4 漫画『水色山路』
さて、YCSの開局に向けた準備が進められていた一九八九(平成元)年三月頃、山形村を紹介するストーリー漫画を作って、村の広報活動に使ってみよう、というアイデアが村役場のなかから出てきた。当時の村長は、さまざまな公共施設の建設や、YCSの導入に象徴されるように、ある意味では派手な諸施策を積極的に進めており、村役場のなかにも、その姿勢は浸透していた。また当時は、全国的に見ても、ちょうど「ふるさと創生事業」が各地でユニークな試みを生み出していた時期であり、「軽薄短小」や「民活」がキーワードになる時代でもあった。お役所らしからぬ仕事に挑戦しようという意欲が各地の地方自治体に現れて頃でもあり、「漫画による村の紹介」という山形村の発想にも、そうした時代の雰囲気が反映されていた。
やがてこの企画は順調に実現し、『まんが日本農業入門』などの実績があった漫画家・藍まりと氏に執筆が依頼された。そして、翌一九九〇(平成二)年三月、『山形村物語−水色山路(みずいろさんろ)』と題されたストーリー漫画が完成し、小冊子一万部が印刷され、四月には村内の全世帯や全国の市町村などに配布された。「漫画による村の紹介」というユニークな試みは、大きな反響を呼び、マスコミにもさまざまな形で取り上げられた。
『水色山路』は、東京で生活するヒロインが、亡くなった父親が大切にしていた道祖神をきっかけに山形村を訪れ、村の人々とのふれあいを通じて、山形村を「ふるさと」として発見する、といったストーリーである。作画は少女漫画ふうで、作品はロマンチックな雰囲気に仕上がっているが、作品の要所には、村内の諸施設、田園風景、道祖神など、写真資料を利用した山形村の実景の描写が盛り込まれている。ストーリーの設定や、描写の仕方からも明らかなように、『水色山路』は都会の人間の視点から見た山形村の魅力の発見に力点が置かれているが、これは、最初から外部に向けた「漫画による村の紹介」としてこの作品が企画されたためである。しかし、『水色山路』のインパクトは、村の外から見た山形村のイメージづくりへの貢献にとどまるものではなかった。『水色山路』がマス・メディアなどの注目を集めたことは、村の試みが「外からの視線」によって評価されたという自信を村役場のスタッフに与えた。また、全世帯に配布された『水色山路』の冊子に「外からの視線」によって美しく描き出された村の姿は、村民が改めて村の姿を見つめ直すきっかけとなったのである。
『水色山路』の刊行直後から、村役場には好意的な反応がさまざまな形で寄せられた。そのなかには、この漫画を元にテレビドラマを作ってはどうかという声があった。当時は、漫画を原作とした民放のテレビドラマが注目されていた時期であり、開局して一年にもならないYCSが、村の新しいメディアとして注目を集めていた時期でもあった。このアイデアは、『水色山路』の企画担当者や、YCSの担当者ら、村役場のスタッフのなかでも話題となり、短期間のうちに新たな企画として事業化が取り組まれることになった。六月ごろから検討がはじまり、七月にはドラマ制作発起人会ができて準備に入り、八月の村議会で予算承認を得ると、たちまちヒロイン役の公募・決定などが進められ、九月に制作、一〇月に発表という電撃的なスケジュールで「ドラマづくり」が展開したのである。
5 「外からの視線」の導入
当時は、住民が主体的に関与・参加するテレビドラマはもちろん、ケーブルテレビ局による本格的な自主制作ドラマ自体が、先例のまったくない試みであった。ひと言でドラマづくりといっても、参照すべき先行事例があったわけではない。むしろ「本物の」テレビドラマの作り方を誰も知らなかったからこそ、村にあるノウハウや人的資源を活用してドラマをつくるという方向で、関係者の努力が積み重ねられたというのが実際であった。ドラマ「水色山路」の検討が村役場のなかではじまってから、ドラマ制作発起人会が組織され、制作スタッフや(ヒロイン以外の)キャストが固められていく過程では、「ホワイトバランス会」の組織化のときと同様に、ボランティアとしての参加を村内に広く呼びかけながら、個別に参加・協力を依頼していく手法が、規模をいっそう拡大して展開された。監督や脚本などスタッフの中軸は、かつての演劇青年だった壮年層で固められ、撮影にはYCSと「ホワイトバランス会」が全面的に参加した。その他にも、村内のさまざまな人々にキャストやスタッフとしての参加が働きかけられ、多くの村民が実際に協力した。特に、発足当初の「ホワイトバランス会」に欠けていた、二〇代・三〇代の青年層(特に男性)が、ドラマ「水色山路」の制作過程でスタッフやキャストとして組織されていったことは、その後の展開との関係で重要なことであった。
ドラマづくりに向けて組織化を進めていった村役場のスタッフは、わずか数年の間に、開局前後のYCSに対する多数の取材・視察依頼や、漫画『水色山路』に集まった反響などに対応した経験から、こうした事業の実施に際してマスコミを巻き込んだ広報活動が重要な意味を持つことを十分に学んでいた。ドラマ「水色山路」の制作過程でも、「ヒロイン全国公募」という試みが用意され、マスコミはこれに飛びついた。「村を紹介する漫画を出した、変わったことをする村で、今度はそのドラマ化のためにヒロイン役を全国から公募している」といった筋立てでさまざまなメディアが取り上げたお陰で、オーディションには一一人もの応募者が集まった。こうしたヒロイン選考の過程や、ヒロインが決定した後の制作発表記者会見などは、ほとんど「本物の」テレビドラマの制作過程でのイベントのパロディというべきものであったが、こうして節目ごとにマスコミの注目を集めたこと自体が、一種のイベントとして、関係者の士気を大いに高める効果をもった。
さらに、こうして、いわば村を挙げての「お祭り騒ぎ」ともいうべき状況を演出しながら展開した制作の過程は、県域民放の信越放送(SBC)によって、ドキュメンタリー番組のために、ドラマ制作発起人会が成立した段階から継続的に取材されていた。いわば制作の過程自体が「外からの視線」にさらされていたのである。一〇月に入り、ドラマ「水色山路」がYCSで放送されて間もなく、ゴールデン・タイムの「SBC特集」で、ドラマ「水色山路」のメイキング編ともいうべき「山形村行進曲」(映画「蒲田行進曲」を踏まえたタイトル)が放送されたことは、「外からの視線」による評価として、ドラマ関係者だけでなく、広く村民のあいだに村にたいする自信のようなものを与えることになった。放送の翌年、一九九一(平成三)年一〇月の全国CATV大賞番組コンクールにおけるドラマ「水色山路」の審査員特別賞受賞は、メディアを介した「外からの視線」による一連の評価を最終的に確固たるものとした。
漫画に始まりドラマへと展開した『水色山路』の経験は、「ドラマづくりの村」という新しいアイデンティティーと地域作りへの自信を、山形村にもたらした。その後に発行された『村勢要覧やまがた』には、「私たちに“ふるさと”とは そして 地域作りとは 何なのかを 教えてくれた」というコピーが添えられた漫画『水色山路』の表紙と、「ほんとにつくったんです」というドラマ「水色山路」のロケ風景の写真が掲載された。
7 その後の「ドラマ村」
「水色山路」が成功したイベントとして完結したあとも、山形村では地域作りに取り組むさまざまな試みが行われた。そうした試みは、「水色山路」のような明瞭な大成功を収めているわけではない。しかし、一過性のイベントに終わらない形で、地道に実績を積み上げているという意味では、「水色山路」後の山形村での動きは、非常に興味深い。
一九九二(平成四)年に山形村で注目を集めていたのは、ドラマ「水色山路」の制作過程で集まった青年たちを中心に、新たに組織された「トライズ・カンパニー」という青年有志の会の活動であった。この会は、八月に「ミラ・フード館」でロック・コンサートを軸としたイベントを成功させたが、その様子は「ホワイトバランス会」によって番組として制作され、YCSで放送された。現代版の「祭り青年」組織ともいうべき「トライズ・カンパニー」は、村役場ともつかず離れずの関係を保ちながら、その後も、断続的にさまざまなイベントに取り組んで行くことになった。これも、『水色山路』が播いた種が実を結んだものといえるだろう。
この年、ドラマ第二作への取り組みが動きだした。今度はじっくりと時間をかけ、原作の公募から手続きがはじまった。翌一九九三(平成五)年には、審査の結果、原作には福岡県から応募のあった作品「修治」が選ばれた。しかし、原作は決まっても、ドラマづくりは、その後、一時的に停滞することになった。ドラマ第二作の性格づけについて、一定の調整が必要とされたためである。具体的には、ドラマ「水色山路」の制作の中心となった壮年層は第二作にはかかわらず、青年層にバトンタッチし、若者たちによる作品としてドラマ第二作「修治」を位置づけたい、という壮年層などの意向に対して、「トライズ・カンパニー」や「ホワイトバランス会」の活動を核として結束した青年たちが「修治」を引き受ける体制を整えるのに、ある程度の時間が必要だったのである。こうして多少の曲折はあったものの、「水色山路」でヒロインの相手役を務めた「トライズ・カンパニー」のリーダーが、今度は「修治」の監督を引き受けることになったのである。「修治」は一九九四(平成六)年の開村一二〇周年記念事業の一環とされ、最終的に予算が確保された後は、「水色山路」のときと同じようにオーディションから撮影、編集までが迅速に行われた。
ドラマ「水色山路」が「村を挙げてのお祭り」だったとすれば、「修治」は、試行錯誤の末に作り上げられた「若者たちの祭り」であった。放送時間四〇分の『水色山路』にたいして、「修治」はその倍以上の八五分の長編となった。壮年層が中心となった「水色山路」が、大船調映画の模倣だったとすれば、青年層が中心となった「修治」は、トレンディ・ドラマを模倣した作品であった。「修治」のクライマックスでは、バンドの演奏シーンが延々と収められている。これを若者たちの自己満足の表出とみるのはたやすいが、彼らにフリーハンドを与え、こうした形で彼らの思いを具体的な作品に結晶させたことは、地域社会のなかで青年層の主体性を公認し、その士気を高めるうえで大きな意味をもつことだろう。
一九九五(平成七)年、山形村は、再び藍まりと氏を起用して、『山形村物語II−虹色のメッセージ』を刊行した。今度の作品は、山形村に住む「新住民」の少年と「旧住民」の少女が、時空を超えて山形村の歴史を駆け抜け、水と人々とのかかわりを学ぶという内容である。作画の手法などから見ても、想定されている読者は『水色山路』よりもずっと幼いことが察せられる。つまり、この作品は、もっぱら村内の子どもたちに、村の歴史を理解し、水を通して環境を考え、新旧住民の共生を説いているのである。『水色山路』と『虹色のメッセージ』は、同じ作家による同じような漫画と考えてはいけないだろう。前者が、もっぱら村外に向けて発信された形をとり、同時にそれが村内の読者に自信をもたらしたものだとすれば、後者は、もっぱら村内の子どもたち向けという形をとり、同時に村外に山形村を発信するという、異なる役割を担っているようだ。
漫画にせよ、ドラマにせよ、一見ユニークに見える取り組みであっても、その制作活動が定例の行事になってしまえば、マンネリズムによってその価値は失われる。手法は同じでも、一つひとつが固有の意義を持たなければ作品は輝きを失う。山形村では、行政も村民も、そのことに十分気づいている。
その後、山形村では村長が交代し、村政は大きく方向を変えた。税収に大きな余裕が見込めないなかで、かつてのイベント重視の行政運営は過去のものとなった。しかし、これは「ドラマ村」の終幕ではない。山形村には、村民のあいだに蓄積された意欲と経験という、ドラマ作りに必要な資源が確保されているのである。次に機が熟して「ドラマ村」が第三作を生み出すとき、そこにはどのような村と村民の姿が映し出されるのであろうか。
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