私的ページ:山田晴通

シドニー日記:2001年10月1日〜10月31日


 10月分の日記です。
 ここでは、山田の備忘録に掲出したときと内容はほぼ同じです。1ドルは、65円くらいです。
 このページへの転記に際し、原文の明らかな誤記は訂正しました。
■ 2001/10/01 (Mon)
成城警察署に電話
今日は月曜日だが、Labour Day で休日である。朝はゆっくり起きる。
10時過ぎに、妻と娘と三人で家を出て、センターまで歩いて買物に行く。ビッグWとウールワースで買物をして、昼少し前に戻ってくる。家に戻ると、留守宅に成城警察署から電話があったという連絡が入っていた。何事かと思い、電話をしてみると、昨年末の一家殺人の事件の被害者の家にある古い名簿があって、そこに私の名前があるということでの問い合わせだった。
二十年以上前のことなので面食らった。確かに事件の報道を聞いたとき、被害者(一家の主人)が大学の同じ学科で年齢も近いことには気づいたが、まったく記憶に無い名前だったので、そのまま忘れていたのだが、説明を聞いてみると、確かに彼と私の名前が一緒に載った名簿があっても不思議ではない。袖が触れるくらいの縁はあったということだ。複雑な思いで、応答できることを答えて電話を置いたが、何ともやり切れない気持ちになる。
午後2時過ぎに、再度、妻と二人でセンターへ出かける。シドニーに来たばかりの妻に、早くバスに慣れてもらうためだが、さっきの買物で買いもらした物をウールワースで買い、グレース・ブラザースを冷やかし、ニュース・エージェントで切手と電話カードを買って戻ってきた。
帰宅後、サンドウィッチを食べ、お腹がふくれたところでしばらく寝てしまう。
目が覚めると、もう暗くなっていて、夕食の準備が進んでいる。みんなも、午後のサンドウィッチのせいでお腹が余りすかなかったようで、午後8時をだいぶ回ってからの食事だ。
息子と娘がつくる茸のハンバーグと野菜スープがメインだが、自分でもホキのバター炒めを作っておかずにする。食後には、お茶を飲みながら、スイカやおかきを食べる。
妻と息子は12時頃に寝たのだが、そのまま朝まで起きていて、パソコンをいじる。
■ 2001/10/02 (Tue)
オーストラリア風ベトナム料理
未明に激しい雷雨があり、そのまま朝まで霧雨が続く。前夜から起きていて、朝5時過ぎにさすがに寝ようかと思ったのだが、そのまま眠らずSBSでNHKニュースを見る。冒頭で、世界最高記録を出した女子マラソンの高橋尚子のインタビューが予告されるが、こちらでは当然カットされている。やがて娘が起きてきて、テレビはチャンネル・テンになり、エアロビクス→アニメとなってゆく。思い立って、週末から近所に粗大ゴミとして出ていた古いトランクを拾いに行く。
やがて妻も起きてくるが、息子はまだ寝ており、最後はいつものように8時頃に大騒ぎしながら起こした。
眠気覚ましもあって、出かける直前にシャワーを浴び、9時半頃に家を出る。今日も妻と娘が一緒。まず、銀行の用を足しにセンターまでバスで出かける。次いで、大学へ。研究室に案内し、娘をそこで留守番させてから、一緒にNCELTRと図書館に行く。昼近くなったのでいったん研究室に戻り、3人で学生食堂に行き、昼食。その後、お茶を飲んで、書店生協へ。娘が欲しがったウォーリーものを買う。
妻は、午後2時にアポイントができたので、こちらも2時過ぎに娘と研究室を出て、506番バスで帰宅する。朝方の雨はすっかり上がって傾きつつあるとはいえ陽射しはまだ強い。昨日やりそびれた洗濯をする。洗濯物が上がったところで庭に干す。ずっと前から仕掛りになっていた仕事のことで自宅から電話を入れ、進捗を尋ねる。
今日は、夕方に、息子と外食することになっていので、5時半にQVB前で待ち合わせている。3時頃に、娘に留守番させて、ひとりでシティに出かける。
まず、290番バスをウィンヤードで下車し、定期券売り場で新しいパスを回収する。電車でタウンホールへ行き、急ぎの現像をフォトラボに頼む。1時間で上がるというので、バスに乗りチャイナタウンに近い教育庁のオフィスへ行く。次いで、歩いてハイド・パークの南側まで行き、アメリカン・エクスプレスの窓口へトラベラーズ・チェックのことで問い合わせに立ち寄る。中途半端に仕掛りで残っていた雑用が順調に解決していく感じで機嫌が良くなる。写真を回収し、シティバンクで500ドルを引き出し、6時半に予定通り息子と合流した。
ハイド・パークからバスに乗って、オックスフォード・ストリートに着いた途端、激しい雨になった。ラ・バーへ行き、ライブの予定を確認するが、どうやら予定が変わったのか、こちらが何か勘違いをしていたのか、7時からと思っていた今日のライブは9時半からとだいぶ遅い。
予定を変更して、ベトナム料理を食べて帰ることにし、Saigon Bay という店に入る。ここは、本格的なベトナム料理屋だが、カンガルーやクロコダイルも食材にしている。大きなえびの春巻き、えびのサラダ、クロコダイル・ジンジャー(野菜がたっぷり添えられたポーク・ジンジャーのようなもの)、カンガルーのココナツ・カレーに、ご飯とジャスミン茶をとり、2人でしめて60ドル。味付けは本格的で妻や娘にはきつ過ぎるかもしれないが、十二分に堪能したディナーだった。
帰りは、オックスフォード・ストリートを少し歩き、バスでセント・ジェームズへ、更に歩いてQVBへ行き288番バスでマコーリー・センターへ行く。ウールワースで野菜類などを買い、9時近くなってからバスで帰宅。
お茶を飲みながら、妻から大学の様子や、間違ってイーストウッドへ行ってしまった話などを聞く。授業は再来週からのはずだったが、実習が明日からあるという。なかなか大変そうだ。
前夜にほとんど寝ていないせいか、さすがに10時をまわると眠い。
■ 2001/10/03(Wed)
妻の実習がはじまる
前夜が早めの就寝だったので、朝6時頃に目覚める。娘が起きてきて、チーズTVで新たに始まった(といっても再放送)「デジモン」の初回を見る。
いつものように息子を起こし、朝食に野菜ラーメンを作って食べさせ、送り出す。今日も8時半頃と出かけるのは遅い。
9時過ぎに妻と娘と3人で家を出て、大学へ向かう。
妻は、午前中に実習があるので、娘と2人で研究室へ行き、インターネットで時間を過ごす。
昼時になって妻が戻ってきたので、3人で学生食堂へ。話によると、実習の報告や、来週の授業開始以降に提出する課題やらで、これからしばらく大変なようだ。
食後はゆっくりお茶を飲み、その後で図書館に回る。地下のコンピュータ室の使用方法を説明してもらうのが目的だったのだが、行ってみるとヘルプ・デスクに誰もいない。百台ほどのコンピュータが並んでいるこの部屋は、平日は夜中まで、休日も夜まで開放されている。今日は授業休止期間中なので比較的すいているはずで、列に並んで待っている学生はいないが、それでもスクリーンセーバーに「5分で戻る」とあるのを信じてしばらく待っているが、誰も現れない。妻は業を煮やしたのか、いったん研究室へ戻って資料を取ってくるというので、ひとりでさらに待つことにする。ようやく現れた担当の女性ひと通り質問をして研究室に戻ろうとしたら、ちょうど妻が図書館に入ってくるところだった。Uターンしてコンピュータ室で妻の作業を手伝う。この間、娘は図書館の前でキックボードで遊んでいたようだ。
4時を過ぎて帰宅することにして研究室を出たら、妻が顔見知りのような気がすると音楽教室のCさんのことを言うので、彼女の研究室を尋ねてみたところ、二十年以上前にシドニー大学の学寮で一緒だったことがわかる。世間は狭いものだ。
帰りは、大学から288番バスに乗る。妻と娘は、マコーリー・センターへ買物に行き、こちらはひとりでノース・ライド・センターまでそのまま乗ってゆき、不動産屋に立ち寄って書類をもらい、排水のことや隣家が連絡を取りたがっていることなどを話す。ゆっくり歩いて家に戻ると、ちょうど妻と娘も戻ってきた。
夕食は息子が野菜スープをつくる。できあいのハンバーグなどといっしょに食べる。
食後は、少し仕事をしようとするが、興が乗らないので断念。
今日も10時をまわる頃に眠くなり、休む。
■ 2001/10/04 (Thu)
昼食はレバノン料理
起床は遅めの朝8時少し前。娘に起こされて、息子を起こしはじめる。
8時を回って野菜スープを温めて息子と妻の朝食にする。娘はいつものように、先に自分だけ何か食べて朝食を済ませていた。結局、息子は、8時半頃に遅刻気味で出かける。
10時過ぎになって、今日も妻と娘と3人で家を出て、北シドニーへ向かう。北シドニーでは、アメリカン・エクスプレスで妻のトラベラーズ・チェックを現金化し、国際交流基金の図書館へ行く。ギャラリーではオーストラリア人画家の日本画展をやっていた。図書館で、私は雑誌、妻は新聞、娘はマンガを読んでしばしの時間を過ごす。207番?バスでノースブリッジへ行き、東京マートで買物をする。豆腐やスープの素などを買って、バスでウィンヤードまで戻る。午後1時近くなっていたので、セントラルの駅に近い、娘が気に入っているピザ屋まで行こうと思い、電車でセントラルまで行く。歩いて10分ほどで、ピザ屋にたどり着いたのだが、シャッターが閉まっている。昼は全く営業していないらしい。
この辺りはレバノン料理屋が多いところなのだが、昼も営業しているところは少ない。ピザ屋の先の角を曲がったところにあるレバノン料理屋「プロフェット」に入る。フーマス、シクケバブや、お菓子類に飲み物などで、どれもなかなか美味しい。50ドルちょっとの勘定になったが、昼の営業をひとりで回している様子の男性が50ドルでよいというので、また来ると言って、きっちり50ドルだけを置いてきた。
妻が体調が悪くなりかけていて、薬屋に立ち寄り、そのまま帰宅することにする。セントラル駅の西口側からバスに乗ってQVBまで行き、290番バスを待っていたのだが、なかなか来ない。どうしようかと思っているところへレーン・コーブ・ウェスト行きが来たので、これに乗り込み、いったんクロウズ・ネストまで行くことにする。クロウズ・ネストでは、先日娘と入った「魚屋」に14日の夕食の予約を頼む。次に来た290番バスに乗ったところ、ちょうどゴア・ヒルから息子が乗り込んできた。4人で帰宅したのは4時過ぎ。
夕食は、息子が野菜炒めなどを作り、このところ冷蔵庫に残っていたものを一掃する。食後、娘は例によって8時過ぎには寝てしまうが、妻と息子と3人で、それぞれテーブルでやらなければいけない作業に向かう。しかし、ついつい雑談もしてしまう。11時過ぎに、2人を残して先に休む。
■ 2001/10/05 (Fri)
あちこちへ妻を連れてゆく
今朝も、朝8時少し前に娘にせかされて起床し、息子を起こす。息子は、カンガルーのカレーの残りを温めて食べてから、例によって8時半頃に出かける。すっかり「ちょっと遅刻」の時間が定着してしまっている。
娘はとっくに自分だけご飯をネコ飯?にして食べていたようで、妻は野菜スープと前夜の冷えたご飯、私は息子が残したカレーと、みんなバラバラの朝食となった。
9時半頃に、洗濯物を妻に頼んで、娘と2人で家を出て大学へ向かう。妻にじっくり読書できる時間を確保するためである。大学へ行く前に、マコーリー・センターに立ち寄って、ちょっと買物を済ませ、さらに研究室へ行ってからは、だらだらインターネット三昧で過ごす。
昼頃に妻から電話があり、作業に区切りがついた様子だったので、娘と家に戻る。1時頃になっていたが、娘がお昼代わりにツナ缶を開けて食べた後、再度3人で出かけ、フリーウェイ経由のバスでラング・パークへ行く。サーキュラー・キーからマンリー行きのフェリーに乗り、およそ40分の船旅を楽しむ。船中では、サーキュラー・キーで買ったフィッシュ・アンド・チップスを娘と食べる。妻は、マンリーへ行くのは初めてだったようだ。マンリーでは必ず立ち寄るトルコ風のピザ屋へ行き、ピザとチキン・ケバブを注文。特にケバブは、妻の好みに合う味だったようだ。ちょっとだけ浜へ行き、店も冷やかしてから、バスでニュートラル・ベイ・ジャンクションへ行く。
今日は、道路も余り混んでいないので、快適な移動である。紀伊国屋書店では、妻が娘にこちらに来て初めて漫画を買ってやる。郵便局に立ち寄ってから、再度バスで北シドニーに戻る。
ノースポイントの薬局などで用を足してから、セント・レナード駅までバスで行く。
駅の近くに Cafe WASABI という小さな店があるのが、バスで通過するたびに気になっていたのだがそこへ入ってみることにする。こぎれいなこの店は、韓国人のやっている寿司バーだった。しかし、コーヒーもちゃんと出るので、妻と私はコーヒー、娘は缶入りの日本茶を頼み、持ち帰り用に2人前の巻き寿司を注文する。最初は客が他にいなかったのだが、ゆっくりしているうちに、韓国人やら白人の客が入ってくるようになった。けっこう繁盛しているようである。
店を出てバス停に行くと、何と息子がいるではないか。駅のマックで学校の仲間とだべっていたようだ。昨日に続いての偶然だ。結局みんなの行動圏が、大して広くないということだろう。結局一緒に290番バスで帰り、息子だけはマコーリー・センターまで買い出しに行かせることにした。7時過ぎに帰宅。今日は随分長かった感じがする。ことさら長距離を歩いたわけではないのだが、脚が疲れているのがよく判る。妻は、あちこち回って結構楽しんでいたようだ。何よりである。
体調がまた一段と悪くなり、食欲も無かったので、帰宅後すぐに寝る。11時過ぎに息子に声をかけてもらい rage を目当てにいったん起きる。rage の前の時間に、新しく noise TV という学生の作った短編フィルムの番組が始まっていて、これも興味深く見る。
■ 2001/10/06 (Sat)
またまたパラマタ航路
昨夜から未明にかけて、rage を録画するために数時間に一度は起きるものの、結構眠っていたのだが、風邪気味の体調が思わしくなく、午前中はほとんどぐうたらと過ごす。息子も早朝まで起きていたようで、午前中は自室のベッドで熟睡している。
今日は、例のパラマタへのフェリーに乗ろうという話に数日前からなっていたのだが、結局出発が遅れて、午後1時過ぎに4人揃って家を出た。
バスでラング・パークまで行き、公園を通っていると、向かいの教会で結婚式をやっていて、ちょうど新郎新婦が教会の前に出てくるところだった。今日は結婚式日和らしく、よそでもリボンをかけ新郎新婦を乗せた車を時おり見かけた。ラング・パークで下車した段階でもう2時近くになっていたので、ザ・ロックスをざっと見て回り、2時半頃にサーキュラー・キーへ着いた。次のパラマタ行きは3時だったので、旧・税関のカフェ・ビアンチでひと休みする。
休日なので、今日のパラマタ行きは直行便だけ。一番後ろの席でしばし昼寝をする。娘は、デジタル・ビデオを持ち出して、デッキに出ていたが充電が出来ていなかったので少ししか録画は出来なかったようだ。
パラマタでは、チャーチ・ストリートの橋の辺りを歩行者天国にして、イベントをやっている。ステージではブラスを並べた中年男性のバンドが、東欧風の曲を演奏している。橋のたもとにある郷土資料館のインフォメーションで無料パンフの類をいくつかもらってから、屋台を冷やかす。韓国風の「金魚焼き」(小型の鯛焼き)が出ていたので試しに買ってみる。日本の鯛焼きより、餡の塩味が強めなのもそれらしい。
チャーチ・ストリートの広場では、スチール・ドラムの演奏をやっている。娘は例によって、ガード近くの韓国系のファンシー・グッズ屋に行きたがるので、何も買わないと言い含めた上でしばらく店内に行かせる。
そのままウェストフィールドのショッピング・センターまで行き、バス停で20分ほど待つことになった。ちょうどグレース・ブラザースの閉店直後だったのだが、従業員通用口がバス停の前にあるので、黒いシックな装いの女性たちが次々出てきて、それを迎えに来た車が次々とバス停に乗りつける。
やがてやって来たチャツウッド行きの545番バスに乗り、イーストウッド駅の西口で下車する。そのまま駅の通路を抜けて、東口の韓式食堂ファゲへ行く。このところ3週続けて食事に来ていることになる。石焼ビビンバ、キムチチゲなどを頼む。体調のせいでやはり食欲は落ちているが、唐辛子の助けでけっこういろいろ手を出す。ここも妻の口にあったようでよかった。52ドルの勘定で55ドルを置いてくる。
再度、545番バスで帰宅。途中、マコーリー・センターで息子だけ下車させて、ケーキなどを買いに行かせた。
帰宅後、とりあえず浴槽に浸かってリラックスし、自室で休む。11時過ぎに起きて、rage の Skyhooks 特集を見る。
■ 2001/10/07 (Sun)
完全休養日
風邪気味がもう一週間も続いていて、熱はないのだが、疲れが感じられて、喉が痛い。咳がしょっちゅう出るし、時おりくしゃみも出る。ティッシュ・ペーパーの消費量もすごいものだ。前日から、今日は完全休養日にして出かけない、と宣言していたのだが、結局その通りで、洗濯物を出し入れするために庭に出た以外は、一日中ずっと家の中にいた。
前夜から息子が起きていたので、rage は最初の部分を録画しながら見て、そのまま床につき、テープを入れ替える3時少し前に起こしてもらって、またしばらく起きてみている、といった感じだった。それでも朝6時過ぎには完全に起床し、洗濯をして外に干した。
その後、娘が起きてきて、例によって勝手に自分の分だけ卵焼き?を作って、寝巻きのままパソコンでゲームを始めた。妻が起きてきたので、いつものワン・パターンで野菜ラーメンを作る。息子も起こして食べさせようとしたが、ほとんど手を付ずにすぐまた寝てしまった。
娘がシーツ類に歯磨き粉をこぼしていたを見つけ、洗濯機に出させる。
こちらも、10時少し前には休むことにして、部屋でうとうとする。なかなか寝入らなかったのだが、それでも結局は眠り、午後2時前にまた起きる。こちらが寝ている間に、妻と娘はタロンガ動物園に出かけていた。シーツ類を洗うため、再度洗濯機を回し、外に干す。朝に比べると随分と風が強く、シーツが帆船の帆のようにはためき、見ていて面白い。
しばらく、ぼんやりと過ごし、パソコンでゲームをしたりして過ごす。マインスイーパ−で、自分としては驚くべきレベルの160秒というハイスコアを出す。外の風はいよいよ強くなっていて、洗濯物が飛ばされたりしているのに気づき、とりあえず乾いたものを一部だけ取り込み、外れかけているのを干しなおす。
午後5時半頃、そろそろ洗濯物を取り込もうと外へ出ようとしたら、ちょうど妻と娘が帰ってきて、妻が洗濯物を取り入れようとし、娘がドアを開けようとしているところだった。今日は2人で、タロンガ動物園のほか、ザ・ロックスとタウン・ホール付近を回ってきたそうで、娘の撮ったビデオを後でしばらく眺めた。
夕食は、息子が煮物や炒め物を用意する。食後、しばらくして、風呂に入り、バスタブで寝入ってしまう。風呂から出て、やり残している論文の英文要旨の下書きに手をつける。
結局、夜中の12時頃までかかってひと通り終わらせたのだが、この間、妻はテレビの長編ドラマなどをずっと見ていた。そのまま床に入り、就寝。
■ 2001/10/08 (Mon)
蜘蛛の子を散らす
前日十分休んだおかげで、咳は相変わらずなのだが、体はだいぶ動くようになった。
朝は6時に起きて、また洗濯をして、7時過ぎには干してしまう。例によって娘がデジモンを見に起きてくる。いつものように息子を8時少し前から起こし始め、送り出す。
この間、家の中で蜘蛛が大量に発生していることに気づき、だいぶ殺生をする。先週くらいまで随分大きい蜘蛛を時々見かけたのだが、その子供だろう。こうして自分の手にかかって処理されてしまうのも自然淘汰のうちだが、こんなことでは地獄に落ちても蜘蛛の糸が降りてくることはなかろう。
早めに大学へ出かけようと思い、9時半頃に家を出てしばらくバスを待っていたのだが、思い立ってセンターまで歩いて行くことにした。このルートを歩くのはもう慣れているのだが、気候が暖かくなっている分、汗が出てくる。センターのウールワースで、家のトイレタリーの買出しをする。このところ、ティッシュやロールペーパーを大量に消費しているのでこれを補充するのが目的だったが、ほかにも洗剤などを買って、けっこうな荷物になる。大学まで行くのは止めにして、506番バスでいったん帰宅する。すっかり上半身が汗をかいたので、下着とシャツを替える。お茶のついでに、昼食代わりにいろいろつまみ、午後1時前に再度家を出て、バスで大学へ向かう。
しばらくインターネットで時間を潰して、午後2時過ぎに地名調査室へ行き、4時近くまで資料を閲覧する。今日からしばらく通うつもりだ。
その後、研究室に戻り、夕方の授業に出るためキャンパスへやって来る妻を待つ。今日からが大学の第4学期で、妻が正規の授業に出席するのは今日が初めてなのだ。午後4時半頃に妻が来て、5時の授業開始まで一緒に時間を潰してから、一人で帰宅。
戻ってみると、妻が用意したちらし寿司が出来ているが、子供たちはいろいろ菓子類などを食べてしまって、あまりお腹が減っていない様子だ。こちらも食欲はないままなので、そのままテレビを見たり、食事より先に風呂に入ったりして、ぼんやりしているうちに、娘はテレビの前で寝てしまう。 そのまま食事を始めずにメールを書いたりしていたのだが、8時頃、作業に区切りがついたので、妻を迎えに行くことにする。
彼女用のセーターをもって家を出たのだが、なかなかバスが来ない。結局、歩いた方が早いくらいだった。ようやくバスが来たのは9時4分(バスの検札機の表示)。授業は9時までだから、行き違いになる可能性も大きい。とにかく大学へ行き、しばらくバス停付近を見回したが、どうやらいないようだ。電話をしようと思ってバス停から少しバス降車場の方へ行こうと歩き出したところへ、妻が向こうから走ってきた。ちょうど9時19分の290番バスが出ようとするのに乗ろうとしたのだが、結局間に合わなかったのだ。いずれにせよ、行き違いにならずよかったことにして、センターまで歩き、タクシーで帰宅する。6ドルちょっとだったので7ドル支払った。
帰宅後、さっそく食事にする。娘は熟睡していたので、先に3人で食事を済ませてから、後で起こして食べさせた。食後は授業の様子などを妻から聞いたりしながら過ごし、蜘蛛退治もまた少しする。娘はいつものように早く寝たが、妻と息子はまだ起きている。こちらも、昨日よりはよいとはいえ、まだ体調が悪いので、12時前に先に就寝した。
■ 2001/10/09 (Tue)
パラマタの政府刊行物販売店
前日同様、6時過ぎに起きる。しばらくパソコンをいじる。今日も娘がテレビを見に起きてくる。息子を7時半頃から少しずつ起こし始め、送り出す。
今日はパラマタの政府刊行物の店に行くつもりなので、バスの時間を確認し、10時頃に家を出て545番バスでパラマタへ向かう。大学を過ぎた辺りから熟睡し、パラマタの市街地の近くに来るまで気持ちよく寝ていた。店の場所を駅できいてみたが判らず、市役所の受付で場所を教えてもらってAusInfoという看板の店に入る。おもったよりこじんまりとした店で、資料類も期待したほどはなかった。店員に聞いてみたら、基本的な文献は州立図書館で見た方が良いなどとアドバイスされる。まあ、もっともな話だが。店内には、これから小商いをする人たちのためのガイドの類が、いろいろあってこうしたところにもオーストラリアらしさが出ているように思った。
結局、ラジオ関係の議会報告書の類を数冊買い、130ドルを越えるけっこうな出費になった。一番高かったABAの報告書は、ほとんど裁判記録といった性格なので読むのが骨が折れそうだ。オーストラリアのラジオが若者向けではないという1996年のABAのモノグラフなどは、オーストラリアのラジオの現状を良く表わしていて面白そうだ。
帰りはチャーチ・ストリートでバスに乗ろうとしたのだが、ちょっとの差で545番に遅れてしまったらしく、次のバスまで待とうかと迷っているところにウェスト・ライド駅行きがきたので、とりあえず乗り込む。西シドニー大学のパラマタ・キャンパスの横を通り、ヴィクトリア・ロードを西へ進んでいたバスは、先だって息子と迷い込んだショッピング・センターの前で、北に折れ、しばらく住宅地の中を縫って走る。再度、ヴィクトリア・ロードに出て来たところから遠望するシティのスカイラインはなかなか印象的だった。
ウェスト・ライド駅では15分ほど電車まで時間があったので、これまで降りたことのない東口側の店の並ぶ辺りをひと通り見てみる。フィッシュ・アンド・チップスを買おうかと思ったのだが、ちょうど昼時になっていて混んでいたので時間を考えてやめにする。ホーンズビー行きの各駅停車でエッピングに着いたのはちょうど正午ころ。バスで大学へ向かい、研究室で作業を始める。
しばらくして、食べ物を買いに出て書店生協にも立ち寄り、ここでもまた本を買った。
今日も、夕方から授業がある妻が4時半頃に研究室へやってきたので、ひと休みしてから一緒に研究室を出て、授業のある建物まで送り、バスでマコーリー・センターへ行き、ウールワースで魚類に生ハムや牛乳などを買い、帰宅する。
夕食は、魚と野菜の炒め物を作り、息子が作ったスープとごはんと一緒に出したが、娘は妻が昼に作った炒飯の残りしか食べてくれない。娘の頑固な偏食は、本当に厄介だ。
昨日より早めに家を出て、妻を迎えに行ったのだが、教室の電灯が9時の授業時間終了より前なのに消えている。公衆電話まで戻って、家に電話をかけると、早めに授業が終わったそうで、もう家に帰っていた。
こちらはウールワースでゆっくり飲み物類を買って、結局10時近くになって帰宅する。
妻は、帰りに間違って288番バスに乗ってしまい、ノース・ライド・センターで降りて道に迷いかけたところを知らない人(夫婦連れ)車で送ってもらって帰ってきたのだそうだ。幸運だったということだろう。
お茶を飲んで、風呂に入り、例によってぼんやり長湯をして出てみると11時半頃だが、既にもう皆休んでいる。こちらもすぐに寝ることにする。
■ 2001/10/10 (Wed)
ワサビでワサビ抜きを注文
今朝は、未明に一度と、だいぶ明るくなった6時頃に目が覚めたが、結局そのまま寝続け、8時10分に、何と息子に起こされる。慌てて起きると、娘も既に起きていた。ばたばたと息子を送り出し、妻にも声をかける。妻は10時前に家を出て大学へ実習に行かなければならない。朝食は、またまた野菜ラーメンを作り、妻と2人で食べる。妻を送り出した後、洗濯物を娘に干させ、10時過ぎに一緒に家を出てノース・ライド・センターへ行く。娘はキックボード(スクータ)でのお出かけである。銀行で現金を引き出して、郵便局とニュース・エージェントで用を足し、288番バスを待って、大学へ行く。
研究室にたどり着いたのは、11時半頃。娘はインターネットでアニメ番組関係のページのサーフィンに精を出している。
午後1時近くになって、実習が終わった妻が研究室に顔を出したので、3人一緒に学生食堂へ行き昼食。これまで気づかなかったのだが、よく利用しているサラダ・バーに、先だってレバノン料理屋で食べたフーマスがあるのを見つけ、初めて少し取ってみた。娘は子羊肉の照り焼きソースをきれいに肉だけ平らげ(ライスなどは残し)先に研究室へ戻ってしまう。妻と食後のお茶(コーヒー)をとって、2時過ぎに研究室に戻り、2時40分頃研究室を出て、3人で288番バスでシティへ向かった。 ところが途中で、娘がシティへ行かず家に戻ると言い出した。結局、小学校のところで先に下車させ、iBook を持たせて家に帰した。
妻と2人になってそのままQVBまで行き、更にバスを乗り継いで、再来週以降に妻が実習で訪問する予定の、Ultimo の SIT キャンパスにある TAFE まで、場所を確認しながら一緒に行く。前に、息子が通うかもしれないということで来た場所なので、すぐ建物へたどり着いた。事務の窓口へ行って妻が簡単に挨拶をし、すぐに戻ってきた。
帰りは、ブロードウェイ(ジョージ・ストリート)まで戻ってサーキュラー・キー行きのバスに乗り、サーキュラー・キーにある財団法人・自治体国際化協会のシドニー事務所へ立ち寄る。もう5時近かったのだが、電話入れてあったので、簡単に挨拶をし、資料を頂戴できた。ここには、今後また立ち寄らせていただくことがありそうだ。
サーキュラー・キーからQVBまでバスで戻り、グレース・ブラザースへ入って、妻のジャケットを買う。次にウールワース・メトロへ行って、写真の焼き増しをしようとしたのだが、仕上がりが日曜の遅くになるというので、改めて明日以降にフォトラボへ持ち込むことにする。妻は、洋服用のブラシなどをここで手に入れた。
QVBからバスを乗り継いで、セント・レナーズの WASABI へ行き、子供たちへの手土産に、ワサビ抜きの巻寿司3人前をテイクアウェイで頼む。その場で飲んだコーヒー、紅茶代と込みで、29ドルだった。7時過ぎに290番バスに乗り込み、帰宅。
帰宅後、夕食の準備を始めたのだが、途中で娘が癇癪を起こし、食べないと言い出したので、部屋で勝手にさせる。結局、娘は、しばらくしてそのまま夕食をとらずに寝てしまう。
3人で、巻寿司と、息子が作ったサラダやみそ汁で、夕食をとる。食後は、妻が実習のレポートを書きだしたので、集中できるように、こちらは息子と台所の片付けなどをする。
息子は、学校のコースの最初の区切りの週に入っていて、最大の難関のアセスメントが今日終わったということで、大変機嫌が良い。明日の分のアセスメントは気楽なものらしくレポートを書いている妻に、お茶を出したりしていた。
レポートを仕上げた後、妻は風呂に入り、11時過ぎに休む。息子も程なく休み、昨夜に続いて最後まで起きていることになった。このところ体調が悪く、たいていは先に寝ていたのだが、今日は咳もだいぶ少なくなり、体調が元に戻ってきたようだ。
そのまま深夜1時過ぎまで起きていた。
■ 2001/10/11 (Thu)
渋滞うらめし
今朝も起床は遅れ、8時半近くに、妻が息子を送り出すのを耳にしながら起きる。朝から雨模様の天気で空は雲に覆われている。今日も午前中実習がある妻は10時前に家を出て大学へ行くので、娘も一緒に3人で、バスで大学へ行くことにする。
大学で、妻は実習に行き、こちらは娘と2人で研究室でインターネットをしながら時間を潰す。
やがて実習が終わって戻ってきた妻と、3人で午後1時頃に学生食堂へ行く。雨脚が少し本格的(日本の普通の雨くらい)になっている。いつものように建物の外では食べられないため、食堂内は空席がなく、やむなく窓際で立って食べる。研究室に戻り、しばらく作業をする。3時半頃に研究室を出て、シティまで出かけるべくバス停に歩いて行く。途中で、人文地理学科に立ち寄り、たまたま居合わせたF先生に事情を話して、来週のアポイントメントをもらう。その後、バスでシティへ向かったのだが、たまたま最初に大学のバス停に来た518番バスに乗ったのが良くなかったのか、渋滞で時間がかかる。妻は、シティのアメリカン・エクスプレスのオフィスに用事があるのだが、時間としてはぎりぎりである。こちらもウィンヤードのバス案内所が5時で閉まるのに間に合わなければならない用があるので気が気ではない。結局ぎりぎりの時間にウィンヤード付近でバスを降り、妻と娘を一緒にアメックスに行かせて、バス案内所に行く。
ぎりぎりで間に合ったのだが、ここでしか買えない「2 Zone」の3ヵ月定期は、何と申し込み制で2週間以上の時間がかかると説明される。そんな話ははじめて聞くことだ。他の定期券は駅で即日発行されるのに何ということだろう。結局、申し込みをしないでアメックスへ向かう。ピット・ストリートのアメックスの前で妻と娘に合流したのだが、ぎりぎりで間に合わなかったらしい。
午後が全く無駄になってしまった妻は、買物も何もせずに帰宅するという。QVBまで歩いて294番バスに乗ったのだが、これがまた退勤ラッシュでなかなかいつものようには進まず、こちらも胃が痛くなった。
帰宅すると居間が暗く、息子が読書灯をつけて何かやっている。電球が切れたのだ。結局、天井の飾りランプの外し方がわからず、しかも材料が普通の華奢な擦りガラスであることがわかったので、手を出さずに明日以降に不動産屋に頼むことにする。
夕食は、息子が作ったスープ、肉野菜炒めなどを食べ、食後はクラッカーにクリームチーズとブルーベリー・ジャムを載せておやつにする。
■ 2001/10/12 (Fri)
ビッグ・ケヴにあやかる?
このところ起床時間がずるずる遅れていたのだが、今日は8時前に起きて、娘とテレビを見る。息子は、今日が最初のターム(5週間で1ターム)の最後の日で、区切りの行事などもあるらしく、いつものように遅れ気味ながら、意気揚揚と出かけていった。
昨日から居間の電灯が切れているので、不動産屋に電話をして誰かよこしてくれと頼む。折り返し電話をするというので、いつになるのかと聞くと「出来る限り早く」というので、電話は午後2時以降にしてくれるように頼む。今日もいつもと同じ時間に妻の実習があるので、9時半頃に家を出て、また娘も一緒に3人で大学へ向かう。
マコーリー・センターでセント・ジョージ銀行に用事があるので、妻と娘を先に研究室に向かわせ、一人センターで下車する。用を足して研究室へ行き、今日も娘と2人でインターネットをしながら時間を潰す。久々にサイトの更新に手をつける。
例によって、実習が終わって戻ってきた妻と3人で、そのまま帰る準備をした上で、午後1時頃に学生食堂へ。今日はすんなり空席を見つけ、ゆっくり食べる。バスでマコーリー・センターへ行き、ウールワースで買物をしてから459番バスで帰宅。妻が課題作業に取り組めるようパソコンをセットしてから、今後は一人で2時半頃に家を出る。
ちょうど506番バスがやって来たので、反射的に手を挙げて乗り込み、シティへ向かったのだが、途中のドライバー交代が遅れたりしたこともあり、随分時間がかかってQVBに到着した。ウールワース・メトロで急がないフィルムの現像を頼み、さらにフォトラボで急ぎの焼き増しを頼んでから、番地を頼りにジョージ・ストリートの日本人会新事務所へ行く。前に聞いた話では、マーティン・プレイス近くということだったが、ウィンヤード駅を出てすぐのところだった。移転したばかりで、まだ落ち着いていない感じで、ちょうど入口のドアのロックの取替え作業?をやっているところだった。
ウィンヤード駅の定期券売り場で、妻用のオレンジ・トラベル・パス3ヵ月券を購入し、そのまま近くの土産物屋で、10ドルのTシャツを買う。そのまま歩いてQVBまで行き、ウールワース・メトロでチョコレート菓子などを買う。焼き増しを頼んだのはちょうど4時頃で、仕上がりは5時頃と言われていた。まだちょっと時間があると思い、土産物のディスカウント店に入り、1枚5ドルで投げ売られていた、国旗柄のTシャツを買う。ちょっと恥ずかしくて下着にするしか着ようが無さそうだが、もともと下着のシャツにするつもりで買うのでこれはこれでよい。洗剤の宣伝に出てくるビッグ・ケヴを連想する。
フォトラボで写真を回収し、久々にエッピングまで電車で行くことにする。エッピングでは、折悪しくバスが出たところで、接続に相当の時間を食ってしまった。家に電話を入れ、帰りにマコーリー・センターで買ってきて欲しいものを確認しする。
288番バスに乗って、センターで下車し、再度、ウールワースで買物をして、帰宅する。息子は、無事、最初のタームを合格で終了し、来週からは一ランク上のコースに入ることになった。とりあえず、一安心である。
また、結局今日は、不動産屋からも、電気屋からも、電話は何も来なかった。また、いつものパターンである。月曜日以降に対策を考えなければならない。
妻は、午後ずっとワープロの作業をしていたのだが、プリントアウトを大学のコンピュータ・ルームでとるために夕食前に大学へ行くという。結局、息子に夕食(スパゲティ・ミートソース)の準備を頼み、7時少し前に妻と2人で大学へ出かけ、図書館地下のコンピュータ室へ行く。通用口のカード・リーダーが壊れているのか、外から入れない状態で、一瞬戸惑ったが、ちょうど中から出てくる人がいたので入れ替わりで入室する。
妻の用事が済んだ後、歩いてマコーリー・センターまで行き、今日3回目の買い物をウールワースでする。
バスで帰宅すると、息子が夕食の下ごしらえを済ませていたので、そのままスパゲティを茹で始める。そこそこの出来あがりで、けっこううまくいった。
食後は、妻と息子がパソコンで作業をしたいるので、こちらはだらだらと資料を読んだりしながら横になる。
11時を回り、今日も rage 直前の short fuse から録画を始める。そのまま妻と息子が休んだ後も、半ば遊びの新しい翻訳作業をゆっくり進めながら、ずっと3時過ぎまで起きていた。
■ 2001/10/13 (Sat)
100ワット×2球の居間
前夜は、rage を見ながら4時過ぎまで起きていたのだが、寝床を息子に占領されていたので、空いている息子のベッドで休む。
朝は9時前に起きて、ワンパターンの野菜ラーメンを作って、妻と自分の朝食にする。その後、妻が課題作業に使うテレビニュースの録画を手伝う。
10時過ぎに、妻と2人でマコーリー・センターまで出かけ、Big W と Dymocks で買物をする。
帰宅し、昼食はあり合せのもので済ませる。
午後2時から、この地区に住んでいる日本人家庭の交流会があるので、妻と娘と3人で出かける。家を出たところで呼び返され、M家から電話があったので、そちらに立ち寄って一緒に行くことになる。M家へ伺い、ご主人の運転する車に便乗させてもらって、会場の教会へ行く。
たまたま、会場の前の木製遊具を撤去する作業にかかっている人がいたので、数人の「お父さんたち」と一緒に手を貸す。会場では、もっぱら男性同士で話をすることになったのだが、滞在経験、十年、二十年といった方々の話が伺えて、興味深かった。
集まったのは子供の小さい家庭が多く、娘は小さい子達と嬉々として遊んでいた。
予定の5時までずっと話をし続け、M家の車に送られて帰宅した。
一昨日から切れている居間の電灯をしばらく観察し、取り外し方の見当がついたので、自分でカバーのガラスを外して、中の切れた電球を外すのに成功した。
代わりの電球を買うべく、6時過ぎに再度買物に出る。1人でバスに乗ってウールワースまで行き、買物をする。帰りはバスがなかなか来ず、帰宅は8時近くになる。
もともと60ワット球が一つだけ生きていた電灯に、100ワット球を2つ点けたので、部屋が一挙に明るくなった。電灯が直って明るくなった居間で、夕食にする。メニューは、妻と息子が作ったチンジャオロースーと、もやし炒めにご飯とみそ汁である。
妻の作業に区切りがついて、パソコンへ向かってみるが、すぐに居眠り状態になってしまう。それでも、何とか起き続け、noise tv や rage を録画しながら見る。
■ 2001/10/14 (Sun)
「魚や」で魚を堪能
今日は、小学校の休みの最後の日にあたる。午前中は、みな勝手に起きて食べ、また寝てという感じで、だらだらしながら過ごす。娘は朝食にホットケーキを作ろうとして失敗したらしく、皿いっぱいに失敗作が残ってしまった。ひとしきり説教した上で、鳥や小動物が現れる庭の隅の木の根元(数日前にカビの出たパンを置いておいたらきれいになくなったところ)に皿ごと置いておくことにする。
昼は、レーン・コーヴ川の公園にピクニックへ行くと前から娘に約束していたので、息子と娘は、昼頃にはその準備に精を出していた。
昼過ぎに家を出て、チャツウッド行きの545番バスにのって公園の入口まで行く。前回と同じように左岸側を少し歩いて、一番手前の芝生のところでテーブルに座り、もってきたサイドウィッチを食べる。対岸では中東風の音楽をかけながら賑やかにやっている一団がいて、BGMになってこちらにも流れてくる。対岸がわにはボート屋もあるので、川にボートを浮かべている家族連れなどが目の前を通って行く。あちこちではバーベキューの煙が上がっている。ただそれだけなのだが、こうしたことが気軽に出来るところがシドニーの生活の贅沢なところだろう。
食後、こちらが昼寝をしているうちに娘と妻は、先日歩いた山道の入口をちょっと入るくらいのところまで行ってきたようだ。
2時過ぎに撤収して、公園の入口まで戻り、帰りのバスを待ったのだが、タイミングが悪かったようで、小一時間待つことになった。公園の入口には、白い大きなオウムの群れがいるのだが、途中で公園側から道を挟んだ反対側のステーキ屋の前の芝生の方へ移動する様子などをのんびり眺める。
545番バスで帰宅後、しばし休息。午後5時過ぎに再度4人で出かけて、ディナーを予約しているクロウズ・ネストの「魚や」へ行く。やってきた290番バスがフリーウェイ経由だったので、レーン・コーヴで乗り換えて、クロウズ・ネストまで行く。
食事は大変美味しかった。それぞれ主食をとって上で、鰆の煮物、タラの芽の天ぷらなど、いろいろ一品物も注文し、満腹、大満足だった。ちなみに勘定は130ドル。もちろんこちらでの生活としては贅沢な部類の夕食だが、東京で同じものを食べればもっと値が張る。バスの時間まで少し間があったので、だらだらとセント・レナーズまで歩いて、バス停前のトルコ系のピザ屋に入る。ここは、息子が学校の帰りなどに立ち寄る場所らしい。お腹はいっぱいなので、コーヒーなど飲み物だけをもらって、時間を潰す。
結局、8時半頃、290番バスで帰宅。妻はテレビでやっている映画を見始めた。こちらは息子と久々にバックギャモンで対戦。48回戦して110対82で何とか勝った。
■ 2001/10/15 (Mon)
新学期初日
今日から小学校は第4学期に入り、息子の英語学校も新たなタームが始まる。朝は5時40分頃に目覚め、久々にSBSのNHKニュースを途中から見る。6時になって娘が起きてくる。今日からお弁当がまた始まるので、自分でご飯を炊いておにぎりを作り出す。7時40分頃に息子に声を掛けるが、まだ起きない。息子は前日から、「前期から引き続きの学生は、新学期最初の日は出席しなくてよい」と言って、今日は休みだと言い張っていたのだが、学校からもらった資料にそんなことは書いていないので、とにかく起こして学校に行かせようと思った。
ところが、その直後に自分の方がまた睡魔に襲われ、そのままこちらが寝入ってしまい、8時15分頃に娘に促されて、再度、息子を起こす。とにかく学校へ行って、本当に欠席していい日だったら、すぐに帰ってきてよいからと言って、いつもと同じように8時半頃送り出す。結局、息子はコンタクトレンズも入れず、電子辞書以外の勉強道具ももたずに、カバンなしで出かけていった。
娘も、その直後に妻と一緒に家を出て、学校へ行く。妻は、初めて登校に付き添って学校へ行き、様子を見てきたようだ。
妻は小学校から戻ってきた後はずっと、課題のレポート書きに取り組んでいる。こちらは洗濯物を干したり、娘が1月から通うIEC(集中英語コース)のことで、あちこちに電話を入れたりしているうちに、時間が経つ。昼食は、またまたまたワンパターンで野菜ラーメンを作り、2人で食べる。
午後は、少し昼寝をしているうちに、娘と息子が相次いで帰ってくる。息子は結局、いつものように5時間分の授業に出てきたのだが、結局やはり継続生は新たなタームの初日は出席のチェックも無く、休んでも構わなかったようだ。
4時過ぎに妻が大学へ行くのに合わせて、娘も一緒に家を出て、マコーリー・センターへ買物に行く。久々にカートで買物をし、いろいろと買い込む。2人でたくさん荷物を持って、459番バスで家に戻る。
帰宅後、娘は早速買ってきた材料で茸のハンバーグの下ごしらえをする。娘は妻を迎えに行きたいというので、8時20分頃に家を出てバス停へ向かう。ところが、しばらく待ってもバスが来ないので、大学へ向けて歩き出す。けっこう汗が出ていい運動になった。大学に着いたのは9時少し前だったが、妻がいるはずの教室は、電気こそ点いていたものの妻の姿は見えない。急いでバス停まで戻ると、ちょうど妻がバス停で待っているところだった、そこに292番バスが来たので、3人ですぐに乗り込む。
夕食は、娘が下ごしらえしたハンバーグと、息子と妻が作った肉とキャベツの中華風の炒め物。食後、ケーキなどを食べる。
風呂に入って、しばし、うとうとしているうちに深夜になっている。この週末、いろいろたらふく食べていたせいか、また体重が85キロに戻っている。まあ、こんなものだろう。
これまでとは別件の論文の翻訳に手をつけ、久々に深夜ずっと作業をする。
■ 2001/10/16 (Tue)
新しいタイ料理店
前夜は結局、午前4時頃まで作業をしていた。さすがに眠くなり就寝。しかし、自分の寝床はなぜか息子に占領されていたので、やむなく息子のベッドで寝る。朝はいつもと変わらず7時半頃に起床。いつものように娘は起きてうろちょろしている。いつものように息子を起こして支度をさせる。
二人を送り出した後、しばし、テレビを見たり、洗濯をしたりして過ごすが、寝不足がたたって作業が手につかず、結局、数度に分けて昼寝をする。
午後2時過ぎに昼寝からようやくシャンとして起きたのだが、洗濯物を干すのを忘れていることに気づき、日が傾きかけているにもかかわらず慌てて干し出す。
今日は、息子と娘と3人でシティで食事をするつもりで、5時半にQVBで待ち合わせをしていたのだが、3時過ぎに息子から電話があり、調子が悪いから家に戻ると言ってきた。その後4時少し前に息子の学校から電話があり、どうやら授業中に問題を起こしたらしいことが分かる。これまでも時おりあったことなのだが、こちらに来てからは初めてのことである。
娘に続いて息子が帰宅したが、しばらく部屋で放っておくことにする。
入れ替わりで、夕方に授業のある妻が出かけた。
息子が部屋から出てきたので、少し落ち着いたところで、言い分を聞く。
夕食は、結局、近くで外食をしようということになる。夕食の準備をしなくてよいのをいいことに、また「夕寝」を決め込む。8時少し過ぎに朝とは逆に息子に起こされ、3人で家を出て、290番バスでマコーリー・センターへ行き、先週新しく出来たばかりのタイ料理店「ペント・タイ」に入る。子供たちを席に着かせ、料理を注文してから、大学まで歩いて、妻を迎えに行く。バス停に差し掛かったところで妻がバスを待っているのを見つける。どうやら30分ほど早めに授業が終わったらしい。歩いてセンターに戻り、妻の分も注文。ほどなく料理がひと通り出て来た。私はグリーン・カレーを野菜で注文し、娘が食べ残したレッド・カレーにもかなり手をつけた。息子が注文したトム・ヤムのスープも味見したが、本格的で美味しかった。
帰宅後、10時半には床に就く。
■ 2001/10/17 (Wed)
バスに乗らない一日
今朝も7時半頃に起床。息子を起こしはじめる。昨日のことがあったので、しつこくなりすぎないよう気をつけながら、厳しく起床させる。しかし、結局息子は、いつもより更に30分くらい遅れ、9時近くなってから家を出た。娘の方が先に出て行ったのは、さすがに初めてだ。
今日は研究室へ行こうかとも思っていたのだが、翻訳作業がそれなりに進んだのと、いつ息子から、あるいは学校から電話があるかもしれないという思いがあって、結局、出かけそびれて午前中を過ごした。妻は、もっぱら課題の読書をしていた。
日本に送る手紙を数通書いてから、昼過ぎに、妻とノースライド・センターまで歩いて行く。不動産屋に立ち寄り、小学校へ行って娘のIECの件で担任の先生に会い、ニュースエージェントで文房具を買い、郵便局で用を済ませた。昼食代わりに、Deep Sea Foods という魚屋兼揚物屋で、フィッシュ・アンド・チップスを買って二人で食べ、さらに八百屋でバナナを買う。八百屋では、不動産屋の店長を見かけた。
ゆっくり歩いて帰宅したのは2時過ぎ。3時台には、いつも通りに、娘と息子が相次いで帰ってきた。
息子は、今日は無難に過ごしてきたらしい。
そのままだらだらと録画済のビデオの整理や、翻訳作業などを続け、気がつくと夕方になり、妻と子供たちは3人で夕食の準備を始めている。
夕食は野菜スープと、肉野菜炒めと、サラダ。正直なところ、特においしいというわけではないが、そこそこ食べ進む。ご飯が美味く炊けていたせいもある。
夕食後、皆でケーキをつついた後、台所の電灯のカバーを外し、切れている電球を取り外す。二つの電球のうち一つが切れていることは気づいていたのだが、これまで取り外し方が分からず放置していた。居間と同じタイプのカバーだったので、やり方が分かったところでカバーを外してみたのである。明日また電球を買いに行かなければならない。
今日は結局バスに乗らない一日だった。トラベル・パスを使い倒している普段の生活からすると珍しいことだ。
■ 2001/10/18 (Thu)
ハットのプレゼント
今朝も7時半頃に起床し、息子に声を掛ける。昨日の残りの野菜スープを温め、後は自分で勝手に朝食を用意させて、学校へ行く準備をさせる。今朝は、いつもより早めに、8時20分頃には送り出した。
娘も出かけてから、洗濯機を回し、少し部屋を片づける。洗濯物を干し出すのは妻にやってもらい、メール・チェックなどをして午前中を過ごす。
11時過ぎに、妻と一緒に家を出て、シティへ買物に出る。フリーウェイ経由の290番バスでQVBへ行き、まず、妻の小遣いを現金化するため、歩いてピット・ストリートのアメリカン・エクスプレスの窓口へ行く。それからセント・ジェームズまで歩き、380番バスでオックスフォード・ストリートへ行き、先日息子と入った「サイゴン・ベイ」で昼食をとる。ゴイ・クオンに、魚料理とポーク・ジンジャーなど、しめて2人で45ドルほどだったので、50ドルを置いてくる。食事を済ませてから、だらだらとオックスフォード・ストリートをいつものように歩き、ゴウイングスに入って50ドルほどのハットを買う。これは妻からのプレゼントにしてもらった。
そのままレコード店「HUM」の近くまで行き、サーキュラー・キー行きのバスに乗ってセント・ジェームズまで戻る。ウールワース・メトロで写真の現像を回収し、新たに2本を現像に出す。
QVBから288番バスで、マコーリー・センターへ行き、まずテルストラ・ショップと薬局で用事を済ませてから、ビッグW、ウールワースとまわり、けっこうな量の買物をする。ビッグWでは妻のリクエストでUNOを買った。
506番バスで帰宅すると、娘が既に帰ってきており、息子も程なく帰宅した。息子は、今日も無難に過ごしたようだが、電話をしてきた学校の責任者F氏には、先方が不在でまだ会っていないという。とりあえず、来週前半までは、まだ要注意のようだ。
洗濯物を取り入れたり、ごみ箱を道路脇に出したり、庭の草をかまったりしているうちに、ふと気づくと、妻と子供たちはUNOを始めている。妻は子供たちと、学校のことなどをいろいろ話していたようだ。
その後、お茶を入れて菓子類を食べはしたが、夕食は遅めにしようということになる。テレビの前でごろごろしながら、シンプソンズやニュース番組を見ているうちに、うとうとしてしまい、妻が毛布を掛けてくれた。
夕食は、息子と妻が、野菜スープやもやしとベーコンの炒め物を作り、昼の残りをテイクアウェイした魚料理なども並べて、けっこう満腹になるまで食べる。
食後は、妻が課題作業に取り組んでいる横で、iBookの方をいじって明日以降に行うページ更新の準備をする。
娘は食後すぐ、息子も11時頃には休んだが、妻は夜中の12時過ぎまで頑張って英文を綴っていた。妻が休んだ後、すこしパソコンをいじり、1時過ぎまで起きていた。
■ 2001/10/19 (Fri)
人文地理学教室を訪問
このところずっと同じような時間に起床している。今朝も7時半頃に起きる。どうやら、娘が部屋の暖房を入れて、テレビの前で毛布に包まってテレビを見ていたようで、暖房が入ったまま、毛布と枕が放置されたまま、娘は家の中をうろちょろしている。息子に声を掛けて起こし、学校へ送り出す。出かける際に、今日こそ学校のF氏とちゃんと話をするよう、念を押す。
娘も送り出してから、自分も大学へ行く支度をする。今日は9時半に、人文地理学教室のR先生にアポイントをもらっているので、9時過ぎには家を出る。久々にパソコンを2台背負い込んでの移動である。
ほぼ定刻にR先生の部屋に到着し、11時頃まで、様々な話題で話をする。R先生は経済地理学者だが、趣味は音楽でギターを弾き、市民の立場でコミュニティラジオにもコミットしているという、まさに話を聞くにはうってつけの人物である。地理学の話、音楽の話、その他諸々の雑談をして、シドニーでコンタクトをとるべき人物を複数教えていただく。また、人文地理学教室の他のメンバーと話す機会をアレンジしてもらえるということになり、大いに有益な打ち合わせとなった。
11時過ぎに研究室に戻ると、妻の伝言が置いてあった。彼女の実習は午前10時から午前中いっぱいなので、一緒に昼食をとるつもりにしていたのだが、昼食は知り合いと一緒にとるかもしれないので、午後1時までに現れなければ一人で済ませてくれというメモだった。
結局、久々に小さなページの更新などをしているうちに午後1時をだいぶ回った。妻が来ないので、学生食堂へ1人で行き、食事をしようとしたら、ちょうど妻が、韓国人の同級生Hさん(やはり親子で留学している)と話をしているところだった。食事を済ませた後、コーヒーを飲みながら3人でしばし話をする。
食後は、2人といったん別れて書店生協へ行き、マコーリー・ディクショナリーの大判のものを買う。けっこうな重さである。その後、研究室で作業の続きをしていると、妻が戻ってきた。それから1時間ほど、妻もインターネット・サーフィンをして過ごす。
4時半過ぎに研究室を出て、バスでマコーリー・センターまで行き、ウールワースで食料品など買物をする。家に戻るともう子供たちも帰っていた。妻と子供たちは、UNOを始めて盛り上がっている。今のうちにと思い、風呂に入ってゆっくり、ぼんやりする。みんなでシンプソンズの新作(ハロウィーンがテーマ)を見てから、夕食。炒め物、サラダ、野菜スープにご飯という地味なメニューである。
夕食後、息子とエッピングまで出かける。9時過ぎに家を出て、バスでエッピングへ行き、日曜日のディナーの予約を焼肉レストラン「BBQ King」に入れ、トルコ系のピザ屋でピザとケバブをテイクアウェイし、さらに中国系のデリ風の店で、フィッシュ・アンド・チップスをテイクアウェイする。
10時過ぎに駅のバス停から290番バスに乗り込み帰宅。金曜夜の市内行きということで、既に多少出来上がった感じの学生たちが、途中から乗り込んでくる。10人ほどの集団で、過半は女性だが、車両の後ろの席を占領してとにかく大騒ぎをしていた。
帰宅後は、rage を録画しながら見る。
■ 2001/10/20 (Sat)
土曜学校へ見学に行く
前夜は、rage の録画をセットして2時間ほど仮眠した後、3時少し前に息子に起こしてもらい、引き続き録画しながら rage を見る。その後、息子が寝た後もずっと起きていて、5時頃に再度床につき、8時過ぎに起きる。
朝食はありあわせで済ませ、9時半頃に娘と一緒に家を出て、カマレー小学校で行われている、土曜学校(日本語学校)の見学に行く。フリーウェイ経由の290番バスでウィンヤードまで行き、208番バスでカマリーへ向かう。学校に到着したのは10時半頃で、授業の最中だった。どこへ行けばよいのか皆目分からず、日本語で授業をしている声に引かれて2階へ上がり廊下から授業の様子をうかがう。10時40分に授業が終わり、とりあえず教室に一つに入って先生に声を掛けてみると、そこがちょうど6年生の教室で、11時ちょうどからの3時間目の授業を娘に見せてもらえることになる。ティータイムの20分休みの間、校庭に出てみると、ざっと百数十人はいそうなくらい子供たちがいる。学齢は幼稚園児から中学生までで、少数ながら面立ちが白人的な子供たちや、まったくの白人の子供もいる。しゃべっている言葉は日本語が中心とはいえ、たどたどしい日本語も多いし、英語もどんどん飛び交っている。
3時間目の授業が始まる前に教室に戻り、教室の隅に娘を座らせ、事務的なことをたずねられる場所を探しに行く。1階の教室の一つ(普段は幼稚園学級が使っている部屋)が、事務局になっていて、そこで手続きのことをAさんから教えてもらう。その後は、娘がいる教室の前の廊下で待機、やがて11時45分になって授業が終わり、娘と歩いてカマリーのバス停まで戻る。途中で、フィッシュ・アンド・チップスとダイエット・コークを昼食代わりに買う。バスで北シドニーのヴィクトリア・クロスまで戻り、290番に乗ろうとしたのだが、タイミングが悪くしばらくバスが来ないことが分かる。ベンチでフィッシュ・アンド・チップスを食べてしまう。やがて、500番台のあまり見かけないバスがきたのだが、セント・レナーズまでは行きそうだったので、とりあえずこれに乗ってセント・レナーズで下車する。ワサビ・カフェが開いていれば立ち寄るつもりだったが、土日は休みということが判明し、しばらくバス停のベンチでバスを待つ。家の近くまで直行する便がしばらく来ないので、最初は、レーン・コーヴで乗り換えようと思っていたのだが、どういうわけか290番バスが来たので、これ幸いと乗り込む。
帰宅してみると、妻が庭で芝刈り機を使おうとしているところだった。何でも息子とUNOをして負けた罰なのだそうだ。妻と子供たちはまたUNOを始めるようなので、こちらは昼寝する。
3時過ぎに娘に起こされ、妻と娘と3人でマコーリー・センターへ買物に行く。息子は、自分の部屋で昼寝をしている。
ビッグWで、枕と掛け布団、カバー類を買い、ウールワースへまわって食料を買い込む。合わせて150ドルくらいになった。290番バスで帰宅。
帰宅後は、またUNOやトランプに興じる妻と娘を横に、パソコンをいじって。メールチェックをしたりする。夕食は、手抜きで済ませることになり、ラーメンを作ることになったが、娘は私の作る野菜ラーメンが気に食わないようで、自分でラーメンを用意し、前にウールワースで買った肉団子のような小ぶりのハンバーグを温めて、とっとと先に食事を済ませてしまう。
台所が空いたところで、野菜ラーメンを作り始めたが、ちょうど息子も起きてきたので、途中から3人前にして調理する。こちらにもハンバーグを添えて出す。前日にティーバッグで買ってきたジャスミン茶を入れる。
夕食後は、また3人でのゲームが始まった様子だったので、台所を少しだけ片付けたり、パソコンをいじったりして過ごす。この間、何回か紅茶を入れ直す。
やがて、娘と妻は部屋に入り、寝る体制になる。息子は今夜も遅くまで起きているつもりの様子だ。やがて妻が部屋から出て来た。どうやら何か虫にでも指されたのか、両腕にじんましんのような鳥肌が立っている。相当痒いらしい。妻は、とりあえず風呂に入ってから、課題作業をやり始める。11時をまわり、まず noise tv、引き続き rage を録画し始める。しかし、既に相当に眠いので息子に深夜3時前に起こしてもらうよう頼んで床に就く。
■ 2001/10/21 (Sun)
焼肉を堪能
前夜と同じように、3時少し前に息子に起こしてもらい、rage を録画しているテープを交換する。しかし、今日は眠いので、すぐ寝床に戻る。
7時過ぎに一度起きたが、また寝直し、結局、10時頃に起床する。
前夜の rage はけっこう面白い内容だったので、録画したビデオをしばらくゆっくり見る。途中、11時過ぎに妻に声を掛けて、ブランチに野菜ラーメンを作り、出来上がったところで起こす。
留守宅から電話が入り、身内の訃報を聞く。
しばらくは、メールを書いたり、ビデオを見たりしてだらだら過ごしていたが、その間に妻と子供たちは UNO を始めた。結局、最後に1シリーズ(10回戦)だけ付き合ったのだが、最後は大負けした娘が癇癪を起こして泣き出すような事態になってしまった。まあ子供にはよくあることだが。
午後3時頃に、1人でシティまで出かける。シティのウールワース・メトロで写真を受け取るためだが、日曜日とあってバスがなかなか来ない。ようやく290番バスが来てQVBに着いたときには4時を大きくまわっていた。写真を受け取り、安売り店を少し冷やかして、QVBへ戻ったのだが、またまたバスがなかなか来ない。ようやくやってきたのは288番だったが、とりあえず乗り込む。野菜類の買物があったのを思い出し、最初はコックス・ロードのノース・ライド・センターでスーパーによろうと思ったのだが、バスで差し掛かってみるとしっかり閉まっている。結局そのままマコーリー・センターまで行って、ウールワースで買物をする。この段階で、もう6時近くなっていた。
今日は、夕食をエッピングで食べるつもりで6時半に予約してあるのだが、時間的にもう余裕が無い。ところが、バスが一向に来ないのである。結局6時半近くなってきたので、いったん戻ることをあきらめて、家に電話を入れ、直接エッピングヘ向かうように頼み、バス停に戻る。
バス停で、先日、日本人学生会で会ったNさんがいたので立ち話。センターでアルバイトをしているのだそうだ。彼女はようやくやって来たシティ行きの290番バス(帰宅するためにこちらも待っていたバス)に乗り、去っていった。程なく、エッピング行きの288番バスが来たのでこれに乗り、エッピングで焼肉屋 B.B.Q.King に着いたときには、既に7時を回っていた。さらに遅れて7時半頃に3人が到着し、夕食。
ここは、内装などもこぎれいで、「接待に使える店」という感じ。メニューを見ると酒類も豊富だし、結構繁盛しているようだ。牛・鳥・豚と、焼肉を堪能して、90ドルほどだった。
8時40分過ぎに店を出てバス停まで戻ったのだが、帰りのバスは9時11分まで無いし、タクシー溜りにもタクシーはいない。娘と少し探検し、まだ開いているピザ屋を見つけたので、バス停まで戻ってしばらくピザ屋に行こうと妻と息子を誘ったのだが、結局そのままバス停でバスを待つことになる。時間通りに290番バスに乗って帰宅。
帰宅後、娘はすぐに寝てしまったので、妻と息子と3人でお茶を入れ、ケーキを食べる。
いつもとは違って、妻が私の寝床で寝て、私が(娘がジグソーを広げて半分くらいしか使えない)妻のベッドで寝ることになる。まだ起きている妻と息子を残して先に寝る。
■ 2001/10/22 (Mon)
初めて、いろいろ
6時頃に目が覚めて居間に行くと、いつもとは違って妻だけが起きている。昨夜は、結局息子のベッドで休んだようだが、体調が思わしくないそうで、よく眠れないらしい。息子は私の寝床で熟睡している。
7時少し前に娘が「デジモン」目当てに起きてきた。入れ替わりで妻が空気ベッドで寝直す。
こちらもまた眠たくなったので、ジグソーの置いてあるベッドで寝る。一眠りしてからふと気づいて起きてみると既に8時半。息子を起こさなければと慌てて飛び起きたが、既に子供たちは2人とも出かけた後だった。学校がある日に息子が私より早く起きたというのは、初めてではなかろうか(後で妻から聞いたのだが、娘に息子を起こすように言っておいたのだそうだ)。すぐまた寝ようとしたが、実家からの電話でまた起き、ようやくそのまま起きていることになる。
たまっている地元週刊紙の記事をまとめて読み始める。首相のジョン・ハワードが、イーストウッドに選挙事務所を構える地元選出の議員とは知らなかった(ベネロング選挙区)。
洗濯機を回し、シャワーを浴びる。しばらくして11時少し前に妻が起き、ブランチを食べる。洗濯物を干し出してから、昼前に妻と一緒に家を出て、ノース・ライド・センターまで歩いて行く。初めてハットを被っての外出である。郵便局で用を足し、288番バスで大学へ行く妻を見送ってから、こちら領事館へ娘の小学校教科書をもらいに行くため、シティ行きの288番バスを待った。程なくしてやってきた288番バスに乗り込んだのだが、トラベル・パスが見当たらず、とりあえず降りることにする。結局、パスは普段使わないはずのポケットに入っていた。気を取り直して次に来たバスに乗ろうとしたら、これはドライバー・トレイニングで当然乗れない。ようやく来たのは506番のサーキュラー・キー行きだった。これに乗ってQVBまで行ったのだが、車両が旧式だったためか、運転が少々乱暴だったのか、最後はちょっと気持ち悪くなって下車した。
歩いてマーチン・プレイスの日本総領事館(コロニアル・センターの34階)まで行ったのだが、着いたのは1時15分頃で、まだ昼休み中だった。窓口にいたのは留守番のオーストラリア人女性で、1時30分を回ってから再度来るように言われる。少し離れたところにあるNSW州政府の刊行物センターへ行き、統計書などを買って、店員からいろいろと情報を教えてもらう。
領事館に戻って、教科書をもらう。土曜学校で使うのは国語だけなのだが、理科、社会、算数の教科書も一緒にもらった。
歩いてQVBまで戻り、途中でヨーク・ストリートの AusInfo で議会のハンドブックなどを買い込む。銀行のカードが無いことに気づき、とりあえずクレジット・カードで支払う。
288番バスでレーン・コーヴまで行き、290番に乗り継いで帰宅。3時を少し回っていた。妻と一緒に家の中を探してみたが銀行のカードが見当たらないので、電話をかけてカードの再発行を依頼する。そうこうしているうちに子供たちが帰ってきた。隣家の主人が庭のミントを分けてあげようかと声を掛けてくれたので、ありがたく頂戴すると言うと、しばらくして150グラム分ほどを持って来てくれた。さっそく紅茶に入れてみる。新鮮なだけあってすばらしい香りである。
妻は、夕方の授業に行き、夕食は息子が、肉野菜炒めとベーコンもやし炒め(娘の好物)、サラダ、みそ汁、ご飯とひと通り用意する。8時前に食べ始め、食べ終わってひと休みしているところに、妻が帰ってきた。初めて、1人で夜の授業から戻ってきたことになる。
まだ起きている妻と息子を残し、11時前に寝床に入り、少し翻訳の続きを寝床でしようと思っていたのだが、あっという間に寝てしまった。
■ 2001/10/23 (Tue)
久々にインターネット三昧
昨夜の寝方が悪かったのか、早すぎたのか、未明に一度目が覚める。時間も確かめず再度眠ったのだが、今度は5時半過ぎに目が覚めてしまった。確かに陽が上がるのが早くなっている。夏時間への切り替えももうすぐである。
久々にSBSでNHKニュースを見る。こうしてゆっくり見てみると、国内の状況(オーストラリアは本格的に派兵を決め、昨日は陸軍の兵員を乗せた海軍の艦船がパースから出港している)を別にすれば、もっぱらアメリカやイギリスのメディア経由の映像素材を使いまわしているオーストラリアのテレビでは見ないような独自映像が、NHKにはけっこうある。北部同盟軍が、旧式のT-62を固定砲台のようにして砲撃している映像(1人で操作をしている)など、(少なくともかつてはそこそこの)ハイテクだったはずのものをローテクに使いまわし、使い込んでいく様子がうかがえて、奇妙な面白さを感じてしまった。
6時を過ぎるといつものように娘が起きてきたので、入れ替わりにまた床に戻る。8時25分頃にまだ息子が寝ているのを娘が起こそうとする声で目が覚め、慌てて息子を無理やり起こす。何とか35分頃に送り出したものの、何かと心配である。
娘も程なく出かけ、入れ替わりに妻が起きてくる。野菜ラーメンを朝食に作るが、今日は少々味付けを失敗した。午前中、娘の小学校とチャツウッドのIECから電話があり、来週の月曜の朝にチャツウッドへ行くことになった。(娘は学校から、紹介状を貰ってきた。)
洗濯をして、11時頃に大学へ出かけようとしたのだが、忘れ物をしていったん家に戻り、ちょうど仕上がった洗濯物を干しだして、再度大学へ向かう。銀行のカードがしばらくないので、出かけ際に、妻から300ドルを現金で貸してもらう。
大学ではずっと研究室にいてインターネット三昧である。準備中の調査の関係のページ探しとあちこちへのメール送信、そして自分のサイトの小さな更新で丸一日を使った。4時過ぎに家に電話を入れ、5時からの授業に出る妻と一緒に娘が研究室まで来ることになった。妻を授業に送り出してから研究室を出て、娘とマコーリー・センターで買物をする。ビッグWで菓子類、ボーダーズでパディントン・ベアの本、ウールワースで食品類を買う。6時過ぎに帰宅。
夕食は息子がカレーを作ることになっているようで、準備が進んでいる。娘が、小学校の父兄会(P&C)が今夜ではないかというので、6時45分頃に家を出て、半信半疑で小学校まで歩いて行く。小学校についてみると案の定、事務棟の電気は点いているが、入り口の鍵は閉まっている。ドアをガチャガチャした音を聞きつけて、校長のA先生がやってきた。もちろん今日は違っていたのだ。騒がせた詫びと、娘のためにIECの件を手配してもらったことへの謝意を述べて、すぐに帰ることにする。
小学校を出たところで、ちょうど288番バスがきたので、いったんセンターへ行こうと思いついて、このバスに乗る。センターでは、またウールワースへ行き、冷凍食品などを買う。ところが、出て来たタイミングが悪かったようで、バス停で30分以上バスを待つ羽目になった。
帰宅後、妻を待たずに先にカレーを食べる。どうした加減かまったくスープ状なので、小麦粉を入れてとろみを出そうと息子と奮闘する。娘は、ママが帰ってから一緒に食べると言って、息子のベッドで沈没している。
9時半過ぎに妻が帰宅。娘は結局起きないので、自分のベッドまで運び、3人でカレーを食べる。先ほどより良い加減だ。
今夜も、妻と息子を残して先に休む。
■ 2001/10/24 (Wed)
バスに乗らない日
6時過ぎに一度目覚めるが、再度就寝。8時近くなって娘の声で起き、早速息子も起こして、学校へ行く準備をさせる。8時半頃に3人で家を出る。学校の制帽を買うのに、私が娘についてゆく必要があるためである。小学校の制帽はレジオネアという野球帽の後ろに日除けの布がついているようなタイプと、クリケットというつば広ハットのタイプがあり、どちらを被っていてもよいのだが、最初に買ったクリケット帽を娘が忘れていくことが多いので、鞄に入るレジオネアを買うことになったのである。
制服の売店は、ボランティアの運営で水曜日の朝に1時間だけ開いている。学校に着き、売店までたどり着いたのは8時30分過ぎだったが、始まるのは45分からだった。しばらく外のベンチで待つ。
売店が開いて帽子を買う。M家のお父さんとお嬢さんたちも、制服を買いに来ていた。
歩いて家に戻り、しばらく、書かなければいけないメールを用意したりして過ごす。
やがて妻が起きて来て、大学の課題をやり始めたので、こちらも翻訳作業などを進める。そのまま、娘と息子が戻ってくるまで、一日中作業をしていた。
午前中は天気が悪く雨がぱらついていたので洗濯をしそびれていたのだが、午後になって陽が出てきたので、3時過ぎに慌てて干しだしたのだが、結局乾ききらないまま夕方には取り込んだ。
夕食は、昨日のカレーに、魚介類と野菜の炒め物を作って出す。ほかの家族は食べないのだが、安いオリーブ漬けを開けて、何個も食べる。
デザートには、チョコレート・ケーキにアイスクリームを添えて、メープル・シロップをかけてみた。なかなか美味しい。
就寝は10時過ぎで、今日も、妻や息子より早い。
バスで出かけないというのは、こちらに来てからは初めてかもしれない。
[ほんの一週間前(17日)に同じような日があって、これまた同じような表題をつけているのに気づかずこんなことを書いている。我ながら、いい加減なものである。(2001.11.01.記)]
■ 2001/10/25 (Thu)
脂ののったサーモン
今日も6時過ぎに目覚めるが、再度布団に潜り込み、7時30分頃に起きる。例によって娘はテレビでデジモンを見ている。7時40分頃から息子に声を掛け始め、いつものように8時に起こして、学校へ行かせる。娘はいつもより少し遅めの8時40分頃に出かける。
洗濯機を回して、昨日乾ききらないまま夕方に取り込んだ娘のジーンズなどと一緒に、洗濯物を干す。
9時30分頃、妻と一緒に大学へ向かう。バスで、マコーリー・センターへ行き、銀行で現金を引き出した後、大学までバスで移動。妻を実習に送り出して、研究室で作業をする。メールを数本書き、問い合わせの電話をかけたりしているうちに昼時になるが、1時過ぎまで妻が研究室に来なかったので、学食へ行く。ところが、雨でもないのに、なぜか普段より混んでいて、仕方なく立って食べていると、妻に肩を叩かれた。実習のあとに打ち合わせをしていて遅くなったのだそうだ。再度テーブルを探し、ようやく座って一緒に昼食を食べる。
食後、コンピュータ室に行く妻と別れて研究室に戻り、3時少し前に研究室に来た妻と一緒に早めに帰宅することにする。マコーリー・センターまでバスで行き、ウールワースで食品類を買う。妻はウールワースの前の刃物屋で、京セラのセラミック包丁をかなりの値段で買う。これまで使っていた包丁やナイフ類全部の値段の20倍くらいの値段である。
290番バスで帰宅。交差点で、反対側の角を息子が通り過ぎてゆくのが見えたが、向こうは気づかない。そのまま、家の前まで息子を追いかけるかっこうになった。
夕食は、カレーに、サーモンの刺身(こちらのサーモンは脂がのっていて大変美味しい)、そしてトマトスープという取り合わせである。刺身は妻が買ってきたばかりの包丁で捌く。
妻はこのところ大学の課題が山積みで、随分頑張っているのだが、ちょっと疲れが出ているようだ。夕食後は娘の宿題を見ていたが、その後はまた資料を読みふけっている。
またもや、妻と息子より早く、11時頃には就寝。
■ 2001/10/26 (Fri)
壊れた!〜直った?
今日は、朝9時にアルティモのTAFEへ実習に行く妻と一緒にシティへ出かけるつもりだったので、6時過ぎに起きる。ところが、起きてきた妻から、一番メインで使っているノート・パソコン(FMV-BIBLO)の調子がおかしいと言われる。昨夜も、随分頑張ってこのパソコンで課題をやっていたようだ。半信半疑で立ち上げてみると、確かにキー入力が変になっている。血の気が引いている感じがした。とりあえず、マウスは正常だが、シフト・キーを押しても記号類が入力されるというでたらめぶりである。
この現象はソフトに関係なくそうなので、キーボードがおかしくなったか日本語OSが壊れたのかと考え、とりあえず、妻に同行してシティへ行くのは止めにして、マコーリー・パークの一角にある FUJITSU Ausrtalia に機械を持ち込むことにする。
息子と娘に続いて、シティへ向かう妻を8時少し前に送り出し、9時半頃に家を出る。歩いて FUJITSU まで行き、受付でパソコンの状態を告げると、中から技術者が出てきて対応してくれた。ロビーで立ち上げようとすると、今度は(家では出なかった)「キーボード接続不良」のメッセージが出て来た。技術者氏に促されて、一緒に建物の裏に周り、ワークショップ内へ入れてもらう。結局、見ている前で2人がかりでキーボードを外し、再接続を試みるところをつぶさに観察できた。
最初は、単純にキーボードを接続から外して差し込みなおしたのだが、再起動しても「キーボード接続不良」のメッセージが再度表示される状態だった。そこで、試しに英語用のキーボードを差し込むと。何とそれなりにちゃんと動くではないか。もちろん、日本語キーボードにしかないキーもあるから、これでは使い物にならない。結局、シンガポールまで日本語キーボードを注文して3〜4日かけて取り寄せるということになる。また、USBキーボードがあれば、それで使えるかもしれないという話になり、元通りに接続し直してパソコンは返してもらった。日本語キーボードが入荷すれば、再度、パソコンを持ち込むことになる。
その足で、大学へ向かい、音楽教室の技官D氏に使っていない iMac のキーボードを融通してもらい、これを接続して起動をこころみると、ちゃんと動いてくれた。これで一安心である。不細工だが、ノート・パソコンにUSBキーボードを差し込んで使えば、ほとんどのことはできる(もちろん日本語入力は少々面倒だが)。
ところが、ところが、である。USBキーボードで使っているうちに、何の気なしにノートのキーボードに触ったら、何と、ちゃんと入力できるではないか。狐につままれたような話だが、要するに直っているのである。恐る恐る、USBキーボードを外して再起動し、普通に使ってみるが、問題なく動くようだ。とりあえずは素直に喜ぶことにして、メールやページ更新の作業をしてから、FUJITSU へ電話を入れて、キーボードの発注をキャンセルしてもらう。
途中で図書館へ行き、雑誌類の使い方をレファレンスでひと通り教えてもらい、最新雑誌の棚の前でしばし過ごす。図書館から戻って、そのまま4時頃まで研究室で作業を続けた。途中で帰宅した妻から電話が入る。こちらに来て初めて単身シティに行き、帰ってきたことになる。研究室からの帰りに、マコーリー・センターへ立ち寄り、ウールワースで食料品を買い込んで帰宅する。
夕食は、何と娘の作ったハンバーグ(ただし量はほんの僅か)、妻の炊いたご飯に、私の作ったトマト・スープだった。
rage を録画しながら見るつもりで、いったん仮眠し、息子に11時過ぎに起こしてもらう。
■ 2001/10/27 (Sat)
娘に甘い父親
前夜は、少しずつ仮眠しては、ずっと起きていた息子に時々起こしてもらい、rage を録画した。息子には、12時少し前、2時少し前、5時頃に声をかけてもらい、それぞれ起きたのだが、最後はすぐには起きられず、結局は6時頃に床から出る。
今日は娘を土曜学校へ連れてゆかなければならない。8時55分の始業に間に合うように、8時少し前に家を出るつもりで準備していたのだが、娘は出かける間際になってお腹が痛いと言い出した。結局、トイレにゆっくり行かせてから、食事は何も食べたくないというのをドーナツをかじらせて、ぎりぎりに家を出る。
290番バスで北シドニーのヴィクトリア・クロスへ行き、ここでカマリー方面へ行くバスに乗り換える。バスを待つ間、娘がニュースエージェントで飲み物を買いたがったので、ダイエット・コークを買ってやる。
学校には始業の15分ほど前に到着。さっそく手続き(誓約書とマネー・オーダーを渡し、ノートやドリル類を受け取る)をして、娘は教室へ行く。ちょうど始業の時間になった頃、学校を出て、ノースブリッジの東京マートへ向かう。いったんカマリーのバス停まで戻ったのだが、しばらくバスが来ないので、この際歩いてみることにする。カマリーとノースブリッジは、サスペンション・ブリッジという橋で結ばれているのだが、現在の橋は古くないはずなのだが、装飾がなかなか古風で特徴がある。大して時間もかからずノースブリッジまで到着。この間、バスには1回だけ抜かれた。
東京マートへ行くと、月曜日から10日ほど改装で休むというお知らせが出ていて、商品棚もかなり空になっていた。息子のリクエストの業務用のカレーや、娘の好物の冷凍うどん、菓子などを買う。ショッピング・センターの上の階で、25ドルほどの洒落たカレンダー(2002年)を見つけ、自分用に購入。
ミラー・ストリートの突き当りまで歩いて戻り、ここで南行きのバスを待つ。時間はまだ10時を少し過ぎたところである。ウィンヤード行きのバスでかまりーを通り過ぎて北シドニーへ行き、周辺を少し歩く。この辺りはオフィス街という性格が強いようで、土曜日に開いている店は少ない。国際交流基金の図書館も週末は休みで建物にも入れない。
再びバスでミラー・ストリートを北上し、カマリーへ戻る。10時50分頃になっていて、ちょうど授業の間の休み時間だったが、校庭では娘を見かけなかった(私のいたところとは別の一角で遊んでいたらしい)。11時になり、3時間目=今日最後の授業が始まったので、娘がいるはずの6年生の教室の前の廊下に行き、授業が終わるのを待つことにする。ときどき娘の声らしい声も聴こえてくる。iBook で少しだけ作業をする。
11時45分になり、今日の授業が終わった。娘は一番最後に教室から出て来た。
バスで北シドニーに戻り、290番バスの停留所まで行くが、まだ30分以上待たないと290番バスは来ないようだ。しばらくしてやってきたバスに乗り、とりあえずセント・レナーズへ行く。駅ビルにあるマクドナルドで、娘が欲しがっていたディズニーのマスコット類を買う。全部で40ドル以上人形を買い込む(人形は全部で21種類あるのだが、先方が間違って、20種類21体を箱に入れたようだった)。少々手間取ってマクドナルド前から離れ、バス停に戻ったのだが、ほんの僅かの差で1時間に1本しかない290番バスが通過していってしまう。また1時間待たなければと思っているところへ、「レーン・コーヴ・ショップ」行きのバスが来たので、これに乗ってレーン・コーヴで乗り換えることにする。ところがこれが大間違いで、このバスはグリニッジ・ワーフや周辺の住宅地内をぐるぐる遠回りしてゆくバスで、いつまで経ってもレーン・コーヴへたどり行かない。ようやくレーン・コーブの水泳施設の前で下車した。偶然見つけた水泳施設は屋内屋外のプールをはじめ、いろいろと至れり尽せりである。案内のチラシを貰ってレーン・コーブのバス停まで歩いて戻る。
ようやくきたマースフィールド行きのバスで戻り、家の近くで下車したのだが、下車直後にプールのチラシが風で飛ばされてエッピング・ロードに飛んでいった。ちょうど車が来なかったので、車道上に出て拾ってきたのだが、その際に、ガードレールの角に左の内腿をしたたかぶつけ、ジーンズをカギ裂きにした挙句、擦り傷を作ってしまった。足が短いと、こういうときに苦労をする。
帰宅後、買ってきたマックの類などで、遅い昼食にする。妻は、午前中にだいぶ課題作業が進んだようだ。夕食は外食することになり、妻と子供たちはゲームをしたりしてすっかり休日モードである。その間に、洗濯機を回し、午後からになってしまったが洗濯物を干す。
洗濯物は5時近くになって妻と取り込み、7時少し前に全員で家を出てイーストウッドのファゲに食事に行く。
いつものようにいろいろと注文し、40ドルという勘定を45ドル払ってきた。7時40分頃に店を出て8時ちょうどのバスまで買物でもして時間を潰そうかと思っていたら、何と545番チャツウッド行きが来るではないか。とりあえずこれに乗って帰ることにした。
途中で息子とマコーリー・センターで下車することにし、妻と娘を先に帰した後、ウールワースで食料品などを買う。買物が終わってバス停でバスを待っていると、「545番イーストウッド行き」と表示を出したバスが来る。逆方向の臨時便かと思ってベンチに座りなおしたのだが、いきなり表示が「チャツウッド行き」に変わった。どうやら間違えていたようだ。とにかく急遽乗ることにして、帰宅の途につく。帰宅した時には、9時をだいぶ回っていた。
帰宅後、妻と子供たちは、また UNO に興じているが、こちらは睡魔が襲ってくるので、10時前から仮眠する。
■ 2001/10/28 (Sun)
バスに乗らない日曜日
NSW州では、今日から夏時間になり、時計が1時間進んだ。日本との時差も、2時間に拡大したことになる。
前夜の続きで rage を録画するために未明に起きようと思い、息子に自分が寝る際には声を掛けてくれるように頼んでおいたのだが、3時過ぎに息子の声で一時的に目覚めたものの、そのまま眠ってしまった。7時過ぎにようやく目覚めたが、娘が起きてきてテレビを見始める。
娘は、セント・レナーズで手に入れ損ねたマスコットを探しに、近所のマックまで行きたいと言い出す。結局、8時半頃に、娘は妻を起こしてOKを取りつけ、独りで意気揚揚とキックボードで出かけていった。娘が戻って来るまで、妻は心配気だったが、娘はなかなか帰ってこない。結局1時間ほどして帰って来るまでの間に、娘は家から歩いて10分ちょっとの場所にある店と、マコーリー・センターの店を回って来たのだが、結局、何も買わなかったらしい。
今日は、誰も出かける予定はなく、妻は、洗濯を干したりした後、専ら読書をしている。娘は宿題をしたり、絵を書いて過ごし、息子は昼頃まで寝ていた。自分も、午前中は、FMVで遊んだりしていたのだが、午後からはiBookを使って翻訳作業に取りかかるが、時おり睡魔に襲われ、テーブルに向かって座ったまま熟睡する。やがて、妻と子供たちが UNO を始めた。途中から少しだけ参加する。
一日ずっと家の中にいたせいか、夕方近くになってから外に出たくなり、散歩のつもりで歩いて大学まで行く。どうせ歩いて行くならと思い、普通の徒歩の径路ではなく、エッピング・ロードからシュリンプトン・クリーク沿いの遊歩道に入り、住宅地を抜けて、マコーリー・センターの横に出た。そのまま、日曜日も使える、図書館のコンピュータ室まで行き、しばらくネット・サーフィンをする。気づくともう8時近くになっている。マコーリー・センターまで歩いて行き、夕食か夜食になると思い、ペント・タイでグリーン・カレーを2人前テイクアウェイにする。帰りも歩いて戻ったので、今日もバスには乗らなかったことになる。
妻と子供たちはスパゲティの夕食を済ませており、さっそく息子が配膳してくれた自分の分と、持ってきたばかりのカレー1人前で夕食にする。
食後、風呂に入ってから、少し翻訳作業をするが、結局、妻と息子を残して先に床に就く。
■ 2001/10/29 (Mon)
娘をチャツウッドに連れてゆく
朝5時頃に一度目が覚めるが、SBSのNHKニュースまで起きている自信もなく、またまた床に戻り、7時過ぎに床を出る。今日は、チャツウッド高校にあるIECへ、9時30分までに娘を連れてゆくことになっている。8時頃にいつものように息子を起こし、妻にも声をかける。息子は、いつものことで8時半頃ようやく家を出る。こちらも8時45分頃に、妻も一緒に3人でバス停に向かう。娘が帽子を忘れたので、いったん家に戻ったのだが、バス停まで走ってゆくと、何とちょうど息子がバスに乗り込むところだった。後で聞いたら、案の定、20分ほど遅れて学校に着いたらしい。
どういうわけかいつもより全体的にバスが遅れているようだ。夏時間になって最初の平日なので、遅刻気味の人が多いのではないかと妻が言っていたが、オージー気質からするとけっこう本当かもしれない。遅れてやって来た545番バスに乗ってチャツウッド駅の西口まで行く。娘は前に一度連れてきたことがあるが、妻はチャツウッドへ来るのが初めてである。チャツウッド高校まで歩き、IECに到着したのは、ちょうど約束の9時30分だった。娘はテストのために別室へ連れてゆかれ、妻と二人で廊下の椅子で待つことになった。ところが思ったより時間がかかり、娘が戻ってきたのは11時を回ってから、さらに少し待って、責任者の先生と面談になったのは11時40分頃だった。結局、高校を出たのは12時少し前で、昼食を取りに駅まで戻る。東口側に出て、近くのショッピング・センターに入り、フード・コートで昼食をとる。妻と娘はイタリア系と思しきサンドウィッチの店、こちらは韓国人の寿司屋から自分の好きなものをとって一緒に食べる。娘が味噌汁を欲しがったので、先に食べさせる。早めに食べ終わった娘は、またまたマクドナルドを探して自分だけで探索に出かけた。結局、娘が見つけた店には、彼女が欲しかったものだけでなく、全部のマスコットがなくなっていたらしく、手ぶらで帰ってきた。
再び西口に戻り、545番バスで家の近くまで戻り、妻は帰宅。こちらは娘と一緒にそのまま小学校へ行き、ちょうど昼休みだった担任の先生にチャツウッドIECの件で報告をする。
歩いて帰宅し、一服してから、朝持って行くのを忘れていた書類を用意して、再度チャツウッドへ行く。駅までは行かず途中のバス停で降りて高校まで歩いたのだが、このコースは住宅地の中の一本道なのだが、地形的にけっこう深い谷を横切る形になっていて坂がきつい。IECに着いたのは4時頃で、書類のコピーをとってもらいすぐに駅へ向かった。
チャツウッド駅からは電車でタウン・ホール駅に向かう。車内では、2歳くらいの男の子とお母さんが目の前の席に乗っていて、男の子がおぼつかない言葉でいろいろ発声するたびにお母さんが復唱したり、正しく言い直したり、質問したりしているのが面白かった。そのうち、男の子がこっちの席を覗き込んで「Monkey ! Monkey !」と言い出した。お母さんの方からは見えないのだが、私の鞄につけているサルの人形を見つけて言っているのだ。お母さんが、「どこにサルがいるの?」と言っているので、黙って鞄を持ち上げて、人形を見せた。
タウン・ホール駅で下車して、AusInfoに行き、賭博産業に関する生産性委員会の報告書を探しに行く。これは要約版しかなかったのだが、一緒に放送についての報告書と、移民統計を買って帰る。
帰宅したのは午後6時頃で、妻はもう授業に行っており、子供たちが夕食の算段をしている。先に、自分の作ったトマト・スープと昨日買ってきたタイ料理のグリーン・カレー弁当の残りで夕食をとり、7時過ぎに息子が作った買物メモを持って家を出る。まず、バスで大学まで行き、図書館で翻訳作業の関連文献を探してコピーする。作業は順調に進んだが、それでもけっこう時間が経つのは早い。9時近くなったところで、バス停に行ってみると、妻がいたので声をかけ、一緒にマコーリー・センターまで歩いて行き、ウールワースで買い物をして帰宅。ゆっくり風呂に浸かり、早めに就寝する。
■ 2001/10/30 (Tue)
つい何か買ってしまう
朝7時少し前に起床。いつものように娘が起きていて、テレビ(バラエティ形式でアニメを数本流す「Cheez TV」)を見ているのだが、なぜかタスマニアの自然公園の紹介などをやっていて思わず見てしまう。今は、デジモンやドラゴンボールZをアメリカ製のアニメと一緒に流している。
先週末、食べた割りに運動していなかったせいか、このところ横ばいだった体重がまた増えて、リバウンド気味になっている。ちょっと気になっていて、朝食はありあわせのもので軽く済ませる。
息子を起こし、いつものように8時半頃送り出す。娘も40分頃に出かけた。同じ頃起きてきた妻の朝食には、またまた野菜ラーメンを作る。
妻は、数本のレポートの締め切りに追われはじめている。朝のうちはメール・チェックなど自分のことをFMVでやっていたのだが、早めに妻に明け渡して、洗濯をしたり、台所を片づけたりしながら時間を潰す。本当は、こちらも目を通さなければいけない論文があるのだが、集中が必要な作業はできない気分なので、だらだらと効率悪く家事をする。
11時過ぎに家を出て、シティへ向かう。ところが定刻より早めにバス停に着いたのに、シティ行きが来ない。そのまま20分ほどしてチャツウッド行きが来たので、こちらに乗って終点まで行き、12時ちょっと過ぎの電車でウィンヤードまで行く。駅を出てすぐの銀行で用を足し、だらだらと歩いてブリッジ・ストリートのNSW州土地局(Lands Department)まで行く。ここには、地図と航空写真の販売所があるのだが、最初は間違って環境保全関係の資料を売っている部屋に迷い込んでしまった。改めて、地図販売所の方へ入りなおし、店員にいろいろと質問をして資料も貰った。ところが、無料でもらえるものばかりだったので、ついでに自宅近くの2万5千分の1地形図を買った。
次に、NSW州立図書館へゆき、地名関係のレファレンス資料について質問し、蔵書目録をしばらく眺め、開架を見て回った。今日は、ゆっくり時間を使うつもりはないので、あくまでも下見である。途中で、しっかり脱線し、シェークスピア地名・人名事典なるものを見つけ、しばし立ったまま読みふける。Falstaffの名が、別名だったものから変えられた事情は、恥ずかしながら知らなかった。
午後2時過ぎに図書館を出て、QVBまでゆっくり歩いて戻る。途中、マクドナルドに入り、娘が欲しがっている人形がないかと見てみたが、そこにはなかった。さっきの地図販売所でもそうだったが、只で用事がすんでしまったのに、それで帰れないところが日本的メンタリティで、つい何か買ってしまう。結局、4ドル・ランチなるセット(チーズ・バーガー、ポテト、アップル・パイと飲み物)を買って、昼食にする。
QVBに着いた時間のタイミングが悪く、しばらくバスが来ない。そこで、バス停とヨーク・ストリートを挟んだ反対側にある古書店兼古レコード店Ashwoodsに入る。あまり時間がないのでほんの素通りだが、1950年代初版のジャズ史のペーパーバックを購入。
バス停に戻り、3時26分定刻の290番バスに乗ったのだが、発車してしばらくしてバスが止まり、「ちょっと不具合があるので数分待ってくれ」と運転手が車内に向かって大声で告げ、何かガチャガチャやっている。ちょうど検札のために乗り込んできていたインスペクターが2人いたのだが、彼らもいったん降車したのだが、また乗り込んで何やら話し合っている。結局、バスはインスペクターたちを乗せたまま再発車し、ハーバー・ブリッジを渡って北シドニーまで着いたが、ここで運行を取りやめると言われ、降りることになった。
とりあえず、セント・レナーズまで別のバスで行き、下車して家に電話を入れる。例のカフェ・ワサビでお土産に巻寿司を買って帰ろうと思ったのだ。ところが、店まで行ってみると、今日はネタ切れで、店頭に置いてある分しかないというではないか。ワサビ抜きのものをわざわざ作ってもらうつもりだったので、今日のところは何も買わずに帰ることにする。
バス停に戻るとレーン・コーヴ・ウェスト行きが来たので、これにのってレーン・コーヴまで行く。ところが、さっき買ったペーパーバックを拾い読みしているうちに、乗り過ごしてしまい、レーン・コーヴの商店街の裏手まで行ってしまった。少し歩いてエッピング・ロード沿いのバス停まで戻る。レーン・コーヴの商店街を歩くのは初めてだったが、店頭に「豪酒」(オーストラリア産の日本酒)の樽を積んだ、きれいな感じの居酒屋があったり、いろいろ発見して面白かった。
ようやく5時少し過ぎに帰宅。妻は授業に行ていない。息子が少々機嫌が悪いので気になったのできいてみると、学校で説教されてきたらしい。まあ、仕方ないところもある。息子に、夕食の準備をさせることにして、7時少し前に家を出て、バスでマコーリー・センターまで行き、ウールワースで食品を買う。買物を抱えてバスで大学へ行き、図書館のコンピュータ室で調べ物をする。ところが思ったより上手く行かない。気を取り直して、雑誌(学術誌)のコーナーへ行き、関心のある分野の雑誌の所在を探して回る。
9時少し前にバス停まで戻り、いつもどおりそこにいた妻と一緒に帰宅。息子は、昼のこともあってか、部屋に入って寝ている。娘は妻が帰るのを起きて待っていたようで、妻の食事後は宿題の相手をしてもらっている。前日買った種無しスイカを切る。けっこう甘くて美味しい。
今夜は、息子はとっくに寝ているし、明日朝早くから実習に出かけなければいけない妻も10時過ぎには娘と寝てしまったので、久しぶりに独りで遅くまで起きている。それでも12時過ぎには眠くなったので床に就いた。
■ 2001/10/31 (Wed)
アポなしで息子の学校へ
朝6時半頃にいったん目が覚めたのだが、娘と妻が起きていて、妻はもう出かける準備が整っている。朝の最初の時間から実習(授業の見学)がアルティモのSITのTAFEであり、事前の打ち合わせもあってこんな時間に出かけるのである。6時40分頃、もう出かけるという妻を見送って、まだ寝床に戻る。次に目が覚めたのは、息子が出かけようとするときだった。流石に昨日あれだけ早く寝ていたので、いつもより早起きしたはずだが、それでも出発は8時15分だった。平日にこっちが遅く起きたのは、珍しいはずだ。大声で声をかけて送り出したものの、そのまま寝床から動かずグズグズしているうちに、今度は娘が出かけるというので、こちらもようやく部屋を出て、8時40分頃に送り出す。
妻が来てから、この時間に家で自分だけになってしまうというのはほとんどなかったように思う。
洗濯や皿洗いを済ませ、今日締め切りの短い原稿を仕上げてほっとしたら、もう10時半を回っている。妻と昼食を一緒にするつもりでQVBで11時半に待ち合わせをしていたのだが、もうぎりぎりの時間である。息子の通っている北シドニーのTAFEに用があるので電話をしなければいけないのだが、さっきかけたときは留守電になっていた。再度電話を入れるがやはり留守電だったので、あきらめて出かけようとしたら、電話が鳴った。妻からである。ところが、「もしもし」と言ったとたんに通話が切れてしまう。これが5回くらい繰り返され、結局しばらくしてようやくつながった。このドサクサで、バスに乗り遅れたので、改めてセント・レナーズのワサビで待ち合わせることにする。
さっそく家を出て、バス停へ行ってみると、最初にQVBへ向かうつもりだった10時台最後のバスも、そのすぐ後のチャツウッドへ行く11時1分の545番バスも、もちろん出た後だった。15分ほど待って、11時19分のチャツウッド行534番バスが来たのでこれに乗り込む。実は、534番がレーン・コーヴ・ロードを北上してきて、ここで右折してエッピング・ロードへ入ることは知っていたのだが、すぐ先の角からいきなり南へ右折して住宅街に入り、さらに288番バスのルートと合流して、エッピング・ロードでレーン・コーヴ川を越えてから、今度は北へ左折して住宅地を回る、ということは知らなかった。途中で白髪のお年寄りがぽつりぽつりと乗ってくる。バスは各停状態になり、ふと気づくと数名しか乗客がいなかったバスが、お年寄りでいっぱいになっている。
結局、思ったより時間がかかり、11時45分頃にチャツウッド駅についた。電車でセント・レナーズへ着いたのは50分ちょっと過ぎだった。妻はワサビの前の木陰で待っていたが、話を聞くと、妻の方もバスを乗り過ごしてゴア・ヒルから歩いて来たそうで、ほんのちょっと前に着いたばかりだった。
ワサビで大き目の巻き寿司を昼食にし、しばらくコーヒーを飲んで、いろいろ雑談する。1時を回ったので、セント・レナーズのバス停へ戻る。ちょうどお葬式の車列が通り過ぎた。こちらへ着てから初めて見たのだが、霊柩車の側面が透明なガラスになっていて、棺が外から見えるのには、少々驚いた。また、親族などの移動はバスではなく、黒塗りのBMWである。でも何台もの車にそれぞれ窮屈そうに乗り込んでいるのは、不謹慎ながら少々ユーモラスに感じた。チャツウッド行きのバスでゴア・ヒルまで行き、アポイントなしで息子のことでTAFEへ相談に行く。責任者の1人であるG氏が対応してくれて1時間近く話をする。とにかくいろいろ問題はあるようだが、事前に心配していたほど大した事態ではないことが確認できてよかった。
帰りはゴア・ヒルから、レーン・コーヴ・ウェスト行きをレーン・コーヴで下車し、商店を見て回る。妻に夏用のハットをプレゼントする。安物だが、陽射しが強いので、昼間に外出するときは必需品である。スーパーでちょっとだけ買物をする。妻は書店でペーパーバックも買っていた。結局、再度バスに乗り直して帰宅したのは3時ちょっと過ぎ。まだ娘も帰っていなかった。
妻は、今日の報告をまとめなければいけないはずなのだが、疲れている様子でベッドで休む。間もなく娘が帰宅し、息子も4時過ぎに帰ってきた。今日学校へ相談に行ったことなどを息子に話す。
夕食の支度をする気が起きず、しばらく手をつけずにいたら、娘が勝手に自分の分だけ奇妙な料理を作り、とっとと食べ出した。
目覚めはしたもののベッドから起きる元気もない様子の妻が、「辛いもの」を食べたいというので、結局、7時過ぎに家を出て、マコーリー・センターまで歩いて行く。裏口側からアプローチして駐車場からセンターに入ろうとしたら、案内係の青年に制止された。夜中まで営業しているウールワースの辺りとバス停のある階層以外は6時半で閉めてしまうのだという。一番近い入口を教えてくれというと、彼が場内巡回に使っているゴルフ・カートに乗せてくれて、マクドナルドの脇まで送ってくれた。センターの北側は初めて通った。
ペント・タイへ行き、野菜と豆腐のグリーン・カレーと、トム・ヤム・プローンを各1人前頼み、ウールワースでも少し買物をする。8時過ぎにバス停へ戻ってきたのだが、しばらくバスが来ない。結局8時20分に来た288番バスに仕方なく乗車し、ノースライド小学校のところから、歩いて帰宅した。
夕食は、温めなおしたタイ料理2品と、いつものセロリと魚介類の炒め物である。
妻は、食事で起きてからFMVで作業に取り掛かる。息子は部屋でごろごろしながら起きている。
こちらも、風呂に入り、ひと休みしてから、翻訳作業をiBookではじめる。
結局、12時頃までには妻も息子も寝て、1人でそのまま起きている。


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