コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2015
コラム「ランダム・アクセス」
市民タイムス(松本市).
2015/01/26 山本信雄さんのこと.
2015/03/03 桃の節句.
2015/03/17 聖パトリックの日.
2015/04/22 早くも10年.
2015/06/25 竹内淳彦先生のこと.
2015/07/01 学生の労働組合.
2015/12/23 旋回・上昇・眺望.
2015/01/26 山本信雄さんのこと
昨年末、山本信雄さんが亡くなった。その知らせは、唐突に、メールで来信した。
山本さんは東京出身で、東京農工大学の学生時代から上高地の自然に魅せられ、しばしば信州を訪れていた。やがて、上高地で環境ボランティア活動に関わり、上高地一帯で地道なゴミ拾いなどの取り組みを続けながら、ボランティア・ガイドとして上高地の魅力を伝える活動に従事した。
当時の安曇村が、村誌の編纂事業に乗り出し、村誌編纂事務局が設けられると、山本さんはその臨時職員となり、裏方として八面六臂の活躍をした。私が山本さんと知り合ったのは、この頃だった。山本さんは、資料の収集や古老への聞き取りをして、詳細に地名を採録した村の地図を作成し、また執筆にあたったそれぞれの筋の専門家の原稿に遠慮なくコメントを付けた。養蚕場を改装した村誌編纂事務局に伺って、編纂作業の苦労話を山本さんから聞く時間は、実に楽しかった。一臨時職員とはいえ、山本さんが安曇村誌に計り知れない貢献をしたことは、当時を知る人なら誰しも認めるところであろう。
村誌編纂事務局にいた一九八九年、山本さんは上高地自然史研究会という研究者の連絡組織を作った。決して表には立たず、まだ大学院生だった岩船昌起さんたちを前面に立てて会を立ち上げた。やがてこの会には、地形学者の岩田修二先生や生態学者の石川愼吾先生をはじめ、多くの優れた研究者が集い、活発な研究活動が展開された。
村誌編纂の仕事が終わった後、山本さんはしばらく稲核の安曇村資料館(現在の安曇資料館)で臨時職員として働いた。その後も、いろいろな形で上高地、北アルプスの自然に関わる仕事を続けていた。上高地自然史研究会も、活動に多少の盛衰はありつつも存続し、山本さんは亡くなるまで、この会の裏方を担い続けた。
山本さんは、ある種の山男らしく、また理系人間らしく、誰に対しても歯に衣着せずズバズバものを言う人だった。その分、ご自分にもずいぶんと厳しかった。私もいろいろ厳しい苦言をもらったが、いちいちもっともな正論だから、ただただ恐縮するしかない。人生に覚悟をもって、好きなことに賭けて生きている男の姿がそこにあった。
二年前の秋だったと思うが、ひとりで家にいて、夕方、まだ陽のあるうちに風呂に入っていたら、玄関先に誰かが来た。慌てて風呂から出て応答すると、山本さんだった。こちらは裸だったが、脱衣場の窓を開け、すぐにドアを開けると言ったのだが、山本さんは、用があって来たわけではなく、大町の山岳博物館に用事があって出かけた帰りに近いので寄ってみただけだと言って、そのまま窓越しに雑談をした。それが山本さんと会った最後になってしまった。
山本さんには身寄りがいなかった。一時期にはパートナーの方がいたはずだが、最期は松本の独り住まいで、ご遺体が発見された。病気による孤独死だったが、数週間前の研究会では何の異変もなかったというから、命のはかなさを痛感する。結局、山本さんの親族は見つからず、ご遺体はクリスマスの時期に無縁仏として処理された。まだ五十代だったことを思えば、ささやかな縁があったひとりとして、何とも悔やみきれない、残された者にとって苦く、やりきれない亡くなり方だった。
2015/03/03 桃の節句
三月三日は、五節句のひとつである上巳、桃の節句である。
子どもの頃は、この日が近づくと、女の子はお祝いの機会が多くていいな、と子供心に羨ましく思った。五月五日の端午の節句は、男の子のお祝いだが、この日は「こどもの日」でもあり、男の子だけの祭日ではない。小学生だった当時、男性優先の当然視を問題とするジェンダー非対称性の議論などは知る由もなく、端午の節句をそのまま「こどもの日」とすることが孕む問題性など、意識もしなかった。単純に、ケーキを食べる機会が多くて羨ましいという、「餓鬼」らしい思いが遠い記憶になっている。
そもそも、雛、つまり人形は、古来から人の穢れをそれに移し、健康を願う儀式によく用いられた。今でも、紙で作った雛を川などに流す「流し雛」の風習が残る場所が各地にあるが、これは穢れを雛に移して流してしまおうという意味が込められている。また、健康を祈る気持ちは、桃が邪気を払うという、中国伝来の思想と結びついて、桃が開花する時期とされた旧暦の三月上旬の節句である「上巳」の頃に、雛を使った行事が行われるようになった。こうした経緯の中で、もともとは男女を問わなかった節句の行事が、江戸時代のころから、雛人形を飾り、もっぱら女児の成長を祝う祭へと変化したらしい。
もともと旧暦に基づく節句なので、自然のままでは現在の三月三日のころに都合良く桃が開花したりはしない。しかし、当然のように需要が発生するので、近年ではこのタイミングに合わせて桃の花を開花させて枝物を出荷する事業も拡大している。生活の都市化の中で、自然のリズムとはズレた、季節を先取り気味の習俗が定着し、それがビジネス・チャンスを生んでいるのである。この日には、桃のケーキを食べる機会も多いが、桃の収穫時期は夏場の七月から九月だ。当然、いま食べる桃は収穫後に冷蔵したり、保存できる形に加工して、供給されている。これも現代文明の恩恵である。
桃の節句は、女児のいる家庭でなくても、季節の区切りとしてそれぞれの楽しみ方で過ごしたい。その中で、この行事の由来や、古人の思い、現代生活と自然との関わりなどを考え、家族で話し合うひとときがあれば、それは貴いものとなるだろう。
2015/03/17 聖パトリックの日
三月十七日は聖パトリックの日、日本には馴染みの薄いカトリックの聖人の祝日だ。四十年あまり前、漫画『ピーナッツ』でこの日を知った頃、日本では特に何もない日だった。ただし、当時はハロウィンも同様だったから、今とは事情が違う。
聖パトリックは、五世紀前半のアイルランドにキリスト教を広めた、アイルランドの守護聖人である。聖パトリックは、シャムロックと呼ばれる三つ葉のクローバーを使い「三位一体」の教義を説いた。今も、シャムロックや、その緑色は、アイルランドの象徴となっている。
現在のアイルランドは、アイルランド共和国と、島の北東部を占める英国領の北アイルランドに分かれている。アイルランド共和国は二十世紀を通して段階的に英国から独立し、今や完全に独立国家であるが、十九世紀には英国の植民地支配下にあった。その時期には、苛烈な支配を逃れて多数のアイルランド人が故郷を離れ、英国の産業都市の労働者となったり、新大陸アメリカや、世界中の英領植民地へと移住した。このアイルランド人の世界各地への離散、「アイリッシュ・ディアスポラ」によって、世界中にアイルランド系の人々が広がった。
ジョン・F・ケネディがアイルランド系カトリックだったことは有名だが、バラク・オバマも母方はアイルランド系だ。ビートルズのメンバーも、姓からしてアイルランド系らしいポール・マッカートニーだけでなく、ジョン・レノンやリンゴ・スターもアイリッシュの血を引いている。テレビで人気の「パックン」ことパトリック・ハーランも、名から分かるようにアイルランド系アメリカ人だ。
世界中のアイルランド系の人たち、特に、カトリックの信仰やアイルランド人アイデンティティを強く意識する人々にとって、聖パトリックの日は、アイリッシュとしての誇りを示す日である。大方の日本人にとって、アイルランドは英国の陰に隠れまだまだ遠い国だが、米国人、英国人だと思っている身近な知り合いが、実はアイリッシュということも結構あるはずだ。日本では、まだまだ単にアイリッシュ・パブで盛り上がる日なのかもしれないが、他国の歴史を学ぶ好機としても活かしてほしいと思う。
2015/04/22 早くも10年
少々マニアックな話をあえて書く。
リチャード・ドーソンという米国の民俗学者がいた。今では日常的に使われる「都市伝説」という言葉を、1960年代に生み出した人だ。論文で言及する必要があって調べていると、ドーソンがジェームズ・スティーヴンスという人物と論争したという話が出てきた。
スティーヴンスは、ミュージシャンでもあり、「The Frozen Logger」直訳すれば「凍えた樵(きこり)」という歌の作者として有名らしい。インターネットで検索すると、動画サイトYouTubeで、ピート・シーガーやジョニー・キャッシュといった、自分好みの歌い手がこの曲を歌っているのが聴けた。こういうときは、いい時代になったものだと実感する。
曲を聴いていて、どこかで日本語の歌詞で聞いたことがあるような気がし始めた。しかし、誰の何という歌なのか思い出せない。よく似た旋律を知っているのは確かだが、曲名も歌手も、すぐには出て来ない。様々なことが容易に検索できる世の中になっても、うろ覚えの旋律の正体を探すのは容易ではない。なまじ、他のいろいろなことが便利に検索できるだけに、こうした歯がゆい感覚は、何とも気持ち悪い。
少し時間を置いて、「マグロは原爆を…」という歌詞の一部を思い出した。この歌詞は、山之口貘の詩を下敷きに高田渡が歌った「鮪に鰯」のものだった。改めてYouTubeで検索すると、高田渡がこの曲を歌っている動画がいろいろあった。本当にいい時代になったものだ。
動画を見ているうちに、「ブラザー軒」という曲も同様の旋律だったことを思い出した。仙台が舞台の歌だが、高田は仙台には住んでいないと思ったので調べてみると、これは菅原克己という詩人の作品を踏まえた歌詞だった。
「ブラザー軒」は、死んだ父と妹の幽霊が目の前を通る、という歌だが、高田の歌の中では、やはり山之口貘の詩を下敷きにした「告別式」につながるものが感じられる。そこで「告別式」も聴いてみた。
そうこうしているうちに、気づけば深夜零時を回り、日付は4月17日になっていた。何気なくWikipediaの「高田渡」の記事を開いて眺め、愕然とした。高田渡が亡くなったのは、ちょうど10年前、2005年4月16日のことだった。
2015/06/25 竹内淳彦先生のこと
去る6月19日、経済地理学者で日本工業大学名誉教授であった、竹内淳彦先生が死去された。たまたま同じ月のはじめに、長く患っていた自分の父を見送ったばかりだったこともあり、親世代の方々が鬼籍に入る歳回りになったことを、改めて痛感させられた。
竹内先生は、1935年3月、四賀村に生まれた。10歳のときに敗戦を迎えた竹内少年は、やがて、学制改革後の松本深志高等学校に学び、教師を志して東京学芸大学に進んだ。そこで、経済地理学の一分野としての工業地理学の研究と出会い、工業の現場を研究する学究の道に進んだ。
青年学究として最初に取り組んだのは、京浜工業地帯などの自転車工業の研究であった。やがて研究対象は、双眼鏡や写真機、さらに電気機械、工作機械など組み立て機械工業全般へと及び、繊維工業の諸業態にも広がっていった。こうした先生の関心の所在は、製糸業と機械工業が盛んだった、少年期の松本の記憶に繋がるものであったのかもしれない。
注目されるのは、先生の関心が、高度経済成長ただ中の1960年代から、中小・零細企業による「多種小単位生産」に向けられ、そうした用語を論文で用いていたという点である。大量生産から多品種少量生産への転換が叫ばれるようになったのは、石油危機を挟んで1980年代以降であり、「多種小単位生産」ヘの注目には、先生の先見性がよく現れている。
その後、信州大学教授などを長く務め長野県とも縁の深かった板倉勝高先生(1926-94)との共同研究などを通して、竹内先生は高度経済成長期以降の日本の工業の姿を、特に中小企業の現場に寄り添って、検討し続けた。一貫して現場調査の蓄積を重視し、教育へのフィードバックや後進の指導にも熱心であった竹内先生は、学会活動を通して、学閥にとらわれない多数の若手研究者を育成し、編著書を通して彼らに執筆の機会を与えた。
がっしりした体格に、きちんと着こなされた背広、白髪まじりもお洒落に見える竹内先生の風貌は、私には長い間、そうなってみたいが、自分はそうはなれない「大人」の姿に見えていた。先生が去られた今、そんな姿にはほど遠い我が身を、ただただ嘆くのみである。
2015/07/01 学生の労働組合
先日、ユニオン(労働組合)活動をしている現役大学生たちの話を聞く機会があった。大学生が労働組合というと、少々奇妙に思われるかもしれないが、大学生でも高校生でも、働いて賃金を得ていれば、たとえアルバイトであっても労働者としての権利が法律によって守られている。その中には、労働組合を作って、雇用条件を雇い主と交渉する権利も含まれる。
しかし実際には、高校生はもちろん、大学生でも、労働法制の中身などは何も知らない方が普通だ。そこに付け込み、不当な扱いや、明らかに違法な処遇が行なわれることも、しばしばあるという。例えば、制服がある職場の場合、私服から制服に着替える時間は労働時間に算入すべきだが、着替えてからタイムカードを押させる職場は少なくない。また、就業規則への記載がないまま制服のクリーニング代を一方的に負担させたり、退職時に買い取らせるというのは不当な行為だが、しばしば聞かれる話だという。
勤務時間の計算単位を15分など粗い単位にして、それ未満の超過勤務に賃金を支払わないとか、次のシフトの担当者が遅刻だからといって、退勤のタイムカードを押させた後まで居残らせて働かせるのは、サービス残業を強制する違法行為だ。最低賃金制度があっても、試用期間中はそれを下回る賃金しか支払わなかったり、様々な名目で経費と称して金額を差し引いたりと、昔のタコ部屋のような行為もあるそうだ。
そもそも、雇い主側にも、労働法制を理解しないまま、乱暴な形で労働者を雇ったり、解雇したりしている例が少なからずある。たとえアルバイトでも、一定以上の勤務実績がある者は有給休暇をとる権利が生じるが、それをきちんと周知している雇い主は、果たしてどれ程いるだろうか。
ユニオンを作って、雇い主と交渉し始めた若者たちは、厳しい条件下で働くアルバイトたちの,ごく一部に過ぎない。若者の無知に付け込む不当労働行為が蔓延していれば、正社員の処遇にも影響し、労働市場全体に、ひいては社会全体に悪影響が及んでいく。雇う方も、雇われる方も、労働法制の趣旨や内容を分かっていないという危険な状況は、若者たちの未来のためにも放置してはいけない。
2015/12/23 旋回・上昇・眺望
縁あって松本平に住み30年になるが、初めて、松本空港から飛行機に乗って出発することになった。ふだんは、各地へ空路で出張することがあっても、起点はもっぱら東京の羽田空港である。しかし今回は、出張ではなく私的旅行だったこともあり、初めて、松本発の福岡便に搭乗してみた。
当日は、家族に車で送ってもらい、空港へ。甥姪や子供たちが飛行機を見について来たので、一家総出の見送りという雰囲気だ。最近では、海外出張でもこういうことはない。乗り込んだのは黄緑色(後で調べたら、新茶のイメージの「ティー・グリーン」)のFDA8号機、エンブラエルE175。ブラジルの航空機メーカーが製造する中型機である。座席は後方左手の窓側を選んだが、思った通り、ターミナルビルの屋上デッキで見送っている家族の姿が見えた。初めて飛行機に乗った、40年以上前の羽田空港を思い出す。
エプロンを離れて滑走路の北端まで走行していく間、外を見ていると、滑走路脇のフェンス越しや、運動場付近で、いろいろな人たちが立ち止まって離陸を見守っているのに気づいた。1日に1-2本しか旅客機の離着陸はないから、物珍しいのだろうか。まあ、自分がたまたま公園にいたら、やっぱりしばらく見ていそうだから、そんなものなのだろう。
滑走路の北端、アルウィンの近くで方向を変えた8号機は、エンジン全開で南へ進み、ターミナルの建物の少し手前から浮上し始めた。離陸後、間もなく、機体は大きく左に傾いた。一瞬ぎょっとしたが、すぐに、高山に囲まれた盆地である松本平から飛び立つには、旋回しながら上昇を続けなければいけないのだと気づいた。
機体は大きく傾き、下を向いた窓からは地上の様子が地図を見るようによく分かる。初めて飛行機に乗った時の「地図と同じだ」という感動を思い出した。機体を少し建て直し、なお上昇していく途中では、ちょうど稜線の高さから、穂高連峰をほぼ水平に遠望する一瞬があり、思わず声を上げた。さらに旋回と上昇が続き、美ヶ原を眼下にして、上田方面が見え、最後は、塩尻峠ごしに、諏訪湖一帯、そして遥か遠方に富士山を眺望するという贅沢も味わった。南アルプスにかかるあたりから、一面の雲となり、そのまま福岡まで何も見えなかったが、離陸時の眺望だけでも、大きな価値があると思ったフライトだった。
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