雑誌論文(その他):2013:

立地からみた日本のポピュラー音楽系博物館等展示施設の諸類型.

人文自然科学論集(東京経済大学),134,pp.3-23.


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立地からみた日本のポピュラー音楽系博物館等展示施設の諸類型.

はじめに
  1. 検討対象の確定...印刷版では誤って「I.」としてしまい,結果的に「I.」がふたつあるように見えています。
I. 立地からみた展示施設の諸類型
  1. 出身地等の縁故地への立地
  2. 「都市」を単位とする限りで正統性が担保されている事例
    a) 「都市」事例の第1類型:新設施設
    b) 「都市」事例の第2類型:保存建築等の利用
  3. 縁故地以外への立地
II. 米国の事例からの示唆
    a) 真正性の演出・可視化
    b) 「語り部」としての役割を担うガイドの育成
    c) 近隣の関連施設等との連繋
おわりに



論 文
立地からみた日本のポピュラー音楽系博物館等展示施設の諸類型

山田 晴通


はじめに

 筆者は,2010年から米国におけるポピュラー音楽に関係する展示施設,すなわち博物館や個人記念館の類を集中的に訪問し,関係者への聞き取りを行なってきた(山田,2011:2012)。また,これと比較することを念頭に,日本における同種の施設についても,機会を捉えて訪問し,一部施設については関係者への聞き取りを行なっている。本稿は,そこで得られた知見を踏まえ,米国の事例と日本における同種の施設の事例との比較を行ない,さらにそこから,日本の小規模展示施設(個人記念館など)を観光資源として活用することに向けて,何らかの政策的提言の可能性を模索しようとするものである。
 米国におけるポピュラー音楽関係の展示施設は,おもに規模の違いによって大きく3類型に整理して理解することができる。このうち,日本にも同規模の施設が多く存在する小規模施設からなる類型Iでは,ポピュラー音楽の歴史において大きな意味を持ったスタジオ施設(ないしスタジオの跡)やポピュラー音楽にとって重要な人物が居住した家屋などが多い(山田,2012,pp.38-39)。類型Iに分類される施設では,「ガイドの語りを通して提供される情報」(山田,2012,p.39)によってローカル・アイデンティティを表現する演出が見られることなど(山田,2012,pp.41-43),施設規模の類似性以外にも共通した性格が見出される。[表1]
 しかし,本稿で検討していくように,米国における小規模施設に典型的な姿は,規模において類似している日本の諸施設には,ほとんど当てはまらない。それは,日米の社会的制度の違い,文化的背景の差異に遡って説明されるべきものと考えられる。しかし,一面においては,日本の諸施設の活性化を図り,あるいは観光資源としての価値なり,社会教育施設としての文化的価値を高めて,施設の存続をめざすために,米国の諸施設の取り組みから学び取られるべきことは少なからずあるようにも思われる。本稿は,米国の類似例との対比を念頭に,日本のポピュラー音楽系展示施設の立地上の特徴を整理し,そこに米国の文脈において見出されたものとは異なる,日本の文脈における諸類型を見出し,さらに,その先において,米国の類似例との対比の中で若干の検討を加えようと試みるものである。

1. 検討対象の確定
 米国におけるポピュラー音楽系博物館等展示施設における展示の充実ぶりや多様性と比べると,日本における同種の施設の状況は,相当に見劣りするものと言わざるを得ない。日本には,博物館法上の登録博物館が900館あまり,最も広義に「博物館類似施設」まで含めた場合には5,700館以上の「博物館」があるとされているが1),その中で,ポピュラー音楽を主題としている事例は,ごく少数しか存在していない。とりあえず,ポピュラー音楽に限定せず,音楽一般を主題とする展示施設まで検討対象を広げたとしても,その数は限られている。最も充実した体制を整えている施設と考えられる登録博物館に限って,音楽関係と判断できる事例を探すと,古賀政男音楽博物館,民音音楽博物館(いずれも東京都),浜辺の歌音楽館(北秋田市),堀江オルゴール博物館(西宮市)と,わずか4館しか見当たらない2)。このうち,古賀政男音楽博物館と民音音楽博物館は,米国における類型IIに相当する,中規模と呼んで差し支えない規模があるが,作曲家・成田為三の顕彰を主な目的とした浜辺の歌音楽館は類型Iと理解されるし,実業家でオルゴールのコレクターであった堀江光男(1911-2007)の個人コレクションをもとに,その邸宅をそのまま博物館に転用した堀江オルゴール博物館は,類型Iと類型IIの中間的な規模と性格をもっているものと考えられる。また,この4館の中ではっきりとポピュラー音楽系の博物館と位置づけできるのは,古賀政男音楽博物館だけである。
 音楽大学などが設けているものを含めた楽器博物館や,営利的性格を帯びたオルゴール博物館などは検討対象から除外することを前提に3),博物館法上の登録博物館に限定せず,博物館類似施設にまで検討対象を広げ,またポピュラー音楽系に限定せず広めに音楽系の展示施設を拾っていっても,その数は決して多くはない。また,その大部分は規模に関しては米国の類型Iに準じる小規模施設であり,また,米国の類型IIに準じる中規模の施設を含め,個人記念館の形態をとる施設がほとんどである4)。検討対象施設のうち,特定の個人等の記念館という性格をもっていないのは,民音音楽博物館,日本シャンソン館のほかは,ごくごく小規模で,見方によっては独立した施設とはみなせない日本昭和音楽村FN音楽館しかない5)。ここで確認しておかなければならないのは,日本には,米国の類型IIや類型IIIに準じる,特定個人の顕彰という性格を脱した中規模から大規模の展示施設がほとんど欠けている,という状況である。ロックの殿堂博物館やカントリー音楽の殿堂博物館のように,業界団体が特定の音楽ジャンルに関する博物館を設けるといった事例が,そのままの形では日本に存在していない。ジャンル全体を対象としている日本シャンソン館(渋川市:1995年開館)も,決して大規模な施設ではないし,もともとはシャンソン歌手・芦野宏(1924-2012)の個人的努力によって法人組織が作られ,成立したという面が強い展示施設である。また,広く音楽業界によって支えられていると考えてよい古賀政男音楽博物館は,「大衆音楽の殿堂」を館内に配置し,日本におけるポピュラー音楽文化の総合博物館という性格を帯びながらも,一方では古賀政男という偉大な一作曲家を顕彰する個人記念館としての性格に寄り添う形でしか,それを実現できていないという限界をもっている。
 そのような個人記念館において顕彰の対象となっている人物には,作曲家,作詞家,歌手など様々な事例が含まれている。作曲家の記念館の中にも,例えば宮城道雄記念館(東京都新宿区)のように,ポピュラー音楽との関連性がほとんどなく,検討対象から外した事例もあるが,ここでは明治・大正時代から昭和戦前期における流行歌との深い結びつきを考慮し,唱歌,童謡,新民謡といった分野で顕著な作品を残した作曲家については,例えば滝廉太郎まで含めて,検討の対象とした6)。作詞家については,作曲家の場合と同様の分野で重要な作品を残した者については,詩人,文学者といった形容が優先されるべき人物であっても検討の対象としたが,その詩作が歌曲として残されていても,その人物の創作活動の中で作詞活動が一定以上の比重で評価されているとは言いがたい例については,対象としなかった7)。歌手についても,同様の基準で臨み,オペラ歌手としての業績以外にポピュラー音楽系を含めた活動実績のある藤原義江は検討の対象とした8)
 以上の基準を踏まえ,これに該当する施設をネット上における検索によって探したところ,合わせて38施設が見出された9)。なお遺漏はあるものと思われるが,本稿で検討するのは,この38施設の範囲である。[表2]
 検討対象とする展示施設は,そのほとんどが,特定の個人(ないしグループ)を顕彰の対象とした個人記念館としての性格をもつ施設である。作曲家関係では,既に言及した,古賀政男(1904-1978),成田為三(1893-1945)に加え,瀧廉太郎(1879-1903),中山晋平(1887-1952),江口夜詩(1903-1978)・浩司(1927-2010)父子,古関裕而(1909-1989),吉田正(1921-1998),遠藤実(1932-2008)など,作詞家関係では,吉丸一昌(1873-1916),高野辰之(1876-1947),野口雨情(1882-1945),北原白秋(1885-1942),サトウハチロー(1903-1973),佐藤義美(1905-1968),星野哲郎(1925-2010),阿久悠(1937-2007)などの記念館がある。また,歌手やグループの関係では,藤原義江(1898-1976),東海林太郎(1898-1972), 松島詩子(1905-1996), 春日八郎(1924-1991), 村田英雄(1929-2002),ダークダックス(1951年結成10)), 石原裕次郎(1934-1987), 北島三郎(1936- ), 加山雄三(1937- ),美空ひばり(1937-1989),坂本九(1941-1985),松山千春(1955- ),DREAMS COME TRUE(1988年結成)らを顕彰する展示施設が存在している。

I 立地からみた展示施設の諸類型

1.出身地等の縁故地への立地
 検討対象とする施設の大部分を占める個人記念館の施設は,米国の同様の施設で類型Iに分類される諸事例とは大きく異なる立地上の特徴をもっている。米国のポピュラー音楽系展示施設の場合には,個人の居宅跡やスタジオ跡といった,主題にゆかりのある施設の現物を中心として,史跡の現地に展示施設が設けられる「現場」立地が多い。これに対し,日本の音楽関係展示施設の場合には,個人の居宅が残されていたり,復元されている事例は少なく,スタジオ跡は皆無である。居宅がそのまま現地において展示施設に転用されている例としては,生家が展示施設となっている野口雨情生家・資料館や北原白秋記念館(ただし復元部分が多い),瀧廉太郎が少年期を過ごした家である瀧廉太郎記念館があるが11),全体に占める比率は小さいし,また,いずれも顕彰の対象は純然たるポピュラー音楽系の作詞家,作曲家とは言いがたい。古賀政男音楽博物館は,古賀政男の自宅跡に建っているが,現在の建物は全面的に新築されたものであり,旧宅の面影は書斎や日本間などが復元されて,展示の一部に取り込まれているに過ぎない12)
 出身地に記念館等がある事例を,出生地ないし生家の所在した市町村名(出生当時→現在)とともに列挙すると,作曲家では出生順に,中山晋平(長野県下高井郡新野村→日野村→中野市),成田為三(秋田県北秋田郡米内沢村→森吉町→北秋田市),江口夜詩(旧・岐阜県養老郡時村→上石津町→大垣市),古賀政男(東京の古賀政男音楽博物館とは別に,古賀政男記念館・生家がある:旧・福岡県三潴郡田口村→大川市),古関裕而(福島市),吉田正(茨城県多賀郡高鈴村→助川町→日立市),作詞家では,吉丸一昌(大分県北海部郡海添村→臼杵町→臼杵市),高野辰之(長野県下水内郡永江村→永田村→豊田村→中野市),野口雨情(茨城県多賀郡磯原村→北中郷村→磯原町→北茨城市),北原白秋(福岡県山門郡沖端村→柳川市13)),佐藤義美(大分県直入郡岡本村→竹田市),星野哲郎(山口県大島郡森野村→東和町→周防大島町,歌手では,藤原義江(赤間関市→下関市14)),東海林太郎(秋田市), 松島詩子(山口県玖珂郡日積村→柳井市), 春日八郎(福島県河沼郡八幡村→会津坂下町), 村田英雄(佐賀県東松浦郡相知村→唐津市),松山千春(北海道足寄郡足寄町),DREAMS COME TRUE(ボーカルの吉田美和:北海道中川郡池田町)などとなる。
 このうち,出生時の生家跡やその隣接地などに立地している例は,北原白秋生家・北原白秋記念館,野口雨情生家・資料館(近傍に別施設として北茨城市歴史民俗資料館・野口雨情記念館がある)と,生家の隣接地を行政が借り上げて建設された中山晋平記念館(中野市)のみであり,他の多くの事例において記念館の立地場所は各人の生家があった場所とは関係がない。古賀政男記念館・生家における「生家」も,移築復元したものであり,本来の現地に残されたものではない。なお,高野辰之の生家は現存するが公開されていない。近傍にある高野辰之記念館は,高野が生徒として通い,後に教員として勤務した永田尋常小学校の跡地にある。また,出生地以外の居住地などとして縁があった場所に記念館等がある事例は数が限られており,上述の古賀政男音楽博物館,滝廉太郎記念館の事例のほかは,生家以外の居宅(ないしその跡地)に展示施設がある事例は管見する範囲では見当たらない15)
 少し対象を広げて,縁故のあった住宅等が展示施設に転用されている事例としては,例えば,中山晋平記念館(熱海市)が挙げられる。この家屋は,中山が晩年を過ごした別荘の建物であるが,もともと熱海市内の別の場所(西山町)から,観光地となっている熱海梅園(市有地)の敷地内に移築したものである。なお,吉丸一昌は大分県臼杵市で生まれ育ったが,吉丸一昌記念館「早春賦の館」(臼杵市)になっている住宅は,本人が居住した家ではなく,妻の実家である。その他の縁故による立地としては,「城ヶ島の雨」の歌詞に謳われた景勝地の現場に建てられた,北原白秋を記念する白秋記念館(三浦市)や,阿久悠の母校である明治大学の駿河台キャンパス内にある建物の一部に設けられた阿久悠記念館(東京都千代田区)の例がある16)

2.「都市」を単位とする限りで正統性が担保されている事例
 日本の事例で目立つのは,米国においてはむしろ例外的な位置づけであった,立地類型「都市」に分類される諸施設である。この分類は,「展示テーマと歴史的由縁のある都市内に立地しているが「史跡」の現場に立地しているわけではない事例を,「都市」を単位とする限りで正統性が担保されている場合と捉え直して分類のひとつとし」たものである(山田,2012,p.38)。米国の小規模施設の事例では,このカテゴリーに含まれるのはハンク・ウィリアムズ博物館しかなく,むしろ例外的存在であるが(山田,2012,p.40),日本の小規模施設については,むしろこの形態が一般的といってもよい状況にある。

a)「都市」事例の第1類型:新設施設
 出生地であれ,生家以外の居住地その他の縁故地であれ,「展示テーマと歴史的由縁のある都市内に立地しているが「史跡」の現場に立地しているわけではない事例」,すなわち「都市」に分類される事例は,その展示施設が入っている建物の性格によって大きく2つのグループに分けて理解することができる。ひとつは新設された,当初から博物館等展示施設として使用するという前提で用意された建物に入っているものであり,ポピュラー音楽の色彩が強い施設のなかでは,石原裕次郎記念館(小樽市),遠藤実記念館「実唱館」(新潟市)などが,独立した展示施設が「都市」に分類される立地に新設された典型的な例である。石原裕次郎は3歳から9歳までを小樽市に住んでいたが,現在の石原裕次郎記念館は,当時の居宅とは無関係な場所にある。遠藤実は東京出身だが,父親が新潟県西蒲原郡内野町(→新潟市西区内野),母親が新潟県西蒲原郡曽根町(→西川町→新潟市西蒲区曽根)の出身で,自身も幼くして両親それぞれの実家近くへの戦時疎開を経験した。しかし,遠藤実記念館「実唱館」の敷地(遠藤の疎開当時は新潟県西蒲原郡角田村→巻町→新潟市西蒲区越前浜)は,当時の遠藤少年の生活圏の範囲内ではあったものの,直接の縁があったわけではなく,後年になって遠藤が,当初は記念館の建設などは特に意識することもないまま入手した土地であった。高野辰之の晩年の住まいがあった長野県下高井郡野沢温泉村には,おぼろ月夜の館斑山文庫があるが,これは,行政主導で村役場の跡地に建てられた施設である。同じ分類には,春日八郎記念公園・おもいで館(1995年開館)のように,より小規模な施設も含まれる。この施設は春日の生家(現存しない)があった集落の外れにある「一本杉」の周辺を,春日のヒット曲「別れの一本杉」を連想させる形で小公園として整備したものである17)
 また,同じ建物の中に別個の機能(周防大島町役場東和総合支所)が入っている星野哲郎記念館(2007年開館)も,実態を踏まえれば独立した展示施設と見なすことができる。これは,それまで,旧東和町役場にあった総合支所が,星野哲郎記念館の開館とともに,同じ建物の中に移転したものである。記念館の展示スペースに比べて,総合支所の事務室はごく限られた大きさしかない18)。さらに,新設された複合施設ウイニングホールの一部に入る形で開館している北島三郎記念館(2002年開館)も,一定の展示規模をもっており独立施設に準じる実態をもっている19)。さらに,旧鉄道駅舎を全面改装した「道の駅」の施設の一部となっている,道の駅あしょろ銀河ホール21松山千春コーナー(2011年開館)は,形式的には必ずしも「新設の建物」にはあたらないが,施設の性格を踏まえると,「新設」された複合施設の一部に入る形に準じると見なすべきであろう。
 なお,この分類には,日本昭和音楽村江口夜詩記念館(1994年開館)のように,音楽ホールを主とする新設の建物の一部に組み込まれた,ごく小規模な展示施設も含まれる20)。また,出身地や居住地ではなく,より弱い縁故があった地域に立地するものもあり,晩年の坂本九が交流のあった福祉施設との関係から設けられた坂本九思い出記念館(北海道夕張郡栗山町)の例がある21)

b)「都市」事例の第2類型:保存建築等の利用
 「都市」に分類される事例のもうひとつのグループは,既存の施設に後から入る形で開設された展示施設である。上述のように,米国の小規模施設で「都市」に分類される唯一の事例であったハンク・ウィリアムズ博物館は,当初は既存の駅舎の一部に開館し,次いで現在の建物へと移転したが,いずれの場合においても顕彰の対象であるカントリー音楽の歌手ハンク・ウィリアムズとは特段の縁故もない既存の施設に,博物館が後から入るものであった(山田,2011,p.164)。日本のおける同様の事例としては,例えば,秋田市の中心市街地にある菓子店(榮太楼菓子舗大町本店)のビル2階に設けられている東海林太郎音楽館(2005年開館)を例として挙げることができる。同様に,ボーカル・吉田美和の出身地である北海道池田町に設けられたDREAMS COME TRUE の記念館,DCTgarden IKEDA(2005年開館)は,池田町に観光拠点となっている池田町ワイン城の遊休施設(旧物産館)を転用したものである。
 以上の2事例は当てはまらないが,既存施設に博物館等の展示施設が後から入る事例では,音楽家の顕彰といった文脈とは無関係に,建物自体に一定の文化財的な価値が見出され,保存建築として指定されたり,何らかの保存活動の対象となっている例が目を引く。例えば,野口雨情記念湯本温泉童謡館(2008年開館)は、詩人が一時期住んでいた湯本温泉にあり、地元の郷土史家が長年収集した資料などを展示しているが、施設が入っている建物は、商工会議所の支所跡をほぼそのまま使用している。松島詩子記念館(2000年開館)が2階に入っている柳井市町並み資料館は,1907年に周防銀行本店として建設され,永く柳井市の歴史的ランドマークとして保存が取り組まれてきた建物である22)。同様に,村田英雄記念館(2004年開館)は,かつて佐賀銀行相知支店として使われていた建物を改装したものである23)。また,藤原義江記念館(1978年開館)は,下関市でも永く活動していた英国系商社ホーム・リンガ商会の関係施設として1936年に建設されたもので,藤原とはごく遠い縁故もないわけではないが,初期のコンクリート造の洋館としての文化財的価値から保存が模索されてきた経緯がある24)。以上の事例には,建物自体の文化財としての保存が模索されている状況がある中で,その建物や敷地自体と直接の関わりは無くても「都市」レベルで縁故がある人物に関する品々を収める展示施設としてそれを活用し,建物の保存にも努めるという,共通した事情がある。古くて立派な,それ自体が文化財としての価値をもつ建物に,古い文物を展示することは,例えば,懐古趣味を演出するという観点からは有効な手法と見ることもできるが,主題となる人物と展示施設を収める建物が本来無関係であるにもかかわらず,あたかも関係があったかのような誤った印象を与える虞れがあることなども考慮すれば,真正性(authenticity)の観点からは問題を含んでいると考えるべきであろう。

 同様の構図で,真正性の観点から問題を孕んでいると思われるのは,展示施設の立地が,現代における広域化した行政区画の上では「展示テーマと歴史的由縁のある都市内に立地している」と言えても,かつての伝統的な行政区画から見ればそうではない事例が散見されるという事実である。上述のように遠藤実記念館「実唱館」平成の大合併によって同じ新潟市の一部になったものの,遠藤の疎開先があった父親の出身地である旧・内野町とは10 kmほど離れた旧・角田村に立地している。同様に,松島詩子記念館は,山口県柳井市の中心市街地に立地しているが,松島が生まれた1905年当時の山口県玖珂郡日積村は,当時の柳井町の中心市街地から10kmほど離れた山間部の村であった。昭和の大合併の中で1954年に最初の柳井市が新設合併で誕生するまで,松島の出身地は柳井市ではなかったのである。同様に,佐藤義美記念館は,大分県竹田市の中心市街地の外れに位置しているが,佐藤が生まれた1905年当時の直入郡岡本村は,そこから3kmほど東に位置する一帯にあった。岡本村は,1942年に当時の竹田町を中心とした1町3村の新設合併に加わり,新たな竹田町の一部となった。また,前述の星野哲郎記念館の事例も,生家のある旧・森野村ではなく,それが合併して成立した東和町の中心集落・平野に立地している。平成の大合併によって周防大島町が成立した後に旧・東和町に開館したことに注目すれば,行政広域化の影響を受けていないように見えるが,現在の立地は,それ以前の昭和の大合併の結果として成り立っている。

3.縁故地以外への立地
 以上で検討してきたのは,曲がりなりにも顕彰の対象となる人物の縁故地に展示施設が立地している事例であった。これに対し,本来はほとんど縁がなかったといってよい場所に記念館等の展示施設が存在する事例も日本には一定数の事例が存在する。これは,米国においては類例が見出せない形態である。こうした,顕彰対象者の活動とほとんど無関係であるように見える場所に立地する事例では,施設はいずれも新築で,当初から博物館等展示施設として使用するという前提で用意された建物に入っている,という共通した特徴がある24)
 また,こうした事例においては,何らかの縁があったことをやや強引に主張する言説が紡がれることもあるが,本当の意味でそれが立地の主因であったとは考えにくい。例えば,サトウハチロー記念館叱られ坊主(岩手県北上市)の場合,もともと東京生まれの詩人・作詞家サトウハチローの死後に,東京都文京区の自宅の一部を記念館として公開していたものを,1996年に新たに施設を設けて現在地へ移転したという経緯がある。移転先の検討の過程ではハチローの父・佐藤紅緑の出身地である弘前市や,母・はるの出身地である仙台市などを含め,東北地方の各地を候補として検討し,結果として,記念館の館長であるハチローの次男・佐藤四郎の妻(ハチローから見れば次男の嫁)の出身地である北上市を選んだと説明されている25)。横浜出身の美空ひばりを取り上げた展示施設である,京都嵐山美空ひばり座(京都市右京区)の場合,ホームページにアクセスすると「京都は私の第二のふるさとなの 美空ひばり」という文字が最初に画面に表示される。美空ひばりが,特に1950年代において,時代劇映画の撮影のためにしばしば京都に滞在したことは事実であるが,歌手・美空ひばりという観点からするとホームページ冒頭の美空ひばりの言葉は,あまり説得力が感じられるものではない26)
 一方では,立地について,その真正性を主張しない,ある意味では潔い施設も存在する。個人記念館ではないが,シャンソン歌手・芦野宏(1924-2012)が主導して財団法人を設立し,開館に至った日本シャンソン館(渋川市:1995年開館)は,もともとシャンソンという音楽ジャンルとは特段の縁故のない土地に立地しており,公式サイトなどでもなぜ当地にこの施設が立地しているのかは説明されていない。また,美空ひばり歌の里(長野県上伊那郡箕輪町:1997年開館),ダークダックス館林音楽館(群馬県館林市:2008年開館)などの例では,それぞれの地域出身の熱心な人物が,自らの地元に土地を確保して施設を設けたものであり,顕彰の対象となる音楽家の側ではなく,顕彰しようとする側の縁故地に立地が決まったものと理解すべきであろう27)。しかし,現役のうちにこうした施設が開設された場合には,それをきっかけに記念館が立地する地域との新たな関わりが積み上げられることになる。ダークダックスの場合,ダークダックス館林音楽館が開館した時点で,既にメンバーのひとり佐々木行(1932- )が闘病のため活動できなくなっていたが,残るメンバーはしばしば館林を訪れ,イベントに参加していた28)。同様に,日本シャンソン館は,それまで日本のシャンソン史に特段の意味をもっていなかった群馬県渋川市にあるが,これは芦野の妻の出身地に土地を求めて開設されたためであり,開館後は頻繁にシャンソンの公演が行われて,芦野自身も死去するまで出演し続け,また来日した大物シャンソン歌手たちがしばしば同地を訪れるなど,開館後の地域における存在感は小さくない。加山雄三ミュージアム(静岡県賀茂郡西伊豆町:1998年開館)は,施設の立地がなぜそこであるのか説明する文言は,ウェブサイトなどにも見当たらない。加山と西伊豆町の縁は,クルーザーの係留をきっかけにしたものであったと言われているが,むしろミュージアムの開設を契機として,それ以降に深まってきているようである29)
 このように,展示の主題となる人物との関係が稀薄な,あるいは,一見して無関係に感じられる場所に立地する展示施設の事例の最たるものは,かつて2000年から2010年にかけて,さいたま市(開館当初は与野市)のさいたまスーパーアリーナの一角に設けられていたジョン・レノン・ミュージアムである。ジョン・レノン(1940-1980)の2人目の妻となったオノ・ヨーコ(小野洋子)は日本人であり,小野との共同生活を始めて以降のレノンは,しばしば日本を訪れていた。特に,オノとの間に息子ショーンが生まれた1975年以降には,夏場を中心に日本で過ごすことが多く,東京,京都,軽井沢などに滞在していたが,与野市,あるいは,2001年に新設合併により成立した現在のさいたま市の地域とは特段の縁があったわけではない30)。ジョン・レノン・ミュージアムは,さいたまスーパーアリーナの開館当初からの施設であり,当初は永続的な博物館施設として構想に組み込まれていたが,入館者数の低迷から2010年の閉館に至った。
 このように,米国におけるポピュラー音楽系博物館等の展示施設に類例を見出すことが難しい縁故地以外への立地が少なからず見出される理由のひとつは,既に,美空ひばり歌の里やダークダックス館林音楽館について指摘したように,展示施設の成立を支える篤志家の存在と,(顕彰の対象者ではなく)篤志家の側の縁故地への立地として説明される。しかし,より一般的に立地を左右する要素として,潜在的な集客力という観点が重要であることは論を待たない。顕彰の対象者とどのような縁があるのか,という真正性よりも,入館者をより多く迎えたいという観点から立地が考えられることは当然あり得る。
 サトウハチロー記念館叱られ坊主は,北上市の桜の名所として知られる「展勝地」(市立公園)の一角にあり,記念館前には大型バスも駐車可能な自前の駐車場が用意されている。春の桜の季節と秋の桜紅葉の季節になると,記念館にはバスで乗り付ける団体客を含め,多数の入館者が訪れる31)。同様の構図は,熱海梅園に移築された中山晋平記念館にも当てはまる。特に,営利性を帯びている展示施設においては,その施設自体を目的として来場する観覧者のみならず,周辺地域へやってきた観光客が,いわば偶発的に「ついでに」立ち寄ることを期待できるか否かも,重要な立地要因のひとつとなる。京都嵐山美空ひばり座は,嵐山の観光地区の目抜き通りにあたる嵐電(京福電気鉄道嵐山本線)嵐山駅から渡月橋へと向かう通りに面しているし,加山雄三ミュージアムは,各種の観光施設が散在する伊豆半島の景勝地に立地している。こうした事例は,真正性よりも,入館者獲得の可能性を優先して立地を決していると見てよいだろう。ジョン・レノン・ミュージアムの場合も,さいたまスーパーアリーナがしばしば大規模なロック系コンサートの会場となり,音楽ファンが集ることを見込んだ立地であったと考えられる32)

II 米国の事例からの示唆

 前章で見たように,日本のポピュラー音楽系博物館等展示施設は,米国の諸施設とは異なる諸類型をとりながら,日本社会の中で一定の社会的,文化的,あるいは観光施設として経済的役割を果たしている。しかし,日本の諸施設は概して規模が小さく,ほとんどが小規模な個人記念館の形態をとっている。また,「都市」レベルでしか縁故地とはいえない場所に立地する例が多いことや,ごくごく薄い縁しかない場所に立地する例が見られるように,立地に由来する真正性が十分に認められない事例が少なからず存在する点も,米国とは大きく異なる特徴となっている。こうした日本の音楽関係小規模展示施設を観光資源として活用していくためには,米国における経験を踏まえて取り組むべき課題が様々な側面で存在しているように思われる。具体的には,真正性の演出・可視化,「語り部」としての役割を担うガイドの育成や,民間の商業性が高い施設を含む近隣の関連施設等との連携などが,今後に取り組まれるべき課題として示唆される。

a)真正性の演出・可視化
 日本の諸施設では,立地の真正性への意識は,米国の諸事例に比べて相当に低い。それは「都市」レベルでしか真正性をもち得ない立地や,そもそも真正性がほとんど希薄な立地がしばしば見受けられることからも明らかである。しかし,このことは,潜在的な入館者たちである日本の一般民衆が,真正性に無頓着であることを意味するとは限らない。他の条件が同じであるならば,説得力のある真正性が示された方がより良く支持されるはずである。史跡に立地するような場合はもちろんそれ自体が真正性の根拠となるが,現実にはそうした施設はごく一部であり,特にポピュラー音楽の定義を狭めればほとんど無くなってしまう。
 このような状況の中では,真正性を強調する演出,あるいは,見落とされがちな真正性の発掘が求められる。場合によっては,歌碑や標章,あるいは説明看板などを設けることによって,真正性を可視化する取り組みが効果を上げることもあろう。また,例えば,おぼろ月夜の館斑山文庫が,カリヨンによって定時に高野辰之が作詞した唱歌「故郷」や「もみじ」などの旋律を流すことは,いわば「可聴化」の取り組みとして評価される。

b)「語り部」としての役割を担うガイドの育成
 米国の小規模施設の多くにおいて,大きな役割を担っているのは,施設にいるガイドであった。多くの施設では,ガイド付きのツアーが導入されており,中には,ガイド・ツアーでなければ観覧できない施設もある。多くの場合,観覧者はガイドに質問することで効率よく展示への理解を深められるようになっている。また,単なる案内者としてではなく,展示されている主題とより深く結びついた人物が「語り部」として生々しく語っているのだという意識が説明を聞く側に生じれば,語られた内容への印象はより強くなる。
 日本の施設において,ガイド・ツアーがほとんど見受けられない背景には,ガイドの導入に経費が生じることを強く懸念する意識があるように思われる。例えば,無給ボランティアのガイドを導入するとしても,その育成には一定のコストがかかる。それを施設側が負担する余裕はない,というわけだ。しかし,他方では,展示施設側が地域社会の有志にボタンディア・ガイドへの参加を呼びかけることは,その地域社会における施設の意義を広める普及啓発活動の一環という側面もある。展示施設には多少なりとも社会教育施設としての一面があるが,その教育の対象は観覧者に留まるものではなく,ガイドのみならずその他の役割を担う者も含め,ボランティア・スタッフとして関わる地域住民が,その体験を通して学ぶ部分も社会教育の実践である(藤田,1992,pp.133-139)。そして,地域住民がボランティア・ガイドとして,地域とゆかりのある人物について語る言葉は,地域外からやってきた観覧者には,より強い地域アイデンティティと説得力を意識させることとなる。博物館におけるボランティアの活用については,近年盛んに議論されるようになっており,また実際にボランティア・ガイドを導入する事例も目立つようになりつつあるが,本稿で検討対象とした小規模展示施設にはその動きはまだ及んでいない。

c)近隣の関連施設等との連携
 米国の事例においては,関連性のある施設の間で,無料の連絡バスを運行したり,施設周辺にある別の関連施設や史跡への案内地図を用意したりと,様々な形で複数の施設を結びつける演出が見受けられる。個々の施設の展示内容をそれだけで終わらせずに,館外へと結びつけ,さらには現実空間とリンクさせていくという工夫がなされている(山田,2011,p.174)。特に,「都市」レベルでしか真正性をもっていない施設においては,真正性の演出・可視化とも連動しながら,こうした複数の施設を結び付けていく工夫を展開させていく余地が大きいものと思われる33)

 しかし,こうした諸施策は,どこにおいても同じように有効性をもち得るものではなかろう。立地の真正性をもちながら,逆にそれ故に他の施設との連繋が難しい施設の事例と,展示主題とはほとんど縁故のない既存の観光地に立地する施設の事例では,当然ながら具体的な運営上の課題も,効果的な方策も異なってくることになる。

おわりに

 本稿では,米国におけるポピュラー音楽系博物館等の展示施設の類型化を踏まえ,それと対比する形で,日本における(やや広義の)ポピュラー音楽系展示施設の類型化を試みた。その作業を通して明確になったのは,日米では小規模施設の性格が大きく異なっているということであるが,本稿の射程においてはその原因の解明には踏み込んでいない。
 立地の真正性という観点からすると,日本の施設の多くは何らかの意味で問題を抱えている。その背景には施設の存続のためには,真正性を多少犠牲にしてでも,集客力や公的支援の得やすさなどを優先するという判断が垣間見える。立地の真正性と,経営判断の狭間で成立する諸類型には,永続的運営に向けてそれぞれに異なる課題があるものと考えられる。

 最後に,以上の議論で触れていない論点について,簡単に言及して稿を閉じることとしたい。本稿で検討対象とした38施設を都道府県別に数えると,対象施設の偏在の状況が浮き彫りになる。このような偏在がなぜ生じるのかは,例えばイノベーション普及の議論を援用して解釈することも可能であるかもしれないが,そうした議論を展開するには事例数が限られている。しかし,近傍の町村に,郷土のスターを顕彰する施設が存在していれば,それに倣ってわが町でも,と考える動きが顕在化しやすいという仮説は,説得的であるように思われる。特に公的背景からこの種の展示施設が開設されたり,支援されたりする場合に,自治体行政当局がどのような判断を下すか,といった文脈では,近傍の他自治体の取り組みが決定を左右する大きな要因となり得るようにも思われる。こうした論点については,今後の議論が必要である。[表3]



1)2008年の社会教育調査によると,日本には,博物館法上の「登録博物館」907館,これに準じる運営実態をもち都道府県教育委員会が指定する「博物館相当施設」341館,それ以外の「博物館類似施設」4,527館があるとされる。これらの数字の前提となっている「博物館」は,名称に「博物館」を含むものばかりではないし,また,日常的な用語として「博物館」以外に「美術館」,「動物園」,「水族館」などを含む概念である。他方では,社会教育調査の対象となっていない小規模な,また,営利的性格の施設も少なからず存在しているものと考えられる。以下,本稿で言及する様々な小規模施設の中にも,社会教育調査の対象外施設が含まれている可能性もある。
2)登録博物館のリストは,福島県立博物館がネット上に公開しているリンク集「全国の登録博物館」を利用した。http://www.general-museum.fks.ed.jp/21_links/21_links.htm
3)楽器に特化した博物館の例は,米国についての検討対象には入っていなかった。楽器博物館としては,浜松市楽器博物館(浜松市)が相当に充実した展示内容をもっているほか,国立音楽大学楽器学資料館(立川市)や武蔵野音楽大学楽器博物館(東京都練馬区)など各地の音楽大学に附属する施設がある。一方,オルゴール博物館としては,登録博物館である堀江オルゴール博物館のほか,UKAI河口湖オルゴールの森(山梨県南都留郡富士河口湖町),ホール・オブ・ホールズ(北杜市),京都嵐山オルゴール博物館(京都市右京区)などが商業的性格ながら充実した展示を行っているが,その他にも各地に類似施設が散在している。
4)このほか,宝塚歌劇団に関するまとまった資料を所蔵し,また,展示も行なっている池田文庫(公益財団法人阪急文化財団が運営)のように,総合的,ないし,複合的な展示の中で,(ポピュラー)音楽に関する一定規模の展示を行なっている例もあるが,ここでは検討の対象から外している。
5)日本音楽村FN音楽館は,江口夜詩記念館を中心とした施設である日本昭和音楽村(大垣市)の施設のひとつとして,江口夜詩記念に隣接して建てられている。管理も一括して行なわれており,見方によっては「日本昭和音楽村」という施設の一角にある,一展示室に過ぎない。なお,「FN」とは「Folk New music」の意とされており,展示されているのはおもに1970年代のシングル盤のジャケットや,ポスター,当時のギターなどである。
6)武満徹(1930-1996)が長く仕事場を構えていた長野県北佐久郡御代田町に設けられた複合文化施設エコールみよた(2003年開館)は,開館当時から武満ゆかりの品を展示し,武満徹記念館と通称されていたこともあった。ただし,公的にこの呼称は用いられず,最近では公式サイトに武満関係の記述がないことなども踏まえ,検討対象とはしなかった。武満徹はポピュラー音楽系の作品も少なからず残しており、記念館の存在が確認されれば、検討対象に含むべきところである。
7)例えば,石川啄木(1886-1912)などは,詩作品に後から曲がつけられて歌曲とされている例があるが,作詞家としての組織的活動があったわけではなく,ここでは対象としていない。
 また,月の沙漠記念館(千葉県夷隅郡御宿町:1990年開館)によって顕彰されている詩人画家・加藤まさを(1897-1977)は,童謡の作詞についてはもっぱら「月の沙漠」のみによって知られており,画家ないし詩人としての業績の中で作詞の比重は限定的なものに留まると判断し,検討対象に加えなかった。
8)実際には様々な方法で探索を試みたものの,ポピュラー音楽以外の演奏家の個人記念館の例は発見できなかった。
9)仮に,米国の事例と対象にした山田(2011,2012)と同様の基準に限るとすれば,26館程度まで施設数は限られる。具体的には,民音音楽博物館と,成田為三,瀧廉太郎,吉丸一昌,高野辰之,野口雨情,北原白秋,佐藤義美の各記念館が対象から省かれる。
 このほか,既に閉館して現存していない展示施設としては,ジュデュ・オング資料館(伊東市:不詳),hide MUSEUM(横須賀市:2000-2005),ジョン・レノン・ミュージアム(さいたま市:2001-2010),Art Style of GLAY (函館市:2002-2006)などの例が広く知られており,本稿でも必要に応じて言及する。
10)メンバー4人の生年が1930年から1933年にかけてであることを考慮して,この位置に配列している。
11)瀧廉太郎記念館については,加藤(2009)も参照のこと。
12)古賀政男邸跡の経緯については,山田(2012)注11に整理したので,転載する。
 「典型的な事例と思われのは,東京の代々木上原にある古賀政男音楽博物館である。同館は,1978年に死去した古賀政男の自宅跡にある。旧古賀邸は1938年に建てられた重厚な建築であったが,古賀の死後,そのまま1979年に古賀政男音楽文化振興財団が運営する古賀政男記念博物館となった。しかし,1992年に旧古賀邸は解体され,跡地には現在の古賀政男音楽博物館などが1997年に建てられた。この際,旧古賀邸は,一部が移築再現されたのみで,ほとんどが失われた。(「古賀政男記念博物館 目を閉じれば不朽のメロディー(建築懐古録)」読売新聞,1989年6月5日東京朝刊,27面:「古賀政男記念博物館 名曲に思いをはせ…(博物館誌)」読売新聞,1990年9月27日東京朝刊,29面:「記念館と違いホールや「殿堂」 古賀政男音楽博物館(音楽の風景)」朝日新聞,1997年5月8日夕刊,14面)」
13)北原白秋(1885-1942)は,母親の実家があった当時の熊本県玉名郡関外目村,現在の南関町で生まれているが,生後間もなく生家に移っており,出身地は「柳川」とするのが一般的である。白秋が生まれた当時,生家があった福岡県山門郡沖端村は,城下町である柳河町の南西方に隣接する,沖端川の船着き場の村であった。柳河町,沖端村を含む1町5村の合併で柳川町が成立したのは,白秋没後の1951年,市制施行は翌1952年であった。つまり,白秋の存命中は「柳川」は「柳河町」周辺を指す通称名でしかなかった。
14)藤原義江(1898-1976)は,下関に駐在する貿易商であったスコットランド人の父と芸者であった母の間の子として,母親の実家があった大阪で生まれた。その後,父が子として認知しなかったことから母親とともに九州各地や大阪を転々とした。11歳以降は父親からの金銭的援助を受けて東京に定住するが,それ以前に長く幼少期を過ごした特定の場所がないこともあって,出身地は「下関」とされることが多い。しかし,藤原義江は下関に定住したことはなく,また,彼が生まれた時点では,赤間関市が市名であり,これが下関市と改称されたのは1902年であった。
15)ここでは検討対象から省いている宮城道雄記念館は,宮城の自宅跡に立地している施設である。
 また,サトウハチロー記念館叱られ坊主が,現在地(北上市)に開設される以前は,自宅の一部がサトウハチロー記念館として公開されていたが,こうした例は相続税や公益法人制度などが関わる諸問題があり、永続は容易ではない。サトウハチロー記念館叱られ坊主には、取り壊された自宅の部材を使って、仕事部屋が復元展示されている。後掲の注25も参照のこと。
16)阿久悠記念館は,明治大学博物館と同じく駿河台キャンパス内のアカデミーコモン地階に設けられているが,明治大学博物館の一部ではなく,大学史資料センターの管轄下に置かれた展示施設である。アカデミーコモンは2004年に竣工し,博物館等の施設が移転したが,阿久悠記念館は,130周年記念事業の一環として2010年に開設されたものであり,アカデミーコモンの設計時点ではまったく考慮されていなかった施設である。
17)言うまでもないことだが,作詞者である高野公男(1930-1956)は,春日の出身地にあるこの特定の「一本杉」をイメージして「別れの一本杉」を創作したわけではない。
18)現存するが公開されていない星野の生家は,記念館がある平野集落から見れば島の反対側の斜面に位置する旧・森野村にある。1955年の合併によって,旧・森野村が東和町の一部となり,星野は東和町出身の作詞家として広く知られることになった。著名人となった星野は東和町の行政にも様々な形で協力をし,東和町も星野を顕彰するため,1988年に名誉町民の称を贈った。その後,町立の施設として星野の記念館を設ける構想が出てくるが,時期が東和町を含む周防大島の全島合併によって周防大島町を新設する合併協議と重なり,最終的には周防大島町の新設後に,周防大島町役場東和総合支所と合わせてひとつの建物とする形で,旧・東和町の中心集落であった平野に星野哲郎記念館が設けられた。
 なお,星野哲郎記念館/周防大島町役場東和総合支所の隣接地にある周防大島文化交流センターには,没後の1986年に東和町から名誉町民の第1号を追贈された民俗学者・宮本常一(1907-1981)を顕彰する展示室が一足早く2004年に開設された。これは「宮本常一記念館」の開設を求める長年の運動を反映したものであった。
19)北島三郎は北海道上磯郡知内村(→知内町)出身で,生家も現存するが,北島三郎記念館が存在する函館市には,高校時代に通学していた北海道函館西高等学校(のちに中退して上京)が存在するものの,居住はしていない。しかし,上京して歌手活動に入って以降の北島は「函館」出身と位置づけられ,そのイメージは『函館の女』(1965年)のヒットによっても広く印象づけられた。なお,北島は1999年に,(一般的な「名誉市民」に相当するとされる)函館市栄誉賞を贈られている。北島が函館市と縁故があることは間違いないとしても,現在の北島三郎記念館は,「史跡」の現場に立地しているわけではない。  なお,ウイニングホールには,開業当初は北島三郎記念館のほかに,Art Style of GLAY という名称で,ロック・バンドGLAYの記念館も開設されたが,こちらは2006年に閉館となっている。
20)1994年,当時の岐阜県養老郡上石津町(のち2006年に大垣市に編入)に開設された日本昭和音楽村江口夜詩記念館は,音楽専用ホールと江口夜詩資料展示コーナーを含む建物の名称であるが,江口夜詩・江口浩司父子に関する展示は,ロビー奥の空間に展示ケースを並べただけの限定的な規模にとどまっており,専用施設として新築されたものであるとはいえ展示施設としては独立施設と見なしがたい。管見する範囲では他に同様の例は見当たらないので,類型のひとつとして議論するのは躊躇されるが,典型的な独立施設やそれに準じる規模の展示施設とは同列に扱いにくい例外的な事例と見るべきであろう。
21)晩年の坂本九は,1976年から日航機墜落事故で死去した1985年まで札幌テレビ放送(STV)で福祉番組『ふれあい広場サンデー九』のキャスターを務め,北海道内の各地を取材して回っていた。1993年に開館した坂本九思い出記念館は,この番組や,それ以前からのチャリティ活動などで坂本とゆかりのあった知的障がい者通所授産施設「栗山ハロー学園」の関係者らが中心となって開設されたものである。したがって,単純に歌手としての活動を顕彰するという趣旨の施設ではない。
22)松島詩子記念館が2階に入っている柳井市町並み資料館は,1907年に周防銀行本店として建設された建物で,その後も山口銀行の支店として永く使用され,柳井市の中心市街地の象徴的な建物と見なされていた。1998年に柳井市に寄贈された後,2000年に当初の位置から曵家,改装された上で,登録有形文化財(建築物)となった。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=114974
 なお,周防銀行本店の敷地には,以前は呉服商・堀江家があり,国木田独歩が一時的に居住した旧跡であるともされる(ただし,この場所そのものではなく,近傍の別の場所とする説明もある)。柳井市町並み資料館の玄関脇には,国木田独歩の言葉を刻んだ「読書の戒」の石碑があるが,これはもともと1964年に建立されたものを2000年の曵家の際に一緒に移設したものである。
23)佐賀県東松浦郡相知町は,2005年に新設合併により現在の唐津市の一部となったが,村田英雄記念館はその前年2004年に相知町観光協会が中心となり,旧佐賀銀行相知支店の建物を利用して開設され,協会の事務局も記念館内に移された。現在も,合併に伴って改組された唐津観光協会相知支所が記念館内に置かれている。この建物は木造平屋建て(コンクリート造を模した看板建築)で,記念館の改装は地域住民や地元の職人組合がボランティアであたった。かつての金庫室はカラオケやAV機器が備えられた「音響室」に転用されている。この建物は,文化財登録はされていないが,地域のランドマーク的な建物として保存が図られている。
 佐賀銀行相知支店は,現在は記念館から50メートルあまり西側にある別の建物に移転して存続している。
24)現在,宗教法人赤間神宮の所有となっている藤原義江記念館(紅葉館)は,もともとはホーム・リンガ商会(ないし,その系列にあった瓜生商会)が,関係者の宿舎として建設したものである。ホーム・リンガ商会は,英国系の商社であったグラバー商会から独立した英国人らによって1868年に設立された商社であり,現在も北九州市門司区を本社として存続している。藤原義江の実父Neil B. Reid (1870-1920) は,ホーム・リンガ商会傘下の瓜生商会の支配人として永く門司にいたが,1900年まで藤原とは面会せず,以降も養育費は送ったものの藤原との接触はほとんどなかった。Reidが活動していた時代には,現在の藤原義江記念館の前の敷地(現状では空き地)に,木造の日本家屋があり「紅葉館」と称されていた。この初代の紅葉館はReidと深い関係があり,彼は少なくとも一時期はここに住んでいたとされる。しかし,現在「紅葉館」とも通称されている藤原義江記念館の建物は,Reidの死後に建てられたものであり,Reidとも藤原とも直接の関係はない。この建物は,ホーム・リンガ商会の社長の子息の住宅として建設され,後には瓜生商会関係者の住宅として用いられた。2006年に登録有形文化財(建築物)となっている。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=152525
25)東京都文京区にあったサトウハチローの自宅は,サトウの死後,未亡人によって記念館として一部が公開されていたが,未亡人の死去後,区政をめぐる政治的な動きに翻弄されたことを嫌った佐藤家の判断で処分され,記念館は移転することになった。後に自宅跡地は,集合住宅の敷地となった。
 北上市の公式サイト内にある「サトウハチロー記念館 岩手県北上市への移転経緯」という記述によれば,館長である佐藤四郎は北上市への移転を決めた理由として「(1) 東京や埼玉・大宮(館長の現住所)からの新幹線・東北高速道路などの交通アクセスに恵まれていること。(2) 空気,水などの自然環境に恵まれていること。(3) 犯罪発生率が極端に低く,貴重な資料の保存に支障がないこと。(4) かつて黒沢尻とよばれた北上市は,東北有数の米の集散地。北上川を利用した舟運で栄えた歴史があり,宿場町として人にやさしい気風の残る都市として定評があること。」を挙げたと説明されている。
http://www.city.kitakami.iwate.jp/sub03/shisetsu/shisetsu05/page_1281.html
26)京都嵐山美空ひばり座:http://misorahibariza.jp
 現在の京都嵐山美空ひばり座は,1993年に「美空ひばり館」として開設されたが2006年に経営難から閉館に至った。その後,経営主体が美空ひばりの遺産を管理するひばりプロダクションに移され,展示内容なども大幅に変更した上で,2008年に現在の形態で再度開館した。米国の中規模施設に相当する充実した展示スペースを備えており,個人記念館でありながら,見方によっては古賀政男音楽博物館をも凌ぐ,事実上,日本最大級のポピュラー音楽系博物館といってよい存在となっている。
 なお,この間,1993年から1996年にかけて,美空ひばりの出身地である横浜市でも,公益性をもった形で財団法人を組織し,横浜マリンタワー内に美空ひばり記念館を設けるという計画が進められたが,結局のところこの計画は頓挫した。
27)美空ひばり歌の里は,箕輪町在住の児童文学者で生前の美空ひばりと親交があった小沢さとし(1938 - )が1997年に開設した施設である。小沢は美空ひばりを「童謡歌手」として捉える視点からの評論も発表している(小沢,1997)。
 ダークダックス館林音楽館は,ダークダックスのメンバー同様,慶應義塾大学の出身で,グループの有力な後援者であった実業家(館林うどん社長)小暮高史らを中心とした地元の支援者たちによって建設された施設である。2002年にメンバーの喜早哲(通称「ゲタさん」)からグループの関連資料の散逸を防ぐための施設を館林に設けることを打診された小暮らは,2006年に小暮を理事長とするNPO法人ダークダックス館林音楽館を立ち上げて,建設資金を集め,2008年にダークダックス館林音楽館を開館した。
28)こうした活動は,2011年にメンバーのひとり高見澤宏(1933-2011)が死去して,グループとしての活動が休止するまで盛んに行なわれた。
29)加山雄三ミュージアムの開館以降,加山は2000年に西伊豆町観光PR大使となり,伊豆地方をモチーフにした切手のデザインなども手がけた。さらに2004年には,西伊豆町立賀茂小学校の校歌を,弾厚作名義で作詞作曲するなど,西伊豆町とのつながりは継続している。
30)レノンについての博物館が,リヴァプールやロンドン,あるいは,ニューヨークにではなく,日本に立地していたこと自体,真正性の観点からは大きな疑問符がつくが,仮に日本国内にレノンの博物館を設けるのであれば,それは軽井沢に置くべきだったとする見解はしばしば聞かれるところである。実際、ジョン・レノン・ミュージアムでも、ショーンが生まれた後、夏の軽井沢で過ごす一家の写真などが多数展示されていた。ミュージアムには,開館当初から2006年まで,軽井沢の万平ホテルがミュージアム・カフェを出店していたが,これもレノンと軽井沢の結びつきを象徴するものであろう。
31)佐藤四郎館長は,こうした団体客に対して自ら説明役を務め,父サトウハチローのエピソードの語り部としての役割を積極的に担っている。
 管見する限り,本稿で言及している日本の施設で,このように語り部なりガイドの役割が大きい事例は,検討対象からは除外した堀江オルゴール博物館(館内は自由観覧ではなく,ガイドに案内されるツアーを原則としている)しか見当たらない。
32)前稿で述べたように、ポピュラー音楽系の展示施設という観点からは,ハードロックカフェにおけるメモラビリアの展示のような純然たる営利的施設における展示も,議論の射程に収めておく必要がある(山田,2011,pp.178-179)。北米のハードロックカフェの店舗の中には、スタジアム施設内に立地しているもの(ニューヨーク・ヤンキースタジアム)、かつて立地していたもの(トロント・スカイドーム)があるが、同様の理由からの立地と思われる。
33)中野市の高野辰之記念館は旧豊田村が開設した施設であったが、2005年に豊田村が中野市に編入されると、中山晋平記念館と同じく中野市の施設となり、両者共通のパンフレットなどが制作されるようになった。また、高野辰之記念館のウェブサイトには、中山晋平記念館や野沢温泉村のおぼろ月夜の館と行き来するためのバスの時刻表など交通情報が詳しく掲載されている。こうした取り組みも「工夫」の例と見なせるだろう。

文献
謝辞

 本稿は,2010年以前より重ねて来た全国各地の展示施設の観覧経験に加え,2011年以降に行なってきた展示施設関係者などへの聞き取りを含む現地調査による知見と,その際に入手した資料にもとづいて執筆されている。現地調査でお世話になった方々は多数に上るが,特に,佐藤四郎氏(サトウハチロー記念館しかられ坊主館長)には,記して感謝を申し上げたい。

 本稿は,山田を代表者とする2011年度および2012年度学術研究助成基金助成金・基盤研究(C)「観光資源としてのポピュラー音楽に関する実証的研究」(課題番号:23614022)の成果の一部である。
 本稿の内容の一部は,2011年12月3日に秋田県民会館ジョイナスで開催された経済地理学会北東支部例会,および,2012年8月4日に東北師範大学(中国・長春市)で開催された第7回中日韓地理学会議において口頭発表した。

 本稿のテキストは,当研究室のウェブ・サイト上で公開している。
 (http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html


////社会経済地理学/地域研究/地誌////大衆文化論////

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