雑誌論文(その他):2009:

19世紀末英国のトルストイ的アナキズムの実践地
「ホワイトウェイ・コロニー(Whiteway Colony)」の歴史と現在の景観.

人文自然科学論集(東京経済大学),128,pp3-33.


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19世紀末英国のトルストイ的アナキズムの実践地
「ホワイトウェイ・コロニー(Whiteway Colony)」の歴史と現在の景観.

はじめに
前史:クロイドン、パーレイ、ホワイトウェイ(1898年まで)
入植初期の苦闘(1898年以降)
小寺廉吉の訪問(1927年)
社会環境の変化と受け継がれる伝統(1940年代以降)
現在の景観の特徴(2008年)
おわりに:都市計画史の中で


文献
謝辞


19世紀末英国のトルストイ的アナキズムの実践地
「ホワイトウェイ・コロニー(Whiteway Colony)」の歴史と現在の景観

山田 晴通   




はじめに

 英国グロスターシャー州ホワイトウェイ(Whiteway:同名の他の集落と区別する場合は Whiteway near Stroud)1)は、テムズ川最上流部を成すコッツウォルド地方の台地上に位置する集落であり、行政上はストラウド(Stroud)市に属する。この集落の大部分を占めているのが、1898年にトルストイ的アナキズム(Tolstoyan anarchism)の実践地として開設されたホワイトウェイ・コロニー(Whiteway Colony)と呼ばれる、コミュニティである。
 Wikipedia 英語版には、2004年8月以来、「Whiteway Colony」が立項されている2)。そこには、1898年にトルストイ的アナキストたちが40エーカー(およそ16ha)の土地を購入してこのコロニーを創始したこと、当初は何もなかった開けた土地に木造の建物が建てられたこと、やがて良心的兵役拒否者やスペイン戦争の難民がやってきて、協同組合的事業も興ったこと、などが記されている。また、水道は1949年、電気は1954年まで来なかったこと、現在では樹木が多く茂っていること、初期入植者が建てた建物や、初期入植者の子孫にあたる住民も残っていること、現在ではもはやアナキスト色は薄まっているが、住民は集会所やプールなどの共用施設を維持しており、コミュニティの意志決定は住民総会によっていること、なども記されている。さらに、アナキスト系の『Freedom』紙を発行していたトマス・キール(Thomas Keell)なる人物や、トルストイ作品の英訳者として知られたエイルマー・モード(Aylmer Maude, 1858-1938)3)とコロニーの関係が言及されている。
 ホワイトウェイ・コロニーについては、これまでに、居住者によって執筆された歴史書が2点刊行されている(Shaw,1935:Thacker,1993)。Shaw(1935)は、初期入植者の一人であるネリー・ショー(Nellie Shaw, 1864-1946 4))によって書かれたものであり、特にコロニーの成立に至る前史や、入植当初の様々な問題を抱えた時期の事情についての、当事者としての経験に基づいた生々しい記述を含む、一次史料に近い性格をもった文献といえる。Thacker(1993)は、コロニーの近郷で育ち、結婚を機に夫とともに1968年にコロニーに転入した著者ジョイ・サッカー(Joy Thacker)が、Open University で地方史研究の手法を学んだのを契機として、住民総会の議事録などの一次史料や、古くからの住民への聞き取り、さらに、自らの生活経験も踏まえてまとめた著作である。この2冊の書籍は、いずれも女性の手によるものであり、記述の内容にも生活実感に根ざした部分が多く、本稿の関心から貴重な記述であるとともに、いずれも魅力的な文体で綴られている。ホワイトウェイ・コロニーについてのまとまった記述は、英語でも量的に限られているようで、Wikipedia をはじめ、ネット上に散在するコロニーについての歴史的記述の大部分は、直接、あるいは、間接にThacker(1993)に、そしてそれを通してShaw(1935)に、依拠している。しかし、残念なことに、この2冊はいずれも、文献的な裏付けの記載を欠いているなど、学術的な観点から見ると問題も多い。さらに、わが国では図書館の所蔵も管見する範囲では見あたらず、閲覧自体が容易ではないという問題もある5)
 ここで興味深いのは、コロニーについて、1927年に当地を訪問した小寺廉吉による日本語の報告(小寺,1928)が残されているという事実である。しかし、初期のコロニーの様子が邦文で発表されていたにもかかわらず、管見する範囲ではこれ以外に邦文の文献は存在していない。日本において、ホワイトウェイ・コロニーはなぜ顧みられない存在であったのか、という論点は、それ自体がかなり大きな問題提起に繋がっていくものである。
 本稿は、この特異な背景をもったホワイトウェイ・コロニーの歴史を、学術的な厳密さを欠く恨みがあるとはいえコミュニティ内部の視点から綴られた貴重な報告であるShaw(1935)と Thacker(1993)、それらに先んじる時点で執筆された小寺(1928)を参照して素描するとともに、2008年2月に現地を訪れて得た知見を踏まえてコミュニティの現在の景観上の特徴を紹介するものである。また、最後に、現代日本にも大きな影響を与えている英国の都市計画思想史の流れの中で、このコロニーの経験がどう位置づけられるのかという観点から、若干の考察を加える。

前史:クロイドン、パーレイ、ホワイトウェイ(1898年まで)

トルストイ主義
 そもそも「トルストイ的アナキズム」あるいは「トルストイ主義」とはどのような考え方を指しているのであろうか6)。ロシアの文豪レフ・トルストイ(1828-1910)は、もともと貴族(伯爵)で、農奴を所有する大土地所有者であったが、宗教的信念から農奴解放を行なった人物であり、終生独自の深い信仰心をもちながら晩年にはロシア正教会から破門され、また本人はアナキストと自称しなかったにも関わらず、そのアナキスト的な思想のために、一時は確実視されていた第一回ノーベル文学賞を与えられなかった。封建的農奴の存在を前提とした大土地所有制度が、ロシア正教会と結びついて機能していた19世紀のロシア帝国にあって、トルストイは、神以外のいっさいの権威を認めない、従って、教会も世俗権力も否定する原理主義的な立場に拠って、社会批判を行ない、社会改革の実践に取り組んだ。後に宗教的アナキズムとして位置づけられることになったトルストイの主張は、土地所有に関して、人が生活の必要を満たすため自力で耕し得る範囲を超えて土地を所有することを否定し、土地所有を根拠に不労所得を得ることを否定する考え方として理解され、広まっていった。
 トルストイの著作群が次々と英訳され、その思想が英語圏でも徐々に知られるようになると、直接にトルストイとの接触や、影響関係がなくとも、このような理解に共感し、自らを「Tolstoyan」すなわち「トルストイ的(派)」と称する人々が現れた。英国における「トルストイ的アナキズム」あるいは「トルストイ主義」は、一方ではマルクス主義が浸透し始め、社会民主主義の模索が始まった19世紀末において、土地所有制度を突破口に、権力否定の徹底的な実践を試みた人々が自称した立場であった。

クロイドン・ブラザーフッド教会
 ホワイトウェイ・コロニーの母体となったのは、ロンドンの中心部から15kmほど南の郊外に位置するクロイドン(Croydon)にあった、クロイドン・ブラザーフッド教会(The Croydon Brotherhood Church)という組織であった。そのまた起源は、当時の英国における自由教会(free church)の実践と、社会主義への関心に求められる。自由教会の概念は時代によっても、地域によっても違いがあるが、近代においては、教会が何らかの意味での国家の管理下にある社会において、その管理体制から離脱した教会を指す。近代英国の社会的文脈における自由教会は、国家と一体化した国教会と一線を画し、カトリック教会とも与しない、独立志向の強いプロテスタント系の一つの立場として位置づけられている。
 クロイドン・ブラザーフッド教会が設立された1894年の時点で、既に「ブラザーフッド教会」と名乗っていた教会は、ロンドン北部のサウスゲイト・ロードにある、会衆派の牧師ウォレス師(Rev. J. Bruce Wallace)が主任牧師を務めていた教会だけであった7)(Shaw, 1935,p.19)。ウォレス師は、資本主義体制や商業主義に代わるものとして、一種の協同組合的な組織を設けることを唱え、講演や出版活動を通じて、自説の普及を図っていた。「ブラザーフッド=兄弟」の語はこの教会のラディカルな組合主義的性格を反映したものであったようだ8)。ウォレス師はまた、クラーケンウェル(Clerkenwell)に「ブラザーフッド協同商会(Brotherhood Co-operative Trading Society)」を設立し、私利を排した公正な取引を実現しようと試みていた(Shaw, 1935,p.19)。
 一方、19世紀の、そして、ヴィクトリア朝の末期であった当時は、フェビアン協会が活発な活動をしており9)、独立労働党が姿を現し始めていた10)。クロイドン・ブラザーフッド教会に関わった者の多くは、こうした時代の流れに敏感に反応しており、例えば、ネリー・ショーはその両方に所属し、さらに地域において「クロイドン社会主義協会(Croydon Socialist Society)」にも参加していた(Shaw, 1935,pp.19-20)。ショーによれば、そうした場に参加していた者の多くは、左翼的傾向をもった自由教会から影響を受けながら、それに飽き足らずに教会から離れた経験があったが、さりとて経済主義に偏った社会主義の理念には不満を感じていたという11)
 当時のショーの仲間であったウィリアム・ギルルス(William Gilruth)は、ウォレス師の活動を知っており、実際に教会や、協同商会の店に足を運んでいた。そこで、同様の教会と協同商会を自ら立ち上げることが提起され、1894年に、クロイドン・ブラザーフッド教会(The Croydon Brotherhood Church)が、数名の男女によって組織された12)。ここでは「教会」という言葉が使われているが、これは「共通の目的によって啓発された人々の集まり」の意であり、もはや宗教的な含意はないとされた。設立に際して、宗教的な意味での「教会」ではないとしながら、「教会」である以上は指導者たる主任牧師(pastor)が必要だという理屈で、既に社会問題に取り組むジャーナリストとして名を知られていたジョン・ケンワージー(John Colman Kenworthy)がその役割を引き受けた。ケンワージーはもともと実業家だったが、米国のアナキストに感化され、トルストイにも影響を受けて、事業を捨てて社会派のジャーナリストとなった。当時、彼はクロイドンに家族とともに転居してきたばかりで、ウォレス師の紹介で「教会」に加わることになった(Shaw, 1935,pp.20-21)。
 タムワース・ロードの救世軍の会堂跡に設けられたこの奇妙な「教会」は、様々な意味で反体制的な傾向をもつ多様な人々を引き寄せる磁場となった。毎週日曜午後の集まりには、「無神論者、心霊主義者、個人主義者、共産主義者、アナキスト、普通の政治家、菜食主義者、反-生体解剖論者、反-ワクチン接種論者など、実にありとあらゆる「反対」論が招かれ」議論の場が持たれたという。参加者の多くはそのまま夕方の会までとどまった。そこでは、賛美歌や社会的主題の歌が歌われたり、聖書やカーライルやエマーソンなどケンワージーが選んだ書物からの朗読があり、ケンワージーが祈る、という段取りであった。ケンワージーのこうした実践については、好意的に思っていた参加者もあったし、しぶしぶ寛容に受け入れていた者もいたという。通常の教会の説教とは異なり、説教や演説の後には、必ず自由な討論の機会が設けられていた(Shaw, 1935,p.21-22)。

パーレイ・コロニー
 クロイドンでのこの教会の活動は、付随的な事業の経済的裏付けを含めて、徐々に軌道に乗っていった。1896年に、ケンワージーがロシアを訪問してトルストイと会見し、さらに翌1897年にモード一家が英国に帰国して、一時的にクロイドンに滞在してロシアの事情を直接紹介した頃には、教会関係者の間にトルストイ主義の実践地を実現したいという機運が高まっていた(Shaw, 1935,p.31)。こうした雰囲気の中で、1986年にエセックス州Chelmsford近郊のPurleighという集落の近くに10エーカー(およそ4ha)の土地が取得され、志願した3人の若者がその開拓のために送り込まれた、その中に、後にホワイトウェイ・コロニーで重要な役割を果たすことになる、元銀行員のウィリアム・シンクレア(William Sinclair)と元自営業者のサドベリー・プロセロー(William Sudbury Protheroe)がいた(Shaw, 1935,p.32)13)
 翌1897年の春には、さらに数人の入植者がパーレイ・コロニー加わり、入植地は買い足されることになった。さらに、コロニーの近傍に、モード一家やトルストイの知人であるロシアからの亡命者一家が移転し、コロニーを様々な形で支援することになった。やがて、クロイドンから拠点をパーレイ周辺に移す関係者が増え、ケンワージーもクロイドンの教会での説教を月に一度に減らすようになった。結果的に、クロイドンでの活動は衰退し、遂には教会を畳むことになった(Shaw, 1935,pp.32-36)。

ホワイトウェイへ
 パーレイ・コロニーは、勤勉さと性的倫理が厳格に要求される場として成立していた。新たに参加しようとする者は、一定の期間コロニーに滞在して働きながら、構成員の承認を得なければ、入植できなくなっていた。この方針に不満を持った一部の関係者は、新たに別のコロニーを設けることを考え、適地を探しはじめた。その中心となったのは、クェーカー教徒であり、グロスターでジャーナリストをしていたサミュエル・ブラッチャー(Samuel Bracher = Shaw, 1935 では、Daniel Thatcher という仮名で言及されている)であった(Shaw, 1935,pp.37-38)。当時、ブラッチャーは相続によっておよそ1000ポンドの資金を手にしていたが、これは有意義な社会事業に使わなければならないという思いに駆られており、新たなコロニー候補地の取得に、自分の資金を提供すると表明していた14)(Thacker, 1993, pp.6-7)。
 1898年8月、ブラッチャーやショーを含めた数名の関係者が、グロスターシャー州一帯のコッツウォルド地方を、自転車で走り回りながら、新たなコロニーの候補地を探した。その途中で、一行はシープコム(Sheepscombe)15)という集落の美しさに魅了された(Shaw, 1935,pp.39-43)。この探索行は長引き、いち早くシンクレアがパーレイ・コロニーに戻ったのに続いて、仕立ての仕事があったショーも程なくしてクロイドンへ戻った。結局、適地として得られたのは、シープコムの東2km ほどに位置していた傾斜地の農地であった。当時、この敷地には木は一本もなく、小さな石造りの2階建ての羊飼い小屋があるばかりで、あとは石灰石を含んだ痩せた土が剥き出しになっていた(Shaw, 1935,p.43)。この土地の購入は即座に決定され、ブラッチャーの資金から代金が支払われた。これが現在のホワイトウェイ・コロニーの敷地である16)。[写真1-3]

写真1 ホワイトウェイ集落に隣接する農地
 

写真2 農地の表土
(赤土に混じる白っぽい石は石灰石)

写真3 2008年の「ホワイトウェイ・ハウス」
(現在は、一家族ですべてを使っている)


入植初期の苦闘(1898年以降)

 土地を購入はしたものの、コロニーへの入植者たちはこれをどう登記するかで、困ってしまった。トルストイ主義者としては、自らの名で土地を所有し、またそれを国家に承認してもらう(登記する)ことは信条に反することになる。結局、複数の人間の連名で登記が行なわれた上で、将来の売買に必要になる書類である権利証を焼却してしまうという方法が採られた17)
 当初、コロニー内には宿舎となる建物は「ホワイトウェイ・ハウス」と名付けられた4部屋と屋根裏だけの羊飼い小屋しかなかった。このため、入植した住民は、周辺の集落で家を借りて、コロニーに通って建設や開墾作業に従事する者が多かった18)。ブラッチャーはじめ、数名は、1898年10月から、最初の候補地探索行で魅了されたシープコムに家を借りて住み始めた。
 ところが、ブラッチャーは、モード家の元家庭教師であった恋人と結婚して、シープコムに定住することになり、そのためにまとまった資金が必要になった19)。そこで、ブラッチャーは、いったんコロニーのために拠出した資金の部分的な返還をコロニーの住民たちに求め始めたが、コロニー側にも資金は乏しく、また土地の返却は不可能という認識が共有されていた。1899年8月25日には、コロニーの住民やブラッチャー夫妻のみならず、周辺から招集された警官や新聞記者たちが立ち会う中で、公開の交渉が行なわれるなどしたが、結局、ブラッチャーはその後も大した収穫を得られないまま、コロニーとの関係を絶つことになった(Thacker, 1993, pp.15-20)
 初期の入植者の中には、老若男女、また思想信条や、国籍においても、多様な人間がいた。その中には、パーレイ・コロニーにおけるように厳しい環境に耐えて開墾を進めるだけの能力と資質を備えた者もいたが、そうではない者もいた。生きるための土地を必要としていると見なされた者を広く受け入れるという理想を掲げたため、漫然とコロニーで生活するだけで、しかるべく開墾などの動労に従わない者たちもいた。
 ただでさえ農地としての条件が悪い場所で、都会出身者が俄に農業をやっても、なかなか上手くはいかない。そこへ寄生するような者もいる状態で、コロニーの管理する資金も目減りしていく。初期入植者の間では、こうした状況の中でコロニーの運営をめぐる複雑な対立が生じ、自らの意志でコロニーから出て行く者が少なからず出た。しかし一方では、新たにコロニーに参入を求める者も跡を絶たなかった。
 コロニーでは、土地はコミュニティのものであり、個々の住民は、一定の条件の下でそれをコミュニティから無償貸与されている、という原則が最初から貫かれていた。ただし、どういう手続きをとるかは、初期には流動的であった。1906年頃までには、新規の住民を認めるかどうかは、必ず住民総会に諮られるようになった。そこで適当と認めれば、コロニーの一部の土地を占有して、自力で建物を建てることができた。個々の住民は、コロニーとは独立して個人の資金をもち、新たに建てられる建物は個人の所有とされた。ただし、そうした建物は、土地所有者であるコミュニティ=住民総会の同意がなければ売却も相続もできないものとされた。土地と同様に、コミュニティの所有物である「ホワイトウェイ・ハウス」の各部屋への入居も、住民総会で決められていた。(Thacker, 1993, pp.29-30)
 コロニーでは、最初期の1899年ころに「貨幣忌避の時期 no-money phase」と称された原理主義的傾向が台頭するなど理想主義的、共産主義的傾向が強調されて、多くの経済的問題が生じた20)。この時点で、一つ間違っていれば、コロニーは経済的側面から崩壊していたかもしれない。しかし、結果的には崩壊せずに存続することができた。一方では、過度の理想主義的な理念が見直され、個人主義的傾向が明確に打ち出されるようになり、他方では、コロニー内に起業家が出現し、様々な方法でコロニー外から貨幣を調達することで、一定の経済的安定が図られたためである。
 そうした起業の試みの代表的な例としては、シンクレアの酪農業とプロセローのベイカリー、そして手工芸品の共同作業所が挙げられる。これらはいずれも、コロニーの住民に食料などを提供するとともに、コロニー外にも販路を広げ、他の住民に就業機会を提供した21)
 コロニーはまた、この特異なコミュニティに関心をもつ来訪者を呼び入れ、滞在させることによっても、一定の貨幣を得るようになっていった。コロニー全体として、特定の建物をそうした来客のためのゲストハウスとして運用していた時期もあるし、個々の住民が、来客に部屋を提供して、一定の滞在費を得ることも広く行なわれていた22)。そうした状況の中で、1927年の夏に、一人の日本人がコロニーを訪問したのである。

小寺廉吉の訪問(1927年)

 管見する限り、ホワイトウェイ・コロニーに言及した日本語の文献は、1927年にコロニーを訪問した小寺廉吉による報告(小寺,1928)しか存在していないようだ。
 新聞記者出身の経済地理学者であった小寺廉吉(1893-1992)は、朝日新聞に記者として勤務した後、「一九二四年秋に文部省内に高岡高商創立事務所が設けられたが,その仕事を手伝い、翌年四月の開校から一九四四年夏まで二〇年間同校に勤務した」(小寺,1958,p.211)。高岡高等商業学校の教員となった一年後の1926年春から1928年夏にかけては、文部省在外研究員としてフランスのコレージュ=ド=フランスに留学し、その前後には欧州各地、中東、米国などにも足を伸ばしている(小寺,1958,pp.211-212)23)。青年学究としての小寺は、当時としては特権的といってよいほど、恵まれた機会を得ていたと考えてよいだろう。その後、小寺は学制の再編を経て富山大学経済学部に長く勤務し、定年後も桃山学院大学などで教鞭をとり続け、さらに長寿を全うする最晩年まで学会の重鎮であり続けた。ただし、留学から帰国し、高岡高等商業学校〜富山大学の教員として、また、経済地理学徒として本格的に活躍しはじめてから後の小寺の仕事は、本稿の関心からは逸れるので、ここでは言及しない。
 フランス留学のため渡欧した若き小寺は、1926年7月にエジンバラで開催された第18回世界エスペラント大会24)に参加し、そこでホワイトウェイ・コロニーに住むベルギー人のギャスパール・マラン(Gaspard Marin)25)からコロニーのことを聞かされた(小寺,1928,p.10)。当時、コロニーは上述のように経済的理由もあって外からの短期訪問者を積極的に受け入れていた。マランが小寺にコロニーの話をして、訪問を促したのも、いわばそうしたオルグ活動的なものであったのだろう26)
 翌1927年7月のある日曜日27)、小寺は、鉄道駅のあるストラウドから、チェルトナムへ向かうバスに乗った28)。小寺を乗せたバスは、コロニー内を南南東から北北西に抜けていく道路を南側から進んで来たものと思われるが、南向きの斜面上にあるコロニーの景観は、集落に入る手前数百メートルほどの小高くなった場所で、一挙に小寺の目に飛び込んで来たはずだ。

 「次はお前さんが降りるホワイトウエイだ」と お客が教へてくれた。私は好奇心の[ママ]目をみはりながら村の最初の眺めを待ちかまへた。私の少年時代に遊びに行った北海道の新らしい開墾地ででも見る様な、新らしい祖末な家々が亂雜に散らばつて居る打ち開けた場所に來る。街道に面して牧柵の様な柵のしてある處もある。雜草の中に埋れて粗末な木造小屋があったり、木の板と鐵板でかこつたバラツクがあつたり、ペンキ塗った家、簡單な別墅式の石造の家、大きな木造の建物、草花畑、野菜畑、ラヂオのアンテナの柱、すべてが何等の統一なく、形式なく、たゞ雜然と、廣い面積の上に散らばってゐる光景がまづ目に入る。(小寺,1928,p.11)
 コロニーの創始から三十年近くが経っていた当時、コロニーは既に「戸數三十餘戸、人數が百二、三十人」に成長していた(小寺,1928,p.14)。小寺が描写する光景からは、住民個々が、それぞれ自由に住居を設けていた様子と、それが英国においては特異な景観であることを察することができる。バスで到着した小寺は、バスを出迎えた「若い女の五六人の群」が「断髪で帽子もかむらずに短い髪を風にふかせ短い衣物の下は脚には靴下もはかず、靴も穿かずに素足であること、彼女等の表情[←旧字体]は全く野性を帯びてて[ママ]、血色も体格もよく、健康と元氣にみなぎつてゐること」に強い印象を受けた(小寺,1928,pp.11-12)。
 そこに一人の都會から來た若い娘さんが居た。…(中略)…都會では普通であるが彼女のコツケツトな、而も年頃にふさはしい羞みの容姿に對して、村の素足の若い女だち[ママ]の朗[←旧字体]らかさ、無遠慮さ、健康さ、活溌[←旧字体]さ、その生氣!! 私はその翌日も感じたことであるが,子どもと若い女の表情[←旧字体]に、かういう生活の影響は一番よく現はれてゐると思つた。彼等の表情[←旧字体]、態度の自由さ、自然さ、そして生氣に充ちてゐることに私は感心した。(小寺,1928,p.18)
当時の住民の服装について、小寺は、まるで1960年代にヒッピーのコミューンを訪れた一般人の感想のように、次のように綴っている。
 こゝでみる人々は極く質素ななりをしてゐる。ひげもそらない男も多い。シヤツと股引の人、手織のゴツ[ゴツ=二文字分の反復記号「へ」]した服の人、女の服装もごく簡單である。男も女も素足のが多い、彼等は叢や石塊の上も平[←旧字体]氣で素足で歩く。或は古代希臘人が穿いた樣に革のワラヂを穿いてゐる。(小寺,1928,pp.18)。
 外見だけではなく、住民の思想信条についても小寺は、次のように綴っている。
 當初の建設者でなほも殘つてゐるのは十人に滿たない。そして最初の樣に純然たるトルストイ主義の共産[←旧字体]主義の村ではない。人々の思想も種々雜多である。しかし、大体に於いて建設當時の特色は傳統的に保存されてゐる。
 今日に於ても村の人の殆と[ママ]すべてが菜[←旧字体]食主義者であり、暴力的な行爲は村では決して行はれない。
 村の人々は「村の内部には若干の慣習[←旧字体]を除いて、法と云ふものが存在しない。村の人々は村の外部に行はれる法と云ふものも、法として村の人々を拘束するとは認めない。」と稱してゐる。…(小寺,1928,p.14)
 外部の国家権力を認めない、というコロニーの姿勢は、いろいろな面でコロニー外の社会との軋轢を生じる可能性を孕んでいた。小寺は、その具体的な例として、まず、課税(道路税と救貧税)、郵便、そして、特に第一次世界大戦時の兵役を挙げ、税金はコロニー全体として支払い、その原資は「出捐しうる人、出し度き人が出捐して居る」と説明する。これは、共同作業の勤労奉仕と同様で、できる者が全体のためにできることをするという考え方によっている(小寺,1928,p.16)。「郵便は、村の中に郵便函がないから投函は町に出かける人に依頼する。處が郵便の配達は毎日一回七哩離れたStroudから配達人が届けてくれる」(小寺,1928,p.15)ようになっていた29)
 第一次世界大戦の際の徴兵拒否問題は、コロニーの存在を一般社会に意識される契機ともなった大問題であった。コロニーの住民であった若者たちの中には、近在の牧場で軍馬の育成に関わる仕事を経験した者たちがいたが、彼らはその経歴を理由に良心的兵役拒否が認められず戦地へ送られ、戦死したり、重傷を負った。コロニー関係者の多くは、兵役を拒否したために、投獄されたり、罰金を科せられた。第一次世界大戦中には、外国人の住民にも同様の圧力がかかり、ベルギー人であったマランは、1917年に反戦活動の嫌疑でロンドンのベルギー当局に拘束され、(フランスが兵役拒否を認めていなかったため)スペイン人を装っていたフランス人の二人の住民は、グロスターの監獄に投獄された(Thacker, 1993, pp.122-129)。
 小寺は法的な問題を孕む点として、さらに(法的な)結婚を追加して次のように述べる(小寺,1928,pp.15-16)。
 「村の内部には何等の「法」が存在しない。」と村の人は自認してゐる。村では、結婚、夫婦關係、をも認めない、[ママ]年齢や性を問はず、また人種、国籍を問はず、各人の意思の絶對自由、絶對の平[←旧字体]等、を主義とし、また村の人は他から自らの意思に對して何ら強制が加へられることが無いと考へてゐる。(小寺,1928,p.16)
 小寺は後段で「結婚制度や夫婦關係を認めないと稱する此の村の男女關係について、詳しく知りたいのであつたが、その機會を失した」としているが、ここで言及されているのは、「free union」と呼ばれた、両性の合意のみによる公然たる共同生活のことである。現代でいえば事実婚にあたるものと理解されよう。通常の結婚と異なるのは、一方が関係を絶とうと思えば簡単にそれができ、相互に相手の自由を束縛しないという点である。しかし、このような関係は、当時の一般的な社会通念からすれば相当にラディカルなものであり、特に外部からは「free love (union)」と称されて性的放縦を示唆するものと受け取られることも多かった。ホワイトウェイでは、初期入植者の段階で「free union」の関係を結んで家庭を営む者たちがいたが、通常の結婚をして、夫婦関係を法的に登録する者も当然おり、またやがてその数は増えていった30)(Shaw, 1935, pp.127-132; Thacker, 1993, pp.204-205)。
 当時も、コロニー内の諸々の決定は、住民総会(小寺は「村の會議」としている)で行なわれていた。小寺が到着した晩には、マランが「當番幹事」を務める住民総会が行なわれ、小寺はその様子を傍聴している。会場は、1925年にコロニー内に移設された「公會堂」、つまり集会場(the Colony Hall)であった31)。議題は、新規参入希望者の承認であり、「出席者は三十人に滿たなかった」。そこで、小寺が紹介された出席者たちは「丈のヒヨロ高い和蘭人、大工さんのフランス人、チエツコ・スロヴアクの人、ロシア人、數名の英國人、佛教[←旧字体]徒だと稱する四十歳位の婦人」といった人々だった。「會議のあとには英吉利の舊い民謡に合せてフオルクダンスを皆が踊つた」という(小寺,1928,pp.17-18)。
 小寺は、マランの案内で「村の工場」も見て回っている。そこで言及されているのは、「「パン焼き」の工場」(プロセローのベイカリー)、手工芸品の工房である「村の共同工場」、「露西亜人の婦人」が所有する「チーズの工場」である。以上を紹介した上で小寺は、「これで目ぼしい工場は終りである。しかしなほ村の人で、自宅に仕事場を有つてる[ママ]人がある。」と述べている(小寺,1928,pp.20-24)。さらに小寺は、コロニーに音楽家や芸術家、学者といった「藝術家や智的の仕事に從事する人」の経済的基盤がどうなっているのかにも関心をもったが、結婚の件とともに「詳しく知りたいのであつたが、その機會を失した」とも記している。

社会環境の変化と受け継がれる伝統(1940年代以降)

 小寺が訪問した1927年の時点で、あるいはショーがホワイトウェイ・コロニーについての最初のまとまった書籍であるShaw(1935)を公刊した1935年の段階で、コロニーは安定したコミュニティとして成熟しつつあったと見ることができる。原理主義的ではないものの、アナキズムに裏打ちされた運営をしていたコロニーは、住民の同意に基づいて新たに生きるための土地を必要とすると認められた人々を受け入れ続けた。例えば、スペイン戦争の時期には、アナキスト系の亡命者十名が、コロニー出身でロンドンで活動していたアナキストに紹介されて、コロニーにやってきて、しばらく滞在していた(Thacker, 1993, pp.132-135)。
 また、第二次世界大戦の際にも、コロニー関係者は良心的兵役拒否のためにしばしば投獄されることになったが、これもその頃までコロニーのアナキスト的性格が継承されていたことの証左であろう。ただし、コロニーとして戦争への非協力を打ち出したわけではなく、戦時中には監視人(warden)や消防要員に12名の住民が志願し、中にはコロニー外での任務に就く者もあった(Thacker, 1993, pp.129-131)。
 1955年に、ホワイトウェイ・コロニーは、住民である一女性との間で、彼女が所有する家屋の売却をめぐって、土地裁判所(Land Tribunal)の裁定を仰ぐことになった。この女性は、住民総会の同意がなければ自分の家屋の売却ができないのは不当である、自分は長年コロニーに住んでいるがそのような慣習は承知していない、として、コロニーと対立したが、裁判所はコロニーを支持する判決を下した。結局、皮肉にも国家機構である裁判所の司法判断によって、アナキズム的土地共有の理念が確認され、保障されることになった(Thacker, 1993, pp.142-145)。
 当時、既に住民の長老格となっていたマランは、コロニーの勝訴を受け、この一件について「古きホワイトウェイが再び生き返ったように思われる。古きホワイトウェイが甦ったことを確認した昨夜のことは、私の人生の最も忘れ難い喜びの一つとなろう。」と述べたという32)(Thacker, 1993, p.145)。
 この1955年の一件の背景には、この時点で、ホワイトウェイ・コロニーが、その理念を理解しない不動産の買い手にも注目されるようになっていたという状況があったものと思われる。しかし、コロニーが新たに参入を認めるのは、コロニーの運営原理を理解し、コミュニティへの高い参加意識をもった人物に限られていた。結果的に、コロニー内の建物は、元々コロニーに住んでいた者の縁者や、その理念に共鳴する者が、次々と受けついでいく例が多くなった33)
 1960年頃までに、コロニー内には未利用地は無くなっていた。したがって、コロニーに転入しようとする者がいても、住民の誰かが転出しない限りその機会はないことになる。また、それに加えて、住宅ローンの問題が、ここで重要になってきた。より広い階層の人々が住宅購入を可能にしていく上で、住宅ローンの制度化が重要な意味を持っていることは改めて述べるまでもない。しかし、ホワイトウェイ・コロニーの場合、宅地がコミュニティの共有であり、また、自由に第三者に持ち分を譲れるような状態でもないので、土地を担保にローンを組むことができないのである。結果的に、十分な資金を用意して現金で建物を買える者しか、新たにコロニーに加わることはできなくなっていったのである。
 さらに、1960年代に入ると、モータリゼーションの浸透によって、コロニーの置かれた社会環境に大きな変化が生じた。自家用車の利用を前提とすれば、周辺の地方都市(グロスター、チェルトナム、ストラウドなど)への通勤が十分に可能になったのである。結果的に、コロニー周辺の不動産の相対的な価値は膨らんでいくことになった。このため1960年代以降は、比較的裕福といってよい程度に経済的な裏付けがあり、あるいは、自力で建物の改修や増築を行なえる技術などをもち、なおかつ、コロニーの理念に共鳴する、少数の選ばれた人々だけが、新たにコロニーに加わっていくようになった。
 今日では、もはやホワイトウェイ・コロニーをアナキストのコミュニティと見なす者は(当の住民たちを含めて)ほとんどいない。しかし、現在の住民が、このコロニーの歴史を理解し、住民集会によりコロニーの物事を決していく手法を肯定的に捉え、緩やかな意味でのアナキズム精神の伝統を誇りとしていることは、様々な局面で強調されるところである。

写真4 北西から生垣ごしに遠望する
ホワイトウェイ集落

写真5 集落の北西側の入り口
 

写真6 南東から遠望するホワイトウェイ集落
(小寺が最初に眺めたアングルに近い)

写真7 厚く、高い生垣を巡らせた家
 

写真8 Dry Ground の運動場★

写真9 運動場脇のプール(冬季閉鎖中)

写真10 集会場
(隣地の農地ごしに南東から撮影)

写真11 Wet Ground の小公園
 

写真12 Dry Ground の歩道(抜け道)★

写真13 Dry Ground の公道から私道への入口
(「私道につき時速10マイル」の表示)

写真14 Dry Ground の歩道(右側が板塀)

写真15 Wet Ground の芝生(奥の家まで
三軒分の敷地を貫いて芝生が続いている)

写真16 大きなガレージを構えた新しい住宅

写真17 やや古い木造住宅

写真18 増築を重ね,現在も改装工事中の
マランの家星★

写真19 現在は物置になっている,
かつての住宅

現在の景観の特徴(2008年)

 2008年2月に、筆者はホワイトウェイ・コロニーを訪れる機会をもった。まず、2月18日には、サッカー女史の案内でコロニー内を見て回り、次いで、21日、22日にも、現地を踏査した。以下では、その際に撮影した写真を示しながら、ホワイトウェイ・コロニーの現在の景観について、その特徴を整理して説明したい。なお、写真のうち、同行者(竹内いずみ)が撮影したものは、キャプション末尾に「★」を表示している。それ以外の写真は筆者の撮影である。
 遠くからホワイトウェイに近づいて行くときに、まず目につく特徴は、コロニーのみならず隣接地を含めた集落全体が、鬱蒼とした森のように見える、という点である。もともとコロニーの敷地は、現在の周囲の農地と同じように、樹木は何も植えられていなかったという。百年以上の間に様々な樹木が植えられ、遠望すると自然のままの森のように錯覚する。そのほとんどは、各区画の境界をなす、いわば屋敷林のようなものである34)。[写真4-7]
 ホワイトウェイ・コロニーの敷地は、公道によって南北に分断されており、北側のやや高い位置の斜面は、土地が乾いていることから「Dry Ground」、南側のやや低い位置の斜面を、土地から地下水がにじみ出てくることから「Wet Ground」と呼ばれている。前者には簡単なプールが設けられた北側に運動場と、南側に集会場が、後者には東側に簡単な遊具やベンチが置かれた小公園が、公共的な空間として確保されている。[写真8-11]
 現在のホワイトウェイ・コロニー内の道路は、自動車の普及以前に線引きされていることもあり、人が通り抜けることはできても自動車は通らない道もある。しかし、全ての家屋の区画には、何らかの形で自動車でのアクセスが確保されている。この道の維持管理も住民の共同作業で行なわれている。[写真12-13]
 現在、コロニーには、改装中であったり、一時的に空き家になっているものを含めて60軒余りの住宅があり、120名ほどの住民がいる。家屋の規模は大小ばらつきがあるが、極端に大きなものはない。家屋の多くは敷地の境界を分厚い植え込みによって区切っているが、一部では板塀や柵も見られる。また、コロニーの南端に近い一帯では、隣の区画と境界を分たずに、芝生で繋がっている場所もある。[写真14-15]
 家屋の建築方法や様式は多様であり、かなり高価な印象の外装を持つ家もあれば、全く逆の印象を与える家もある。一方では、高級乗用車や大型重機、大型農機などを納める大きなガレージを備えた、おそらく1960年代以降の転入者のものと思しき大きめの家屋もあれば、かなり古い小さめの木造家屋に高齢の住民が住んでいるというところもある。増築を繰り返したと思しき家も多く、また、かつての住居が、物置などに転用されて残されているものもある。[写真16-19]
 上述した「すべてが何等の統一なく、形式なく、たゞ雜然と、廣い面積の上に散らばってゐる光景」(小寺,1928,p.11)という表現と照らし合わせると、確かに、建物には統一も形式も認められない。しかし、もともと日本では、英国の住宅地開発とは対称的に、建築協定によって統一の意匠を施すという発想は希薄である。英国の文脈ではホワイトウェイ・コロニーのようなあり方は、なかなか肯定的には受け入れられないのであろうが、現代の日本ではむしろ多様性を肯定的に捉える向きが強い。多くの樹木に囲まれた中に、質素な木造の家や、意匠に凝った建物が散在する姿は、筆者の目には日本の高級住宅地のようにも、別荘地のようにも映った。

おわりに:都市計画史の中で

 ホワイトウェイ・コロニーの経験は、他に類例を見いだすことが難しい特異なものであるが、少し見方を変えれば、ある種の理想主義的な理念に基づいて現実の社会とは異なる、また、それに取って代わり得る地域社会、あるいは都市/集落の形成を目指したという意味で、後に20世紀以降の都市計画思想に大きな影響を与えることになる、19世紀の英国における様々な実践の一つであったと見なすことができる。例えば、世界遺産となっている、ニューラナーク(19世紀初頭)やソルテア(19世紀半ば)は、時代的に先行した試みであったが、キャドバリーによるボーンヴィルの建設や、やがて20世紀のニュータウン思想の源流となったエベネザー・ハワードの田園都市論とその実践としての田園都市の建設(Letchworth とWelwyn)は、ホワイトウェイ・コロニーの建設に至るブラザーフッド教会の試行錯誤の時期と重なっている。クロイドン・ブラザーフッド教会が組織された1894年、バーミンガム郊外では、1983年から始まっていたキャドバリー社の工場労働者のための模範集落ボーンヴィルの整備が着々と進んでいた。コロニーが開設された1898年はハワードの『明日の田園都市』の初版が刊行された年であった。コロニーの取り組みも、大局的にみればヴィクトリア朝の英国におけるユートピア的計画都市の系譜に位置づけることができる35)
 ハワードが、法的な土地所有者による一元的な開発主体への土地信託(トラスト),実質的な土地の共同所有制(あるいは一括所有制)を想定していた(姫野,1991,pp.236-239)ことに注目するなら、ホワイトウェイ・コロニーでは、まさしくそのような想定が一世紀以上にわたって実践されてきたのである。ここで、「英国において田園都市の理念がニュータウン政策へと発展していく過程において,また,日本における田園都市論の受容過程においても,ハワードが掲げていた理想主義的な理念や,田園都市建設を通じた社会改革へのまなざしは抜け落ち,「田園都市」という言葉が一人歩きしたり,もっぱらハード面でのアイデアだけが受容されていくことになった」(山田, 2003, p.28)ことを考え合わせると、ホワイトウェイ・コロニーの取り組みが、社会的理解を得られないまま20世紀後半以降の英国においていわば忘れられた状態となり、また、小寺(1928)の貴重な報告の存在にもかかわらず、日本でも全くといってよいほど知られないままであったことの背景が了解されよう。
 その時々の決定の蓄積によって景観を形成してきたコロニーは、図示できるような長期的マスタープランを欠いており、本国においても、日本においても、都市計画等の観点から注目を集めることはなかった。現地で筆者を案内しながら、サッカー女史は、「地図はないのか?」という筆者の質問に対して「ホワイトウェイ・コロニーには地図がない」と答えた。実際、彼女の著作(Thacker, 1993)にも、コロニーについての他の関連文献類にも、コロニーの地図は見出せなかった。サッカー女史の言葉は、コロニーが平面図/計画(plan)となるような構想なり展望をもたなかったことを象徴している。しかし、その時々の住民の総意に基づく決定の積み重ねによって形成されて来た現在の景観には、初期入植者たちが幻視した理念が、一貫して反映されていると考えることもできるだろう。
 コロニーの景観は、しばしば乱雑で統一性を欠いたものとして否定的に捉えることがあるが、結果として形成された景観は、居住者の個性が尊重され、なおかつ緑が溢れる、好ましい景観になっているように筆者には思われる。それは、開発当初に先人がその完成図を構想したものではなく、歴史の流れの中で、その時々に住民が総意として意志決定を積み重ねてきた結果として形成されたものである。このような集落形成の事例は、類例が少ない、貴重なものである36)
 山田(2003)では、ハワードの思想に基づいて実際に建設された田園都市 Letchworth の開発史を検証し、結論として、時代とともに変化している社会環境の中で、「継承されるべき理念を語る言葉」が果たす役割の重要性を強調した。理想的コミュニティの容れ物としてふさわしい理想的な集落を、長い時間をかけて建設していくためには、最初に目に見える形で示された平面図/計画(plan)ではなく、継承されるべき開発の理念こそが重要な役割を果たすのである。しかし、実際には、そうした方向とは全く逆に、理念はしばしば忘れ去られ、他方では平面図/計画は形骸化・矮小化されて、一人歩きをするように広く流布していくことが多い。都市工学や都市地理学の概説書に、十分な背景説明もないまま引用されるハワードの田園都市の街路図などは、その最たるものである。
 ホワイトウェイ・コロニーは、平面図/計画をもたなかったが故に、都市計画の実務家からも、都市・集落研究者からも無視され、忘れられながら、日々の実践の蓄積の中で、他に類例のほとんどない集落形成を行なってきた。その成果の質の高さ、住民の活き活きとした生活ぶりに触れて強く感じるのは、無名の住民たちの日常的実践の集積としてのこの集落の姿それ自体が、都市計画思想史全体に一種の厳しい反省を強いるものだということである。



(以下に示すURLは、いずれも最終アクセス 2009年3月30日)
1)Whittaker(2005)は、学術的価値は高いとはいえないが、広く流布しているコッツウォルドの地名の概説書である。そこには、Whiteway についての記載はないが、道路名称としての White Way については、「Cirencester から Compton Abdale に至り、Winchcombe へ向かうSaltway に合流する尾根道。おそらくは、塩の道(a salt way)の別称。」という記述がある(Shaw, 1935,p.61)。ここで、「塩の道」というのは、コッツウォルド地方に、Saltway、Saltersway等の名称で知られる複数のルートが散在することを指している。この(Cirencester と Compton Abdale を結ぶ)White Way の近傍にも、Whiteway near Cirencester という集落があるが、この道路も集落も、本稿で取り上げている Whiteway near Stroud とは関係がない。
2)http://en.wikipedia.org/wiki/Whiteway_Colony
3)Aylmer Maude(1858-1935)は、妻Louise(1855-1939)とともに多数のトルストイ作品を英訳し、またトルストイについて伝記的書物を数多く著わした人物。Aylmer は英国イプスウィッチ生まれだが1874年にモスクワへ留学し、当地で教師を経て英露合弁企業に職を得、モスクワ生まれの英国人Louiseと結婚した。1888年以降、トルストイと親交を深め、1897年に帰国して以降もトルストイと交流を続けながら、トルストイ作品の英訳に取り組んだ。
4)Nellie Shaw の生没年はThacker(1993,pp.49-50)の記述による。Shawの肖像写真は、Shaw(1935,p.18)所収のほか、1938年撮影のものがThacker(1993,p.13)にある。
5)NACSIS Webcat では、Shaw(1935)とThacker(1993)はいずれも所蔵館のヒットがない。また、どちらも既に絶版であり、特に前者は古書市場においても入手が非常に難しい状態である。
6)トルストイ主義という捉え方には、土地私有制度や農奴制度への反対のほか、反戦・非暴力、人道主義といった面がある。その影響は、インドのガンジーや、日本の有島武郎ら白樺派に及ぶものとされる。武者小路実篤らによって1918年に開村し、曲折を経ながら現在まで存続している「新しき村」も、トルストイ主義の影響圏に位置づけることができる。なお、Shaw(1935,pp.23-24)には、彼女自身の理解に基づいたトルストイ主義の簡潔な説明が述べられている。
7)現在、ヨークシャーに拠点を置く The Brotherhood Church のウェブサイトにある、歴史の説明によると、ウォレス師は、早くからトルストイの影響を受け、1887年から『Brotherhood』という月刊誌を発行していたが、1891年に北アイルランドからロンドンへ移ってブラザーフッド教会を設けたという。
  http://www.thebrotherhoodchurch.org/history.htm
8)Shaw(1935,p.23)には、新約聖書マタイによる福音書第23章8-9を踏まえて変形した「Call no man Master, but be ye all as brothers」という語句が出てくる。神の前では人はみな平等な兄弟であるという思想は、現世における階級制や貧富の格差に反抗する精神を正当化するものである。もちろん、そこにジェンダー論的限界があるという批判が有効性をもつのは20世紀後半以降である。
 ちなみに、ホワイトウェイ・コロニーでは、住民同士は姓ではなく名で呼び合うのが一般的だが、これは単に住民同士が親しいということの結果というよりは、より積極的に兄弟姉妹意識を涵養するものとして機能している規範という見方もできる。Thacker(1993, p.25)が紹介する、20世紀初頭に幼少期をコロニーで過ごしたCarmen Maurice の回顧の記述には、「大人も子どもも皆クリスチャン・ネームで呼び合っていて、姓は気にせず、皆たがいに兄弟姉妹のようでした。例えば、誰もがどの子どもにも同じように振舞う力があり、自分の子か他人の子かはおかまいなしでした。」とある。
9)フェビアン協会は、1884年に結成された、社会改良主義の立場に立つ知識人の政治的グループで、労働党の母体のひとつとなった。
10)独立労働党は、1896年に結成され、後に1906年に結成された労働党の母体の一つとなった。19世紀末において、英国の労働組合の多くは、主に自由党との連携によって労働組合系自由党議員を議会下院に送る運動に取り組んでいたが、これに対して、より左寄りの立場から、自由党に頼らず独自の候補を立てることに取り組んだ。
11)Shaw(1935,p.20)は「こうした社会主義の講演は何より興味深かったが、私たちはまだ、何かもっと暖かみのあるもの、もっと活き活きとしたもの、もっと私たちの本性に理念的な側面に訴えかけるものが必要だと感じていた」と述べている。
12)Shaw(1935,p.20)は、「男5人と女2人」と述べており、Thacker(1993, p.3)は、名前を列挙して6名としている。また、Shaw(1935,pp.25-26)には、初期の運営に当たった人々を紹介している記述もある。固有名詞を詳述することは省くが、そうした人々のことを、Shawがどのように形容しているかは、教会の性格を知る上で興味深い。「確固たる社会民主主義者」で「同志」と肩書きが付けられた男性、出版事業で知られていた兄弟、「神知学者、フェビアン協会員にして強硬な婦人参政権論者」という女性、「心霊主義者」のスコットランド人夫妻、米国の神秘主義思想家「トマス・レイク・ハリスの信奉者」という男性、「地元の社会主義者」という男性、などといった簡潔な説明が、初期の教会を支えた人々を説明する表現として用いられている。
13)シンクレアは、スコットランド・ケイスネス州Wick出身の元銀行員で、三十代半ばであった。一方、プロセローは、元々エセックス州Leytonstoneで競売商として成功していた、二十代半ばの青年であった。二人はまずパーレイ・コロニーの最初の入植者となり、次いでホワイトウェイに入植した(Thacker, 1993, pp.9-11)。
14)同様の事情を抱え、最初期のコロニーに資金を提供した人々は他にも数人いたようだ。良心的兵役拒否をしてデンマークから逃れてきていたArnold Eiloartなども、そうした一人だった(Thacker, 1993, pp.12-13)。
15)Sheepscombe は、コロニーから西へ2kmほど離れた、Painswickに近い谷間の集落である。産業革命の初期に織物産業などが栄えて斜面上に住宅が広がったが、19世紀はじめまででそれは衰退し、19世紀末には風光明媚な住宅地として人々を引き寄せるようになっていた。1920年にホワイトウェイ・コロニーに学校が作られるまで、コロニーの子どもたちは、Sheepscombeの学校に通うのが常であった(Thacker, 1993, p.85)。
16)現在の集落としてのホワイトウェイは、もともと一つの大きな農地であったが、このうち40エーカー(16ha)ほどがコロニーの敷地となり、残りのうち8エーカーは1899年に Farmer Causey という人物が買い、さらに小さな区画が元の地主の用地として残された。Causey の土地は、当初はコロニー同様のコミュニティが構想されたものの曲折を経て分割売却された。その一部を買った人々の中には、ケンワージー家のようにコロニーと縁のある者が含まれていた。(Thacker, 1993, pp.195-200)。
17)アナキズムの立場からすれば、登記自体が国家の枠組みを肯定することとなるという矛盾はあるが、登記がなければ権利の保証がないため、登記は絶対に必要であった。また、権利書の焼却によって、土地の売買は技術的に極めて困難になるので、権利書の焼却は、次善の策としては賢明な選択であった。権利書類は、コロニーの北側にある、現在の運動場の場所で焼却されたという。なお、後述のように、1955年にコロニーの住民である女性が、自分が所有する家屋の売却をめぐってコロニーと対立した際に、土地裁判所(Land Tribunal)はコロニーを支持する判決を下したが、司法判断によって権利が守られているというのもまた、アナキズムの理想とは矛盾した現実である。(Thacker, 1993, pp.142-145)
18)例えば、ショーは開設から半年遅れ、1899年春にコロニーへやってきたが、最初の二年間は北に3kmほど離れたClimperwell に小屋を借りて、コロニーに通っていた(Thacker, 1993, p.14:Shaw, 1935, p.47)。
19)Shaw(1935)とThacker(1993)の記述を重ねると、明らかにShaw が関係者の名を仮名で記している箇所が散見される。例えば、ブラッチャー(Samuel Bracher)の名は、前者ではDaniel Thatcher、となっており、その恋人となったモード家の家庭教師は、前者ではClara Lee、後者ではLottie Dunn となっている(もちろん、前者が仮名で、後者が実名である)。
20)初期のno-money phase については、Shaw(1935, pp.120-126)は一章を割いて批判的に検討している。きっかけとなったのは、1899年にコロニーを訪問したクエーカー教徒Tom Ferrisの説教であったという。その影響は1901年春まで続いた。
21)シンクレアは酪農業で成功し、コロニー外の農地を借り受けて経営規模を徐々に拡大させていった。シンクレアが供給する牛乳はコロニー外にも提供され、また、コロニー内のチーズ生産などの加工原料ともなった。シンクレアは1928年に死去するまでコロニーにとどまった。
 一方、プロセローは、「貨幣忌避の時期」以降、小規模なパン焼きを始め、コロニー内に提供するとともに、チャルトナムの菜食食料品店にもパンを卸し、さらにその配送の途中で立ち寄れる顧客に配達もするようにした。パンの他に菓子類も焼き、季節によってパイ類も焼くといった具合で、徐々に規模を拡大し、1910年代には、周辺の地域での知名度も高まり、経営的成功を収めていた(Shaw, 1935, pp.159-161)。第一次世界大戦の終り頃には、配送用に自前のT型フォードのバンを所有するようにまでなっていたプロセローは、1920年頃にはそれまで住んでいた「メドウ・コテージ(Meadow Cottage)」を出て、パン工場のそばに新たな家を建て、さらに事業にいそしんだ(Thacker, 1993, pp.54-57)。チェルトナムの図書館で確認できた1927年の『Kelly’s Directory of the County of Gloucester』には、「BAKERS & PASTRYCOOK」欄に「Protheroe Wm.S. Miserden, Stroud」とエントリーがある。プロセローが死去した1955年には、彼の事業は各地に店舗を構えるほどになっており、家族もコロニーの外に独立して分散するようになった。1989年にコロニー内の施設が火災を起こすまで、コロニー内でのパン焼きは続けられた(Thacker, 1993, pp.59-62)。現在も彼のパン工場の建物はそのまま残されている。
 ちなみに、プロセロー家は、子どもたちがそれぞれ独立しウィリアムの孫の世代となった今では、英米はじめ世界の各地に一族が分散しているが、コロニーにおける一家の建物とコミュニティにおける立場を維持するために、一族のうち数人が交代しながらコロニーに住み続けている。
 手工芸の共同作業所は、おもに革製品、木工、織り物などを住民が制作するための場として、1920年から1930年までコミュニティの管理下で運営されていた。1920年から工房に使われた建物は、現在も残っているが、1956年に改装されて住宅となっている。
22)Thacker(1993, p.49)によれば、ショーもこうしたゲストを受け入れて収入の足しにしていた。コロニーの初期のように多数の人がやって来るという状況ではなくなっていたが、1930年代になってもコロニーで休日を過ごしたいとやって来る人々は十分な数がいたのである。
23)小寺の経歴については、高岡高商への着任時期など、資料によって食い違いがある点もあるが、ここでは、本人が富山大学退職にあたってまとめた小寺(1958)の記述内容を優先した。
24)小寺(1958,p.211)は、在外研究時の20ヵ国余りに及ぶ旅行に「エスペラントは大変役立った」と述べている。また、小寺(1928)の冒頭では表題に添えて、エスペラントでマランへの献辞が記されている。当時の小寺は充分な運用能力をもったエスペランティストだったのであろう。
 小寺(1928,p.318)は「萬國エスペラント大會」、小寺(1958,p.212)は「万国エスペラント大会」と表記している世界エスペラント大会(Universala Kongreso de Esperanto)は、1905年から始まり、二度の世界大戦中の中断を挟んで、現在まで継続している。財団法人 日本エスペラント学会のサイト(http://www.jei.or.jp/)にある「世界エスペラント大会・開催一覧」のページの記述によれば、1926年のエジンバラ大会は、(計画がありながら第一次世界大戦で中止となった2回を含めた通算で)第18回大会にあたり、960人の参加があったという。
25)Shaw(1935)は、マランの紹介のために一章(pp.206-216)を費やしているが、そこでは彼の名は「Gaston」と記されている。ベルギー人のマランは、在野の地理学者とも人類学者ともいうべき人物で、旅行家でもあった。小寺(1928,pp. 12-13)によると、マランはもともと大学で地質学を学んだが、Elisee Reclus(1830-1905) の授業を受けたことを契機に、関心を自然から人間に関心を移したという。ルクリュのアナキズム思想については、野澤(2006)を参照。
26)Thacker(1993, p.74)はマランが1927年にアジア、アフリカからの来客をコロニーに招き入れたことが記されており、やって来た来客たちの中には「ソマリ人二人、ズールー人一人、日本人一人、チリ人一人、フランス人五人、ドイツ人一人、ロシア人一人、英国人一人」がいたという。この「日本人一人」が小寺であろう。
27)小寺(1928)は訪問の日付を明記していないが、到着した日は「丁度日曜日であった」と記されている(p.11)。この月の最初の日曜日は3日であった。また、小寺が到着した日の夜に開かれた集会の描写と「翌朝」の描写があり(pp.17-19)、さらに別の夜を指して「一夕」(p.25)とあることから、少なくとも二泊以上は宿泊したことが確実だが、「短い滞在」(p.28)とあるだけで、何日滞在したかは明記されていない。おそらくは、数日程度の滞在であったように思われる。また、小寺が宿泊したのがどこであったのかも判然としない。マランの居宅の細かい描写があるので、あるいはマラン宅に泊まったのかもしれない。
28)小寺は「乗合自働車」と表現しているガソリン・エンジンのバスは、チェルトナムやストラウドと、コッツウォルドの集落の間を結ぶネットワークを1920年代初頭までに形成していた(Pigram and Edwards, 1990, p.29)。当時のストラウド地域のバス交通事情一般については、Daniels(2003, pp.1-28)を参照されたい。
 現在も、週に2回、コロニーを経由してチェルトナムとストラウドを結ぶバス路線が運行されている。その細かいルートは当時と相違点もあろうが、コロニー周辺の道路の結びつきから考えて、このとき小寺が乗車したバスが、(現在のルートと同じように)南東に位置するMiserdenの集落から北上してコロニーに向かったことは間違いない。
29)特に、貨幣忌避の時期には、郵便制度も国家権力の一部と見なして、極力その利用を拒もうとする者もいた。ショーのパートナーで、小寺も面会した「チエツク人」の「ヘーゲル派の哲學者」Francis Sedlak は、自著の原稿の一部をロンドンの左翼系出版社 New Order Office に届けるために郵便を使うのを嫌い、雪の降る冬季に素足でロンドンへ向かったものの、コロニーから20kmほど東のBarnsleyでそれを断念して戻ってきたということがあった(Thacker, 1993, p.49)。
30)Shaw(1935)によると、最初期には、一方で「free union」を選んだ者がコロニーを離れたりする中で、第一次世界大戦の時期にフランスやベルギーから事実婚のカップルがやって来るまで「free union」のカップルの数は増えていかなかったという(pp.129-130)。その後の世代には「free union」を選ぶ者も、法的結婚をする者もおり、法的結婚をすることも、しないこともタブーではなかった。ショー自身も上述のSedlak と「free union」の関係を結んでいたが、事実婚と普通の結婚には一長一短があると述べている(pp.131-132)。
31)小寺(1928,p.16)は、「私が村に來たとき、村の敷地の眞中に、新らしい公會堂が立って居た。それは二、三哩離れた處にあつたある不用の公の建物を買ひとつて此處に移したのであるが、數週間前の日曜日に村中總出で、その建物を取りこわしに行き、こゝに運搬し、こゝに再築したのである。」と述べているが、この記述には小寺の誤解も含まれている。現在も残るこの建物は、もともとコロニーから3kmほど離れたCranhamのサナトリウムの建物を、1925年に落札し、解体運搬してから、1926年に現在地に再築したものである(Thacker, 1993, pp.111-113)。
 なお、この建物がサナトリウムで使われていた当時の写真は、Cranham Local History Society(2005, p.177)に収録されている。
32)この発言は、グロスターシャー州の地元紙『The Citizen』の1955年12月1日付の記事から引用されている。
33)現地での聞き取りでは、現在の住民の半数近くは、比較的早い時期にコロニーに参加した人々の何らかの形での縁者である、という見解が聞かれた。
34)初期の入植者たちは、遮蔽物のない吹きさらしの畑を守るために植樹に務め、収穫を求めて果樹を植えることも多かったという。
35)小寺(1928, p.27)も、「Whitewayの村は今日の社會問題の流れとはかけ離れた現象である。一つのユートピア的の計[畫+リットウ=画の旧字体]を現代的な産[←旧字体]業的な社會に於て、革命されない處の現実の社會に於ては如何に計[畫+リットウ=画の旧字体]は變更され、當事者は如何に苦闘するかと云ふことについて、英國の二つの田園都市Garden CityのLetchworth[レッチワース]とWelwyn[ウエルウイン]とが多くの經験を提供してゐる。」と、ホワイトウェイ・コロニーと田園都市の経験を重ねて考えている。
36)山中速人は、本稿の原型となる筆者の報告に対して、ホワイトウェイ・コロニーの運営方法に似た形で、土地を一元的に管理し、建物の所有者にコミュニティへの一定のコミットメントを求める例として、長野県の野尻湖国際村が挙げられるのではないかと指摘した。1922年にカナダ人宣教師らによって拓かれたこの別荘地は、住民(別荘の所有者)にコミュニティへのコミットメントを求める形での自治運営がされている。ここに家を持つものは、毎夏一定の日数以上をここで過ごさなければならず、それぞれの家屋を良好な状態に維持する義務がある。また、建物の新築や、既存の建物の売買には、コミュニティの同意が必要になるという。


文献
Cranham Local History Society (2005): Cranham: the history of a Cotswold village, Cranham Local History Society (Cranham).
Daniels, N.P. (2003): Stroud’s Buses: A Century of Motorised Public Transport in the Stroud Valley, LLyfrau Hiraethog (Ruthin).
Pigram, Ron and Edwards, Dennis E, (1990): Cotswold Memories: Recollection of Rural Life in the Steam Age, Unicorn Books (Paddock Wood).
Shaw, Nellie (1935): Whiteway: a colony on the Cotswolds, C.W. Daniel Co. (London), 238ps.
Thacker, Joy (1993): Whiteway Colony: The Social History of a Tolstoyan Community, Sutton Publishing Ltd. (Stroud), 219ps.
Whittaker, David (2005): Cotswold Place-Names: A Concise Dictionary, Wavestone Press (Oxon), 63ps.

小寺廉吉(1928):WHITEWAY COLONY 南イングランドのトルストイ主義者の村訪問記.高岡高商研究論集,1,pp.309-336.
小寺廉吉(1958):「進化学説」を信じる一人の地理学研究者の生いたち―私の畧歴―.富大経済論集,2-4,pp.206-218.
野澤秀樹(2006):エリゼ・ルクリュの地理学とアナーキズム思想空間・社会・地理思想,10,pp.20-36.
姫野 侑(1991):ハワードの田園都市論.東京経大学会誌,173,pp.231-248.
山田晴通(2003):百周年を迎えるレッチワース田園都市―姫野侑教授の「研究ノート」によせて―東京経大学会誌―経営学―,234,pp27-40.



謝辞

 本研究の現地調査に際し、御協力をいただいた多くの方々、特にインタビューに応じていただいたジョイ・サッカー女史はじめ、ホワイトウェイ・コロニーの住民の皆さんに、深く謝意を表する。また、事前や事後の資料収集、整理に際して、関連する事柄を多々ご教示いただいた 石塚 幸太郎 氏、島津 俊之 先生(和歌山大学)、資料の閲覧に便宜を図っていただいたチェルトナム市図書館およびストラウド市図書館に感謝する。

 本研究には、2007年度-2008年度の東京経済大学個人研究費の一部、および、2007年度の東京経済大学個人研究助成費(C07-05)「トルストイ主義的アナキズムの実践地「Whiteway Colony」の歴史と景観」を用いた。
 本稿の内容の一部は、2008年5月17日に、東北地理学会・2008年度春季学術大会(宮城大学)において口頭発表した

 本稿のテキストは、当研究室のウェブサイト上で公開している。(http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/text.html


The author of this article deeply thanks Ms.Joy Thacker, and all people in the Whiteway Colony for their providing precious information and kind hospitality on our visit in February, 2008.
The author also thanks municipal Libraries in Cheltenham and Stroud for their generous supports in collecting related materials.



本研究に関する現地調査を行った際の日記と、研究助成費支出明細

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