私的ページ:山田晴通

シドニー日記:2001年11月1日〜11月30日


 11月分の日記です。
 ここでは、山田の備忘録に掲出したときと内容はほぼ同じです。1ドルは、65円くらいです。
 このページへの転記に際し、原文の明らかな誤記は訂正しました。
■ 2001/11/01 (Thu)
フィッシュ・アンド・チップス万歳!
前夜は、新しい翻訳作業に取り掛かり、作業が順調に進んだわけでもないのだが、そのまま朝6時半頃まで起きていた。SBSでNHKニュースを見る。選挙制度改革の先送りのニュースには、相変らずだとうんざりする。
やがて娘が起きてきて、いつものようにテレビを見始める。
8時過ぎに、私の寝床で寝ていた息子を起こすが、息子は目と鼻の調子が悪いという。花粉症にちょっと似た感じだそうだ。とにかくいつものように起こし、こちらは限界になってきたので入れ替わりに寝床に入る。
目が覚めたのは10時半少し前。子供たちはもちろん、妻も大学へ実習に行ってしまったようで、誰もいない。シリアルに牛乳とメープルシロップをかけて朝食にしていると、電話が鳴り、出てみると息子だった。体調が悪いので、これから帰るという。昨日面談に行ったばかりなので、また問題が起きたのかとも心配したが、教師にもちゃんと体調が悪いと説明して1時間目だけ出て帰ると言ってきたというので、とにかく戻って来るように言う。
朝食後、学内学会誌(紀要)に投稿する翻訳原稿の仕上げ作業をする。
やがて息子が昼少し前に戻る。とりあえずベッドで休んでいる。
3時少し前に妻が帰宅。実習のあと、図書館のコンピュータ室でいろいろ作業をしていたらしい。妻に続いて娘も帰宅する。
やがて、妻はだいぶ疲れているようで、ベッドで資料を読みながら寝入ってしまった。
娘がバスルームのトイレを詰まらせてしまい、臭気で風呂にも入れない状態になっていることが判明。以前、配管工に教えてもらったように流そうとするが、効果は無い。確かに臭気がひどく、最初は吐きそうになった。娘にも手伝わせて直そうとするが、なかなか難航する。
5時過ぎになって、息子は起きているが体調が悪く、妻は疲れて寝ていて、娘はトイレの始末と、とても夕食を作る状況ではないし、外食に出る元気も無い。仕方なく、ノース・ライド・センターまで散歩がてらに歩いて行き、先日立ち寄った魚屋でディナーパック(数人分のフィッシュ・アンド・チップス)と、パーティーパック(フィッシュ・カクテル)を買う。37ドルほど。八百屋でバナナも買ったので、思ったより荷物の量が多くなってしまったが、帰りも歩いて6時半過ぎに帰宅。
ちょうど妻が、炒飯を作っているところだった。さっそく、温かいうちに食べようということになり、皆で魚を食べる。炒飯も出たので、とても食べきれないが、皆それぞれ満足した様子だった。
歩いて汗もかいたので、本当は風呂に入りたいところだが、バスルームはまだそんな状況ではない。引き続き娘に作業をさせる。
睡眠不足と満腹が重なって、8時台のうちに寝床に入ってしまう。
いろいろと調子が悪いことがあっても、美味しいものを食べて、満腹感を感じながらゆっくり眠れるというのは、本当に幸せなことだと思う。
■ 2001/11/02 (Fri)
息子を診療所に連れてゆく
夜中の2時半頃に目が覚めて、外のトイレに立つ。
妻がまだ起きていて、資料を読んでいる。娘はトイレの作業(数十分ごとに熱湯を便器に流す)をするためか、廊下に布団を持ってきて寝ている。バスルームの入口には娘の字で「キケンです」と張り紙がしてある。
バスルームのトイレの方は、詰まっているのは相変らずだが、それなりに汚物が流れて臭気は少しおさまっている。何とか風呂には入れそうだ。
そのまま起きてしまうことにして、夕食の残りのフィッシュ・アンド・チップスを食べる、冷めていてもけっこういける。妻は醤油をかけて、少しずつおやつにしていたようだ。
3時前に妻はベッドに行き、娘もその気配で起き、空気ベッドに移動して休む。
今日は金曜日なので、いつものように5時頃ゴミの回収車の音がして、その後は鳥の声が少々騒がしくなる。
ゆっくり翻訳作業をしているうちに5時半になって、SBSのNHKニュースを見る。7時頃娘が起きてきてテレビを見始める。8時になり、いつものように息子を起こす。しばらくして眠気が来たので、とりあえず風呂に入ることにしてバスタブに湯を張り、浸かりながらうとうと居眠り。その間に息子と娘が出かけ...たはずだったが、息子は目と鼻の調子が悪いといってバス停から引き返してきたようだ。バスタブの中から時間を尋ねると、9時をもう回っている。妻は、10時半に実習でシティまで行かなければならないのだが、息子が帰ってきたりしたこともあって出かける準備に手間取り、予定が狂ったようで、大慌てで9時半近くに出かけていった。
ベッドで寝ている息子を残して、545番バスで大学へ出かけ、大学の診療所で午後4時半の予約をとる。帰りは歩いてマコーリー・センターまで行き、飲み物などを買い、459番バスで戻る。
妻と遅めの昼食を一緒にとる約束をしていたので、正午近くになって家を出て、チャツウッドまで545番バスで行き、駅の周辺を少し歩いて探索した後、電車でタウン・ホール駅へ行く。先に待ち合わせ場所のQVB/ジェット・カフェに着いたので、シナモンのたっぷりかかったカプチノをゆっくり味わう。
やがて来た妻と、少し北へ歩いて、いつもバスで店の前を通過しているギリシア料理店アテネに入る。ほうれん草のパイ、生牡蠣、サラダなどをとり、45ドルほどだった。本格的。
食後、3時頃にバスでNSW教育庁の窓口まで行き、最近届いた娘の進学に関する資料について問い合わせをする。これはすぐに済んで、バスでQVBまで取って返し、288番バスが来たのでこれに乗り込む。普段ならレーン・コーヴで乗り継ぐところだが、4時半の診療所の予約があるので、そのまま小学校前まで行き、そこから歩いて帰宅。ちょうど4時になっていた。
娘も既に帰宅している。息子も起きていて、症状も治まっている様子だったので、すぐに息子と2人で出発。506番バスで大学へ行き、ちょうど4時半に診療所に到着した。息子は、妻の留学生保険の同伴家族になっているので、その証書を見せて手続きをし、しばし待合室のソファーで待つ。ようやく5時近くになって呼び入れられ診察。担当の女医さんは、普通の事務の人と変わらない普段着で、白衣も着ていない。基本的には細菌性の風邪で、抗生物質を与えず、症状を抑える薬を飲んで、自然治癒を待ったほうがよいだろうという診断だった。また、アレルギー症状を緩和する薬も教えてくれた。どちらも処方箋なしで買える物だそうだ。
こちらでは「病気っぽい(sicky)」という言い回しを「病気(sick)」と区別してよく使う。要するに仮病だ。親の目から見れば、まあ病気に近い仮病かと思っていたら、仮病に近い病気だったというところだ。
診察が終わって、さっそくマコーリー・センターまでバスで行き、ウールワースで食品、テルストラ・ショップの隣のロフト・ファーマシーで指示された薬を買う。実は一方の薬は指示されたものが無かったのだが、韓国人の薬剤師が、別のブランドの同じものを教えてくれたので、そちらを買う。この店は、5時半には閉店するので、店内に入った直後にシャッターを半ば下ろされてしまったのだが、帰り際に帽子をシャッターにぶつけてしまった。
帰宅後、妻と息子は夕食を作り始める。マグロを切るだけの刺身は、自分が用意する。娘は、例によって、テレビのシンプソンズを見ている。
夕食は、野菜スープと肉野菜炒め、それにマグロである。食後に出したマンゴーは、いまひとつ家族の評判が悪く、息子はレモン汁を掛けてそこそこ美味いと言っていたが、娘は手を出さず、妻は一口で放り出した。女性陣のデザートはチョコレート・アイスクリームである。
英文の電子メールを書くのに手間取ったりしているうちに11時半を回って rage の時間になり、ビデオをセットしてすぐに寝床に入る。妻はまだ資料を読んだりして起きているし、息子もまだ寝ていないようだ。
■ 2001/11/03(Sat)
再訪希望
このところ睡眠不足気味のせいか、昨夜は熟睡。いるもの金曜の夜は、rage の録画テープを途中で交換するために夜中に起きるのだが、起きられたのは4時過ぎになってからだった。すぐにテープだけ交換し、再度床に入ってまた熟睡。
次に起こされたのは、7時半頃より前のことで、土曜学校へ行く準備をする娘に声をかけられ、数分がかりで起床した。7時45分頃家を出て、予定通りのバスで北シドニーのヴィクトリア・クロスへ行き、カマリー方面行きのバスに乗り換えて土曜学校に着く。娘が教室へ行ったのを見届けてから、バスでウィンヤードまで戻り、駅のマクドナルドでひと休みする。この時間帯はインド系と思しき店員ばかりで切り盛りしているようだ。客の方にも、バックパッカーというより、ホームレスに近い感じの人がいたりする。
シドニー博物館へ行き、このところ読み込んでいる論文に出て来た「エッヂ・オヴ・ザ・トゥリー」というインスタレーションを鑑賞、受付でパンフレット類をもらってくる。ちょうど受付に、日本人の職員がいて、いろいろと教えてもらえたのがありがたかった。ここは、後日、家族連れででも来ることにしたい。
少し歩いて、旧税関ビルでやっている、都市交通関係の展示会を見に行く。シドニーは、20世紀の初めに多くの路面電車が走っていたが、古い地図などで、その様子を確かめるのはなかなか楽しい。ここも、期間中にもう一度来てみたい感じだ。
サーキュラー・キーの外れで、現在のサーキュラー・キーと植民地化初期のシドニー・コーヴを重ね合わせた地図のモザイクをゆっくり見る。前にも見たことはあるのだが、滞在中に少しずつ町の歴史などが理解できてきたせいか、以前見たときよりはるかに興味深く感じられた。
11時を回ったので、ウィンヤードまで徒歩で移動し、202番バスでカマリーまで戻った。
11時45分になって娘の授業が終わり、すぐに学校を出る。北シドニーまではよいのだが、ここで乗り換える290番バスが30分近く来ないのである。
とりあえず、やって来たバスに乗ってみると、クロウズ・ネストで左折したので、慌てて下車する。その角のピザ屋にテイクアウェイを注文し、焼き上がるのを待つ間に、近くのウールワースで飲み物を買う。10分ほどして、ピザ店に戻ると、既に注文は箱に入っていた。バス停で待っていると290番バスが来たので、これで帰宅。1時を少し過ぎていた。
帰宅後はさっそく、ピザなどで昼食を済ませる。S君一家が3時に遊びに来てくれることになっているので、いろいろ片づけなければならない。今日、妻は体調が悪いのだが、いろいろと作業を進めてゆく。
3時過ぎに来たS君一家としばらく雑談を楽しむ。4時過ぎに、アターモンの「ラーメン元気」へ出かけるS君に、前からこの店に行きたがっていた娘を連れて行ってもらう。
S君たちが出発した後、間もなく睡魔が襲ってきたので、風呂にお湯を張って浸かり、しばしうとうとする。その後、6時頃に娘が戻ってきた。
7時過ぎになり、娘以外の3人で、野菜スープなどの軽い夕食を済ませる。妻がずっとFMVでレポートに取り組んでいることもあって、思い立って大学図書館のコンピュータ室へ出かけることにする。そのまま10時頃までいて、マコーリー・センターまで歩いて移動し、ウールワースで食品類を買う。ぎりぎりで10時過ぎの290番バスに間に合い、帰宅。
今夜は、rage がへヴィ・メタルの特集なので録画しながらしっかり見ている。3時頃にテープを換えたら、後はゆっくり寝るだけだ。
■ 2001/11/04 (Sun)
フィジーの工業製品
久々にゆっくり寝坊する。起きたのは10時を大きく回ってから。娘は昨夜録画したバカバカしい子供ニンジャ映画「3 Ninjas Kick Back」を繰り返し見ている。この作品はかなりのゲテモノだ。
朝食はなしで、昼食は外食ということになったが、結局、妻は出かけないことになり、子供たちとイーストウッドのファゲに出かけることになる。
11時半頃に家を出て、545番バスでイーストウッドまで行き、いつものようにテジブルゴギ、スンドゥブ、キムチチゲをとる。ここの主人は、商売とはいえ実に愛想のよい人だ。
食事を済ませてから、駅の西口側に行き、散髪屋を探す。こちらに来てから、私はときどき自分で散髪しているのだが、息子は伸ばし放題に近く、けっこう長めの髪になっていた。さすがにうっとうしくなってきたのか、妻の説教が効いたのか、本人から床屋へ行くと言い出したのである。こちらでは散髪屋は競争が激しいのか、安いところは驚くほど安い。シティの下町だと、10ドル以下の店もよくある。とりあえず、ひとまわりしたのだが、今日は日曜日で、美容院風のやや高めの店しか開いていない、といっても洗髪込みで男性23ドルである。この中国人の店に息子を置いて、娘と一緒に水着を買いに行くことにする。
ところが、娘が途中の書店に引っかかり、ここでしばらく時間を潰す。結局、何も買わずに出てきてしまったが、娘はさっきの床屋に戻ると言い出した。息子がどんな頭になっているのか気になるらしい。戻ってみると、息子は既にばっさり刈り上げて、すっきりした短い髪になっている。あと十分くらいで終わるというので、店内で娘と一緒に待つことにする。娘は髪のカタログ代わりに置いてある日本のファッション誌を、こちらは中国語新聞の日曜付録版を漢文式に読んで(読んだつもりになって)時間を潰す。
ショッピング・センターの近くで水着などをたくさん置いている店があるのを見つけ、娘と入る。息子は店の前でベンチに腰掛けて待っている。結局、娘にSPEEDOの水着と上着などを、自分用に水着(というかサーフィン用のパンツ)を買う。100ドルほど。娘に買ったSPEEDOブランドの製品は、セパレーツの水着がオーストラリア製、ボード用と思しき上着がフィジー製だった。
娘に水着を買ってやったのは初めてだと思うのだが、自分の水着を買うのも随分久しぶりだ。宮古島に調査に行って、最初はその気が無かったのに海に入ることになったとき以来のような気がする。
当初は、シティまで買物に行くつもりだったのだが、買物の用が足りてしまったので、帰宅することにする。2時を少し回っていたが、バスは2時半頃なので、東口のバス停の前にある韓国人の経営するカフェでしばらく時間を潰す。
545番バスで帰宅。散髪してすっかり別人のようになった息子と、買ったばかりの水着とシャツを身につけた娘の写真をとる。
少しだけ翻訳をするが、眠たくなってしまったので、4時過ぎからしばらく眠る。2時間以上寝てしまった。
夕食は、息子が作った炒め物数品、ご飯と味噌汁。
食後は、また翻訳に取り組むが、いま取り組んでいる論文は、読み飛ばして理解することは出来るが、訳すとなるときっちり調べないとダメなところが多い。けっこうてこずりそうである。
娘はいつものように早く寝て、息子と妻も12時前後に相次いで寝た。こちらは、3時過ぎまで起きていた。
■ 2001/11/05 (Mon)
日記の短い日
今朝も寝坊気味で9時頃になってから起きる。子供たちはもう学校へ行っている。こちらも10時頃に家を出て、大学へ行く。久々にインターネット三昧である。ページの更新などもけっこうやったが、メールの送受信にそこそこ時間を使った。午後4時少し前に研究室を出て帰ることにする。途中で、地名調査室に立ち寄り、NSW州の地名委員会の事務所(バトハーストにある)のことなどを尋ねる。
歩いて、マコーリー・センターへ行き、ウールワースで買物をして506番バスで帰宅。
妻はずっと読書で一日過ごしたようだが、夕方からの授業(今日は出席自由)に出かけようとしたところ、ちょっとトラブルがあってそのまま帰って来たようだ。結局そのまま出かけないことになった。
夕食は、昨日の炒め物の炒め直しとトマト・スープを私が作り、ほうれん草を息子が茹でた。
どうもまた体調が下降気味なのか、10時前に床に就くが、熟睡した感じになれず、そのまま翌朝まで10時間近く床にいた。
■ 2001/11/06 (Tue)
大失敗の夕食
朝は8時頃に、娘が息子を起こそうとしている声で起きる。結局、また一騒動しながら、息子を起こす。息子と娘を送り出し、朝食代わりに、バナナなどを食べながらゆっくりお茶を飲む。起きてはいるもののぼんやりした感じだ。妻は資料を読んでいるので、FMVをしばらくいじる。午後から実習がある妻と、11時半少し前に家を出て、マコーリー・センターへ行き、昼食をとる。妻がレポートを書かなければいけないテーマについて、いろいろと話を聞く。
昼時が過ぎて、大学へ歩いて行き、妻と別れて研究室へ行く。昨日に引き続いて、ページの更新などをする。午後3時頃、体調が悪いので実習を途中で抜けてきたという妻が研究室に現れた。少し休んでから1人で帰宅させる。こちらも、程なく研究室を撤収して、NSW州の地名委員会の件で地名調査室に立ち寄る。
マコーリー・センターへ歩いて行き、夕食の食材を考えながらウールワースで買物。今日も506番バスで帰宅。
息子と妻は、妻のベッドで寝ている。娘は、またまたニンジャのビデオを繰り返し見ている。よっぽど気に入っているのだろう。日本の場面でなぜか韓国語のラップがかかるのだが、これはどういうつもりなのだろう。
夕食は、ご飯と味噌汁に、ポーク・ジンジャーを作ったのだが、これが家族の口には合わなかったようで、大失敗だった。
妻は体調が悪いこともあって、何も食べず、肉好きの娘もポーク・ジンジャーにケチャップを大量にかけて食べ、味噌汁のには手をつけず、ご飯にふりかけをこれまた大量にかけて食べていた。息子もあまり口には合わなかったようだ。妻と息子が二人とも調子が悪いと、食生活もレベルが落ちてしまう。とりあえず、ポーク・ジンジャーはなくなったが、味噌汁は数食かけて自分で食べてゆくしかない。
今日は、メルボルン・カップの日で、あちこちで盛り上がっていたようだったが、こちらは全然関心がなく、出走時間も何時だったのか気づかなかった。息子が行っているTAFEでは、午前中の授業の途中で授業を中断してみんなで中継を見たそうだ。これも文化を知ることの一端らしい。また、こちらではノミ行為を半ば公然化して行うことも(少なくともメルボルン・カップについては)よくあるようで、マコーリー大学の教職員の間でもけっこうやっていたようだ。それにしても、全クラスの授業を中断して、大スクリーンで全員に見せるとは。
12時前に床に就くが、夜中の2時頃に妻の声で眼が覚める。せっかく2時時間以上打ち込んでいた文書がフリーズして飛んでしまったのだ。可哀想だが、どうにもできない。そのまま中途半端に目がさえてしまい、トマト・スープをあたためてガーリック・ブレッドと一緒に食べる。妻は3時近くになって休んだが、こちらはそのまま朝までFMVで遊んでいる。
■ 2001/11/07 (Wed)
寿司はおいしい
未明に起きてそのまま眠れなくなり、ずっと起きていた。
SBSのNHKニュースでアフガン情勢などを見る。
娘が起きてきたので洗濯物を出させ、洗濯機を回すが、よく外を見ると昨夜からの雨がまだまだ続いている。結局、洗濯物は干せないままになってしまう。
7時40分ころに息子に声を掛けるが、その直後にこちらが急に眠たくなり、床に入って1時間ほど眠る。その間に子供たちは学校へ行ってしまう。
実習でシティまで行く妻と一緒に9時半頃に家を出て、290番バスでQVBへ行き、さらにバスを乗り継いでセントラル駅方面へ向かう。こちらは途中で先にバスを降りて、NSW教育庁の窓口へ行き、娘のIECへの入学申込書について記入方法などを確認する。
バスでウィンヤードまで戻り、電車でチャツウッドへ行く。チャツウッド高校内のIECに到着したのは11時過ぎだったが、あいにくIECを代表して署名できる人物が不在ということで、文書を預けて明日また来ることにする。
高校を出ると、雨が止んでいる、雲はまだ広がっていて、こちらでは珍しく青空は見えないが、風はそこそこある。妻とは、1時半にQVBで待ち合わせているのだが、まだ時間が2時間ほどあるので、いったん帰宅して洗濯物を干そうと思い立ち、534番バスで帰宅する。ところがまた雨が降り出し、結局洗濯物には手をつけなかった。メール・チェックなどをして、再度家を出る。
シティ行きのバスのタイミングが悪かったので、すぐに来た545番バスでチャツウッドへ行き、タウンホール駅まで電車で行く。この方法は昼の時間帯ならけっこう早い。待ち合わせはQVBのJETカフェだったが、タウンホール駅からの連絡通路からQVBの地下1階に入った電話のところで妻を見かけ声をかける。
遅い昼食をとりに、セント・レナーズのワサビまで行き、巻寿司にカフェラテという取り合わせで昼食にし、お土産にワサビ抜きの鉄火巻を作ってもらう。ここは安い店なので全部で18ドルだった。
290番バスで帰宅したのは3時15分頃。間もなく娘が帰ってくるはずだが、朝、娘に渡しそびれた学校へ渡す書類を持って、ノース・ライド・センターまでお使いに行く。たまたま506バスが来たので、これに飛び乗り、まず薬局で用を足してから小学校に行く。封筒を窓口に渡して出てくると、バス停に反対方向の506番バスが来ている。何とついているのだろうと思いながらバスに乗ると、男の子が話し掛けてきた。娘と同じESL(非英語話者のための英語)クラスに出ている韓国人のK君だった。彼のお母さんは、妻と同じ授業を受けている。
帰宅すると娘がもう戻っていた。レーン・コーヴのプールに行くことにして、準備をさせる。4時15分頃家を出て、レーン・コーヴまで行く。今日は天候のせいもあってか、そんなに混んでいない。回数券を買って入場したのが4時45分頃。ひとまわり中を見て周る。外のプールを別にすれば、簡単に目の届く範囲におさまっているのが分かったので、娘には外に出ないことを条件に勝手に遊ばせる。小さい部屋だがサウナもあり、泡風呂ならぬ泡プール(日本だったらぜったい風呂にしているだろう)もあり、しばらくはその辺りで時間を潰していた。そのまま、途中でおやつを食べたりしながら、6時40分頃まで過ごす。結局、競泳用のプールには入らなかったが、そこでも泳いでいる人はスピード別に3段階に別れているし、リハビリと思しくもっぱら歩いている人もいた。
着替えてから、レーン・コーブの「大樹」(店の前に『豪酒』の樽を積んでいる店)へ行き夕食をとる。店内は、日本人以外のお客さんもちらほらいるし、接待と思しき日本人ビジネスマンのグループもいる。ワインを飲んでいる人が多い。娘は天ぷらうどんとワサビ抜きの鉄火巻。こちらは上寿司をとり、全部で60ドルほどだった。娘があまり沢山食べず、早く帰りたがったので、残った寿司はテイクアウェイにして持ち帰る。レーン・コーヴでバスを待つが、ちょうどいいバスがしばらく来ないので、288番バスでマコーリー・センターまで行き、ウールワースで、娘が買いたがっていたピーナツ・バターなど、いろいろと買物をする。マコーリー・センターからのバスも運悪くすぐに来ないタイミングになってしまったので、久々にタクシーに乗る。料金はちょうど6ドルだったが、チップを上乗せして7ドル払う。結局、8時半少し過ぎの帰宅だった。
 妻と息子は適当に夕食を済ませていただが、持ち帰った寿司をつまみながらお茶にする。その後、少し翻訳作業をするが、翻訳そのものより、関連して拾い読みし始めた、Mabo判決、Wik判決の解説を理解しなければいけないので、かなり手間取る。
 結局、翻訳は途中で放り出し、風呂に浸かって11時過ぎに就寝。
■ 2001/11/08 (Thu)
安い寿司にも美味しいものもある
未明に一度起きるが、また寝る。8時頃に息子を起こし始めるが、いつものように難航。子供たちを送り出した後、妻と一緒に朝食を野菜ラーメンで済ませる。このところ天気があまりよくないが、今日は雲は厚いものの雨はほとんど降っていないので、洗濯をする。まず、昨日一度洗ったものを水洗いと脱水だけをして干し、次の分を洗い始める。ところが洗濯機が途中で止まってしまった。脱水ができないまま干すことにする。レンタルの洗濯機なので、レンタル家具屋に電話をすると、明日見に来てくれることになった。
洗濯やら何やら雑用をしているうちに、11時前になり、眠たくなってきたのでちょっと横になったのだが、そのまま熟睡してしまった。
目が覚めると、もう2時近くなっていて、妻は既に午後の実習のために大学へ出かけていない。
朝、娘に預けるのを忘れた書類を持って小学校まで歩いて行き、3時10分に授業の終わった娘と一緒に家に戻る。洗濯物はあらかた乾いていたので、娘に取り込むように言いつける。
ぎりぎりだが、4時に間にあうと思い、すぐまた家を出て、チャツウッド高校のIECに書類を取りに行こうとしたのだが、バス停に着く直前で545番バスが行ってしまった。次の545番を待っていては間に合わない。直後に来た290番バスでレーン・コーヴまで行き、パシフィック・ハイウェイを北上するバスをつかまえることにする。レーン・コーヴで下車して少し歩き、パシフィック・ハイウェイに面したバス停に行ったのだが、なかなかバスが来ない。来たと思うとスクール・バスだったりする。業を煮やして歩き始める。1キロちょっと歩いた感じのところで、4時になってしまう。IECの業務が終わる定刻である。そこへちょうどバスが来たのでグレート・ノーザン・ホテルの前でバスに乗る。ところがこのバスはチャツウッドの西口では止まらず、駅の近くをぐるっと回って東口へ着いた。慌てて下車して高校まで急ぐ。着いたのは4時20分過ぎだったが、既にIECは施錠されていた。
無駄足になったのが癪で、チャツウッドで買物をすることにして、駅まで戻る。東口のバス停の上に位置する駅ビル「インターチェンジ」の持ち帰り寿司屋で、アボガドとツナ(鮪)、アボガドとサーモン(鮭)、その他、安い巻寿司を15ドル分買う。
西口のバス停へ行き、545番バスを待つが、タイミングが悪くしばらく来ない。ふと降り返ると、10 Seconds Down という古レコード屋がある。初めて入る店なのでとりあえず、一番安いCDの棚(1枚5ドル、3枚10ドル、7枚20ドル、10枚25ドル)を漁ってみる。1940年代のオーストラリアの女性カントリー歌手のSP盤からの編集盤など、ジャケ買いも含めて10枚を買い込む。
時間を見て545番バスの停留所に戻るが、なぜかまたしばらくバスが来ない。534番バスが隣にいたので、こちらに乗る。
夕方のラッシュとあって、534番はエッピング・ロードへの合流のところで大渋滞になった。結局、1時間近くかかって6時ころに帰宅した。
息子に味噌汁を作らせて、買ってきた巻寿司を切って夕食にする。結構美味しいし、家族の評価も、値段よりずっと高かった。
今日も早めに休む。息子と妻は、それぞれやることがあるようで、まだ起きている。
■ 2001/11/09 (Fri)
東京の夜が懐かしい?
夢見が悪く、夜中に起きる。田無駅が未来になったような場所(田無タワーが見える、ただしなぜか京王線の駅なのだが)で学生たち?と一緒に高層ビルの1階にいるのだが、すぐ目の前を竜巻が通って行くのである。ビルは大丈夫だが、物が飛んできてガラスの窓が割れ、自分のいるフロアもパニックになる。奇妙にリアルで、本当に怖い夢だった。
8時頃に、例によって、娘に起こされて、息子を起こし始める。ここ数日の中では一番面倒だった。今日はプレゼンテーションのテストがあるので、潜在意識的に学校へ行きたくないのかもしれない。息子と娘を送り出す。今日は妻が家にいると言うので、レンタル家具屋への対応を頼んで、10時過ぎにチャツウッド高校のIECへ出かける。545番バスでチャツウッドへ行き、IECで書類を受け取る。電車でチャツウッド駅からセントラル駅へと行き、インフォメーションでカントリー・リンクのことをいろいろ尋ねる。切符の買い方に関する限り、イギリスに近いと考えてよいようだ。駅から歩いてNSW州教育庁の窓口へ行き、書類を受け取ってもらった。これで、後は連絡を待つばかりである。
帰りは、まずバスでタウン・ホールまで行き、ウールワース・メトロでフィルムを現像に出す。QVBまで行き、バスを待つが、290番バスがしばらく来ないので、レーン・コーヴ・ウェスト行きのバスに乗り込む。セント・レナーズで下車して、バス停の前のケバブの店でフィッシュ・アンド・チップスをテイクアウェイにする。少し食べようと思ったら、290番バスがきたので、手をつけずに乗り込む。家の近くのバス停で下車してから、まだ温かいうちにと思い、歩きながらフィッシュ・アンド・チップスを食べる。
帰宅したのは2時少し前だったが、既にレンタル家具屋が来て、帰った後だった。何でも故障は自然に直っていた?そうで、やることがなかったからというわけでもないだろうが、排水口の掃除などをしてくれたそうだ。
3時半頃、娘が学校から帰ってきた。留守番をさせて、妻と一緒に大学の図書館へ行く。506番バスで大学まで行き、図書館と書店生協を回って、用を足し、歩いてマコーリー・センターへ行く。ウールワースでたくさん食料品を買って、506番バスで帰宅。
夕食は、息子とそれぞれありあわせのものでおかずを作ることにし、こちらは魚(flake)のムニエルもどきなどを作る。
夜、テレビを見ていると、SBSで、東京でホステスをする白人女性を取り上げたカナダ制作のドキュメンタリー番組をやっていて、興味深く見入る。
11時半を少し回り、rage の録画を始め、まだ起きている妻と息子に、2時頃起こしてもらうように頼み、床に就く。
■ 2001/11/10 (Sat)
噂の「らーめん元気」
約束どおり、2時過ぎに妻に起こしてもらう。
入れ替わりに妻は休み、そのまま録画をしながら朝まで起きている。
土曜学校へ行く娘が起きてきたのは6時過ぎで、7チャンネルで戦隊ヒーローものを見始める。7時半頃、妻に声をかける。
最初は先週と同じように、娘と一緒に土曜学校までついてゆくはずだったのだが、娘が1人で行ってみたいというので、7時50分過ぎの290番バスに乗れるように、バス停までついて行き、見送る。
家に戻ると、妻が起きて支度をしている。今日は選挙の投票日だが、投票に来る人々を相手に、小学校の父母会が菓子類などを売って、学校の活動資金を得るのを、手伝いに行くのである。一緒に8時半頃家を出て、小学校まで歩いて行く。小学校の入口では、各党の運動員がチラシを配っている。妻は、持参したおにぎりをキャンティーン前のテーブルに並べ、キャンティーンの中で他のお母さんたちと作業を始めた。最初のうちは、すぐに帰るようなことを言っていたのだが、結局しばらくいることになったようなので、銀行の用事を済ませ、他のお母さんが持ってきた8ドルのチョコレート・ケーキを買って、先に帰ることにする。
娘の授業が終わる11時50分までに、土曜学校まで行かなければいけないので、10時50分過ぎの290番バスで北シドニーまで行くが、途中渋滞したため、当てにしていたバスより一本遅れて、ノースブリッジ行きのバスで、カマレーまで行く。
ちょうど子供たちが帰り始めたところだった。
娘と一緒にバスでノースブリッジの東京マートへ行く。改装したばかりで、まだ商品陳列も仮営業と言う感じだったが、いくつか買物をして、結構な重さになる。ここから歩いてアターマンまで行く。これは、直線コースでは家から大学までと大差がないが、けっこう深い谷を渡り、坂の多い道のりになる。昨日までとは打って変わった晴天で、陽射しは厳しいのだが、娘は帽子を持ってこなかった。途中から帽子を貸す。
12時50分頃、目的地の「らーめん元気」へ着く。驚いたことに、寂れた駅裏に、この店を目当てに来た人たちばかり、40人近くが店の前で待っている。日本人ではない様子の客も3割くらいいるだろうか。中で注文をしてから30分ほど待つということらしい。その間は、筋向いの日本語古書店を冷やかす。娘は店の漫画を読みふけっている。30分近くたって店内の席につき、注文した2杯のラーメンと餃子を食べる。なるほど美味しいが、正直なところこれほど評判なのはちょっと不思議だ。娘はチャーシューを食べてラーメンを少しすすっただけで、漫画を読もうとし、また抹茶アイスを注文しようとする。食べない物を頼まないように、と叱り付けて、仕方なく娘の残した分も箸をつけ、ほとんど2杯分近くラーメンと食べた。満腹である。駅のホームへ上がり、チャツウッドまで一駅分の切符を娘に買う。いよいよ電車が来たのだが、進めがカーディガンを店に忘れてきたと言い出した。結局、1本列車を遅らせ、店に取りに行かせる。チャツウッドでは、先日の巻寿司屋で少し寿司を買って、西口のバス停に戻り、カフェでコーヒーを飲みながらバスを待った。結局、534番バスで帰宅。
妻は結局、あの後昼近くまで小学校にいたらしい。息子は午前中は寝ていて午後から起きたようだ。ラーメンの満腹感と、暑い中を歩いた疲労感で、眠たくなり、昼寝をする。
起きたのは6時近くになってからだった。夕食は、買ってきた巻寿司と、息子が作っている野菜スープ、それにまたムニエルという、ありあわせで済ませる。
食後、しばらくは、パソコンをいじって遊んでいたのだが、10時近くになってから選挙の開票速報を見てみる。結果は与党連合の大勝利である。労働党は、過去50年で最低の結果だったそうだが、党首のビーズリーは、敗北宣言でも堂々と逆風の中でよく健闘したと演説していた。
12時過ぎからrageが始まり、最初は録画し損ねたが、今日は1980年代の今となっては懐かしいビデオがいろいろかかる。
■ 2001/11/11 (Sun)
新人類世代の現代美術
rage の録画をしながら、寝たり起きたりしていたが、4時過ぎには床に入って熟睡する。
9時近くになって、娘が起きてテレビを見ている気配で、目が覚める。妻も息子も、まだ寝ている。台所を少し片付け、洗濯機を回し、洗濯物干しを娘にさせる。
今日は、シドニー博物館に家族で出かけようと思っていたのだが、10時過ぎに妻と息子に声をかけた段階で、すぐには出かけられないことが明らかになったので、昼頃の出発にする。
結局、息子は一緒に出かけず、妻と娘と3人で11時40分ころに家を出て290番バスでシティへ向かう。バスをウィンヤードで降りてから、先にロックスへ行って食事をしようということになり、娘の希望で以前一度入った「ゲダイ・カフェ」に入り、昼食をとる。そのままマーケットをまわり、2時近くに現代美術館に入る。昨日から、1960年代以降生まれの若い日本の作家による現代美術を特集した「Neo Tokyo」という企画展が始まっている。入ってみると、作家のトークをやっているところだった。観衆の中に紛れて、出品者の1人である奈良美智(彼は1959年生まれ)がいた。ご本人はもちろん、作品も、初めて生で見ちゃった、という感じ。自分が話す順番ではないようで、リラックスした感じで観衆から少し離れていた。娘は結構面白がって展示を見たり、(分からないなりに)話を聞いていたりした。
現代美術館を出て、サーキュラー・キーを経由してシドニー博物館まで歩く。
思ったより展示スペースは限られているが、分かりやすいディスプレーが心がけられていて、教育目的で使いやすそうだという印象。企画展では、古地図(主に小縮尺)に見るオーストラリアの姿をいろいろみられて面白かった。
4時頃に博物館を出てから、だらだらとQVBまで歩いて戻る。妻と娘を290番バスに乗せて帰してから、シティバンクで用を足し、288番バスでマコーリー・センターまで戻る。ここで飲み物やアイスクリーム類などを買って帰ろうとしたのだが、ちょうどタイミングが悪く、しばらくバスが来ない。日曜日は本当にバスの本数が少ない。歩いて戻ることにして、荷物を詰めなおし、マコーリー・パークの事業所街を通って、帰宅する。途中、はじめて横断歩道のない8車線のところでエッピング・ロードを横断する。
帰宅後、夕食までしばし、風呂に入ったりしてリラックスする。夕食は息子が用意したスープや、味付け済みで買ってきたケバブ風味のチキンを焼いたものなどを食べる。
今日出かけている間に、息子がFMVを使っていたら、またキーボードがおかしくなったというので、いろいろいじってみるが、先月のトラブルと同じような感じだ。明日、またFUJITSUに持って行かなければならないが、先月もらった名刺が見当たらない。しばらく探すが結局出てこなかった。
12時頃まで起きていて眠たくなったので寝ようとしたのだが、思い立って再度風呂に入る。ところが、また風呂で寝てしまい、さすがに湯が冷めてきたので風呂から出たときには、妻も息子も既に寝ていた。
■ 2001/11/12 (Mon)
オー、ノー!
8時少し前に、いつものように娘に起こされ、息子を起こす。この連鎖反応のような起き方は、このところ平日の定番になっているようだ。息子は、今朝も結構抵抗した。子供たちが出かけたあと、10時頃に家を出て、まずマコーリー・センターまでバスで行く。銀行、郵便局、テルストラで用を足し、506番バスで大学まで行く。
技官のD氏に頼んでUSBキーボードを貸してもらい、FMVに接続して使ってみる。何とかなりそうだが、少々使いにくいのは仕方がない。
4時頃研究室を出て、FUJITSU AUSTRALIA へ、先月一度キャンセルしたキーボードの発注を再度してほしいと言いに行く。前回の話では、数日でキーボード取り寄せられるという話だったので、実際に出向くまでは気楽に考えていた。
ところがである。
最初に出て来た、前回対応してくれた技術者H氏の話では、シンガポールに問い合わせたところ、日本国内で販売しているモデルについては、海外では修理が出来ないという回答が来た、というのである。つまり、日本に本体を送り返して修理するしか手がないというのである。
そんなあ、あんまりだあああ。
毎日、家族みんなで使っている機械を、いつ戻って来るかも分からない状態で、大枚の金を支払って日本に修理に出すのは現実的ではない。少々慌てて、思わず「日本人で対応できるのはいないのか」と言ったところH氏は、とりあえず技術者が1人いるから呼んで来るといって奥へ入っていった。
呼ばれてやってきたのは、小柄なO氏。オーストラリアまで来て日本語でクレーム対応をしなければならないというのは、ある意味では気の毒だが、とにかく日本から部品だけを取り寄せることはできないかと食い下がる。国外で責任を持ってサポートできないなら、保証外で自己責任でやるから部品をよこせというのがこちらの言い分だ。もちろん、保証外で自己責任で中を開けて部品を取り替えるといっても、こちらにそれをやるのに必要な最低限の技術があるわけではないから、「無保証でかまわないので、部品が来たらここの技術者に交換をやってもらえないか」ともねじ込んだ。O氏は、そもそも日本からの部品調達が可能かどうか調べることを約束してくれた。しかし、O氏は同時に、「可能性としてキーボードではなく、マザーボードがおかしいのかもしれず、その場合はせっかくキーボードを取り寄せても症状は変わらず、取り寄せたものは無駄になるし、マザーボード交換はずっと大変だ(金額的にも技術的にも)」と心配げに説明する。こちらとしては最終的な判断は後でするから、部品調達の可否と、可能な場合の金額をできるだけ早くメールで知らせてくれと言って、帰宅した。
帰宅後、再度家を出て、娘と二人でマコーリー・センターまで歩いて行き、ウールワースでたくさん買物をする。レジの店員に「Quite a lot !」と言われる。
娘と二人でトロリーを押してバス停まで行き、バスの時間を見たが、もう7時近くバスがしばらく来ない。タクシーに乗って帰る。またチップ込みで7ドル払う。
 夕食は8時過ぎに、豚肉を焼き、トマト・スープを作って用意したのだが、妻と息子はそれぞれ疲れて寝ている。先に娘と2人で食べる。私は生姜風味が好みなのだが、前回作ったときに不評だったので、今回はあっさりした味付けになった。おかげで娘が2人前近く肉を食べる。妻は少し遅れて起きてきて食べたが、息子は結局そのまま10時過ぎまで私の寝床で寝ていた。
 夕食後に、USBキーボードをつないだ状態でのFMVの使い方を妻に説明した。その後しばらく妻はレポートの作成にFMVを使っていた。その間、こちらは iBook で少し仕事をしてから、ゆっくり風呂に入る。ここ数日、泡風呂になる入浴剤を使っているのだが、なかなか気持ちがよく、ついつい長湯をしてしまう。
 10時頃に妻はレポートを書き上げたようだが、このやり方のFMVでは使いにくいから、当分は別の手段を考えるという。二つのキー配列の異なるキーボードを、一方は半ば故障している状態で、もう一方は実際のキー配列と表示が食い違った状態で、両方使いながら入力するのだから、慣れるまでは苛つくことが多いのはやむを得ない。
10時少し過ぎに息子が起きてくるが、いっそもうしばらく寝ていろと言い聞かせて、自分のベッドで寝かせる。こちらもすぐに寝ることにする。
レポート課題の締め切りが近づいてきた妻は、皆が寝てから作業を進めていたようだ。
■ 2001/11/13 (Tue)
床に座る席もあるタイ料理店
今朝も娘に8時少し前に起こされ、息子を起こしにかかる。今朝の息子は頑強に抵抗するというより、のらりくらりしながら、絶対遅刻になる時刻のバスに乗ると最初から宣言し、支度を急いでしようとしない。いつもよりも更に遅く、8時45分頃にようやく出かけた。娘も兄が出かけるのを待っていたかのように、いつもよりゆっくりと出かける。それでも十分間に合うタイミングではあるが。
子供たちが出かけて、洗濯機を回し、パソコンで作業を始める。
妻は、前夜のうちから、レポートの課題を締め切り前だが今日中に済ませると宣言していた。未明まで作業をしていたらしく、9時過ぎまで寝ていたが声をかけて起こす。結局、妻は9時半頃に家を出て大学へ行った。
11時過ぎに妻から電話があった。図書館のコンピュータ室で作業を仕上げ、レポートを出してきたのだそうだ。こちらもメール発信が一区切りついたので、マコーリー・センターで待ち合わせる。バスでセンターまで行き、「シンプリー・ヌードル」で昼食にする。ここは中国の南の方からタイにかけての味つけのようだ。
昼食後、歩いて大学へ行き、学生食堂でコーヒーを飲む。学生同盟の準会員証が入っているはずのカード入れが昨日から見当たらなくなっており、今日のコーヒー代は割引きにできなかった。そのまま書店生協へ行く。こちらは何も買わなかったが、妻は好みの作家のペーパバックを1冊買った。
そのまま実習に行く妻と別れて、大学から288番バスに乗り、ノースライド・センターへ行く。L.J.Hooker で電気屋の手配を頼み、定期立ち入り点検の件について確認する。そのまま歩いて帰宅。既に3時近くになっている。
子供たちが戻ってきた後、少し遅れて6時少し前に妻が帰ってきた。今夜は小学校で定例の父母会(P&C)があるので、妻と一緒に出かけるつもりである。息子に、子供たちだけで何か自炊して夕食を済ませるよう指示し、6時過ぎに妻と出かける。マコーリー・センターで夕食をとろうと思って、センターまで行ったのだが、ふと思い立って、ノースライド・センターで夕食にしようという話になり、折りよくやって来た506番バスでノースライド・センターまで行く。
L.J.Hooker などの入っている長屋風の店舗の2階にある「プララム(PRARAM)」という店に初めて入ってみる。小奇麗で感じの良い店だ。揚げ餃子のようなもの、トムヤムクン、レッド・カレーに炒飯と飲み物で、40ドルほど。中心部の店より、少しだが割安感がある。タイ料理は娘が食べられるものが少ないのだが、ここなら子供たちも大丈夫そうだ。今度はみんなで来ようと思う。
妻は、レポートが終わったのと、教育実習スケジューリングに目処がついてきたようで、上機嫌である。
父母会は7時30分からだが、ゆっくり食事をしていたこともあって、8時過ぎに小学校の職員室に着いた。私は前回9月に出ている。妻も先週土曜日にキャンティーンのファンドレイジングで顔見知りになった人がいて、ほっとしていたようだ。
前回は10時過ぎまでかかった会だったが、今日は8時台のうちに終わった。
その場で、図書館への寄付20ドルを学校側に渡す。
歩いて帰宅。妻は早めに娘と寝室に入り、息子は12時近くまで起きていたものの、とにかく部屋に入らせる。
久々に一人だけ深夜に作業をすることになり、ビデオの整理などをしながら、4時過ぎまで起きていた。
■ 2001/11/14 (Wed)
偶然グリーブへ
朝は7時頃に眼が覚め、娘と一緒にテレビのアニメを見る。いつものように8時過ぎに息子を起こす。今日は、比較的素直に出かけた。その後、娘も出かけてゆく。妻も、今日は午前中から出かけるので早めに起きてくる。
論文翻訳の仕上げにかかっているものが1本あり、午前中は、もっぱらその作業を進める。
妻がスープとおかずの朝食を作ってくれる。
昨日、L.J.Hooker で手配を頼んだ電気修理工に電話を入れたところ、何と L.J.Hooker からの連絡が来ていないといういうではないか。とにかく後で電話を入れ直すことにする。
妻と雑談していて、昨日妻から預かった買ったばかりの服と本を入れた買物袋を無くしていることにようやく気付く。どこで無くしたかも全くおぼえていない。バスに乗っていた忘れたか、その後で立ち寄った L.J.Hooker の可能性がある。
さっそく、L.J.Hooker に電話をしたところ、いつも担当している男性の方のA氏が応対して、電話をすることを約束してくれた。買物袋のことも尋ねたのだが見当たらないという。
妻は、9時半頃家を出て、ローズヴィルに英語の個人教授を受けに行く。
しばらく翻訳作業を続けて、小1時間をおいてから電気工に電話すると、まだ L.J.Hooker から電話がないという。再度、L.J.Hooker に電話すると、今度は女性の方の担当者E嬢が応答し、電気工の件なのだがというと、こともなげに「Sorry, I forgot.」と言った上で、折り返し電話するという。その後すぐに電話があり、ようやく午後4時に電気工に来てもらうことになった。
昼頃まで、作業を進め、だいぶはかどった。解題の文章を書くのに結構苦労する。ずっと翻訳をしているせいか、自分の書く文章まで翻訳文体になってしまう。
11時頃に一区切りつけて、風呂に入り、洗濯機を回す。
12時近くなって妻から電話が入り、1時にQVBで待ち合わせる。洗濯物を干し、12時15分頃に家を出て、506番バスでちょうど1時頃QVBで妻と落ち合う。シドニー大学方面にでも行ってみようということになり、適当にジョージ・ストリートを南下するバスに乗ったのだが、このバスは途中で右折してグリーブ・ポイント・ロードに入る。ここは、古書店やカフェも多い、ボヘミアンな雰囲気の地区なのだが、しばらくそのまま乗って適当に見当をつけて降りてみる。
雰囲気のよさそうなインド料理店があり、入ろうとしたのだが、昼食はやっていないらしく、そのまま少し歩いて、中華料理の店に入る。食事の後、音楽専門の古書店「Da Capo」など、数店を冷やかす。それから、バス停の前のカフェに入りひと休み。
偶然やってきたグリーブだったが、それなりに街の雰囲気を楽しんでバスを乗り継いで帰宅する。QVBからは288番バスだったので、ノース・ライド・センターで下車し、いつものフィッシュ・アンド・チップスの店で、夕食のおかずにフィッシュ・カクテルを買う。歩いて戻ろうとしたら折り良く506番バスが来たので、飛び乗る。
家に戻ったのはちょうど4時頃だったが、電気工はまだ来ていない。娘は鍵を忘れて学校に行ったそうで、家の裏口の前でうずくまって待っていた。家に入ると間もなく電気工が到着、壊れたソケットを直してくれる。手間賃は50ドルということで、材料費、税金込みで、70ドルちょっとだった。
夕食前に再度翻訳の仕上げに取り掛かる。興が乗ったので、そのまま夕食中も作業を続ける。
11時頃になって眠気が来たので休む。
■ 2001/11/15 (Thu)
仕事を一つ上げる
朝は7時半頃に起き、8時過ぎに息子を起こす。今日も大しててこずらずに済んだ。
子供たちが出かけてから、論文翻訳の仕上げにかかり、午前中に全部作業を終える。整った翻訳原稿を、メールの添付書類で送信し、ほっとする。
午後から実習で大学へ行く妻と、一緒に昼食をマコーリー・センターで食べようということになりバス停まで行ったのだが、545番バスに乗り込もうとしたときに財布を忘れていることに気づく。妻だけをバスに乗せて出かけさせ、いったん戻り、財布を取って再度バス停へ行き、またきた545番バスでセンターへ行く。どこかで昼食をとっている妻を見つけようとしたのだが見つからず、バスで大学へ行き、図書館で論文のコピーなどをする。その後、歩いてセンターまで戻り、郵便局の用を済ませてからバスで帰宅する。
帰宅後、しばらくぼんやりとメールを書いたりしているうちに子供たちが帰ってくる。その後、眠気が来たのでしばし眠る。
6時近くなって妻が帰宅し、しばらくして息子と妻が夕食の準備を始める。炒飯と味噌汁である。鍋が空いたところで、牛肉を炒めてキッコーマンのテリヤキ・ソースで味付けたものを作ってみる。
妻は、授業を参観する実習があらかた終わり、いよいよ自分が授業をする実習が始まろうとしている。その準備で食後すぐから資料を集中して読んでいる。
8時を回っていたが、娘を連れて、買物に出る。歩いてマコーリー・センターまで行き、ウールワースで菓子類などを買う。帰りは545番バスで帰宅。
風呂に入って、10時からSBSテレビで放送される日本映画「ラヂオの時間」を録画しながら断続的に見る。最初は、妻の邪魔にならないように音を消して見ていたのだが、妻が勉強を切り上げたので、途中からは音量を上げて娘と3人で見る。その間にいつの間にか、息子は私の寝床で寝ている。
■ 2001/11/16 (Fri)
伯父の訃報
前夜から未明にかけて、息子に寝床を占領されていたこともあって、新しいウェブ・ページの作成作業でずっと起きていた。息子は4時前に一度起きて、自分のベッドへ移動したのだが、その頃はこちらが興に乗ってしまい、結局ふと気づくとSBSのNHKニュースも終わる6時になっている。7時頃。娘が起きてきて、いつものようにアニメを見始める。8時少し前から息子を起こしにかかるが、今日ものらりくらりと最初から遅いバスで遅刻してゆくという。今日は5週間のタームの区切りの最後の日なので、少々遅刻してもこのターム全体が合格か否かには関係ないというのが言い分である。結局息子は8時40分頃家を出て行き、続いて娘も学校へ出かけた。妻も先日とは別の英語の個人教授を受けにゴードンまで出かけるというので、早めに起きてきて出発準備をしていたのだが、娘が出かけた直後に弁当を忘れていることに妻が気づき、大慌てで走って追いかける羽目になった。
9時半頃、妻も出かけ、10時頃から本格的に自分の寝床で熟睡する。
起きたのは、午後1時半頃。しばらくしてから、家を出て、506番バスで大学へ行く。マコーリー・ディクショナリーの事務局へ行き、編集者のA女史としばらく話をする。
その後、マコーリー・センターまで歩いて戻り、買物をしようかと思ったのだが、途中で気が変わり、センターから506番バスで帰宅する。娘はもう帰っており、昨日録画した「ラヂオの時間」を笑いながら見ている。程なくして息子も戻り、無事に今期も進級できたという。何のかんのといって、それなりに結果を出しているのだから大したものだ。
5時頃、実家から電話が入り、伯父が亡くなったことを知らされる。子供の頃から、随分可愛がってもらった伯父だったので、帰国できないことが残念でならない。
5時をだいぶ回ってから、娘と2人でレーン・コーヴのプールまで出かけるために家を出る。交差点でゴードンから戻ってきた妻とすれ違う。
レーン・コーヴのプールでは、サウナに入り、久々に泳いでみる(前回は水に浸かっているだけだった)。私は元々カナヅチで、中学の頃に(海の家のおかげで)何とか海で泳げるようになったものの、水泳はかなり苦手だ。クロールはできず、もっぱら平泳ぎである。それでも何とか25メートルを久々に泳げて、ほっとする。
プールを7時半頃に出て、レーン・コーヴの「大樹(TAIKI)」に行く。ここで、少し後から来た妻と息子も一緒に夕食をとる。息子の進級祝いという名目である。妻自身も、授業とレポート作成が一段落し、実習が授業参観から、いよいよ授業担当に切り替わる節目の段階に差し掛かっている。もちろん、これからは授業準備などで大変なのだが、とりあえずここまで良く頑張ったものだ。こちらも、労をねぎらうという感じである。結局、4人で134ドルの食事だったが、今日は妻のおごりになる。
帰宅後、しばらくして一度仮眠し、夜中に息子に起こしてもらい、rage を録画しながら見始める。
■ 2001/11/17 (Sat)
博物館から古本屋へ
いつものように rage を見ながら未明まで起きていたが、5時過ぎに床に着く。起きたのは10時過ぎで、既に娘は土曜学校に行っており、息子が学校の友達と遊びに行くため家を出るところだった。妻ももうすぐ大学で行われる講演会に出かけるという。娘の土曜学校まで迎えに行かなければならないので、すぐに支度をして、10時40分頃に家を出て290番バスと207番バスを乗り継いでカマレーまで行く。先日と違い、北シドニー(ヴィクトリア・クロス)での乗換えがスムーズだったので、授業の終わる少し前に到着した。出て来た娘を見て、キックボードを持ち出していたことが分かる。全く困ったものだ。娘が土曜学校に行く理由の一つは、図書貸し出しで借りられる漫画で、今日もドクター・スランプを借りてきている。
家に帰っても皆出かけているので、シティで昼食をとることにして、バスでウィンヤードまで行き、そこから歩いて、娘が気に入っている回転寿司屋「アーク・キング・スシ・トレイン」に久々に入る。28ドル。
歩いてQVBまで行き、そこからバスでどこかに行こうと思っていたら、ジョージ・ストリート側のバス停の近くで向こうから来る息子を発見した。向こうも驚いていたが、学校の仲間で一緒に昼食をとった後、先に帰ってきたらしい。一緒に旧税関の展示を見に行くことにして、バスでサーキュラー・キーへ行く。先日一度来たシドニーの都市計画の展示だが、前回ゆっくり見られなかったところを中心にじっくり見直す。戦時中のガソリン不足の時期に、日本のJAFに相当するNRMAがロード・サービスに使っていた自転車(買物カゴの位置がガソリン・タンクになっている)などという珍しいものも展示されていた。

「Edge of the Trees」
歩いて先週も来たシドニー博物館へ行く。目的は入口前の「Edge of the Trees」の写真を撮ることだったが、息子は先週来ていなかったので入ってみることにする。入館した時点で2時を少し回っていたのだが、2時半からホールで、例のフランク・ハーレー(Frank Hurley)が撮影した南極探検の映画を上映するというので、入ってみる。お客さんは大半が退職者然としたお年寄りだ。1914-16年と、1921年の、いずれも失敗した Sir Ernest Shackleton の南極探検の記録フィルムに、後から当時の船長の解説をつけ、1950年代に編集したというフィルムで、なかなか興味深かった。とはいえ、さすがに英語をずっと聞くのは疲れる。寝不足もたたって、途中で少しうとうとしてしまった。

ミッチェル・ウィング正面

扉の装飾(部分)
映画が終わって博物館を出て、少しだけ植物園の中を横切り、州立図書館のミッチェル・ウィングの正面玄関を見に行く。ここのドアの装飾を写真に撮るのが目的だ。結局そこからハイド・パーク経由でだらだら歩き、タウン・ホールまで戻った。もう4時半近いが、思い立って息子にグリーブの音楽専門の古書店「Da Capo」を見せておこうと思い、431番バスでグリーブまで行く。5時少し前に着いたのだが、6時まで営業しているということで、レファレンス資料的なものなどを中心に170ドル近く買物をする。
5時半頃、またバスでセントラル駅まで戻り、月曜日の切符のことを質問して、家に電話を入れる。妻と7時半にQVBで待ち合わせることになり、その前に、駅の反対側にある、これも娘のお気に入りのピザ屋「ロミーナ」に行く。店主はいなかったが、いつものようにファミリー・サイズのマルゲリ―タ・ピザを注文し、3人で平らげる。店を出て駅まで戻る途中で、急にトイレに入りたくなり、子供たちをバス停で待たせて、以前泊ったことがあるイグジビジョン・ホテルに飛び込む。ついでにクリスマス時期の空き部屋のことを聞いてみる。
地下通路を通って、セントラル駅の表口に戻る。途中でニール・ヤングの歌を歌ってバスキングしているアボリジニ系と思しき男性を見かけ、コインを投じる。
バスでQVBへ着いたのは、ちょうど約束の時刻だったが、妻は結局30分近く遅れてきた。週末はバスの本数が少ないので、一つ間違えるとこうなってしまうが、まあ仕方がない。
少し歩いてピット・ストリートのモールのカフェで食事をする。昨日に続いて、妻のおごりである。QVBに戻ったのは9時頃だったが、結局9時40分まで待って290番バスに乗り帰宅。
息子が起きている様子だったので、数時間おきに起こしてもらい、rage の断続的な録画をしながら、眠る。
■ 2001/11/18 (Sun)
満腹で昼寝
rage を録画しながら5時過ぎまでテレビの前にいたが、外は嵐という感じで風の音が凄いし、雨や雷の音も時々する。それから床に入ったのだが、ごく短い時間で夢を見るくらい寝て、また6時頃に目が覚める。この週末に録画したビデオの整理をひと通りする。やがて娘が起きてきて、また「ラヂオの時間」を見はじめる。そのまま洗濯をしたり、部屋の掃除をしたりしているうちに時間が経つ。
ブランチは、結局お昼近くに妻がラザニヤを焼く。息子はそれでは足りなかったのか、スパゲティを作り始める。こちらは娘が手をつけなかった分も食べて、満腹で気持ちよく昼寝してしまう。昼寝から起きたのは午後3時過ぎ。この間に妻と娘はマコーリー・センターで、流し台用の皿立てや、娘の衣類などを買ってきていた。自分の寝室にある荷物を動かして、しばらく埃がたまっていたあたりを掃除する。
4時をまわって、娘に洗濯物を取り込ませ、マコーリー・センターまで1人で歩いて行く。ビッグWで地図帳や地名案内などを買う。6時頃に545番バスで帰宅し、それから夕食に出かけようとしたのだが、ちょうどいい時間のバスが無く、いったんはバス停まで全員で出かけたものの、そのまま家に戻ってしまった。そのまま息子と夕食を作りはじめ、肉と魚の残りでおかずを作る。
■ 2001/11/19 (Mon)
ブルー・マウンテンズを越えて、バトハーストへ
朝はぐうたらと遅く起きる。娘が学校に出かけるときには寝床から声をかけたが、最終的に床から起きあがったのは9時を回っていた。息子を起こして支度をはじめさせ、自分はシャワーを浴びる。今日も天気はすぐれず、雨がぱらついたりしている。
11時過ぎに、2人で家を出て、まず大学まで506番バスで向かう。研究室で、iBook を使い、しばしインターネットをする。12時過ぎに、研究室を出て、545番バスでパラマタへ行き、バトハースト間での切符を手配する。1時間あまり時間があったので、ウェストフィールドのショッピング・センターに入り、「ブラックフォーレスト・カフェ」で昼食にパスタを食べる。2人で30ドルほど。

カトリックの大聖堂

パーク・ホテル
2時55分の列車で、ブルーマウンテンズを越え、終点のリスゴウまで行く。途中のカトゥンバの辺りでは、すっかり眠っていた。リスゴウ到着は5時5分頃。ここでパークまで行くバスに乗り継ぎ、1時間ほどでバトハーストの駅前に着いた。ここからかつては景気がよかっただろうに今は寂れている、という雰囲気の緩い坂になっている通りを上り、カトリックの大聖堂(実は大して大きくない)まで行き、そこから右折して、現在の町の中心部と思しき一帯を見て回り、宿を探す。いくつかホテルという看板がある場所を見て回り、中華料理屋が数軒集まっている一角に見当をつけてホテルに入ってみたが、ここは宿泊はやっていないと言われる。そこで、泊まれるところを教えてくれと尋ねると、2つ先の角にあるパーク・ホテルを教えてくれた。さっそく行ってみると、幸い空き部屋があり。1泊が66ドル(1人でも2人でも同じ料金)だった。8号室に入る。地図で確認すると。ここは鉄道駅前からの道をまっすぐ来た位置になる。
7時過ぎに部屋を出て、中心部の一番活気のある一角のギリシア料理店「アクロポール」で夕食。グリーク・サラダに、ギリシア風のグラタン、揚げ物などをとる。食べきれないほどの量が来た。残した揚げ物は持ち帰り、さらにケーキと紅茶をとる。全部で60ドルだったが、それ以上の価値があった。チップも含めて65ドル置いてくる。
部屋に戻り、テレビを付けるとマイケル・ジャクソンの30周年記念ライブをやっていて、しばし見て楽しむ。かぶりつきにエリザベス・テーラーと思しき女性がいて、驚かされる。
息子は0時過ぎに寝たが、こちらはもう少し起きて、テレビを見たり、ページ更新の準備作業をしたりする。
■ 2001/11/20 (Tue)
久々にカトゥンバに泊まる
昨夜は部屋の電気やテレビを消さないまま寝てしまったのだが、未明に息子が一度起きたらしく、朝7時過ぎに目が覚めたときにはそれぞれスイッチが消されていた。南向きの部屋と思っていたのだが、実際には南南東向きの部屋だったようで、8時近くに雲が切れたときには、朝日がまともに差し込んで来た。昨夜、朝食のことを確認されたときに、最も遅い時間帯の8時15分から30分を選んだのだが、息子はなかなかベッドから抜け出せず、時間ぎりぎりになってようやくベッドから出てダイニング・ルームに下りていった。

土地情報センター(前景)

土地情報センター内
朝食を済ませ、9時20分頃にチェックアウトし、息子と一緒にカトリック教会(大聖堂)まで行き、そこで分かれて、歩いて訪問先のニュー・サウス・ウェールズ州地名委員会事務局がある、土地情報センターへと向かう。市街地の東の外れに位置する土地情報センターは、マウント・パノラマのレース・コースへ行く途中にある。約束の10時より、少し早めに到着し、玄関から入ってみると、なんと電光掲示のサイン・ボードに私の名前と歓迎のメッセージが掲げてある。驚くやら恥ずかしいやら、少々とまどいながら受付で名前をいい、メールで連絡を取っていたW氏に出てきたもらう。さっそく、W氏とその上司のH氏を交え、会議室でコーヒーを飲みながら、地名委員会の機能や最近の二重地名政策についていろいろと話をしてもらう。11時頃になり、W氏のオフィスに移動し、さらに実際の地図を見ながら説明を受け、インターネットのドメイン名における地名の扱いなどについても話が及んだ。昼時になり、職員食堂でフィッシュ・アンド・チップスの昼食を一緒にとりながら、さらにいろいろと話をし、資料ももらい、最後は車でバトハーストを一回り見せてもらった。町から数分離れると、放牧地の広がる田園である。帰りは、普段は公道になっているマウント・パノラマのレース・コースを一回りし、2時に息子と待ち合わせていた自動車レース博物館まで送ってもらった。すっかりお世話になってしまったW氏の好意にただただ感謝するのみである。
自動車レース博物館は、博物館といっても小さい資料館といったところで、息子はショップの脇のコーナーでコーヒーを飲みながら待っていた。早速入場料を払い、ちょっとした体育館ほどのスペースに並べられたレーシング・カーやバイクを一回り見てから、土産物を買い、バスの時間に合わせて15分ほどで外へ出た。バスで駅まで行き、カトゥンバ行きのチケットを買う。理由は分からないのだが、直行の電車で行くより、リスゴウまでバスで戻った方が少しやすくなると言う話だったので、バスと電車の乗り継ぎにする。シドニーからここまでの料金をシドニーで聞いたときには、どっちの経路でも同額といわれたのだが????
チケットを買い、バスが来るまで2時間半あったので、中心部まで戻り、カフェで紅茶とケーキをとる。たまたま店内であまり上手とは言えない油絵を売っていたのだが、値段をみると、日本の感覚では額縁代だけという感じだ。もちろん買う気はないのだが、額縁込みの値段かと思わず店員に質問してしまった。ここではハミングバード・ケーキという、ハーブやジンジャーが練り込まれたケーキを食べたのだが、これがなかなか美味しかった。
残りの時間が少なくなってから、店を出て、近くのゴーローという安売り店でキャップを買い、さらにショッピング・センターのウールワースで飲み物などを買ってから、駅へ向かう。
定刻より少しだけ遅れて5時半頃来たバスでリスゴウへ向かい、そこでシドニー方面行きに乗り継ぐ。カトゥンバに着いたのは7時半を少し回った頃で、気温も結構下がっているのか、駅に降り立ったとたん、寒さを感じた。以前泊まったセシル・ゲストハウスに行きチェック・インする。ユニットのトイレとシャワーだけだが一応インバスになっている15号室に入る。95ドル。クリスマスに予約を入れている3人部屋3室も下見をさせてもらう。
夕食は、カフェズッパで、息子はスモーク・サーモンとクリーム・ソースののフェットチーネ、私はエビの天ぷら(Tempura Battered Prawn with Rice and Salad)を取る。日本風とは言い難い料理だったが、それはそれでおもしろい味になっていた。店内では、9月11日とジョン・レノンをテーマとした写真の展示をやっていた。
宿に戻ると、ラウンジで男性の客がテレビでサッカーの試合を見ている。今夜の客は、我々と彼だけか、他にいるとしてもせいぜい1組くらいのようだ。
もう夏のはずだが、今夜は部屋にヒーターが入っている。廊下のヒーターの前では、白猫がのびのび寝ている。
■ 2001/11/21 (Wed)
谷歩き
宿のベッドが少々固かったせいか、背中が痛くて朝7時半頃目が覚めた。息子に一声掛けるが、どうもすんなりとは起こせないようだ。部屋のユニット・バスでシャワーを浴びる。
8時になって息子を起こし、ダイニングへ降りていったのだが、まだドアが閉まっている。上の階に戻って、少し時間を潰す。息子は、ビリヤードを突いている。もちろん出たら目なのだが、5月に来たとき娘がやはりしきりにやっていたのを思い出した。
9時15分頃、再度降りてゆき、朝食をとる。ここの朝食はフルーツやジュース類が豊富なのが贅沢な感じで楽しい。食後は部屋に戻り、荷物を預けられるようにまとめ直す。宿に置いてゆく荷物を預け、10時に出発。まず、エコー・ポイントに向かう。今日は、空には雲が多いが、谷には霧は出ていない。
エコー・ポイントの眺望を楽しんでから、売店で手袋を買い、さっそく巨大階段(Giant Stairway)へ向かう。最初の10メートルほどを降りたスリー・シスターズのところで、南オーストラリア州からきたという年配の女性に「降りてゆくのか?」と声をかけられる。ここまでは前回も来たところで、実際、ここでエコー・ポイントへ引き返す人も多い。「もちろん」というと、「自分も降りるから一緒に行く」という。そこで、少しずつ先に降り、途中で待つというのを、何度か繰り返した。この階段はおよそ900段あるそうだが、事前に覚悟したほどではなく、降りきってほっとするやら、少々拍子抜けしたやらであった。階段を降りきったところで、この女性と別れ、息子を先に立たせて歴史のある山道を進む。ちょうど崖錐の頂頭部近くを、あまり上下しないで進む道で、面白みにはやや欠けるが、なかなか快適だった。途中で、あるいは崖上の展望台を見上げ、あるいは遠望する大峡谷の眺望を楽しみながら、やがて瀧の下に出た。反対側からけっこう人が来るのだが、これは、その先のケーブル・カーやロープ・ウェイで降りて来た人たちである。瀧のところで、日本人の青年に声をかけられ、彼とその彼女と思しき白人女性の姿を入れて、カメラのシャッターを押してあげる。
そのまま進んでケーブルカー駅にたどり着き、更に進んで石炭の廃坑の前を通って、ローブウェイの駅までたどり着いた。片道5ドルで崖の上まで戻る。
日本の山とは逆に、この辺りでは、町のある比較的平坦な場所の方が標高1000メートルくらいのところにあって、自然の森のほうが崖下にある。何だか奇妙な感じだ。ロープウェイの乗り場から徒歩でカトゥンバの駅まで戻る。1時を少し回っていた。
2時半頃の列車に乗ることにして、まず駅前の古書店に入り、それからカトゥンバで一番格式の高いキャリントン・ホテル(創業は1880年代)に入り、天井の高い広いダイニングを息子と二人で占領して?昼食をとる。イカとエビを塩辛く味付けてフライにしたものとにんじんのサラダ風なものが皿を取ったのだが、ちょっとタイ風な味つけだった。35ドルちょっとだったので、40ドルを払う。
食事を済ませて、ザ・セシルに戻り、荷物を回収して駅へ向かう。途中で地元の週刊新聞に立ち寄り、新聞を買う。
2時36分の列車に乗り込み、そのまま車中でうとうとし、4時過ぎに到着したパラマタで下車する。家に電話を入れて、妻と娘に、当初の予定通り6時にイーストウッドで落ち合うことにする。新しくできたリバーバンクのフード・コートでコーヒーを飲み、息子をそこでしばらく待たせてその間に駅まで戻って新しいトラベル・パスを買う。5時15分過ぎにきた550番バスに乗る。このルートは545番より寄り道が少なく、少しだけだが進むのが早く、イーストウッドに到着したのは5時40分頃だった。
いつもの「ファゲ」に入り、とりあえずトッポギを頼んでつついていると、ちょうど6時に妻と娘がやって来た。ブルゴギ、キムチチゲ、テンジャンチゲ、海鮮お好み焼き?などをとる。勘定は60ドルくらいのはずだったが、亭主は50ドルでいいという。毎週来ている上客だからサービスしてくれたのだろう。そういえば、ほんの少しとはいえ、パンシクにカルビが出て来るなんて普通は無いことだ。545番バスで7時過ぎに帰宅。
旅行中の領収書の整理やメール・チェックしているうちにあっという間に時間が経つ。
旅行中はシャワーだったので、ゆっくり風呂桶に浸かる。
昨日寒かったのは標高のせいだと思っていたのだが、今夜も結構寒い。寒がりの妻はエアコンの暖房を入れて少しでも暖かくしようとしていたが、あまり効かないのであきらめて寝てしまった。
更に起きてパソコンをいじっているうちに、夜中の3時を回る。
■ 2001/11/22 (Thu)
筋肉痛の日
前夜から起きていて3時過ぎに風呂に浸かり、それから寝ようとしたのだが、寝床を見ると毛布だけで掛け布団がない。このところ夜は結構寒いのだが、留守中に娘が自分で使うために持っていったままになっているようだ。この時間に娘と妻の寝室に入ってゆくわけにもゆかず、毛布一枚で寝ようとしたのだが、やはり寝付けない。そのまま起きてインターネットをつないで遊んでいた。
そんなわけで、5時半過ぎからSBSのNHKニュースを見る。相変らずアフガニスタン情勢の話が中心だ。イチローのMVPのニュースで各界のコメントの最初が小泉首相だったのには少々あきれる。
7時頃、娘がテレビを見に起きてくる。8時になり、息子に声をかけるが、こちらの方が眠くなり、起こしきらないうちに自分の部屋で毛布に包まり眠る。途中で妻が起きて布団をかけてくれたようで、その後はぬくぬくとしながら熟睡する。後で聞いたところでは、息子は結局遅刻したらしい。
12時少し前に目が覚めたが、当然誰もいない。洗濯物は、ここ数日の天気でたまっていたものを妻が一挙にやったようで、物干しにいっぱいの洗濯物が干されている。
昨夜の韓国料理の残りを温めて昼食をとり、食後に少し台所を片付ける。体中とまではゆかないが、膝上の筋肉が相当に痛い。昨日歩いた時には、大してハードには感じなかったのだが、やはり身体は正直である。まあ年齢のせいもあるのだろうが、何より鍛えていないせいである。リラックスしようと思い、また風呂に浸かる。
結局、ぼんやりしているうちに2時になり、パソコンを担いで大学へ出かけることにする。506番バスで大学へ行き、5時に技官のD氏に声をかけられるまでネット・サーフィンとページの更新をやる。
帰りに、脚の筋肉痛をこらえながら、歩いてマコーリー・センターへ行き、ウールワースで食品類を買い、6時少し前に帰宅。たまたま交差点で妻が帰ってきたのを見かけたが、気づかれず、僅かな差でこちらが遅く帰った。子供たちが洗濯物を取り込んでいなかったので、妻はさっそく取り込みを始める。しかし、程なくして、妻は買物があるといって、1人でマコーリー・センターまで出かけた。今夜から寝具を入れ替えることになっているので、妻が出かけている間に、子供たちとベッド類を動かした。息子が使っていたシングル・ベッドが娘用になり、息子は私の使っていたキャンプ用の空気マットで寝ることになる。
私は、娘が寝ていた、大きな空気ベッドで寝るのだが、部屋においてみるとそれで床の大部分が覆われてしまう感じだ。
夕食は、私が残り物で炒飯を作り、息子がスパゲティを作った。途中で妻が戻ったので、そこからの食事の準備は妻と息子に任せる。食後、娘の勉強につきあう。
娘はもちろん、妻も息子も早めに部屋に入ってしまったので、こちらも12時頃には寝る。
■ 2001/11/23 (Fri)
車中の香水
8時少し前に、娘が見ているテレビの音などで目が覚める。息子を起こすのだが、先週までのベッドではなく、床に空気マットで寝ているので、少々勝手が違う。それでも何とか起こし、学校に行かせる。まだ眠くて仕方ないので、再度寝床に戻る。
再度目が覚めると、もう10時である。子供たちはもちろん、妻も出かけていない。適当に食事を作り、しばらくテレビをぼんやり見る。インターネットをつないだのだが、大学のサーバと上手くつながらない。最初はこちらの不調かと心配したが、ホームページもアクセスできなかったので、そうではなかったようだ。
前からいつか出かけようと考えていたカスーラへでも行こうと思い、ストラスフィールド行きの459番バスの時間を時刻表で確かめてから2時少し前に家を出てバス停へ行く。ところが、20分ほど待ってもバスが来ない。いっそシティに出かけようかと思い、腰を上げてストラスフィールド行きのバス停から、シティ行きのバス停まで移動しようと交差点まで歩いて行くと、向こう側で妻が手を振っている。午前中、英会話の個人教授を受けにゴードンまで行っていたようだ。一緒に家に戻り、遅い昼食のつもりで買ったというシンガポール・ヌードル(焼きそば風のビーフン)を食べる。
結局出かけないことにして、しばらく妻と雑談。
やがて子供たちが帰ってきたが、しばし、妻のベッドで仮眠。6時少し前に起きたところ、夕食のことをどうしようかという話になり、マコーリー・センターまで買物に行くことにする。6時過ぎに出かけて、8時少し前に戻った。
往復ともたまたま292番バスだったのだが、帰りのバスで、印象に残ることがあった。
この帰りのバスをマコーリー・センターで待っているときから、少々挙動不審の、50代くらいの女性(あるいは女装の男性?)が煙草をすいながらバス停にいるのが目に付いた。遠目にも、服装が少し変なので気になったのだが、バスに乗り込もうとして明らかにホームレスであることが分かった。ホームレスの生活をしている人は、どうしても臭いでそれと分かるし、彼女は改札機に何も入れずに、運転手から遠い改札機の前を通って出口に近い席に座った。要するに無賃乗車である。
彼女に続いて車内に入ったのだが、正直なところ近くに座る気になれず、後部の座席に座った。座って前を向いてから意識したのだが、私の席の後ろに4人か5人の会社の同僚と思しき男女が乗っていて話をしている。
バスが動き出して、不意に、香水の香りが強くしだした。女性が小声で、ホームレスのことを何か話題にしている。確かに臭いがしていることは間違いない。それを嫌って香水をスプレーしたのだろう。話が聞こえたのだろうか。そうとも思えない距離だったのだが、不意にホームレスの女性が立ち上がって、車の前方へ進み、改札機に何かチケットを入れて、また元の席に戻った。チケットが適正だったのなら、少なくとも無賃乗車ではなくなったわけだ。まるで、無言のうちに、ちゃんと正当に乗っているのだと主張しているように見えてしまった。座席に戻った彼女は、しきりに右手を中空で動かしている。単なるチック症状なのか、何かを意味しようとしているのかは、わからない。
たまたま運転手が右折する交差点を間違え、企業の敷地に乗り入れて方向転換をするハプニングが起こったので、後ろの一行の話題はそちらにそれていった。こちらは、それからすぐに、いつものバス停で降りてしまった。
これだけの話で、それ以上何の脈絡も、オチもないのだが、おそらく当事者たちが意識した以上に、過剰な意味の読み取りをしてしまったのだろう。しばらく頭の中で、ごちゃごちゃといろいろなことを考えてしまった。
帰宅後、娘とシンプソンズを見る。
夕食は、息子の作ったハンバーグとスープ。食後に娘の土曜学校の宿題に付き合うが、最後はまた癇癪を起こさせてしまう。いつものこととはいえ、なかなかやりきれないものだ。
娘が寝て、妻がテレビを見、息子がパソコンを使っている間に、風呂でぼんやりする。
風呂から上がり、息子が学校の図書室から借りてきたフランク・シナトラのデュエット集を聞く。クリッシー・ハインドとのデュエットなどという珍品も入っている。
rage が始まり、録画をセットする。まだ起きている息子に、2時過ぎに起こしてくれるように頼んで自室で眠る。
■ 2001/11/24 (Sat)
50メートルでバテバテとは情けない
2時半頃、これから眠るという息子に起こしてもらい、rage を録画しながら見る。
けっきょくそのまま5時近くまで起きていた。
8時少し前に、娘が土曜学校へ出かける音で目が覚め、寝床から声をかけるが、すぐには起き上がれない。9時頃になってようやく起き上がり、適当に朝食を作って食べる。
息子は今日は出かけないと昨日から言っていたので、起こさずに寝かしておく。妻は、今日は土曜学校の迎えに行くと言っていたので9時半頃に声を掛けて起こす。
10時半頃、いつもより早めに家を出て、妻といっしょに土曜学校の迎えに行く。いつもは10時54分定刻の290番バスに乗るのだが、その前の294番バスが来たので、フリーウェイ経由でウィンヤードまで行き、202番バスに乗り継いで、カマレーまで行く。これもいつもより早く、11時半頃にカマレー小学校に到着した。少し時間があるうちに、妻は当番役の台湾人の女性と雑談を始めた。後で聞いた話では、奥さんは台湾人、ご主人は台湾へ留学していた韓国人というカップルで、ご主人は韓国語・日本語・英語・台湾語・北京語などが話せ、インバウンドの観光業(外国からオーストラリアへ来る観光客の世話)をしているという。子供は普段は地元の学校で英語で教育を受け、日曜日には北京語の日曜学校へ通わせているのだそうだ。なんとも凄まじい話だが、オーストラリアにはこうした語学環境を生かしてサービス業で活躍する移民も多いということだろう。
一時、日本に帰国されていて、妻とは初対面になるM家の奥様と顔を合わせて簡単に挨拶する。
学校を出て、ノースブリッジまで207番バスで行く。東京マートで買物をし、ノースブリッジ・センターの入口にある寿司屋「スシ・ジョイ」(日本人の経営)で昼食をとる。店内に空いた席が無く、外のテーブルについてのだが、排気ガスがひどくてちょっと残念だった。
バスで、北シドニーまで戻り、さらに、レーン・コーヴ・ウェスト行きのバスでセント・レナーズへ行って、ここでお茶でも飲もうかと思っていたのだが、すぐに290番バスが来たので、帰宅することにした。
3時前に帰宅できる見込みになったので、娘と後でレーン・コーヴのプールへ行くことにする。
帰宅後、すぐに準備をさせて、3時半頃に再度娘と家を出て、レーン・コーブのプールへ行く。週末とあっていつもよりは客が多いが、混んでいるという感じではない。今日も、もっぱらサウナと泡プールで時間を潰したが、途中で一度だけ25メートル・プールで泳いでみた。
私は、元々運動はからきしダメで、小学生のときは50メートル走が10秒以上かかったクラスで唯一の男子だったし、水泳もカナヅチだった。それでも、中学校の海の家で鍛えられ、少なくとも海では少しは泳げるようになったはずなのだが、それも横泳ぎと平泳ぎだけで、クロールは出来ない。
前回来たときは、平泳ぎで25メートル進むのでもうアップアップしていたのだが、今日もターンしてからが相当きつく、40メートルを過ぎた辺りでは、まさか溺れるか?と思ったほどだった。何とか往復50メートルを泳いだものの、もうバテバテである。実に情けないが、自分の身体だから仕方ない。結局、その後は25メートル・プールには入らずじまいだった。
6時過ぎにプールを出てバスを待ったのだが、なかなか来ず、ようやく来たのは288番だった。娘と相談し、マコーリー・センターまで行って買物をしようということになる。
ウールワースで食料品を買い込み、今月開店したばかりのチキン・バーガーの店「オポルト」でファミリー・ディールという20ドルほどのセットを買って、290番バスで帰宅する。夕食は、このフライド・チキンと、息子が作った炒め物などで、けっこう量が多くなった。美味しかったが、チキンは食べきれず、明日に持ち越しになる。
食後、妻と子供たちがテレビで映画を見出したので、その間に台所を少し片づけてから、自室で少し翻訳に手をつける。今日はあまり調子が良くないようで、あまり進まない。
今夜の rage は、少し早めで11時からだったのだが、少し遅れてそれに気づき、途中から録画する。
■ 2001/11/25 (Sun)
ごろ寝の日曜日
前夜から引き続き、rage を録画しながら起きている。4時頃に寝ようとしたのだが、何となく寝そびれてしまい、そのまま明るくなってきてから洗濯をしたり、台所を片づけたりしながら起きていた。今日は日曜日とあって、妻も子供たちもまだ寝床にいる。娘が起きてきて、昨日録画した映画をビデオで見始める。9時過ぎになって、寝床に入り、眠る。途中で妻が声をかけてきて、美容室に出かけるという。
目が覚めたのは、午後2時頃。妻と娘はマコーリー・センターに出かけていない。3時過ぎになり、妻と娘が帰ってきた。日曜日はバスが少ないのだが、往復とも歩いたそうだ。往復となるとけっこうな距離になるはずだ。
今日は、午後からみんなで出かけようかと考えていたのだが、既に遅いので止めにして、夕食は家で食べることになる。
5時半頃に、買物の追加をしに、1人でマコーリー・センターへ行く、行きは歩き、ウールワースで食料品を買い込んで帰りは545番バス戻ってきた。バス停で、同じ方向に帰る日本人留学生のMさんを見かけ、車内で雑談。
帰宅したのは7時少し過ぎ。それから妻と息子が夕食を仕上げ、8時頃に夕食。炒飯とスープに、昨日の残りのチキンである。
食後すぐに、妻がテレビで映画を見始めたので、先に風呂に入る。風呂から上がって寝床で横になり、そのままうとうとする。最初のうちは眠っていたわけではなかったのだが、結局そのまま寝てしまう。
結局、ほとんど何しない日曜日だった。
■ 2001/11/26 (Mon)
行きそびれる場所、引き寄せられる場所
悪夢を見たというわけではないのだが、未明から朝にかけて妙な夢を見て目が覚めまた寝るというパターンを繰り返す。8時過ぎに起きたのだが、息子は既にで起きていて、出かける支度をしていた。息子に続いて、今日は、英会話の個人教授があるので、妻が8時半に出かけ、最後になった娘も8時45分頃に家を出た。
みんなが出かけてから、台所を少し片付け、インターネットを少しする。途中で眠気が来たので、10時頃横になってうとうとしていたのだが、11時少し前に妻から電話が入り、これをきっかけに起き上がり、大学へ出かけることにする。
妻とは、大学の図書館のコンピュータ室で落ち合うことにして、家を出る。バス停まで行ったが、すぐにバスが来ないので、近くのFUJITSUへ立ち寄り、日本人技術者のO氏と面談。明日、再度FMVを持ち込むことにする。マースフィールド行きのバスで大学まで行き、コンピュータ室を覗いたのだが、妻はまだ来ていない。いったん研究室へ行き iBook をセットして、簡単なページの更新をする。しばらくしてから、そこに荷物を置いて、再度コンピュータ室へ行くと、妻が作業をしていた。一緒にマコーリー・センターまで歩き、フード・コートで昼食にする。再度歩いて大学へ戻り、作業の続きをするが、午後2時頃に一区切りが着いたので、思い立ってカスーラのパワーハウス芸術センターに電話を入れ、開館時間を確認する。開館日は週に7日で、平日の閉館時間が5時、週末は4時だという。ついでにシティからの時間も尋ねたのだが1時間あれば十分だという返事だ。4時前に入館できればよいと思い、2時ちょっと過ぎに研究室を出た。最初はまず、老人ホームの前にあるエッピング方面行きのバス停に行ったのだが、いったんシティへ行って写真屋の用を足すことを思い立ち、大学のシティ方面のバス停に移動した。2時をちょっと回っているが、小1時間でシティへ行き、また小1時間でカスーラに行ければよいはずだ。目の前で一本バスに乗り損ねたが、すぐに288番バスが来たので、これに乗った。
ところがである、288番バスがいつものようにケント・ロードからコックス・ロードを経てエッピング・ロードに入ろうとするところで、エッピング・ロードが封鎖されているではないか。大きな交通事故があって、道路を封鎖しているらしい。運転手は停車中に後ろを向いて何か大声でアナウンスをするのだが、正直なところ良くわからない(オーストラリアでは長距離バスなどには車内放送の装備があるが、市内のバスにはない)。結局バスは、エッピング・ロードで普段なら右折するところを左折して、少しエッピング・ロードを戻る形になってから、さらに右折して、チャツウッドへ行く545番バスと同じルートに入った。元々交通量の多いエッピング・ロードの車が、ほとんど全部流れ込む形になったため、チャツウッドへ向かうルートは大渋滞になっている。車がチャツウッドに近づいてきたところで、座席から立って前へ行き、運転手に途中で降ろしてもらえるかと話し掛けてみる。バス停ならいいという話になり、渋滞なのでしばし雑談をしたのだが、どうやらエッピング・ロードのインバウンド側で、大型トラックなど数台がからむ大事故が合ったらしい。三菱ミラージュが大破していたのを、エッピングまでアウドバウンドで行くときに見かけた、と運転手は話していた。結局、チャツウッド駅への入口から少し南に離れたパシフィック・ハイウェイ沿いのバス停で下ろしてもらい、チャツウッドまで歩いて行く。駅に着いたときには、既に3時20分を回っていた。
駅ではちょうど電車が待っていたので、これに飛び乗る。車中で時間を考え直し、今日は(今日も?)カスーラ行きをあきらめウィンヤードで降りて、シティの中を歩く。ミッチェル図書館からサーキュラー・キー方面へ歩いて行く途中で、偶然、ニュー・サウス・ウェールズ州都市計画局のインフォ・ショップを発見、中で報告書類を160ドルあまりの買物をする。今日カスーラにいけなかったのは、ここに呼ばれていたからに違いない。
サーキュラー・キーまで歩き、ここから電車でタウン・ホールまで行って、フォトラボにフィルムを預ける。時間はちょうど5時になっていた。QVBからの帰りは、とりあえず最初に来た288番バスに乗った。そのままレーン・コーヴ・ロードの角まで乗り、そこから歩いて帰宅した。着いたときには、エアコンの冷房を入れて、妻と子供たちがUNOに興じていた。
夕食は、息子が昨夜の残り物をあたため直し、私が魚と野菜の炒め物を作ることになる。結局、8時少し前に食事になる。食後に風呂に入る。
メール・チェックをすると、伯父の葬儀のことが、妹からのメールに触れられていた。伯父は旧制高校(七高)のマントをまとって送られたそうだ。伯父らしい、羨ましいほど格好いい最後だったに違いない。
その後は、何本かメールを書いたりしているうちに時間がたち、11時過ぎには妻も息子もそれぞれ部屋に入ってしまった。こちらは、そのままパソコンでゲームをしていたのだが、夜中の1時近くなって娘がおきてきた。暑いのと、虫に刺されるので眠れないという。一度は部屋に戻らせたが、また布団持参で居間に来たので、仕方なく冷房を入れ、居間で寝かせる。
結局、2時頃に就寝。
■ 2001/11/27 (Tue)
久々にDOS画面を見る
娘が「8時半だよ、お兄ちゃん起こさなくていいの」という声にびっくりして飛び起きる。その前にも声をかけてくれたらしいのだが、起きずにいたのだ。慌てて、息子の部屋へ行くと、まだしっかり寝ている。完全に遅刻になる時間だ。起こして洗面所に行かせる。
息子と娘がそれぞれ出かけ、ひと休みしてから、メール・チェックなどをする。FUJITSUに電話を入れ、午後に立ち寄る約束をする。
午前中はそのまま家にいたが、昼時に大学で用事がある妻と一緒に11時半頃家を出て、バスで大学へ行く。妻が用事を済ませて戻ってきたのは1時頃だったが、それから一緒に、昼食時だけ営業している教員クラブの食堂へ行き、食事をする。ベジタリアンのパイ、フィッシュ・アンド・チップス、シーザー・サラダなどをとる。
食後、研究室に戻り、2時半を少し回った頃に、妻と一緒に部屋を出て、マコーリー・ディクショナリーの編集室へ行き、担当のAさんに頼んでいた資料を受け取る。妻はそのまま帰宅。
再度研究室に戻り、しばし作業をする。
4時少し前に研究室を出て、FUJITSUへ立ち寄り、O氏にFMVの具合を見てもらう。DOS画面上での操作を確認し、ハードではなく、ソフトの不具合ではないかという話になる。ならばUSBキーボードでちゃんと動いているのはなぜなのだろう?????
そのまま帰宅。
夕食は、息子がスープと炒め物などを作り、冷蔵庫に残っているものを温めなおして並べたものになる。
Aさんにもらった資料には色々問題があることがわかり、その関係で少し作業をはじめ、夜中過ぎまで起きていた。
■ 2001/11/28 (Wed)
カスーラへ
昨日のこともあり、7時台に起きて、8時に息子を起こす。今日は、比較的素直に起きてくれた。
8時半少し前に送り出し、こちらも娘と一緒に8時45分頃に家を出て小学校へ行く。到着したときには、もう朝礼が始まっていたが、水曜日のこの時間だけ母親のボランティアで開いている制服売り場へ行き、娘が無くした制帽と、穴をあけた運動着(普段から制服代わりに着ている)を買いなおす。あと3週間しかないのにどうして新品を買うんだ、と言われ、お土産のようなものだからと答えておく。
小学校から戻り、機能から手をつけた作業を少し続ける。ブランチに野菜ラーメンを作る。
結局そのまま昼過ぎまでテレビを見たり、作業をしたりしていた。
午後2時に家を出て、このところ行こうと思いながら行きそびれていたカスーラの旧発電所にある芸術センターへ出かける。まず、459番バスでストラスフィールド駅へ行く。このバスはマコーリー・センターと家の近くの間ではよく乗るが、家より南を通して乗ったのは初めてである。30分ほどでストラスフィールド駅に着く。
ここから快速電車に乗り、カスールの一つ手前のリヴァプールまで行く。この列車はカスーラを通過してしまうので、リヴァプールで下車したのだが、次の電車までしばらく時間がある。リヴァプール駅は、プラットホームが3つだけの小さな駅だが、バスターミナルは、結構大きい。おそらくもともとの操車スペースを再開発したのだろう。鉄とガラスのモダンな建物で駅とバス乗り場が結ばれている。ちょっと空港施設のような雰囲気だ。そのすぐ脇には、古い駅舎が綺麗にお化粧をして残されている。改札口の駅員に言って、いったん駅の外に出させてもらい、写真を取ったりして時間を潰す。ようやくやってきた各駅停車で川沿いにしばらく進むとやがてそれらしい建物が前方左手に見えてきた。カスーラに到着である。
駅の目の前が、カスーラ発電所芸術センターである。川沿いの段丘崖に沿って鉄道が走り、住宅などは崖の上の面にあるのだが、この辺りでは、崖の下には駅と旧・発電所しか建物は見当たらない。この芸術センターは、美術館ではなく、ギャラリーと美術教育の場などが一緒になっているところなのだが、元の発電所の建物を利用しながら、特異な空間を作っているということで、是非見ておきたかった場所だった。実際に建物に入ってみると、なかなか面白い空間の使い方になっている。今後の拡張性もあるし、全体に大きな、それでいて意味づけの豊かな空間の使い方が贅沢で羨ましい。
帰りは、無人駅のカスーラ駅で20分ほど列車を待った。その間に通過列車が数本あった。ようやくやってきた電車で、シティへ向かう。途中からうとうと気持ちよく居眠りする。
タウン・ホール駅に着いたのは午後5時20分頃だった。フォトラボで写真を回収し、QVBから291番バスで帰宅。
そんなに歩いたわけではないのだが、乗り物に揺られていた時間が長かったせいか、結構疲れを感じる。
夕食は、妻が作ったちらし寿司と味噌汁など。
昨日からはじめた作業を、少しだけ続ける。
■ 2001/11/29 (Thu)
突然、排水管の工事がはじまる
久々に遅くまで寝たままでいた。ようやく起きてみると、もう10時近くになっている。
妻の作ってくれたブランチを食べ、大学へ実習に行く妻を送り出す。
妻が出かけた後、妻が回していた洗濯機の洗濯物を干そうとしたのだが、また脱水のところで止まってしまっている。いろいろ操作しようとしたのだが、上手く行かない。前回、しばらく放置してからまた動いたのを思い出し、しばらく放置してから再度回すことにし、そのまま、家で、パソコンをいじって遊んでいた。
ところが、昼過ぎに突然、配管工が現れた。何でも昨夜電話があったのでやってきたのだと言う。L.J.Hooker に手配を頼んでそのままになっていたのは確かだが、昨夜電話があったというのはどういうことだろう。ともかく、流れが悪くなっているバスルームのトイレと湯舟を見てもらう。しばらくいろいろ調べてもらった結果、排水パイプの一部が老朽化して、詰まった上に穴があいて漏水していたことがわかったらしい。最初の感じより大仕事になったようで、配管工は、途中で2回も車で道具を取りに戻っていた。ようやく作業が終わったのは、娘が戻ってきた午後3時半過ぎだった。床下に入ってパイプを取り替え、コンクリートで固めたらしい。今夜はバスルームから一切排水をしないようにしてくれと言って、配管工は帰って行った。
配管工がきて、作業しているのに気を取られ、洗濯物のことをすっかり忘れていたことに気づき、再度動かそうといろいろいじったのだが、全く動かない。あきらめて洗濯物を手で絞り、物干しに干すが、すでに日は傾いていて、乾きはしない。
今夜は、大学の日本人留学生が遊びに来ることになっている。息子の帰宅を待って、4時過ぎに買出しに出る。545番バスでチャツウッドに行き、安くてけっこう美味しい寿司を売っているところがあるので、巻寿司を買い、そのまま取って返して545番バスでマコーリー・センターへ回り、ウールワースで菓子類などを買い、7時少し前に帰宅。生乾きの洗濯物を取り込む。
さっそく台所で巻寿司を切り始めたところへ、Mさんと、同じ学科のKさんがやってきた。
とりあえず、巻寿司と、息子の作った味噌汁にほうじ茶で、食事にする。食後もそのままいろいろ雑談をする。
結局、最後は11時半少し前にバス停まで2人を送って行く。
■ 2001/11/30 (Fri)
焼肉食べ放題
娘がテレビを見る気配で一度起き、トイレにたって、また寝床に戻る。8時近くに娘が起こしに来たので、そこで起床する。それから息子を起こしたのだが、すんなり起き出してはくれたものの、結構機嫌が悪そうだ。
妻は、英会話の個人教授を受けに行く日で、9時半頃に出かける。
それが終わってからどこかで昼食を一緒に食べようということで、電話を待つことになった。
一昨日来の作業の続きをしているうちに、昼近くになり、そろそろ電話があるかと思ったいると、電話が鳴った。すぐに取ったのだが、相手の声が聴こえてこない(後で聞いたら、こちらの声は聴こえていたようだ)数回繰り返して、電話機がおかしいことに気づき、急遽、古いダイヤル式の電話を持ち出して繋いで見たところ、おりよく再度かかってきた妻からの電話を取ることができた。
もうマコーリー・センターまで戻ってきたというので、そこで待ち合わせることにして、さっそく故障の電話機を持ち、バスでマコーリー・センターへ向かう。テルストラ・ショップで、電話機の交換手続きをしてもらっている間に妻と落ち合い、下の階のカフェで遅い昼食を食べる。注文してから、すぐ戻るつもりですぐ先のコモンウェルス銀行の窓口へ行ったのだが、手続きにちょっと面倒が生じ、意外に時間がかかってしまった。
昼食を終えてから、センターの中の店を何軒か冷やかし、最後にディミックスに立ち寄って本を買い、459番バスで3時少し前に帰宅した。バスを待っている間にも、激しい通り雨があったのだが、娘が戻ってきた3時半過ぎには、厚い雨雲が上空に現れ、この時間に似つかわしくないほど辺りが暗くなってきた。先ほどの通り雨でまた湿ってしまった洗濯物を取り込むと、間もなく土砂降りの雨になった。ちょうど息子が帰ってくる時間だったので、妻は傘を持ってバス停まで迎えにいった。雨が小止みになった4時過ぎに妻と息子が戻ってきた。びしょ濡れで帰ってくるかもしれないと思っていたので、娘に、風呂を用意させておいたのだが、結局2人とも入らないというので、自分が入ることにし、しばし泡風呂でうたた寝する。
風呂から出て、6時少し前に娘と一緒にシティへ出かける。7時集合の日本人学生会の夕食会に行くためである。知っている学生さんが少ないこともあって、待ち合わせ場所のタウン・ホールの正面階段に着いたものの、どのグループがそうなのかわからない。しばらくぼんやりしているうちに声をかけてもらい、私と娘もあわせて8人で食事に行くことになる。最初にスパニッシュ・クオーターを覗いたのだが、どの店も週末の金曜日とあって予約でいっぱいになっている。しかたなくそのまま中華街まで流れてゆき、食べ放題の焼肉店に入る。そのまま10時過ぎの閉店時間までずっと食べ、飲み、話し続けた。例によって娘も、お兄さん、お姉さんたちに囲まれて楽しそうに過ごしていた。
S君にQVBまで送られて、292番バスに乗り帰宅、のはずだったのだが、途中で2人とも寝てしまい、気づくと見覚えのない辺りをバスは走っている。慌てて運転手に場所を聞き、マコーリー・センター方面へ戻る道を教えてもらい、下車する。どうやら大学の敷地の北西の角に当たる、高速道路沿いの一角まで来てしまったようだ。娘の手を引き、マコーリー・センターの方角と言われた道を歩いて行くと、ようやく見覚えのあるトラベロッジが見えてきた。思えばここに泊った8ヶ月前から、シドニーの生活は始まったのである。
ちょうどトラベロッジの前にタクシーが乗りつけるのを見つけたので、捕まえられるかもしれないと思い、トラベロッジの方に入って、運転手に声をかけたが、どうやら予約客の所へ移動する途中らしく、乗せてもらえない。そのままマコーリー・センターまで歩き、ここでちょうどやって来た288番バスに乗り、レーン・コーヴ・ロードで下車して、家まで歩いて戻った。帰宅したのは深夜0時を回った頃だった。
テレビをつけ、rage を途中から録画する。
娘は暑いのか、玄関のドアをあけて廊下に布団を持ち出して眠り始める。


このページのはじめにもどる
10月の日記へゆく  12月の日記へゆく

シドニー日記の入口にもどる

海外旅行歴にもどる
過去を振り返るにもどる
山田の私的ページへの入口へゆく
山田晴通研究室へゆく    CAMP Projectへゆく