シンポジウム報告:2004:3/26:
ビデオ・クリップにみる都市の中の女性の場所.
東京経済大学・2003年度国際シンポジウム「ジェンダー・メディア・都市空間」(東京経済大学)
第三セッション報告:シンポジウムの趣旨について.
ビデオ・クリップにみる都市の中の女性の場所.
(読み上げ原稿)
Women's place in urban milieu as depicted in Japanese video clips
Harumichi Yamada (Tokyo Keizai University)
今日は、限られた時間の中で、2本のビデオ・クリップ作品を見ていただきながら、ポピュラー音楽のプロモーション・ビデオから発生して一つの表現形態として確立されてきた音楽ビデオ=ビデオ・クリップというメディアに例をとり、そこでジェンダーと都市空間が、どのように結び付けられ、映像化されているのかを考えていきます。
議論に入る前に、予めお断り、あるいは、言い訳をしておかなければなりません。これから具体的なビデオ・クリップ作品について述べていく内容は、これらの作品に対する私の解釈、私の「読み」であって、同じ作品を視聴してもそのような解釈を共有できない方もいらっしゃることと思います。ここでの私の意図は、自分の「読み」を皆さんに押し付けることではありません。もし、自分の解釈とは違う、自分はそう思わない、といった議論が出てきたとしても、そのような見方もあるのか、というふうに受け止めていただければ有り難く存じます。
また、そうした作品の解釈における恣意性より前に、どの作品を取り上げるかという対象の選択においても、恣意性があることは言うまでもありません。今回は、日本のビデオ・クリップ作品で、都市空間とジェンダーについて考える手がかりとなるようなものを、楽曲がヒットしたと言えそうな曲の中から選び出しました。同じ作業を他の方がやれば、当然全く違った作品が検討の俎上にのぼるかも知れません。
しかし、ここでの課題は、何かを実証することでなく、われわれの生きている世界をよりよく理解する助けとなるような、ものの見方の提示であると私は理解しています。こうした了解を踏まえて、恣意的に選択した2作品に、恣意的な解釈を施すところから、議論を展開していきたいと思います。
さらに、言い訳の最後に、言わずもがなのことを付言しておきます。もとより私は白人ではありませんが、日本社会において多数を占めている大和民族という意味での日本人であり、男性であり、中年であり、高学歴の大学教員を職業としている者です。つまり、私の議論は、権力的なバイアスから完全に自由であることは困難です。特に、恣意的な議論にはこのような困難が顕在化してくる可能性も大きいと思います。
以上の点を留意していただき、しばらく私の議論におつきあいをいただければ幸いです。
最初に取り上げるのは、1987年10月に、当時人気のあったロック・バンドBOφWYが発表した『季節が君だけを変える』というビデオ・クリップです。この作品は、様々な若者たちが、多くの場合はひとつのフレームに一人が捉えられ、表情のクローズ・アップからバスト・ショットくらいのフレーム取りへとズーム・ダウンされ、背景が少しフレームに入るようになる、というカットを多数つなげることで構成されています。歌詞の内容は、必ずしもまとまったストーリーを語るものではありませんが、『季節が君だけを変える』というリフレインが、全曲を通して強調され、若者たちの姿とあいまって、若さのはかなさ、あるいはその裏返しとしての若さ故の葛藤の愚かさを歌っているように感じられます。この曲は、BOφWYの事実上最後のオリジナル・シングルであり、この曲の発表後間もまく、同年末に彼らはバンドとしての解散を宣言しました。
<ビデオ上映:『季節が君だけを変える』>
このビデオでは、遠景に新宿の高層ビル群を望むオープニングと、赤い薔薇の花のアップが写し出されるエンディングの間に、全部で88のカットがあります。先ほども申し上げましたように、これらのカットはすべて、ひとり、ないし複数の人物をズーム・ダウンしていくものとなっています。まず、最初に、このビデオに登場する人物が、全員が「若者」という言葉で束ねられることを確認した上で、この人物をとらえた88カットを、写し込まれた人物が誰か、つまり、バンドのメンバーか、男性か女性か、一人か複数か、によって、また、背景が、昼か夜か、あるいは屋内ないし不明か、によって分類してみましょう。
昼 夜 屋内/不明
バンドメンバー 1 4 3
バンド全員 0 2 0
男性 4 8 19 .....31
複数の男性 4 1 0
女性 6 15 15 .....36
複数の女性 2 0 2
男女のカップル 1 1 0
合 計 18 31 39
ここで分かることは、
(1)このビデオ・クリップを構成するカットの85%(88カット中75カット)は、一人の人物に写したものであり、複数の人物が写されたカットは少ない
(2)背景が昼のカットより、夜のカットが多い上、屋内/不明としたカットにも「夜」を連想させる要素を含むものが多く、はっきり昼であることを示したカットは少ない
という意味では、偏りが見られるものの、
(3)登場する男女の数には大きな不均衡はなく、また背景との関係にも男女による大きな違いはない
という傾向です。
これが、最初から意図された結果なのか、否かは、判断がつきにくいでしょうが、このビデオ・クリップが、昼よりも夜に重点を置きながら、男女によって大きく片寄る扱いをしないで様々な若者を画面に登場させていることは間違いありません。
さらに、バンドメンバー以外の人物が一人で写っている67カットに限って、どんな人物が写っているのかを分類してみました。もちろん、直感的、主観的な分類であり、コーディングを批判的に考え出せばキリがないのですが、とりあえず今回の検討のためのコーディングではなく、以前にこのビデオ・クリップの分析をした時に行ったコーディングの結果をそのまま数えなおしてみました。ただし厳密にいえば、1名のコーディング漏れがあり、今回新たに判断して分類したものが含まれています。
コーディング作業では、直感的にキーワードを出してすべてのカットを言葉で説明することを試みた上で、それを整理統合してまとめ上げていきました。例えば、最終的に分類として用いる6カテゴリーには、それぞれ、カッコで示したような直感的に出てきたキーワードが付されたカットが含まれることになりました。
普通の人々(普通の若者、高校生、普通の少女、女子大生、女子高校生、OL)
遊び上手な人々(遊び人の若者、遊び慣れた少女、遊びなれた若い女性)
反抗する人々(暴走族、ヤクザ、少年ヤクザ、不良少女)
歓楽街の人々(飲食店の従業員、ギャバクラ、ソープランド、ホステス、ゲイ)
ロック[パンク]好きの人々(ロック/パンク少年、ロカビリー少年、ファッショナブルな少年、ロック少女)
その他の非日常的な人々(奇妙な少女、奇妙な青年)
このカテゴリーによって、先ほど述べた、バンドメンバー以外の人物が一人で写っている67カットを分類すると、次のようになります。
男 女
普通の人々 3 7
遊び上手な人々 2 9
反抗する人々 4 2
歓楽街の人々 9 11
ロック[パンク]好きの人々 9 2
その他の非日常的な人々 4 5
合 計 31 36
これを見ると、多少男女で不均等があるようにも見えますが、ロック少年たちが、ある意味では「遊び上手」な連中だと考えれば不均等は埋まりますし、反抗する人々の場合、複数の人物が写し込まれたカットまで考慮すると、複数の男性で1カット、複数の女性で2カットが加わるのでこれもそんなに実質的な不均等が生じているわけではありません。むしろ、このビデオが、男女の構成比という点では極めてバランスがとれた対象の選択をしていることが明らかになると考えるべきでしょう。
ただし、この後の議論との関係で注意しておくべきなのは、「歓楽街の人々」とした男女の内訳が、男性と女性とでは大きく異なるという点です。男性が、飲食店の従業員5名(寿司屋、ハンバーガー屋、各1名、ディスコ?のドアマン3名:このほかにコックの白衣に旧・日本軍の戦闘帽をかぶった男性が登場するが「非日常的な人々」に分類)、ゲイ4名、という構成になっているのに対し、女性では、ウェイトレス1名が登場するものの、あとの10名は、はっきりとキャバクラ嬢とわかる、源氏名のついた店の名札をつけて現れる3名、ホステス然とした風情で佇む5名、ソープランド(現状の日本で、最も一般的な脱法的売春行為の空間)の個室と思しき部屋にいて、ソープ嬢とわかる2名となっています。要するに、いわゆる水商売から先に関わる者の比率が女性では高いわけですが、これはもっぱら女性の性が商品価値を持つことが一般化している我々の社会の現実を反映したものです。
ここでは、細かい議論を省きますが、例えば吉見俊哉が『都市のドラマトゥルギー』(1987)で展開した議論を踏まえて、このような雑多な人々の集積が盛り場の性格を象徴するのだと考えれば、このビデオに描かれた盛り場は、現実の東京の中でも、特に、新宿を想起させるものといえます。実は、このビデオ・クリップに描かれた場面には、新宿ではなく明らかに原宿の一部と同定できるカットも少なくないのですが(特に昼の場面のカット)、ビデオ・クリップ視聴後の印象としては圧倒的に新宿のイメージが強い、というのがリアルタイムでこの作品を見た時の印象でした。もっとも、15年以上が経過した現在では、風俗の変化もあり、必ずしも明確にこうした印象を与える作品ではなくなっているかもしれません。
いずれにせよ、東京における新宿のように、来街者を選別しない、誰でも参入できる舞台としての盛り場には、他の場所では顕在化し得ない多様な意味での少数者たち、先駆者たちが、現出します。ビデオ・クリップ作品としての『季節が君だけを変える』は、ある時代の都市の盛り場の断面図として、そうした若者たちの姿を横断的に切り取ってコラージュし、結果的に作品の中に都市空間を再構成している、と言うことができると思います。そこでは現実を踏まえつつ女性たちの場所も用意され、ある程度の広がりを持って表現されています。しかし、作品中のカットがもっぱら「夜」との関係で選択されていることもあり、人数の上では多数ではないにもかかわらず、水商売の女性たちの印象が強く残るのは、現実の都市空間がそのように構成されているためであるのか、それとも私たちの固定的な紋切り型の理解、つまりステレオタイプ的な認識によるものなのか、にわかには判断しにくいところです。
次に取り上げる桑田佳祐のビデオ『東京』は、2002年6月に発表された曲です。フィーチャーされた歌い手、発表された時期が『季節が君だけを変える』とは異なっているだけでなく、いくつかの点でこのビデオ・クリップは『季節が君だけを変える』とは対照的です。ドキュメンタリー的な手法でコラージュ作品を作り上げていた『季節が君だけを変える』に対し、『東京』はドラマ仕立てで、一定のストーリー性を感じさせる作品です。女性に注目するならば、『季節が君だけを変える』では多数の無名の、そして現実の女性たちがカメラの前に立っていたのに対し、『東京』でカメラが追う女性は、女優・小島聖が演じるヒロインだけです。そして、ここでのヒロインの仕事は「夜」の世界と深く結びついた、ホステスなのです。
<ビデオ上映:『東京』通常版>
御覧になってお分かりのように、ストーリー性があるといっても、このビデオは桑田自身が演じるタクシー運転手を主人公に、彼の体験と空想、あるいは妄想が入り交じって展開されており、映像のどこか現実で、どこが妄想なのかは、にわかには判断がつかないように仕組まれています。
東京を知る人なら、背景に写し込まれたランドマークから、彼の運転するタクシーが、激しい雨の中を六本木辺りから首都高速道路を経由して、レインボーブリッジを渡った先の湾岸地区へ移動していったことは察せられます。これはとりあえず、現実であることを前提としましょう。客は二人。中年の男と、若い女。男の正体は分かりませんが途中で懐に拳銃が見え、刑事か、逆に悪漢であることが示唆されます。もちろん両方、つまり悪徳刑事かもしれません。女の方は、長い髪の水商売風で、ルーム・ミラー越しに、つまり運転手に対して、意味ありげに微笑んでみせたりします。
彼ら三人は、互いにどういう関係なのでしょうか?
ビデオでは、冒頭の車中のシーンのあと、ホステスとして働くヒロインが、仕事のあと厚化粧を落とした無邪気な笑顔を見せながら、運転手とささやかなプライベートを共有するくだりや、タクシー車中ではなくどこかの部屋の中で、件の中年男がヒロインをややサディスティックに性的に弄ぶシークエンスが挟まれます。
その直後、中年男の携帯電話の音で、運転手は我に返ります、つまり直前の、ヒロインとのささやかなプライベートの時間や、中年男がヒロインを弄ぶという展開は、彼が想起した記憶であれ、妄想であれ、現実そのものではありません。
その後、運転手が、仕事の後でしょうか、バーで飲んでいる店、そこはヒロインが働く店でもありますが、そこで桑田とバンドが歌っているシーンが挿入されます。このバンドの登場する場面の後、ヒロインが殺され、実はその犯人である男=悪徳刑事が、運転手に罪を着せるために工作し、運転手が殺人者として追い詰められるというシークエンスが展開します。運転手は、追い詰められ、遂には悪徳刑事によって頭に拳銃を突き付けられます。
しかし、現実に戻ると、客の中年男は不意に「このへんでいい」と言って、タクシーを止めさせます。
女にトランクを開けるように促された運転手は、車の後ろに回ってトランクを開け荷物をおろそうとしますが、不意に現れた女に拳銃で射殺されてしまいます。この辺り、実は判然としないところがいくつかあります。客の中年男が車を止めさせたのと、女がトランクを開けるように言うのは連続したカットであり、男が先に下車する場面は描かれていません。したがって、素直な印象としては、運転手が車の後ろに回ったときに、中年男はまだその場にいたはずです。しかし、運転手を射殺するのは、もともと拳銃を持っていた男ではなく、女の方です。あるいは彼女は、男の拳銃で、また彼の指示で、運転手を射殺したのかもしれません。日本の社会における銃器の普及状況を考えれば、そう判断するのが素直です。
実はこの『東京』には、テレビや音楽専門チャンネルでよく流されたバージョンとは別に「完全版」と称するやや長いバージョンがあります。通常版と完全版の違いはいろいろありますが、ここでの議論に関係して重要な点は二つあります。一つは、完全版には、曲が流れはじめる前にドラムスの音を背景にしたイントロ部分があり、その中ではタイトルや、登場人物の紹介などが文字で明記される、という点です。ここで、中尾彬演じる中年男は「刑事」であることが最初から明示されます。これは通常版にあった男のアイデンティティの曖昧さを消すものです。
<ビデオ上映:『東京』完全版、冒頭部分>
もう一つの違いは、もっと重要です。完全版では、男=刑事がタクシーを止めるよう指示した後の展開が、通常版とは全く違います。具体的に御覧いただきましょう。
<ビデオ上映:『東京』完全版、結末部分>
つまり、通常版の結末でいったん定まったはずの殺す/殺される関係が、ここでは逆転しています。
ほとんどの視聴者は、テレビなどで通常版は視聴していても、完全版は見ていません。DVDを購入してはじめて完全版を見た人が多いのだと思います。また、実際に市場に出ているDVDのビデオ・クリップ集では、冒頭に『東京』の通常版がおかれ、数曲のビデオ・クリップを挟んで、ボーナス・トラック扱いの内容を除けば最後に、『東京』の完全版がおかれています。通常版を見た上で、そのイメージを持って完全版を見る視聴者は、「自分が慕った女に殺される」という通常版のストーリー自体が、運転手の妄想であり、彼はその妄想ゆえに「自分が慕った女を殺す」という行為に至った、と了解することができるようになっているのです。
桑田の『東京』には、ヒロインを含め、女性はホステスしか登場しません。「夜の女」という日本語の言い回しが水商売の女性を指すことからも明らかなように、都市、夜、女性、とくればホステスとくるのが紋切り型(ステレオタイプ)になっています。現実の東京の夜をみれば、一般の販売員などから、ビル清掃、道路工事の誘導員に至るまで、ホステス以外の仕事で、夜間に、社会的に目に見える場所で働いている女性は多数います。しかし、『季節が君だけを変える』においても、キャバクラ嬢など、水商売の女性たちが「夜」の背景とともに登場し、その印象が卓越していたことからも明らかなように、現実はステレオタイプを覆すまでには至っていません。
主人公である運転手の視点から見れば、ヒロインは、化粧を落としたプライベートな場面におけるように愛くるしい存在であると同時に、中年男との絡みを妄想させる(あるいは妄想ではないかもしれない)妖艶な存在であり、「殺される」という思いを収斂させるような自分の存在をも脅かしかねない恐るべき存在なのです。これは、一般的に男性が女性に向ける視線のあり方として、社会的に構成された原形といってもよいかもしれません。
空間的移動に焦点を当て直せば、運転手のタクシーは、ヒロインが勤める店のシーンのように、多数の雑多な人々が居合わせる六本木のような盛り場の空間から、自動車と言う密室の移動空間を経て、他人の視線が希薄な場末(ここでは湾岸地区)へと走っていきます。雑多な人々が行き交う盛り場の舞台から離れて、自分だけ、自分たちだけの物語を紡ごうとする時、主人公たちは都市の中心から周縁へと、他者の視線が常に意識される舞台から、他者の視線を逃れた闇の中、あるいは「雨のベール」の彼方へ逃れようとするのかもしれません。
さて、シングル『東京』のカップリング曲は、『夏の日の少年』と『可愛いミーナ』です。つまり、シングルCDには3曲が収録されているわけです。冒頭の『東京』に続く『夏の日の少年』は、「鏡の真ん中に汚れた僕がいる」と始まり、「愛なき大人になるだけ」と歌われるやはり哀調を帯びたバラードです。『東京』ほどの重い印象はありませんが、『夏の日の少年』も桑田の作品としては感傷的な系列に属するものといえるでしょう。これに対し、『可愛いミーナ』は、清涼飲料のコマーシャルにも用いられ、当時大変よく耳にされた明るい曲調の作品です。しかし、歌詞を見るとこれも過去の夏の恋を思い出して、「涙 滲む...」という後ろ向きの内容の歌なのですが、「潮風」「海」「プールサイド」といったキーワードが持ち込まれ、桑田がこれまでに積み上げてきた多数のヒット曲にも通じる明るいイメージが盛り込まれています。
また、『夏の日の少年』から『可愛いミーナ』への移行部分は、こんな感じでつなげられています。
<CD:=シングル『東京』トラック3>
つまり、『東京』と『夏の日の少年』に感じられるある種の「重さ」を、ラジオ番組の一部という枠の中に位置付けてしまうことによって相対化し、一挙に雰囲気を転換して『可愛いミーナ』につなげる工夫がされているわけです。『可愛いミーナ』は、桑田の作品としては暗く重い作品である『東京』を、いわば解毒するために用意された、安心して聞ける桑田らしい曲として位置づけられているのです。
桑田の作品にとって、「海」への言及は頻繁に見られるモチーフであり、また数多くのヒット曲がそれを中心に展開されています。2001年7月に発表された『波乗りジョニー』も、こうした彼の作品によくありがちなモチーフをふんだんに持ち込んだ、彼らしい明るさに溢れた曲です。実際、ビデオ・クリップも、同様に分かりやすく爽快なもので、こんな感じで展開します。(時間の関係で全曲はおかけしませんが、御了解ください。)
<ビデオ上映:『波乗りジョニー』>(当日は時間の関係で上映を省略)
ご覧になって明らかなように、ここでは、波乗りができる「海」が日常の重荷からの解放の空間として位置付けられているのです。これは、彼個人名義や、彼がリーダーとなっているサザン・オールスターズ名義のヒット曲に通じる世界観であり、空間意識といってよいでしょう。これを桑田個人に引き付けて考えれば、東京の南の郊外であり、伝統的に最も身近な海浜リゾートであった湘南地方出身の桑田らしい空間意識、ということもできるかもしれませんが、これは、より広く社会的に共有されている空間のイメージであるようにも思われます。
翻って、ビデオ・クリップ作品『東京』を、通常版、完全版あわせて考えあわせると、この物語は、主人公である運転手が、都心から海へと向かい、湾岸地区まで行きながら、ついに「海」に達することはない、救いのない物語として構成されているといえるでしょう。少なくともこの作品における、ヒロインは、「夜」を象徴する存在として、幻想においても、現実においても、主人公の運転手が「海」に達することを許さない、盛り場の、あるいは都市空間の求心力を示しているように思われます。
『季節が君だけを変える』とは違って、『東京』はフィクションとして構成された作品です。そこに読み取られる都市空間のイメージも、ジェンダーを含む人々の社会的な役割に関するイメージも、紋切り型(ステレオタイプ)的な色彩が強く現れていると考えていいでしょう。一般的に、空間を移動していく存在として男性が意識される時、もちろんそこには権力関係が埋め込まれているわけですが、対置される女性は、その移動に対する負荷として、あるいは移動せず特定の場所なり、空間性に固着された者として、(少なくとも男性の視点からは)意識されることになりがちです。『東京』のヒロインは、東京という都市空間の中心部を占める盛り場に縛られ、同時にまた男を都市空間に縛り付ける存在として描かれています。同時に、もっぱらそのような存在として女性を位置づけていくことによって、現実に存在する水商売とは関係なく都市空間で働く女性、あるいは遊ぶ女性、さらには郊外の主婦たちを見えない存在にしていく力、愛くるしくも恐ろしい存在としての「女」以外は、世の中に女性が存在しないかのように錯覚させる力が働いていることは間違いありません。
ビデオ・クリップという多くの制約の下で密度の濃い表現が要求される表現形態においては、こうした紋切り型の図式が、比較的単純な形で動員されやすく、問題の構図があらわになりやすいのではないかと思います。
以上で、私の報告を終わりとさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
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