私的ページ:山田晴通

シドニー日記:2001年9月1日〜9月30日


 9月分の日記です。妻が家族に合流しました。
 ここでは、山田の備忘録に掲出したときと内容はほぼ同じです。1ドルは、60円くらいです。
 このページへの転記に際し、原文の明らかな誤記は訂正しました。
■ 2001/09/01 (Sat)
早朝の来訪者
前夜の続きで rage を見ながら、5時過ぎまで空気ベッドの上でごろごろしていたが、そのまま前後不覚で寝る。ところが何と、7時過ぎに電話の音で目が覚める。朦朧として電話を取ると、配管工である。今日これから行けるが、どうだと言う。おいおい、月曜日の午前中に電話してくれといったのに、土曜の早朝とは。それでも、これで断ると面倒になりそうなので、とりあえず来てもらう。30分もしないうちに、助手席にプードル?を乗せたバンが到着、気のいい感じの男性がやってきて、バスルームで作業を始める。まだ、8時前なので、子供たちはそれぞれ部屋でベッドの中だ。
結局、トイレの流れが悪くなっていたのは、紙の流しすぎということだった。この配管工はこの家の改装工事もしているのでいろいろ説明してくれたのだが、外のサンルームのトイレよりも、中のバスルームのトイレの方が配水管の太さが細く、しかもタンクの流量が少ないのだそうだ。詰まった紙を流すのに彼がやっていたのは、お湯を熱いまま流すとうい作業だった。
以前、インドネシア滞在の経験がある知人に、日本人はすぐトイレを詰まらせる、という話を聞いたことを思い出した。
配管工が帰って、再度空気ベッドに寝て10時頃までうとうとする。この間に息子が起きてくる。娘は部屋で一人で遊んでいた様子。朝食(というよりブランチ)は、卵焼きにベーコンなどの炒め物という簡単なイングリッシュ・ブレックファストの主皿のようなものに、豆腐料理がついたものを息子が作る。
断続的に雨が降ってるので、外へ出かねていたのだが、午後3時過ぎに娘とマコーリー・センターまで買物に行く。ビッグWで、キルトやピクニック・バスケットなど、50ドルをこえる買物をする。ウールワースにも立ち寄り、がらくたをたくさん持って帰ることになった。290番バスで帰宅。
夕食は、息子が作りためている野菜スープを利用して、私が具たくさんの野菜ラーメン(またMaggi)と、昨日と同じようにステーキ(生姜風味にした)を作って食べる。
夕食後、またも満腹でしばし寝る。9時過ぎに起きて、少しパソコンのゲームに興じる。夜中を回ってrageをまた録画しながら見る。
■ 2001/09/02 (Sun)
仕事を全くしない一日
前夜も rage を録画しながら、空気ベッドの上でいつのまにか寝ていた。この週末は睡眠のパターンが崩れているせいか、7時前に目が覚める。このまま起きた方がいいと思い、シャワーを浴びて、天気がよさそうなので洗濯機を回す。子供たちは日曜日なので起きてくるまで起こさないことにする。後で起きてきた娘に、洗濯物干しをさせる。
昼少し前に、ブランチで野菜スープを食べる。息子が例によってブレックファストもどきを作ったのだが、スープが腹にたまったのでそちらは手を出さなかった。
子供たちに、どこかで出かけないかと言うのだが、2人とも嫌がる。結局ずるずると遊んだり、居眠りしたりして過ごしているうちに、日が傾いてきたので、ひとりで出かけることにする。
午後4時過ぎにひとりでマコーリー・センターまでバスで往復して、買物に行く。まず、ディック・スミスで先週買った電球を、ソケットの違うものに取り替えてもらう。次に、ウールワースへまわり、デニッシュ系の食パン(オリーブやガーリックのブレッド)などいろいろ食品を買って帰った。
帰宅後、玄関灯に新しい電球(これもフィリップスだが、今度はオーストラリア製)を取り付ける。入居時から切れたままだった玄関灯がともるようになった。
夕食は、今日もステーキ。3日がかりでやっとひとパック三切れの肉を消費したことになる。またまた、満腹で食後に寝るが、今日は小一時間で起きる。
お茶を入れたくなり、チャイを作る。生姜しか入れていないが久々に飲むとやはり美味しい。娘が学校で買ってきた「父の日」用のプレゼントのマグカップの包みを開け、中のチョコレート菓子をみんなで食べる。
さらに遅くなってから、息子とバックギャモンをする。11回戦で23対10と面目を施す。
今日は、まったく仕事に手をつけなかった。ページの更新すらしていない。
■ 2001/09/03(Mon)
書架を眺める
前日は睡眠が乱れていたので、早めというつもりで就寝したのだが、朝になれば同じこと。テレビをつけながら学校へ行く準備をする娘の声で起こされるが、結局起床に至らず、寝床の中から「いってらっしゃい」とはいったものの、10時近くまで寝床にいた。
それでも何とかおきだして、このところワンパターンになっている野菜ラーメンを作り、11時前には、まだベッドにいる息子を残して家を出る。290番バスでシティへ行き、まず日本人会の事務所で、先日持ち合わせが足りなかった会費の差額10セントを渡し、来週からの移転先を教えてもらう。次に、またバスで北シドニーの国際交流基金図書館へ行こうと思い、QVBまで戻ったのだが、バス停の向かい側に見えている古本と古レコードの Ashwood という店のことを思い出したので、はじめて入ってみる。ここでは、1974年に書かれたシドニーの新聞史についての本と、1982年編集のオーストラリアの新聞紙面を集めた大型本、そして『スパイ大作戦』のデータ本を買う。レジのところで整理中のシングル盤の中には、ジョン・レノンの「インスタント・カルマ」の何と日本盤があった。ここではレア・アイテムなのだとか。ここには、またゆっくり時間つぶしに立ち寄りたいものだ。
少々重くなったバッグを背負って、バスに乗り北シドニーへ行く。国際交流基金図書館は、規模こそ「図書室」という感じだが、小さいながら充実した図書館だ。しかし、日本についての情報の提供が主な役割なので、日本語で書かれたオーストラリアについての本はほとんどない。それでも、新聞や雑誌類などをみて結構時間を潰した。隣のギャラリーでは HAKO-NIWA と題した小さな造形の展覧会をやっていた。ここでは水曜日に映画の上映があるようなので、また来る機会があるかもしれない。
この頃から少し頭痛がして、ほぼ一日断続的に続いた。
北シドニーを少し歩いて回り、電車の駅から電車でエッピングへ向かおうとしたのだが、しばらくエッピング方面行きがこない。とりあえずペンリス行きでストラスフィールドまで行こうとしたら、寝過ごしてオーバーンまで行ってしまう。慌てて下車して、ストラスフィールドまで戻り、エッピング経由で大学へ行く。
メール・チェックをして、ちょっと厄介な問題が生じていることに気づき、こちらからもメールを出したりとばたばたしているうちに5時を回る。研究室を出て、家に戻る。 夕食は、息子が野菜炒めと野菜スープにご飯を用意してくれたのだが、途中で頭痛がひどく、いったん横になる始末。それでもまた起きて、食事を済ませ、食後しばらくしてから、シャワーではなく風呂桶につかることにする。
少し楽になったので、『スパイ大作戦』のデータ本をネタに息子と話をする。
今日も仕事にはなっていない。調子が悪いということだ。
深夜12時半頃に就寝。
■ 2001/09/04 (Tue)
久々の「寄り合い」
今日も朝は、娘のつけたテレビのアニメの声で起こされ、またまた起きられないまま寝床から「いってらっしゃい」となる。
10時少し前に起き出し、食器洗いと洗濯をする。息子は寝ているままだが、放っておくことにする。
洗濯物を干し、前日からの問題の件でメールを書いたりしているうちに息子が起きてきたので、一緒に野菜スープでブランチにする。息子はそのまま部屋に立てこもる。S君からメールが入り、明日の昼食を一緒に食べることになる。こういうメールは大歓迎だ。
そのまま作業をしていたのだが、自宅からのダイヤル・アップ接続の機嫌が悪くなったので、午後2時過ぎに大学へ行く。家を出るときも息子は部屋に入ったままだったが、あえて声を掛けずに出てくる。
研究室でしばらく作業。
4時半頃に研究室を出て、いろいろ屋台が出ている学生食堂前に行く。古本屋でFAR SIDEを編集したもの2冊と、The Australian Language という古典的な研究書のペパーバックを買う。
バスでマコーリー・センターへ行き、ウールワースで食料品を買う。ショートケーキとは風情が違うが、イチゴのケーキが6ドルほどであり、試しに買ってみる。
帰宅後、夕食は炒飯にトマト・スープ。
午後7時30分から、ノース・ライド・センターの集会場である近隣防犯の会があるので、15分ほど前に家を出る。集まったのは10人ほどのこじんまりとした会だったが、久々に「寄り合い」に出た感じである。参加者の3分の2はお年寄りである。この会は3ヵ月に1回あるらしい。
帰宅すると、子供たちはパソコンでゲームをしたりしている。お茶にしてケーキを食べる。
娘がジグソーの最初の一枚(豹の写真)をほぼ完成させていたのだが、ひとつピースが足りないという。部屋を掃除したら出てくるだろうといったのだが、自分でやろうとしない。そこで、ちょっとだけ片付けを始めたら、すぐに最後のピースが出てきたので、ジグソーを完成させる。娘は次のセットの封を切っている。
前日の問題の件は、日本とのメールのやり取りで何とか善後策を立てる。この作業で結局4時過ぎまで起きていた。来週から学校が始めるので、時差調整中の息子が、ずっと一緒に起きている。
■ 2001/09/05 (Wed)
イーストウッドへ
今日は、娘の学校の制服を買う日である。制服の販売は母親たちのボランティアで運営されているので、週に一度、登校時間前後の小一時間しか購買は開いていない。未明まで起きていて、そのままテレビの前で寝ていたのだが、8時頃に娘に起こされ、8時45分頃には学校へ到着。今は冬服の時期だが、あと3週間で夏服になるということで、結局、夏の制服、運動着(金曜日のスポーツの日にはこれで登校する)、スラッピー・ジョーと称されている長袖のセーター、クリケット・ハット、そして学校の記章を買う。しめて130ドルほど。その場で試着したまま着替えさせ、登校時に着ていた服は持ち帰る。
帰りは運良くレーン・コーブ・ロードを北上するバスをつかまえる。9時半頃には家に戻ったが、来週からの早起きに備えて、息子は起床時間を遅くずらしているので、まだベッドにいる。
皿洗いや、簡単な掃除などをしながら時間を潰す。
今日は遅めの昼食をS君ととることになっていて、午後1時頃、迎えに来ることになっているので、午前中は家でできることを少しずつこなす。そうこうしているうちに12時45分頃になり、息子を起こすが、返事はすれども起床してくる気配はない。そこへ、S君が到着。慌てて起こさせ、一緒に昼食をとりに、S君の車でイーストウッドへ行く。
イーストウッドはエッピングの一つ南の駅だが、周辺は韓国系の人々が集まっている。特に、裏口側に当たる東口側がそうだ。韓式食堂で3人で昼食をとる。昼の定食から、それぞれ、辛味タコ、ブルゴギ、豚カツ(韓国式だと「トンカス」)の定食をとる。一人たった6ドル50セントだから、学生食堂より安いくらいだ。それから韓国食品のスーパーに行き、もやしと、農心の「セウカン」(「えびピョン」といったネーミング?のかっぱえびせんと同じもの)の大袋などを買う。さらにテイクアウェイの韓式弁当屋に立ち寄り、キムチを選ぶ。食事はこちらが出し、S君がキムチを買ってくれる形になる。
ちなみに、スーパーには「ホジュイルボ」(「豪酒日報」じゃなくて「豪州日報」だろうが、英文の表題は The Korean Times になっていた)があったが、買うのはまたの機会にした。買物は全部で20ドル足らず。
午後2時頃、自宅まで送ってもらい、帰宅。そのまま息子を残して、バスで大学へ行く。
久々に、サイトのメインテナンスを少しする。
5時過ぎに研究室を出て、バスでマコーリー・センターへ行く。
まずディモックスでまた本を漁り、アボリジニの芸術活動のディレクトリ(過年度版なので安い)など研究費で買う4冊と、自費で買うシャーロック・ホームズのパスティーシュ集1冊を選ぶ。全部で46ドルほど。
ウールワースでは、今日も生ハムなどの食料品を買う。全部で25ドルちょっと。
459番バスで6時半を回った頃に帰宅。夕食は、もやしを中心にした野菜炒めを作り、昼間買ったキムチなども出したのだが、娘は気に入らない様子。食後に家から電話があったが、息子と娘が出て、こちらに回してもらわないうちに、娘に電話を切られてしまった。娘はそのあと、早々と寝てしまう。こちらはまた未明まで起きている。
■ 2001/09/06 (Thu)
時差調整はじまる
朝、娘が出てゆく様子を察して目が覚めたが、こちらはまた寝床の中から「いってらっしゃい」である。10時少し前に起床。息子は前夜からずっと寝ていない様子で、そのまま入れ替わりで休ませる。
前日買ったもやしを使ってラーメンをつくり、ブランチにする。ひとりの時は、どうもこのパターンになってしまう。今日から、また別の原稿の準備にとりかかる。やっつけ仕事になるのは止むを得ないが、手をつけた初日としてはそこそこ集中して作業ができた。結局3時間くらいは集中して作業していた。午後2時頃になって、大学へ行く。ところが睡眠不足がたたって、こちらに来て初めて居眠りでバスで乗り過ごし、アジンコート・ロードまで行ってしまう。情けない気持ちになったが、そのまま研究室まで歩いて行った。今日は、研究室ではほとんど仕事らしい仕事をせず、気分転換でページをいじってばかりいた。
5時過ぎに研究室を出て(正確には5時に研究室のある区画を閉めるというので追い出されて)、マコーリー・センターへ行き、ビッグWで娘のテニス・ラケットなどを、ウールワースで食料品などを買って、6時半過ぎに454番バスで帰る。
夕食は、息子の作ったホワイトソースのスパゲティだが、息子自身が「改良の余地アリ」と言っていたように、味が「いま二つ」くらい。それでも私と息子はきれいに平らげたのだが、娘はなかなか食べ進まない。食後は、娘に付き合ってジグソーをやる。これは2作目の大聖堂の祭壇の図柄である。
その後、息子がパソコンをいじっている間は、一昨日買った FAR SIDE を眺めて楽しむ。
娘が寝てから、ゴミ出しをして、再び原稿の準備を始める。結構調子がよいのだが、注記のメモばかりが増えて、本文がいっこうに進まない。そのまま徹夜。息子の生活時間を来週からの学校生活に合わせるための時差調整を週末にかけてやらなければいけない。
途中、こっちが原稿に夢中になっていると、息子が部屋で寝始めているので、容赦なく叩き起こす。
■ 2001/09/07 (Fri)
バートは自分用
前日から徹夜をしていて、久々に朝5時半のSBSの日本語ニュース(つまり前日7時のNHKニュース)を見る。外務省の裏方がいかに因果な商売かを改めて思い知らされる。ここ数年、防衛庁、(旧)大蔵省、警察、外務省といったところまでメスが入るようになったのは(トカゲの尻尾切り的なものだとしても)よいことだ。でも宮内庁とかは本当に聖域なんだろうなあ、などと思う。
6時過ぎには、娘が起きてきて、学校へ行く準備をする。今日は金曜日なのでスポーツの日。着てゆく服も運動着の制服である。朝食は息子がご飯とみそ汁に、炒め物を作る。3人揃っての朝食(といっても娘以外は夜食のようなものだが)は随分久々のような気がする。
8時頃になり、朝食の満腹感も手伝って、寝ることにする。息子には、起きていられるだけ起きて、それから夕方まで寝てしまうようにと言っておく。
床には入ったものの、徹夜をしたときの常で最初は悪夢を見る。一度トイレにたち、それから熟睡。目が覚めたのは午後2時頃。6時間くらい寝たことになる。
原稿の続きに取り掛かる。順調とはいえないが、かなり集中して作業をする。3時半頃になって娘が帰宅。息子は部屋に入ったままなので、そのままにして、4時過ぎに娘と一緒にマコーリー・センターまで買物に行く。娘が、どうしてもキックボードで行くというので、しかたなく付き合って歩く(けっこう走らされた)。
銀行で300ドルを引き出し、ウールワースで食料品などを50ドル近く買う。ついでに7ドルほどの中国製のデジタル時計を2本買う。1本は娘用で、もう1本(シンプソンズのバートの顔の柄)は自分用にする。
ウールワースを出た後、ニュースエージェントで娘用にコンセッションのブルー・トラベルテン(バスの回数券)を買う。次いで、フード・コートの Ken's Bento Box に立ち寄り、おかず用の焼肉と、鶏肉の弁当を買う。娘が日本語で注文しようとしたら、片言の日本語を話す韓国系の長髪のおじさんが対応してくれた。
帰りは290番バスで帰宅。戻ってきたら息子が起きていて、夕食の下準備をしていた。
帰宅後すぐに夕食の準備をはじめる。残っていたご飯は炒飯にし、買ってきた弁当と、あたためた焼肉、息子の作った大根のみそ汁というメニューになる。やはり、一品でもテイクアウェイがあると準備が楽だ。
娘はこのところ、パソコンのスパイダー・ソリティアに凝りだしたので、食後はしばらくパソコンがつかえない。娘が寝てから、ようやくパソコンの前に座るが、こちらもついつい遊んでしまう。
夜半近くに rage をつけて、資料を読んだりして少しだけ仕事をするが、余り効率はよくない。
結局3時過ぎに眠たくなったので、息子には寝ないように言いつけて、テレビの前の空気ベッドで寝る。
■ 2001/09/08 (Sat)
時差調整進行中
朝10時少し前に起床。ちょうど rage のトップ50が終わりかけている。
息子はずっと起きていた様子だ。娘も起きていたようで、すぐに自分の部屋から出てきたが、そのまま寝巻きでうろちょろしている。ふといなくなったと思ったら、家の庭でテニス・ボールで遊んでいたらしい(寝巻きのまま)隣の家のアプローチの植え込みにボールを入れてしまったというので、塀越しに場所を確認して取りに行かせた。
天気が良いので洗濯をする。娘の制服も洗ったので、干す作業は娘と一緒にする。息子はさすがに眠気が来たようで、すぐに横になってしまいたがるが、寝ようとするところを間髪いれずに布団を剥ぎ取って起こす。しかし、11時半頃に本当に限界になったようで、自室のベッドで寝かせる。
娘は、とっとと自分の分だけラーメンを作ってブランチにしている。こちらは結局、その残り物やクラッカー類を食べて、ブランチ代わりになる。
寝ている息子を残して、午後2時過ぎに家を出てマコーリー・センターまで娘と買物に行く。今日は行きが徒歩、帰りは290番バスになった。
センターでは、ビッグWで、娘の運動靴を買い、一緒に夢判断の本やシングルCDも買った。ウールワースでは食品を買ったが、両方の買物は占めて70ドルちょっとだった。今日は、娘のわがままで、髪どめのゴムから、デジモンのお菓子まで、いろいろなものを買った。
■ 2001/09/09 (Sun)
チキンうどん
朝10時頃に起床。息子はもちろん徹夜、娘ももう起きている。ブランチは、息子が作る。ウールワースで買った豆の小さいもやしの炒めものを、娘が喜ぶ。息子は昼前にはもう寝たいと言い出す。ここで寝せてしまったは元も子もないので、無理やり寝かさないようにする。今日は小物を色々洗濯し、娘と交替で少し芝刈り機を押す。
午後3時までは息子を寝かすまいと思い、掃除などをしながらずっと監視している。この間、娘は2作目のジグソーを完成させる。
ようやく午後3時過ぎに、息子に寝る許可を出し、娘とマコーリー・センターまで歩いて買物に行く。
センターでは、まずディック・スミスに行って、娘のお目当てのGorillazのアルバムなど、CDを数点買う。ビッグWで、これも娘用に洋服掛けを買い、アサガオで娘に「チキンうどん」を食べさせ、その間にウールワースで食品を買う。今日も、結構、いろいろなものを買ったことになる。
結構センターでゆっくり過ごし、5時半頃に290番バスで帰宅。帰ってみると息子がまだ起きているので、とにかく自分の部屋で寝ようとしろと言いつけて寝かせる。
娘は、買ってきたGorillazのCDを繰り返しかけながら、自力で洋服掛けを組み立てた。
娘がセンターでうどんを食べたこともあって、夕食を遅めにしようと思っていたら、7時半過ぎには娘が空気ベッドで寝はじめてしまう。しかたがないので、こちらも夕食をとらずにパソコンをいじっていたら9時近くになって娘が目を覚ましたので、ようやく夕食にする。先日ウールワースで買って使いそびれていたシーフードの炒めものと、息子が作っておいてくれた野菜スープに、パンを出す。食後、娘はそのまままた空気ベッドで寝てしまう。
11時頃息子が起きてきた。まだ早いといったのだが、もう目が覚めたようなのでしかたない。とりあえず、まだベッドにいるように促して、部屋に戻す。
こちらの方は、フリッツ・ラングについてのドキュメンタリーを途中からテレビで見る。そのまま映画を流しながら12時頃空気ベッドで寝てしまう。
■ 2001/09/10 (Mon)
息子の学校が始まる
朝、娘がアニメ(「カードキャプターさくら」)を見出した気配に、目が覚めたのは7時頃だった。ところがこの時、息子は自室のベッドで寝ていた。今日は、彼がTAFEの英語コースに通い始める初日である。9時にはセント・レナーズの学校に着いていなければならない。遅くとも8時台最初のバスに乗せないと間に合わない。前夜、息子は徹夜をするはずだったのだが、どうやら未明に寝込んでしまったらしい。慌てて叩き起こし、ひと悶着してようやく起床させ、娘と朝食を作らせる。こちらは全く睡眠不足で、子供たちが本格的に動き出したのを見届けて、8時前に再度沈没する。
目が覚めたのは、10時少し前。もちろん、子供たちは出かけた後である。台所の食器類を洗って片付け、朝食に出されたままテーブルに残っていたサンドウィッチの材料を使って自分のブランチのサンドウィッチを作る。
昼過ぎに、歩いて大学へ行く。途中で、マコーリー・パークにあるケンウッドの事業所に寄って、サービス部門があるのを確認した。もう春らしい気候になっているせいか、大学につく頃には汗で帽子が濡れるほどになった。研究室でメール・チェックなどをしてから、書店生協で買物をしてくる。
大した仕事はしていないうちに4時近くになり、学校帰りの娘が研究室に来る。「先生からお手紙」というので、何だろうと思って開けてみると「午前8時40分より前に子供一人で学校に来させないで下さい」とある。今日は息子が8時頃に家を出たから、一緒に出かけて学校へ早く着いたらしい。明日は、父兄会で学校へ行くので、その折に謝ることにしよう。
娘にしばらく研究室で留守番をさせて、その間にマコーリー・センターの郵便局へ行き、急ぎの航空便を発送する。
研究室に戻ると、ちょうど5時になる頃だったので、娘と一緒にマコーリー・センターへ戻り、買い物をして帰ることになった。ビックWで、娘の買い物ばかり(お菓子とテニス・ボールなど)をして、290番バスで家に帰る。
帰宅してみると、息子は空気ベッドで寝ている。娘と、夕食をどうしようかと相談する。息子がこのまま深夜まで寝ているなら、夕食は作りにくい。私が再度出かけて、何かテイクアウェイを買って来るという話になったところで、息子が起きた。これで、外出の話は無しとなり、ご飯を炊いて、炒め物でも作ろうということになったが、米を炊いているうちに今度は娘がベッドで寝てしまう。
娘が起きて来たら夕食にしようということになり、息子に今日の学校のことなどをひと通り話させる。初日の今日はオリエンテーションと、プレイスメント・テストがあったようだ。学校はともかく、バスで帰ってくるのに手間取ったという。最初は間違ってチャツウッド行きに乗ってチャツウッドまで行ってしまい、そこから電車でセント・レナーズに戻って、今度はウェスト・レーン・コーブ行きに乗ってしまい、最後にようやく運転手に教えてもらって、レーン・コーブで乗り換えて帰ってこれたという話だった。まあ、いい経験であろう。明日は8時30分に集合ということで、今日よりも早く出かけさせなければいけない。
結局、娘が起きてくる気配がないので、息子と8時過ぎに夕食をとる。肉野菜炒めに、トマト・スープとご飯である。食後、息子を促して自分の部屋で早めに寝かせる。テレビでABCのフィードバック(視聴者のご意見)番組「BackChat」や、政治風刺のバラエティ「Backberner」などを見る。
子供たちのことで神経を使って疲れているせいか、仕事に集中できない。まあ、あと数日は仕方がないかもしれない。
■ 2001/09/11 (Tue)
嬉しいお客様
未明の3時頃まで起きていて、朝になったら娘に起こしてもらえるように空気ベッドで寝たのだが、案の定、お兄ちゃんが起きてこないという娘の声で7時頃に目が覚める。今日、息子はいつもより30分早く学校に行かなければならないがばたばたしながらやっと7時半を少し回った頃に送り出す。娘には、昨日の先生からのメッセージのことを言い聞かせて、8時半まで家で待たせ、一緒に学校へ出かける。途中で、同じ小学校の下の学年にお子さんたちがいる日本人家庭のM家に立ち寄って、ご挨拶をする。お嬢さんが、今日の午後、家に遊びに来てくれることになっている。学校では、校庭にいた校長と立ち話をする。
家に戻って、台所の片付けと、洗濯と簡単な掃除をしているうちに、昼になってしまう。子供たちの朝食の残りを使って、ブランチにリゾット風の物を作ってみた。まあまあの出来。
シャワーを浴びて、髪と髭を少し切る。体重がはっきり(といっても2-3キロだが)減っているのを確認。体調が悪いわけではないので、これはいい傾向だ。これに気をよくして、今日も大学まで歩いて行く。
研究室では、待っているアポイントの連絡がないので、もっぱらネット・サーフィンと細かいページの更新で時間を使う。4時半頃に研究室を出る前に家に電話をすると、娘がお菓子を買ってきて欲しいというので、マコーリー・センターでケーキなどを買って293番バスで帰宅。
帰ってみると、M家の奥様とお子さんたちがおいでになっている。さっそく、イチゴのケーキでお茶にする。子供たちが大騒ぎして楽しんでいるのをいいことに(空気ベッドで飛んだり跳ねたり、ボブ・ザ・ビルダーの曲を聴きながら大声で歌ったりと実に賑やか)、しばしお引止めして奥様と話をする。オーストラリアに十数年前(旦那様は二十年位前)に来て定住している方に話を聞くのははじめてだったが、なかなか興味深い話を伺えた。
帰宅されるM家の車に便乗して、7時半少し前に小学校の父母会(厳密に言うと「父母と市民の会 Parents & Citizens」)に出かける。これは毎月定例の会で、出席者も十数名で、ほとんどが役についている人たちだが、もちろん普通の父母にも開かれている。色々な話題が出て面白かったし、欧米式(あるいはオーストラリア風なのか)の学校自治の一面がうかがわれて勉強になった。結局、会が終わったのは10時20分頃、これにちゃんと付き合う教員は校長だけだが、校長は本当に大変な仕事だと思う。
家に戻ると、娘は空気ベッドで寝ており、息子と二人で夕食をとる。
12時前には眠たくなったので、息子にも早く寝るように促して、娘に並んで空気ベッドで寝る。
■ 2001/09/12 (Wed)
アニメのない朝
7時頃に娘の気配で起きたが、息子はまだ寝ているようだ。声を掛けて起きてくるように言う。テレビがついていないので何時だろうと思いビデオの時計を見ると7時を少し回ったところだ。「どうしてテレビをつけていないの」と娘に聞くと「アニメをやっていない」という、何事かと思ってテレビをつけると、ニューヨークとワシントンのテロの特別ニュースをやっている。
とりあえず、息子と娘を送り出し、台所の片付けなどをしながら、テレビの音を大きくして流しっぱなしにする。
各局とも、CNNやNBCなどの素材などでニュースを構成している。オーストラリアのハワード首相は、たまたまワシントンにいるのだが、その関係のコメントや、オーストラリア人の被害状況について把握次第対応する旨の首相代行や外相のコメントが繰り返し流れている。
犠牲者の数は誰も推定をしようとしない。この段階では当然だろう。おそらく数千人という単位になることは避けられないだろう。場所がニューヨークで、これだけの規模の被害となれば、知り合いに巻き添えになった者がいてもおかしくない。明日以降の日本語ニュースが大いに気になる。
それにしても、あれだけの高層建築が、建物の上部に強い衝撃を受けてから一時間ほどで崩壊するとは、まるで映画のシーンのようで、湾岸戦争とは別の意味でリアリティを感じられなかった。もちろん、安定地塊の上にあるニューヨークの高層建築だから、建築基準の考え方も日本とは根本的に違うのだろう。それにしても、あれだけ粉々に崩壊するとは...。キングコングやゴジラでもあんな壊し方は出来なかったはずなのに。
今年の初めにブッシュ政権が成立したときには、夏目漱石ではないが「21世紀は苛立たしい始まり方をした」と思ったのだが、改めてブッシュのテレビ演説を見ながら「21世紀も不吉な始まり方をした」のだと思った。
テレビ演説の後で、大学へ出かけようとしたのだが、にわかに外の雲行きが怪しくなり、突然激しい雨と雷がやってきた。単なる偶然だが、こういう偶然こそ一層の「不吉」感をあおるものだ。出かけるのを止めて、テレビを見続ける。ワールド・トレード・センターの南棟に2機目が突入する瞬間の映像、トレードセンターの3棟が崩壊する映像は、様々な角度から繰り返し報じられている。阪神大震災のとき、地下鉄サリン事件のとき、テレビをずっと見ていてやはりこんなやりきれない気持ちになったことを思い出す。
<以上、14:30掲出>

4時頃になり娘と息子が相次いで帰ってくる。
今日は出かけなかったので、買い物ができていない。子供たちに留守番をさせて、一人でマコーリー・センターへ出かけ、米や卵や挽肉など食料を買い込んで帰る。この間、息子は寝ている。
買い物から帰ってから、出来合いのソースベースを使ってミートソースを作り、スパゲッティを茹でて夕食にする。息子は少し遅れて起きてきた。この間、テレビはずっとアメリカのニュースを続けている。それにしても日経平均の落ち込み方はすさまじい。それでも、対豪ドルレートで円は強くなっているのだから、既に結構な額を豪ドルにしている立場としては、損をしている気分である。
娘は夕食後すぐに部屋に入って寝てしまう。息子はどうもまた深夜起きるパターンになっている。12時近くなって眠たくなってきたので、先に空気ベッドで寝る。
■ 2001/09/13 (Thu)
業務再開へ
5時半のNHKニュースを見ようと思っていたのだが、目が覚めたのは6時半頃。しばらくしてから娘が起きてきて、「カードキャプターさくら」を見始める。7時を回ってからの息子を起こし、もやしラーメンを作って子供たちに朝食として食べさせる。
息子を8時頃、娘を8時半頃に送り出し、こちらも出かける準備をする。
この間も、アメリカのニュースがずっと流れているが、話はヒューマン・ストーリーに傾斜し始めている。
10時過ぎに家を出て、大学へ行き、しばしページの更新などにふける。昼食は久々に学食でとる。学食を出たところで日本人学生会のS君が後ろから声をかけてきて、来週末の夕食会のことを教えてくれる。
午後3時から、アポイントをもらっていたL氏に再会(5月17日以来)。また2時間近くつきあってもらい、オーストラリアのラジオ事情について話をする。今回もまたまた有益な話を聞けた。具体的に論文を読んで、疑問点をただすという形で話を進めているのだが、こちらが疑問に思う点の中には、向こうにとっても盲点になっていることがときどきあるようだ。文化のずれもあるということだろう。
研究室を5時少し前に出る。家に電話をすると、娘が学校で喧嘩をして帰ってきたらしい。息子によると、そのことで「明朝、お父さんに学校にきて欲しい」と担任の先生から電話があったそうだ。いやはや。
とりあえず、子供たちに留守番させて、ひとりでコーリー・センターへ買い物に行く。最初にABCショップを覗いたら、昨日最終回を放送する予定だった(アメリカのテロで放映は繰り延べになった)オーストラリアのロック音楽の歴史を描いたドキュメンタリー「ロング・ウェイ・トゥ・ザ・トップ」関係の商品(本、ビデオ、DVD、CD)が大々的にディスプレーされている。まだ、最終回は放送していないのに、とは思ったものの、やはり気になり、とりあえず本だけを買う。ビデオ・テープや食糧を買い、さらに、韓国人のやっている日本食風の弁当屋でブルゴギとヤキトリを買って、459番バスで帰る。
帰宅すると、息子は空気ベッドでしっかり寝ている。
娘に、学校のことを問いただすが、のらりくらりである。全く困ったものだ。衝動的に髪を切ったようで、変な髪型になっている。
とりあえず、夕食は、買ってきたおかずとご飯だけで済ますことにして、ご飯を炊こうとしたら、何と電気釜が壊れている。仕方なく、手鍋で米を炊く(思った以上に上手く炊けたので、我ながら驚く)。
夕食が整った頃、息子も起きたので、一緒に食事をする。
食後、娘はすぐに自分の部屋で寝てしまう。息子と話をしてTAFEのことをいろいろ聞く。本人にとっては、大変な毎日のようで、けっこうへこんでいたりするのだが、それでも何とか頑張っていることは良くわかる。時間はかかっても、何かは身につけてくれるだろう。
こちらも何とか仕事をする気を取り戻さなければ。
息子と一緒にそのまま起きていたのだが11時過ぎに眠くなり、先に空気ベッドで寝る。
■ 2001/09/14 (Fri)
ヒッチコックばり?
未明の3時頃に一度目が覚めたので、そのまま5時半まで起きていようとも思ったが、残っていた菓子類などを食べてお腹がいっぱいになったせいか、結局また寝て7時頃に目が覚める。息子が寝ているので起こそうとするが、ぎりぎりまでベッドから出てこない、やっと起きてきたので、朝食を作らせ、娘と二人で食べさせる。
その後、息子は、洗面所に入ったままなかなか出てこない。どうやらコンタクトが上手く入らないようだ。結局遅刻気味で家から送り出す。小学校についてゆかなければ行けないので、娘と一緒に8時半頃に家を出る。表の通りに出た頃、帽子を忘れたと言い出したので、一人で急いで家に帰り、また、駆け足でそのままゆっくり進んでいた娘に追いつく。これだけでも、けっこう息が上がり、へとへとだ。まったく困ったものだ。
学校では、娘の担任のW先生と会うことになっていたのだが、ちょうどクリケットの朝練の最中ということでしばらく待つことになる。その間に校長が出てきて、立ち話で昨日のことで話をする。間もなくW先生が現れ、面談となる。要するに、「喧嘩」自体は取るに足らないことだったが、娘が髪を切るという挙に出たので心配しているという話だった。話がひと通り終わろうとしていたら、娘が急に耳打ちして、授業中教室の中で帽子を被っていていいかと先生に聞いてくれと言う。自分で切って妙な髪型になった頭を気にしているのだ。W先生は、国歌を歌う全校集会のとき以外はいいですよ、と言ってくれたので、娘は一安心したようだ。
娘は電子辞書も忘れてきたというので、もう一度学校に立ち寄ることにして、朝礼の列に並ばせて、すぐに学校を出る。
家に戻り、娘の部屋で電子辞書を探し出し、台所を少し片付けてから、午前10時過ぎに再度出発して、学校まで行き、教室にいた娘に電子辞書を渡す。ノース・ライド・センターで銀行と郵便局の用事を済ませ、マコーリー・センターまでバスで行く。ここでもう一つの銀行の用事を済ませ、買い物をしてから大学へ行く。
研究室では、いったん作業を止めている原稿の参考になりそうなウェブ・ページを見て回る。
帰りは、マコーリー・センターによって買い物をして帰ったのだが、今日はセンターと大学の間の林の道で、あわせて3回、鳥に飛び掛られた。特に最初の一撃はまったく無警戒だったので、右耳のあたりに後ろから体当たりされてしまった。どうやら気が立っている時期らしい。林の中を歩く人たちが木の枝を持って歩いているわけがわかった。鳥は相手の一番高い部分を狙うので、木の枝を立ててもっていれば仮に襲われても、持っている枝を落とされるだけで済むという訳だ。
夕食は。買ってきたばかりの大き目のスープ鍋で米を炊き、息子が肉野菜炒めとみそ汁を作る。
夕食後、娘は先に寝てしまい、こちらも満腹でテレビの前の空気ベッドで仮眠する。11時過ぎに息子に起こしてもらい、rage を録画しながら見る。息子はずっと遅くまで起きているが、こちらは寝たり起きたりしながら朝まで過ごす。
■ 2001/09/15 (Sat)
パスを求めてバスで放浪
朝は7時過ぎに起き出し、起きてきた娘に、セロリ入りのトマトスープを作って食べさせる。文句を言いながらも何とか食べていた。息子は早朝まで起きていたようなので、そのまま起こさずにしておく。息子の通学用に 2 Zone Bus Travel Pass を3ヵ月券で買おうと思い、娘に留守中に芝刈りをするように言いつけて、一人で出かける。ところがなかなかバスが来ない。今日は天気が最高によく、けっこう日差しが強い。バス停の前の事業所でも、業者が芝刈りをやっている。
ようやくやって来た290番バスでまずウィンヤードへ行き、そこからセントラル駅(以前に3ヵ月券のイエロー・パスを買った)へ行こうと思ったのだが、ふと目に入ったパスの解説には、バスのみのパスは駅では買えないと説明されている。そこでウィンヤードのバス案内所に行ってみると、週末は休みになっている。仕方なく、再度駅まで降りて、駅員に「休日にやっている案内所はないか」と聞いてみると、「サーキュラー・キーのマクドナルドの前へ行けと」いうので、さっそく電車でサーキュラー・キーへ行く。
サーキュラー・キーのバス案内所へ行くと、何と「3ヵ月券と1年券はここにはない」と言われる。「どこで買えるのか」と聞くと、「地元のニュース・エージェントか駅で買え」と言うので、「駅で買えないから来ているのだ」と言うと、「フェリーの窓口で買え」という。釈然としないままフェリーの窓口に行くと、当然だが、「バスだけの券はここでは扱っていない」と言われる。「どこで買えばいいか」と聞くと、「バスの売り場があそこにあるよ」と、直前に寄って来たばかりの売り場のことを言うので、「そこにいったら、ここに来いと言ったのだ」と言うと、とりあえず何か調べて、「やはりここでは売れない、ニュースエージェントで聞け」と言われて、すごすご引き下がる。駅のインフォメーションの窓口で、いきさつを話しどうしたらいいかというと、親切にも、駅の発券窓口とバス・ターミナルの案内係りのところへ一緒に行ってくれたのだが、やはりどこでも、ここでは扱っていないという。そもそも 2 Zone Bus Travel Pass は中心部(シティ)では使えないので、「このあたりで探しても無いんじゃないか」と言われる。でも、地元のニュース・エージェント3ヵ月券や1年券を扱っていないことは、前に自分のイエロー・パスを買おうとしたときに知っていたので、本当にニュース・エージェントにあるとはとても思えない。
万策尽きて、駅の公衆電話から、シドニー・バスのインフォメーション(131-500)に電話をする。ちょっとインド系?の訛の強いオペレーターが出て、どこで買えるかと尋ねると、「ニュース・エージェントで買え」と言うので、「少なくとも自宅に近いニュース・エージェント3軒ではどこにも無かった」と言うと、「扱っていないところもあるから、何軒か当たってみろ」と言う。途方に暮れていると、イーストウッド行きのバスが来た。ドランモイネを通って行く径路は通ったことが無かったので、試しに乗ってみる。しばし、車窓観察。
やがて、バスがトップ・ライドのショッピング・センター前に止まったので、ここで思い立って下車し、やや規模が大きいニュース・エージェントに入る。店を切り盛りしている中国系と思しき女性は「うちでは1週間券しかありません」という。やっぱりと思いつつ、「このあたりで扱っている店は?」と食い下がったが、「さあ、見当もつかないわ」とかわされておしまいだった。呆然として店を出てバス停に戻ると、家の近くを通るチャツウッド行きのバスが来たので、これに乗って帰宅する。
帰宅したのは3時過ぎだった。お茶を飲み、一段落してから、再度インフォメーションに電話し、今度は問い合わせではなく苦情受付に繋ぐ。事情を話し、3ヵ月券を扱っている店を教えてくれというと、しばらく待たされてから、まず、一番近いエージェントの名前と場所を言われる、「そこにないからあちこち出かけたのだというと」さらに、マコーリー・センターのエージェントの名を挙げた。実は、マコーリー・センターのエージェントはチェック済みだったのだが、電話で案内された場所が、知っているところと違っていたので、別のエージェントがあるのだと思い、とにかくそこへ出かけることにした。
4時過ぎにマコーリー・センターへ行き、電話で教えられた店へ行く。確かに、ここには来ていない。かなり大きい店である。そこでレジにいた気のよさそうなお姉さんに聞いてみると、「バス券はウールワースの前に出している出店で扱ってる」と言うではないか。そこなら既にチェック済みだ。しかも、「うちでも3ヵ月券は扱ってないはずよ」という。食い下がって調べてもらったが、やはり扱っていない様子だ。レジの反対側にいたお客の中年女性が、「インフォメーションに聞いてみたら? 131-500よ!」などと言うので、「そこで聞いたらここで買えと言われたのだ」と言うと、みんな<仕方ないなあ>という顔をする。がっくりして店を出ると、さっきの中年女性が話し掛けてきて、「私の会社はシドニー・バスのマーケティング関係の仕事をしているんだけど、こんなことがあっちゃいけないわ」などと言う。しばし、立ち話。
結局、パスは手に入らないまま、ウールワースなどで買い物をして、とぼとぼ帰る。
夕食を作る気にならず、外食にすることにして、6時半頃、子供たちと家を出る。まず大学行きのバスがきたのでこれで大学まで行き、次に来たイーストウッド行きでイーストウッドまで行き、先日入った食堂とスーパーで夕食と買い物をする。本格的な韓国の味である。娘の頼んだ「チキン・ブルゴギ」は食べ切れずテイクアウェイにしたが、キムチ・チゲ、豆腐チゲ、ビビンバとパンシク類は平らげて、満腹・大満足である。
帰りはチャツウッド行きが来たので、これで家の近くまで直行した。
今夜の rage はニュー・オーダー〜ジョイ・ディヴィジョン特集で、久々にニュー・オーダーのビデオを堪能した。
■ 2001/09/16 (Sun)
日本標準のディナー
前夜の続きで rage を録画しながら空気ベッドでごろごろしている。途中、朝4時半頃に警報音のようなものが遠くから聞こえて目が覚める。実は、娘の部屋の目覚し時計だった。何を考えてこんな時間に時計をセットしているのか。あきれて、自分の部屋に移り、寝直す。ところが今度は、6時頃水が大量に流れる音がずっと続くので何事かと思い起きてみたら、娘が長時間シャワーを浴びているのだった。結局、そのまま、またごろごろしているうちに11時近くになって起きる。息子は、ずっと部屋で寝ているが、昼頃に起きてくる。ブランチはそれぞれありあわせで済ませる。
昨日のパスの件で再々度シドニー・バスのインフォメーションに電話をして、しっかり苦情を言う。シドニー・バスのインフォメーションでは、NSW州交通局がチケットをどのエージェントにどう卸しているかまでは把握していないという。結局ウィンヤード(平日しか開いていない)しか、確実に買える場所はないようだ。結局、今日中にフェリー乗り場でオレンジ・パスを買うことにする。
今日は、息子が留守番で、娘を紀伊国屋書店と日本食の夕食に連れてゆくことにしていたので、午後2時頃に娘と家を出る。バスでサーキュラー・キーまで行き、フェリー乗り場でパスを買う。
気まぐれでマンリー行きのフェリーに乗って、マンリーまで行くことにする。フェリーは娘の希望で2階席へ。娘は船内の売店で飴を買ってくる。こちらはしばし眠る。マンリーに着いて、少しは店を冷やかそうかと思っていたのだが、娘が早く書店に行きたいというので、すぐにチャツウッド行きのバス(143番?)に乗ってニュートラル・ベイ・ジャンクションまで行く。途中の車窓から見る風景に三浦半島を連想する(もちろんこのあたりが断層地形という意味ではありません、念のため)。
ニュートラル・ベイで下車して、紀伊国屋書店へ入る。娘はマンガのコーナーをひと通り見てから、普通のマンガとは違ってパッケージされていない学習マンガのコーナーへ行き、しきりにマンガを読んでいる。こちらはもっぱら、英文の日豪関係の本をみたり、いろいろ棚を動く。20分近くはいたと思うのだが、結局、何も買わないで店を出る。近くのウールワースで飲み物とチョコレートを買い、チャツウッド行きのバスから途中で乗り換えて、北シドニーへ行く。ここで美味しいと聞いたラーメン屋を探したのだが、どうやら日曜日でショッピング・センター全体が休みのようだ。そこで、再度、レーン・コーヴ・ウェスト行きのバスでクロウズ・ネストへ行き、いつもバスで店の前を通っている日本食屋に入ることにする。
このあたりは、何件も日本人が経営する日本食のレストランがあるのだが、ディナーは6時からというのが相場らしい。クロウズ・ネストに着いたのは6時の20分ほど前だったので、開店準備で女性店員が店の前に出ていた「魚や」という店に予約をして、一回り散歩する。この店は「正解」だった。古風な釣竿をインテリアにした店内は、シンプルながらよくできていて、あわびと伊勢海老の水槽が目を引く。頼んだメニューは、鳥の照焼き重と吸い物と蓬もち(以上は娘が注文)、鉄火巻きと魚や丼(海鮮丼)だったが、味もサービスも日本標準でちゃんとしている。6時を少し回るとあっという間に席がいっぱいになり(2階には団体が入っていった)繁盛していることが良くわかる。客は明らかに中国系と思しき家族連れを除けば、皆日本人ばかりである。正面入口のもともとの構造がアーチ作りになっているので、新橋あたりのガード下にちょっと洒落た店を作ったという感じでもある。ちなみに日本茶は無料(シドニーでは有料のこともけっこうある)で、勘定は50ドルちょっとだった。帰りに店のカードをもらったら、銀座をはじめ東京に3ヶ所店がある(新橋にはありません、念のため)。なるほど、なるほど。これだけの内容なら、東京ではもう少し値が張るだろう。
帰りはバスがなかなか来ない。とぼとぼと、セント・レナーズ近くまで歩き、やっと来たのはチャツウッド行き。とりあえず、これに乗って、エッピング・ロードとのインターチェンジで下車し、レーン・コーヴのバス停まで歩く。ここでもバスがなかなか来ない。やっと来たのは288番だった。最初は小学校で下車して歩こうかと思っていたのだが、いったんマコーリー・センターまで行って、ウールワースで買い物をすることにした。
ウールワースに着いたのは、閉店ぎりぎりの8時50分過ぎ。日曜以外は12時まで営業だが、日曜日は9時までである。菓子類などを買って閉店の案内放送を聞きながら店を出る。290番バスで帰宅。
シャワーを浴びて、体重計に乗る。このところ、食べる方は食べたいように食べているのだが、体を動かしているせいか、体重は横ばいからやや減少傾向になっている。頭が薄くなってきたので、少なくとも頭髪分は軽くなって当然なのかもしれないが、ほんの数キロでもピーク時より軽いと嬉しいものだ。
■ 2001/09/17 (Mon)
成熟した視聴者
前夜、結構早めに自分の部屋で寝てしまったせいか、朝5時半少し前にトイレに立ち、そのままSBSのNHKニュースを見る。NHKは「時間を延長してお伝えします」と言っていたが、当然ながらこちらでは容赦なく30分でおしまいである。再度テレビの前で寝て、アニメを見に来た娘に起こされるが7時半頃までは朦朧としている。
7時半を過ぎて息子を起こし、子供たちに自分で朝食を取らせる。息子はコンタクトの調子が悪いらしく、また出かけるのが遅れ気味になった。
娘を送り出してから、出しっぱなしの食材を冷蔵庫にしまい、皿などを洗う。
10時過ぎから2時間あまり、原稿の下書きを書く、例によって「遅々として進む」状態。
1時少し前に家を出て、大学へ。研究室では、原稿は手をつけず、もっぱらネット・サーフィンをして過ごす。午後3時半頃に娘が研究室に来たので、そのまま留守番をさせて、書店生協に本を見に行く。結局、買おうと思っていた本は思いのほか高かったので、再考することにした。偶然見つけたオーストラリアの地名辞典(1992年刊)を買って戻る。
5時前に娘と一緒にマコーリー・センターで買い物をする。帰りは459番バス。娘のトラベル・テンがちょうどおしまいになる。
帰宅してみると、息子は例によって自室で寝ている。娘は「お腹が減った」と言って、前夜の残りの冷えたご飯をふりかけで山盛り2杯食べてしまう。こちらも、残っているトマト・スープを平らげる。そうこうしているうちに息子が起きてくる。
こうして間食をしたので、夕食は遅めの8時近くになる。ウールワースで買った魚で、刺身とバター焼きを作ってみる。まあまあの出来。
8時過ぎからABCを見る。お目当ては視聴者の意見フィードバック番組「バックチャット」と、報道パロディ番組「バックバーナー」だったのだが、その前の報道番組「フォー・コーナーズ」がオサマ・ビン・ラディンの特集をやっていたので、その途中から録画しながら見た。いずれの番組も「この番組には、一部の視聴者を不快にさせるおそれのある内容を含んでいます」という警告つきの「M:成熟した視聴者向け」になっている。
10時過ぎには眠くなってきたので、また早めに就寝する。
■ 2001/09/18 (Tue)
彼に似ているような気がする
朝は7時頃に起き、娘に促されてまだ寝ている息子を起こす。息子は、どうしてもぎりぎりまで家にいたいようで、なかなか余裕を持って出かけてくれない。今日もコンタクトレンズの調子が悪いようで、出かけるのが遅くなった。
子供たちを送り出してから、原稿に手をつける。全体の最後の具体的な説明のところから初めて、下書きを書いてゆく。途中で、ケーキの残りを食べ、流しを片付け、また原稿の続きをする。
ちょっと手詰まりになったので、昼少し前に家を出て、バスで直接大学へ行く。共用の研究室に毎日のように来ているG君に会い、下書きを見てもらうことにする。結局、今日中に見るのは無理だろうということになり、明日改めて色々教えてもらうことにした。
前日手に入れた地名辞典のことで、地名調査プロジェクトの部屋に立ち寄る。いろいろな参考図書を紹介してもらい、大変参考になった。「サ・ブック・オブ・シドニー・サバーブス」という本が特に興味を引いたので、書店生協へ行って取り寄せようとしたのだが、どうやら絶版だ。ちょっと残念。代わりというわけでもないが、本と地図を買って戻る。
5時少し前に研究室を出て、マコーリー・センターでいくつか用事を済ませ、菓子などを買って帰る。夕食は息子の作ったオムレツがメインで、あとはセロリ入りのトマトスープなどだった。SBSの報道番組で今話題のオサマ・ビン・ラディンの話を特集していたので、思わず録画しながら見入ってしまった。ビン・ラディンは知り合いの某君に面立ちが似ているような気がする。育ちが良くて、実行力があり、カリスマ性がある所も...。少なくとも松本智津夫のような輩とは比べ物にならない、きちんとした立派な人物なのであろう。
テレビを見ながら、息子と二人で、少しだけだが部屋を片付ける。3月までの仮住まいということで、収納家具などは調達していない。いきおい、物を床に並べることになり、すぐに雑然としてしまうというわけだ。まあ、子供たちも私に似て片付け下手で、散らかっているのが気にならないようなので、時々は気合を入れてやらないとまずいだろう。
今日も12時前に休む。
■ 2001/09/19 (Wed)
松竹映画のタイトルバックは富士山
このところ同じパターンだが、早朝に娘が起きて洗面したりテレビを見たりする音で目が覚め、そのまま7時頃に起き、まだ寝ている息子を起こして、子供たちに朝食をとらせる。
子供たちが出かけた後、残り物をブランチにして、台所を片付け、一段落してからはテレビを少し眺める。ニュースで豪ドルの急落を知ってがっかり。7月に生活資金を豪ドルに変えたときのレートと金額をざっとはじくと、考え方にもよるが、20数万円から40万円近くが無駄に消えてしまった計算になる。ふた月足らずで10パーセント以上の下落である。実にトホホだが、これ以上、豪ドルを買っても仕方ない。7月から今のレートだったら、随分余裕のある生活だったろうにと、ついつい考えてしまう。
結局、昼頃に家を出る。大学行きのバスが来たので、そのまま終点まで行き、以前の住人宛にきた手紙を返送扱いにしてポストに投函してから、学食の建物にあるバス案内所へ行く。ここで娘のためにトラベル・テンを購入。研究室に行く途中で、先般来アポイントがもらえないでいたT先生と偶然廊下で出会ったので、様子を聞くと、PCが壊れてメールも読めない状態になっているという話だった。とりあえず、面談のアポイントをその場でもらい、一安心する。研究室では、メール・チェックをした後、ウェブの更新をしようと思っていたら、前日、下書きのチェックを頼んだG君がリライトしたものを持って来てくれた。これに更に手をいれ、それからしばし、原稿の続きを綴る。今日は、原稿の最初のほうを書いていったのだが、残る中段部分の原稿が上がれば、再度リライトを頼めるだろう。
途中で、地名調査グループの部屋に行って、昨日教えてもらったシドニーの本を問い合わせてもらうが、やはり絶版らしい。近いうちに古本屋へ行かなければならない。
5時過ぎに研究室を出て、マコーリー・センターのウールワースで卵や菓子と調味料などを買って帰る。子供たちは夕食をゆっくりと準備をしている。娘はテレビのシンプソンズを見ながら、米を磨いでいるが、いっこうに身が入らない様子だ。結局、米が炊き上がるのが遅くなりそうなので、自分だけ、魚とセロリのバタ焼きと、息子が作った茸のハンバーグとパンで食事を一足先に済ませる。途中で、オーブンで使ったガラスの耐熱皿を娘が割るハプニングがあったが、幸い事なきを得た。7時20分頃に家を出て、小学校の運営委員会の傍聴に行く。先週の父母会と同じように十数名が集まっての会議である。面白いというより、なるほどという感じになる場面がいろいろあり、勉強になった。帰りは、出席者の一人が車で家の近くまで送ってくれた。
帰宅後、SBSの映画が今村昌平の『うなぎ』だったので、ついつい大部分を見てしまう。役所広司や柄本明の達者ぶりは当然だが、常田富士男と倍賞美津子の夫婦とか、哀川翔とか、一瞬だけ出てくる小沢昭一とか、キャスティングがなかなかよい。そのままテレビをつけたまま、少しだけ仕事をして、その後、ゲームをはじめてしまう。気づくとずっとテレビを見ながら起きていた息子は既に空気ベッドで寝ており、夜明けも近い。指が痛くなってきたので、とりあえずもう止めて、体を横にすることにする。
■ 2001/09/20 (Thu)
買い出し帰りの荷物は重い
前夜は4時近くまで起きていたが、寝入ったところで娘の部屋の例の目覚ましの音で目が覚める。部屋まで行ったところで、娘が自分で目覚ましを止めたが、布団がベッドから落ちているので掛け直してやる。再度自分の部屋で熟睡。いつものように7時半頃に、娘の「お兄ちゃんが起きてないよ」という声で起こされる。息子は今朝は重症気味。最後は腹を立てながら家を出て行った。娘は、宿題を少しやってから彼女としては遅めの8時50分頃に出て行った。昨日は家で耐熱ガラス皿を割ったが、学校でも弁当箱に使っている容器を割ったようだ。破壊王である。
子供たちが出かけた後、久々にゆっくり湯船につかる。朝寝・朝酒はともかく、朝湯はやはり贅沢なものだ。
風呂から上がり、洗濯機を回し、朝食がわりにありあわせのものをつまみながら、原稿の続きをやる。丁度午前中いっぱいで、ひと通りの下書きを作った。とりあえず、これでG君にまたチェックしてもらうことにする。
昼少し過ぎに家を出て、今日も大学行きのバスで終点で降りる。
メール・チェックをして、G君に原稿のことを頼み、しばらくネット・サーフィンに時間を費やす。
ウェブ上で、ニュータウンの古書店「コーンストーク」の情報を確認し、3時過ぎに研究室を出て、シティ方面に向かうことにする。
大学のバス停で待っていたら、サーキュラー・キー行きの507番バスが来たので乗ってみる。径路はともかく、中心部へ行ければよいと思ってのことだったが、この路線が家の近くを通るというのは認識していなかった。帰宅時に使える路線をまた一つ見つけたわけだ。しかし、家には立ち寄らず、そのまま小一時間かかって着いたタウンホールで下車する。電車でニュータウンへ行き、下車。駅を出たところがキング・ストリートで、番地を頼りに「コーンストーク」へ行く。このあたりは、主要道路扱いの割にはさほど道幅が広くない通りを挟んで、小さな店や映画館などが並んでいる。道端で自作と思しき絵を売っている人や、段ボールで作った帽子に「詩人」と書いてある人(ベンチに座って他の人と話をしていたのだが、即席で詩を作る人らしい)など、ヒッピーの生き残り(ただし身なりはけっこう立派)と思しき人がいたりする。
結局「コーンストーク」では目当ての本を見つけられなかったが、ゆっくり店内を見て、8冊(52ドル)本を買う。そのまま駅へ戻るより、バスで中心部へ戻った方が面白いだろうと思い、キング・ストリートでバスに乗りこむ。バスは、そのままタイ料理店がたくさん並んだ通りを抜けて、シドニー大学の「大学連隊」の前に出た。ここからは歩いたことも、通ったこともあるので場所の見当がつく。結局、そのままタウン・ホールへむかったが、運転手が(理由はよく聞き取れなかったのだが)手前のプラネット・ハリウッドの前で乗客に下車を促したので、素直に下車。歩いてQVBへ向かう。ヨーク・ストリートを挟んでQVBと反対側にある「アッシュウッド」に入り、ここでも4冊(25ドル)古本を買う。
マースフィールド行きのバスに乗って、7時少し過ぎに帰宅。ちょうど夕食が始まるところだった。空腹すぎて逆に食欲が湧かない。子供たちがメインにしているステーキはパスして、もっぱら野菜スープとご飯を食べる。(そのまま、ゴミを出すのをすっかり忘れて就寝。)
■ 2001/09/21 (Fri)
朗報
珍しく、朝6時半に目覚め、そのままずっと起きていた。娘はいつものように早起きで、朝のアニメを見たり、宿題をやったりしている。息子は7時半頃から起こしだすが、今朝も起こすのに一苦労し、結局、遅刻気味で出かけてゆく。小学校へ持っていく書類があったので、娘に先に生かせてから少し遅れて家を出て、ノース・ライド・センターの郵便局に立ち寄った後、小学校へ行く。事務の窓口で用事を済ませ、娘を見つけて書類入りの封筒を渡してから、学校を出た。学校では、娘の同級生と思しき女の子たちにつかまって「どうしてあなたは英語ができるのに、万純はできないの?」などと質問され面食らった。
学校の前から288番バスに乗って大学へ行く。9時台に研究室に来るのは久々だ。G君から、目を通してもらった原稿がメール添付で来ていた。さっそく、こちらも再点検する。
原稿のチェックをした後、ほっとして、しばらく自分のサイトの細かい更新をやっているうちに昼を回る。昼下がりにメール添付で原稿を送付し、荷物を片付けてから、Z先生の研究室へ行き、しばし雑談。
午後4時頃、研究室を出て、歩いてマコーリー・センターへ向かう。今日はコンセプション・デー、つまり大学の創立記念日のお祭り(本当の記念日は時期も違うらしいが)で、学生食堂の近くでは屋台や大型の遊具などが出ていて賑やかだった。センターでは、娘が割ったものの買い替えになる耐熱皿や、マギーのラーメンの箱(30袋入り)などを買う。
帰宅後、日本から電話が入る。妻が来週末にこちらに来れることになった。朗報である。
今日は、JAM(Japanese At Macquarie:大学の日本人学生会)の諸君の会食に出かけることになっているので、シャワーを浴びて、久々にマオ・カラーのジャケットを着る。6時半過ぎに子供たちと家を出て、バスでEl Ranchoへ。前回は何回か泊ったなじみの場所だが、再渡航後ははじめて足を踏み入れる。日本人の留学生やOB、日本語を勉強しているオーストラリア人学生など、15人ほどが集まって、三々五々会話をしながら、時間を過ごす。子供たちも、スパゲティやフィッシュ・アンド・チップスを食べながら、それぞれ勝手にいろんな人たちと話をしていた。
結局7時過ぎから10時半過ぎまでEl Ranchoにいた。帰途は、いいタイミングでバスが来なかったので、家まで歩く。
11時半から、またrageを見る。マイケル・ジャクソンの新作ビデオで、マーロン・ブランドがゴッド・ファーザーのパロディのように出てくるのが面白かった。しかし、「本物の」マイケル・ジャクソンの映像を見ても「本物」とは思えないような気にさせるところはマイケルのマイケルたるゆえんか。
■ 2001/09/22 (Sat)
韓食のごちそう
いつもの週末のように rage を録画しながらテレビの前の空気ベッドで寝る。朝4時以降はすっかり寝込んでしまう。9時頃か、娘が自分でうどんを作って朝食にするというので、勝手にさせる。息子も起きてきて、野菜スープの残りを温めている。自分も起き、セロリを刻んでラーメンを作るが、食後は満腹になって再度うとうと。それでも寝ぼけながら娘に洗濯物を干させたりと、指示を出す。
すっきり目が覚めたのは午後3時過ぎになってから。子供たちはそれぞれ勝手に遊んでいる様子だ。
夕食は外食することにし、先週も出かけたイーストウッドの韓式食堂「ファゲ」へ行くことにする。6時前に家を出て、まず大学行きのバスに乗り、大学でパラマタ行きに乗り継ぐ。今日は、ブルゴギ、チキン・ブルゴギ、テンジャン・チゲ、ビビンパで、47ドルの勘定だった。前回チップを出しそびれたので、今回は50ドル出して、お釣りを置いてきた。子供たちは、ここの味を結構気に入った様子だ。スーパーにもまわり、お菓子などを買う。8時にチャツウッド行きのバスに乗って帰る。
今日は、娘や息子を叱ってばかりいた感じだ。あまり気持ちの良いものではない。こちらが仕事を逃避したくなっているせいもあるのだろう。
夜中過ぎから、またまた rage を見る。
■ 2001/09/23 (Sun)
リラックスした休日
昨夜の rage はゲスト・プログラマーのエスキモー・ジョーという三人組の選曲(選クリップ?)が絶妙で、見たことのないビデオも多かったし、昔の懐かしいビデオも含め、ずっと見入ってしまうことが多かった。ノイズ系のこんなことでもなければ一生見ないだろうというようなアングラ・テイストのものから、マイケル・ジャクソンまで(「スリラー」を久々に全編見てしまった)、見ていて実に楽しかった。朝は9時頃に起き、娘を促して自分のものの洗濯などをさせる。私が昨日、息子の掛け布団と毛布を使って空気ベッドで寝てしまったため、息子は私の寝床で寝ている。そのまま、起こさないままにしておく。
娘は自分でラーメンと作って食べ、朝食にした。庭で芝刈り機を使っていたら、西側の隣家の主人が声を掛けてきた。家の境に立っている板塀が傾いているのを直すので、来週末に敷地に立ち入らせてくれという。こういう場合は、家の持ち主同士が費用を折半する(この場合、隣家の主人が自分で作業するのだが、その手間賃は出さない)のがルールらしく、家主の連絡先を教えてくれとも言われたので、不動産屋が窓口になっていることを告げておいた。
私の寝床にこもっている息子に留守番をさせ、昼過ぎに娘と二人で家を出て、ボンダイ・ビーチに出かける。最初は、ノース・ライド・センターまで歩いて行き、娘用のトラベル・パスを買って、288番バスでQVBへ行き、セント・ジェームズまで歩いて380番バスに乗り継ぎ、ボンダイ・ビーチに着いたのは2時少し前だった。今日は春分の日(北半球なら秋分の日)だが、日中はけっこう夏のように日差しが強く、泳いでいる人も多い。
さっそく「ジョーンズ・ザ・グローサー」に入り、お茶とミート・パイ(例の英国式の不味いやつである)に、ベトナム風の生春巻(これは美味かった)をとる。途中から娘を浜に遊びに行かせ、ゆっくり店の「サンデー・テレグラフ」などを読む。娘が戻ってきてから、結局3時を結構回って店を出る。ボンダイ・ホテル前の公衆電話から家に残っている息子に電話して、5時半に「トゥー・ファッツ」で待ち合わせることにする。そのままキャンベル・パレードを歩いて、いつものように市が立っているボンダイ・ビーチ・パブリック・スクールへ行き、娘用の古着などを買う。娘も自分のお小遣いで、小物のバッグや装身具などを買っていた。小学校のあとは、パビリオンに立ち寄って、ちょうどやっていた陶製のオブジェの展覧会を冷やかしたり、情報チラシに目を通したりする。
5時頃、「トゥー・ファッツ」へ入ったら、日本人のウェイトレスがいて、日本語でサーブされた(この店で日本語話者の店員を見るのは初めて)。娘はソーセージのピザを食べて満足げだった。5時半をちょっと回って、ようやく息子が来たので、店を出て息子がご贔屓の「ノース・インディアン・フレーヴァー」へ行き、カレーを食べる。相変わらず美味しい。
店を出たのは6時過ぎ。パビリオンで情報を見つけた、イディッシュ音楽のパフォーマンスを見に行こうと思い、子供たちだけ先に家に帰すことにした。ボンダイ・ジャンクション行きのバスで終点まで行き、さらに380番バスに乗り継いで、オックスフォード・ストリートのダーリングハーストあたりで一人で下車し、子供たちを見送る。ところが、行くべき店の位置を勘違いしていて、とんでもない方向に歩き出す。途中で気づいたのだが、そのあたりの町並みも、それはそれで面白かったので、そのまましばらく歩いて、再度380番バスに乗って最初下車した近くまで戻ってきた。
ちょっと前にいったカンボジア料理の「アンコール・ワット」に近い、「ラ・バー」という店の2階がそのパフォーマンスの場所だったが、近づいてゆくと既に音楽が聞こえてくる。
2階に上がってゆくと、ちょうど演奏の最中である。音楽のチャージ10ドルを先に払い、飲み物をとる。演奏中のバンドは、ドラム、パーカッション、ベース、ギターに、アコーディオンとソプラノ・サックスという編成である。The Klezmer Connexion というこのバンドは、メンバーがときどき入れ替わりながら、途中からクラリネットが加わり、いかにもユダヤ教徒の結婚式で聞かれそうなダンス音楽(思わず、チャーリー・パーカーの伝記映画の場面を思い出してしまった)や、よりモダンにアレンジされたユダヤ人のアイデンティティとの関連で言及されることがあるスタンダード曲(「素敵なあなた」など)をゴリゴリと演奏してゆく。
チンドンにも通じる、ちょと哀愁を帯びた音色がなかなか心地よい。手拍子を打つときは、オン・ビートでとるのが普通らしい。店内には、私と同世代以上の人がけっこう多く、40人近い客が入っているが、皆知り合いという感じに近いらしい。演奏中にも踊りだす人たちもいたし、休憩中の演奏者たちはフロアに混じって話をしていた。一人だけで入ってきた全くのよそ者(非白人は私だけ)が、バーの近くで手持ち無沙汰にしているのを気にしたのか、バンドのマネージャー役と思しき50代くらいの恰幅の良い男性が休憩時間に話し掛けてきたので、しばし立ち話をする。
10時近くになり、2回目の演奏の途中で店を出る。サーキュラー・キー行きのバスでハイド・パークまで戻り、QVBまで歩いて行く。もう遅いのでバスの本数も当然少ない。しばらく290番バスが来ないので、停まっていた288番バスに乗り小学校で下車して歩いて帰った。
帰宅したのは10時半を回っていた。息子は起きていたが、娘はもう寝ている。
少しパソコンに向かおうとしたのだが、すぐに眠気が来て、すぐに寝ることにした。
美味しいものを食べ、いい音楽を聴き、一日リラックスしたいい休日だった。
■ 2001/09/24 (Mon)
久々に自分で夕食を全部作る
早朝5時頃に起き、そのままSBSでNHKニュースを見る。考えてみれば、日曜の7時のニュースは20分しかないから、こちらの月曜のニュースもあっという間に終わってしまう感じだ。一瞬、古館一郎は何をしているのだろう、などと考えてしまう。
しばらくして起きてきた娘に朝の支度をさせながら、しばらくパソコンに向かおうとしたのだが、いっこうに仕事をする気にならない。原稿の正味の締め切りは28日朝なのだが、今回はもしかするとダメかもしれない。
娘に付き合ってアニメのテレビなどを見る。7時半を回ってからは、また息子を起こすのに一苦労。結局8時20分近くになってようやく出かけた。娘を送り出し、洗濯物を干してから、10時過ぎに家を出る。たまたまストラスフィールド行きの459番バスが来たので、思わず手を挙げて停めてしまい、コックス・ロードまで行き、そこで改めて288番バスを待つことにした。結局、しばらく待ち、一停留所分歩いてケント・ロードの入口から288番に乗って大学へ行く。しかし、あまり仕事が手につかないまま、4時近くになって娘が研究室にやって来た。
娘にしばしインターネットで遊ばせる。5時少し前に研究室を出てマコーリー・センターへ行き、ウールワースで買い物をする。日本風の梨を NASHI PEAR という名で売っていたので買ってみる。魚のコーナーでしばらく品定めし、マグロ、ブリ、ホキの切り身を買う。
薄暗くなった6時過ぎにチャツウッド行きのバスで帰宅。息子は帰って自分のベッドで寝ている。干されたままの洗濯物を取り込んで、夕食の支度に取り掛かる。
前夜の残りのご飯を使ってセロリと玉ネギとハムで焼き飯にし、さらに新しくご飯を炊く。トマト・スープには例によってセロリをみじん切りにして入れる。そして、マグロとブリを刺身にして、ちぐはぐだが何とか全部夕食を作った。
夕食後は、テレビのクイズ番組「ウィーケスト・リンク」や「ミリオネア」をぼんやりと見る。疲れが来ている感じなので、仕事は放り出して早めに休むことにする。
■ 2001/09/25 (Tue)
少しずつ空振り
朝6時頃に起き、間もなく起きてきた娘とテレビを見る。ちょっと風邪気味になったようで、くしゃみが時々出る。いつものように息子を送り出してから、娘と一緒に小学校へ向かう。途中でM家のご主人に挨拶をしようと思っていたからなのだが、ちょうど入れ替わりに出かけた後だったようで、空振り。そのまま小学校の事務棟へ行って担任のW先生に家内が来ることを話そうと思ったら、会議中のようだったので、結局何もせずに学校を出て、288番バスで大学へ向かう。
研究室へ着いてから、金曜朝までの原稿をぎりぎりまでやろうと思い、執筆に取り掛かるが、遅々としたペースのままで効率は上がらない。
昼ころ食事に行こうと思い、研究室を出たとき、途中の廊下で不要本の処分(勝手に持っていってよい)をしていたので、ついつい時間を潰す。中国語とドイツ語の本が多い。これが日本だったら車で全部持って帰る(少々大げさ)ところだが、ここではそうはゆかない。ノヴァーリスの全集なんかもって帰っても仕方ないので、小ぶりの本を物色し、ドイツ語の毛語録や、堅い本の間になぜか場違いに紛れ込んでいたマイケル・ジャクソンのゴシップ本などを見つけて、持ち返る。
研究室に戻ってからも、結局そのまま、ずっと悪戦苦闘する。4時半頃からにわかに外が雷雨になり土砂降りになった。どうしようと思案に暮れていると、4時40分くらいに技官のD氏が顔を出して、ぼちぼち閉めるという。慌てて作業に区切りをつけようとしたのだが、何とパソコンの調子がおかしくなってきたではないか。未発信のメールを出しそびれ、ちゃんと終了することもままならぬまま、5時ぎりぎりで原稿の資料などの荷物をかき集めて部屋を出て、とりあえず5階のコモン・ルームへ行き、荷物を詰めなおす。そこで、一番大事な資料を研究室に置き忘れてきたことに気づく。もうフロアごと錠が下りているので、研究室には戻れない。呆然としつつ、とりあえず雨の中をバス停まで行き、バスでマコーリー・センターへ向かった。
娘の話では、今日はM家の子供たちが遊びにきているかもしれなかったので、ウールワースでケーキなどを買い、バス停に戻ると、いつもは少々遅れてくる459番バスが定刻で出発した直後だったようだ。気を取り直してバス停に近い Dymocks clearance shop に入り、2冊ほど本を買う。ところが、次の459番バスは定刻になっても来ない。もう6時近いので、294番バスで帰ることにした。ところが、このバスがレーン・コーヴ・ロードに右折するところで大渋滞になっていて、恐ろしく時間がかかる。結局、家から少し離れたいつものバス停で下車して歩いて帰ったのだが、途中で遅れていた294番バスに追い抜かれてしまった。がっくりである。
帰宅してみると、今日はM家の来訪は無かったようで、買ってきたケーキは冷蔵庫の奥に入った。
夕食は息子が作った、ステーキなど。ぼちぼち暖かい季節になって来ているせいか、食品の傷みが早くなっているので、食材をどんどん使わなければいけない。
夕食後、娘はそのまま部屋に入って寝た様子。こちらはゆっくり風呂に入る。風呂から出てしばらくして午後10時になったので、SBSラジオの日本語ニュースを初めて聞いてみる。プロフェッショナリズムというよりはコミュニティ・ラジオ的な雰囲気。リクエストで「川の流れのように」がかかったのだが、美空ひばりのものがなかったそうで小林幸子が唄う「川の流れのように」がかかる。アデレードのコミュニティ局(10月からFMになる)で週に1時間の日英語番組をやっている人の話はちょっと面白かった。このアデレードの人も、メインのアナウンサーも、横文字姓の女性である。
番組の途中で、眠気が襲ってきた。それでもしばらくは起きていたら、実家から電話が入り、しばらく話をする。電話の後で少し仕事をとも思ったが、風邪気味で仕事にもならないので、そのまま休む。
■ 2001/09/26 (Wed)
気も荷も頭もみな重い
早朝4時半頃に目覚め、トイレに立つ。再度床に就いたが、しばらくうとうととはしたものの眠くならなかったので、起きることにし、SBSでNHKニュースを見る。アフガニスタン周辺の情報一色である。どさくさ紛れに自衛艦も先取りでインド洋に参戦である。今回のことで日本が直接戦争に巻き込まれることはあまり考えられないとしても、いろいろな抑止が外されていくことで将来の戦争に日本が巻き込まれる(あるいは日本の為政者が主体的に戦争行為に走る)可能性は確実に高くなっているのだろう。
いつものように娘とテレビを見て、息子を無理やり起こし(今日は確実に遅刻というタイミングで出かけていった)、一段落したところで、ほんの、ちょっとだが、原稿に取り掛かる。
娘が帽子を忘れていったのに気がつき、10時過ぎに家を出て、小学校へ向かう。途中で、ノース・ライド・センターの郵便局で「ウォータールー・ロード」の郵便局はどこかと尋ねる。家内が日本から送った小包が、配達時に不在だったために局留めになっているという通知が来ていたからである。場所は教えてもらったものの、バス停からはちょっと遠そうだ。とりあえず、小学校へ帽子を届け、レーン・コーヴ・ロードに出て北行きのバスを待つ。459番バスがきたのでレーン・コーヴ・ロードとウォータールー・ロードの角まで行き、そこから歩く。この道にもバス停はあるが、ここを通る本数は非常に少ないはずだ。オリックスの事業所の前を通過し、しばらく行って、ようやく郵便局に着く。ここで受け取った小包はけっこう重い。当初は、郵便局に立ち寄ってから大学へ行こうと思ったのだが、来た道をそのまま引き返してバスを降りた角まで来て、家まで一度戻ることにした。途中、エッピング・ロードを横断するときに、交差点にオレンジが散乱しているのに出くわした。どうやら右折時にひと箱落としていったトラックがあったようだ。道路上に落ちた分はあらかた踏み潰されているが、道路の縁まで転がってきた分はそのままである。思わず両手で持てる4個を拾って家に戻る。
小包を家に置いて、すぐにまた出発し、大学行きのバスに乗って研究室へ行く。仕事は順調にはかどっているとはいえないが、少しずつ書いていく。途中で、インターネットで検索していて、見落としている重要な邦文文献があることが判り、一時は原稿を書くのを止めようかとも思ったが、よく考え直して、ぎりぎりまで頑張ることにする。また、検索の途中で、シドニーに事務所のある日本の団体の資料を見つけたので、来週あたりに出かけるべく問い合わせの電話を入れる。
そうこうしているうちに、結局、5時少し前に研究室を出ることにして、家に電話をする。買物のリクエストを聞こうと思ったら、娘が電話に出て、息子がもう買物に行ったという。大学からバスでマコーリー・センターへ行き、郵便物を投函するなどして、買い物もと思ったが、結局、何も買わずに545番バスで帰宅した。
今日の夕食は、息子がカレーを作る。こうしてみると、これも立派に日本の家庭料理である。
食後、また仕事に取り掛かる。床に大縮尺の地図を広げてうなっていると、息子に「地理学者みたいだ」と言われる。考えてみれば、子供の頃から大きな地図を部屋いっぱいに広げるのは何だかわくわくする楽しい経験で、大好きだった。
そのまま11時過ぎまで、ゆっくり書き進むが、風邪気味なのが続いていることもあってか、早めに眠たくなってしまったので、息子に「そっちが寝る時に、起こしてくれ」と頼んで寝床に入る。
■ 2001/09/27 (Thu)
地元の学会へ顔を出す
早朝3時半頃に息子に起こされ、原稿の続きに取りかかる。間に合うかどうかは本当に微妙だ。紀要の原稿という意味では、急ぐ必要はないのだが、別の事情もあってできるだけ早く活字にしたい内容なので、とにかくぎりぎりまでやらなければいけない。
5時半からはSBSでNHKニュースを見るが、今日もアフガニスタン周辺の状況の話ばかりである。行政改革はどこへい行ってしまったのだろう。どさくさ紛れに水面下でいろいろよからぬことが進められているような気がする。6時頃娘が起きてきて、今日も朝シャワーを浴びている。ふだんならそのままテレビでエアロビクス番組などを流して見るのだが、原稿に取り掛かっているので、7時までは消音にして作業をする。
今日から、UTS(University od Technology, Sydney)でIASPM-ANZの大会があるので、チャンネル・テンのアニメ番組が始まる頃には仕事に区切りをつけて出かける準備をする。8時10分頃に息子と一緒に家を出て、バスで中心部へ向かう。ウィンヤードで下車して、地下の電車乗り場へ向かう。
一昨日辺りからトラベル・パスの磁気がおかしいようなので駅でも有人の改札口に回らなければならない。有人改札口でパスを見せて説明をすると、交換するかと尋ねられた。話を聞いてみると、どうやら定期券売り場で、交換手続きが出来るらしい。結局、定期券売り場でパスを預け、預り証(小さな複写の紙片だがこれで切符の代わりになる)をもらった。5日ほどで再発行されることになるようだ。
電車でセントラルへ行き、UTSへ。IASPM-ANZの会場には、三十人あまりが参加していたが、トゥルクで知り合ったメンバーもたくさんいて一安心。会場では、1999年のIASPM-Sydneyの報告集を売っていたので、さっそく入手する。
発表には、なるほどと思いながら聞ける話もあれば、発表者によっては英語が頭に入ってこないものもある。
パブにポーカー・マシンが入ってくるとミュージシャンの仕事の機会が奪われるという話、生活に密着した替え歌などを記録・収集している人の話(昼食時を利用しての特別セッション)、オーストラリアにおけるラテン音楽の話、また同様のアイリッシュ音楽の話などが、印象に残る。
途中で、さすがに体調が悪くなってきたのか、頭痛がし出したので、最後のセッションの終了を待たずに帰ることにする。
夕方7時頃に帰宅。ちょうど夕食でカレーが出るところだった。
夕食後、明日朝にメール添付で原稿を送ることになっている紀要の論文にとりかかる。そのまま深夜2時頃まで作業をするが、猛烈に眠くなる。実際、椅子に座ったまましばし寝ていたようだった。床については元も子もないので、バスタブに湯を入れて、しばしつかることにする。
■ 2001/09/28 (Fri)
久しぶりに家族が揃う
湯船に浸かったまましばらく寝て、再び3時過ぎから原稿を書く。
今朝は日本から妻が到着する日で、娘と朝の空港に迎えに行くことになっている。5時前には娘が起きてきてシャワーを浴び始める。娘には、空港の後学校に直行させるつもりだったので、学校へ行く準備をさせて、こちらは原稿の仕上げを続ける。
原稿を何とか送信したのは5時半を回った頃。平日のこの時間帯に起きていたのにSBSのNHKニュースを見るのを忘れているというのは、そうあることではない。
6時少し過ぎに娘と一緒に家を出る。フリーウェイ経由の290番バスでウィンヤードまで行き、電車に乗り換えて空港へ行く。途中、乗り換えのタイミングがちょっと悪かったが、何とか7時20頃に空港に到着した。
飛行機はもう着いているが、手続きに時間がかかったようで、7時半過ぎにようやく妻が出てきた。飛行機のなかではほとんど眠れなかったらしい。
3人でウィンヤードまで戻り、娘の希望を入れてマクドナルドで朝食をとる。妻はマクドナルドの筋向いの店で、靴を買う。
帰り方はちょっと迷ったのだが、結局タウン・ホールまで電車に乗り、QVBから290番バスでいったん帰宅する。9時半頃になっていた。娘はすぐに学校へ向かう。荷物を置いて、電話をあちこちに入れてから、一段落してお茶を飲む。10時半頃、妻と一緒に出かけ、とりあえずマコーリー・センターへ行く。銀行で手続きをし、センター内をぐるっとひと通り見て回る。
そのまま歩いて大学へ向かい、まず国際部のオフィスへ行き、そこで書いてもらったメッセージを持って指定された場所へ行くが、2ヶ所でたらいまわしにされようやく目的のオフィスにたどり着く。ただし、相手は不在なので、書類を窓口に託して来週またくることになる。研究室に立ち寄ろうとしたら、エレベーター・ホールから先がロックアウトされていて入れない。しかたなく何もせずにいったん家に帰る。12時40分頃に帰宅。昨夜録画し損ねたSBSの番組の再放送を途中からだが録画し始める。
ラーメンを作って昼食にし、妻はそのまま昼寝をする。こちらもメールチェックなどをして、少しうとうとする2時過ぎに妻を起こそうとしたが、熟睡していたので3時過ぎに再度声を掛ける。
出かける準備をしていたら、娘が戻ってきた。入れ替わりで、妻と再度出かけ、フリーウェイ経由の290番バスでウィンヤードからは歩き、総領事館に在留届を出す。妻は今朝履き替えた靴で靴擦れを起こしてしまい、痛そうだ。マーティン・プレースからタウン・ホールまで電車で戻り、QVBから288番バスでマコーリー・センターへ行く。妻をバス停のベンチで待たせ、ウールワースで脱脂綿や消毒液などを買い、459番バスで帰宅。
夕食は、息子が作ることになり、茸のハンバーグにベーコンとセロリの炒め物、昨夜のカレーと野菜炒めのあたため直し、などが出る。わが家は、日本にいるときから家族4人で食事する機会は少ないのだが、本当に久しぶりの家族揃っての食事である。
今夜はさすがに寝不足で、今日の rage は見ながら録画というわけには行かない。
番組開始後に録画をはじめ、そのまま寝る。
■ 2001/09/29 (Sat)
せっかくの外食だったのに
朝は6時頃に目が覚める。まだ誰も起きてこない。そのまま起きてパソコンに向かう。妻が来てから一日で、部屋のあちこちが整頓されており、気楽にいじれなくなってしまった感じ。
8時過ぎに妻の作ったオムレツの朝食を、娘と三人でとる。その後、息子を起こし、でかける準備をさせる。
最初は、私が一人で先に学会へ出かけようかと思っていたのだが、11時にサーキュラー・キーで学校の仲間と待ち合わせている息子と一緒に9時半頃に家を出る。息子は少し時間を潰さなければいけないので、少し付き合うことにして、290番バスをウィンヤードで下車し、駅の構内を見てまわりながらジョージ・ストリートまで抜け、そこでまたバスに乗ってQVBへ行く。2階のカフェで一服して、そこで息子と別れて学会の会場へ行こうと思っていたのだが、改めてプログラムを見て、午後から出かけることにする。我ながらころころと考えが変わるものだ。息子と一緒にサーキュラー・キーまでバスで行き、そこで別れて現代美術館へ行ってみる。前回来たときとは、1/2階の展示が変わっていた。ショップで安売りになっていた本と雑誌を少し買う。
再度バスで学会会場になっているウルティモのUTSへ向かう。途中、QVBのあたりで、緑の党や社会主義者のデモ行進が「人種主義戦争は止めろ」とか「戦争より雇用に資金を」などというプラカードを掲げながら進んでいた。「イスラエルと米国は西岸での殺戮から目をそむけるな」とか「報復は解決にはならない」といったメッセージも並んでいる。デモ自体は代々木公園のメーデーと変わらない、家族連れの行進だし、列も決して長くはないが、すれ違ってゆく我がバスの運転手は、賛同のクラクションを鳴らしながら進んでいった。
UTSに到着したものの、今日は休日のせいか、リフトが上りでは使えない。非常階段で5階へ上がったのだが、情けないことに息があがってしまう。12時を少し回っていて、午前中のセッションの終了時間間際だったので、会場に入らず前のソファで待っていたのだが、しばらくして受付の女性が会場に入らないのかと声をかけてきたので、話を聞いてみると、スケジュールが大幅に変更になったようで、午後1時半までセッションが続くのだという。結局、そこで入場し、発表を一本聞く。
昼食は、マコーリー大学の関係者たち(C氏やG君ら)と一緒にチャイナ・タウンへ行き、徳信フード・コートでシーフード焼きそばを食べる。帰りにアジンコート・ホテルに立ち寄り、みんなはビールを飲む(こちらはもちろんソフトドリンクだが)。オーストラリアン・ルールの大きな試合があり、テレビの大画面でしばらくセレモニーから、試合開始直後の様子までを眺める。
その後、会場に戻り、また、発表を聞く。シドニーのゲイとレズビアンの合唱団における人間関係の問題を、フーコーに依拠して解釈するという話は、正直よく判らないところもあったのだが、面白く思えた。
5時半頃に、ようやくプログラムがひと通り終わったところで、すぐに会場を出て、家族と待ち合わせているQVBの JET cafe へ行く。6時前後に全員が揃い、アジンコート・ホテルに戻って食事をしようとしたのだが、これが大失敗だった。
2階のブラッセリーが貸しきりになっているというので、1回のパブエリアの入口近くで食事をすることになったのだが、パブエリアの中央を占めていた一団がすっかり出来上がっていて大騒ぎをしている。食事をする雰囲気ではないと、家族に文句を言われる、しかも、注文した料理は1時間以上経ってようやく出て来る始末だった。この間、1階のカウンターの従業員、2階のブラッセリーのカウンターの従業員へ、数回文句を言いに行き、最後はオーストラリア訛のきつい責任者が出てきて(少なくとも言葉の上では)謝った。
せっかく妻が来て最初の外食だったのに、失敗だった。自分が予め出かけたところ以外はひとを連れてゆくなという原則を改めて痛感した。
バスを乗りついで4人で帰宅。娘だけはいつものように早く寝るが、妻は読書、息子は自室で何かやっていてまだ起きているので、こちらもそのまま起きている。結局、二人が寝た後まで起きていて3時頃に寝たのだが、息子はなぜか私の寝床で寝ているので、息子のベッドで寝る。
■ 2001/09/30 (Sun)
息子だけは別行動
未明に一度起きて、録画中のテープを交換して、すぐに寝たのだが、その後は熟睡して、起きたのは9時近く。娘と妻はもう起きていた。息子は、今日は午後から学校の友人と遊びに行くことになっているので、妻と娘と三人でボンダイ・ビーチへ遊びに行くことにする。昼過ぎに家を出て、まず歩いてノース・ライド・センターへ行き、買物などの用を足してから、小学校へ行き、娘が妻に学校の構内を案内する。1時少し前の288番バスでラング・パークまで行き、サーキュラー・キーまで歩いて、380番バスでボンダイ・ビーチまで行く。
いつものジョーンズ・ザ・グローサーでお茶にする。あとで待ち合わせることにして、娘は持ってきたスクーターで遊びに行かせる。小学校の校庭では、例によって日曜市が立っている。妻の普段着に古着を少しと、つっかけ代わりのサンダルを買う。
その後、パビリオンの方へ行き、しばらく娘に砂浜で遊ばせる。その間に、妻がジョーンズで買ったほうれん草のパイを分けて食べる。4時をまわり、少し風も冷たくなってきたので、そろそろ帰ることにし、ニュージーランド・ナチュラルのところでアイスクリームを娘に買い与え、ゆっくり食べさせながらバス停へ。サーキュラー・キー行きの380番に乗る。
オックスフォード・ストリートで下車して、ベトナム料理屋などの様子をうかがいながら、街を見て歩く。最初はこのあたりで夕食と思ったのだが、みんなまだお腹がすいていないというので、もう少し動いてから食事にしようということになった。オックスフォード・ストリートのハイド・パークに近いところからまたバスに乗り、セント・ジェームズのデヴィッド・ジョーンズのところで下車。アーク・キングの回転寿司屋へ行ってみたが、休みだった。ちょうど6時になりそうだったので、QVBへ行き、からくり時計を見て、食事をしようと思ったのだが、ふだん遅くまでやっている2・3階のカフェが、今日はもう閉まっている。すごすごと退散し、再度オックスフォード・ストリートへ向かいかけたのだが、途中のマクドナルドの隣に中華麺の店を見つけ、ここで食べることになった。まあまあの味だった。
ウールワース・メトロでちょっと買い物をして、マースフィールド行きのバスで帰宅。帰ってきたのは7時半頃だったが、息子はまだ戻っていなかった。
帰宅後しばらくビデオの整理をしたり、メール・チェックなどをする。
娘はすぐに寝てしまい。夜も更けてきたのだが、11時になっても息子は帰ってこないし、電話もない。妻は本当に心配している。こちらも心配はしているのだが、とてつもなく眠くなってきたので、息子が帰ってこなければ12時に起こしてくれと言って、とりあえず仮眠する。しばらくして話し声で目が覚めた。11時半頃になって息子が帰ってきたのだ。ダーリング・ハーバーのイベントでサルサを聞いてきたらしい。とりあえず今後同様のことがあれば電話を入れるように言う。相変わらず眠いので、12時過ぎにはまた休む。妻はまだ本を読んでいる。


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