雑誌論文(その他):2010:
新聞記事データベースにみる音楽ジャンル名としての「フォーク」概念の定着過程.
コミュニケーション科学(東京経済大学),32,pp157-190.
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本論文は『日本語学論説資料 第四十七号 第三分冊(語彙)』(論説資料保存会,2012)に収録されました。
掲出に際して訂正した部分は青字としました。
新聞記事データベースにみる音楽ジャンル名としての「フォーク」概念の定着過程.
はじめに
I 作業の前提とした見通し
日本語における「フォーク」概念
普及が先行した「フォークダンス」
II 読売新聞:「ヨミダス歴史館」
「民謡」概念の先行
「フォーク」概念の定着
III 朝日新聞:「聞蔵IIビジュアル」
「フォーク」と「民謡」の使い分け
グループ・歌手名での検索による再検討
IV データベースにみる書籍・雑誌記事における1960年代の用例
書籍の検索
雑誌記事の検索
書籍・雑誌記事にみる「フォーク」概念
おわりに
注
文献
謝辞
研究ノート:
新聞記事データベースにみる音楽ジャンル名としての「フォーク」概念の定着過程
山田 晴通
はじめに
日本の主要新聞各紙は,概ね1980年代から製作部門のコンピュータ化(CTS化)を進め,その後一定期間を経てデジタル化された記事コンテンツの蓄積が進むと,記事データの二次利用として,様々な形態の新聞記事データベースを構築してきた。さらに,製作工程がデジタル化される以前のコンテンツについても,従来から縮刷版として提供されていた過去の紙面を画像データとしてデジタル化し,見出しの遡及入力,キーワードの付与などの加工を施してデータベース化し,有料のデータベースとしてサービスを提供するようになってきた。
新聞が歴史を映す鏡であると考えるならば,何らかの言葉なり概念が社会に登場し,大きな影響力を持つに至り,やがてそれが衰えて人々から忘れられていく,といった過程は,新聞紙面にも痕跡を残していくものと思われる。音楽ジャンルについても,新聞記事等の分析によって,いつ頃からその概念が社会的に広く共有されるようになったのか,いつ頃にその言葉なり概念が盛んに用いられ,いつ頃にそれが後退したのか,といったことを追うことができるはずである1)。
しかし,実際にそのような見通しに立って新聞記事データベースを用いて分析を試みると,様々なレベルで細かい問題に直面して,しばしば右往左往したり、立ち往生してしまう羽目になる。しかし,通常の論文の記述では,そうした作業の「アヤ」は,ほとんど記述されないのが普通である。行論の背後に,記述されることのない芳しくない結果となった分析があったり,試行錯誤の中で決してエレガントとはいえない形で一定の筋道が作られることなどは,研究の中では日常的に起きていることであるが,それは公刊される論文からは読み取ることが容易ではないことが多い。
本稿は,日本における諸々の音楽ジャンル名称の導入の時期や過程を把握するひとつの方法として新聞記事データベースを用いて分析を試みた経緯を,そのような細かい作業の「アヤ」を含めて報告するものである。本稿で主に取り上げる用語・概念は「フォーク」である。
なお,以下,本稿の記述の中で,記事内容に何らかの判定(例えば,特定の記事中の「フォーク」の語が,音楽ジャンル名としての意味で用いられているか否かの判定)を下している局面では,判定者は筆者ひとりであり,判断は筆者の独断である。読者には,こうした限定を踏まえて以下を読み進めていただきたい。
また,固有名詞(特に外国の人名・グループ名)や曲名等には,表記の揺れが生じている場合もあるが,以下では特記のない限り原則として,言及されている資料における表記を優先する。このため,以下の記述には例えば「ブラザース・フォア/ブラザース・フォー」といった表記の揺れが含まれている。
I 作業の前提とした見通し
本稿で報告するのは,おもに新聞記事データベースを用いた語彙の分析の結果であるが,実際にデータベースを用いた作業をする前の段階で,事前にどのような見通しをもって作業に当たったのかを明らかにしておく。厳密な意味での仮説ではないが,事前に見通しとして立てていた論点は二つあった。ひとつは,用語・概念としての「フォーク」の導入以前に,folk songは明治期に「民謡」として日本語に導入され,それが定着したずっと後になってから改めて(再)導入されたのが「フォークソング/フォーク」であり,「民謡」と「フォーク」の間には,意味の重なりがありながらも,新たな言葉としての(再)導入を必要とするような意味の食い違いが最初からあったろうし,両者の相違点はやがて大きな意味の乖離へと進んでいったのであろう,という見通しである。もうひとつは,「フォークソング」以前に,「フォークダンス」が普及していたことが,「フォーク」という語の普及に一定の意味を持っていたのではないか,という見通しである。この二点について,予め少し説明をしておきたい。
日本語における「フォーク」概念:
手元にある最近の国語辞典を見てみると,(英語のforkに由来する食器等としての語義は措くとして)英語のfolkの音写としての外来語「フォーク」は,まず「民俗」「民間」「民衆」「庶民」などと説明される語義が示され,次いで「フォークソング」の略としての語義が挙げられている。また,「フォークソング」については,第一義に「民謡」が挙げられた上で,第二義としてアメリカ発祥の民謡風の歌などとする説明がなされている2)。
そもそも,現代の日本語としての「民謡」は,ドイツ語のVolkslied,また英語のfolk songの訳語として明治期から用いられるようになった言葉である3)。したがって,辞典で「フォークソング」の第一義に「民謡」が挙げられるのは当然なのだが,日常的に使われる文脈においては「フォークソング/フォーク」という表現が「民謡」の意味で用いられるケースは決して多くないし,特に日本の「民謡」を指して「フォークソング/フォーク」の語を用いることはほとんどないと言ってよい4)。
いったん「民謡」として日本語の中に導入されたfolk song概念は,後段で詳しく検討するように,1960年代半ば,アメリカ合衆国においてフォーク・リバイバル運動を経てモダン・フォークソングが台頭した時期に,改めて「フォークソング」として再導入された。初期には「フォークソング」は「民謡」と重複するという側面もある程度は意識されていたものの,やがて日本における「フォークソング」が,アメリカ由来の「フォークソング」から徐々に脱皮し,特に1970年代以降に日本語による独自の「フォーク」が全面的に展開されるようになると,「フォーク」と「民謡」は異なる地平へと乖離していったものと考えられる(山田,2003,pp.6-7)。
普及が先行した「フォークダンス」:
さて,1960年代における「フォークソング」概念の(再)導入を考える上で,注目しておきたいのは,これに先んじる1950年代において「フォークダンス」の導入と普及が展開したという点である。「フォークダンス」は,戦前には組織的に紹介されていたとは言いがたく,文献的な言及も限られていた5)。
しかし,戦後になると,戦前の日本厚生協会から改組を重ねて1948年に成立した財団法人日本リクリエーション協会によって「フォークダンス」の組織的な紹介が取り組まれ,1950年には「フォークダンス中央講習会」が開催された。1956年には社団法人日本フォークダンス連盟が結成され,以降現在まで「各種の指導者講習会や全国大会を開催し,フォークダンス・日本民踊・スクエアダンス・ラウンドダンス・レクリエーションダンスの普及,指導者の養成,レコード等の監修を行って」いる6)。
1950年代における「フォークダンス」の普及は,それまで馴染みの薄かった(食器等のforkの意味ではない)folk=民衆という「フォーク」の語義を間接的に普及させることとなり,1960年代における「フォークソング」の浸透に道を拓いたものと考えられる7)。
こうした見通しが,果たして妥当なものであったのかどうかは,本稿の最後で確認することとしたい。以下では,概ね実際の作業の順序に従って,使用したデータベースごとに,検索作業の結果を報告していく。今回使用した新聞記事データベースは,読売新聞「ヨミダス歴史館」と朝日新聞「聞蔵IIビジュアル」である。この両者を使用したのは、読売新聞と朝日新聞は、1960年代当時においても、現代においても、代表的な全国紙であると考えられるからである。なお、毎日新聞「毎日NEWSパック」は、「過去紙面データベース」は明治から1959年12月30日まで、「記事データベース」は1987年1月1日以降しかカバーしておらず、本稿の分析には用いなかった。
II 読売新聞:「ヨミダス歴史館」
読売新聞社が提供しているデータベース「ヨミダス歴史館」には,1986年以降の記事の全文検索を行う「読売新聞検索」のほか,明治以来1986年までの読売新聞の記事について見出しとキーワードでの検索を行う「明治・大正・昭和検索」などが提供されている。ここでは,後者の「明治・大正・昭和検索」を用い,まず,見出しに「フォーク」(「フォークダンス」などを含む)の語が含まれる記事だけをヒットとして件数を数えた8)。このため,明らかに「フォーク」に関する記事(広告)であって,記事中に「フォーク」の語が用いられていたとしても,見出しにこの語が現れないものは数えていない。
「フォークダンス/フォーク・ダンス」「フォークソング/フォーク・ソング」のような「・」(中黒)の有無による表記の揺れは,確認した期間に関する限り特段の法則性もなく生じていると判断されたので,集計に際して区別せずに合算した9)。また,音楽ジャンル名としての「フォーク」については,「フォークソング」「フォークギター」「フォークロック」などを含めて数えた。また,実際の検索に際しては,NOT検索語として「サフォーク」「ノーフォーク」「ナイフ」「リフト」「フォークナー10)」を採り,絞り込みを行っている。
また,このデータベースでは,記事とともに広告も検索対象となるので,「フォークダンス」と,音楽ジャンル名としての「フォーク」の各年次におけるヒット数を,さらに記事と広告に分けて集計した。ただし,社告の形をとり,記事スペースに置かれた自社広告は,記事として扱った。実際には「フォークダンス」に関する広告は存在しなかったので,見出しに「フォークダンス」を含む記事,見出しに音楽ジャンル名としての「フォーク」を含む記事,見出しに音楽ジャンル名としての「フォーク」を含む広告,という3つのカテゴリーでヒット数の年次変化を集計した。[表1]
読売新聞における「フォークダンス」の初出は,1951年11月23日朝刊の「23日豊島園でフォーク・ダンスパーティー」で,これは「東京YMCAフォーク・ダンスクラブでは廿三日午後一時,豊島園で野外フォーク・ダンスパーティーを開く」というだけの短報であった。一方,音楽ジャンル名としての「フォーク」が見出しに現われるのは,1964年1月23日夕刊「LP 生活感情があふれる これぞアメリカン・フォーク・ソング第一集・第二集」であるが,この記事について後ほど検討する。
「民謡」概念の先行:
こうした作業の上で,用語としての「フォーク」の導入以前に,アメリカの「民謡」という捉え方で記事にした例があるかもしれないと考え,「民謡AND(アメリカOR米)」で検索を行った。その結果,1960年代までのヒットは見出し検索では12件,キーワード検索では59件にのぼった。両者の重複は3件だけであったので,単純に名寄せすると68件の記事が見出されたが,この中には,集計には馴染まないものの,興味深い用例がいくつか見つかった。[表2]
まず,通常は「フォーク」とは別ジャンルと考えられる音楽を指して「民謡」として言及している例を挙げると,古くは柳宗悅が,1930年10月4日朝刊への寄稿「米國での音樂(二)」で,「…だが此ジヤズも,元來は米國のものではない。その旋律はニグロの民謡に寄つたので,ニグロをいぢめぬいてゐる米國民は,ジヤズに於てニグロに全く征服されてゐる」と,ジャズのルーツが黒人にあることを記しているが,ここで「ニグロの民謡」と意識されているのは黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアルズ)などであろうか。
また,1950年11月22日朝刊「再びクラシック流行歌へ アメリカのレコード界」では,「アメリカのレコード界はいまヒルビリー音楽(アメリカ西,南部の民謡から出発したすこぶる大衆的な歌で,日本の艶歌調的なもの)の全盛に加え一九三〇年台から一九四〇年初期にかけての昔の大ヒット流行歌がふたゝび大衆の間に口ずさまるのを反映してこれらの再吹込みが盛んである」としているが,1950年という時代を考えると,この「民謡」は「フォーク」というより,それが商業化して確立されたカントリー音楽を指しているように思われる。これと軌を一にするように1957年7月16日夕刊「西部民謡ブーム アメリカ・レコード界の話題」では,「西部民謡」に「ヒルビリー」とルビが振られ,主な歌手としてエルヴィス・プレスリー,パット・ブーン,トミー・サンズの写真を掲げ,さらにラスティ・ドレイバー,テネシー・アーニー,エディ・アーノルド,デール・ポッター,カール・スミスといったカントリー系の歌手の名を列挙している11)。
これに対し,「フォーク」のジャンルと考えられる音楽を指して「民謡」として言及している例の初出と思われるのは,1961年4月24日夕刊「ブラザース・フォアのLP」である。この短いベタ記事は「彼らの特色はアメリカの西,南,東部のうずもれていた民謡を発掘して新しい解釈で歌うことで,こんどのLPでも「日ぐれどき」「古き移民たち」「さすらう賭博師」などの古い民謡を歌っている」と締められている12)。ブラザース・フォアの来日を報じた1962年3月15日夕刊「アメリカのコーラス・グループ ブラザース・フォア来日」も,「このコーラスは…主として世界各地の民謡を歌っている。こんどの来日に当たっても「日本の民謡をじかにわれわれの耳で聞いて,そのいくつかをわれわれのレパートリーに加えたい」と語っている。」と結ばれており,記事中には「フォーク」の語は見当たらない。
今回確認した範囲で,読売新聞において最初に音楽ジャンル名としての「フォーク」を記事中で用いたのは,1963年9月27日夕刊「最近のアメリカ軽音楽界 完全に民謡ブーム 大学生たちが熱烈な推進」という7段に及ぶ大きな記事である。この記事のリード部分では,「ローティーンに支持されて去年まで猛威をふるっていたツイストやロックがあきられ,かわって大学生たちの熱烈な支持でフォーク・ソングつまり民謡が軽音楽界の主導権を完全ににぎってしまった」と「フォーク・ソング」を「民謡」と等号で結び,記事中ではもっぱら「民謡」を用いて解説を進めている。記事中には「四年前から毎年七月にアメリカの東海岸にあるニューポートのフリーボディ公園ではフォーク・フェスティバル(民謡大会)が開かれているが…」「ジョン・バエスを先頭に…オデッタ…などの民謡歌手,キングストン・トリオ…ブラザース・フォー,ウィーバーズ,…ピーター・ポール・アンド・マリーなどの民謡グループ…」などと「フォーク」を用いながら,「民謡」によって説明する記述が目立つ。
興味深いことに記事の後段では,「ところで,この民謡ブームはこの秋日本にも上陸しそうだ」としてレコード・リリースの予定を紹介し,「…などの民謡が順次発売される予定だし,また来月十五日には〝さすらいの歌手〟とよばれ,ハーバード大学時代から民謡を歌い続け,民謡の研究をしてきたピート・シーガーが来日して,日本でコンサートを開く」と盛り上げ,「こうしたアメリカの民謡ブームについて」「日本テレビの藤井芸能局次長」のコメント(ハリー・ベラフォンテへの言及がある)を紹介し,続けて記事の結びに「日本の代表的民謡歌手三橋美智也」のコメントを引いて,三橋が「「民謡は大衆の生活の中から自然に発生し,民族の地の中に伝えられてきた,ほんとうの意味の〝大衆の歌〟だ...次の時代をになうアメリカの大学生たちが,自分たちの血の叫びである民謡を大事にしているということを聞いて,私は彼らのほんとうの意味での知性の深さに感心した。日本人ももっと日本民族の歌としての日本民謡を大切にしてほしい」と語っている」と記事を結んでいる。このように「フォーク」と「民謡」を重ねて捉える視点が存在していたことは,大いに注目されるところではあるが,やがてこうした論調は背景へと後退していった。
1963年11月30日夕刊「LPカーネギー・ホールのウィーバーズ」は,ピート・シーガーが初来日した後に,ウィーバーズ(The Weavers)時代の旧譜を紹介した記事だが,冒頭で「アメリカの最近のフォーク・ソング(民謡)ブームの先駆者としてピート・シーガーの名前はあまりにも有名であり,そのシーガーのなんのけれんもない,素朴な民謡はこの秋の日本公演で日本人にもかなりの感動を与えた」と記している。このレコード評コラムは「(安)」と署名されているが,同じ記者による1964年1月23日夕刊「LP 生活感情があふれる これぞアメリカン・フォーク・ソング第一集・第二集」は,見出し検索で「フォーク」の初出となった記事であり,「いまアメリカでは異常なまでにフォーク・ソング,つまり民謡がブームになっているが,この二枚のLPを聞くと,この民謡ブームの一つの要因として,あまりにも売らんかなの商業主義によってでっちあげられた最近のポピュラー・ソングへの大衆の大きな反発ということがよくわかる」と書き出されている。
1964年2月22日朝刊「日本にも“フーテナニー”登場」は,「アメリカでは民謡祭ともいうべきフーテナニーが盛んで,民謡ブームを巻き起こしているそうだが...」と始まるTBSのラジオ番組の紹介記事だが,番組名「ニューポップス・F&T」について「F&Tとは,フォークソング・アンド・トラディショナル。つまり民謡ふう,なつかしのメロディーふうのポピュラーソングをとり上げ...」と説明している。この辺りが,読売新聞における「民謡」と「フォーク」の分水嶺であったようだ。
「フォーク」概念の定着:
1964年3月31日夕刊「LP ジミー時田の努力 フォーク・バラードのすべて カントリー・バラードのすべて」も「(安)」と署名されたレコード評であり,「アメリカのポピュラー・ソングやカントリー・ソングの基盤となっているアメリカ民謡を歌ったもの…」と「民謡」という用語も動員しているが,「フォーク・ソングのあるべきスタイルをしっかりとつかんだ好唱…」とものべており,この時点で「フォーク・ソング」を全面的に「民謡」に書き換える必要が無くなっていたことが察せられる。しかし他方で,記事中には「総じてフォーク・ソングとかウエスタンといったものは,日本の軽音楽ではじみな世界だ」という記述もあり,この時点ではまだ「フォーク」が周縁的な存在であったことが示されている。
このジミー時田のLPについての記事はまた,今回確認した範囲で,日本人がこのジャンルを演奏することに言及した最初の例でもあるが,そこで「民謡」が後景に退き,「フォーク・ソング」が前景に出てきたことは象徴的な転換であった。以降,日本人の演奏についてはもっぱら「フォーク」系の用語で言及される例が続く。
まず,1965年5月19日夕刊「新フォーク・ソングの泉をもとめて 永六輔,いずみ・たく氏ら全国へ取材の旅 六月には新作発表会」は,アメリカ民謡,アメリカのモダン・フォークソング,あるいは,日本のカレッジ・フォークのいずれとも,微妙にずれた独自の文脈で「フォーク・ソング」を用いた,写真付き3段抜きの記事である。「フォーク・ソングに新風を盛りこもうというねらいから」取材旅行に赴くという彼らは,「従来のフォーク・ソングは単に郷土名や風俗をおりこんだだけにすぎない」と主張し,「「これが新しい〝にほんのうた〟だ」というリサイタルを開く予定」としている。この記事中には,永の発言として「新しい民謡/古い民謡」という言葉も出てくるが,記事自体は「フォーク・ソング」を何らの説明なしに一貫して用いている。
この頃には,その後の「フォーク」に直結すると考えられる記事も,もちろん現われている。見出しには「フォーク」も「民謡」も現われない短い記事だが,1965年6月23日夕刊「学生バンドの演奏会」は,「学生バンドの組織〝ジュニア・ジャンボリー〟」が,「フォーク・フェスティバル〝フーテナニー〟を開催する」ことを報じている。この記事には「民謡」の語は現われない。また,1965年11月1日夕刊「日比谷でフォーク・ソングの会 森山良子も歌う」は,「〝日本のジョン・バエズ〟として日本のフォーク・ソングのファンの間に大きな人気をもつ十七歳の女性歌手森山良子」を写真入りで紹介しているが,この記事にも「民謡」の語は現われない。1965年には,こうした,高校生や大学生のアマチュアリズムに支えられたカレッジ・フォークのブームを受け,12月19日から21日に,日本劇場で「フォーク・ソングフェスティバル」が開催され,読売新聞の紙面にも,広告が掲載された(1965年12月17日テレビ欄下広告)13)。
1966年1月30日朝刊「ステレオ 民謡の妖精 キャロリン・へスター」も「(安)」と署名されたレコード評であるが,見出しには「民謡」とありながら,文中に「民謡」の語はなく,記事は「フォーク・ソングの女性歌手というと,日本ではジョン・バエズが最も有名だが…」と書き起こされている。確認した範囲では,この記事を最後に,特に作詞作曲者が明らかであるようなモダン・フォークソングなどを敢えて「民謡」と呼ぶような用例は読売新聞の紙面から無くなった14)。1966年8月28日朝刊「二つのフォークLP」は,ピート・シーガーと、マリアンヌ・フェイスフルのLPを紹介する野口久光の文章だが、これは、今回確認した範囲では、「フォーク・ソング」の意味で「フォーク」という略語を用いた読売新聞における最初の例である15)。記事中では「フォーク・ソング」を用いながら、「…モダン・フォーク・ソングが圧倒的に多いようです。」と書いた直後に「そのモダン・フォークのなかにも…」と続けたり、「フォーク派の歌手」、「イギリスの若手女性フォーク歌手マリアンヌ・フェイスフル」などとも記している。1966年11月29日夕刊「ピーター・ポール・アンド・マリー フォーク・ソング・トリオが来日」では,もはや「フォーク・ソング」に説明が加えられる必要はなく,記事中にグループ結成の目的として「古い伝統ある民謡を音楽的に高めよう」というスローガンが紹介される際に「民謡」という表現が用いられるだけになっている。
こうして概ね1966年以降は,音楽ジャンル名としての「フォーク」が定着していったことが伺える。1966年には,和製フォーク最初のヒット曲とされることが多いマイク真木16)の「バラが咲いた」(アルバムも同名)が4月に発売され,7月から11月にかけてフジテレビは「フォークソング合戦」を日曜夜7時のゴールデンタイムに30分番組として放送した17)。10月下旬に封切られた松竹映画『銀嶺は恋している』(監督・井上梅次:主演・竹脇無我)は「フォークで行こう」と副題が付けられ、広告にはバンジョーを抱えた竹脇が大きく描かれた18)。
しかし,この時期においても,「フォーク」が含意する内容は十分に固まっていなかったようで,中には後代の観点から見て違和感を感じるような記事もいろいろ見出される。1965年5月19日夕刊「新フォーク・ソングの泉をもとめて 永六輔,いずみ・たく氏ら全国へ取材の旅」については,上で触れた通りである。ただし,「フォーク」と「民謡」が重なりあっていた時期には,このような方向にも「フォーク・ソング」が広がっており,世界各国の民謡をレパートリーとしていたダーク・ダックスなどのコーラス・グループが,しばしば「フォーク」の文脈で言及されたことも考慮しておくべきであろう。
1966年5月8日朝刊には「フォーク・ソングと若もの 歌う〝共通の倫理〟 情緒安定にぴったり」という記事は,「〝フォーク・ソング・フェスティバル〟の風景」を紹介し,「学生のフォーク・ソング・バンドだけで三百を越えるという」ブームぶりなどを伝えた上で,「フォーク・ソングというのは文字通り翻訳すれば民謡のことだが,アメリカで流行し,日本に伝わったものを大別すると三つにわけられる。もとになるのがカントリー・アンド・ウェスタンとよばれるもので,何百年もの時代を生き抜いて伝えられた素朴な生活の歌である。これを現代風にアレンジしたり,新しく書きおろされたものが現代フォークと呼ばれるが,その中でロックのリズムにのせたものが,わかりやすいために一番人気がある。フォーク・ソングに戦争反対や現代社会の矛盾を痛烈におりこんだものがプロテスト・ソング。社会派とでも呼ぶべきだろうか。」と記している。この記述は,単に論理的に整合性を欠いている(「フォーク・ソング」を三つに大別した下位概念を説明しているはずの文の説明に「フォーク・ソング」が特段の説明なく出てくる)だけでなく,カントリー音楽の異称である「カントリー・アンド・ウェスタン」を「何百年もの時代を生き抜いて伝えられた素朴な生活の歌」とするなど,後代の観点からすれば,フォークやカントリー音楽などの歴史に対する誤解ないし無理解が含まれている。
もうひとつ例として,1967年1月17日夕刊テレビ欄の「ザ・タイガース フォーク・ソンググループが誕生」という記事を挙げておきたい19)。この記事は冒頭でスパイダース,ザ・ワイルド・ワンズ,ブルー・コメッツ,ザ・サベージの名を列挙し,「…など和製フォーク・ソング・グループの花ざかりの中に,もうひとつ「ザ・タイガース」が誕生する」と,始っている。後代の感覚からすれば,ザ・タイガースのみならず,ここで挙例されているグループは「グループ・サウンズ(GS)」であり,彼らを「フォーク・ソンググループ」と捉えることは奇異な印象を与えることだろう。実はこの1967年初めの時点では,まだ「グループ・サウンズ」の語は普及しておらず,やがてGSとして束ねられていくグループたちも「フォーク・グループ」として言及されていたのである20)。
ちなみに,少し後の1967年7月6日夕刊テレビ欄下「和製ポピュラー 若い人に圧倒的人気」という記事はブルー・コメッツ,スパイダース,ワイルド・ワンズ,タイガースなどの人気を「和製ポピュラー」という括りで紹介しているが,ここでも「グループ・サウンズ」の語は現われない。ところが,それからふた月も経たない1967年8月27日夕刊テレビ欄下の「グループ・サウンズ 全国に〝プロ〟二百 小編成だが現代的な迫力」と題した大きめの記事では,ほぼ同じバンドを取り上げてその人気ぶりを紹介する記事のキーワードが「グループ・サウンズ」になっている。これは,確認した範囲での読売新聞における「グループ・サウンズ」の初出である21)。
III 朝日新聞:「聞蔵IIビジュアル」
朝日新聞社が提供しているデータベース「聞蔵IIビジュアル」には,1986年以降の記事の全文検索を行う「朝日新聞1985〜」のほか,明治以来1989年までの朝日新聞の見出しとキーワードでの検索を行う「朝日新聞縮刷版」などが提供されている。ここでは,後者の「朝日新聞縮刷版」を用い,読売新聞の場合と同様の手続きで,検索にヒットする記事を数えた。朝日新聞の場合,戦後については広告がデータベースとして提供されていない(戦前・戦中分は,広告も検索できる)ので,広告における用例は追跡できなかった。実際の検索に際しては,NOT検索語として「リフト」「フォークボール」を採り,絞り込みをした。読売の場合よりもNOT検索語を減らしたのは,演算子(検索語)が3個に制限されているためである。[表1]
全体的な記事数の経年変化は,読売新聞の場合とさほど大きくは変わらない。また,当然ながら朝日新聞でも,読売新聞の場合と同様に「フォークダンス」に関する1950年代の記事が,音楽ジャンル名としての「フォーク」関係の記事に先行して現われる。ただし,朝日新聞における「フォークダンス」の見出し初出は1954年11月13日朝刊の「第一回東都フォークダンス大会」の社告であり,以降も自社主催行事の社告や宣伝記事が多く,一般的な記事での用例はあまり見当たらない。
「フォーク」と「民謡」の使い分け:
音楽ジャンルとしての「フォーク」を最初に見出しに用いた例は,1964年5月30日夕刊の「“フォーク・ディキシー”生みの親 ザ・ビレッジ・ストンパーズが来日」」である22)。この記事は「「ワシントン広場の夜はふけて」のポピュラー楽団「ザ・ビレッジ・ストンパーズ」が六月三日に来日,各地で公演する。このヒット曲はモダン・フォーク・ソングとディキシーランド・ジャズを結びつけた演奏スタイルが歓迎されたもので,日本でも八十万枚のシングル盤が出たという。」と始まり,特段の説明なく「モダン・フォーク・ソング」という表現を用いている。これに続いた1964年6月20日夕刊の「都会的な鋭い感覚 ピーター,マリーら三人組フォーク・ソング」という来日公演の評でも,「ところで,この三人のフォーク・ソングだが,神経質すぎるほどよく計算されている。...さきごろ来日したブラザース・フォアなどの,素朴で,おおらかなフォーク・ソングとは反対に都会的な鋭い感覚が歌のなかに張りつめている」などと,「フォーク・ソング」は特段の説明なく用いられている。
以降,朝日新聞では,毎年何らかの記事が音楽ジャンル名としての「フォーク」の語を見出しに用いているが,早い時期のまとまった解説記事として注目されるのは,1965年10月24日朝刊「娯楽ウイークリー」面の「エレキとフォーク ポピュラー界2つの流行」である。記事では,ジャズ評論家・鈴木道子23)(同名のジャズ・シンガーとは別人)のコメントを軸に,一見対照的に見える二つの流行に「だれでも歌えて素人うけするのが特徴」という共通項があり,テレビで「素人が参加する番組」が盛んなことや,「ファンクラブ花盛りといった感じ」の状況が言及されている。フォーク関係では,ザ・ブラザース・フォア,ザ・キングストン・トリオの名が挙げられ,後者の大手町サンケイホールでの公演の写真が掲げられているが,「フォークといっても,いま一番受けているのはモダンなもの。ザ・キングストン・トリオの面々がいっていた「われわれは人情味ある芸人だ」というような態度が歓迎されている。」という記述に象徴されるように,全体的な論調は,もっぱらポピュラー音楽の流行のひとつとして「フォーク」を捉えたものとなっている。
1966年4月13日夕刊テレビ欄下の「フォークの有望スター マイク真木」は,レコード・デビュー直前のマイク真木を紹介した記事である。記事は冒頭で「ここ数年間,静かなブームを呼んでいるフォークソング…」と始まり,「学生のフォーク・ブームから有望なスターが生れた」として,真木がモダン・フォーク・クヮルテットで活動し,海外での「フォーク・ソング大会へ海外出演したり,日劇でのフォーク・フェスティバルで歌ったり」してきたことを,紹介している。「バラが咲いた」のヒット以前であることを考えれば,かなり大きな扱いであったと見るべきであろう24)。
1966年6月27日朝刊テレビ欄下の「月曜あんない」「静かな人気が続きそう 日本ものも多い“フォーク”」は,「フォーク・ソングはギターやバンジョーを伴奏にした一種の民謡で,いま若者たちの間で人気をよんでいる」と「フォーク・ソング」を「一種の民謡」と冒頭で説明している。また,この記事は,当時増えつつあったラジオ各局のフォーク関連番組を紹介する中で,「フォーク・ソングは商業ベースで作られるものではない」などとも述べている。
このように,朝日新聞の場合は読売新聞とは異なり,見出しに「フォーク」が出現した1964年5月の段階から,「フォーク」の語に何らかの説明を加えたり,「民謡」に置き換えることをしていなかった。つまり,見出し初出の時点で,読者がこの語を了解するという前提が置かれていたと考えられる。見出しにおける「フォーク」の初出が1964年1月だった読売新聞に比べ,朝日新聞は初出が遅れたために,「フォーク」を「民謡」などに置き換えて読者に解説する必要がなかったということかもしれない。そうだとすると,1966年6月27日朝刊「静かな人気が続きそう 日本ものも多い“フォーク”」が,「フォーク・ソング」を「一種の民謡」としたのは,異例と見える。
そこで次に,読売新聞の場合と同じように「民謡」と「アメリカ/米」で検索したところ25),1963年11月20日夕刊に「アメリカは民謡ブーム 大学生たちが口火 見直されたフォーク・ソング」という記事が見つかった。見出しの最後には「フォーク・ソング」とあるが,この部分は検索対象となる見出しからは外されているため,集計上は「フォーク」を見出しに含む記事の数に入っていない。この記事は,ジョーン・バエズの日本盤発売に焦点を当てているが,「大学生や地味な音楽ファンの間に,新しく見直されたフォーク・ソングもたいへんな勢いでひろがっている」と説明なしに「フォーク・ソング」が用いられ,また文中でもこの語が繰り返されながら,一方では「この民謡ブームは…」「ハーバードなど各大学の間で,埋もれた民謡,民舞曲などを掘り起こす運動がはじまり,これと並んで,歌手や民謡研究家を招いてのコンサートが盛んになった」「オデッタなどの民謡歌手」といった「民謡」を用いた文もあり,「フォーク」と「民謡」の使い分けの過渡期であったことが窺える。
1964年4月27日朝刊ラジオ欄横には,ニッポン放送の番組「アメリカの郷愁」の番組紹介が「民謡やヒット曲」の見出しを出しているが,本文は「三つのボーカル・グループ,ザ・ブラウンズ,ブラザース・フォア,ピーター・ポールとマリーの歌で,アメリカで古くから親しまれている曲や最近のヒット曲を」とあるだけで,以下には番組で取り上げる曲が列挙されている。ここでは「フォーク」ではなく「民謡」が用いられているが,その意味するところは,まったく「フォーク・ソング」である。しかし,朝日新聞の場合,音楽ジャンル名としての「フォーク」を指して「民謡」と見出しに記したと思われる記事は,以上の2例しか見当たらない。[表2]
グループ・歌手名での検索による再検討:
そこで,1960年代前半から来日し,記事として言及されている可能性が高いと判断したフォーク系のグループや歌手の名で記事を検索し,「民謡」や「フォーク」の語が用いられている状況を確認した。対象としたのは,1960年代の記事であり(いずれの検索語もそれ以前にはヒットがない),該当する記事数をグループ・歌手別に示すと,ジョーン・バエズ11件,ハリー・ベラフォンテ10件,ブラザース・フォア7件,オデッタ3件,キングストン・トリオとピーター・ポール・アンド・マリーが2件,ピート・シーガーが1件の計36件で,年次別に示すとそれぞれベラフォンテとバエズの来日等で記事が集中した1960年と1967年を別にすれば,概ね毎年1〜3件ほどとなる。[表3]
このうち最も早い時期に記事が集中しているのが,ハリー・ベラフォンテである。ここでベラフォンテを検索対象としたことは,やや奇異に映るかもしれないが,1960年代半ばのフォークに関する記事でベラフォンテへの言及がしばしば見出されることを踏まえて,検索対象に追加したものである。ベラフォンテは人気絶頂期の1960年に来日しており,8件の記事がこの年に集中している。1960年4月16日夕刊「新映画」で映画『カルメン(Carmen Jones)26)』が取り上げられたのがベラフォンテ(この映画の準主演を務めた)の名の初出であるが,ここでは「民謡」も「フォーク」も現われない。
しかし「民謡」は,1960年6月10日夕刊「世界的民謡歌手ベラフォンテが七月に来日」という紹介以降,ベラフォンテの記事について回った。1960年7月10日夕刊の短報「ベラフォンテ来日」では,「歌手」としか記されていないが,別の面の記事「カリプソの王様ハリー・ベラフォンテ 東京大阪で公演」では,「カリプソの王様」が前面に出されながらも,経歴紹介で「民謡を組織的に研究した」ことが書き込まれている。1960年7月16日夕刊の公演評「素直に胸をつくベラフォンテ公演」では,やはり「カリプソ」が先に出て来るものの,「彼は舞台から「わたしは作られた借りものでなく,民謡そのものをうたう」という意味のことをしゃべったが,純粋なものへのひたむきな努力が,客席へつたわってくる感じだ」と「民謡」がキーワードとなっている。1960年7月25日朝刊の「音楽時評」として掲載された野口久光の公演評「「現代」を歌に反映 ベラフォンテの公演から」も「流行歌手でも,映画スターでもなく,民謡歌手という地味な肩書でやってきたハリー・ベラフォンテくらい,ちかごろ来た外来芸能人のなかで人気を呼んだ人はあるまい」と始まり,「民謡」をキーワードにその魅力が語られている。
帰国後の記事では,1960年9月28日夕刊「母と子の視聴室」がアルバム「ベラフォンテ スピリチュアルをうたう」を取り上げているが,ここでは「カリプソ」「黒人霊歌」といった語は出てくるが,「民謡」は出てこない。1960年12月17日朝刊テレビ欄「「ベラフォンテとともに」東京テレビが2日に再放送」も曲目は列挙されているが,ジャンル名などはいっさいなく,1961年12月31日朝刊テレビ欄「ベラフォンテと一時間 TBSテレビ」も,短報であることもあって同様である。しかし,1963年7月12日夕刊「ベラフォンテが歌う「さくら・さくら」」では「民謡歌手」ベラフォンテがアルバム『世界民謡の旅』でこの曲を取り上げたことを紹介している。いずれにせよ,以上,ベラフォンテに関するすべての記事において「フォーク」は用語として登場しない。
キングストン・トリオの記事は2件あったが,1961年1月23日夕刊「あす来日 キングストン・トリオ」は,「アメリカでレコード界の人気者はだれかときけば,多くの人が「キングストン・トリオ」と答えるだろう」と始まるロサンゼルス通信員発の記事で,文中に「フォーク」は用いていない。記事の最後の方に「米国の民謡のひきうたいだけでなくて各国の曲を織り込んでいる」と「民謡」が言及されているが,全体の印象として,グループを「民謡」にカテゴライズしようという意図は感じられない書き方になっている。これは1965年9月16日夕刊テレビ欄下の「キングストン・トリオ近く来日」が「フォーク・ソングのグループではブラザース・フォアと並んで人気をもっている「キングストン・トリオ」…」と始まるのとは好対照である。
ブラザース・フォアは日本では長く人気を保ち,検索にヒットする記事の年次が最もばらついている。最も早い1962年4月6日夕刊の「音楽評」「清潔な魅力 ブラザース・フォアの民謡」は,見出しに「民謡」を含み,書き出しも「民謡を中心に歌うブラザース・フォアは…」と始まり,明らかに「フォーク」の意味で「民謡」を用いている。ただし,記事の最後の方では「かつて来日した歌うグループとくらべると,ショーマン臭さがなく,声域のそろった汚れのないハーモニーをきかせる。カレッジ気質をそなえたムードともいえるし,その点は日本のダーク・ダックスとも似ているが,かれらにはアメリカのフォーク・ソングのシンが感じられる。」と「フォーク・ソング」も用いられている。これは,今回の検索で確認できたものとしては,朝日新聞において最初に音楽ジャンル名としての「フォーク」を記事中で用いた例であるが,この記事では「フォーク・ソング」を読者に説明すると言う配慮はなく,当然了解される語として扱われていることが注目される(1963年9月の記事で「フォーク・ソングつまり民謡」と記した読売新聞とは対照的である)。
次いで,1964年5月13日夕刊の「日本よいとこ二度目です」と題して3組の再来日を紹介する記事の中でブラザース・フォアが言及された際には,「「グリーン・フィールズ」のヒットで有名になり,また学生出身のコーラスとして一昨年春の来日で,日本のファンに人気がある」,「楽器をひきながら得意の民謡ものや映画主題歌などをうたう」と紹介されており,「フォーク」は用いられていないし,「民謡もの」がレパートリーで重要であることは示唆されているが「コーラス」グループと位置づけられている。その来日公演の様子を伝えた1964年5月28日夕刊の「モダンな感覚で身近な歌 「ブラザース・フォア」公演」は,「アメリカの数多いフォーク・ソングのグループの中でも,とりわけ気取りのない若々しさ,清潔さで各国に多くのファンをもっている…」とはっきり「フォーク・ソング」がグループのアイデンティティにされている。その一方で,「第一部は…あまり知られない曲目が多かったが,なじみのうすい民謡も,洗練されたハーモニーとモダンな感覚で見事に料理され,身近な歌として心をうつ」と,レパートリーの一部をさす語として「民謡」が用いられている。「おぼえたてらしい「ソーラン節」」で始まった第二部は,「あとはだれでも知っているヒット曲ばかり」で「どれも思わずいっしょに歌いたくなる。フーテナニー,つまりみんなで歌うフォーク・ソングの競演会——がアメリカで流行したのも,こうしたグループから生まれた自然な動きだったのかとうなずけた。」と紹介されている。つまり,「フーテナニー」は解説を要する用語だが,「フォーク・ソング」はそうではなかったということになる。
三度目の来日を予告した1965年8月11日夕刊テレビ欄下の「九月に三度目の来日 「ザ・ブラザース・フォア」」も「文字どおり四人の若者が,しみじみとフォークソングを歌うのはすでに定評のあるところ。レパートリーのほとんどが民謡に関係あるもので,古い歌を新鮮な感覚でよみがえらせるのが持味」と記し,「フォークソング」と「民謡」を,アイデンティティとレパートリー(の一部)に使い分けている。1967年7月21日夕刊と1968年8月8日夕刊の,四度目,五度目の来日の予告記事では,それぞれ「日本のフォークソング熱の火付け役になったといわれるコーラス・グループ」「日本にフォークソング・ブームをもたらした四人組のボーカル・グループ」と紹介され,もはや記事中に「民謡」は出てこない。さらに,メンバー・チェンジを経て六度目の来日公演をした際の公演評である1969年8月19日夕刊の「若い世代に親しみ 新装のブラザース・フォア公演」の記事には「フォーク」も「民謡」も文中に現われず,「いま流行のメッセージ・ソングが目立つ」「以前の〝ブラ・フォー・スタイル〟とはちがい,歌やリズムにもかなりロック風な熱気とバイタリティーがあった」と,もはや特定のジャンルを超え,独自のスタイルをもったグループとして扱われている。
ピーター・ポール・アンド・マリーの場合,1964年6月7日夕刊「十一日に来日 ピーター・ポール・アンド・マリー一行」では,「ブームといわれるフーテナニー,その人気者」とPPMを紹介し,「アメリカではいまベラフォンテやオデッタのリサイタルをはじめ各地の民謡祭が大にぎわいだ。キングストン・トリオ,ブラザース・フォア,ハイウェイメンの民謡グループなどもこの波にのっているが...」その中でPPMは「独特の個性でファン層をひろげている」とし,メンバーを紹介する中で「マリー・アリン・トラグアースは子どものころから民謡をうたっていたという27)」などと「民謡」を多用しているが,「フォーク」の語はいっさい用いられていない。これに対し,1966年12月20日夕刊テレビ欄下の「話題呼ぶ二つの公演」と題してジョーン・バエズとPPMの公演を紹介した記事は「フォークソングはいまブームを続けているが…」とリードを書き出し,記事の後段にあたる「切符はすでに売切れ ピーター・ポール・アンド・マリー モダン・フォークの王者」では,文中にも「民謡」の文字は見当たらない。
1965年に来日したオデッタの場合,1965年4月11日朝刊のレコード紹介欄「試聴室から ポピュラー新譜(下)」の「フォーク・ソング」の項目の最初に「ベラフォンテとともに,アメリカ黒人民謡歌手の最高峰といわれるオデッタが五月に来日する」という書き出しでLP「ステレオ・オデッタのすべて」が紹介されている。続けて紹介されているピート・シーガーについても「フォーク・ソング再興運動のリーダー」としながら,LP「フォーク・ソングの王者ピート・シーガー」を「アメリカ民謡の新しい動きを知るのに最適の盤」と評しているように,この評者「(と)」は「民謡」という表現を,読者に分かりやすくするためではなく,一定のこだわりをもって使用しているようである。「オデッタのすべて」は,1965年5月4日夕刊「レコード」欄でも単独で取り上げられ,オデッタは「黒人女性の民謡歌手」,「ベラフォンテが「フォークソングの女王」とたたえた」と言及され,LP収録曲についての記述では「民謡愛好者のアメリカ国歌とよばれる「わたしとあなたの国」」(「我が祖国(This Land Is Your Land)」のことであろう)と「フォークソング」と「民謡」が併用されている。公演の様子を伝えた1965年5月12日夕刊「にじみ出るヒューマニズム オデッタ公演を聞く」は,「黒人女性で,アメリカでは〝女ベラフォンテ〟と評価されている民謡歌手」と彼女を紹介し,記事末では演奏されて曲目を「二十四,五曲の民謡,童謡,黒人霊歌など」としているが,記事の途中では記者会見における彼女の言葉として「フォークソングはすべての人生経験が中身になるような歌をうたいたいし,世界のことを広い視野で心配する歌にとりくみたい」が引用されており,やはり「民謡」と「フォークソング」が併用されている。以上でみた1965年のオデッタについての記事では,いずれにおいても,「フォークソング」という表現の普及にも関わらず,「黒人民謡歌手」という位置づけを与えたいという書き手の意志が感じられる。
1967年1月に来日したジョーン・バエズに関しては,来日前から話題になり,また来日中にCIAが圧力をかけたとされる事件があって騒動になったり,帰国後バエズが逮捕されたり結婚したりと,様々な話題が記事になっている。しかし,そのいずれにおいても「民謡」という表現は用いられていない。バエズの名が見出しになった初出である1966年12月20日夕刊「話題呼ぶ二つの公演」(上述のPPMについての言及を参照)や,これに続いた1966年12月30日朝刊「外来演奏家が続々 バエズの美声も楽しみ」では「フォークの女神」というキャッチ・フレーズが用いられている28)。その後も,「フォークソング」ないし「フォーク」の歌手という紹介や,単に「歌手」ないし「反戦歌手」とする紹介が行われており,1960年代を通してバエズ関係の記事には「民謡」の語は現われない。
取り上げたグループ・歌手のなかで最も遅い時期に名が見出しに上がるのはピート・シーガーである。1967年9月27日夕刊テレビ欄下の「ピート・シーガー来日 フォーク・ソングの王様」は,記事中でも「フォーク・ソングのピート・シーガー」,「アメリカのプロのフォーク歌手でシーガーの影響を受けなかった人はいないといわれる」と「フォーク」の語が用いられている。同時に,シーガーの作曲の実績に触れた上で「また五弦および十二弦のバンジョーの名手で29)」,これをひきながら歌うが,各国の民謡の採集,研究者でもあるなど戦前,戦後を通じて民謡運動のリーダーとして活躍してきた」と「民謡」の語も用いて経歴が紹介されている。
以上を踏まえると,読売新聞が事情に明るくない読者への説明として「民謡」を用いて「フォーク」を説明し,やがて「フォーク」が普及すると「民謡」を用いなくなっていったのに対し,朝日新聞の場合は,1960年から1963年までのハリー・ベラフォンテの記事や,1961年のキングストン・トリオの記事では「民謡」だけを用いているものの,1962年のブラザース・フォアについての記事から「フォーク」を特段説明もなく使い始め,その後も「フォーク」を軸にしつつ「民謡」も併用しつづけた,ということになろう。
なお,詳細な検討は省くが,朝日新聞の記事についてひと通り検索した後で,改めて読売新聞についても,同じグループ・歌手について同様の集計を行ったところ,ハリー・ベラフォンテに関する記事が1957年からあったことや,ブラザース・フォアに関する記事が少ないことなど,細部では違いもあるものの,基本的には朝日新聞の結果と大きくは異ならない結果となった。[表4]
IV データベースにみる書籍・雑誌記事における1960年代の用例
以上,代表的な2紙の新聞記事データベースにおける検索と並行して,書籍や雑誌記事に関するデータベースでも同様の作業を行ったが,新聞記事データベースに先んじる音楽ジャンルとしての「フォーク」の用例は見出せなかった。以下,1960年代の「フォーク」の用例に限って,簡単に整理しておく。
書籍の検索:
国立国会図書館の目録検索(Web-OPAC)の和図書を対象とした書誌一般検索では,「フォークダンス」を表題に含む図書のヒットは1950年代からあるが,音楽ジャンルとしての「フォーク」を表題に含む図書は,1966年刊行の2点が最も古く,以降,1967年に3点,1969年に4点があるのみで,1960年代を通して見ても計9点だけである30)。また,嶋田ほか(1966),中村ほか(1966),三橋(1967),高石ほか(1969)以外の5点は,いずれも楽譜集である。この目録検索ではまた,表題には「フォーク」の語を含まないものの,副表題に「フォーク」がヒットする文献も挙ってくるが,その数は限られている。1960年代でこれに該当するのは,リバコフほか(1966),室・編(1969)の2点だけである(後掲の文献一覧では副表題も示した)。
雑誌記事の検索:
週刊誌など一般誌を中心とした雑誌記事のデータベースである大宅壮一文庫雑誌記事索引検索Web版では,1960年代の記事で見出しに「フォーク」を含む記事のヒットはなく,かろうじてキーワード(備考)に「フォーク」を含む記事として『週刊朝日』1969年5月30日号のグラビア記事「機動隊,新宿広場を“ロックアウト” ベ平連の反戦ソングをしめだし ※5月17日夜,新宿駅西口広場で,機動隊と若者たちの追っかけっこが突発」が1件だけヒットする31)。ただしこれは,このデータベースの網羅性に限界があることの反映と考えられる32)。
1960年代当時には,商業的な性格の雑誌に限っても,既に『ミュージック・ライフ』(新興音楽出版社=当時:創刊は戦前,1951年に復刊:後に1998年に休刊)が存在していたし,芸能情報を扱う月刊誌であった『平凡』(平凡出版=当時:創刊は1945年:後に1987年に休刊)と『明星』(集英社:創刊は1952年:後に1992年に『Myojo』と改題)は,既に付録に流行歌の歌集を付けるようになっていた。また,1968年から1969年にかけては『ニュー・ミュージック・マガジン』(後の『ミュージック・マガジン』)や『新譜ジャーナル』,『ヤング・ギター』といった雑誌が創刊されている。さらに,ミニコミでは,片桐ユズルらが立ち上げた『月刊かわら版』(1967年8月創刊:1982年12月終刊),URCの広報誌として創刊された『季刊フォークリポート』(1969年1月創刊:1973年「春の号」で休刊)などが出されており,同時代にはその他にも数多くの雑誌やミニコミなどの印刷メディアが「フォーク」に関する記事を取り上げていたはずである。こうした雑誌の記事を渉猟すれば「フォーク」を見出しに用いた,より早い時期の記事が見出される可能性は高いものと思われる33)。
なお,学術的性格の雑誌が中心となっている国立国会図書館の目録検索(Web-OPAC)の雑誌記事検索では,「フォークダンス」については『新体育』『児童教育』『体育の科学』等の学術誌に1949年以来,断続的に掲載記事が見出されるが,音楽ジャンルとしての「フォーク」についての記事は片桐(1968a)34)が最も早い。また,これに続く片桐(1968b),森(1969),高橋(1969)までの4件で1960年代の記事はすべてである。
書籍・雑誌記事にみる「フォーク」概念:
そうした初期の「フォーク」関係書籍や雑誌記事において,「フォーク」概念がどう説明されているかについては,本来なら詳細な検討が必要であろうが,本稿では,関連する記述の抜粋をいくつか提示し,特に「民謡」との関係について簡単に言及するにとどめる。
嶋田ほか(1966)は,全編を通して「フォーク・ソング」を用いているが,冒頭部分で「フォーク・ソングの定義には,格式ばったルールがなく…色んな定義が出てきた」とした上で,次のように述べている(pp.39-40)。
フォーク・ソングを日本語に訳しますと,〝民謡〟と言うことになります。でも,私達一般のイメージとして〝民謡〟と言う響きは,田舎の村祭りや,お酒の席で,年寄の人達が同じゆかたを着て,〝ソーラン節〟や〝木曽節〟を太鼓や尺八に合せて歌い踊る姿を連想してしまいます。
無論,これも疑いなく,フォーク・ソングには相違ありません。でも,この本で扱う問題は,最近,関心が高まりつつある,〝フォーク・ソング〟であるとか,〝フーテナニー〟などと言う言葉に含まれる,大変広い範囲を対象にしてお話したいと思います。
中村ほか(1966)の「まえがき」では,「フォーク・ソング」が繰り返し用いられているが,1ヵ所だけ執筆者の一人である神崎浩を紹介するなかで「いまは,黒人の文学,民話,民謡などに研究の手をのばしつつあります」と「民謡」が用いられている。同様に,中村による第I章では,「フォーク・ソング」「フォーク・シンガー」が多用されながら,「民謡」を用いている箇所が散見される35)。モダン・フォークソングについて「…現代の作詞作曲家によって創作された新しいフォーク・ソングは,トラディショナルな自然発生的なそれと,いちおう別にして考えたほうが具合がよさそうだ。といって,新作のフォーク・ソングを軽視しようというつもりはない。むしろトラディショナルな民謡とはっきり区別することによって,新作民謡の価値も明きらかになってくるのではないかと思うのだ。」と「新作民謡」という表現も見受けられ(pp.31-32),さらに「ボブ・ディランをはじめ多くの若い民謡創作者たち」とも述べられている(p.32)。こうした多少の揺れはあるが,全体の印象としてはトラディショナルについては「民謡」,モダンを含めて意識するときには「フォーク・ソング」という使い分けがなされているよう思われる(p.34)。
このように,トラディショナルな民謡にはトラディショナルな民謡のよさがあり,新しいフォーク・ソングには新しいフォーク・ソングのよさがある。だからといってこの両者は,まったく別々のものであるわけでもない。では,両者に共通するフォーク・ソングの本質はなにか。それは,民衆の心に忠実だということである。そして,民衆の心をうつす義務のほかはなにものにも拘束されず,自由だということである。だから,最初にもいったように,金もうけのための歌,人気を得るための歌はフォーク・ソングではない。
三橋(1967)は,「はじめに」を「日本でもアメリカのフォーク・ソングがブームを起こし,そしてまたブームの下火が伝えられている。マイク真木や荒木一郎の歌までが「フォーク・ソング」と呼ばれ,一九六七年初めのPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)やジョーン・バエズの来日は,ブームの最高潮を示すように思われた。」と書き起こしている(p.7)。次いで,「ジュディ・コリンズ,アーロー・ガスリー,ミミ・ファリーニャ(ジョーン・バエズの妹)の一行」の日本公演が興行的に芳しくなかったことを紹介した上で,「日本での受けとめ方があらまし以上のような状態になっている「フォーク・ソング」とは何か」と自ら問いかけた上で(p.9),次のように述べ(p.10),以降の論述では一貫して「民謡/アメリカ民謡」を用いている36)。
ともあれフォーク・ソングが広まっていくなかで,これがついに「アメリカ民謡」とは呼ばれず「フォーク・ソング」と呼ばれているのは,たんに片かなのほうがカッコいいというだけではない,別の事情があった。日本では民謡といえば古い歌をさしているのだが,フォーク・ソングといえばアメリカ独立革命や南北戦争当時の歌,英国から来たままの歌をはじめ現代の歌までが含まれる。後に本文で見られるように,古い新しいによる区別はつけられないのである。
しかしフォーク・ソングを日本に前からあることばで言いなおすなら,やはり「民謡」である。この本では,片かなの多すぎる文章は目で読みにくいと考えたため,以下はフォーク・ソングと書かずに,民謡と書いたが,読む人はフォーク・ソングと読んでもかまわない。そこで改めてアメリカ民謡とはなにかという問に返ろう。
片桐がしばしば用いる対話篇の形式で綴られている片桐(1968a)は,「フォークソング」と「民謡」について,次のように明解に説明する(pp.36-37)。
…どうもこのごろのひとは,ことばをもとのいみでつかわないから考えがうまく整理されないのかもしれないけれど,Folk songというのを字引きひいてみたら《民謡》と出てるとおもうんだ。ところがレコード屋へいくと《フォークソング》と《民謡》は別みたいにあつかわれてる。《フォークソング》というところはアメリカのものばかりだ,そして《民謡》のところはロシア民謡,イタリア民謡などで,アメリカのものはない。だからいわゆる《フォークソング》はアメリカ民謡を現代風に料理した――キングストン・トリオとか,ブラザース・フォーとかPPMとかそういうスタイルで演奏することになってしまっていた。これがブームとしての《フォークソング》だ。
だけど,ほんとのいみはFolkとはPeopleのことだろう。だからフォークソングとは,人民のうた,つまり,人民による,人民のためのうた。こう定義すれば,ふるい謡もふくまれるし,あたらしい創作もふくまれる。…
以降の記述で片桐は,柳田国男,柳宗悦,「宮沢賢治の《農民芸術論》」,さらにはマクルーハン理論の「ホットとクール」などにも言及しつつ論を進め,自らの実践課題としての「フォーク・スクール」を構想している。
室・編(1969)に収められた編者・室謙二の文章「フォークソングはひとつのスタイルか」(pp.65-68)は,「フォーク(Folk)」に「人々,人民」の意があることを指摘し,「自由民権運動の時の演歌は,あれはフォーク・ソングみたいなもので,あるのかないのか。それから,日本語では,民謡という言葉がある。してみると,フォーク・ソングと民謡は同じものを示すのか,ちがうものを示すのか。」と問いを広げた上で(p.66),片桐(1968a)と同様に,柳田国男の民謡論を踏まえ,鶴見俊輔の限界芸術論や,宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」にも言及して「民衆の民衆による民衆のための芸術をまず第一のものとする立場」,「フォーク・ソングを,ソングというところでつかまえようとするのではなく,フォークというところでつかまえようとする立場」を強調している。これは,室が片桐を剽窃したといったことではなく,彼らのサークルの共通認識として,そのような理論構成と展望が共有されていたということであろう37)。
高石ほか(1969)の「はじめに」を書いた村田拓は,高石友也の活動を踏まえ「この民衆自身の歌による自己表現,その心の歌による表現が,フォークソングの本質である…自分自身のことばで!ぼくたちのフォークソングの運動が,はじめから,アメリカのフォークソングに学びながらも,英語ではなく日本語で,ことに民衆自身のことばで歌い,造ろうとしてきた」と述べた上で,アメリカ民謡のみならず,日本の民謡や世界各国の民謡も視野に入れて「民謡」を持ち出し,次のように述べている(pp.7-8)。
フォークソングとは,こういう性格のものだ。民謡だってそうだ。長い時代の風雪のなかを,民衆が大切に自分の心をうたうものとしてうたいつぎ,守り続けてきたものなのだ。もちろん,今こうした続けているフォークソングの運動は,アメリカのフォークソングに学び,大きな影響をうけていることは,先にいった通りなのだが,それが目ざしているものは,古い民謡でも,アメリカのそれでもなく,今日,この時代と世界に生きているぼくたち自身の,フォークソングを造り出し,それをうたうことであった。つまり,今日の時代を生きるぼくたち民衆の心を歌う歌が,フォークソングだという視点から,古典的な民謡も,アメリカの,そして世界のフォークソングも日本語化して,新しくうたい直し,その上にさらに,新しい民衆の歌を,みずから創造していこうとしてきたのだ。
いずれも『月刊労働問題』に掲載された森(1969)と高橋(1969)は,新宿西口のフォークソング集会(とその終焉)に象徴されるフォーク・ゲリラの活動状況などを踏まえた青年文化論という趣きの論文である。森(1969)は「民謡」という語を用いず,「フォークソング,つまり民衆の歌。アメリカで民衆の間から,即興的に身近な事件や労働環境を歌いこみ,口から耳へと伝承されていく歌である。」と表現している(p.69)。これに対して高橋(1969)は,「フォークソングは,少なくともその原意にそくして考えれば,民衆のなかから生まれ育った民衆の歌,つまり民謡のことであ」ると,森に同調しつつ「民謡」を持ち出し,「民謡は労働の歌であり生活の歌であった。長いあいだ農業国であった日本において,民謡が農村から生まれ育ったのは当然であったろう。しかし,工業国としていちじるしく成長し…都市にしか生活の拠点をもとめられなくなったこの状況において,都市の生活と労働をうたう民謡が生まれてきても,もはや不思議でもなんでもない。いわゆるフォークソングの登場はいわばそのはしりとみることができよう。」と述べ(p.88),「都会の歌」である「流行歌」に対置される「都市の民謡」の可能性を「フォークソング」に見出している。
おわりに
最初に「作業の前提とした見通し」として示した二つの論点のうち,まず後者の「フォークダンス」の普及が先行したことについては,その普及の時間差が具体的に明示されたといえる。1950年代に「フォーク・ダンス」が普及したことで,それ以前にはforkに由来する意味しかなかった外来語「フォーク」に,folk由来の語義・含意が追加されたことは確実であろう。また,フォーク・ダンス関係の催事に,参加者が合唱する民謡のコーラスが組み合わされる例があったことや38),片桐(1968a)が「フォーク学校の構想」を説く中で「音楽だけじゃないんです。フォークとつくものはなんでもやるんです——フォーク・ダンス,フォーク・クラフト…」と記述していることは,「フォーク・ダンス」概念の普及が,folk由来の「フォーク」を浸透させ,音楽ジャンル名としての「フォーク」にも道を拓いたことを示唆している。
もうひとつの論点である,日本語における「フォーク」概念と「民謡」概念の関係性については,「フォーク」概念の導入の初期には「フォークソング」と「民謡」が重複するという側面が意識されていたことが,三橋美智也のコメントが登場する読売新聞1963年9月27日夕刊「最近のアメリカ軽音楽界 完全に民謡ブーム 大学生たちが熱烈な推進」などの存在によって裏付けられた。しかし,他方では,日本人による演奏についての記事が出始めると,その最初期から「民謡」はほとんど排除されて,キーワードはもっぱら「フォーク」になっており,両者の乖離はかなり急速に進行したことが察せられる。
音楽ジャンル名としての「フォーク」は,今回確認された範囲では1962年に初めて新聞紙面に現われた(朝日新聞1962年4月6日夕刊「音楽評」「清潔な魅力 ブラザース・フォアの民謡」)。初めのうちは,その意味するところを「民謡」という語によって補われることもあったが(読売新聞1963年9月27日夕刊「最近のアメリカ軽音楽界 完全に民謡ブーム 大学生たちが熱烈な推進」,1963年11月30日夕刊「LPカーネギー・ホールのウィーバーズ」),おおむね1964年以降は「フォーク」の表記の一般化が進み,同じ記事の中で「民謡」と併用される場合でも,「フォーク」が優先して用いられ,トラディショナルなレパートリーへ言及する場合に「民謡」が用いられるといった形になった。さらに,日本人がこのジャンルを歌うことに言及した記事が出ている1965年以降は,新聞記事ではもっぱら「フォーク」が用いられるようになり,この表現は完全に定着した。
標題で示した課題,論述の最初に提起した見通しについては,以上で一応の答を提示したものとする。それ以外の,一連の作業を通して明らかになってきた今後の課題について最後に付言しておく。
本稿の標題は「…定着過程」を掲げており,それについては具体的な裏付けとなる記事をいろいろと把握することができた。しかし,「はじめに」でも述べているように,定着,普及といった過程だけでなく,ブームの盛衰や,長期的衰退などの過程も,新聞記事データベースを用いれば分析できる可能性がある。今回取り上げた「フォーク」の場合も,1980年代以降に,ブームの退潮とともに,また,他の概念・用語との関係の中で,社会的存在感は減じていったものと思われるが,今回の分析ではその局面については検討しなかった。そのひとつの理由は,定着過程を跡づける場合よりも,衰退・後退局面を把握することの方が,技術的に難しいというところにある。何も先例がないところから増えてゆく過程は描きやすいが,いったん盛んに用いられるようになった用語は,どのように使用頻度が変化し,また,使用形態が変われば,衰退したと判断できるのか,客観的な判断基準を打ち立てるのは容易ではない。説得力がある形で衰退局面を描くためには,他の音楽ジャンル名の事例などにおける,使用頻度等の変化過程について,ある程度の分析例の蓄積が必要であろう。
また,本稿で取り上げた「フォーク」の定着過程の場合,例えば「民謡」との線引き,使い分け方が重要な焦点となったが,同様にその衰退局面においては「ニューミュージック」,「ロック」あるいは「J-POP」などとの線引き,使い分け方に焦点が当たることだろう。あらゆる概念の定位が,他の概念との関係性においてしか為し得ないことは,ソシュールを持ち出すまでもなく当然であるが,音楽ジャンル名の盛衰,相互関係を明らかにしていく作業は,より多くのジャンル名称についての個別的な知見が蓄積されることによって,より精密な分析が可能になっていくことが期待される。本稿を契機に,同様の作業から得られる知見の蓄積を,少しずつでも積み上げてゆければ,やがては,日本語における諸々の音楽ジャンル名の関係性を,概念・用語の具体的な使用例を踏まえながら,より厚みをもって論じられるようになるものとも期待される。
本稿においては,まだ,作業手順は確立されていないし,実際の作業の進め方は試行錯誤の積み重ねというか,手探りの状態にある。本稿冒頭でも述べたように,本稿は,細かい作業の「アヤ」を含めて報告することを意図していた。今後,経験の蓄積を通して,作業手順をより標準的なものに誘導し,究極的には,誰でも同様の分析(ないし追試)を行えるような水準にまで高めていくことを目ざす,という課題も,本稿が見据えた遥か遠方のゴールである。
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注
1) 例えば,川島(2006)は,こうした観点から,各種の新聞記事・雑誌記事データベース類を用いて,日本における音楽ジャンルとしての「インディーズ」概念が定着してきた過程を具体的に跡づけている。
このようなアプローチは、1990年代以降に言語学分野において多く見られるようになった、日本語コーパスとして新聞記事データベースを用いるアプローチの研究と類似した観点に立つものであるが、多数の用例を対象とし、計量的な色彩を帯びるそうした研究とは、関心の所在にズレがある。
2) 国語辞典による「フォーク」の説明の例は以下の通り。抜粋に際して約物などを一部省略,ないし,類似のものに置き換えてある。
『広辞苑』第六版(2008)より抜粋(原文のルビは[ ]で表示):
フォーク【folk】①「民[たみ]」「民俗」「民間」「庶民」の意。②フォーク-ソングの略。…
—・ソング【〜 song】①民謡。②アメリカ起源の民謡調歌謡。(以下略)
『日本国語大辞典』第二版(2001)より抜粋(原文のルビは[ ]で表示):
フォーク〔名〕(英 folk)①民俗。民間。国民。庶民。他の語と結び付いて用いられることが多い。②「フォークソング」の略。(用例略)
フォーク・ソング〔名〕([アメリカ]folk song)①アメリカに発生した民謡風の歌曲ギターなどの弾きがたりで,素朴な情感や民衆の感情を歌うものが多い。
フォーク。(用例略)②一般に,民謡。土着的な民間歌曲。(以下略)
『大辞林』第三版(2006)より抜粋:
フォーク【folk】①民俗。民衆。庶民。②フォーク-ソングの略。…
—・ソング【〜 song】①民謡。②アメリカで生まれた民謡調のポピュラー-ソング。(以下略)
3) 『日本国語大辞典』などによれば,「民謡」という用語は,漢籍や『三代実録』など日本の古典にも用例があるとされる。しかし,現代における用法に直結するのは,独語・英語の訳語としての用法であり,これについては,志田義秀の「日本民謡概論」(1906)の論述を重視し,それに先んじる用例として森鴎外の「希臘の民謡」(1891)を挙げ,さらに上田敏らの一連の論文によって定着・普及したとするのが定説的な見方であろう。とりあえず,百科事典類のほか,平田(2001),阪井(2005),鈴木(2009)を参照。
4) 秋山(1980, 1984)は,民族音楽学史の文脈からヨーロッパの民謡について検討した論考に「フォークソング考」という表題を与えながら,「表題はフォークソング考としたが,文中では民謡で話を進めていくことにする。前者は7字分あるが,後者は2字分ですむというわけだからだが,この用語は,もとは何かといえば,Volksliedの訳がfolksongになったわけで,そのどちらかの訳語が近代日本での“民謡”になったという事情もある」として行論中は「民謡」を採っているが,なぜわざわざ表題に7字分の表記を用いたのかは説明していない。また,続けて「フォークソングと民謡では,同じ民衆の歌というのとは受ける感じが大分ちがう。前者の愛好者は若い人たちだろうし(といっても,最近はフォークソング・ブームも大分冷めて,本屋でポピュラーソングの棚をみても,フォークソングの本は一向に見当たらないのだ),一方,民謡というと教授所が方々にあって,その愛好家は専ら中年層であるらしい」と,「フォークソング」と「民謡」を日常的な語感に従って使い分けている(秋山,1980,p.86)。そこには,既にこの時点で「フォークソング」が秋山の意図とは異なる語義で定着していることを踏まえて「民謡」を行論中で採っているのではないかと思わせる,一種の屈折が感じられる。
5) 十分に文献を渉猟したわけではないが,国立国会図書館の目録検索(Web-OPAC)の和図書を対象とした書誌一般検索によって,戦前におけるフォークダンス(ないし,これに準じる表記の語)を表題に含む文献として確認できたものは,玉川教育研究所・編(1932)の小冊子『体操アルバム丁抹フォルクダンス』のみであった。しかし,戦前においても,言葉としてまったく知られていなかった訳ではないようで,特段の説明なく用いられる例もある。例えば,偶々見かけたものであるが,山田(2009,p.14)で言及した小寺(1928,p.18)には「會議のあとには英吉利の舊い民謡に合せてフオルクダンスを皆が踊つた」という記述がある。
6) 社団法人日本フォークダンス連盟の公式サイトにある「日連とは」のページの記述による。http://www.folk-dance.or.jp/main/1nitirenntoha.htm
7) 手元にある昭和初期に出版された英和辞典,研究社『新英和大辞典』第十版(1937)は,forkの訳語として「フォーク,肉叉」などを示しながら,folkには「(或る)國民,民族」など,folk –songには「民謡,俗謡,俚謡」だけを示し,他のfolkに関連する単語も含めて,訳語に外来語「フォーク」を挙げてはいない。これは,当時,日本語の外来語としての「フォーク」が,もっぱらforkに由来する意味でしか了解されなかったことを示唆するものである。
8) キーワードは,遡及的に付与されるため,同時代の語感を反映しない可能性がある。例えば,「演歌」について本稿と同様の作業を行った過程では,「演歌」という用語がほとんど用いられていなかった1950年代前後の記事についても,例えば美空ひばりを取り上げた記事についてはキーワードとして「演歌」が付与されている例が多いことが明らかになった。(詳細については別稿を予定)
9) 英米では,伝統的なフォークソングとモダン・フォークソングを書き分ける手法として,前者を「folk song」と2語で,後者を「folksong」と1語で表記することがよくある。日本でも,三井徹など一部の論者は前者を「フォーク・ソング」,後者を「フォークソング」と書き分けることがあったが,このような表記法は一般化しなかった。東谷(1995)を参照。
10) 1949年のノーベル文学賞を受賞し,1955年には来日もした米国の作家ウィリアム・フォークナー(William Faulkner, 1897-1962)に関する新聞記事は,1950年代,1960年代を通して数多い。
11) ここで列挙されている人物のうち,Rusty Draper以下はいずれもカントリー音楽色が強いミュージシャンである。なお,「テネシー・アーニー」とは,テネシー・アーニー・フォード(Tennessee Ernie Ford, 1919-1991)のことであろう。また,ここで列挙されている人物は歌手ばかりであるが,唯一の例外が,カントリー音楽のフィドル奏者として名高いDale Potter(1929-1996)である。しかし,なぜポッターの名がここで歌手たちに混じって取り上げられているのかは判然としない(あるいは同名の別人がいたのだろうか?)。
12) ここで「こんどのLP」と言及されているのは,彼らの3枚目のアルバムとして1961年2月に米国でリリースされた『B.M.O.C. (Best Music On/Off Campus)』のことである。『B.M.O.C.』はビルボードのアルバム・チャートで4位にまで上昇し,彼らにとって最も成功したアルバムとなった。また,日本盤のLP(邦題『魅力のグループ』1961年6月リリース)が発売された最初のアルバムでもあった。
13) 広告に掲載された出演者の中には,当時ロカビリー歌手だった鹿内タカシ(後の鹿内孝),カントリー歌手である寺本圭一とジミー時田,これがプロ歌手として初舞台だった伊東きよ子(後に「花と小父さん」が1967年にヒット)ら,プロ歌手たちもいたが,まだプロ・デビューしていなかったマイク・マキ(マイク・真木),フォー・ダイムズ,ランブリング・バーミンズや,カレッジ・フォークの重要なグループでありながらプロ・デビューに至らなかった(後の六文銭の母体となった)PPMフォロワーズなどが「カレッジ・グループ」という括りで出演者に名を連ねている。
14) 「(安)」のレコード評は,これより前,1965年11月21日朝刊「ステレオ フォーク・ソングの女王 ジョーン・バエズ第4集」でバエズに言及しているが,この記事では「民謡」はまったく用いられていない。この時点で,「フォーク・ソング」を「民謡」と置き換える必要は完全に無くなっていたのであろう。
一方,1966年3月22日朝刊「アタウアルバ・ユバンキ日本公演/読売新聞社(社告)」や,1966年3月24日夕刊「ラテン・アメリカ民謡のユパンキも四月に来日」では,ユパンキは「ラテン・アメリカ民謡界の第一人者」と紹介され,「音楽家(作詞・作曲家,ギタリスト,民謡歌手)として活躍するかたわら…」と,ユパンキが自作曲を演奏すること示唆しているが,「フォーク・ソング好きの日本人聴衆を魅了することだろう」という記述はあるが,ユパンキの音楽を直接「フォーク・ソング」と言及しているわけではない。ここでは,英米系の民謡を「フォーク・ソング」と呼び,他の民謡を「民謡」と呼ぶという使い分けが行われているように感じられる。
15) その後、「フォーク・ソング」の意味で「フォーク」を用いる例は、まず記事の見出しに現われるようになる。例えば、1967年8月10日夕刊の社告「フォーク・ブームの立役者 ピート・シガーも来日」では、文中にも「アメリカ・フォーク界」「フォーク・ブームの開拓者」といった表現が見える。しかし、1968年12月10日夕刊「フォークの〝旅芸者〟正月来日」では、「アメリカのフォークソング・グループ、ニュー・クリスティ・ミンストレルス」と、見出しと文中で「フォーク/フォークソング」が使い分けられており、同様に、1969年2月17日夕刊「異色のフォーク歌手 高石友也 「ベトナムの歌」で全国歩く」でも、見出しと文中で「フォーク/フォーク・ソング」が使い分けられている。記事中で「フォーク・ソング」が用いられず、「フォーク」が多用される早い例としては、1969年6月11日朝刊「歌を忘れた反戦フォーク 火曜〝公演〟アジ演説」、1969年11月4日夕刊コラム「あんぐる」「〝フォーク・ブーム〟に苦言」などが挙げられる。1970年以降は、「フォーク・ソング」の意味で「フォーク」を用いる例はすっかり一般化していった。
同様の観点から、朝日新聞の記事についても点検したところ、確認できた範囲では1965年10月24日朝刊「娯楽ウイークリー」面の「エレキとフォーク ポピュラー界2つの流行」が最も早かった。以降、やはり見出しと文中で「フォーク/フォーク・ソング」を使い分ける記事が散見され、概ね1970年ころから「フォーク」のみで通用するという、読売新聞の場合と一致した傾向が認められた。
16) マイク真木は,青山学院高等部を経て日本大学芸術学部に進み,在学中の1963年にモダン・フォーク・クヮルテットを結成して,ブームとなっていたカレッジ・フォークの一翼を担っていた。なお,近年では本名の姓の表記に準じて「マイク眞木」として言及されるが,「バラが咲いた」のヒット当時は「真木」と表記されていたので,ここではそれに従う。
17) 朝日新聞のテレビ欄によると,まず1966年7月10日(日)夜7時から「フォークソング合戦・前夜祭」が30分番組として放送され,出演者(テレビ欄に明記されている者のみ,以下同様)はデューク・エイセス,九重佑三子,小林万里(不詳)となっている。翌週17日が新番組「フォークソング合戦」の初回で,同じく夜7時から30分番組が放送され,出演者はザ・シャデラックス他であった。以降5ヶ月にわたって番組は放送され,11月27日の最終回のゲストは寺本圭一であった。
18) 読売新聞1966年10月26日夕刊には、「若さを楽しもう! 青春大番組!」として『銀嶺は恋してる』と『さよなら列車』(監督・梅津明治郎:主演・都はるみ)の二本立ての広告が出ており、検索でもヒットする。
19) この記事には,「イギリスのモンキーズが目標だという」というくだりがあるが,これは単純な事実誤認であろう。「モンキーズ」の名で最も有名なバンドは,米国のThe Monkeesであり,ザ・タイガースはこのバンドの曲である「モンキーズのテーマ((Theme From) The Monkees)」を,歌詞のバンド名を「タイガース」に差し替えて「タイガースのテーマ」としてステージでよく演奏していた。「タイガースのテーマ」は,1967年1月に日劇ウェスタンカーニバルに初めて出演した際にも演奏され,彼らの最初のアルバム『ザ・タイガース・オン・ステージ』(1967年8月22日,大手町サンケイホールにおけるコンサート「ザ・タイガース・ア・ゴー・ゴー」のライブ盤:1967年11月リリース)にも収録されている。
20) 手元にある資料の例として,『明星』1967年4月号の付録歌本「歌謡ヤング・コンサート」(表紙は吉永小百合と渡哲也)の「特集1 飛び出したフォーク・グループ」で取り上げているグループをすべて列挙すると,ザ・スパイダース,ブルー・コメッツ,ザ・サベージ,ザ・シャデラックス,トニーズ(後のリバティーズ),シャープ・ホークス,ヴィレッジ・シンガーズ,フォア・ダイムズ,ヴェーグラント・クヮルテット,ランブリング・バーミンズとなる。ヴィレッジ・シンガーズまでのグループは,一般的に「グルーウ・サウンズ」として認識されるバンドである。同じ資料の「3 ポピュラー・ニュー・ヒット・アルバム」では,まず洋楽が取り上げられているが,ピーター・ポール・アンド・マリー名義で6曲(シーガー作「花はどこへ行った」,ディラン作「時代は変る」を含む),ジョーン・バエズ名義で4曲(シーガー作「勝利を我等に」,ディラン作「今日も冷たい雨が」を含む),さらにボブ・ディラン(「風に吹かれて」),ドノヴァン,ブラザース・フォーなどが紹介されている。フォーク系以外は,ビートルズが2曲,プレスリーが1曲など少数しかなく,当時の若者向け洋楽に占めるフォーク系の比重の大きさが感じられる。これに続けて日本の(当時洋楽系と目されていた)歌手の曲が続く中には「フォーク・ヒット・ショー」と題された見開き2ページがあり,マイク真木(2曲),ヘンリー(不詳),坂本スミ子が取り上げられている。また,新人歌手を紹介する「4 春のフレッシュスター・ハイライト」(当該ページの表記による:目次では「フレッシュ」が「新人」になっている)では,森山良子(「この広い野原いっぱい」)が「日本のジョーン・バエズ」として長めの「フォーク・ソング」の語を含んだ紹介文とともに取り上げられているほか,高石友也(「かごの鳥ブルース」:ただし,解説はごく短く,高石がフォーク系であることの紹介等はない)や,ザ・タイガース(「僕のマリー」:紹介文に「フォーク」の語は出てこない)も言及されている。
なお,ネット上のサイト「60年代通信」には,この資料についてGSへの関心に重点を置く形で詳細に紹介している記述がある。
http://www31.ocn.ne.jp/~goodold60net/htm_fils/utahon/um6704.htm
21) 朝日新聞1967年9月18日朝刊テレビ欄下「月曜あんない」「いまや歌番組の主力 うけるグループ・サウンズ」は,「〝グループ・サウンズ〟はエレキギター・バンドだが,フォークソングの流れをくみ,ひところよりムーディーになっている。和製ポップスともいわれており,最近はヒット・パレードなど,ラジオ,テレビのほとんどの歌番組に顔を出している。…」と「グループ・サウンズ」の語義を読者に紹介しながら,その人気ぶりを伝えている。朝日新聞は続けて1967年11月7日夕刊テレビ欄下でも「異常な人気集める グループ・サウンズ」という特集記事を掲載している。
22) 記事中「ザ・ビレッジ・ストンパーズ」と記されているヴィレッジ・ストンパーズ(The Village Stompers)は,1960年代前半に,デキシーランド・ジャズのスタイルでインストゥルメンタル曲を演奏したグループ。1963年に発表した「ワシントン広場の夜はふけて(Washington Square)」は,米国ではビルボード2位の大ヒットとなった。日本でもヒットし,朝日新聞1963年12月25日夕刊「ヒット盤」にも取り上げられた。
公式サイト:http://www.thevillagestompers.net/
23) ここで言及されている「鈴木道子」は,東京女子大学出身で,文化放送を経てフリーのプロデューサー,音楽評論家となり,後に国立音楽大学非常勤講師も務めた,『アメリカン・ミュージック・ヒーローズ』(2000[改訂版2008])の著者。成蹊大学出身のジャズ・シンガー「鈴木道子」とは別人。
24) 読売新聞でマイク真木が見出しになった記事の最初は,1966年8月25日朝刊テレビ欄「ニュース・コーナー」の「マイク真木を司会に起用 木島モーニングショー,来月から」であり,そこではマイク真木は「歌手」とのみ紹介され「フォーク」の語は見られない。
25) 興味深いのは,1933年8月6日ラジオ欄横の「世界民謡調べ 北アメリカの民謡」という午後3時からの番組の紹介である。独唱者・ピアノ伴奏者の名より先に大きな活字で「【解説】堀内敬三」とあり,選曲も堀内によるものと思われるが,「曲目は北アメリカの土人,黒人及びスペイン系移民の民謡からなる」とあり,白人系の「フォークソング」に相当する曲は選ばれていない。また,「黒人…の民謡」とされているのは「黒人霊歌(ニグロ・スピリチユアルス)」である。「フォーク」は「民謡」と見なされていなかったのか,あるいは別の日に特集されていたのか,背景は未詳である。
26) 1954年米国公開の映画『カルメン』は,オペラを下敷きに舞台を現代に移したミュージカル映画。オットー・プレミンジャー監督作品。ベラフォンテにとってはじめて準主役に抜擢された映画だったが,歌唱はLeVern Hutchersonが吹き替えている。日本公開は1960年4月9日で,記事は公開直後に出たことになる。本作は,米国公開から日本公開まで時間がかかったため,日本では,制作順からいえば後の『日の当たる島(Island in the Sun)』『拳銃の報酬(Odds Against Tomorrow)』が先に公開された。
27) ピーター・ポール&マリーのマリーこと,マリー・アリン・トラヴァース(Mary Allin Travers)の姓は,初期の紹介記事でしばしば誤記されている。例えば,読売新聞でPPMに言及した最初の記事である1964年6月1日夕刊「民謡のボーカル・トリオが来日」では「マリー・アリン・トラガース」,1966年11月29日夕刊「ピーター・ポール・アンド・マリー フォーク・ソング・トリオが来日」では「マリー・アリン・トラベル」となっていた。
28) このほか「フォーク・ソングの女王」というキャッチ・フレーズも用いられた。例えば,1967年1月21日夕刊テレビ欄下の広告では,「フォーク・ソングの女王 ジョーン・バエズ テレビに初登場」として,YAMAHA(日本楽器製造)がTBSテレビの番組と連動した広告を出している。
29) シーガーは,5弦バンジョーや12弦ギター(バンジョーではない)の名手であり,演奏技法の開発や,楽器の改良にも取り組んだ。いずれの楽器についても標準的なものよりネックを長くしたモデルを開発している。また,シーガーは,影響力の大きかった5弦バンジョーの教則本である『How To Play the 5-String Banjo』(1962)を著している。
30) 嶋田ほか(1966)の巻末には,出版元である新興楽譜出版社(現在のシンコーミュージック・エンタテイメントの前身)の出版物14点の広告が収められている。うち9点は「フォーク」の語が表題に含まれている(『アメリカン・フォーク・ソング百曲集』,『アメリカ・フォーク・ソング全集』,『フォーク・ソング・アルバム』,『フォーク・スタンダード撰集』,『不滅のフォーク・ソング傑作集』,『フォーク・ソングのすべて』<近刊>,『フォーク・ギターの弾き方』,『ウエスタンとフォーク五五曲集』,『フォーク・ソングを歌おう』)。このうち,国立国会図書館の目録検索(Web-OPAC)の和図書を対象とした書誌一般検索でヒットしたのは,『アメリカ・フォークソング100曲集』(表記の違いはあるが,ページ数,定価から同一書と判断)だけであった。同時期に刊行された楽譜集でも,江波戸・三橋(1967)(『フォーク・ソングを歌おう』という表題であるが,出版社が異なり,上に列挙したものとは別の楽譜集)などは検索でヒットするので,楽譜集が組織的に資料から排除されているということではなかったはずである。当時は納本の網羅性に何らかの問題があったのかもしれない。
ちなみに,注29で言及したシーガーのバンジョー教則本の高山宏之・訳による邦訳書も,『五絃バンジョウのひき方』として広告があるが,刊行が確認できたのは,1969年刊の『五絃バンジョーの弾き方』であった。それ以前に別題で出版されていたのか否かは未確認。いずれにせよ,国立国会図書館の目録検索ではこのバンジョー教則本の邦訳書はヒットしない。
31) 大宅壮一文庫雑誌記事索引検でヒットする,見出しに「フォーク」を含んだ雑誌記事の初出は,『平凡パンチ』1970年4月6日号に掲載された,「ワイドガイド ミュージック ニュー・フォークが流行するゾ!」で,執筆者は青木啓であった。
32) 川島(2006)は,大宅壮一文庫雑誌記事索引検索で「インディーズ」の初出とされた記事の掲載誌である『ミュージック・マガジン』誌を精査し,同誌のそれ以前の号に,見出しとて「インディーズ」を用いている記事例を発見したことを報告している。
33) 例えば,三橋(1967)は「あとがき」(pp.201-203)で「この本は一九六六年雑誌『音楽』に「フォーク・ソングの問題点」として連載された文章の大部分に,新しく書きおろした数章を加えたものである」と記しているが,この「雑誌『音楽』」は,全国勤労者音楽協議会連絡会議が刊行していた月刊の機関誌を指しているようだ。しかし,国立国会図書館の目録検索(Web-OPAC)などによると,この機関誌は,1960年代には「月刊労音」という誌名であったとされ,1975年に「音楽」へ改題したという扱いになっている。こうしたデータベースの見出し検索の先にある雑誌記事類についての調査は容易ではないが,今後探求すべき課題である。
34) 片桐(1968a)は,国立情報学研究所の論文情報ナビゲータ(CiNii)や国立国会図書館の目録検索(Web-OPAC)の雑誌記事検索では同一記事が重複してエントリーされており,見かけ上2つの記事があるように見える。両者は,記事名に括弧書きで追記された特集名の表記が異なるだけで,同じ記事を指示している(2010年8月24日現在)。
35) ここで少し気になるのは,「ラッセル・エイムズは『アメリカ民謡物語』の中に…」「アラン・ロマックスは『北アメリカの民謡』の中で…」と,先行研究の書名に言及する場合にfolk songが「民謡」と訳されている点である。いずれも邦訳書があったわけではなく,「民謡」を「フォーク・ソング」と置き換えることもできたはずである。
36) 三橋が同じ1967年に,江波戸・三橋・編(1967)=新書判の楽譜集『フォーク・ソングを歌おう』(表紙の上部には「American Folk Songs」と掲げられている)を編集した際の共編者となった江波戸 昭は,民族音楽研究にも取り組んでいた経済地理学者であった。江波戸は,これ以前に「民謡とその背景」と副題を付けた江波戸・編(1963)を刊行していたが,「アメリカのうた」に関する記述の比重が最も大きく,楽譜収録曲32曲中8曲が「アメリカ民謡」であったにもかかわらず,この本の中では「フォーク」という語は用いられていない。江波戸・三橋・編(1967)でも,表題に「フォーク・ソング」と掲げているにも関わらず「はじめに」は「アメリカ民謡の歌曲集は,最近,日本でもいろいろ出回るようになった」と始まり,黒人の音楽が「白人の音楽とも結びついて,新しいアメリカの民衆音楽を形成していった。ピート・シーガーの「花はどこへ行った」,ボブ・ディランの「風に吹かれて」などによって平和への叫びがうたわれ,「勝利はわれらに」とともに公民権運動が推進されつつある現在に至るまでの,こうしたアメリカ民謡の流れを,歴史の緯糸と地理の経糸で,できるだけ織りあげてみようと意図したのがこの歌曲集である。」と,「フォーク・ソング」の語はなく,シーガーやディランまで含めて「アメリカ民謡」で通されている。江波戸・編(1963)から4年の間の状況の変化が,江波戸・三橋・編(1967)の表題から「アメリカ民謡」を追い立てたものの,その影響は記述の本体には及んでいなかったのである。
なお,三橋(1966)は,「民謡専門のレコード会社フオークウェイズ」と固有名詞に関わる場合を除いて,「フォーク」の語を一貫して用いていない。1967年の時点での三橋にとっても日本語の文章で「フォーク」を濫用することには,まだ大きな抵抗感があったのであろう。
37) 当時の片桐ユズルと室謙二は,べ平連,思想の科学,ほんやら洞といったキーワードに連なる,いわば同志的な関係にあったはずである。ちなみに,片桐(1968a)が掲載された『思想の科学』の特集「話しことばの思想」の巻頭で,室(1968)はマクルーハン理論について論じている。
38) 朝日新聞1962年11月4日朝刊の社告「コーラスとフォークダンス」は,第一部に「世界民謡めぐり」のコーラス(参加者もともに歌う),第二部にフォークダンスというイベントをユネスコ村で開催することを告げている。
文献
秋山龍英(1980):フォークソング考(I) : その定義と概念をめぐって.研究紀要(東京音楽大学),5,pp.86-100.
秋山龍英(1984):ネルヴァルとフランス民謡 : フォークソング考(II) .研究紀要(東京音楽大学),9,pp.156-203.
江波戸 昭・編(1963):『歌でめぐる世界の国ぐに』古今書院,176ps.
江波戸 昭,三橋一夫・編(1967):『フォーク・ソングを歌おう』音楽之友社,123ps.
片桐ユズル(1968a):フォーク学校の構想(特集・話しことばの思想).思想の科学(第5次),79,pp.36-41.
片桐ユズル(1968b):詩とフォークソング(特集・詩をとり囲むもの).現代詩手帖,11(11),pp.20-25.[未見]
川島 漸(2006):新聞記事・雑誌記事等にみる「インディーズ」概念の定着過程.ポピュラー音楽研究(日本ポピュラー音楽学会),10,pp.128-142.
小寺廉吉(1928):WHITEWAY COLONY 南イングランドのトルストイ主義者の村訪問記.高岡高商研究論集,1,pp.309-336.
阪井葉子(2005):明治期日本における「民謡」概念の成立.独文学報(大阪大学ドイツ文学会),21,pp.83-104.
島田 耕,日高 義,渓川澄男(1966):『フォークソングを語ろう』新興楽譜出版社,360ps.
鈴木貞美(2009):『民謡』の収集をめぐって―概念史研究の立場から.中山大学国際シンポジウム(2009/11/25).
(http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2009/minyoufinal.pdf)
高石友也,岡林信康,中川五郎(1969):『フォークは未来をひらく』社会新報(新報新書),247ps.
玉川教育研究所・編(1932):『体操アルバム丁抹フォルクダンス』玉川学園出版部,10ps.[未見]
高橋勇悦(1969):フォークソングと個人の目覚め(特集・現代青年の価値意識).月刊労働問題,140,pp. 81-88.
東谷 護(1995):『日本におけるフォークソングの展開(JASPM working paper series No.3)』日本ポピュラー音楽学会,61ps.
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三橋一夫(1967):『フォーク・ソング』新日本出版社(新日本新書),203+28ps.
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室 謙二・編(1969):『時代はかわる:フォークとゲリラの思想』社会新報(新報新書),269ps.
山田晴通(2003):ポピュラー音楽の複雑性.東谷護・編『ポピュラー音楽へのまなざし』勁草書房,pp.3-26.
山田晴通(2009):19世紀末英国のトルストイ的アナキズムの実践地「ホワイトウェイ・コロニー(Whiteway Colony)」の歴史と現在の景観.人文自然科学論集(東京経済大学),128,pp.3-33.
リバコフ,サイ&バーバラ[鈴木道子・訳](1966):『ボブ・ディラン:モダン・フォークの巨星』東亜音楽社(Toa popular library),182ps.[未見]
謝辞
本稿の執筆に際しては、本学図書館のほか、特に国立音楽大学付属図書館に資料閲覧へのご協力を頂戴した。また、江波戸 昭 先生(明治大学名誉教授)には、資料についてご教示いただき、さらには貴重な資料をご提供いただいた。ご高配に深く感謝を申し上げる次第である。
もともと本稿の作業に結びついた新聞記事検索の試行錯誤の原型は、東谷 護、阿部勘一の両氏(成城大学)との様々な場面での議論や、川島 漸 君(元・本学大学院生)の研究関心を契機として、5年ほど前から断続的に取り組まれたものであった。いろいろ曲折もあり、時間がかかったが、本稿がこうして形をとったのを機に、以上3名への謝意も明記しておきたい。
本稿のテキストは、当研究室のウェブサイト上で公開している。
(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html)
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