コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1993

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

1993/01/13 S君への年賀状.
1993/02/02 CATVの選挙報道.
1993/02/27 ゲームの好み.
1993/03/10 駅名改称.
1993/03/20 加工品のサメ.
1993/04/21 誰もいないスキー場.
1993/05/01 ディズニーランドの夢.
1993/06/04 遠望する山.
1993/06/23 マルシェ通りについて.
1993/07/06 曖昧な標識.
1993/08/24 今どきの墓.
1993/10/09 応募者ゼロの美術館.
1993/10/23 再考・学芸員問題.
1993/12/21 さよなら夜行「鈍行」.
1993/12/28 干支のイメージ.


1993/01/13 

S君への年賀状

 私が通っていた大学では、最初の二年間のいわゆる教養課程のときに、四十名ほどが集まって一つのクラスを構成していた。この教養クラスは。専門課程に進む準備段階で再編成され、最終的に専門課程が始まると解体されるものであった。
 本来このクラスは、英語やドイツ語の授業を一緒に受ける単位である。しかし、私のクラスは、主だった者がいつも決まった雀荘にたむろしている、仲のよいクラスだった。
 ところが専門課程の関係で、クラス再編成の際に、私は全く違うメンバーのクラスにまわされた。このとき私と一緒に移動したのがS君だった。
 私は元のクラスで、S君と特に親しかった訳ではない。しかし、たった一人だけ一緒に移動した級友である。その年の正月、私は彼に年賀状を書いた。
 その最初の年に、S君から返事があったどうかはもう覚えていない。しかし、私はリストに載った彼の住所へ何年か続けて年賀状を送った。やがて、S君の方から先に年賀状が来始めた。こうなると、意地でも自分から止めるわけにはいかない。私は毎年S君に年賀状を出し続けた。
 ところが冷静に考えてみると、専門課程の頃も、私はS君の顔をほとんど見ていない。まして卒業してからは一度も会っていない。十余年の間に、S君も私も就職し、結婚し、子どもを得た。お互いの消息は年賀状だけが伝えてきたのである。
 昨年、教養クラス時代の仲間が、同級会をはじめた。その連絡が舞い込んだので幹事役に問い合わせると、連絡先不明者の中にS君の名があった。私は少々驚いて、S君の職場に電話をかけた。
 十余年ぶりに声を聴くS君に、私は「同級会に連絡先を知らせてよいか」とたずねた。もちろん彼は承知した。その後、同級会が開かれたが、私は所用で参加できなかった。S君が出席したかどうかはわからない。
 今年もまた、私はS君に年賀状を書いた。そして、彼から来た年賀状には「今年も宜しく」という決まり文句が、手書きで書き加えられていた。


1993/02/02 

CATVの選挙報道

 「市民タイムス」のような地域紙もそうだが、CATV(有線テレビ)は、地域に密着したメディアである。そうした地域メディアの長所が大きく活きるのが、地域選挙の時である。昨年の松本市長選挙でも、テレビ松本は、選挙前から積極的かつ公平に候補者の動静を報道して高い注目を集めた。
 さて、村営CATVのある山形村で、近く村長選挙が行われる。ところが、村営の場合には民営とは異なり、開票速報はできても、事前の候補者の紹介などは難しいらしい。
 本来なら、投票前に候補者の人物像を伝えることにこそ、大きな意味がある。しかし、現状では公選法との関係で、どういう形でなら放送できるか、明瞭な指針がないそうだ。選挙違反を極端に恐れて選挙の際に地域メディアとしての使命を十分に果たせないなら、村営CATVは宝の持ち腐れである。
 選挙の元締めである自治省は、一方で公営CATVを振興している。振興策を活かす意味でも、自治省は公営CATVの選挙報道に何らかの明確な指針を示すべきであろう。
 また、公営CATVに取り組む町村は、こうした要請の声を積極的に自治省に上げていくべきであろう。村営CATVは村民のためのメディアなのだ。


1993/02/27 

ゲームの好み

 同僚のS先生のご子息T君は、小学校二年生で囲碁初段の腕前である。県の小学生の大会では上級生を相手に決勝まで進み、先日の市民タイムスの大会では最年少で参加して大人を相手に健闘した。
 S先生も碁は打たれるが、腕前の方は「もっと強くなって相手をして欲しい」とT君にいわれる程度という。きっとS先生は、自分で碁を打つときより、T君の碁譜を読むときの方がニコニコしているのだろうと、私は勝手に想像している。
 かくゆう私は、碁は打てない。将棋もチェスも素人である。勝負事で多少の心得もあるのは、麻雀とバックギャモンである。
 室内ゲームでも、スポーツでも、あらゆるゲームには運の要素と実力の要素が混在している。ゲームの好みには、その人の個性が現れるが、好みの違いはこの運と実力の要素のバランスによって生じることも多いようだ。
 碁など、実力勝負のゲームを好む人は、自制心が強く、己に厳しい。実力勝負のゲームは、たとえ負けても自分以外の誰にも責任を転嫁できない。碁のようなゲームは、どちらかといえば内向的で、精神力の強い人物を育てそうである。
 一方、麻雀のように運と実力が五分五分のゲームは、人を気楽にする。勝てば「自分の実力」と都合よく勝利感を味わえ、負けても「運がなかった」と思えば自分を責める必要もない。勝てば官軍、負ければ他人事である。麻雀や花札、競馬など、ギャンブルには、すべからく運と実力の絶妙なバランスがある。  さて、私にもT君と同年齢の息子がいる。残念ながら、愚息にはT君のような才能はなく、室内ゲームといえば、もっぱらテレビ・ゲームである。もちろんテレビ・ゲームでは、親の私に勝ち目はまったくない。
 ところがよく見ていると愚息は、コンピューターを相手に花札や麻雀も結構やっているのである。血は争えないというべきか。この子も自分同様の気楽な性格に育っていくのかと思うと、情けないやら、ほっとするやら、複雑な心境である。


1993/03/10 

駅名改称

 JRはこの三月と四月に、全国で合計六駅の駅名改称を行う。これだけ多数の駅名改称は珍しいらしく、全国紙の社会面やコラムなども、あちこちで取り上げていた。
 駅名が変わる六駅のうち四駅は、私たちにもなじみの深い中央東線にある。なにしろ、五十キロもない甲府と大月の間で、十駅のうち四駅が改称するのだから、地元にとっても大きな変化だろう。
 松本から東京へ、鈍行で向かうとすれば、甲府を過ぎて二つ目の「石和」が「石和温泉」に、その次の「別田」が「春日居町」になる。さらに四つ目の「勝沼」は「勝沼ぶどう郷」に、その次の「初鹿野」は「甲斐大和」となる。
 このうち、「春日居町」と「甲斐大和」は、なかなか正確に読んでもらえない駅名を、町村名に一致させ、町や村の知名度も上げようという作戦のようだ。一方、「石和温泉」と「勝沼ぶどう郷」は、地域の特色を盛り込んで、イメージ向上と観光振興に駅名を活用する狙いがある。
 国鉄時代と違って、JRは、地域の要望が強く、費用を地元が負担するなら、駅名改称に柔軟に対応するという。地域のイメージづくりを狙った駅名改称は、今後も増えそうである。しかし、どうせならもっと思い切った駅名のアイデアは出てこないものだろうか。
 かつて、東北新幹線に「新花巻」駅が地元請願駅として新設されたときは、請願運動の中から、駅名を「イーハトープ花巻」にしようという提案が出て、地元ではたいそう話題になったという。このアイデアは結局実現しなかったが、街のあちこちに宮沢賢治の足跡の残る花巻らしい素晴らしい発想といえよう。
 ちなみに、大糸線の「安曇追分」は、かつては「アルプス追分」というモダンな名前だったそうである。「安曇追分」も美しい響きだが、「アルプス追分」にもなかなか風情がある。私は、この駅の駅名改称の事情を知らないのだが、魅力的な駅名の背後には、興味深い逸話がありそうな気がしてならない。


1993/03/20 

加工品のサメ

 三月の初め、研究仲間と一緒に宮城県を訪れた。石巻、塩釜と漁港の町を歩き回る旅である。漁港の風景、魚市場の活気は、やはり独特で、山国信州とは空気が違う。
 漁港の町には、海産物を加工する食品工業が発達する。港に揚がる魚介類が多彩なように、食品加工の仕事も実に多彩だ。漁港の近くには、切身のパック詰めから、缶詰、蒲鉾、干物など、様々な工場がひしめいている。とりわけ印象深かったのは、塩釜で訪れた、サメを解体加工する小さな工場であった。
 塩釜は、東日本有数の漁港だが、近年は特にマグロの重要な水揚げ地になっている。サメは価格が安く、普通は漁獲の対象とはされないが、マグロ漁の網にかかることが多いため、塩釜にはかなりの量が水揚げされる。
 キロ当り千五百円から二千円近い値がつくマグロに比べれば、せり場に山積みされサメは「一山百文」に過ぎない。その安いサメから価値ある資源を取り出すのが解体加工の面白いところである。
 サメは、中華食材のフカヒレとなるヒレの部分をとり、肉は蒲鉾の材料というのがよくある利用法だが、丁寧に扱えばまだまだ「商品」がとれる。
 丈夫なサメ皮は、鞄などの材料として貴重で、輸出もされている。骨の一部は、薬品や化粧品の原材料となるらしい。その他、様々なサメの部位が、解体され、乾燥されて、「商品」になる。中には、解体加工業者にも用途がよく分からないものも少なくないそうだ。
 こうして徹底したサメの利用は、実は比較的最近の動きらしい。かつては、金になるヒレをとれば、残りは捨てていた。ところが、時代と共に廃棄物処理の経費が増大し、屑の量を減らす努力として有効利用の研究が進んだのである。まさしく「捨てればゴミ、活かせば資源」だったそうだ。
 そういえば昔聴いた歌の文句に「鮫皮のジャケット」という歌詞があったな、と思いながら外へ出ると、工場の裏手には、乾燥途中のフカヒレが辺り一面に広げられていた。


1993/04/21 

誰もいないスキー場

 大町方面をドライブしていると、五月上旬のゴールデン・ウィークまで「春スキー」が可能という看板を見かける。小谷村や白馬村の北の方へ行けば、まだまだ滑降可能なスキー場もあるらしい。
 もっとも、大町でも白馬でも、大方のスキー場は、四月はじめには店じまいしてリフトも止まっているし、ゲレンデの雪も、道路に近いところではほとんど消えている。
 ドライブの途中で思い立ち、既に店じまいしたスキー場に立ち寄ってみた。広い駐車場は空っぽで、もはや雪は残っていない。なぜか事故車が一台放置されている。ゲレンデに足を踏み入れると、雪解けのせいで地面はぬかっている。
 誰もいないのをいいことに、雪の残る斜面をリフト沿いに少し登ってみた。シーズン中なら初心者向けの緩斜面も、悪い足場で歩いて登るのは、思いのほかきつい。結局、途中で休みながら、かなり時間をかけて何とかリフト一本分を登りきった。まだ肌寒い風の中で、上から見おろす風景には、シーズン中とは違う風情があった。
 眼を転じると、リフト沿いの沢には雪解け水が勢いよく流れている。音を聴く分には爽やかだが、沢をのぞき込んでみると、いろいろなゴミが残されていた。空缶はもちろん、よく見るとストックや手袋らしきものも落ちている。煙草の吸殻はリフト降り場に近づく辺りに多く、逆に下の方へ行くと煙草が箱ごと落ちていたりする。菓子類の空箱か包み紙らしいものや、使用済みのリフト券など、紙のゴミも多い。
 夏の賑わいの去った秋の海の風景を歌った「誰もいない海」という歌があったが、春のゲレンデを取り上げた歌は、聴いたことがない。どうやらスキー場の春の風景は、賑わいの去った後の侘しさといった趣よりも、雪化粧を落として地肌がむき出しになる興ざめの方が先に立つもののようである。むしろ緑の広がる夏場の方が、誰もいないスキー場を楽しむには向いているのだろう。


1993/05/01 

ディズニーランドの夢

 先日、テレビで、フランスのユーロ・ディズニーランドが一周年を迎えたものの経営面では苦戦している、というニュースをやっていた。いろいろ値引きを行って入場者数は何とか取り繕っているものの、経営実態はお寒いものらしい。
 このニュースの直後にチャンネルを変えていると、東京ディズニーランド(TDL)が開設十周年を迎えるという華やかなコマーシャルに出くわした。皮肉なものである。長野県でもテレビで宣伝しているように、TDLは今や地方の人々にとって東京名所の筆頭格である。週末などに泊まりがけで出かけるTDLは、地方の若者の大きな楽しみなのだ。
 実は松商学園短大でも、二年生の社会見学旅行には、東京証券取引所などの見学や、マナー講習とともに、TDLでの自由時間が組まれている。研修の合間の息抜きなのだが、TDLに着くと、学生たちはこれこそが旅行の目的とばかりにバスの中でスーツから遊び着に着替え、喜々として飛び出していく。
 ディズニーランドは現代文明が生んだ「夢の国」である。たとえ徒花だとしても現代の先進諸国に共通した資本主義的価値観の下で、様々なストレスや矛盾を吸収する役割を果たす「夢の国」であることは間違いない。
 日本人がTDLを大きく支持してきた背景には、現代日本がそうした価値観にどっぷり浸かり、本家の米国以上に病んでいる状況があるのかもしれない。
 TDLが開設された当時、米国「タイム」誌は「完全主義者版のディズニーランド」という見出しでTDLを紹介した。その記事はTDLと本家のディズニーランドを比較しながら、「ここでは煙草の吸殻も、吐き捨てられたチューインガムも、女の子目当てに集まる悪ガキどももいない」と述べていた。
 米国文明に懐疑的な姿勢をとりがちな欧州人に対し、日本人は米国的なものを何でも肯定的に捉えたがる傾きがある。米国生まれのモノを洗練させ大量生産するのは、日本人のお家芸である。ユーロ・ディズニーランドとTDLの違いもこの辺りに鍵がありそうだ。
 本家以上に磨きのかかった「夢の国」の中では、童心にかえって素直に夢と遊んでよかろう。しかし、「夢の国」から出てくるときには、「夢」に癒しを求める現代日本の病にも、思いをいたすべきなのかもしれない。


1993/06/04 

遠望する山

 立夏から梅雨時までおよそひと月の間は、快適な初夏である。この時期、冷え込みの戻る夜もあるものの、概して日差しは強く、快晴の日に恵まれることが多かった。
 いつも通っている広域農道でも、本来の主人公である大型農機類の姿が目立った。時間に余裕があった時に少しあぜ道を散歩してみると、あちこちで田植えを見学できた。水田というのは不思議なものだ。田植え後はもちろん、田植え前に水を張っただけで、辺りには生命力が満ちてくる。
 視線を遠くへ移して西の方を見上げれば、緑も鮮やかな里山の向こうに、黒い地肌にくっきりと残雪をまとった峰々が並んでいる。松本平から遠望するアルプスは、この季節が最高である。
 安曇野からの北アルプスに限らず、遠望する山の姿は何といっても初夏が美しい。以前やはりこの季節に、縄文住居址で有名な富士見町の井戸尻遺跡を訪れたとき、そこから眺めた南アルプスの峰々の姿にいたく感動したことがある。
 左右と背後を豊かな林を抱えた尾根に囲まれた南向きの斜面に立つと、足下から谷の方へと棚田が続き、人家が散在している。谷の向こう側には、里山の緑が映えていた。甲斐駒ヶ岳をはじめ、南アルプスの峰々は里山のさらに背後に聳えている。縄文人は間違いなく、そこに神の座を見たのだろう、と確信させる景観であった。
 樋口忠彦の『景観の構造』(一九七五)のはじめの方に、距離に応じた景観分類の話が出てくる。山の斜面でいえば、「一本一本の樹木の形姿が意味をもつ」、「自然として樹木を感じとることのできる」近距離景がまずあり、ついで「異種の樹木ないし樹木群があやをなす」中距離景、さらに「いわゆる『山紫』の状態になる」遠距離景が定性的に分類できるという。
 近・中距離景があって、遠距離景は輝きを増す。水田の輝きと里山の新緑は、色彩が淡く、白黒に近づいた遠距離景の高尚さを引き立てる。緑の尾根を抜いて聳える雪の模様をまとった紫の峰は、心の底の純粋な感覚を呼び起こしてくれる


1993/06/23 

マルシェ通りについて

 松本の駅前通りが改称したことを、私はごく最近まで知らなかった。新しい名前は「マルシェ通り」である。何も知らずに歩いていて、翻る幟の列にふとメガ止まったとき、私は一瞬唖然とした。よく見るとあちこちに新名称を記したステッカーが貼られている。ここは「マルシェ通り」なのだ。
 「マルシェ」は仏語で「市場」のことである。「マルシェ通り=市場通り」には、どこかに「市場」があるのだろうか。少なくとも駅前広場は、市が立つような広場ではない。
 ちなみに、直訳すると「善い市場」となる「ボン・マルシェ」は、「安売り」という意味で、一八五二年にパリで創業した世界初の百貨店の名でもある。また、「大きな市場」つまり「グラン・マルシェ」は「大安売り」のことである。「マルシェ通り」も「安売り通り」なのだろうか。
 街頭に掲げられた幟には、「Marche st.」ともあるから、横文字を使うなら「マルシェ・ストリート」が正式らしい。仏語の「マルシェ」と英語の「ストリート」を並べる「国際」感覚は、国際会議都市・松本らしい冗談か。ちなみに全部仏語なら「リュ・ド・マルシェ」、全部英語なら「マーケット・ストリート」であろう。
 「マルシェ通り」への改称は、どうやら歩道改修を契機とした街のイメージ・アップ作戦らしい。しかし、歩道は確かに前よりきれいだが変化は概して地味だし、特別に歩きやすくなったわけでもない。個々の店舗は以前と同じだし、ここ何年も壊れたままのデジタル時計もそのままだ。
 かつて「公園通り」が登場した時には確かに変化が実感された。しかし、「マルシェ通り」には同様の変化は感じられない。
 地名や呼称は、必要に応じて時と共に変化するものだが、安易な改称は厳に慎しむべきである。本気で改称するなら、もっと定着しそうな名を選ぶべきだし、通りの名にふさわしい施設や行事の仕掛けも必要だ。「マルシェ通り」への改称は、外から見ると余りにも安易に映るのだが、当の通りの人々はどう考えているのだろう。


1993/07/06 

曖昧な標識

 数カ月前、通勤に使っている広域農道に、ある標識が出現した。梓川村倭のアカデミア館の脇である。最初に気づいたときは非常に慌てた。今はそこを通るたびに、多少の後ろめたさを感じている。
 その標識は、道路上の白線と「トマレ」の白文字である。もっとも、北へ向かう側の車線の「レ」は左右が逆で字になっていない。
 初めてこの文字に気づいたとき、広域農道にひあ信号はあるが一旦停止の場所はない、と思い込んでいた私は、「トマレ」の白文字に慌てて急ブレーキを踏んだ。幸い後続車もなく、何かが起きたわけではなかったが、相当に肝を冷やした。
 ところが、そのすぐ後にも、この一旦停止線に直前で気づき、慌てたことがあった。その時は前後に車がいて「流れに乗った」状態だったので、停止せずに前車に追従した。
 その後、何度かこの場所を通過して、なぜたびたび慌ててしまうのか合点がいった。通常なら、一旦停止の場所に必ずある赤い三角の標識が設置されていないのだ。赤い標識があれば、遠方からでも一旦停止の位置が予見される。ここでは赤い標識がないために、私は減速せずに現場に達し、そこで白文字を認め、慌てたのである。
 現地で注意深く見ていると、実際にこの白線で一旦停止している車は皆無である。中には、もし先行車が本当に一旦停止したら、追突してしまいそうな勢いの車も多い。
 どういう経緯でここに白線と白文字だけが引かれ、赤い標識が立てられなかったのかは分からない。しかし、運転者から見れば、一旦停止があるとは考えにくい場所である。もっと目立たせなければ危険であろう。まさか警察は、一旦停止違反の反則切符切りのために、こうした曖昧な場所をわざと設けているのではあるまい。
 あるいは、この白線と白文字は道路交通法上の正式の標識ではなく、それで赤い標識が立っていないのだろうか。万一そうなら曖昧な標識が原因で事故が起こる前に、白文字を削り取るべきだ。
 今、私は、割り切れない思いのまま、一旦停止をせずにここを通って通勤している。


1993/08/24 

今どきの墓

 子細は省くが、わが家には守るべき墓がいまのところはない。そのためもあって、私はお盆に墓参した記憶がほとんどない。
 ところが今年は、お盆休みの最中に墓参りをした。ある近親者の霊を慰めるため、富士山の裾野の一角にある現代的な霊園に出かけたのである。冷夏らしく肌寒い、霧の深い午後のことだった。
 私も、お盆に限らなければ、墓に詣でる機会は人並みにある。しかし、この墓園は、普通の墓地とはかなり様子が違っていた。
 この墓園では、斜面に段々畑のように整地された区画ごとに、同じ灰色の石材、同じ形状の墓石が、整然と並んでいるのである。車から降りてこの光景を目にしたとき、立ちこめる霧のせいもあってか、なぜか身の引き締まるような思いがした。
 よく見ると、墓誌を記す石板などが別に加えられている墓もあるが、どこを見ても、同じ広さの墓地に、同じ形の墓石が載せられていた。手入れは実によく行き届いている。墓には雑草もなく。放置された切花もない。
 目的の墓に詣でてほっとすると、不思議なことに周りの印象が少しばかり違うように思われてきた。最初は、皆同じように見えた墓石が、そこに刻まれた文字や図柄などによって、多様な個性を放っているのである。
 もちろん大半の墓石には、「○○家」とごく普通に家名が記されている。ところが、中には二つの家名を併記したものがあったりする。また、家名の代わりに「妙法」と記したもの、梵字を刻んだもの、聖書の一節を引用したものもあった。
 しかし、この墓園で印象深かったのは、一つの文字だけを大きく墓石の表面に刻んだタイプの墓石であった。ちょっと見回しただけでも、「空」「眠」「和」「愛」「聖」といった文字が、家名の代わりに並んでいた。
 「空」や「眠」というのは、葬られた者に引き寄せた言葉であろう。「和」や「愛」は、先祖から子孫へのメッセージといったところか。ちなみに「聖」とあった墓には、若くして亡くなった女性が葬られており、この字は彼女の名にちなんだ選択であったようだ。
 近年、墓葬の習慣が大きく変わろうとしていることは、専門家の間でも、いろいろと論じられている。先祖代々の墓のあり方とは違った今どきの墓が少しずつ現れ始めている。


1993/10/09 

応募者ゼロの美術館

 この不景気を反映して、今年の公務員試験の競争倍率は軒並み数十倍になっている。数年前には考えられなかったことだ。ところが、松本市が先日行ったある専門職員の募集には誰一人として応募はおろか、問い合わせすらなかったという。
 松本市にとって、市立美術館の建設は長年の懸案事項になっている。市は、来年度から美術館建設に向けた担当事務局を設ける考えで、その「準備室長」役になる学芸員を公募した。その結果が、応募・問い合わせともゼロだったのである。
 学芸員というのは、博物館(美術館なども含まれる広い意味)において専門的業務に従事するための資格で、有資格者は必ずしも多いわけではない。しかも、市の課した応募条件はまことに厳しい。資格保有者で、年齢は三十五歳から四十五歳の働き盛り、公立美術館等で十五年以上の経験があり、松本市に通勤可能、というのである。
 市は、九月十五日付の広報で募集し、九月二十日から三十日の期間に受け付けたというが、こんな短期間に周知徹底することが可能なはずがない。つまり大学を出てすぐから十五年以上、公立美術館等で専門職として経歴を積んだ人は、松本に住んでいるはずがないからである。万一、そんな人がいたとしても、どんな方針で、どんな美術館ができるのかも判然としない現状では、安定した職場を捨ててまで松本市美術館に飛び込もうとは思わないだろう。
 こうした経過を素直に考えれば、今回の公募は、「公募」をしても適任者が出てこないことを口実として「選考による採用」つまり縁故採用を強行するための方便としか思えない。本気で人材を求めているのならば、打てる策はもっともっとあるはずだ。
 これまでにも松本市では美術館がらみの話題がいろいろあったが、私の印象では、部外者には理解しにくい形で事態が進行することが多かったように思う。市民に対して明確なポリシーが示されないまま、不明朗な経過をたどって曖昧な性格の美術館が作られようとしている。私は松本市民ではないが、市民の税金の使い道としてそれが許されるのかどうか、疑問を感じずにはいられない。
 この件については、稿を改めて、さらに考えていきたい。


1993/10/23 

再考・学芸員問題

 前回(九日付)、松本市美術館の学芸員問題を取り上げた。今回はその続きである。
 公募の条件に、公立美術館等での十五年以上の経験、とあることから考えると、市は即戦力となる学芸員を求めていたらしい。美術館新設に向け、その中核となる人物を、というわけだ。年齢条件からみても、その意図はよくわかる。
 学芸員の仕事は、職場によって千差万別である。管理者的な人もいれば、研究者然とした人もいる。職人気質の技術者もいるし、事務的雑用に追われる人もいる。学芸員の仕事は、現実に多様な姿をとっている。こうした多面性を考えれば、現職の学芸員で、自分の適性と職責のズレを抱えている人は少なくないはずだ。
 しかし、今回の公募のような漠然とした話では、そうした潜在的な応募者を引きつけることは到底できないだろう。何しろ松本市美術館は、美術館のもつ多様な機能のうちどういう側面に重点を置くのか、どんな作品を収集するのか、年間の作品購入予算はそれくらいか等々、基本的な事柄の多くがはっきりしていないのである。
 もし、松本市美術館が明確なコンセプトを打ち出し、その実現に参画する学芸員を全国に募集すれば、その仕事に賭けてみようという応募者は少なからずいるはずだ。信大経済学部の例ではないが、しかるべき媒体(美術関係の雑誌など)に、十分な期間をおいて募集広告を出せば、必ず反応は出てくる。
 今回の公募の一件を見ていると、そもそも市は、専門家である学芸員を雇って「準備室長」に据えれば、後はごく簡単に美術館ができ上がる、と考えているように思われてならない。しかし、それは本末転倒である。
 「こうした美術館をつくりたい」という明瞭なイメージがなければ、それを作りあげるための人材も得られるはずがない。何よりまず大切なのは、何を求めて、どんな美術館を目指すのかという青写真を描くことである。
 こうした青写真を作る作業は、本来、市民の間から行われるべきことである。してみると、松本市の場合、その責を担うべき立場にある基本構想策定委員会が、十分機能していない(お役所仕事に埋没している)ことこそが、最大の問題といえそうである。
 学芸員確保の問題にしても、ベテラン学芸員を雇うことを考える前に、現有職員(学芸員でなくてもよい)を各地の美術館に出向させて研修を積ませることや、資格取得を奨励することも考えられるはずである。また、県内の公立美術館との人材交流を考えることも一つの手であろう。今回の件で改めて痛感したのは、松本市の場合、美術館構想へ市民の意見を吸い上げていくための広報・広聴の姿勢が欠けているのではないかという点である。どんな美術館をつくるのか、そのコンセプトは、ある日突然完成品として提示されるべきものではない。荒削りの段階から公開され、批判や議論を重ねながら細部が刻み込まれ、磨かれてこそ、美術館は市民のものになるはずだ。


1993/12/21 

さよなら夜行「鈍行」

 私は仕事柄、東京と松本を行き来する機会が多い、主として利用するのはJRである。特急「あずさ」も当然よく使うが、夕食を兼ねた打ち合わせや、飲み会などが東京であるときには、夜行列車を利用するのが常である。
 ところが、先だってのJRダイヤ改正で、永年愛用してきた中央本線の下りの夜行「鈍行」、つまり夜行普通列車がなくなってしまったのである。中央本線下りには、昨春までは新宿発上諏訪行き、その後は新宿発松本行き(運行上は「甲府行き」で、甲府で停車後「松本行き」となる)があった。これが廃止されたのだ。
 夜行列車には、急行「アルプス」もあり、こちらは今も健在である。しかし、「アルプス」にはいろいろ都合が悪い点が多い。
 一例をあげよう。夜行「鈍行」では、三人掛けのロング・シートを占領して、膝から上の全身を横たえることもできた。これは結構熟睡できる寝方で、私は、シートを確保できるようになる高尾の辺りから、終点の松本まで五時間以上ゆっくり休むのが常だった。
 これが急行の座席なら、せいぜい前のシートを回転させて前の席に両足を投げ出すことくらいしかできない。なかなか熟睡できないのが実際である。
 しかも「アルプス」は、松本には午前四時過ぎに到着するので、のんびり寝てはいられない。うっかり寝過ごせば、大糸線で南小谷まで連れていかれることもある(六年くらい前に一度やった)。
 これまでは、東京で遅くなっても、夜行の「鈍行」で朝七時台に松本までゆっくりもどれば、各方面の連絡列車もあり、何かと都合がよかった。しかし、急行「アルプス」で早朝四時過ぎに松本に着いても、連絡列車はなく、駅前に開いている店はない。仕方なく駅西口から国道まで出て、深夜営業のファミリー・レストランに飛び込むことになる。
 残念ながら「アルプス」では、睡眠時間は十分確保できず、他方では、急行料金に加えて、割高な飲食料金が財布に響く。ダイヤ改正から数週間、つくづく「鈍行」が懐かしく感じられる。


1993/12/28 

干支のイメージ

 毎年この時期には、干支の動物が話題になる。年賀状の用意をと文房具店に出かければ、様々なデザインの犬の姿を目にするし、街頭では、戌年にちなんで犬をあしらったディスプレイを見かける。
 今日、日常生活の中では、干支はほとんど意識されない。年の半ばで不意に「今年はなに年か?」と質問されたら、一瞬とまどう方が普通であろう。
 普通の会話に干支が出てくるのは、生まれ年に関係する場合である。「一回りも歳が違う」といった言い回しはよく聞くし、年齢を婉曲に確認するために干支を話題にすることは多い。もっとも、気の利いた女性は「なに年の生まれ?」と聞かれて「ネコ年」とか「パンダ年」などと応じるかもしれない。
 四歳になる私の娘は巳年の生まれである。つまり「へび年」なのだが、本人は決してこれを認めない。なに年かを聞くと、当然という顔で「うさぎ年」と答える。自分は蛇は大嫌いで、兎が大好きだから「うさぎ年」だという。四歳にして年齢を二つ上にサバ読むとは見上げたものだ。
 確かに十二支の動物のキャラクターは様々で、愛らしいものもあれば猛々しいものもある。こうした干支のイメージは、しばしば人柄と重ねられる。
 辰年や寅年の男性なら、竜や虎にイメージを重ねられるのも悪いことではあるまい。実際、辰年や寅年生まれの男性には、名に辰・竜・寅・虎などの文字が入る例が目立つ。しかし、干支によって性格を「擬獣化」されては迷惑なことも多々ある。「丑年だからのんびりしている」くらいでも、本人には不愉快かもしれない。
 蛇ほど、用の東西を問わず嫌われている生き物も少ないから、わが娘が「へび年」を嫌うのにも一理はある。何しろ、自分の干支は選べないのだ。「巳年は金運がいい」といういい習わしも、とってつけた言い訳のようにしか感じられない。
 さて、私は戌年生まれで、新年は年男ということになる。新年に向けて、自分は周りからどんな「いぬ」に例えられているのか、ちょっと気になるところではある。
 皆様、よいお年を。

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