雑誌論文(その他):1991:

ビデオ・クリップに描かれた「アジア」
−1983年前後におけるイギリスのビデオから−

松商短大論叢(松商学園短期大学),39,pp53-80.


 ページ作成に際しては、原論文の明らかな誤植を改め、必要な補足を追記しました。訂正・補足した部分は青字としました。また、原論文で番号を付して項目を列挙しているような箇所は、html文書で表現しやすい形に書式を改めています。

ビデオ・クリップに描かれた「アジア」
−1983年前後におけるイギリスのビデオから−

目次

はじめに
I.前提:地域イメージをめぐる「イディオム」
II.対象:アジアを描くビデオ・クリップ
III.内容:ビデオ・クリップに描かれたアジア
IV.考察:「アジア」というイディオム
V.結論:試金石としての「アジア」


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ビデオグラフィー
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はじめに

 本論に入る前に、少々「いいわけ」をしておかなければならない。本稿と同じようにビデオ・クリップを素材として地理的イメージを論じた前稿では、ビデオ・クリップを読み解く作業の意義について、私的な興味を越えた社会的意義づけの議論を敢えて避けて通った(山田,1990a,pp70〜71)。その一つの理由は、具体的作業が充分に熟さないまま抽象論を展開しても、理屈倒れになり、結局、作業そのものも正当に評価されなくなってしまう、といった事態を恐れたからであった。率直にいえば、本稿でも具体的なビデオ・クリップを読み解く作業は、充分に熟しているとはいい難いし、また理論的かつ説得的にその社会的意義を主張できるだけの準備は出来ていない。
 しかし、大衆文化の産物について、表面的・明示的な意味を越えて、あるいはその裏面に、何らかの意味(場合によっては何者かの意図)を読み取っていこうという作業は、様々な立場から展開されてきた(1)。強いて言えば、ビデオ・クリップという新しい素材についての言及が、限られた範囲でしか存在しないということでしかない。こうした動きを展望し、その中で前稿や本稿を理論的にサポートする試みは、他日を期すことにしたい。
 ビデオ・クリップを素材として地理的イメージを検討する研究としては、既に、特定の時期の特定の都市(香港)について異なった文化背景(イギリスと日本)から制作されたビデオ・クリップの比較(山田,1988)や、特定のビデオ・クリップだけによる特定の都市イメージ(新宿)の議論(山田,1990a)をまとめてきた。これに対し本稿は、特定の時期に比較的広範囲な対象地域(アジア)について同一の文化背景(イギリス)から制作されたビデオ・クリップの比較である。従って、本稿での議論は、<アジア>がどう描かれたのか、という問題と並んで、<イギリス>はアジアをどう描いたのかという問題を念頭に置いて進められる。

I.前提:地域イメージをめぐる「イディオム」

 通常、ビデオ・クリップは、楽曲の長さにあわせて作品の長さが決められ、ひとつの作品の長さは平均すれば4〜5分程度である(勿論、様々な形態の例外もある)。これは、TVコマーシャルなどに比べれば相当に長いものの、通常の映画などに比べれば圧倒的に短い時間である。こうしたビデオ・クリップという表現形態の本質的制作条件は、ひとつのまとまった世界を作品の中で構築することを可能にする一方で、限られた時間の中で濃密な表現を構築するための様々な工夫を作り手に要求する。そうした工夫として、受け手の想像力を喚起するような様々な表現(豊かな記号内容をもつ記号表現)が登場するが、とりわけ、方向づけをした形で受け手の想像力を動員する表現(記号内容との関係が比較的安定している記号表現)は、重要な役割を果たすことになる。例えば、その代表例ともいえる(映画など既存の映像表現などからの)引用や模倣(パスティーシュ)は、断片的な映像の提示によって原作のインパクトを何らかの形で借用しようとするものである。また、このような視点からみると、月並みな類型的作品(クリシェ)の存在も、一定の約束ごとに従っていることを受け手に(しばしば明示的に)知らせることで表現の経済化(効率化)を図っているもの、と理解できる(2)
 本稿では、多数のビデオ・クリップ作品に共通する表現上の特徴が、受け手が共有していると期待される何らかの文脈への言及によって表現上の効果を狙ったもの、と考えられる場合、これを特に映像表現上の「イディオム」という呼び方で捉える。「イディオム」は「慣用表現」と呼び換えてもよいかもしれないが、「慣用」は普遍的な了解を示唆する言葉であり、ここでは受け手の中の比較的少数にしか文脈の共有が期待できない場合も含めて「イディオム」と考えたい。従って、ここでいう「イディオム」は、<特定の作家や様式の特徴的表現>を意味するものではない(3)
 さて、今回取り上げる作品以外にも、(断片的な取り上げ方のものも含め)アジアの映像をビデオ・クリップに取り入れた事例は多い。そうした事例の背景にみられる「イディオム」としては、
  1. 凶々しさの象徴としての反西欧
  2. 異邦人の孤独
  3. 世界一周、ないし世界全域を対象とするという普遍性
  4. 「場所性の欠如した」類型的リゾート
などが指摘される。このうち、アジアに題材を採ったり、アジアの映像を含んでいる作品に限って典型例を挙げておけば、
  1. Motley Crue: Too Young To Fall In Love
    [Motley Crue の o と u はドイツ語のウムラウト(¨)つきで表記/注(4)参照]
  2. The Police: So Lonely*
  3. Phil Collins: Take Me Home
などとなる。4.については、実際にアジアに取材したことが確認できる例はさしあたり思い当たらないが、一般的な典型例として
  1. Wham!: Club Tropicana*
などが挙げられよう。
 これらのイディオムのうち1.は、反抗の姿勢を象徴するものとしての初期のロックンロール(の歌詞や装束など)にも登場し、最近ではヘヴィ・メタルなどで顕著なものであり、

  反西欧=反キリスト教
=反連合国
=反自由主義
=反白人
=悪魔崇拝
=旧敵国(ドイツ、日本)
=共産圏(ロシア)
=黄禍

といったイメージづくりの図式の一環として理解される。ただしこの問題は、それ自体が相当に大きい広がりをもっていることもあるので、ここではこれ以上踏み込まない(4)
 2.は、ポピュラー音楽やビデオ・クリップに限らず、(特に近代の)西欧文学や映画などでも頻繁に取り上げられている。映像・歌詞の両面でこのイディオムが動員されている例としては、アジアに取材したものではないが、歌詞の内容・映像とも典型的といえる などがあるし、傷心の歌(内容的に孤独感に通じる?)にこうした映像が重なる例としては、 などがある。これらの作品の具体的な取材地と主人公の関係は、「ニューヨークのイギリス人」、「パリのイギリス人(ないしアメリカ人)」というパターンになる。こうしたパターンが映画や文学の素材として一般的なものであることは改めて指摘するまでもない。これらのビデオ・クリップ作品においては、主人公(通常は歌い手)が独り寡黙に街を歩く場面や、地元の人々の生活の断片などが、主な映像素材となっており、主人公と地元の人々とのやりとりなどは最少限しか描かれない。
 3.は、実際のワールドツアー公演地などで取材したコンサート会場風景などをつないでいく、例えば のような、ロード・ムービー的作品をはじめ、 などがある。こうした作品では、実際にコンサートが開催される機会の多さを反映してか、日本(というより東京)の映像が、いわばアジアを代表する形で挿入されていることが多い。こうした場合は、新宿などのネオンが鮮やかな街頭風景や新幹線、寺社仏閣ないし日本庭園、さらには日本武道館などが、日本人(欧米の受け手には「東洋人」でしかない)の集団とともに写し込まれることになる。
 当然ながら、こうした「世界一周」型の作品に描かれるアジアの映像は、作品全体を構成する要素の一部に過ぎず、映像の内容も断片的でステレオタイプに依存したものであることが多い(5)。こうした趣向は、スケールを変えれば、「アメリカ全域」を意味するために都市名を列挙する歌詞をもったビデオ、例えば、 などにも通じるといえよう。

II.対象:アジアを描くビデオ・クリップ

 ここで主な考察の対象として取り上げられるのは、1983年前後(MTVの普及といわゆる「第二次ブリティッシュ・インベンション」の時期)に、アジア(オーストラリアを含む)を題材とした、イギリス出身の人気スターたちのビデオ・クリップであり、具体的には
  David Bowie:Let's Dance
China Girl
(オーストラリア)
(オーストラリア)
  Duran Duran:Hungry Like The Wolf*
Save A Prayer*
(スリランカ)
(スリランカ)
  Spandau Ballet:Highly Strung*(香港)
  Culture Club:Miss Me Blind(日本+タイ?)
  Wham!:Freedom(中国[北京])
といった作品である。
 ここで留意すべきなのは、特に1970年代における Devo、Laurie Anderson、あるいは Talking Heads、などのように、「(純粋)芸術」により近い位置づけでビデオ・クリップに取り組んでいるアーティストの作品とは違い、こうした人気スターのビデオ・クリップは、程度の差こそあれ、商業主義を前提とした「ポピュラー文化」の産物だという点である。こうしたビデオ・クリップは既存のイディオムへの依存度が大きく、同じ様な素材を取り上げ、制作時期や制作者の文化的属性を共有する作品があれば、多数の作品を縦断した総観的分析が有効になるものと期待される。特定時期のイギリスの人気スターに限って対象を拾った理由のひとつもこの点にある。
 しかし、1980年代初頭から日本に紹介されているビデオ・クリップに(網羅的にでも職業的にでもないにせよ)接し続けてきた経験から個人的な印象を述べるならば、1983年前後という時期のイギリスは例外的にアジアに取材したビデオ・クリップを次々と生み出したのであり、これだけのアーティストが集中してアジアに取材した作品を発表した時期も、地域(文化圏)も、他には存在しなかったように思われる。つまり、(少なくとも私の印象では)アジアに取材したビデオ・クリップづくりは、当時のイギリスの人気グループの間に「流行った」現象であり、これに匹敵するようなアジアの「流行」は他の時期・地域では見られなかったと考えられるのである。
 勿論、上に挙げた以外にも、アジアを題材にしたビデオ・クリップ作品は登場していることであろう。実際、日本を取り上げている作品を考えてみれば、
  Inxs:Original Sin
I Send The Message
  Bob Dylan:Tight Connection
  Love & Money:Harellujah Man
などをはじめとして、アーティストのナショナリティや制作時期の異なった作品がいくつも列挙される。それでも、アジアに取材したビデオ・クリップが全体に少数に留まっており、代表的事例は1980年代前半に出尽くした、という上記の印象は、基本的には修正を必要としないように思われる。この点については、検証の必要もあろうが、ここではこの印象が妥当なものとして議論を進めていく。ちなみに、例えばアメリカの景観を題材にしたビデオ・クリップ作品は、(アメリカのアーティストは勿論、欧州のアーティストによっても)特定の時期に偏ることなくコンスタントに制作されている点で、アジアとは対照的である。また、アジア地域における唯一のOECD加盟国=先進国である日本を、地域イメージといった文脈でアジアに含めることには、議論の余地もありそうである(6)

 さて、本論にはいる前に、個々の作品の成立経過について、手許の資料で解る範囲で簡単に説明しておきたい。ただし、ひとつには資料的制約から大半の作品については制作時期・監督名その他のデータが揃わないこと、もうひとつには実際にビデオ・クリップが消費される(視聴される)局面において受け手はそうしたデータに(ほとんど)無関心であることから、ここでの議論ではデータへの関心は最小限にとどまることを予め述べておきたい(7)
David Bowie:Let's Dance
China Girl(8)
 いずれもボウイが三年ぶり(この間、RCAからアメリカEMIへ移籍している)に発表したLP"Let's Dance"(1983)からの曲で、このLPからはこの二曲と、Modern Love のビデオ・クリップがよく放送された(他にビデオ・クリップがあったかどうかはわからない)。Modern Love は、1983年のワールド・ツアー「シリアス・ムーンライト」のステージを再現する体裁をとった作品だったが、この二曲はオーストラリア・ロケによるコンセプト・ビデオになっている。当時、前年(1982)からのオーストラリア勢の英米チャートでの活躍(特に Men At Work)が著しかったことと、ロケ地選定は無関係ではないようにも思われる。
 なお China Girl はイギー・ポップとボウイの共作で、1977年の作とクレジットされている。
Duran Duran:Hungry Like The Wolf
Save A Prayer
 いずれもLP"RIO"(1982)からの曲で、ビデオ・クリップはデュラン・デュラン初期の作品の大半を手掛けたラッセル・マルカイ(Russell Mulcahy)の監督作品。ビデオ・クリップは、LD"DURAN DURAN"(1983)に、両作品とも収録されている。LDのライナー(Kasper de Graafによる)などから、スリランカにロケした作品であることがわかる。ビデオの実際の制作時期は、1981〜1982年頃と思われる。
 ちなみにこのLDには、アンティグアにロケした作品(Rio、Nightboat)も収録されているが、Rio と Hungry Like The Wolf は「ジェット機で世界中を遊び回る金持ちのプレイボーイ」(北中,1985,p191)というデュラン・デュランのパブリック・イメージづくりに大きく寄与したビデオ・クリップであった。特に、Hungry Like The Wolf は、1983年のビルボード年間7位というヒット曲となり、まだビデオ・クリップの秀作が少なかった当時、日本の洋楽番組でも繰り返し放送されていた。
Spandau Ballet:Highly Strung(9)
 Highly Strung は、オリジナル・アルバムとしてクリサリスから出た最後のLP"PARADE"(1984)に収められている(1986年にCBSへ移籍)。ビデオ・クリップは、後に発表された"SPANDAU BALLET/THE VIDEO COLLECTION"(1987)にも収録されている。ただしこの市販ビデオでは、京劇の練習風景やジャンクのアップがフラッシュバックされ、屋外の庭園でのインタビューの場面が入る、冒頭のプロローグはカットされてしまっている。
Culture Club:Miss Me Blind
 カルチャー・クラブの二枚目のLP"COLOUR BY NUMBERS"(1983)に収録された曲のビデオ・クリップには、日本人や日本趣味が登場する例が少なくない。Church Of The Poison Mind では多数の東洋人(おそらくは日本人)カメラマンがボーイ・ジョージを追いかけるというシチュエーションが用意されているし、Miss Me Blind に登場する日本人男女は It's A Miracle にもほぼ同じ扮装で登場してくる。
Wham!:Freedom
 1984年11月、LP"MAKE IT BIG"(1984)から最初のシングル・ヒットとなったこの曲には、当初ビデオ・クリップがなかった。当時すでにビデオ・クリップなしでチャートの首位に立つのは難しくなっていたにもかかわらず、この曲はイギリスで一位になり、日本では(ビデオ・クリップがないのでやむを得ず)英国の音楽番組の素材などを使って紹介されていた。
 1985年はじめの中国・北京での公演をドキュメンタリー的に構成たビデオ・クリップは、1985年夏になってやっと発表された。Freedom は、アメリカではビデオの発表後の9月に、ビルボード誌で最高3位を記録した。
 なお、ワム!のビデオ・クリップ集"WHAM!/THE VIDEO"(1984)は、この曲をタイトルBGMとして使用ているものの、当然ながらこの曲のビデオ・クリップは入っていない。


III.内容:ビデオ・クリップに描かれたアジア

 映像の内容を言葉で説明することほど無意味なことはないが、作品の内容(主として映像)について一応の簡単な要約をしておきたい。前章の最後で触れたデータとは逆に、ここでは、ビデオ・クリップから読み取れる範囲内の内容についてだけ取り上げることにする。もちろん読者には可能な限り実際の映像に接することも期待したい。

David Bowie:Let's Dance
 アボリジニの若い男女を主人公に、半ばリアル、半ば幻想的なストーリーが展開する。ボウイ自身はストーリーと無関係に、前半では小さな食堂で、後半では荒野で演奏しているが、途中、主人公のアボリジニ青年が働く工場の上司役でも登場する。
 冒頭、トラックが小さな建物(実は食堂)の前を通り過ぎるシーンに続いて、古いラジオを放り投げて壊すシークエンスが逆回しされる(つまり、こわれたラジオが原型に戻りアボリジニの肩の上に乗る)。ギターを抱えたボウイは、ベーシストと二人で食堂の中で演奏している。客の大半はアボリジニである。曲に合わせて踊る客たち。やがてストーリーが始まる。
 主人公らアボリジニの若者たちが荒れ地にたむろしていると、赤い女物の靴が落ちている少女が靴に足を入れ、曲に合わせて踊りだす。すると彼方の山の向こうにきのこ雲が上がる。画面は変わって、工場で働く主人公の少年の姿が描かれる。赤い靴を履いた白人女性秘書を連れたボウイが現れ、少年に命令する。少年は重い工作機械(?)を引きずり道路を歩かされる。一方、少女は瀟洒な家のメイドらしく玄関前の舗道を洗っており、その横を通っていく赤い靴を履いた白人女性(=秘書?)の足が映る。少年と少女はなぜか作業を続けたまま道路上にワープし、横断歩道上ですれ違う。やがて休日のデートらしく、二人は連れだってショッピングにでかけ、アメックスのカードで買物をし、美術館で壁に民族壁画風の落書きをし、豪華なレストランで食事をする。そして靴屋のショーウィンドーに赤い靴を見つける。場面は変わってアボリジニの若者たちが赤い靴を踏みつけている。彼らは靴に背を向け丘を登っていくが、やがて丘の向こうにヘリコプター(10)が舞い上がり、さらにシドニーが遠景として見えてくる。
 ギター・ソロに合わせて、荒野でギターを弾くボウイの姿が映し出され、やがてそれを中央にして、画面右には都市(シドニー)の空撮、左には踊る若者たちがモノクロでカット・バックされる。

David Bowie:China Girl
 残念ながらこの作品は、前半部分しか手元になく、前半だけからストーリーを抽出することはできない。それほどイメージ的、断片的な映像構成になっている作品なのである。
 断片的なシーンとしては、灰色の人民服(?)を着た東洋系の女性が大きな紅旗を肩に砂漠を(スローモーションで)駆けていく場面や、半ズボンの軍服を着た将校と、シルク・ハット姿で正装した(政治家を暗示する?)ボウイが砂漠の中で指鉄砲(ピストルの形を指でつくる)で処刑する(逆回し)場面、黒い質素な中国服に身を包んだヒロインとボウイが中華料理店で食事をしている場面などが挙げられよう。

Duran Duran:Hungry Like The Wolf
 南アジアと思われる街角で、デュラン・デュランのメンバーが何か(実はサイモン・ルボン)を探して歩き回っている。一方、レストランで一人でテーブルを占領しているサイモン・ルボン。回りは蛇使いや猿回しが客を探している。客の方も、修道尼らしい女性以外白人はいない。突然、テーブルをひっくり返して立ち上がるルボン。
 次の瞬間には市場の人混みをかけ分け進んでいく彼の姿が映る。ヒロインの(現地人ではない)黒人女性(顔にペインティングをしている(11))が市場の場面にフラッシュ・バックされる。さらに彼はジャングルの中へ入り、川の中を進み、ジャングルの中を駆ける。彼はヒロインを追いかけているのだ。その間、他のバンドのメンバーは彼を捜し求めるが追いつくことはない。
 やがて、いつのまにか自らも顔にペインティングの入ったルボンはヒロインを森の中で捉え、絡み合う。この後、ストーリーの前後関係を無視して、水浴びをするインド象など、いくつかのシーンがカット・バックされ、やがて最初のレストランでバンドのメンバーはルボンと再会する。このとき、ルボンの左頬には、爪痕らしきものが認められる。

Duran Duran:Save A Prayer
 冒頭、夜明け(黄昏?)の海岸(砂浜)をデュラン・デュランのメンバーがさまよう場面から、歌に入ると、窓際のソファーでくつろぎながら歌うルボンがカット・バックされ、再び海岸へと場面は戻る。砂浜で輪になって遊ぶ子供たち。引き上げた漁船らしき小舟の上には大人たちがいる。中には釣りをしている人々もいる。そうした海岸をバンドのメンバーたちは歩いていく。
 やがて、絶壁に囲まれた岩山の上の遺跡に人影(バンドのメンバー?)がある様子が空撮でとられた後、屋内で白人のヒロインとルボンが踊り、別れる場面となる。さらに海岸のシーンがいくつか挟まれる。
 巨大な仏像の前で演奏し歌う(口さむ?)バンドのメンバーたち。空撮された先ほどの遺跡やパゴダ(?)や海岸でたむろする人々、その他諸々のショット(例えば Hungry Like The Wolf にも登場した象のシーンも、やや形を変えて出てくる)がカット・バックされる中、やがてデュラン・デュランの全員が魅せられたように巨大な仏像(顔が削り取られ、失われている)へと進んでゆき、見上げる様子が描かれる。ルボンが歌の最初の部分と同じように窓際のソファーにいるショットでビデオは終わる。

Spandau Ballet:Highly Strung
 冒頭、ジャンクや京劇の練習風景などのフラッシュバックに続き、海峡を挟んで九龍を望む庭園で、バンドのメンバーたちがインタビューに応じている。東洋的な容貌のヒロインは、そこに白いドレスで現れる。
 前半は、バンドと写真モデルであるヒロインが、香港のあちこちで撮影をするエピソードが続き、夜の市場、海上のジャンク、高層ビル(ヒロインはその壁面に京劇の扮装で吊される)などの場面が描かれる。いろいろなストレスから徐々に“Highly Strung”になっていくヒロインに、マーティン・ケンプが徐々に同情を寄せるようになっていく。
 後半では、中国風の内装のライブ・ハウス(?)でバンドが演奏する場面と、ヒロインとマーティンが夜の街頭や昼の市場などでデートする場面が交互に描かれる。カメラに苛立つヒロインは、路面電車の中でマーティンとキスしたところを撮影されて逆上し、カメラを奪ってフィルムを抜き取ると群集の中へ走り去る。マーティンは彼女を追うが、もう一歩の所でフェリー(天星小輪)に乗り遅れる。部屋に戻ったヒロインは、自分の写った化粧品のポスターを引き裂き、自分の出たCMを映すテレビ画面を叩き、部屋中をひっくり返す。マーティンが着くと、部屋はもぬけの空である。
 黒い簡素な中国服(ドレスではなく上衣とズボン)を着たヒロインは、自転車を押しながら遠く高層ビル群を望む新界の丘に上がる。その背後にマーティンらバンドのメンバーを乗せたヘリコプターが舞い上がり、頭上を飛び去るのをヒロインは見上げる。そして、彼女はフェンス(国境を暗示する?)に向かって自転車に乗って去っていく。

Culture Club:Miss Me Blind
 この作品には、ストーリーらしいストーリーはなく、むしろ個々の映像のインパクトの強さが肝心であるが、一応の流れを抑えておく。なお、映像は全体にグラデーションがかかった感じの処理がしてあり、色彩としては圧倒的に金色が強調されている。
 冒頭、蓮華座を組んだタイ風の女性が(おそらくはタイ語で Culture Club を意味する)言葉を発し、黄金のギターに変身(?)する。このギターは炎に包まれ、回りでタイ舞踊らしき踊り手が踊りをみせる。
 和装のボーイ・ジョージとヒロインである振袖姿で白塗の日本人女性は真っ白の仮面(手で持って支えるマスク)をしながら差向かいでいたり、手をつないでお辞儀をしたりする。続いて、毛筆で書かれた「文化倶楽部」の文字がバラバラになったりする興味深いシークエンスがあり、踊るヒロインの姿に「恋の盲目」と手書きのペン字(?)で字幕が出たりする。ちなみにボーイ・ジョージとヒロインが歩いていく黄金色の街頭(?)には「もち」「江戸屋」から「クローン戦争」まで意味不明の日本語が毛筆で書かれた旗ないし幟のようなものが揺らめいている。
 ギター・ソロに入ると上半身裸で、日の丸を前垂れのようにした日本人男性が黄金のギターを抱えて現れ、ロイ・ヘイとにらみ合う。ロイ・ヘイがギターを奪おうとすると、男はブラインド上の絵となってしまう。そのブラインドが巻き上がるとそこに黄金のギターがあり、ロイ・ヘイはギターを取って弾き始める。
 マイク・クレイグとジョン・モスがタイ式のキック・ボクシングを見物していると、遠くで火事が起こったのに気づく。(明らかにちゃちな模型の)金色の寺院(12)上しているのだ息で吹き消そうとする日本人男女(ヒロインとギタリスト)、ボーイ・ジョージのアップがフラッシュ・バックされ、日本人男女は繰り返し「めらめらと燃えている」と叫びながら、火をギターではたいて消そうとする。

Wham!:Freedom
 一連のビデオ・クリップの中では、唯一ドキュメンタリーの手法による作品である。
 冒頭では、京劇の殺陣の練習風景に到着するジャンボ旅客機がカット・バックされ、ワム!のツアー・メンバーが中国に入国して以降のエピソードが、細かい編集で描かれる。以下そうした流れにほぼ沿う形で列挙すれば、天安門広場や万里の長城へのメンバーの訪問、コンサート会場となる工人体育館への機材の運び込みや会場の設営、入場券を求める行列、公園でフットボールに興じるメンバー、記者会見、楽屋、公演本番といった具合である。公演風景では中国人司会者のMC(もちろん北京語)が音楽に挿入され、客席で立ち上がり踊り出す若者(13)や笑顔で拍手する観客のクローズ・アップが映される。曲の終り近くでは、演奏シーンの合間に、様々な中国人の表情がアップでカット・バックされる。

IV.考察:「アジア」というイディオム

1. 既存のイディオムと植民地意識
 ここで取り上げた作品にも、上述した既存のイディオムの影響はいろいろと認められる。例えばデュラン・デュランの作品、特に Hungry Like The Wolf は、映画シリーズ『インディ・ジョーンズ』の模倣と思わせるような場面に溢れた作品だが、主人公役のサイモン・ルボンとバンドの面々、そしてヒロイン(黒人:アジア系ではない)を除いた現地人たちの描き方は、類型的なエキゾティズムに従うイディオム(1)「凶々しさの象徴としての反西欧」との類似性が高い。また、作品中に占めるヒロインの比重は Hungry Like The Wolf より低いが、Save A Prayer でもヒロインは白人である。LD "Duran Duran" のエンディングで監督以下スタッフのクレジットが流される中には、MODEL という項目も含まれている。
 こうしたデュラン・デュランの作品では、現地アジア系(オーストラリアのアボリジニ)の若いカップルがビデオ・クリップのストーリーの主人公となっている Let's Dance、主人公役の歌い手と現地アジア系のヒロインを軸に展開する China Girl、Highly Strung、Miss Me Blind などとは違い、(特に欧米人の)受け手が現地人に感情移入できる余地は非常に限られている。
 デュラン・デュランの作品には、イディオム(4)「「場所性の欠如した」類型的リゾート」の影響もまた感じられる。他の作品が、いずれも何らかの明示的手法でその場所(国)がどこかを受け手に説明しているのに対し、デュラン・デュランの作品は受け手に場所の同定をさせず、むしろ類型的な南アジアを描いているようだ。例えば、Let's Dance では冒頭に近い部分でオーストラリアの国旗/地図をあしらったTシャツを着たアボリジニの少女をアップにしているし、中国を取り上げた Highly Strung と Freedom は、どちらも冒頭で京劇の殺陣の練習風景をカットバックし、続けてそれぞれよく知られた香港と北京の象徴的風景(香港島から望む九竜半島/天安門広場など)を示して、さりげなく場所を明示する。一方、Hungry Like The Wolf と Save A Prayer には、蛇(コブラ)使い、猿回し、僧侶、半裸の少年などが登場し、風物としてはインド象や仏教遺跡などが映像に登場するが、その場所がどこなのか(スリランカか、インドか、ミャンマーか、タイか?)は明示されない。こうした現地人の同定(アイデンティフィケイション)の困難も、現地人の人格を受け手が具体的に捉え、感情移入することを妨げるものと理解される。
 さらに注目されるのは、ビデオ・クリップに登場する人物の間の関係性であろう。例えば Hungry Like The Wolf のサイモン・ルボンは現地人とコミュニケーションする姿勢をいっさい見せない。現地人の側から彼に近づこうとしても、彼は拒否するか(猿回し)、無視するか(うなされる彼を介抱する少年)である。彼を捜し求めるバンドの面々も、街角の少年を詰問する以外にコミュニケーションは求めていないようである。Save A Prayer ではかろうじて幼い少年を抱き上げたサイモンが笑顔を見せる場面があり、作品後半でその場面が何回かカットバックされるが、その印象は決して強くない。
 こうした現地人描写は、どう理解すべきなのだろう。一つの可能性として、黒人男性のセクシュアリティを巡る神話、すなわち黒人は強烈な性的能力(性器、精力など)を備えているという神話が白人中心の社会に存在し、それがポピュラー文化の中で黒人に一定の役割を強いる、といった議論(三井,1985,特にpp46〜50)と同じ構造が、ここでも顔をみせていると考えることができるかもしれない。ヒーロー=プレイボーイが神秘的なヒロインを追いかける、という図式において、強烈なセクシュアリティをもつバイプレイヤーはノイズにほかならない。
 残念ながらエスニシティとセクシュアリティの神話に関するまとまった議論が手許にないので充分な議論はできないが、イギリスの白人にとって「(インド亜大陸系の)アジア人(14)」のセクシュアリティに対する認識は、(アメリカの)白人にとっての黒人のセクシュアリティに対するに認識よりもおそらくは穏健なものであると推測される。だがそれでも、現地人のセクシュアリティは慎重に回避すべきものだったのではなかろうか。
 さらに、特に Hungry Like The Wolf に色濃く現れているのは、「階級差別と人種差別が重なる」植民地支配意識の残滓である。イギリス人の帝国意識、植民地意識についても、広範な議論が存在するはずであるが、残念ながら充分言及できない。しかし、今回デュラン・デュランの作品を分析する過程では、ジョージ・オーウェルが活写した植民地支配者の心理が何度となく思い出された。例えば、植民地とは直接関係が薄い評論文の中でオーウェルは、植民地では「「原住民」の女が相手ならかまわないが白人の女に手を出してはならないといった」意識が存在する、とさりげなく述べている(「チャールズ・ディケンズ」オーウェル,1982,p97)。少なくとも白人男性にとって、「原住民」の女性とのセックスは、性的関係に通常付随する社会的緊張関係を伴わない単なる生理的行為であり、(歌曲のテーマとなるような)劇的で重大なものではない。要するに「原住民」はヒロインとしての要件を欠いているのである。こうして、ヒロインとして非「原住民」の(無国籍的な)女性(文字どおり類型的な Model)が、より肉欲的な Hungry like The Wolf では黒人、より情緒的な Save A Prayer では白人、というように必要に応じて選択されるのである。さらに、オーウェルが「象を撃つ」で明らかにしているように、植民地の白人は「一見したところはいかにも劇の主役のようである」としても「愚かなあやつり人形にすぎない」のであり、「類型的なただの旦那(サヒブ)」でしかない。「旦那は旦那らしく動かなければならぬ」のであって「東洋にいる白人の生活のすべては、ひたすら嘲られまいがための戦いだった」のである(「象を撃つ」オーウェル,1982,pp41〜42)。Hungry Like The Wolf のビデオ・クリップに描かれたデュラン・デュランのメンバーが、かつての植民地の白人と同じ構造の下にあることは明らかであろう。しかも Hungry Like The Wolf の舞台は、今日の国境を単位にすれば場所の確定が困難かもしれないが、登場人物の膚の色や、様々な風物からみて、そこがかつての「英領インド」であることはほぼ間違いないといえるのである。

2. 「敬意ある関心」の幅
 デュラン・デュランのビデオ・クリップ(特に、Hungry Like The Wolf)は、イギリス人の間に(おそらくは一種の郷愁とともに)残されている植民地支配意識の構図に則って構成されている。しかし、そこには既存のイディオム(1)(4)とは異質の、支配される側の精神文化に対する敬意のこもった関心も成立し得るのである。Save A Prayer で仏教遺跡などが繰り返し描かれ、時の流れを暗示するようなゆっくりしたリズムの果てに、顔を失った巨大な仏像の前に立ち尽くすデュラン・デュランのメンバーが遠景で捉えられる、という構成は、先鋭化されてはいないものの、植民地の白人(あるいはイギリス人)のもう一つの心理を反映している。
 支配する側に立つ白人は、被支配者側の個々の人間に対して何らかの優越感なり、(「嘲られまい」という旦那意識も含め)保護者意識を持ちながら、現実に強固に存在する現地の社会・文化については、しばしばその価値を否定しきれない状況に追い込まれる。そこで彼らは、目に見えるものとしては宗教施設や過去の文明の遺跡などを主な対象に。現実の現地人の日常生活とは巧妙に切り離した形で、現地の文化に(一応の)敬意のこもった関心を向ける、という戦略をとることになる。この戦略の特徴は、現地社会に対して摩擦の表面化を回避しつつ、現地文化を過去や非日常に囲い込んでしまうことで現在=日常における支配者側の優位を正当化するという、という巧妙さにあり、それによって数多くの(特に、インテリで、良心的な)白人がこの戦略を選択してきたのである。植民地のインテリが、当該地における宗教や歴史の研究に打ち込むといった事例は、支配する側・される側が誰であるかを問わず、普遍的に見つけられることであろう。実際、精神文化の面における異文化への敬意ある関心、というスタンスは、ここで取り上げる作品のうち Hungry Like The Wolf 以外のすべてについて妥当すると考えてもよいほど、一般化している。
小   正しい理解への意欲   大








好 奇 心


傾 倒(親〜)


[無 理 解]


異文化理解(知〜)



 しかし、一口に「敬意ある関心」といっても、より踏み込んだ表現をしようとすれば、その行き先には当然ながら大きなばらつきがある。例えば、単純な好奇心からの関心もあれば、深い傾倒ということもあろうし、深く理解した上で距離をおくといったスタンスもあるだろう。おくした様々な関心のもちかたを、正しい理解への意欲がどれくらいあるのか、対象への距離の置き方がどの程度か、といった視点からまとめると図のようになる。通常、異文化への関心は、まず好奇心の対象として関心を向けるところから始まり、進んだ段階へと発達していくようである。ここでもまず、好奇心の対象としてアジアを捉えていると考えられる作品から見ていくことにしたい。
 Miss Me Blind は、ここで取り上げる作品の中では唯一ロケーション撮影をしていない、スタジオのみで撮影されたビデオ・クリップである。この作品に限らず、カルチャー・クラブのビデオ・クリップはロケーションによらないもの、ロケーションをしてもその場所を非現実的/象徴的空間に仕立て直して捉えるものが、多いようである(15)。このビデオ・クリップで描かれる世界は、日本趣味とタイの風物がブレンドされ、黄金幻想でくるまれたような奇妙な創作物としての「東」の世界である。一方、登場するバンドのメンバーも、決してデュラン・デュランのビデオ・クリップに登場するような「イギリス人」ではな、ボーイ・ジョージ以外のメンバーが仏語で(アメリカ)合衆国を意味する Etat-Unis と書かれたゼッケン様のものを身につけていることが示すように、「西」ないし西欧の側も一般化されているのである。好奇心の対象として、いわば「奇妙でカワイイ」対象として異質な相手を認識する行為は、潜在的な驚異を矮小化し心理的安心感を得ようとする試みである。アメリカのみならず、ヨーロッパ人の間でも、経済的脅威としての日本を「奇妙でカワイイ」存在として見下そうという視点が現在でもあるように思われる。
 この曲の歌詞は、(おそらくは心変わりしつつある)素直でない恋人に向かって「僕と別れると後悔するよ」と半ば懇願し、半ば脅すような内容であり、ビデオ・クリップの映像と併せてみると、日本(や NIES)の経済的台頭を意識していると思わせる節もある。従って、この作品で展開されるのは、双方とも一般化・抽象化された「東」と「西」の緊張感をはらんだ「戯れ」であり、ビデオ・クリップの中でも、黄金のギターをめぐるロイ・ヘイと日本人男性の争奪のような対立もあれば、仲良しげなボーイ・ジョージと日本人女性の場面も随所に登場する。日本の経済的成功が新たな「ジパング」イメージを生んでいるのも事実であろうし、それを表現しようとするときに現実の景観として黄金色の寺院や装束の印象が強烈なタイのイメージが引用されるのも、あながち不自然ではない。
 Miss Me Blind が好奇心からの関心による作品であったのに対し、Freedom、Let's Dance、Highly Strung、といった作品は、対象としての「アジア」に対して一定の距離をおきつつ、「異者」としての「アジア」を理解し、表現しようとするものであるようだ。
 ここで取り上げた作品で、唯一コンセプト・ビデオでないのが、Freedom である。このビデオ・クリップにはライブ場面も含まれているものの、基本的にはドキュメンタリーによるロード・ムービー的作品といえる。つまり、オン・ザ・ロードという非日常性(16)の中で、ワム!のツアー・メンバーのオン/オフ・ステージ風景と、行先(ここでは北京)の人々の表情や風物が、画面を構成していくことになる。そこでは、描く対象地は一カ所でも、イディオム(3)と通じる部分もあると考えられよう。実際、この作品でメンバーが登場して描かれているのは、普段と(例えばイギリス国内と)変わらない公演の風景である。万里の長城の場面(ここでは一瞬だけジョージ・マイケルが子供に語りかけるシーンがある)などもあるし、ジョージ・マイケルが人民帽姿で現れもするが、オフ・ステージ風景でも中国人との交流や、中国らしい雰囲気は希薄なものでしかない。記者会見の場面などでも、質問するのは同行記者と思われる白人ばかりである。世界中どこへいっても当然のようにフットボール(サッカー)に興じるメンバーの姿(特に、アンドリュー・リッジリー)に、すべては象徴されているようだ(17)。  一方で、コンサート会場の内外や、その他の中国人の描写は、カメラに向かって尊大な表情をみせる男の子をはじめ、必ずしも紋切りではない魅力的なカットを多数作り上げている。しかし、そこに描かれる中国の姿は、常識的映像の範囲を超えることはない。結局、ビデオ・クリップに描かれたのは、どこにツアーしても変わるものではないであろうツアー生活の描写と、中国の生活の素顔であり、両者はそれぞれに質の高い映像をつくっているとしても交わることはない。そして両者のモンタージュから残される印象は、「東は東、西は西」という伝統的イディオムを超えるものではないように思われる。
 物質的な豊かさの否定という一種の自己否定と結びつくとき、作品は強いメッセージ性を帯び、アジアを媒介とした西欧文明批判/物質文明批判となる。そうしたメッセージは、Let's Dance で、白人に酷使されながら束の間の休日をクレジット・カードで楽しみ、しかし結局は西欧的=白人的=物質的豊かさを象徴する「赤い靴」を踏みつけるアボリジニの若者たちや、Highly Strung の最後で立ち去っていくヒロインの姿に凝縮されているのである。
 こうした形で表現された西欧文明批判/物質文明批判は、一見すると、例えばかつての1970年代のドラッグ文化/ロック音楽における「インド趣味」と類似した部分もあるように思われる。しかし、両者はその本質において大きく違っている。つまり、かつての熱狂的とも言える「傾倒」の姿勢にあたるものが、これら一連のビデオ・クリップ作品群には欠けているのである(18)


V.結論:試金石としての「アジア」

 結局のところ、1983年という時点で、イギリスのポップ・スターたちがアジアに求めたのは、あるいはアジアを媒介して表現したのは、何だったのだろうか。その答えは、様々な形で表現できそうだが、誤解を恐れずに単純化すれば、「世界は広い」という外へ向かう精神だったのではないだろうか。1970年代後半以来、石油危機に揺さぶられた労働党政権の経済運営の失敗と、それに続いたサッチャー保守党政権(1979年〜1990年)の「反動」の下で、イギリスでは、国内における失業問題や移民問題をめぐる緊張が先鋭化し、ポピュラー文化の上ではパンクが大きなうねりとなっていた。そうしたイギリスが、一つの曲がり角を曲がった時期が1983年前後だったように、今となっては思われる。音楽の世界において、パンクが身近な現実の閉塞状況をさんざん暴き出した後に、その反動として様々な立場から肯定的・建設的な方向を目指す動きが出現したのがこの前後であり、例えば、バンド・エイドに始まる一連の政治性の高い慈善活動が始まったりもしたのである。そうした状況の中で、パンクの破壊力を乗り越え、ポップで肯定的なイメージを紡ぎ出すためには、国という枠組みの外へ視点を展開させる必要があったのだ。そこまで断定しないまでも、国民の視野を外へ向けるという戦略の有効性は、当時のイギリスの状況下では相当高かったに違いない。1982年のフォークランド紛争の経験は、そのことを十二分に証明していたはずである。
 そこに新たな表現形態として、ビデオ・クリップが急速に一般化したのである(19)。もちろん、ビデオ・クリップの一般化自体は、むしろアメリカにおけるMTVの登場(1981年)といった事情が大きな推進力となっていた。さらに、家庭用VTRの普及といった側面も大きな意味があったはずである。しかし、ともかくもスタジオでのライブないしギミックによる音楽番組からビデオ・クリップへの変化は進み、ビデオ・クリップの制作者側は、通常の音楽番組とは違った表現や演出を試みようと努力を重ねていった。その中で、インパクトのある印象的風景などを盛り込んだ屋外ロケーションは説得力のある手法の一つと考えられ、安易なものから、かなり手の込んだものまで、無数の作品が制作されるようになった。アジアに取材したビデオ・クリップが頻出した背景には、このように「世界は広い」という外へ向かう精神があった。そしてこの精神は、様々な意味でヨーロッパから最も遠いところに位置するアジアへと向かったのであった。
 しかし、アジアに対する個々の作品には、当然ながら、内容にばらつきも認められた。明瞭に「見下す」もの(Hungry Like the Wolf)、「戯れる」もの(Miss Me Blind)、距離をおくもの(Freedom)、自らとは別の可能性を求めるもの(Let's Dance,Highly Strung)といった具合である。もっとも、こうした差異は、異者との接触の中から自己を確認するという共通の作業における、アプローチの違いでしかない。あくまでもポップなデュラン・デュランが伝統的植民地意識の影を引きずり、政治的前衛を自任するスパンダー・バレーと表現者として前衛に進もうとするボウイが、アジアの内にオルタナティブを見いだそうとしたことは、決して偶然ではなかろう。「アジア」という素材は一種の試金石として、イギリスのポップ・スターたちの個性を描き出したのであった。




1)レイモンド・ウィリアムズは、『文化とは』の第一章「文化社会学をめざして」の中で、観察社会学の流れを別とすれば、現代の文化社会学的研究には、三つのタイプがあり、それぞれ、
  (i) 芸術の社会的条件
  (ii) 芸術作品における社会的素材
  (iii) 芸術作品における社会関係
を研究対象とする、と指摘している(ウィリアムズ,1985,pp22〜28)。この分類に従えば、こうした研究は(ii)に属することになる。
2)ストロー(1990,p256)、参照。
3)ビデオ・クリップにおいても、作家主義的視角からの批評は可能であろうし、実際、作品の均質性が高く、多数の作品に共通した独特のイディオム=<特定の作家や様式の特徴的表現>が認められる作家、すなわちビデオ監督も少なくない。例えば、Don Henley: Boys Of Summer や Jill Jones: Mia Bocca などを監督した John Baptist Mondino は、ヌーベル・バーグを意識したようなモノクローム映像や特異なモチーフ(金網ごしなどのショット、ジャンプする半裸の青年、等)の多用など、こうした視点から論じやすい作家であろう。しかし、本稿ではこうした議論は進めない。
4)このうち最も広く認められるのは悪魔崇拝であり、Alice Cooper、Ozzy Osbourn、Judas Priest、等をはじめ、ほとんどのヘヴィ・メタルのバンドにその要素が認められる。音楽的評価はひとまず置くとしても、視覚的演出として戯画的悪魔崇拝を徹底し、逆説的にこれを娯楽に仕上げた、という点において、今日のヘヴィ・メタルへの道を拓いたのは1970年代前半における Alice Cooper と Kiss であった。1970年代後半以降、悪魔崇拝/悪魔趣味はヘヴィ・メタルの一要素として様式化されるとともに1980年代には、悪魔崇拝の裏返しとしてキリスト教の伝道を唱える Stryper、キリスト教伝統のない日本における一種の冗談としての聖飢魔IIが登場するに至った。
 悪魔崇拝に比べると、他のパターンは顕著な形で露骨に現れることは少なく、断片的・限定的な形でしか表現されない。これはロックが世界的市場性をもっており、ドイツや日本がその中で大きな比重を占めていることと無関係ではない。しかし、こうした一種の人種偏見は、非常に巧妙にロック文化に組み込まれている。例えば、バンド名の表記に用いられる不必要なウムラウト(Motley Crue[o と u がウムラウト表記になっている]: motley crew の意で、発音も同じ)、アクセサリーに用いられる旭日旗(海軍旗)、Sigue Sigue SputnikHanoi Rocks といったバンド名が、凶々しさの象徴として昨日しているのである。
5)ちなみに、限られた数の都市名ないしイメージで「世界一周」を表現しようとする際にどこが選択されるか、という問題にも興味深いものがある。手許にあるフランスのビデオ・クリップでは唯一の「世界一周」型である Jean Michel Jarre: Zoo Look には、日本ではなく中国(上海)の登場、ダンチッヒ、ジブチ、アビジャン、ザンジバルといった地名の出現と、他の「世界一周」タイプとは大きな違いがある。即断はできないが、その背景には英米的世界観とフランス的世界観の違いがあるのかもしれない。
6)日本を素材としたビデオでは、一般的な東洋趣味の要素に加え、イリュミネーションや屋外の大画面をはじめ、テクノロジー色の強い要素が強調されることが多い。
7)以下の記述には、各レコードのライナーノーツなどに加え、ブロンソン(1990)、FETISHほか(1990)、などを参照した。
8)China Girl のビデオ・クリップについては、手許に完全なものがないので、充分言及できないことを予めお断りする。
9)この作品については、ほぼ同じ時期に同じく香港でロケを行った、安全地帯「熱視線」との比較を既に論じた(山田,1988)も参照。
10)ヘリコプターは、最もコストのかかる高価な乗り物であり、富〜ビジネス〜名声〜現代消費文化〜エスタブリッシュメントなどを象徴する道具である。ここで取り上げる作品としては、Highly Strung にも登場する。
11)少なくともビデオ・クリップという表現形態に関する限り、ボディ・ペインティングには、何らかの性的含意が強く感じられ、イディオムとして確立されているようにも思われる。Spandau Ballet: Paint Me Down*、Romeo Void: Girls In Trouble などを想起されたい。
12)模型の寺院の形からすると、金閣寺が意識されている可能性もある。
13)出典は記憶にないが、ワム!の中国公演に関する当時の報道では、踊り出した者が警備員によって即刻取り押さえられた、ということになっていたと思う。これが事実だとすると、このビデオ・クリップの映像は、意図的に事実を歪曲しようとしていることにもなろう。
14)今日のイギリス英語において、Asianという言葉はインド亜大陸=旧「英領インド」出身者を指すことが多い。
15)後者の例としては、Do You Really Want To Hurt Me ? や、War などがある。
16)ロック音楽とオン・ザ・ロードの思想ないし感覚との結びつきについては、歌詞分析を通じて環境イメージの析出を試みた Jarvis(1985,pp100〜104)の中でも論じられている。そこでは、演奏旅行に出かけたロック・バンドの生活がトラック・ドライバーと同じようにオン・ザ・ロードそのものであることも指摘されている(pp102〜103)。ここでいう非日常性には、この観点からすれば一定の留保をつけるべきであろうが、なお検討したい。
17)フットボール(サッカー)は、イギリス人のアイデンティティの上で重要な要素となっている。フットボールは、(1)世界中どこでも普及している、(2)にもかかわらずイギリス起源であることが公認されている、(3)(アメリカン・フットボールなどに比べて)手軽に遊べる、といった条件から、特にイギリス以外の土地にいるイギリス人がアイデンティティを表示する手段として用いるのに適している(アメリカ人にとってこれに匹敵するスポーツは、バスケットボールであろうか?)。そのためか、国際的に活躍したり、アメリカに拠点を移したイギリス出身のアーティストの中には、「サッカー好き」のパブリック・イメージを有効に利用して、イギリス人としてのアイデンティティを訴える者も多い(さしあたり Rod Stewart を想起されたい)。
18)勿論、そうした「インド趣味」のすべてが「傾倒」の域に達していたわけではなかった。この間の事情については、下記(謝辞参照)「夏の集い '90」における柴俊一氏の発表に教えられるところが多かった。
19)ビデオ・クリップの普及、一般化については、山田(1990b)も参照されたい。


文 献


ビデオグラフィー
*アーティスト(著作権年号):ビデオ・ソフト表題,著作権者[日本版ビデオ発売元]といった形式で、本文中に*印表示したビデオ・クリップを収録したビデオ・ソフトを列挙した。著作権年号は、各ソフトのものであり、個別のビデオ・クリップのものではない。

謝辞/献辞
 本稿は、1990年7月、八王子市の大学セミナー・ハウスで開催された、日本ポピュラー音楽学会準備会(当時)・国際ポピュラー音楽学会日本支部・インド音楽研究会・共催の「夏の集い '90」で発表した内容に、加筆・修正を加えたものである。発表に際しては、いろいろな方々から質疑・討論・御教示を頂いた。日本ポピュラー音楽学会は1990年11月に正式に発足したが、準備会段階で筆者に入会を勧めて下さったのは、小川博司先生(桃山学院大学)であった。また、上記研究会での発表は、細川周平先生(東京芸術大学)に促されて取りまとめたものであった。両先生をはじめ、本稿にお力添えを頂いた方々に、日頃のご厚情への感謝も含め、お礼を申し上げる。
 さて、筆者が東京大学教養学部教養学科イギリス分科の学部学生だった当時に分科主任をなさっていた橋口稔先生は、昨年還暦を迎えられ、この年度末で定年退官される運びとなった。先生の最終講義は、既に本稿脱稿前に、通例よりかなり早い時期に行われ、筆者も出席させて頂いた。先生のイギリス文化論の末席を汚しながら、異なる分野をさまようことになった筆者としては、十年ぶりに拙いレポートを再提出するようで気恥ずかしくはあるが、橋口先生の還暦へのささやかなお祝いとして、本稿を献呈申し上げる。

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