コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2008

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2008/04/09 メールで、電話で.
2008/06/10 ピッチピッチ チャップチャップ.
2008/07/11 「いらっしゃいませ」考(上).
2008/08/05 「いらっしゃいませ」考(中).
2008/09/09 「いらっしゃいませ」考(下).
2008/10/28 「いたずらかおごり!」.
2008/12/11 ほろ酔いモドキ.


2008/04/09 

メールで、電話で


 つい先日、携帯電話に「セントラル・サポート」なる見知らぬ会社からのメールが来ていた。メッセージを読んでみると、以前に登録した情報サイトについて無料期間中に退会手続きがなく、いろいろ料金が発生しているから支払え、という内容だ。このまま放置すると、「身元調査後、ご自宅やお勤め先への回収業者による料金回収となります」などと言葉こそ丁寧だが、脅し文句が並び、穏便に解決したければ電話するようにと、東京の電話番号が記されている。
 もちろん、これは架空請求の詐欺メールである。文面には「総合情報サイト」というだけで、何というサイトのことなのか、いつ頃のことなのか、また、債務額はいかほどか、など具体的なことは何も記されていない。不特定多数にメールを送り、「ひょっとすると」と思い当たった人が不安に駆られて電話してくるのを待ち構えているのである。
 こうした詐欺メールは、情報技術の進展とともに増加し続けている。念のため警察に連絡したところ、最近は、携帯電話の番号だけで長めのメールが送れるので、機械的にどんどん詐欺メールを送信する手口が広がっているらしい。
 こうしたメールが来たら、絶対に、返信したり、指定された番号に電話をかけてはいけないそうだ。メールや電話で応答してしまうと、相手にアドレスや電話番号を把握され、そこから様々な個人情報を探られてしまうおそれがあるからだ。怪し気なメールは、とりあえず無視し、もし不安なら警察に相談するのがよい。
 実は、この手の話は、何も詐欺メールばかりではない。ふた月ほど前、自宅に「総合管理センター」を名乗る女性から「少し前に高額なおふとんを購入されましたよね」という電話がかかって来た。もちろん思い当たる節はない。怪しいと思ったので、「女房でないと分らないんで、後で連絡させますから電話番号を教えて下さい」と応じてみた。すると、「またご連絡しますので結構です」と話を切り上げ、電話は一方的に切られた。
 こうした電話の狙いは、高齢者、特に単身の方々なのだろう。自分の親戚にも一人や二人だけで生活している高齢者がいるが、こういう電話があったら危うい気がする。念のためネットで関連情報を検索してみたが、こちらの応答次第でいろいろな方向に話が展開させるシナリオが用意されていたようだ。
 もっとも、高齢者ばかりではなく、学生など若者の間でも、儲け話がらみで金を騙し取られたという話を聞くことは結構ある。こうした怪し気な話から生じる詐欺被害は、誰にとっても、決して他人事ではないのだろう。


2008/06/10 

ピッチピッチ チャップチャップ


 梅雨に入った。夜には、辺りの田圃から蛙の合唱が賑々しく聞こえ、それに時おり、屋根を叩く強めの雨音が加わる。わが家は普通の住宅とは少々造りが違ってる。普段いることが多い部屋には天井がなく、トタン屋根に落ちる雨の音が直に部屋の中に響く。おかげで、雨の振り始めはすぐに気づくし、雨脚の強弱もよく分る。
 わが家には、書籍類が多くあるので、湿度が上がる梅雨の時期には、いろいろ気をつけなければいけないことがある。蔵書の整理が追いつかずに、段ボールに入ったままの本が増えると、眼が届かないところで、湿気やカビにやられてしまうおそれも出てくる。愛書家としては、梅雨は疎ましい季節である。
 愛書家ならずとも、雨が続けばじめじめして不愉快だろうし、梅雨時が体調を崩しやすい時期なのも事実である。しかし、どういうわけか、子供のときから梅雨という季節には「嫌いだ」という感情を持ったことがない。子供の頃、雨が降る日は、何だかわくわくして、いわば「日常の中の非日常」のような感覚があった。この感覚は、今もうっすらと残っているように思う。
 雨という、厄介な相手に対し、雨傘や長靴やレインコートといった特別な防御のための諸々を身にまとい、普段とは異なる様相の通学路を歩いて行くのは、ちょっとした冒険であった。寒い時期の氷雨となると嫌な思いも強かったが、梅雨から夏場の雨は楽しい経験の記憶と結びついていることが多い。
 「雨 雨 降れ 降れ」と歌い始める、北原白秋が歌詞を書いた童謡「あめふり」は、このわくわくした感覚を巧みに捉えている。中山晋平作曲の軽やかに跳躍する旋律と、ポピュラー音楽では「シャッフル」と呼ぶ三連符の「タンタタンタ」というリズムが相まって、実は母親の「お迎え」よりも雨降りを「嬉しい」と感じている子供の心が伝わってくる。「あめふり」は、八十年以上前、大正末の作品なので、「蛇目(じゃのめ)」のように、今日では滅多に聞かなくなった言葉も使われているが、さほど古い印象を与えずに今でも幼稚園や小学校で歌い継がれているようだ。
 思えば、自分が子供だったころに比べ、道は舗装され、泥道を歩くことは減り、大人でゴム長靴を履いている人は激減している。傘は洋傘ばかりになり、それも自動開閉する折りたたみ傘が主流だ。一方では、気楽に使い捨てられるビニール傘が登場し、かなりちゃんとした傘でも、名前を書かないことが多くなっている。当たり前のことだが、雨具など雨の日の風俗も、時代を反映してどんどん変わってきているということだ。
 ついでながら、雨の中、体を濡らして帰宅し、直ぐに入る風呂は実に気持ちがよい。服にしみ込んで体を濡らした雨も、高い湿度に吹き出た汗も、すべてを一気に流して湯に浸かるひと時は、至福の時間である。


2008/07/11 

「いらっしゃいませ」考(上)


 日本語の乱れといった話題になるとき、よく取り上げられる例に「いらっしゃいませこんにちわ」がある。今では、あちこちの店でごく普通に耳にする客への挨拶だが、一部ではたいそう評判が悪い。特に「いらっしゃいませ」と「こんにちわ」で区切らず、一気に棒読みするように発声することを、不愉快に思う人は少なくない。インターネットで検索すると、この点を捉えて問題視している議論がいろいろ出てくる。
 ここで、政府の定めた「現代仮名遣い」に反し、敢えて「こんにちわ」と書いている挨拶の言葉は、本来「こんにちは=今日は」と書き、名詞「こんにち=今日」に係助詞「は」が付いた句である。つまり、それだけでは独立した文にならない、文の断片のようなものである。もともと「今日は、ご機嫌いかがでしょうか」とか、「今日は、お日和がよろしゅうございます」といった口上の常套句が簡略化され、冒頭の句のみで挨拶になった。葬儀の際に、「この度は…」とだけ発声して以下の言葉を濁すのと、同じような変化である。
 私は、ふだんは「現代仮名遣い」に従って「こんにちは」と書くが、係助詞句としての原義を失って単なる挨拶になった場合を「こんにちわ」と書いて、原義と区別することもある。ここでも「こんにちわ」としているのは、単なる挨拶の場合である。ちなみに、平仮名書きよりも片仮名書きの方が、「コンニチワ」と書く人が増える。これは片仮名が音写の文字としてよく使われるからであろう。
 さて、もともと「いらっしゃいませ」は尊敬語「いらっしゃる」を用いた敬意を含む表現であるが、「こんにちわ」には、敬意が示されない。「いらっしゃいませ、おはようございます」と「いらっしゃいませ、おはよう」を考えれば、前者には違和感はないが後者には不快感を覚える人が多いことだろう。「おはようございます」には丁寧語による敬意表現が入っているが、「おはよう」にはそれがない。
 棒読みの「いらっしゃいませこんにちわ」だけでなく、区切って「いらっしゃいませ、こんにちわ」と言ったとしても、前半で尊敬語を用いながら後半で敬語がまったく姿を消してしまうと、話者が相手に敬意を持っているのかいないのか、与えられる情報の中に矛盾が生じる。これでは、日本語の文として誤りとまでは言いにくいものの、納まりの悪い表現になってしまうのである。
[つづく]


2008/08/05 

「いらっしゃいませ」考(中)


 さて、前回(七月十一日付)書いたように「いらっしゃいませこんにちは」の評判は、かなり悪い。しかし、敢えて少し見方を変えて考えてみたい。
 そもそも「いらっしゃいませ」は、<行く・来る・居る>の尊敬語「いらっしゃる」に丁寧語の「ます」が付いた「いらっしゃいます」の命令形である。意味の上では、<行け・来い・居ろ>にあたる内容を、敬意を表する相手に丁寧に求める場合の表現だ。例えば、店の前の通路を行き交う人々を店に呼び込むために「いらっしゃいませ!」と声をかけるのは、<来い>に敬意を込め、「おいでください」とか「お入りください」と言っていることになる。
 しかし、店に入ってきた客への「いらっしゃいませ!」は、どう理解すべきだろうか。既に店に入って来たのだから<来い>はおかしいし、<行け>でもない。また、客は帰ろうとしている訳ではないから<居ろ>というのもおかしい。
 旅館などで、亭主や女将が、「ようこそいらっしゃいました」と挨拶するのは、命令形ではなく「いらっしゃいます」の連用形に過去を示す助動詞「た」が接続したもので、「よく来た」に敬意を込めた表現として適切なものだ。もちろん、まだ店に入っていない往来の人に「ようこそいらっしゃいました」と呼びかけることはない。もしあるとしたら「この町によく来た」という意味でであろう。
 しかし、客が旅館や店に入ってきたところで、「いらっしゃいませ!」と元気よく挨拶されても、言葉の本来の意味を考え出すと、何と言いたいのかはさっぱり解らない。おそらく、挨拶の声を出した当人に、「今、あなたが私に発した命令は、<行け・来い・居ろ>のいずれなのか?」と尋ねてみても、豆鉄砲をくらった鳩のようにキョトンとされるだけであろう。
 要するに、「いらっしゃいませ」は、本来は店の外へ向かった呼び込みの声であったものが、単なる客への呼びかけの声として、原義を失って定着している表現なのである。ただ「いらっしゃる」と「ます」がそれぞれ尊敬語と丁寧語であり、全体として何らかの敬語であるという認識は残っていて、それが、この言葉を、とりあえず客への挨拶や呼びかけとして便利に使いたくなる動機になっているのだろう。
 少し検索すると、インターネットの上には「いらっしゃいませこんにちは」を槍玉に挙げる意見はたくさんあるのだが、店に入った客に「いらっしゃいませ」ということの不思議さを論じた文章は今のところ見つけていない。私と同じ疑問をもつ人は、確実にいると思うのだが、数の上では決して多くないのだろう。
[つづく]


2008/09/09 

「いらっしゃいませ」考(下)


 前々回(七月十一日付)、「いらっしゃいませこんにちは」への否定的な見方を紹介し、前回(八月五日付)は、あまり気づかれていないが「いらっしゃいませ」自体が原義を失った表現であることを説明した。最後に、「いらっしゃいませ、こんにちわ」をひっくり返した、「こんにちわ、いらっしゃいませ」という表現について考えてみよう。
 店員が、店の前を往来する人々に、まず挨拶として「こんにちわ」と声をかけて注意を喚起し、店に「来てください」「入ってください」という意味の敬意を含む表現として「いらっしゃいませ」と続けるなら、日本語としての矛盾は小さい。これは、例えば、「約束通り履行してください」と「お約束通り履行しろ」で、敬意が後半だけにある前者は自然だが、敬意が前半だけにある後者は文として破綻しているように思われるのと同じである。文の前半に敬意が欠けていても、いったん示した敬意を後半で引っ込めるよりは違和感は小さいのである。
 前回説明したように「いらっしゃいませ」も原義は意識されず、単なる客への呼びかけとして定着しているのだとすれば、店に入ってきた客に「こんにちわ、いらっしゃいませ」と挨拶しても、違和感を覚える人はごく一部であろう。
 もっとも、「こんにちわ、いらっしゃいませ」が無理なく受け止められるのは、あくまでも挨拶の「こんにちわ」と、敬意のある命令としての「いらっしゃいませ」を区切って了解する場合である。「こんにちは」を係助詞句とし、両者を一体の文と捉えて「こんにちは、いらっしゃいませ」としても、文は成り立たないか、「今日は来い、明日は来るな」というニュアンスの、無理がある文になる。
 「いらっしゃいませこんにちわ」に違和感をもつ人が多いのに、店に入ったとき言われる「いらっしゃいませ」を不思議に思う人が少ないのは、敬語などの言葉遣いに敏感な人でも、言葉の本来の意味には意外に無頓着だということだろう。
 日本語に限らず、言葉は生き物であり、日常の実践の中で言葉の意味はどんどん変化していく。もともと誤用だった表現が、やがて定着して正しくなる例もあるし、逆もある。ある人にとって許容しがたい誤用が、別の人には適正だということもある。
 日本語の乱れについては、単に正誤を論じるだけでなく、正誤の間にあるグレーゾーンに注目して、なぜそのような表現が現れるのかを分析することが大切である。世代や立場で異なってくる多様な正誤のニュアンスを、重層的、立体的に捉える見方ができるようになれば、日本語の変貌の最前線が、身近にいろいろと見えてくることだろう。


2008/10/28 

「いたずらかおごり!」


 このところ、魔女風のマントと帽子、カボチャのお化けの提灯、幽霊を思わせる仮面など、ハロウィン関連商品や飾り付けを街でよく見かける。モチーフの多くが、不気味な黒と、カボチャのオレンジ色だ。
 ハロウィンは、キリスト教の諸聖人の日(万聖節)の前夜、十月三十一日の夜の行事として英国と米国で定着している。諸聖人の日は、宗派によって扱いが異なり、カトリックでは十一月一日と定められ、翌二日の死者の日とともに、重要な行事である。
 しかし、われわれがイメージするハロウィンは、カトリックの行事とはかなり趣が異なる。むしろ、英国で、古来の収穫祭の習俗がキリスト教と結びつき、宗教改革などを経て教義上の意味づけが変質した後も続いた行事が、新大陸の米国でさらに発展し、現在の形になったと理解すべきであろう。
 私が子どもの頃には、ハロウィンは恒例の行事ではなかった。最初にハロウィンを知ったのは、三十五六年前、中学生の頃に見た対訳版『ピーナッツ』、つまり、チャーリー・ブラウンやスヌーピーの漫画を通してだった。訳者の一人は谷川俊太郎だった。シーツを被ってお化けに仮装した子どもたちの「いたずらかおごり」というセリフが印象に残り、この習慣の断片を知った。これは「お菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうぞ」というニュアンスだ。当時、日本ではハロウィンはほとんど知られていなかったと思う。
 インターネット上の百科事典「ウィキペディア」によると、ハロウィンが日本で普及したのは、一九八二年の映画『ET』がきっかけだったらしい。その後、東京ディズニーランドが一九八三年に開園して、ハロウィンを演出に取り入れたことなども影響力があったようだ。
 一九九二年に、米国ルイジアナ州で、ハロウィンの仮装をしていた日本人留学生(高校生)が、誤って訪問した家の主人に射殺される事件が起きた。この時の報道では、米国のハロウィンの習慣について、かなり丁寧な説明がなされていた。当時は、仮装パーティーなどの具体的イメージは日本には希薄で、説明が必要だったのだ。
 さて、日本のハロウィンはまだまだ歴史が浅い。行事を行う側にも、本来の意味はほとんど意識されていない。宗教色を脱した日本のハロウィンは、今後どのような行事として定着していくのだろう。また、世界の人々、とりわけ英米人の目には、日本のハロウィンはどう映っていくのであろうか。気になるところである。


2008/12/11 

ほろ酔いモドキ


 年末、忘年会の季節である。私は全くの下戸で、酒を断れる立場と年まわりになってからは、酒を飲むことは滅多にない。好奇心は今でも旺盛な方なので、珍しい未知の酒があると、少しばかり舐めてみて味見をすることはあるが、ビールやワインはもちろん、梅酒や甘酒も、ほとんど口にしない。時には、料理の隠し味に入っている日本酒や、洋菓子の風味付けの洋酒のおかげで、気分が悪くなってしまうこともある。
 こういう体質なのだが、どういうわけか酒の席の雰囲気は嫌いではない。忘年会も新年会も、誘われてスケジュールが空いていれば、ふらふらと出かけて行く。結果的に、酒抜きで大いに食べ、語り、笑い、時には歌って、酔っているわけでもないのに満腹を抱えてふうふういいながら、これまたふらふらと帰路につく。後で冷静になってから、体重計が怖くなることは言うまでもない。
 忘年会に限らず、酒の席というのは不思議なもので、同席した出席者がビールで乾杯し、やがて日本酒やらワインやらと進んで、徐々に出来上がってくると、一滴もアルコールを採っていないこちらも、適度に顔が紅潮し、気分が高揚してくる。言葉を交わしている相手に合わせて、こちらも心理的な波長を合わせて同調しようとしているのだろう。酒に頼らずとも、適度にドーパミン(快感にかかわる脳内物質)が出てくるのか、傍目にはほろ酔いのように見える状態になる。
 もちろん、これはあくまでも、ほろ酔いモドキ、ナンチャッテほろ酔い、とでも呼ぶべきもので、実際に酒に酔っているわけではないので、呂律が回らなくなったり、悪酔いで介抱されたり、二日酔いになったり、記憶が飛んでしまったりはしない。これで暴食さえしなければ健康的なのだが、そこは食い意地が頭をもたげ、なかなか節制は難しい。時には、同席者から手をつけない料理を回してもらい、「下戸の肴荒らし」と相成る次第である。
 実際、そうしたときには、何を食べても美味しく感じられるし、どうでもよい雑談も愉快に感じられる。こんな調子では、アルコールが入っていなくても酔っているのも同然に見られて文句は言えない。酒ではなく、米の飯を食っての酔いだからといって「粋」になるわけでもない。アルコールを採らず素面のはずなのに、ずっとほろ酔い同然とは、「酔生夢死」そのものかもしれない。
 酒席では、出席者は楽しく盃を交わし、酔いに身を任せてこそ座が盛り上がる。こちらも気持ちの上では心地よく酔ってはいるが、ハメを外すわけではない。帰りもいつも自分で運転して帰るし、時には運転手役になって同席者を送り届けることもある。見方によっては、損な役回りという気がしなくもない。盃を重ね、ほろ酔いを過ぎてハメを外し、普段とは打って変わって陽気になっている御同輩を見ていると、何だか羨ましい気にもなってくる。これも、ほろ酔いモドキの故かもしれない。


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