コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2006
コラム「ランダム・アクセス」
市民タイムス(松本市).
2006/01/17 うたた寝、熟睡、夢見床.
2006/02/27 神戸空港のこと.
2006/03/27 ふきのとう.
2006/05/21 造型から造形へ.
2006/07/28 12キロの例規集.
2006/08/11 教授、助教授、准教授.
2006/09/01 カエサルを切り取る.
2006/09/29 愛知県・県道一号線.
2006/11/03 教室のビートルズ.
2006/11/22 レス・ポール・ナイト.
2006/12/29 法務大臣の署名.
2006/01/17 うたた寝、熟睡、夢見床
先日、かかりつけの医師から、睡眠について面白い話を聞いた。その先生によると、人間は八時間も寝る必要はないそうなのだ。
人間の睡眠には、熟睡の状態と、眠りながらも夢を見て眼が動いている状態がある。後者を、「早い眼の動き」を意味する英語の頭文字から「レム睡眠」と言い、前者は「レム睡眠ではない」という意味で「ノンレム睡眠」と言う。前者が深い熟睡で、後者が浅い眠りである。
夜、床に就くと、最初に眠りに落ちるまでやや間があった後、熟睡が始まってしばらく続き、やがて浅い眠りに移る。この長めの熟睡と短い浅い眠りのサイクルは、一回がおよそ九〇分、つまり一時間半で、これには個人差がほとんど無い。夜から朝まで八時間眠る場合、このサイクルが二回繰り返され、その後は深い眠りが長く続くことはなく、レム睡眠に移っていく。
最近では、この熟睡するサイクル二回分、つまり三時間と少しを、きちんとした時間帯に連続して取れれば、健康に必要な睡眠は確保できるという説が有力であるそうだ。つまり、上手な睡眠の取り方さえできれば、睡眠時間を長く確保する必要はなく、概ね四時間も寝ればよいというのだ。
先生の話では、この熟睡の四時間は必ず午後十一時から午前七時の間に取ることが必要だという。また、この話を聞いて少し調べてみたら、午後十時半から午前二時半までの四時間と、午前二時から六時までの四時間では、後者の方が寝覚めがよいという実験結果も見つかった。してみると、ナポレオンの三時間睡眠という伝説も、受験勉強で聞かれる「四当五落」、つまり四時間だけ寝て猛勉強すれば合格だが、五時間寝ると危うい、という文句も、あながち荒唐無稽ではないのかもしれない。
しかし、仕事の都合で午後十一時から午前七時の間には休めない人も当然いる。そうした人は、午前十一時から午後五時の間に熟睡の四時間を取るのがよいそうだ。夜勤で働く人は、がんばって午前中は起きていて、早めの昼食をとってからゆっくり熟睡するのがよいわけだ。また、夜休める普通の生活をしている人も、この時間帯なら、昼寝をしても夜の熟睡に影響しないらしい。
体が疲れていると、空いた時間についつい横になってうたた寝をすることも多くなるが、細切れに三時間に満たない睡眠をたくさんとっても、脳は休めていないという。また、時間帯が合っていないと、やはり脳は十分に回復しないそうだ。
よい睡眠をとるためには、眠ってはいけない時間帯を意識するのがよい、というのが先生のアドバイスだった。つまり、午前七時から十一時までと、午後五時から十一時までは、必ず起きているように心がけるのである。この時間帯に眠ってしまうと、眠るべき時間に快眠ができないからである。よく眠るために、ちゃんと起きているというのは、一種の逆転の発想で、目から鱗だった。
2006/02/27 神戸空港のこと
二月十六日、神戸市沖の人工島に、神戸空港、通称マリンエアが開港した。一九八二年、神戸市の「神戸沖新空港計画試案」発表から二十余年、また、一九九一年に国の「空港整備五箇年計画」に組み入れられてから十五年で、ようやく開港に漕ぎ着けた新空港である。神戸空港の開港で、関西では、大阪国際空港(伊丹)、関西国際空港と、三空港が競合する時代になった。
一部の報道は、神戸空港の構想の起点を、一九六〇年代にはじまる当時の関西新空港構想まで遡らせていた。結局、この新空港は神戸ではなく泉州沖に建設され、現在の関西国際空港となったが、その経緯を踏まえれば開港は四十年来の悲願だったことになる。
しかし、さらに遡る時期にも、先駆的な構想があった。橋爪紳也『あったかもしれない日本』(紀伊国屋書店、二〇〇五)によると、昭和の初め、一九二九年に大阪飛行場が木津川尻に開設された直後から、神戸に近い阪神間に飛行場を設けようという動きがあったという。当時は、水上飛行機の役割も大きく、飛行場には陸上の滑走路とともに、水上飛行機が離発着する水面が望まれていた。
港町である神戸では、地元の実業界なども、飛行機が登場した初期からこの新たな輸送手段への関心が高かったようだ。早くも一九二八年には、現在の西宮市鳴尾浜への飛行場建設計画があり、一九三三年には現在の尼崎市の埋め立て地に飛行場を建設することが提起されていた。いずれも、神戸の実業界から起こった動きであった。
結局、一九三六年に、陸上機専用の「第二飛行場」を内陸に建設することが決まり、これが後に拡張整備されて伊丹空港となった。空港は大阪府と兵庫県の境界地域にあったが、神戸が描いた阪神間の臨海空港という夢は破れたのである。この時点を起点とすると、神戸空港の開港は七十年ぶりの雪辱となる。
時代が移り、戦後、飛行機が大型化し、ジェット化が進むと、飛行場は拡張が必要になり、騒音問題などが深刻化した。私は一九六〇年代前半に、伊丹空港に近い豊中市に住んでいたが、轟音を立てて離着陸する旅客機の姿は印象深く、今でもよく覚えている。
そうした流れの中で、近年では、埋め立て地、特に人工島の空港が、将来の拡張性や騒音問題の軽減といった観点から注目されてきた。また、他方では巨額の資金と大規模な環境改変を伴う建設手法への批判も強く、公共性の高い事業を民間会社が経営するという形態にもいろいろ議論がある。
今のところ松本空港から神戸空港への便はないが、神戸空港と長野県知事との多少の縁をご存知の方は少なくないだろう。開港した神戸空港が、今後どのように経営されるのか、他山の石として見守っていくべきであろう。
2006/03/27 ふきのとう
ひと月ほど前、まだまだ寒いと思っているうちに、わが家の庭のふきのとうが「ふきみそ」になって食卓の上に乗った。量は少ないが、庭先に顔を出したふきのとうで作ってもらった一品は、思い込みも入って格別の味であった。
もともと自生していたのか、前住者が植えたのかは知らないが、わが家の蕗(ふき)は、何も手入れをしなくても、毎年、庭のあちこちに姿を見せる。少し調べてみると、植物としてのフキは、キク科の多年草で日本原生種とされている。多年草は、地上に出ている部分が冬に枯れても、地中の根はしっかり生きていて、春がくればすぐまた芽吹く。まだ雪の残る早春から姿を現すふきのとうは、フキの花のつぼみである。
日本原生種であるフキは、もともと日本の風土に育まれた植物であり、早くから栽培され、食用にもされていた。平安時代には、既に野菜として扱われていたというし、現在、食用の野菜として広く流通している「愛知早生ふき」は、江戸時代に作り出された品種らしい。蕗の味は、歴史のある味なのだ。
食材としての蕗は、ふきのとうだけでなく葉や葉柄にも独特の苦みがある。しかし、この苦みは、佃煮などに上手に加工されると、独特の風味がある味を演出する。子どもの口には合わないかもしれない、大人の味だ。葉柄を煮た伽羅蕗(きゃらぶき)は、私の大好物の一つである。しかし、若々しい苦みが春そのものを思わせるふきのとうの苦みは、何よりも蕗らしい味わいだろう。
つい先日も、今度は天ぷらになって、ふきのとうが食卓に登場した。ふきのとうとして食べられるのは、もうそろそろ限界らしい。春の訪れを告げたわが家の庭のふきのとうに感謝しながら、おいしい苦みを楽しんだ。
もうしばらくすると、今度はたらの芽が現れる。こちらは、前住者が植えたらしく、庭の一角に群生している。中には成長しすぎて高木になっているものもあるが、季節になると、小振りながらどっさりと芽が採れ、毎年、何度かに分けて天ぷらでいただいている。また、量は少ないが、よもぎが庭の一角に姿を現すのもそう遠くないはずだ。
もともと野菜には、それぞれの旬がある。しかし、今や野菜類は、国内外各地の産地から消費市場に流入する。ほとんどの野菜は一年中いつでも簡単に手に入るようになり、ともすれば私たちは季節と野菜の関係に疎くなっている。わが家の食卓に上った庭の食材は、そんな自分の鈍感さを気づかせてくれる。
にがにがし
いつまで嵐
ふきのたう
山崎宗鑑
2006/05/21 造型から造形へ
随分と遅ればせだったのだが、五月七日まで松本市美術館に巡回していた展覧会「造形集団海洋堂の軌跡」に足を運んだ。前々から気にはなっていたのだが、ついつい先延ばしにしてしまい、結局、開催期間の最後が近づいてから見に行くことにしたのである。
美術館の普通の展覧会とは大いに趣きが違い、ここでの主役は、手のひらに載るほどの小さな「食玩」や、アニメやヒーローものの「フィギュア」など、要は、駄菓子のおまけか子どもの玩具としか見えないものである。
「食玩」とは「食品のおまけの玩具」として出回るオモチャのことだ。私が子どもの頃は、おまけといえば「グリコ」だった。近年では、食品の流通ルートに玩具を乗せる方便として食玩扱いをしているものの、実態は主客が転倒した「食品がおまけの玩具」がコンビニやスーパーに並んでいる。
もちろん、本来の意味のおまけ類も多様化している。コンビニでは、飲料などに小さな玩具のおまけがよく付いている。また、フリーマーケットやリサイクル店では、こうした景品類が、商品として並んでいる。
この種の品には粗雑なものも多いが、中には精巧さに眼を見張るものもある。海洋堂は、精密な造作でこの分野を引っ張り、近年のブームの立役者として急成長を遂げてきた。今回の展覧会は、その歴史や背景を回顧するものである。
模型の販売店として「売る」立場から出発した海洋堂は、やがて一九八〇年代に「ガレージ・キット」という少数生産の手作りフィギュアの分野で「作る」側に転身した。そして一九九〇年代に食玩のブームが到来し、海洋堂らしい、手作りを踏まえた創作的発想が、広く一般にも知られるようになったのである。
こうした、いわば玩具と芸術作品の境界地帯で、多数の作品を日々生み出している技術者を、海洋堂は「造形師」と呼んでいる。プラモデルなどの部品は金型などで成型するものだが、その原型を作る職人を一般的に「造型師」とか「原型師」という。「造型師」が一つのオリジナルを作成すると、それから型が取られて、無数の複製が成型加工によって量産さるわけだ。この言葉を踏まえつつ、ハードウェアとしての「型」ではなく、ソフトウェアとしての「形」を作るという意味で、表記に変化が生じたのだろう。「造型師」から「造形師」への転換には、「型」を作る技術者から「形」を作る表現者へ、あるいは「工芸」という言葉の中で、比重が「工」から「芸」へ移っていく感覚がある。
工芸の分野は、絵画や彫刻などに比べ、芸術としてさほど高尚とは見なされない。今回のような展覧会が、デパートの催事場などではなく、公立美術館で開催されることに違和感を持つ向きもあるだろう。しかし、「魚屋茶碗(ととやのちゃわん)」のように、実用品であった陶磁器や漆器、あるいは根付などは、時代を経て美術品として高く評価されることがある。工芸品には、周縁の位置から美術や芸術の概念を変化させていく可能性が秘められている。海洋堂が創造してきた世界も、ポップアートなどの複製芸術の延長線上で、美術の概念を揺さぶっているのである。
2006/07/28 12キロの例規集
七月十九日の安曇野面に、例規集をめぐる安曇野市議会の全員協議会の議論が紹介されていた。例規集とは、公共団体が定めた条例や規則類をまとめた、通常は辞書のように分厚い冊子のことだ。地方自治の運営は、国の法律や命令の類にも従うが、市町村の例規集は、地域の実情を踏まえた行政のローカル・ルール集ということになる。
三町二村が合併した安曇野市は、旧町村から引き継いだり、市制施行後に制定した条例や規則類が膨大な量にのぼり、これを網羅した例規集をまともに作ると、重さが十二キロほどになってしまうらしい。広辞苑なら5冊分だ。これを製本する経費は五十冊で百八十万円、一冊(一セット?)あたり三万六千円である。
今回、市の総務課は、例規集のCD―ROM版を作成して議員全員に配布し、既に予算が承認されている例規集の製本費執行の要否を全員協議会に諮った。一枚のCDに例規集の全ての内容が収まるのだから、これで冊子版に代えられれば、大幅な軽量化、紙の省資源である。しかもCD―ROM版の制作費は、冊子版とは桁が二つ違うくらい安い。しかし、全協では甲論乙駁があり、結局、新市最初の例規集は印刷製本されることになった。
印刷は、文字データを多数の人間が共有する古典的な方法だが、デジタル技術の発展は、印刷に代わる様々な手段を生んできた。冊子版を五十部作っても、それを利用できるのはせいぜい数百人であろう。しかし、デジタル化されたデータは複写が容易で、より多くの人々が複製を繰り返して利用を広げることができる。また、データの検索性も極めて優れている。条例類のように、公開性の高い文字情報は、複製が容易なデジタル技術との相性がよい。
CD―ROM版の例規集が1枚あれば、複製を作ることは容易だ。市の総務課に出向いて、一般市民へのCD―ROM版の配布や、複製の許可はしないのかとたずねてみたが、回答はどちらも「ノー」だった。率直なところ、せっかくデジタル化した意味がない、と思った。
デジタル化されたデータは、インターネットで世界中に公開することも簡単にできる。自治体例規集のネットへの公開は、既に全国的に進んでおり、現在、例規集をネット上で公開していない長野県内の市は、飯山市と安曇野市の二市だけである。また、松本平では松川村も例規集をウェブに上げている。安曇野市民としては、隣接自治体より立ち後れ気味の現状を残念に思っていたのだが、総務課では、市としてもネットの重要性は認識しており、例規集のウェブ公開の準備は既に業者へ発注されている、とも説明された。順調に行けば九月には、安曇野市の例規集をインターネットで閲覧できるようになるそうだ。これを聞いて、わが市役所も何とか頑張っているのだな、と思い直した。
これまで、例規集に収められた地域行政のローカル・ルールは、わざわざ役場に出向いて問い合わせたりしない限り、どのような条例や規則があるのかを知ることも難しかった。例えば、図書館などでの一般住民への例規集の公開も、従来はあまり例がなかった。例規集のネットへの公開は、市民が必要に応じて行政のルールを的確に知ることを可能にする、地味ではあっても民主主義の根本に関わる大事な取り組みである。今後とも、こうした方向で、新しい技術を活かしつつ情報公開が進むことを期待したい。
2006/08/11 教授、助教授、准教授
実は、今春から「教授」に昇格していたのだが、これを市民タイムスに伝えるのを失念しており、前回と前々回分ではコラム末尾の肩書きが「助教授」のままになっていた。これまでは、助教授なのに「教授」として新聞紙面に名前が載ることが何度かあり、これも一種の新聞辞令かと思っていたが、自分の不注意で逆の間違いを起こし、何とも情けなく思う次第である。
世間には、大学の教員はみんな「教授」だと思い込んでいる人もいる。大学生にも教員すべてを「教授」と呼ぶ者がいるが、これは誰彼見境なく「社長!」と呼びかけるのと同じで、少々見識が疑われる。公務員や会社員と同様に、大学の教員にも職位職階はある。ただし、組織の性格を反映して、職階の数は少ない。
通常は、「教授、助教授、講師、助手」と四つの職階があるが、「講師」は専任か非常勤(兼任ともいう)かで立場が大違いなので、前者を特に「専任講師」というのが一般的だ。加えて、「客員」「特任」等の但し書きがつく職階も少なくない。中には位置づけが判りにくく、思わず「兵隊の位でいうと…」と呟きたくなることもある。
教員の職階は、学校教育法の規定を踏まえて、最終的には各大学が名称を決めている。例えば、詳しい経緯は知らないが、国際基督教大学は以前から「準教授」という用語を用いている。米国では、教授に次ぐ地位の者を「アソシエイト・プロフェッサー」と称するが、そのさらに下位に「アシスタント・プロフェッサー」がいる。米国の大学制度に準拠している国際基督教大学が「助教授」を避けているのは、この言葉が後者の直訳と誤解されるおそれがあるからかもしれない。ちなみに、中国や韓国など漢字文化圏の諸外国で定着している「副教授」は、日本では使われていない。
ところで、学校教育法は昨年の国会で改正され、来年度からの施行が決まっているが、そこでは新たな職階として「准教授」と「助教」が導入される。後者の「助教」は従来の「助手」の一部に代わるもので、「助手」は今後も意味付けがやや限定されて残るのだが、「准教授」は全面的に従来の「助教授」にとって代わるもので、新制度には「助教授」の位置づけはない。
漢和辞典を見ると、「准」は、「準」と同義の俗字らしい。政府が外国と結んだ条約などを国会が承認して確定させることを「批准」(中国語では「批準」)というが、これは、検討した上で認める、というほどの意味である。「准看護師」や自衛隊の「准尉」(下士官の最高位)のような用例も踏まえれば、「准教授」は、教授ではないが教授と同様に振る舞うことが一定の条件で認められている者、という意味になるのだろう。
既に、首都大学東京や北陸先端科学技術大学院大学などでは、前倒しで「准教授」が使われている。名称の変更は、何らかの実態の変化に結びつくのだろうか。
2006/09/01 カエサルを切り取る
西洋医学の日本への導入は、まず蘭学として、次いで明治以降は主にドイツを経由して進められた。今では医学の世界でも英語でほとんど用は足りるようだが、手術に使う「メス」や、患者を意味する「クランケ」のように医学分野ではドイツ語が日本語に影響を残している例が多い。
分娩を待たずに母体にメスを入れて子宮から胎児を取り出す手術を「帝王切開」という。医師たちはこれを「カイザー」ともいうが、これはドイツ語の「カイザーシュニット」の略である。「カイザー」は古代ローマの英雄ユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)に由来し「皇帝」を意味する言葉であり、「シュニット」は「切ること」から転じて「手術」を意味する言葉である。
俗説では、カエサルがこの手術によって誕生したため、ラテン語で「セクティオ・カエサレア(カエサルを切り取る)」と称した、などと説明されることがある。確かにドイツ語の「カイザーシュニット」も、そのような理解に立った言葉だ。しかし、これは全くの虚構である。
ローマ時代の帝王切開は、出産寸前で母親が落命した場合に、母子を別々に埋葬するため母体から胎児を摘出する技術であった。そうして胎児を取り出すと、まれに胎児を救命できる場合もあり、ヨーロッパではその後も、落命した、あるいは瀕死の母体から、胎児を救う最後の手段として帝王切開が行われたようだ。二十世紀に至って止血や感染症対策などが一定の水準で行えるようになるまで、帝王切開は母親の命と引き換えに新しい命を救おうというぎりぎりの判断が求められる手術だったはずだ。もし、カエサルの誕生が本当に帝王切開であったなら、母親は出産時に落命しているはずだが、カエサルの母アウレリアは、彼が長じるまで存命であった。
「セクティオ」はラテン語で「切る」「切り離す」ことを意味する。「カエサレア」は「カエサルを」とも読み解けなくもないが、「切る」あるいは「叩く」「倒す」などを意味する動詞「カエド」の変化形で「切られたもの」とも解釈できる。「セクティオ・カエサレア」は、おそらく「切られたものから切り取る」といった意味なのであろう。あるいは、もともと何か別の単語を含む表現だったものが、省略されて意味が分かりにくくなっているのかもしれない。一方、カエサルの家名の語源は、「切る」という語義と関係している可能性もあるが、「毛むくじゃら」といった意味の「カエサリアトゥス」などに由来するものかもしれない。
「セクティオ・カエサレア」の原義が中世に忘れられ、カエサルと結びつける誤解がドイツ語の「カイザーシュニット」を生み、それが日本語に直訳されて「帝王切開」になった。今さら何か別の表現に言い換えるのも難しいのだろうが、「帝王切開」も「カイザー」も、誤解のおそれをはらんだ用語であることは間違いない。
2006/09/29 愛知県・県道一号線
先日、浜松から佐久間ダム付近を経由して飯田へ抜けるルートを、自分の運転で深夜に通った。静岡県側で山道に入ってから三時間近く、長野県の天龍村までざっと八十キロの間、動いている他の車を見たのは三台だけだった。
一台目は浜松ナンバーの対向車、二台目は佐久間ダムで追跡してきた静岡県警のパトカー、三台目は未明の天龍村で何かの配達中の紅葉マークの軽トラックだった。今まであちこちの山道を走ってきたが、これほど閑散とした道は思い当たらない。ましてや通行止めでもない道を進もうとして警察に職務質問されたのは初めてだった。
ルートの中でも、県道一号線の静岡・愛知県境の佐久間ダム辺りから、愛知県豊根村の旧・富山村の集落までの区間は、厳しい道だ。沿道には街灯も人家もなく、工事関係の資材置場や仮設事務所が点在しているだけで、路面も結構痛んでいる。佐久間ダムの建設時に斜面に設けられたこの道は、標高の上下はあまりないが、左右のカーブの連続は、自動車が通れる県道とはいえ「羊腸の小径」である。
半世紀あまり前に佐久間ダムが完成して水没するまで、谷底には集落があり、道路もずっと低い位置を通っていた。この谷には鉄道(飯田線)も走っていて駅も三つあったが、ダム建設資材の運搬に活用された後、この辺りのルートは水没した。鉄道愛好家の間では、ダム湖の水位が下がると水没以前の鉄道トンネルや橋脚の残骸が姿を現すことが知られている。現在の飯田線は、長いトンネルで隣の谷筋へ移り、また別の長いトンネルで戻ってくる形になっている。
月明かりもない深夜で、眺望は全くなし。ひたすら前方を注視してハンドルをきり続けた。驚かされたのは、路上の動物たちである。二時間ほどの山道で、ウサギ三羽、タヌキ一頭、野犬一頭が車の前を横切り、逃げ去っていった。ウサギは耳があまり長くない茶色がかった体色だ。また、車にはねられて命を落としたタヌキの死体も見かけた。
小さな動物は車が近づくと逃げてくれるが、少し大きいほ乳類は様子が違う。ニホンカモシカは二頭いたが、どちらも車が接近してもほとんど動かない。こちらも停車してしばし様子を観察した。親子づれのシカ二頭も、ヘッドライトの光の中を、悠然と横断してガードレールの外へ消えていった。
山道を走っていて、これだけ多くの動物を見たことはなかったし、ニホンカモシカに道を塞がれたのも初めての経験だった。幸い今回は出くわさなかったが、静岡県警のパトカーの警官の話では、この辺りにはクマも出没するそうだ。
文中で言及のある佐久間ダム水没地域に関連するページです。
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2006/11/03 教室のビートルズ
ここ数年、この時期になるとビートルズの曲をまとめて聞き直している。ある大学で、ポピュラー音楽の歴史の授業を非常勤講師として担当しており、例年この時期にビートルズを取り上げているのである。
ビートルズは、一九六二年に大手レコード会社からのレコード・デビューし、一九七〇年に解散した。活動していた時期は、一九六〇年代とほぼ重なる。ビートルズとしては唯一の来日の機会だった日本武道館での公演は、今から四十年前の一九六六年だった。既にメンバーのうち二人は死去し、もっぱら歴史として語られることが多くなっている。それでも、授業でビートルズの音楽をかけると、出席票へのコメントの中に「古い感じがしない」という感想が必ず何人か返ってくる。
ビートルズの楽曲は、今では大学だけでなく、中学校や高校でもよく取り上げられている。英語の教科書にはビートルズへの言及はよくあるし、高校の音楽の教科書ではほとんど全てに載っている。もはやビートルズは、「古典」の域にあるということだろう。
ところで、ビートルズの楽曲を学校教育で扱おうとする場合、少々面倒なのは、曲名の邦題がしばしば誤解を招くものになっているという点である。ビートルズの楽曲のほとんどは、英語をカタカナに置き換えただけの曲名だが、アルバム『ラバー・ソウル』(一九六五)以前の曲には「涙の乗車券」や「恋におちたら」のように邦題のあるものが多い。
こうした楽曲の邦題は、必ずしも原題に忠実ではなく、当時の日本のレコード会社がヒットを狙っていろいろ工夫して名付けたものである。例えば、原題を直訳すると「君の手を握りたい」である曲が、邦題では「抱きしめたい」とエスカレートしたり、「ノルウェー産の材木」が「ノルウェーの森」になったりする。言葉を補って意訳すると「仕事がきつかった日の夜」という意味になる曲が「ビートルズがやって来る ヤァ! ヤァ! ヤァ!」となるのは、同名で公開された映画の邦題として、映画配給会社が決めたものらしい。
結局、アルバム『リボルバー』(一九六六)以降は、ビートルズ側の意向もあって邦題はほとんどつかなくなる。例外は、「愛こそはすべて」(一九六七)だけのはずだ。しかし、いかに珍妙な、あるいは微妙な邦題でも、現にその名称で市場に流通し、公的に定着している以上は尊重しなければならない。黒板に、いちいち原題と邦題を併記して、こうした事情を説明する必要があるというのも、なかなか厄介なことである。
ちなみに、ここまで「ビートルズ」と記してきたこのバンドの名は、厳密には「ザ・ビートルズ」と書かなければいけない。いやはや。
2006/11/22 レス・ポール・ナイト
先だって、出張で二週間渡米した。研究資料を探して、東部の大学図書館や公共図書館をめぐる旅だったが、本来の目的とは別に、ニューヨークでは永年の夢がひとつ叶った。レス・ポールを生で見たのである。
レス・ポールと言われてピンと来ない方でも、「レスポール」というギターはご存知かもしれない。電気増幅するギター、昔風に言えばエレキ・ギターは、最初は普通のギターのように胴体に空洞があった。それがやがて、空洞のないソリッド・ギター(「固いギター」の意)へと発展した。一九五二年以降、ギブソン社が発売してきた一連の「レスポール」モデルは、多くのギタリストが愛用する「名器」とされるソリッド・ギターである。
このギターの名は、当時の人気ギタリスト、レス・ポールに由来する。一九一五年生まれの彼は、一九三六年にレコード・デビューし、一九四〇年代にはジャズやポップスの世界で大活躍をした。人気者として一世を風靡した彼は、他方では、ギターの改良や多重録音などで実験的な試みを重ねた先覚者でもあった。
レス・ポールの全盛期は一九五〇年代までで、一九七〇年代の彼は、既に「伝説」的存在だった。その後も、稀に日本でも紹介されることがあり、老人になっても華麗な指さばきを披露する演奏に、テレビの前で魅了されたこともあった。それも、もう二十年くらい前だ。数年前、彼がジャズ・クラブに出演し続けていると知ったときには、ただただ驚いた。
今回、初めて訪れたニューヨークで、コロンビア大学の図書館などを回った月曜日の夜に、ジャズ・クラブ「イリジウム」に足を運んだ。ライブ「レス・ポール・ナイト」が毎週開催されている場所だ。
予定より早く現れて演奏を始めたレス・ポールは、右半身がやや不自由で、ゲストと握手する時も左手を出していた。当然、ピッキングでしか演奏できないし、往年のような華麗なプレイとはいかないが、自分のスタイルの特徴を生かし、コード・ストロークを多用した奏法で味のある演奏を聞かせる。左手の指も、全盛期のスピード感はないが、流麗な旋律を紡ぎ出していた。
この夜のバックは、永年の相棒らしい歌手兼サイド・ギタリストに、最近雇ったばかりという才気溢れる若いピアニスト、そしていつもの女性ベーシストの代役という豪州人のベーシスと、全員が白人だ。それに途中からゲストで、ルイ・アームストロングを真似た黒人の歌手兼トランぺッターが参加し、大いに場を盛り上げた。レス・ポールは、祇園一力茶屋の大星由良之助よろしく、メンバーそれぞれを活躍させながら、きちんと美味しいところをもって行く。見事だった。
九十一歳になって、生身で多くの人を楽しませ、お金も稼ぐ、というのは、本人にとっても幸福なことだろう。「伝説」を見た感激とともに、その飄々とした姿に、温かい感動を覚えた。
2006/12/29 法務大臣の署名
暮れも押し迫った十二月二十五日、クリスマスの朝、各地の拘置所で四名の死刑囚に刑が執行された。一度に四名が処刑されたのは、今世紀に入って初めてである。
死刑囚は、刑務所で懲役に服している受刑者とは違い、作業も行わず、ただ淡々と生かされ続け、いつともわからない死刑執行の日を待つことになる。刑事訴訟法は、死刑判決が確定してから半年以内に刑を執行することを原則としているが、少なくとも近年では実際にそのように処刑された者はいない。詳細は公開されていないので確たることはわからないが、死刑囚当人には、執行当日の朝に命令が告げられるらしい。
いま死刑囚は全国に八十名ほどいるという。死刑判決の確定後、数十年が経つ者も少なくない。例えば、冤罪を訴えて再審請求を続けた「帝銀事件」の死刑囚は、判決確定後だけでも三十二年、判決確定以前も含めると三十八年以上拘束され、九十五歳で獄中病死した。この死刑囚が遂に処刑されなかったのは、この事件に最後まで冤罪の疑義が残り、歴代の法務大臣が執行命令への署名をためらい続けたことが一因だった。
死刑の執行命令書は、法務大臣が署名してから、通常は五日目に執行されるらしい。法相は処刑を最終的に命じる立場であり、在任中の執行命令への署名を避ける者も少なくなかった。このため、新内閣の組閣や内閣改造によって法相が交代すると、しばらく執行がなかった死刑がいきなり行われることがある。今回の四名同時執行も、在任中に署名をしなかった前任者の後を受けた、現法相の就任早々の仕事ということだ。
また、凶悪事件が新たに発生すると、死刑が執行される契機となるという見方もある。未成年のときに連続殺人事件を犯し、その後、獄中から著作を発表して作家として評価された死刑囚は、いわゆる「酒鬼薔薇」事件の犯人として少年が逮捕された少し後に処刑されており、両者の関連性がいろいろ取りざたされた。
私は死刑廃止論者ではないが、刑事犯の処罰にあたっては冤罪の可能性を十分考慮すべきだと考えている。処刑は、慎重の上にも慎重を期すべきであると思うし、社会の処罰感情なども踏まえ、社会的制裁として実効性のあるものとすることが求められるはずだ。
今回処刑された四名の中には、既に七十七歳と七十五歳となっていた老死刑囚ふたりがいた。七十歳を超えて死刑が執行された例は、少なくとも近年では聞いたことがない。ふたりとも量刑の見直しを求めて再審請求を続けていた。今さら刑を執行することに、どのような意義が見いだせるというのであろう。ニュースを読んで、しばし、無言で考えてしまった。
文中では「いま死刑囚は全国に八十名ほどいる」と述べていますが、実際には九十名以上いるようです。
死刑囚および死刑制度に関連するページです。
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