細かい手続きの話は省略し、もっぱら日常的に図書館を利用することの大切さを力説した。
 もちろん説得するだけでは不十分なので、ここ数年、図書館では、学生が気軽に利用できるように、いろいろと工夫を凝らしている。
 大学図書館の蔵書は硬い内容の専門書がほとんどで、そのままでは、学生にとっても非常にとっつきにくい。そこで、最近では、新しい文学書なども少しずつ揃え始めた。また、数年前に藤子不二雄の漫画作品集をまとめて購入したのを契機に、わずかながら漫画の本も購入するようになった。図書館新築の際には、視聴覚教材のコーナーを充実させ、図書館でビデオを楽しめるようにもした。
 大学図書館としては思い切った方策をとっているわけで、いろいろと異論を持たれる向きもあろう。しかし、これも学生たちが図書館に足を運び、利用に慣れることを期待してのことである。実際、空き時間に、図書館でビデオを見ている者や漫画の棚の前から動かない者は結構いる。たとえ漫画やビデオが最初の目当てでも、やがては図書館利用の方法やマナーが自然と身についていく。
 図書館は、利用されなければ存在意義は薄い。大学では、硬い本も含めて、図書館を活用するための教育が必要なことは当然だが、利用者に、とっつきやすく居心地のよい図書館を用意することも、また大切なのである。


1994/06/03 

案内看板

 かつて松商学園短大は松商学園高校と同じ敷地にあった。短大が現在の新村キャンパスに移転したのは、一九七七年で、もう十七年も前になる。しかし、高校から歩いて五分ほどの住宅地の一角を占める短大の教職員住宅は、移転もせずにそのまま残された。
 現在の短大教職員住宅は、最近新築された建物である。しかし、ほんの数年前まで、ここには築四十年近い木造の宿舎が、数棟並んでいた。入居していた某先生の話では、畳の大きさが微妙に狂っていたり、目張りをしても風が入ってくるような建物だったらしい。
 もっとも、この木造の宿舎は、教職員住宅にだけ使われていたわけではない。かつては男子学生寮が置かれたこともあったし、波田町に現在の寮ができた一九八二年までは、宿舎のうち三棟が短大の女子学生寮として使用されていたのである。
 私が短大に着任したのは、八年前の一九八六年なので、以上に紹介した経緯は、基本的には伝聞に過ぎない。ところが、先日、所用で短大宿舎の近くを歩いていたとき、面白いものを見つけた。それは、タイム・スリップしてきたような町内の案内看板である。「短大女子寮」の文字が目に入り、私は思わず立ち止まった。
 よく見ると、「短大女子寮」と記されたプレートが3枚もある。「短大女子寮」と同じ一角には、かつての教職員宿舎に入居されていた先生方の名も記されている。しかし、現在も在職しているのはN先生お一人だけで、あとは私の着任した頃には既に退職されていた方ばかりである。また、ご本人に確認したら、N先生が宿舎から転出されたのは、今から十四年前のことだったそうである。
 近年、都会では、プライバシー意識の定着とともに、町内の案内看板の類にも居住者の協力が得にくくなり、案内看板の新設・更新が昔のようにスムーズにはいかなくなっているという。しかし、十年以上も前の表示がそのままで、更新されていないというのは、いかにも不手際だ、しかも、同じ看板には、比較的近年にできたはずのコンビニエンス・ストアはちゃんと記入されている。何ともいい加減である。
 案内看板のような施設は、設置したらきちんと維持し、更新していかなければ意味がない。現状が示されていなければ、案内の用はなさない。十年以上も放置するくらいなら、撤去する方がよほど良いのではないだろうか。


1994/06/28 

朝鮮学校のこと

 「北朝鮮」の「核開発疑惑」とも関係するのか、最近、日本にある朝鮮学校をめぐって事件が相次いでいる。京都では、朝鮮学校に対する警察の強引な捜査が明るみに出たし、全国各地で、朝鮮学校の生徒へのいやがらせ事件が多発している。
 朝鮮学校は、在日朝鮮人の子弟に「民族教育」を行う学校で、全国に百数十校がある。松本にも小・中学校に当たる初・中等学校が設けられている。しかし、日本の学校制度の下では、米国大学の日本校などと同様に、朝鮮学校は各種学校という扱いである。文部省にすれば、日本の教育行政に束縛されず、授業も朝鮮語で行われる学校を、教員資格から教育内容の細部まで厳格な管理の下に置かれている小・中・高等学校などと同一には扱えないのである。
 それでも、朝鮮学校を、実質に即して一般の小・中・高等学校と同様に扱おうという動きは、いろいろな成果を上げてきた。最近では、各種の高校スポーツ公式戦に、部分的ながら朝鮮高級学校が参加可能になってきた。
 大学等への進学についても、大学側が自主的に、朝鮮高級学校出身者を「通常の高等学校卒業者と同等の資格をもつ者」と認める形で、受け入れることが一般的になっている。とはいえ、つい一ヶ月ほど前には、東京のある短大が、朝鮮高級学校出身者を「受験資格なし」として門前払いにしたという問題が表面化していた。
 松商学園短期大学にも、朝鮮・韓国籍の学生は時々入学する。また、朝鮮高級学校からも数年に一度は受験希望者があり、わが短大は、当然ながら一般の高校出身者と全く同じ扱いで受験機会を提供している。最近の十年間にも、実際に入学・卒業した者が一名あった。彼女は通名(日本名)ではなく本名で学生生活を送り、色鮮やかなチマ・チョゴリで卒業式に臨んだ。
 松本市では、朝鮮学校の生徒が恐喝や暴行を受けるといった、露骨な民族差別事件はほとんど耳にしていない。その意味では一連の事件は対岸の火事かも知れないが、一般の人々が在日朝鮮人について驚くほど無知であることは他の地域と大差がない。「在日朝鮮人」と「在日韓国人」がどう違うのか、きちんと説明できる人は、いい大人でもほとんどいないのが実際である。
 無知は誤解と偏見を生み、さらに差別を引き起こす。歴史を直視する教育だけが、こうした差別を乗り越える道である。そして、この場合の「教育」が、学校教育だけを指すものでないことは、いうまでもないことだ。


1994/07/29 

ダイヤルを押す

 あるラジオのCMで「ダイヤルを押す」という言い回しがでてきた。もちろん「プッシュホンのボタンを押す」ことである。この言い回し、数年前に学生がカラオケで歌っていた曲(曲名不詳)の歌詞で目にして以来、少々気になっている。
 プッシュホンは、八〇年代に普及が著しく進んだ。そんなに古いことではない。その背景には、電話交換機をはじめ、電話という通信システム全体に関わる一連の技術革新があった。通信技術に関心の薄い人でも、家庭でも電話のコードがいつの間にか差込式になり、公衆電話が一昔前とは全く別物と化していることには、気づいていることだろう。
 こうした技術革新の話は、ここではこれ以上立ち入らない。こだわりたいのは、新しいモノの普及とともに定着していく新しい言葉の方である。
 「ダイヤル」は英語でdialに由来する外来語である。『オックスフォード英語辞典』を見ると、英語におけるdialは、「日」を意味するラテン語に由来し、十五世紀に「日時計」という意味で使われたのが、最初の用例だという。その後、「時計の文字盤」という意味が生じ、以降、時計と形態の似ているもの、つまり、円盤と指針などで何らかの値を表示するものを広く指すようになった。
 かつての電話は文字どおり「ダイヤル」式であり、当然「ダイヤル」が付いていた。『広辞苑』では「電話機の円形数字盤」と表現している。「電話する」ことは、そのまま「ダイヤルを回す」ことであったし、「番号を回す」とか「ダイヤルする」といった言葉も自然に定着した。
 慣用句が定着すると言葉の本来の語義は徐々に忘れられる。外来語となれば、なおさらである。そもそもダイヤルのないプッシュホンが普及しても、「間違えずにダイヤルして下さい」といった言葉は生き残った。さらに、ダイヤルを「回す」という動詞に対する抵抗感が「ダイヤルを押す」という言い回しを生んだのであろう。
 言葉は生き物だから必然的に変化する。しかし、私はまだ「ダイヤルを押す」という表現には抵抗感がある。もっとも技術だってどんどん発展するだろうから、そのうち、「ダイヤルを引く」とか「取る」とか「切る」といった言い回しも現れるかも知れない。そう空想してみると、「押す」くらいならマシかなという気にはなるのだが。


1994/08/09 

いかがわしい「電話帳」

 先日、郵便箱に大きな冊子が入っていた。表紙は広告だらけで、最初は何なのかわからなかったが、『穂高町五十音別電話帳(住宅詳細図)』と記された背表紙を見て、地元の「便利帳」の類だとわかった。
 ここで「便利帳」といったのは、NTTとは無関係に、地域の広告を集めて刊行される電話帳ないし名簿のことである。地域によっては、有線電話の番号や、バスや電車の時刻表が入っていたりもする。この種のものは、町村などを単位として作られることが多く、その企画・制作を専門とする業者も多い。
 さて、この『穂高町五十音別電話帳』、いざ開いてみると、お粗末な上、いかがわしい感じがするのである。この『電話帳』は、普通のNTTの電話帳より若干大判で厚さは一センチくらいある。しかし、その実質的な中身は、NTTの電話帳の切り貼りと、市販の住宅地図の転載なのである。カラーページの観光案内も、何かパンフレットを複写したものらしい。要するに、広告以外は、既に存在する印刷物の複製を寄せ集めたものに過ぎないのである。
 よく見ると、電話番号の部では、所々に大きな字が組んである。おそらく、何がしかの広告料を支払ったところなのであろう。それ以外は、すべてNTTの電話帳の拡大コピーである。もちろん、NTTの電話帳にも著作権があり、単純な複製はできないはずだ。
 住宅地図の部は、現物で確認したわけではないが、おそらくZ社の住宅地図の数年前の旧版を縮小コピーし、広告部分だけを差し替えたものである。Z社の住宅地図は一万円近くはする高価なものである。いくら旧版でも、タダで配布される『電話帳』に丸ごと転載されては、Z社もたまらないだろう。これはもう、意図的な著作権の侵害である。
 『電話帳』の最後のページには、「配布は当社が致して居りますが、万一配本もれの方が生じた節は勝手乍ら、葉書にて職業・氏名・番号を記入の上申し込み下されば無料にて送付致します」とあるが、『電話帳』のどこを見ても、「当社」の社名や所在地はいっさい記されていない。
 最後のページには、「最近弊社員の如く装い次回発行等と偽り広告募集する不届きな者が各所で頻発しておりますので念の為御注意下さい」などと、ご丁寧にも「御注意」が記されている。「盗人猛々しい」とは、こういうことをいうのだろう。


1994/09/14 

「生き/死に」の問題

 松任谷由実の新曲を聴いていたら、「生き急ぐ」という一節が耳に止まった。「死に急ぐ」は昔から言う正しい表現だが、「生き急ぐ」の方は、まだまだ定着していない、違和感が残る表現だ。
 言葉は時代とともに変化していく。元々、逸脱や誤用であった表現が、しばらくするとすっかり定着し、改まった場面や書き言葉の中でも使われるようになることはよくある。しかし、実際にそうした事例に出くわすと、やはり切ないものだ。「生き急ぐ」は、そうした一例なのである。
 以前、本紙の編集局長N氏との雑談で、「生き様」という表現が話題になった。今では定着した感もある「生き様」だが元々は「死に様」から類推された誤用である。
 「無様」、「悪し様」など、「ざま」を含む成句には概して否定的な含意があり、「死に様」もよい意味では使わない。一方、「生き様」という言葉にも否定的な含意はあるが、「きれい事ばかりではないが、一生懸命生きている姿」といった肯定的な含意が強く、本来の「ざま」の語感からは外れている。
 「生きる」と「死ぬ」は、普通は一対の概念であるように思われている。だからこそ類推が働いて、「生き様」、「生き急ぐ」が成立するのだが、よく考えると「生きる」と「死ぬ」は必ずしも対概念ではない。つまり、「生きる」のは時間の経過の中で継続する<状態>だが、「死ぬ」のは一時点の<動作>だという違いがあるわけだ。
 言い換えると、厳密な意味での対概念は、<状態>を指す「生きている」と「死んでいる」、<動作>を表す「生まれる」と「死ぬ」という組み合わせになる。ここで、「生きる」は<状態>を表す動詞であり、「生きている」とほぼ同義となろう。
 冒頭で触れた「生き急ぐ」という表現への抵抗感の一端は、<動作>は急げても、<状態>は急ぎようがないということに由来している。逆に見れば、あえて「生き急ぐ」と言うときには、「生きる」ことを<状態>としてではなく、<動作>として意識しているのだとも考えられる。
 時間の流れの中で、<状態>として「生きる」のではなく、瞬間ごとの<動作>として「生きる」ことを感じる意識が「生き急ぐ」という言葉には潜んでいる。これは、緊張感をもって一瞬一瞬の人生を生きるという意味で、「一期一会」に近い感覚であろう。
 ちなみに英語には、「追越し車線の人生」という「生き急ぐ」感じを良く捉えた表現がある。緊張感をもって追越し車線を飛ばす人生もあれば、走行車線を漫然と惰性で走る人生もあるということだろう。緊張感をもって控え目の速度で進むのが、理想かもしれないが。


1994/10/18 

講義から学ぶ

 秋は勉学の季節である。この時期には、大学関係の講演会や講座などがあちこちで開催されている。
 わが松商学園短期大学では、今年も今月から来月にかけて、一般市民の方々を対象に、「開放講座」を実施している。今年は、「地域社会を考える−まちの視点」をテーマに、毎週火曜と水曜の夜に、講義が行われている。
 「開放講座」の受講者は、だいたい二十名くらい。毎回出席している熱心な人もいるし、関心のある回を選んで出てくる人もいる。
 当然ながら、講義中の雰囲気は、短大の通常の授業とは違う。受講者の年齢が、六十代から二十代までバラバラなせいもあるが、何より受講者の真剣な眼差しが、大きな違いを生んでいるのである。
 もちろん、本学の学生が不真面目なわけではない。ふだんの短大の講義では、ちゃんと聴いていない不届き者も少なからずいるが、一方には真剣に講義を聴いている学生が必ずいる。また、日常的に講義を受けている学生の受講態度を、自ら積極的に学ぶべく講座に参加している社会人と比較するのは、フェアーではない。こうした点は、本学学生の名誉のために付け加えておくべきだろう。
 それにしても、こうした受講態度の違いを目の当たりにすると、講義する側の姿勢も、ふだんとは大きく変わる。日常の講義で手を抜いているわけではないのだが、「開放講座」のように熱意をもった受講者を相手に講義するときの緊張感は、学生相手の講義とは大違いで、むしろ学会発表に近いものがある。
 講義を職業としていると、毎年同じ様な内容の教授に明け暮れる中で、ともすれば馴れに流され、工夫を忘れた安易な方向に進んでしまう。そんなとき、熱心な受講者との出会いは何よりもよい薬なのだが、そうした体験は、実は非常に得難いものなのである。
 一般に「講義」といえば、教授する側が一方的に知識を伝える場だと思われがちだが、実際はまったく違う。真剣な聴き手を前によい講義をしようと努力すれば、それは必ず新たな発見につながる。講義する者にとって、「手ごたえのあるよい講義」は、自らが学ぶ場なのである。
 受講者の熱意にあふれる「開放講座」は、講義する側にとっても貴重な「学び」の機会である。「(受講者から)教えられる」という表現は必ずしも当たらないが、講義する者が「受講者に育てられる」ことは間違いないのである。


1994/11/19 

昔の新聞

 数カ月前のことである。以前、短大で図書館司書の講習を受講されていたKさんが、短大図書館に相談を持ちかけられた。ご自宅に残されていた古い文書を整理していたら、昭和初期の新聞が十紙余り出てきたのだという。中には保存状態の悪いものもある。果してこれは、価値のあるものだろうか、また、どう扱ったらよいだろうか、というのがKさんの相談だった。
 持ち込まれた新聞を一見して、その大半が戦前に松本で刊行されていた、比較的小さな新聞であることがわかった。中には、いわゆる「小新聞」「アカ新聞」といった風情のものもある。私にとっては、いずれも初めて現物を見る新聞だった。
 大正期から昭和初期にかけて、松本では多数の新聞が発行されていた。『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌(第三巻下)』(一九六五年刊)は、その間の事情を詳しく伝えている。ところが、そうした戦前の新聞を読んでみたいと思っても、事は容易ではないのである。
 当時、松本を代表する有力日刊紙だったのは、共に明治以来の伝統を誇る、改新党系の『信濃日報』と政友会系の『信濃民報』の二紙であった。両紙については、大正八年から戦時統合で廃刊となる昭和十五年までの分がマイクロフィルム化されており、松本中央図書館で閲覧できる。また、同図書館には、大正十四年から昭和三年まで存在した反対政友派系の『志な野』も所蔵されている。
 さらに、大正十四年から昭和八年まで独自の論陣を張った週刊評論新聞『大高原』は、刊行の中心となっていた中嶋瓢堂のお孫さんの尽力で、複製合本したものが制作されており、主な図書館などで読むことができる。
 しかし、昭和十四年の戦時統合の始まる前には日刊だけでも十六紙、その他四十余紙と「日本一の盛況」とまでいわれた松本の新聞の大半は、今では現物を読むことが極めて難しい。特に、花柳界の話題を載せ、ユスリ・タカリの悪評もあった「小新聞」、「アカ新聞」の類は、ほとんど残されておらず、その実態はよくわからなくなっている。
 Kさんからの依頼を機に、市内の主な古書店数店にも問い合わせてみたのだが、戦前の地元紙は、簡単に常時流通しているものではないという返事であった。また、仮に商品として出てきても、大した値段ではなかろう、という話だったが、それだけ「価値がない」ということは、逆説的に古書の市場にはなじまないということなのだろう。だいたいこうした史料は、さほど価値はない物ほど、後生には残されないものである。
 Kさんから預かった新聞は、一ヶ月ほどいろいろ調べた上でお返しした。その際、Kさんには、このコレクションが、比較的小さな新聞を集めたものであること、大半は公共図書館等では閲覧できない珍しいものであること、しかし商品価値はほとんどないこと、などをお伝えし、しっかり保存して頂けるようお願いした。
 旧家にお住まいの方には、この際、紙面を借りてお願いしたい。もし、土蔵の片隅から昔の新聞の束が出てきたら、ぜひ地域の公共図書館などに相談をして頂きたい。史料として価値があるのは手書きの古文書ばかりではない。素人目には無価値なものの中にこそ、よそには残されていない貴重な史料が隠れているものなのである。


1994/11/29 

畔・畊・畦

 一九一五(大正四)年から一九九〇(平成二)年まで、米国ソルトレーク市で日本語新聞『ユタ日報』が発行されていた。既にご存知の方も多いかと思うが、戦時中の『ユタ日報』の全面復刻が、松本市の市民団体の手で進められている。私も微力ながら、編集作業のお手伝いをさせていただいている。
 この『ユタ日報』を創刊したのは、南信出身の「寺澤畔夫」である。とあっさり書いたが、実は彼の名の表記には、少々面倒な問題が存在するのである。
 彼の名は「うねお」と読むが、「畔夫」という表記は、彼が新聞紙上などで用いていた通称であり、戸籍上は「畊夫」であったらしい。「畊」はあまり見ない字だが、諸橋轍次著の『大漢和辞典』では、「耕」と同義の字と説明されている。
 この場合、「井」は「井戸」ではなく、一定の面積に区画された田の形を指した。例えば、『孟子』にある「井田」は、大きな田を「井」の字のように区画し、九等分することである。孟子が説いた「井田」制は、八家族に一区画ずつを与え、残りの一区画は八家が共同で耕作し、その収穫を租税とする、という制度であった。
 してみると、「畊」には田を区画する「あぜ」という意味はありそうだ。しかし、「あぜ」と「うね」は違うものである。
 『広辞苑』に当たると、「あぜ」は「田と田との間に土を盛り上げて境としたもの」とあり、一方「うね」は「畑に作物を植えつけるため、間隔をおいて土を高く盛り上げ、筋をなした所」とある。「あぜ」は田畑の境界で、「うね」は畑の中の土盛りだから、両者は別ものである。
 ところが漢字を見ると、「あぜ」には「畦/畔」、「うね」には「畝/畦」が挙がっている。「あぜ」も「うね」も「畦」と書けば一緒になってしまうわけだ。いやはや、紛らわしい。
 寺澤が、「畔夫」と書いて「うねお」と通称したことは間違いない。彼が「あぜお」と名乗った形跡はない。「畊」に代えて「畔」を選んだ理由は、活字の都合によるものだったが、その際、「畊」と「畔」に「あぜ」の語義が共通するという意識があったか否かは判らない。
 固有名詞なのだからどう書き、どう読ませても、名乗る者、名付ける者の勝手かもしれない。しかし、原稿に「畔夫」と記しながらも、ふと「本当は畦夫のつもりだったのか」などと余計なことを考えてしまうのである。


1994/12/21 

カラオケでクリスマス

 忘年会のシーズンである。久々に、学生たちとカラオケに出かけた。今から五年前くらいの学生は、カラオケ好きが多く、コンパといえばカラオケがつきものだった。当時は、まだカラオケ・ボックスより飲み屋でカラオケという方が多かったように思う。しかし、ここ二、三年は学生とカラオケで大々的に盛り上がる機会もだんだん減ってきていた。
 ところが、今回は久々に、大いに楽しめたのである。理由は簡単だ。最近のカラオケの技術革新のおかげか、はたまたマーケット・リサーチの成果か、私でも歌いたくなるような歌が数多く選べたからである。
 たまたまその夜は、カラオケを二軒ハシゴしたのだが、それぞれ機種もリストも特色があり、充実していた。カラオケの選曲用のリストといえば、曲名か歌手で検索するのが基本だが、その他にも、デュエット曲など、ジャンル別の検索ページも重要だ。各種リストの個性は、この部分に一番よく出てくる。
 この夜、二軒のリストを眺めていて、一番印象深かった点は、どちらのリストでも、一昔前より遥かに充実した外国曲のページが用意されていることだった。その分、軍歌などは以前より少なくなっているようだ。また、琉球民謡・琉球ポップスだけのページがあったり、クリスマス曲だけのページも季節がら目を引いた。
 一緒に行った学生の一人は、サビしか思い出せない曲を何とか歌いたかったらしく、サビの歌詞で検索できるシステムはできないだろうかといっていた。サービスを始めれば結構当たるような気もする。どこかの社が取り組まないだろうか。
 さて、クリスマス・ソングをいくつも歌うというのもなかなか面白かった。何しろ、その店では、ジョン・レノンからポール・マッカートニーまで、山下達郎からジュン・スカイ・ウォーカーまで、ポップスのクリスマス・ソングが並んでいたのである。
 日本のクリスマスはバカ騒ぎばかりで本来の宗教的な神聖さがない云々という向きもあろう。しかし、十二月にクリスマスを祝うのは、本来は冬至を越えて春に向かう祝いの祭りを、キリスト教の死と復活の教義に結びついて定着した習慣である。バカ騒ぎも、再生の春へと向かう歓びの反映と思えばあながちでたらめでもない。忘年会、クリスマス・パーティー、等々、気楽に騒げる豊かさと平和を素直に楽しんでしまうことも大切だ。
 楽しいクリスマスを。


1994/12/29 

現金をいくら持つか

 師走である。このところ、同じ週のうちに二回も三回も東京と松本を往復するという、ムチャクチャなスケジュールが続いている。こうなると、平日と週末を区別する感覚も怪しくなってくる。
 そんな中で、先日、土曜日に東京へ出かけた。「あずさ」の車中で、財布の中身が少々心細いことに気がついた。この時期はバタバタと忙しい上、まとまった金額の出入りがあるので、ちょっと銀行へ出かけそびれると、すぐこうなってしまう。「新宿に着いたらキャッシュ・カードでお金を引き出そう」と気楽に考えた。
 新宿で下車し、H銀行の支店に行くと、何とキャッシュ・コーナーが営業していない。地元の長野県内では土曜日も夕方までサービスしているというのにである。事前によく調べなかった自分が悪いのだから致しかたないが、これには参った。
 もちろん本当に現金が必要なら、他行のキャッシュ・コーナーで手数料を払って引き出せばよいわけだが、何となく気にくわなかったので、結局現金は引き出さず、用事だけ済まして松本へ帰ってきた。必要ならクレジット・カードで買物もできたのだが、手持ちの現金が少ないと、不思議と財布の紐が固くなり、いつものような買物はしないまま、戻ってきたのである。
 昔、学生だった頃、(少々性差別的なニュアンスを含んだ表現で問題があるのだが)先輩から「男たるもの、常に、年齢の千倍くらいの現金を持っていなければ」といわれたことがあり、妙に感心した記憶がある。二十歳なら二万円くらいの現金は持っていろ、ということになる。
 この考えには、かなりの説得力を感じたので、その後しばらく、実践しようと努めた。しかし、実のところ私の財布に、これより多い金額が入っていることは、ほとんどなかったように思う。新宿での一件があった後、昔の「年齢千倍説」を、思い出していろいろと考えさせられた。
 師走もいよいよ大詰めである。正月には銀行休業日も多い。この年末年始には、どれくらいの額を現金にしておこうか、慌ただしい中で、これまたいろいろと思案をしている。お年玉も賽銭も、キャッシュ・カードでは払えまい。銀行も最後の営業日には混雑するから、早めに決めて出かけなければなるまい。
 つらつらと考えるうちに夜も更け、また大晦日も近づく。読者の皆様も、粛々と年末を乗りきって、佳き新春をお迎え頂きたい。


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