私的ページ:山田晴通

シドニー日記:2001年12月1日〜12月31日


 12月分の日記です。
 ここでは、山田の備忘録に掲出したときと内容はほぼ同じです。1ドルは、70円くらいです。
 このページへの転記に際し、原文の明らかな誤記は訂正しました。
■ 2001/12/01 (Sat)
ザ・ロックスのウォーキング・ツアー
 前夜は2時過ぎまで起きていた。日本のように暑いわけではないのだが、けっこう涼しくないと感じる夜で、娘は玄関の網戸を開け、冷気の流れてくる廊下に布団を敷いて寝ていた。こちらも部屋の窓を開けて眠った。
 今朝は、土曜学校の面談があるので、いつもより早く、7時少し過ぎに家を出て、292番バスでウィンヤードまで行き、207番に乗り継いで、8時20分頃にカマリー小学校までたどり着いた。面談は45分からなのだが、これより遅いバスだと間に合わなくなりそうだったので、仕方なかったのだが、まだ誰も来ていない。35分頃になって、運営委員のお母さんが鍵を持って到着し、閉まっていた扉が開けられる。それに続いて到着したのが、娘のクラス担任のH先生だった。さっそく教室で簡単に面談。たいした問題はなく、簡単な情報交換という程度だった。正直なところ、ほっとはしたものの、拍子抜けに近い感じでもあった。面談が終わった頃にはもう子供たちや親御さん達で学校中が賑やかになっている。M家の子供たちとお母さんに会ったので立ち話になる。今日は、帰りに娘を送ってくれるということになり、お言葉に甘えることにする。
 妻と学校を出て、散歩のつもりで北シドニーへ向かって歩き始める。途中、競技場の近くのインディペンデント劇場のカフェで、ひと休みする。
 妻は持ち歩いているペーパーバックを、こちらはそこにあった新聞をしばらく読む。ジョージ・ハリソンの訃報がトップになっている。壁に飾ってあるビーチの風景を描いた絵がなかなか魅力的だったので近寄ってみると、日本円で25万円くらいの値段がついていた。もちろん買って帰るわけではないのだが、思わず「安い」と思うようないい絵だった。
 店を出て、さらに歩いて北シドニーへ行き、そこからバスを拾って、ラング・パークで下車し、ザ・ロックスへ行く。今日は、今月下旬に来る来客を案内するための下見というか、情報収集が大きな目的なので、まず、インフォメーション・センターへ行く。そこでいろいろ話を聴いて、11時半からのウォーキング・ツアーに参加することにする。さっそくオフィスへ行ってみたのだが、まだ1時間近く時間があるせいか、オフィスは閉まっている。ひと回りしてから再度オフィスへ戻ると、女性ガイドが一人いて、発券してくれた。まだ30分ほどあったので、近くにある、いつもの「ゲダイ・カフェ」でひと休みして時間まで待つ。
 11時半になったのでオフィスへ行ってみると、私たちだけで他に客はいない。ラッキーだった。ザ・ロックスの歴史を淀みなく話すガイドさんについて、ぐるっと一回りをする。これまで何度か足を運んできた場所だが、改めてちゃんとツアーに参加し、更に情報量が増えた感じだ。結局90分ちょっとの充実したツアーだった。バウンティ号の叛乱の話や、ピンチガット島(現在のフォート・デニスン)の話など、断片的で混乱していた知識が整理できただけでも収穫である。
 昼食をどうしようかと考えながら、とりあえずシティ中心部へと歩いて行き、途中で買物と郵便局の用事を済ませる。郵便局を出てから、バスをつかまえて数ブロック進み、スパニッシュ・クオーターの「カーサ・アウストラリアーナ」に入る。本格的なパエーリャを食べる。満腹になり、食べきれない分は持ち帰る。
 歩いてQVBまでもどり、ちょうど止まっていた288番バスに乗る。ノース・ライド・センターで下車し、フレスコでちょっと買物をしてから帰宅した。
 もちろん、娘はとっくに戻っていた。
 夕食は、息子と妻が作っていたが、こちらは昼食のパエーリャが腹の中で更にふくれた感じ??で、とても食べる気にならず、息子が作ったスープを少し飲むだけにした。
 風呂に入り、上がってからしばし寝床で涼みながら半裸で寝ていた。
 今夜も途中からになってしまったが、rage を録画しながら少しだけ見る。
 パソコンで単純作業をしながらの「ながら視聴」である。そのまま座りながら眠りかけている自分に気づき、2時頃寝床に入る。
■ 2001/12/02 (Sun)
ひとりで留守番
 土曜日とは逆に、ゆっくり寝床でぐずぐずしてから起き上がる。既に10時を回っている。
 12月に入った昨日から、ここでは夏なのだそうだが、確かに一段と暑くなってきた感じだ。昨夜も妻は蚊に刺されて眠りにくかったようだ。
 今日は、夕方に妻と子供たちがミュージカル「オズの魔法使い」を見に出かけることになっている。こちらも休養日を決め込んで、ぐうたらして時間を過ごす。
 3時過ぎに妻と子供たちは出発し、9時過ぎに帰って来たのだが、この間ずっとそんな調子で、ビデオやテレビをぼんやり見続けて過ごした。
 昨夜の rage は帰宅が遅れたので一部しか録画できなかったのだが、改めて録画した分を見て、これまでで一番見ごたえのある構成だったかもしれないと思った。
 妻たちは、クロウズ・ネストの「魚や」で夕食をとったそうだ。
 何もせずにいたのに、夜はすぐに眠くなり、12時前に床に着いた。
■ 2001/12/03(Mon)
消えた定期券
 いつものように、娘に起こされる。ただし、時間はまだ7時半だ。今朝は、いろいろないきがかりで弁当を作ってやることになっていたので、牛肉を炒め、ご飯にごま塩をふりかけたものと一緒につめてやる。8時から息子を起こしだすが、8時25分までは起きないと言い張る。
 ともかく子供たちは8時半頃に相次いで出かけ、英語の個人教授がある妻も、9時前に出かけていった。その後は、洗濯物を干し出し、パソコンでしばらく遊んでいた。
 妻と11時30分にQVBで待ち合わせていたので、10時過ぎにぼちぼち出かけようと準備をはじめ、定期券(トラベル・パス)が」見当たらないことに気づく。しばらく色々探したのだが見当たらない。結局、待ち合わせに遅れないように家を出て、ちょっとだけの遅れでQVBに着いた。ここで買物を少ししてから、バスでセント・レナーズのワサビ・カフェへゆく。ちょうど昼時でビジネス・マンの客が大勢来て繁盛している。ひと通り食べ終わったところで、バスの時間を確認したら、折悪しく小1時間次のバスが来ない。しばらく店でのんびりしていたが、妻は先に店を出て、近くの旅行代理店で来月の旅行の予約をした。2時少し前に290番バスに乗り込む頃、空がだいぶ暗くなり、バスが走り出してから急な土砂降りになった。雷もなっている。家の近くのバス停で、妻だけが降りて先に家に帰って行った。洗濯物は出したままだったから、すっかり濡れてしまったようだ。
 ひとりでそのまま大学まで行き、研究室でしばらくインターネットを繋いでメール・チェックをしたりする。5時少し前に、家に電話を入れ、再度強い日が差し始めた中をマコーリー・センターへ向かう。ちょうどバス停のところでバスがきたので、センターまで乗ってゆく。
 ウールワースで食料品を買い、506番バスで帰宅。このバスは、たまたま発券機の故障だったらしく、運転手は「フリーライド」と言ってどんどん乗客を乗せていた。
 帰宅後、なくなったトラベル・パスを探して部屋を少し片づけたりするがどうしても見つからない。ところが、そこうしているうちに、息子が自分のパスだと思って私のパスを持って行っていたことがわかった。なくなっていたのは息子のパスだった。いずれにせよ、それは結局出てこなかった。
 夕食は、肉炒めとほうれん草のおひたし、味噌汁などを息子と妻が作った。
 娘は、今日航空便で着いた用紙に(日本の)小学校の卒業文集の原稿を書かなければいけないのだが、途中で寝てしまう。
■ 2001/12/04 (Tue)
図書館も夏休み体制
 体調がいまひとつなのか、熟睡できない感じで、朝はなかなかすっきり起き上がれない。今日は、子供たちが出かけた後にようやく起き出した。
 午前中は、パソコンで単純作業の続きをする。
 妻は昼どきに大学で打ち合わせがあるということで、11時過ぎに出かけた。その後で一緒に昼食をすることにして、午後1時に研究室で待ち合わせる。
 結局、1時にちょっと遅れて研究室へ行き、エレベータ・ホールで待っていた妻と、教員クラブで昼食にする。食後のコーヒーまでゆっくり時間を使って楽しみ、2時過ぎに研究室へ戻ってから、しばしそれぞれインターネットをする。
 妻は3時頃に帰ったが、こちらは5時少し前まで作業を続ける。最初は5時以降も図書館で少し作業をしようと思ったのだが、夏休みに入って午後6時で閉館になるようだ。図書館での作業は改めての機会にして、マコーリー・センターのウールワースで買物をして、帰宅する。
 夕食は、息子が作ったカレー・ライスがメインだった。午前中に私が作ったトマト・スープは、誰も食べてくれないので、しかたなく1人で少しずつ消費する。
 食後、娘は卒業文集の作文を何とか仕上げたようだ。
 夜遅く、実家へ電話して、クリスマス前後に遊びに来る妹と打ち合わせをする。
 12時半頃にはすっかり眠くなり、就寝。
■ 2001/12/05 (Wed)
「豪州東亜」を買う
 朝は、娘の声で7時半頃起きる。ところが、ついパソコンをいじり始めて、息子を起こすのを忘れ、気づくと8時40分になっている。慌てて息子を起こし、出かけさせる。
 妻は体調が少し悪いようで、今日は出かけないという。
 午前中は、雑用を片づけ、午後になってから研究室へ顔を出すことにし、545番バスで大学まで行く。研究室に荷物を置き、郵便物をチェックしてから、図書館に行ってコピーをとり、事務方のAさんにファックスを依頼し、さらに郵便物をもってマコーリー・センターの郵便局へ行く。娘の作文も無事投函した。
 結局、学内外のあちこちでいろいろ用を足しているうちに午後4時半頃になり、今日は早めに閉めると技官のD氏が言いに来た。大学からバスに乗ったのだが、急に思いついてマコーリー・センターで下車し、ウールワースで買物をして、459番バスで帰宅。
 今日の夕食は、イーストウッドのファゲに行くことになっていたので、6時頃皆で家を出て、545番バスでイーストウッドへ行く。疲れがたまっているのか、車中で熟睡してしまった。
 ファゲではいつものようにチゲ類と焼肉、ビビンパなどを食べる。今日の勘定は44ドルだったが前回まけてくれたこともあり、50ドルを置いてくる。
 食後、近くの韓国系のスーパーへ行き、いろいろ買物をする。ファゲの主人P氏の話だと、シドニーで入手できる唯一の韓国語日刊新聞だという、「豪州東亜(ホジュドンア)」(東亜日報の衛星版)を買ってみる。ちなみに、以前見かけた「豪州日報」は「京郷新聞(キョンヒョンシンムン)」系で週2回刊らしい。
 バスが30分ほど来ないので、これも定番になってきたバス停前のカフェでコーヒーを飲む。ここで、「豪州東亜」のトップ記事(韓国の大学入学能力試験の平均点が想定より大幅に低くなり、問題になっている、というような内容だと思う)の文字を拾い読みしていると、(読み方がいかにも奇妙だったのだろう)アジュマが声をかけてきた。もちろん韓国語はわからないので、英語で「ちょっと勉強しているんだ」と言っておく。8時の545番バスで戻ることになったが、途中のマコーリー・センターで息子と一緒に下車し、再度ウールワースで買物をする。
 今夜、遅くから映画を録画して欲しいといわれたので、ビデオをセットして起きていたのだが、時間になっても別の映画をやっている。どうやら間違いだったらしい。そのまま1時頃まで起きていた。
■ 2001/12/06 (Thu)
フィッシュ・カクテル
 朝は、8時過ぎに娘の声で起きる。息子を起こすが、結局出て行ったのは40分過ぎになる。8時50分台のバスに乗って、ふだんでも20分ほどバスでかかるところにある9時始業の学校へ行って、遅刻にならないのが不思議である。本人曰く、出欠を取り始める前に教室に入ればよい、というのだが、これが常態化しつつあるのは気になる。
 子供たちが出かけた後、妻が自室から出てくる。
 今日は、昼前頃から夕方6時近くまで、実習で大学へ行くことになっている。今日の夕食は、少しずつ残っている有り合わせのものと、何かおかずを買ってきて済ませようということになる。
 妻は11時頃に出かけ、こちらもパソコンで遊び始めた。気づくと2時を過ぎている。
 発送しなければいけない郵便物を持って、ノース・ライド・センターまで買物に出る。まず郵便局で小包を出し、「ディープ・シー・フーズ」でフィッシュ・カクテル(つまり、一口大にした魚のてんぷらのようなもの)のパーティー・パック(15個入り)12ドルを買い、八百屋で茸と小さい林檎を買う、そのまま帰ろうと思っていたのだが、用件を思い出してL.J.Hookerまで行き、それから帰途につく。
 帰りがけに、道の脇にある変圧器?の上に体調20センチ以上はありそうな、大ぶりの蝙蝠の死骸があるのが目にとまった。日本でネズミ大の蝙蝠の死骸を見たことはあったが、これだけ大きいのが住宅地に落ちているというのはちょっと驚きだった。後で、娘とわざわざ写真を撮りに行った。
 昼食をとりそびれていたので、帰宅後、買ってきたフィッシュ・カクテルを半分ほどつまむ。
 残りは夕食のおかずにしようと思っていたのだが、帰ってきた子供たちが目をつけてつまみ始め、結局妻が帰ってくる前になくなってしまった。
 妻が6時前に帰ってきたので、改めて娘と一緒に買物に出かけ、再度「ディープ・シー・フーズ」でフィッシュ・カクテルと、こんどはポテト・チップ2人前を注文する。
 夕食は、フィッシュ・カクテルが熱いうちに食べようということになり、米も炊かず、主食はチップとパンで済ませてしまった。有り合わせのものと、フィッシュ・カクテルだけだったが、けっこうボリューム感がある。
■ 2001/12/07 (Fri)
満腹の日
昨夜はなかなか寝付けず、自分の部屋の寝床にパソコンを持ち込んで、ページの更新作業をしつつ寝た。
 今朝は、妻が実習の関係で7時頃には出かけるので、いったんこの時間に床から起き上がり、妻を送り出す。
 その後また寝たのだが、8時半に娘に起こされる。息子がまだ起きないのだという。仕方なく床を出て、息子を起こし、40分過ぎに送り出す。このところすっかり、この遅いタイミングでの通学が定着しているので心配だ。
 妻とは昼食を一緒に食べようと約束していたので、午前中は家にいて、洗濯など雑用をし、また少し寝床でうとうとしたりする。帰国は3月なのでまだ気が早いとは思ったのだが、ちょっと思い立ったことがあってので、日通に電話をして、引越しのことをいろいろ問い合わせる。どうやら実際に出発の一月半前頃に連絡をするのがよいらしい。日本でも業者に頼んで長距離を引越すという経験はないので、当たり前のことがなかなかわかっていない。「聞くは一時の恥」である。
 11時頃、妻から電話があり、家を出て、292番バスでQVBへ行く。昼食は、「鱒屋」へ行き、タスマニア丼(要するに海鮮丼)を食べる。満腹で、満足である。妻は天ぷらにしたのだが、口に合わなかったのかほとんど残し、テイクアウェイにした。店で、韓国語の週刊新聞を見つけ、もらって帰る。
 QVBまで歩いて戻り、バスの時間を見てから「カフェ・パリジャン」でお茶を飲んで時間を潰す。
 ところが、2時10分過ぎに、バス停まで戻ってみると、バスの時間を読み間違えていて、290番バスが行ってしまった直後だった。ちょうど288番バスが止まっていたので、これで帰ることにする。
 妻はノース・ライド・センターの先のレーン・コーヴ・ロードで下車して帰宅し、自分はそのまま大学まで行く。研究室で、未明に更新したページをアップロードし、そのまましばしインターネットであれこれ見て回る。
 午後4時過ぎに、ライド市役所に電話を入れ、地図課のS氏に月曜日のアポイントをもらう。
 午後4時半に研究室を出て、290番バスでマコーリー・センターまで行き、ウールワースで飲み物類ばかりを買う。このところ暑くなってきたせいか飲み物の消費量が多くなっている。飲み物はどうしても重くなるので、少しずつでも買っておこうというわけだ。
 帰宅後は、昨日作った分がもうなくなっている麦茶を、再度作る。
 夕食は、息子がミートソースを作り、こちらはスパゲティ担当だった。500グラム分を茹でたのだが、息子が一皿分を食べたほかは、全部自分で食べることになった。スパゲティが温かいうちに限る。ミートソースばかりだと飽きるので、少しだけ残っていたカレーを温めないまま温かいスパゲティにまぶしてみたのだが、これがなかなか美味しかった。
 さすがに満腹になり、9時前には自室の寝床で寝てしまう。
 こんな調子では、体重がリバウンドしてしまうだろう。まあ、自業自得である。
■ 2001/12/08 (Sat)
睡眠時間がでたらめになっている
 未明の3時頃に眼がさめる。rage を録画しないまま寝ていたので、起き上がった居間に行くと、妻が読書をしていた。こちらもビデオをセットし、そのまま見始めたが、妻は入れ替わりで就寝した。
 朝の6時過ぎに目覚ましが鳴り、娘が起きてきた。そのまま風呂に入り、仕度をして、学校に行こうとするのだが、まだ小1時間は早すぎる時間だ。結局、7時半頃のバスに乗せることにして、雨の降る中、バス停まで見送っていく。
 戻ってから自室で眠り、10時過ぎに息子に起こされた。さっそく起き出して、娘を迎えに出かける。
 292番バスと207番バスを乗り継いでカマリー小学校まで行く。
 娘を待っている間、学校の入口近くに宿木があるのに気づく。棕櫚の類の大きな木から、柳に似た枝が伸びている。隣にある同じ木よりも、心なしか樹勢が悪いのもなるほどという感じだ。
 娘がノースブリッジの東京マートへ行きたいというので、歩いてノースブリッジまで行き、東京マートで柿の種を買い、「スシ・ジョイ」で娘に昼食を食べさせる。焼鳥と餃子とご飯に味噌汁で16ドルあまりだった。東京マートでもらったコインにフィジーの50セントが混じっているのを発見。先日バドハーストの郵便局でニュージーランドの20セントをもらって以来の外国コインである。
 ふたたび207番バスで北シドニーまで戻り、リバーサイド行きのバスでレーン・コーブまで行き、ここで288番バスに乗りついだ。ノース・ライド・センターで下車し、娘を先に帰宅させ、「ディープ・シー・フーズ」で鱈と蛸を焼いたものを注文し、食べながら歩いて帰宅。
 睡眠不足気味なので、しばし昼寝。
 目覚めたときには、夕食の準備が進んでいるところだったが、とりあえず風呂に浸かり、妻と息子の作った夕食を食べる。
 そのまましばらく、未明に録画した rage を見る。
 続けて、11時過ぎから始まった今夜の rage を録画しながら息子と見る。今夜はジョージ・ハリスンの追悼ということで、ビートルズ大特集である。今夜は徹夜ペースである。
■ 2001/12/09 (Sun)
全員休養日
 早朝5時頃まで rage を録画しながら起きて見ていたので、そのまま午前中はほとんど部屋でぐうたらしながらパソコンをいじっているか、寝ているかしていた。娘は一日中、こちらで録画した映画を次々見ている。妻は洗濯などをしていたが、体調が今一つのようで、家事をしていないときはベッドで読書をしている。どうやら数日前に、草取りを少々頑張りすぎたのが原因らしい。息子は、パソコンをいじっているか、ゴロゴロしているかである。
 結局、家族全員どこにも出かけず、ひたすら休養した一日だった。
 夕食は、妻がご飯を炊いて、私がおかずに魚のムニエルと野菜炒めを作る。
 どうもこのところ、快適に熟睡できない。空気ベッドにしたのがよくないのかもしれない。
■ 2001/12/10 (Mon)
郷土史資料室を訪ねる
 娘の起きている気配で7時半頃に起きる。8時過ぎに息子を起こし、何とか半頃に出かけさせ、娘を送り出して、英会話の個人教授を受けに出かける妻を送り出すと、あっという間に9時を回ってしまう。
 午前中は、しばらく寝床で過ごし、10時過ぎに起きてパソコンでの作業を続ける。11時頃妻から電話が入り、12時にマコーリー・センターで待ち合わせ、一緒に昼食を食べる。
 昼食後にウールワースを回って食料品を買い込み、506番バスに妻を乗せて帰宅させる。こちらは、518番バスを待ち、トップ・ライドのショッピング・センターまで行く。午後2時半に市役所の地図課のS氏にアポイントをもらっているのだが、まだしばらく時間があったので、トップ・ライド・センターの中を冷やかして回る。
 2時半にS氏と会っていろいろ話を聞く。1時間ちょっと話をしていた。最後に地図を買って市役所を出る。そのまま。隣の建物の地下に入っている図書館へ行く。ここには郷土史資料室があり、専任の担当者がいる。しばし、地域の歴史について概要を説明してもらい、勧められた文献のうち、図書館で販売している1冊を購入した。4時少し過ぎに図書館を出て、トップ・ライドの前から市内行きのバスに乗り、タウン・ホールで乗り継ぎ、セントラル駅西口の駅前広場で降り、駅の地下通路を経て、東口の「ロイヤル・イグジビジョン・ホテル」で今月下旬に来るお客さん用の予約を調整する。そのまま、しばらく駅からハイドパークにかけての一帯を散策する。途中で、やはり、そのお客さんが宿泊する予定のホテルへ立ち寄り、パンフレットをもらったり、ダウニング・センターのショーケースに展示されていたTAFEの美術学校の学生の優秀作品の展示などを見てくる。
 そのまま一帯をうろうろしながら、結局タウン・ホールまで歩いて戻り、291番バスで、6時過ぎに帰宅した。
 妻と娘は、マコーリー・センターの映画館に「ハリー・ポッター」を見に行っていない。ひと休みしてから、7時40分過ぎに息子と家を出て、ノース・ライド・センターのタイ料理店「プララム」で夕食をとる。揚げ春巻き、トム・ヤム・クン、グリーン・カレー(ビーフ)、辛い鶏肉のサラダに飲み物などで50ドルちょっとだったので、55ドル置いてくる。
 帰宅してみると、妻と娘が帰っていた。都道府県名がどれだけ正確に言えるかという話になり、盛り上がる。
 明日は早いといって、皆12時前に寝てしまうが、こちらはそのまま夜中の2時近くまで起きている。
■ 2001/12/11 (Tue)
終バスが行ってしまう
 前夜、いったん床に入ったものの、うまく寝付けまた目が冴えてしまい、そのままメールを書いたりしながら、朝まで徹夜になってしまう。上手く寝られないのは、空気ベッドの空気が抜けてきているためかもしれないと思い、少し空気を吹き込む。
 結局朝になり、久々にSBSのNHKニュースを見る。今朝はなぜか、いつものように早い時間には娘が起きてこない。最初に起きてきたのは、実習の関係で、7時頃に出かけなければいけない妻だった。妻を送り出してから、子供たちに声をかけるが、まだ熟睡している。最終的には、8時少し過ぎに娘と息子を起こして洗面させ、ちゃんと学校へ行くように言いつけて、自分の床で熟睡する。
 11時少し前に、妻から電話がかかってきで起きる。11時半にマコーリー・センターで待ち合わせることにして、洗濯機を回し出かける準備を始める。続いて、留守宅からも電話があり、さらにもう一本電話がかかってきた。最後の一本は実は間違い電話だったのだが、相手の英語が良く聞き取れず、間違いだと分かるのに手間取ってしまった。
 マコーリー・センターまでは歩いて行き、妻と一緒に「シンプリー・ヌードル」でまず食事にする。8人がけくらいの名がテーブルの端に座って話をしながら食事をしていると、反対側の端にいた東洋系の老婦人2人連れの一人が「それ、おいしい?」と日本語で妻に話しかけてきた。何でも48年前に来豪したのだそうだ、もう一人の人は結局話しに加わらなかったので、日本人/日系人ではなかったのかもしれないが、これまで出会った日本人の中で渡豪の時期が一番早い人である。
 息子に靴を買わなければいけないので、数店ひやかし、銀行に立ち寄ってから、以前に娘の靴を買った店に入った。ここで、スニーカーを2足買う。妻も自分の靴を買った。息子と私はもう靴のサイズが同じなので、こういうときは自分の足に合う靴を買えばよいので便利である。以前にも思ったのだが、オーストラリアの靴屋は、少々大き目の靴を薦めることが多いようだ。
 ウールワースに回り、食料品を買って、506番バスで帰宅。
 しばらくすると、いつものように、娘と息子が相次いで帰ってきた。
 夕食は、いつもイーストウッドへ出かけるときにバスで店の前を通過しているインド料理店に行こうという話になる。ところが、息子が体調が悪いようで、自室にこもって眠り始めた。
 7時頃に声をかけて起こそうとしたのだが、起こせず、結局8時頃に息子は起きてきた。この時間だとバスが1時間に1本しかなく、ちょうど間に合わないタイミングで次のバスが行ってしまう時刻だった。
 結局、妻と娘は家に残り、息子と2人で9時少し前に家を出て545番バスに乗り、バラクラヴァ・ロードにある「aj's indian Restaurant」へ行く。ラムをタンドーリで焼いたものをアントレにして、魚のカレー(かなり辛い)と、ラムとオクラの煮もの?を、米(パサパサの長粒種:あたりまえか)とガーリック・ナンで頂く。ちゃんとした味で美味しい。
 店内には、かなりの人数の団体がいたのだが、その一行が店を出た頃何気なく時計を見ると10時を回っている。思ったよりゆっくりペースのサービスがだったのである。終バスが行ってしまうので、慌てて先に会計を済ませようとしたのだが、それを店員に説明しているときに終バスが来て、さっきの一行の大半を乗せて、行ってしまった。こうなったら後はゆっくりするしかない。再度メニューをもらい、デザートのアイスクリームとお茶を注文。こちらはヴァニラ・ビーンズ入りの味の濃いヴァニラ・アイスクリームとアッサム茶を頼んだのだが、息子はマンゴ味で、固くザックリした食感のインド風のアイスに、マサラ茶を注文した。
 結局、店を出たのは10時45分頃。もちろん最後まで残っていた客になってしまった。そこから見当をつけて、家に向かって歩き始める。
 近道になるルートが無いかと思い、見当をつけて住宅街を早めのペースで進んでいくが、見知った名前の道になかなかでない。この辺りの住宅街は、街灯はあるが、個々の家の照明はほとんど外には漏れてこないので、日本の住宅街よりも薄暗い感じになる。今の時期はクリスマスのライト・アップをしている家もけっこうあり、それはそれで趣きがある。その薄暗い通りを、自動車の通行があることをたよりにしばらく行くと、前にバスで通った記憶のある公園の前に出た。意を強くしてそのまま進んでゆくと、マコーリー・センターの前から南(南西)に伸びているハリング・ロードの南端にあたる教会の角に出た。もうどこにいるのかはっきり把握できたので、こちらはひと安心である。
 ところが、この辺りで息子がちょっと調子が悪くなり、バス停のベンチで休みたいと言い出した。満腹の上に、香辛料の強いマサラ茶を最後に飲んだのが結構きつかったらしい。ハリング・ロードからはペースを落としてゆっくり進んでゆく。ケント・ロードに入ってからは、もう普段288番バスで通過しているよく知っている道なので雑談をしながらだらだら進む。それで、また調子が戻ってきたのか、レーン・コーヴ・ロードに入った頃には、息子も何とかペースを取り戻したようだった。
 結局、店から50分ほどかけて歩いて戻ってきたことになる。帰宅してから地図で確認したら、戻ってきたルートもそれほど遠回りではないものの、素直にバス通りを戻った方が、簡単で距離も少し短かったようだ。
 帰宅後、風呂に入り、12時頃に就寝。
■ 2001/12/12 (Wed)
<おたすけマック>氏来る
 朝は8時少し前に起き、息子を起こす。子供たちに続いて、妻も英会話の個人教授に出かけた。しばらく、ぼんやりテレビを見てから、ぼちぼち作業を始める。
 ところが、iBook が起動しなくなってしまうというトラブルが発生した。途方に暮れてしまったのだが、「日豪タイムス」でパソコンの出張修理サービスを見つけ、電話を入れる。午後遅くなら今日中に来てもらえるという事なので、今日はそのまま出かけないことにして、洗濯機を回す。
 しばらく、FMVの方で作業をしたりしていたが、ついついテレビに目が行ってしまう。今日は民放の10チャンネルをずっと見ていた。
 そうこうしているうちに、午後も遅くなり、3時過ぎに娘が戻ってきた。ここで、洗濯物を干していなかったことに気づき、慌てて干しだす。4時近くに、妻と息子が一緒に帰ってきた。帰りのバスで偶然一緒になったらしい。
 5時頃に修理サービスの<おたすけマック>氏がやってきた。結局小一時間作業して、調整してもらい、トラブルは解消された。基本的なことで分かっていないことが多いので、説明されることがいちいち勉強になる。代金は132ドルだった。
 夕食は、息子と妻が、冷蔵庫に残っている白米を使って炒飯を作り、一昨日に妻が映画の帰りに買って帰って残っていたチキンと、冷蔵庫に残っていた肉を調理したものが用意される。こちらは、例によって魚をムニエルにして一皿加える。調理のついでに麦茶も作った。
 食後、しばらく風呂でぼんやりする。
 今夜は深夜に、SBSで「Shall We ダンス?」が放送されるので、それを録画しておいて欲しいと娘にねだられる。開始時刻は11時45分なので、それまでしばらくテレビを見ていると、いつのまにか家族はみんな寝てしまっていた。結局最後まで映画を見て、そのまま4時頃までだらだら起きていた。
 「Shall We ダンス?」は、先日見た「うなぎ」とは会社も監督も違うのだが、主演の役所広司のほか、柄本明、清水美砂といったあたりの役者が重なっている。「うなぎ」の冒頭部と「Shall We ダンス?」の印象が重なって、郊外にささやかな一戸建てを構えるローンを抱えたサラリーマン(とその家族)という、現代版の「日本の常民」について、いろいろと考えさせられた。
■ 2001/12/13 (Thu)
韓国風「ベトナムうどん」を食べる
 朝は娘に起こされ、息子を起こして学校に行かせる。妻は、午後ずっと実習がある日なのだが、頭痛がひどくて部屋に籠もっている。
 しばらくパソコンで作業をするが、今日はなかなか集中できず、進まない。
 昼少し前に、妻も出かけた。ありあわせで昼食を済ませた後、午後の作業はペースが少し出て来た。何とか、メールで連絡をしなければいけない用件を何件か済ませる。
 午後2時半頃、家を出て、エッピング・ロードとレーン・コーヴ・ロードの角に最近開業した歯科医院へ、息子のための予約をとりに行く。この医院は、個人開業医院を集めたセンターの一角にあるのだが、いまのところこの歯科と、外科以外はまだ診療を始めていない。入っていってみると、先生一人、助手一人(どちらもおばさん)のこじんまりとしたところである。歯科医はこちらでも予約が埋まっているようで、できるだけ早くといったのだが、結局月曜日の午後に予約を入れることになる。
 そのままノース・ライド・センターまで歩いて行き、銀行の用事を済ませる。相談窓口で順番が来るのを待った並んだのだが、対応している職員が1人になっていた。ようやく自分の番かと思っていたら、その1人が相談カウンターに戻るためフロアを横切ってくるときに、顔見知りらしい犬を連れてきた客と談笑しはじめ、犬とじゃれていたりして、その分待っている時間が長くなった。まあ、だんだん慣れては来ているが、日本的な感覚では呆れるといったところだ。もっとも銀行員の方は、お客さんに声をかけられたのだから邪険にできないと思ったのかもしれない。待っているこちらの目の前で声をかける犬連れの客の方が、(日本的には)非常識なように思えた。
 銀行へ行く途中で、足にちょっと擦り傷を作ってしまい、一時的に歩くのがゆっくりになったこともあって、家に戻るまでに思ったより時間がかかってしまった。帰宅すると、既に娘が戻っていた。
 息子と妻が帰ってきて、夕食はイーストウッドへ出かけることになる。妻は、実習が大きな一山を越えたようで、ほっとしたらしく機嫌がよい。
 7時過ぎの545番バスでイーストウッドへ行き、いつものように「ファゲ」で食事をする。今日は、以前一度だけ食べてみた「ベトナムうどん(ウォルナム・ククス)」を注文に加えた。これは、韓国風のうどんに、薄く切って軽く茹でた?牛肉をのせ、さらに別皿で出てくる生のもやしやミントに似たハーブ、唐辛子などをお好みで混ぜながら食べるというもので、暑い時期には美味しそうなものだ。
 食事の途中から娘の調子が悪かったのだが、店を出てから、バス停そばのベンチでしばらく休ませることになる。その後で、いつもの韓国スーパー(ヤン・マート)へ行き、菓子類などを買う。キムパプ(韓国風の巻寿司)があったので、買ってみる。
 9時過ぎのバスで帰宅。自分だけは途中のマコーリー・センターで下車して、ウールワースでシャンプーなどを買う。帰りは288番バスをレーン・コーヴ・ロードで降りて、戻って来る。
■ 2001/12/14 (Fri)
TGIF(神様ありがとう、今日は金曜日だ)
 前夜が遅かったわけでもないのだが、朝は8時半まで熟睡していた。妻に、息子が起きない、といわれて、ようやく起きる。確かに、息子はここ数日なかったくらいに抵抗する。呆れたものだ。
 ようやく息子を続いて娘も出かける。妻は朝から頭痛がひどく、薬を飲んで部屋に籠もっていた。最初の予定では、昼から一緒に買物に出ることにしていたのだが、昼時を過ぎても妻の体調が直らず、でかけないことになる。そこで予定を変えて、午後2時少し前に、自分の用事を済ませにシティまで出かける。
 290番バスでQVBまで行き、ゴウイングスを少しひやかし、郵便局の用事などを済ませる。クリスマス前の週末の金曜日の午後とあって、人出はかなりあり、それを目当てにバスキングをする者や、デモンストレーションをしているグループが多い。ゴウイングスの前では、正装したバグパイプ奏者が立っていたし、中央郵便局の前では、トナカイの角のつもりのウレタン製の被り物を売っているストリート・ベンダーを横目に、銀髪のサックス吹きが頑張っていた。タウンホール前の交差点では、いつものように「ビッグ・イッシュー(ホームレスの社会参加を訴える雑誌)」を売る人だけでなく、ウールワース・メトロの前では社会主義?の学生グループが機関紙「グリーン・レフト(だったかな)」を宣伝していたし、シティバンク前には、これから何か始めようとしているのか、ハレ・クリシュナ教団(ジョージ・ハリソンが帰依していたことも有名)のバンが停まっていた(車体に「After-Life Insurance」と書いてあるのには、思わずニヤリとしてしまった)。
 ちなみに、バンにはこの教団のお念仏のようなもの(これを繰り返し唱えることで救われる?)が書いてあるのだが、ジョージ・ハリソンは数年前に暴漢に襲われたときに、とっさにこれを唱えていたのだそう。「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ〜、ハレ・ラマ、ハレ・ラマ、ラマ、ラマ、ハレ、ハレ〜」というやつである。とっさに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無...」と言ったようなものなのだろう。
 やはり、街に出てみると面白いものに色々出会う。あちこちの店を見ているうちに、ふと時計を見ると、午後4時半近くになっていた。たまたま500番台のライド方面へ行くバスの乗り場近くに出たので、思い立ってライドの図書館へ行くことにする。パラマタ行きの急行バスX20番が来たので、これでトップ・ライドまで行き、図書館へ入った。前回10日に対応してくれた郷土史資料室の担当者は不在だったが、月曜日に再度来ることにして、司書に色々と教えてもらい、古い写真を集成した出版物などを引っ張り出して、斜めに目を通す。そうした資料を改めて見て、1940年代までは、ライドの市役所前まで路面電車がきていたことや、ノース・ライドが、19世紀末から20世紀はじめにかけて、芸術家村的な場所だったことなど、これまで断片的に入っていた情報が少しずつ結びついてくる。一面、果樹園だらけだった1950年代のエッピング・ロード周辺の空撮(鳥瞰)写真は、強く印象に残った。エッピング・ロードは、ほとんどが直線なのだが、途中で特徴的にカーブする箇所があるので、写真の中の場所が現在のどこに当たるのか見当がつきやすい。景観が全く違うのに、重ね合わせられるような感覚(錯覚)を持つというのも、なかなかない体験である。
 結局7時近くまで図書館にいて、それからトップ・ライドまで行き、マコーリー・センターまで行こうと518番バスに乗った、ところがぼんやりしているうちに、終点の大学まで乗ってしまった。大学のバス乗り場で時間を確認すると、しばらくバスが来ない。マコーリー・センターで買物をするつもりになり、歩いてセンターまで来たところで、大幅に遅れた290番バスが折りよくやってきたので、買物はせずに帰宅した。
 今日は、夕食を外で取るつもり(最初はジャズのライブにでも行こうと思っていた)で出かけたので、帰ってみると既に夕食は終わっていた。幸いご飯がまだ温かかったので、ありあわせのおかずで、けっこう美味しい夕食になる。実はここのところ体重がリバウンド気味なのだが、あまり気にしても仕方ないので、どんどん食べる。
 午後11時を少し回って、途中から rage を録画しながら見始める。しかしすぐ眠たくなったので、まだ起きている息子に、自分が寝るときに起こすように言って寝床で熟睡する。
■ 2001/12/15 (Sat)
気分は南欧
 2時頃、もう眠るという息子に起こされ、rage を録画しながら見る。このとき妻は、まだ読書をしていたのだが、程なくして休んだ。
 パソコンで作業をしながらそのまま5時過ぎになる。SBSの朝のNHKニュースは、月〜金だったはずなのだが、最近は土曜の早朝にもやっているようだ(手元の情報紙の番組表ではそうなっていないのだが)。久々に国内政治のニュースが多いような気がした。改革もなかなか前途多難である。
 娘が6時頃に起きてシャワーを浴び始める。土曜学校が今学期最後なので、今日はクリスマス・パーティーと授業参観があるというので、一緒に行かなければならない。ところがさすがに眠くなってきた。娘に7時30分ちょうどに起こすように言いつけて、寝床に沈没する。
 7時半に起こされて、さっそく仕度し、8時少し前のバスに乗るべく、小雨の降る中、バス停へと向かったのだが、どうしたわけか、定刻を20分以上過ぎても290番バスが現れない。どうしようと思っているうちにようやくバスが来て北シドニーまで行く。幸い、途中はまったく順調だったので、北シドニー発8時30分のバスに間に合った。
 カマレーの小学校に着き、図書の返却に行く娘について奥まで入ってゆくと、不審人物と思われたのか当番のお母さんに誰何されたので、授業参観に来た胸を告げた。すると、授業参観は3時間目のはずだと言われる。娘は1時間目だと思うと言っていたのだが、確かに文書でそう知らされて訳ではない。9時になったので教室の様子を見に2階に上がって見たのだが、まだ6年生たちは教室の前でざわざわ話したりしている。自分以外に父母らしい人は見当たらない。これは間違いだったのだと思い、3時間目の始まる11時頃まで時間を潰しに出かけることにした。
 カマリーの商店街まで戻ると、ちょうどクロウズ・ネスト行きのバスが来た。このルートは乗ったことが無かったので終点(クロウズ・ネストの通称ジグザグのバス・ターミナル)まで乗ってみた。少し歩いて周辺を探検し、週末のガラクタ市が立っているコミュニティ・センター前広場に面したアツーロというカフェに入る。従業員には東洋系の女性もいるが、経営者と思しき夫婦?は明らかにイタリア語で話していた。ここでサーモンなどをはさんだフォッカッチャを食べる。これが非常に美味しかったので、ライス・コロッケ類などをテイクアウェイにする。
 パシフィック・ハイウェイまで戻り、再度北シドニーを経てカマレーに着いたのは11時少し前だった。ちょうど休み時間で、娘の担任の先生が教室で1人だけでいたので声をかけると、何と授業参観は1時間目だったというではないか。結局お母さん方が2人来ただけだったらしい。事情を説明して勘違いをしてしまったことを詫び、再度学校を出た。今度はあまり時間が無いが、かといってただ待っているのもできないたちなので、来合わせたバスに乗って北シドニー競技場近くの、画廊が並んでいる一角(ちょうど先週、妻と入ったインディペンデント・シアターのカフェの向かいあたり)まで行き、絵をひやかして時間を潰してから、また、バスでカマリーへ戻った。
 12時少し前に娘を出迎え、カマリーの商店街の半ばにある、マッジオズというカフェで昼食にする。娘はフォッカッチャにチキン・シュニッツェルを挟んで温めたもの、こちらはほうれん草のキッシュをとる。こういう料理は週末の昼食という感じがして、いいものだ。途中で席を立って、近くのニュース・エージェントに入り、その場にあった非英語紙をひと通り買ってみる。ギリシア語新聞が3紙もあったのでこの辺りはギリシア人が多いのかと店主に尋ねると、みんな金持ちだと笑って答えた。ほかにも中国語3紙、イタリア語1紙を買う。さすがにギリシア語は皆目わからないが、何とか古典ギリシア語の知識で、言葉の断片や、固有名詞(オーストラリアとか、コステロ=財務大臣の名前=とか)が読めると妙に嬉しかったりする。中国語新聞は、記事は無理だが、広告などはけっこう判じ物程度には分かるので見ていて結構時間が潰れる。
 2時少し前にチャツウッド行きのバスに乗り、ノースブリッジ経由でチャツウッドへ行く。このルートは初めて乗ってみたのだが、結構時間がかかる感じだ。しかし、途中に、住宅地の中に数件の骨董品店が並ぶ一角があったりして、なかなか面白そうだ。チャツウッドの東側は、歩けばいろいろ面白い街に違いない。
 チャツウッドの東口のターミナルで降り、駅を渡って西口へ出て、折りよくやって来た534番バスに乗り帰宅する。戻ってみると、留守中にクリスマス・ツリー(樅ではなく、松で、間伐したものか?)が配達されていた。さっそく、立ててみるが、少々手間取る。結局、ふたたび娘とマコーリー・センターまで買物に行くことになり、オリーブ漬けなどの食料品などと一緒に、発光ダイオードの飾り物を買ってきた。
 夕食は、午前中にテイクアウェイしてきたものを、妻と息子が作ったミート・ソース、私が茹でたスパゲティと一緒に食べた。
 今回選んだスパゲティは、初めて試してみた茹でる時間が短めのものだったのだが、これが少々奇妙なものだった。よく見るとスパゲティに芯がなく、いわばごく細長いマカロニのようになっているのである。スパゲティをすすると、細い管を通じて空気が入るというご愛嬌である。決して不味くはないのだが、何だか変な感じである。
 暗くなってから改めてツリーを見に外へ出た。それらしく見えるものである。明日から少しずつ、娘が何か飾ってゆくことになるのだろう。
■ 2001/12/16 (Sun)
一部屋だけ大掃除
 朝8時過ぎに娘に起こされる。
 そのまま洗濯機を回し、部屋の片づけを始める。
 わが家は、正面玄関から裏口までの廊下を中心に、その左側(西側)がほぼ正方形になっている。その南半分が居間で、北側に本来は台所と食堂が並んでいるつくりなのだが、食堂は居間と続きになっていて居間がL字型という使い勝手になっている。これまでは、居間に食卓などを入れたこともあって、この本来の食堂部分は私の本や資料などを雑然と積み上げていたのだが、こちらの夏休み=クリスマス休暇に日本から来客があることもあって、ここを片づけて、必要なものは自分の部屋に入れることになったのである。
 始めてみると、なかなか捗らない。荷物を移す先の自分の部屋も雑然としているのだから、こちらを掃除するところから始めなくてはどうしようもない。結局午前中は自分の部屋の掃除や寝床のシーツ類の洗濯などを主にして、午後には荷物の整理と移動をする。この間に、結局洗濯機は3回も回すことになり、娘に物干しを手伝わせたりする。昼食は午後2時近くになり、息子が作った炒飯を食べる。
 その後さらに作業を続けて、ようやく、夕方になって部屋が片付き、その分、自分の部屋は、収拾がつかなくなってしまった(結局は深夜までだらだらと作業を続けた)。
 夕食は、妻と息子が作ったカレー。
 食後はパソコンで作業をするが、居眠りをしてしまったりして、またまたなかなか捗らない。
 部屋を片付けたりしているうちに深夜3時近くになってしまう。
■ 2001/12/17 (Mon)
1923年のストリート・ディレクトリーを見る
 いつもなら朝は娘に起こされるのだが、どういうわけか娘は起こしに来ず、寝床でうとうとし続けていると、どうやら息子が、バスのチケットがないと騒いでいる。どうやらいったんバス停まで行ったものの回数券がないのに気づいて戻ってきたらしい。起き上がって自分の財布を探ったところ、使える券があったので、渡して再度出発させる。そのまま寝床に戻ったが、もう目が覚めてしまったので、そのまま起きることにする。
 子供たちに続いて、妻も英会話の個人教授を受けに出かける。
 昨日、最後に洗濯したもののうち、乾ききらなかった分を干しなおす。午前中は、そのままテレビを見たり、パソコンをいじったりして過ごす。ブランチは、昨夜のカレーと食パンにする。
 昼過ぎに大学へ出かけることにして家を出、506番バスで大学へ行く。一斉休業は今週末からだが、もう事務方が交代での休暇に入っているので、研究室には入れない。日本語学科のC先生に一言ご挨拶をし、郵便物をチェックする。廊下で偶然H氏に会い、しばし立ち話をする。相変らず忙しいようだ。
 459番バスで家まで戻り、2時過ぎに再度家を出て、ライドの図書館へ向かう。予め459番バスの時間を確認して家を出たのだが、どうやら遅れてしまったようだ、やはりライドを通る534番バス(こちらの時刻はわかっていない)も目の前で通過してしまい、バス停で30分近く待つが、一向にバスが来ない。ようやく来たのは、行き先が違う506番バスだったが、とりあえずこれに乗ってコックス・ロードまで行き、そこからレーン・コーヴ・ロードをしばらく歩く。このルートは基本的にはずっと下し坂だが、ノース・ライド・ゴルフ・コースのところだけは上り坂になる。陽射しはかなり強い。考えてみれば、夏至近くだし、午後2時過ぎといっても夏時間になっているから、太陽の高さとしては真昼に近い。けっこう暑い思いをしながら、ゴルフ場を横目に南(南西)へ進む。
 途中、何度かバス停に止まって、バスを待ってみたが、やはりやってこない。もう目的地のトップ・ライド・ショッピング・センターやライド市役所の建物が遠望できるところまできたクオーリー・ロードとの交差点の少し手前で、ようやく459番バスが来たので、これに乗り込む。459番の路線は、古いバスが多く、車内は冷房をしているわけではないのだが、湿度が低いので日陰になっていればそこそこ快適に涼しい。何だかほっとする。
 図書館に行く前に、まず地域の無代週刊紙「TWT」のオフィスへ行き、今年の5月に出た、創刊80周年記念号をもらってくる。図書館へまわって、郷土史資料室へゆくと担当者のGさんは不在だったが、用意しておいてくれたと思われる地図類が机の上に出ていたので、しばらくこれを眺めている。やがて戻ってきたGさんから、資料についていろいろ説明を受ける。もっとも有益だったのは1923年版のストリート・ディレクトリーだった。全体に文庫本よりさらに小さいサイズで、現在のものと違って、全域の詳しい地図があるわけではないのだが、なかなか興味深いものだ。この版が毎年改訂の21版だとなっているから、同じようなものが20世紀初頭からあったのだろうし、このディレクトリーの内容を盗んだ出版物が出ていると序言にあるから、他の出版社のものも出ていたのだろう。ミッチェル図書館でそのうち調べてみようと思う。
 いくつか資料をコピーしていたら、コピーカードを買うためのお金がなくなってしまった。図書館を出てショッピング・センターまで行き、銀行で現金を引き出す。ところが悪い癖で、現金があると買物をしてしまう。もう6時近くでほとんどの店は閉まっているのに、まだ店じまいの途中だった「ペーパーバック・パレス」という古本屋に入り、事典などを買う。
 図書館にもどり、コピーとりの続きをしてから、6時半過ぎに退館。バス停に行ったが、直接自宅近くに戻るバスはこの時間にはないようなので、518番バスでマコーリー・センターまで行った。ここで飲物類などをウールワースで買ってから290番で帰宅した。
 息子は、歯医者でとれてしまった詰め物を仮に直してもらってきたようだ。
 夕食はエッピングの中華料理店に行くことになる。バスの時間の関係でコックス・ロードまで歩いて行き、288番バスに乗ってエッピングへ向かう。
 エッピングでは西口側に渡り、先日入った「BBQ King(ハングル表記では「ワンダホー」)」の先にある、「金豪酒家」という店に向かう。途中で、「奈良」という新しい日本料理店(ただし韓国系)が開店しているのに気づいたが、今日のところは目的どおり「金豪酒家」に入る。牛肉の炒め物や、麻婆豆腐などを注文。無難な美味しさで、値段も手ごろだった。全部で41ドルだったので、40ドルと財布の中の小銭全部を出しておいてきた。
 バスの時間を待つため、東口側に戻り、「ザッピズ」というピザ屋に入る。娘の好物のマルゲリータを注文し、飲物をとる。全部で22ドル。娘はちょっと調子が悪かったようで、夜風に当たりたかったらしく店外に行こうとしたのだが、とりあえず入口に近い席にいるように言いつける。
 ここは若いお兄さんたちがやっている店なのだが、もう10時を回っていることもあってか、客の方も近所の若い人たちという感じのグループばかりだ。中学校の制服のままの東洋系の女の子二人連れもいて、少々あきれる。
 結局290番バスで10時半過ぎに帰宅した。
 娘はすぐに寝た。こちらも12時少し過ぎまでパソコンをいじってから就寝。
■ 2001/12/18 (Tue)
シティでお買物
 朝9時過ぎに起きる。子供たちはもう学校に行き、妻が朝の片付けなどをしている。まだ残っているカレーを使って、カレーうどんを作って朝食にする。
 10時15分頃に妻と一緒に買物に出かける。290番バスでシティへ向かい、QVBへ行き、妻はQVBのウォーキング・ツアーに申し込もうとしたのだが、あいにく繁忙期ということでツアーはやっていない。最初の予定では、午前11時半からのツアーに参加してみようという話だったのだが、当てが外れてしまった。
 そこで、とりあえずヨーク・ストリート側に出てみたところ、妻が語学書専門の書店「アベイ」に立ち寄りたいというので、初めてこの店に入ってみる。1階が普通の書店で、2階が語学書のコーナーになっている。妻はオーストラリア英語の口語表現に関するテキストとテープを購入した。
 次に、バスの降車場所の前まで戻って、そこにあるリネン類(オーストラリアでは「マンチェスター」と呼ぶことが多いようだ)のアウトレットへ行き、来客用の掛け布団と枕を2セット買う。重さは大したことはないのだが、かさ張ってしまった荷物を抱えて、ジョージ・ストリートを南下し、ウールワース・メトロの前を抜けて、KFCの向かいのビルのフード・コートで昼食にする。
 トルコ料理のコーナーで、妻はチキン・ケバブを注文。こちらは「ベジタリアン・パイド(トルコ風の惣菜パン)」を頼もうとしたのだが、相手に「ベジタリアン・プレート」と聞こえたらしく、皿いっぱいの盛り合わせ定食風のものになる。これに、別のコーナー(韓国人の経営する「セ・ラ・ヴィ」という健康食品?の店)から妻がフルーツ・サラダを取り、また別のところから、飲み物を買って、アトリウムになっているフード・コートの中央でゆっくり昼食をとる。2人分合わせて30ドルちょっとである。
 きれいなオフィス街の昼食スポットという感じの場所で、一角ではCNNの映像が流れていたりする。Tシャツにジーンズという旅行者風の身なりの中年男性が、テーブルを回って物乞いをしていたのが、極めて不釣合いな印象だった(結局、私たちのテーブルには回ってこなかったのだが)。
 ベジタリアン・プレートは、穀類と野菜ばかりなので見た目以上にボリュームがあり、腹にたまる、満腹になって、ゆっくりお茶を飲みながら、しばしぼんやりする。先に食べ終わった妻は、さっき買ったテキストを早速読み始めている。
 しばらくゆっくりした後、気を取り直して、今度はゴウイングスへ行き、以前購入したのと同じ、キャンプ用の空気ベッド(134ドル)を買う。これは、寝心地が日本の敷布団に近く、大変快適なので、お客様用に使おうというわけである。ゴウイングスはディスプレイなど、CIに関わるトータルなデザインが凝っている店なのだが、クリスマス用のビニール袋もなかなか洒落ていた。
 QVBへ戻ると、288番バスが停まっていたので、これにのってレーン・コーブで下車し、しばらく待っていると292番が来たので、これに乗り継いで帰宅した。
 最初は帰宅した後、再度マコーリー・センターまで買物に出ようと思っていたのだが、結局そのまま子供たちが戻ってきて、夕食時近くになり、今日はもう出かけないことにする。娘は帰宅後、例によって先日録画した映画「ペアレント・トラップ」を繰り返し見ている。
 それを横目で眺めながら、また、息子に手伝ってもらいながら、パソコンへの入力作業を進める。
 夕暮れ時近くに、雷雲が上空を通過したようで、ひと雨降り、結構近くにも落雷があった。
 外が薄暗くなっても、昼食が結構腹にたまっているので、なかなか腹がすかない。妻と娘は、カレーうどんなどを作って、夕食を済ませてしまったようだ。こちらも、結局夕食は、炒飯とカレーになる。
 食後は作業の続きをやっているうちに、深夜3時近くになってしまう。
■ 2001/12/19 (Wed)
娘の卒業パーティー
 起きてみると、もう朝の9時半になっている。当然子供たちは出かけている。妻は既に洗濯を済ませたようで、台所の片付けなどをしながら、合間に昨日買ったテキストを読んでいる。  そのまま午前中は、パソコンでのデータ入力作業に使う。
 11時過ぎに、妻と一緒にマコーリー・センターへ出かけ、「シンプリー・ヌードル」で昼食。福建省風の炒飯を食べる。ここの味は決して不味くはないのだが、どうもいま一つ微妙に自分の味覚に合わない気がする。本物過ぎるということだろうか。
 妻は、大学の図書館で勉強しに行くので、先に店を出た。そのまま地図を見ながらこれから歩くコースを考える。今日の目的は、先日、ライド市役所で教えてもらった、最近の住宅開発などにともなう街路名の新設の現場を見に行くことである。現場は、ちょうど先だって娘とバスで寝過ごして迷い込んだマース・フィールドの一角である。結局、ほぼかつてのウォータールー・ロードの経路(大学の建設によってキャンパス内の道はほとんどなくなっている)に沿って西北西に進み、初めて大学の裏口側一帯を歩くことにする。
 かつての道は、図書館と学生食堂に面した中庭を通っていたようだ。一面芝生になっている調整池に向かう斜面を降りた辺りからは、旧ルートに乗る形で、大学内の道路「体育館通り」が伸びていて、そのままキャンパスの外に出ると、再びウォータールー・ロードという名に戻る。
 キャンパスの体育館は、これまでしょっちゅう眺めていたが、前を通過したのは初めてだった。スカッシュやリアル・テニスのコートを備えているらしい。私はテニスはやらないが、リアル・テニスのコートは見たことがない。後学のために、そのうち見学に行きたいものだと思いながら、体育館前を通過し、裏口から外へ出る。この辺りは、先日、バスを乗り過ごして迷い込んだところだ。昼と夜で結構印象が違う(当たり前か)。留学生用の宿舎などがならぶ一角を過ぎると、いきなり乗馬用の馬がのんびり草を食んでいるのに出くわす。なるほど、この辺りからちょっと先は郡部(ホーンズビー郡)になるのも当然だ。大学のキャンパスを出て一ブロックほど進んだところで、目的地に到着。北北東に右折して、最近の住宅開発の事例を眺める。もともとの農地のひとブロックを塀で囲い、入口を一ヶ所だけ作って開発地内に三日月形(クレセント)の私道を配し、開発地内への人の出入りを監視し易くしてある。日本なら、大都市の都心に近い、工場跡地の再開発でありそうなパターンだが、そこそこ低密度なので、実際にはこれと同じものはほとんどないだろう。
 そのまま高速道路M2まで北上し、持ってきたストリート・ディレクトリーにはない歩行者用のトンネルを抜けて、レーン・コーブ国立公園内の散策路(山道)に抜けるルートを確認する。ところがトンネル内で泥の塊を踏んだと思ったら、何と馬糞だった。この辺りは馬でトレッキングするルートになっているようだ。M2は日本の高規格道路に当たる自動車専用道路で、有料ではないが一種の高速道路である。ことろが、このトンネルの上には自転車用の出入り口がある。オーストラリアでは、自転車は自動車に準じて扱われるのである。もちろん、歩行者が立ち入ったり、動物で(馬や馬車でということだろう)乗り入れることは禁止されている。
 ここからは、ストリート・ディレクトリーに点線で記載されている道路用地のルートでM2に沿って東南東に進んだ。日本の道路建設予定地と違って、こちらでは公共用地として買い上げられた(保留されている)土地は、芝生などの空き地となっていて通過できることが多い。このルートも途中までは芝生の公園上だったが、そのうち住宅地の裏山のような感じになり、最後はブッシュの中の山道になって小さな水路をわたり、いきなりM2沿いのラウンドアバウトに抜けた。
 ここからそのままM2沿いに坂を登って行くと、また馬を飼っているところがあり、先日、娘と夜遅くにバスを降りた場所にたどり着いた。ここはM2の北側にある、大学の運動施設へ渡る入口に当たるところだ。ここから南下して大学の裏口に向かったのだが、とちゅうでキャンパス北側の一面の芝生の端にたどり着いたので、フェンスも何もないのをいいことに、そのまま芝生を横切り、天体観測機器の横を通って、調整池の方へ降りていった。今日は陽射しが強い暑い日なのだが、途中の木陰にある彫刻の辺りで、男の子とその母親とおばあさん?と思しき東洋系の家族連れが遊んでいた。そのまま谷を横切って、学生食堂と、経営学大学院やトラベロッジの間にある、屋外彫刻が並ぶ一角にたどり着いた。ここからはいつも歩いている道である。
 マコーリー・センターまで行き、折りよくやって来た506番バスでいったん帰宅した。3時近くになっていた。
 娘が学校から戻ってきたので、洗濯物の取り込みなどを指示して、3時半頃再度出かける。
 今度は、地図の表記が誤っているのではないかと疑った、リヴァーサイドの工業団地(というよりも研究所団地)内の道路を確認するのが目的である。545番バスで現地まで行き、通りの名を確認した。ここはCSIROという行政法人のシンクタンクを中心にした研究所の集まっているところなのだが、いつもエッピング・ロードから見上げるばかりで、団地内に入るのは初めてだ。一角には、レストランや商店の入った建物もあり、託児所(CSIROの運営)もある。大学院の頃に、託児施設は住宅の近くに配置するより職場の近くに配置する方が合理的、という結論の論文を読んだことを思い出した。
 そのまま545番バスで帰ろうとしたのだが、どうもしばらくバスが来ないようなので、少し歩いて戻ってみる。ちょうど、エッピング・ロードに面して、やはり最近通り(袋小路)の名が新設された一角までたどり着いたので、この辺りの写真を撮る。そうこうしているうちにようやく545番バスが来たので、これに乗り込んで大学まで戻り、郵便物のチェックをしてから、再度マコーリー・センターまで歩いて行き、ウールワースで飲物などを買って、545番バスで帰宅した。時刻は5時半になっていた。今日は、娘の小学校の卒業パーティーが6時からあるので、娘を送り出す。
 娘のパーティーは9時まであるそうなので、それに時間を合わせて、3人で小学校の近くのタイ料理店「プララム」へ行こうということになっていたのだが、息子が自室で熟睡していて声をかけても起きてこない。結局7時少し過ぎに息子を起こし、妻と3人でノース・ライド・センターへ向かう。まず小学校を覗き、体育館でパーティーをやっている様子を見る。中では、舞台でいろいろスピーチがあったりしているようだが、あくまでも式ではなくパーティーだ。子供たちは数人ずつテーブルについて飲んだり食べたりしながら話を聞いている。体育館の周りでは、親たち(決して数は多くない)がビールなどを飲みながら談笑している。
 「プララム」では、揚げ春巻き、揚げ餃子、グリーン・カレー、トム・ヤム・クン、辛い鶏肉のサラダ、ポークの生姜炒めを堪能する。9時10分ほどになったので、妻は先に店を出て小学校へ様子を見に行った。こちらは息子とゆっくりデザートを食べ、お茶を飲んでから9時半頃に席を立つ。90ドルちょっとの勘定だった。ついでに、タイ土産と思しきTシャツを一枚買う。こちらは9ドル95セントである。
 小学校へ行くと、ちょうど最後に、一人一人の名前を呼んで、卒業証書ならぬ記念品を配っているところだった。体育館の入口は、妻も含めてお母さんたちが鈴なりになっている。こちらは外に立っていて中の様子は見なかったが、娘の名前が呼ばれるのも、もちろん聞こえた。会が終わって、娘が出て来て、小学校を出たのは10時近かった。卒業証書は昨日付けでもうもらっているのだが、明日、最後にもう1日学校へ行けば、娘は夏休み。日本にもどれば、もう一度、日本で小学校の卒業式に臨むことになるのだが、とにかくここでの小学校は卒業である。
 帰り道で、パーティーの様子を聞いたら、途中でダンスなどの余興もあったようだ。このパーティーには、5年生もホスト側で出席するのだそうだが、子供のときからこういう場を経験して、パーティー文化を吸収してゆくのだろう。
 帰宅後、ベッドの移動など、来客を迎える準備を少しして、12時頃に就寝する。娘は食堂に移動したベッドで寝たようだ。
■ 2001/12/20 (Thu)
明日から夏休み
<この日のデータは誤操作で消えてしまいました。以下は1月になってから記録と記憶に基づいて作ったメモです。>
 息子は、今日は学校の遠足で、マンリーへ出かけた。明日もう一日学校があるが、これは成績発表などで授業らしい授業はない。気分はもう夏休みである。
 娘はこの日まで学校へ行く。もう卒業証書ももらい、パーティーもあったのだが、もう一日、小学校へ行く。ただし、この日は、どうしても歯科医に昼前に連れて行かなければならなかったので、11時少し前に小学校へ迎えに行く。娘は校庭で遊んでいたらしく、教室付近には見あたらなかった。担任で副校長のW先生に校内放送で呼び出してもらう。
 いったん家に戻ったのだが、制服が汗で濡れているので、着替えてゆきたいという。今日は私服で登校している子も多いというので、私服に着替えさせ、先日息子を連れて行った歯科医へ行く。娘は歯のレントゲンを撮られ、以前治療した歯の一部が悪くなっていることを告げられる。今日の所は、歯垢除去や、フッ素塗布をした上で、年明けの予約をして帰ってくる。
 ちょうど昼時になり、妻も一緒に3人でノース・ライド・センターまで行き、カフェに入って昼食を取る。小学校の昼休み明けの時間が近づいたので、娘を学校にゆかせ、こちらはゆっくり食べ終わってからレーン・コーヴ・ロードまで行き、459番バスでトップ・ライドまでゆく。お目当ては古本屋の「ペーパーバック・パレス」である。結局、妻はペーパバックの小説を買い、こちらも数冊本を買った。
 トップ・ライドの近くで、写真を撮りたいところがあったので、妻にはセンターの入り口のカフェで時間を潰してもらい、ひとまわり写真を撮ってくる。
 カフェに戻って妻と席を立ち、帰りをどうしようかと思いながら通りの反対側になるバス停へ向かうと、ちょうど534番バスが来ていた。これなら家の近くを通るはずだ。これ幸いと乗り込んだのだが、途中で、思っていたのとは違うルートを走っていることに気づいた。しかし、そのうち普通のルートに戻るのではないかと高をくくっている内に、家からどんどん遠のいて、チャツウッド方面へ向かい始めた。今更慌てて下りてしまうのも馬鹿馬鹿しいので、妻と相談してそのままチャツウッドまで買い物に行くことにした。
 チャツウッドでは、先日覗いた韓国系のスーパーで買い物をして、さらに駅の上の巻き寿司屋へ立ち寄って夕食用に巻き寿司を買った。  545番バスで帰宅。夕食には、買ってきたばかりの巻きずしを切って並べる。安物の寿司でも、そこそこに量があると、見栄えもするし気楽に楽しめてよいものだ。
■ 2001/12/21 (Fri)
ゲストがシドニーに到着
 今朝も、なぜか朝の5時頃に眼が覚めたので、そのまま起きてパソコンに向かう。娘はアニメ目当てに6時過ぎに起きてくる。 8時になってから息子を起こし出し、8時30分を少し回ったところで家を出て学校へ行かせる。息子の学校も今日までが授業で、明日からは夏休みになる。英語の個人教授が午前中にある妻は9時過ぎに出かけた。残った娘と2人で、午前中はだらだら過ごす。
 妻と午後1時にQVBで待ち合わせていたので12時少し過ぎに、2人で家を出たのだが、出かけるときに洗濯物を出すのに手間取ったりしたこともあって、最初に乗ろうと思っていたバスに間に合わなかった。そこへ534番バスがきたので、これに載ってエッピング・ロードの少し先(ピットウォーター・ロードのあたり)まで行って288番バスに乗り継ごうと考えた。そこまでは良かったのだが、バスの乗り心地がよっぽど良かったのか、車中で2人とも熟睡してしまい。終点のチャツウッドで運転手に声をかけられて目が覚める羽目になった。仕方なく電車でタウンホール駅まで行き、10分ちょっと遅刻して妻と合流した。
 とりあえず、先日と同じフード・コートへ行き、同じトルコ料理のコーナー「ア・ラ・トルコ」で再度ベジタリアン・プレートをとる。妻と娘はマレーシア〜中国料理の皿を取ってきた。
 ここから歩いて、今朝シドニーに到着した来客2人連れが泊っているサザンクロス・ホテル・シドニーへ行く。午後2時頃にホテルに到着したのだが、先方はまだ午前中の市内観光が終わっていないらしく、まだチェック・インをしていない。メッセージを残してひと回りすることになり、ハイド・パーク南のアメリカン・エキスプレスに立ち寄ってから、ピット・ストリートの古本屋「テイラーズ・ブックス」に入り、しばし時間を潰す。
 再度ホテルに戻ったのは3時頃だったが、ちょうど先方はロビーで市内観光の添乗員からいろいろ説明を受けているところだった。6時から、ディナーを含めた夜の観光があるそうなので、それまでには戻ることにして、3時半頃ホテルを出て、とりあえずセントラル駅まで歩いて行き、電車でサーキュラー・キーへ移動する。駅のホームからサーキュラー・キーを見下ろしてひと通り説明。その後は、フェリー乗り場まで降りてゆき、あたりをぶらぶら。そこで急に強めの雨が降ってきたので、現代美術館へ雨宿りに飛び込み、そのまま NEO TOKYO の展覧会をひと回りする。その後はインフォメーション・センターへ行き、上階の回廊の展示を見たりする。
 この辺りまででもう5時20分頃になったので、バス停まで戻って、南下するバスに適当に乗り込み、ハイド・パークの角のミュージアム駅当たりへ行くかと確認して、バスでホテルの方向へ戻る。運良く、ちょうどホテルの近くまで行くバスだったので、5時45分頃にはホテルにたどり着いた。
 来客2人とホテルで別れてから、妻と娘と3人で歩いてQVBまで戻り、254番バスでクロウズ・ネストまで行く。「魚や」は入ってみたのだが、予約をしていないので席はない(この人気のある店でクリスマス前の週末なのだから当然といえば当然)。しかし、遅めの時間(8時半から)ならよいというので、2時間ほど時間を潰すことにする。クロウズ・ネストは美味しそうな店が結構あるのだが、街をちょっと歩いてから、魚料理の店の前の席に座り、飲物だけでも良いことを確認してから、コーヒーと紅茶を頼んでひと休みする。8時少し前に席を立ち、また少し歩くが、途中で公衆電話があったので、妻が自宅に電話を入れ、帰宅していた息子に出てくるように言う。このとき電話で確認したのだが、息子は、今期も無事に1段階進めたようで、正直なところホッとした。
 その後、妻はバス停のベンチで本を読んでいることになり、娘とまだ開いているケミスト(一応は薬局だが、雑貨屋という感じも強い)に入って、髪飾りなどを買う娘に付き合う。
 8時半になって「魚や」に入り、妻は天重、娘は冷やしうどん、こちらは魚の刺身をのせた丼ものをとる。30分ほど遅れて到着した息子は、焼き魚など数点を注文した。例によって、ここは本当に美味しい。ただし、少し離れたテーブルにいたOL風の女性たちの会話の声がやや大きめで、聞きたくなくても断片的に言葉が飛び込んできて、ちょっと気になった。けっこう、きわどい話をしていたようだった。
 10時過ぎの290番バスで帰宅。
 しばらくして rage がはじまり、録画をセットして床に就く。
■ 2001/12/22 (Sat)
モノレール乗り放題
 前の晩に窓を開けて寝たため、早朝4時半頃になって冷気で目が覚め、そのまま起きる。
 10時過ぎに、ホテル・サザンクロス・シドニーまで来客を迎えに行かなければならないので、9時少し過ぎに家を出た。ところが、バス停までついてから、パスを忘れたことに気づいて慌てて家に戻り、ぎりぎりで292番バスに間に合うように、再度バス停まで行った。
 結局、ホテルにたどり着いたのは10時10分頃で、来客のKさんHさんは既にチェックアウトして、ロビーで待っていた。とりあえず、スーツケースを家まで持って来てもらうことにし、ジョージ・ストリートまで歩いてQVB行きのバスに乗り、終点のQVBでバスを乗り継ごうとしたのだが、その前にブランチをとることになり、「ジェット・カフェ」のヨーク・ストリート側の外側の席に陣取る。クロワッサンなどでブランチを済ませてから、292番バスで帰宅する。
 ひと通り家の事を説明した後、1時過ぎに娘も加わった4人で出かける。今日の目的地はダーリング・ハーバーの水族館などである。ところが、バス停まで行ってみると、少々タイミングが悪く、しばらくシティ行きがこない。そこへ545番バスがきたので、とりあえずこれに乗り、チャツウッドまで行く。
 チャツウッドでは、東口側を中心に駅周辺を案内する。韓国スーパーや、駅前のセブン・イレブンでそれぞれ飲みものや菓子類を買い、ベンチに座ってしばし休む。
 電車でシティへ向かい、ウィンヤードで下車して、ダーリング・ハーバーまで歩く。こちらも初めての入館になるシドニー水族館へ入り、隅々まで堪能する。娘を含めた3人が、ショップに引っかかっている間に、出口のところのカフェでひと休みする。
 次にどこへ行こうかという話になり、とりあえずモノレールに乗り込んで、一周回ってみた上でパワーハウス・ミュージアムへ行くことにする。シドニーのモノレールは環状で、左回りの一方通行になっている。一回の乗車が4ドルだが、一日乗り放題券は8ドルなので、当然こちらを買って乗り込む。ところが、一周回ってからヘイマーケットで下車し、連絡橋を渡ってパワーハウスに着いたのは午後5時ちょっと過ぎで、既に閉館時刻になっていた。仕方なくヘイマーケットまで戻り、再度モノレールに乗ってハーバーサイドのショッピング・センターへ行く。ここでは疲労がピークになっていて、3人に買物に行ってもらい、ハーバーに面したカフェで座って、しばらくうたた寝をする。この間に、娘は、来月からの通学に使えそうなリュックを買ってきた。
 時刻は既に、7時近くになっている。またまたモノレールに乗り、中華街へ行き、あちこちをひやかして回る。結局、台湾料理の店に入りいろいろ頼んでみる。特に美味しかったわけでは必ずしもないが、そこそこの味で食が進み、結果的にはみんな満腹になる。
 食後、またモノレールの駅まで行き、今度はギャラリー・ヴィクトリアで降りて、QVBへ行く。そこへちょうど290番バスがきたのだが、写真を撮りたいということになり、1時間後のバスにして、写真を撮りながらウールワース・メトロの前まで行ったり、ヴィクトリア女王像のあたりを回る。さらに、QVBの古い写真が並べてある階段を登って 2nd floor(つまり3階)まで行き、9時ちょうどに、からくり時計が動くのを見る。そのあともいろいろ見物しているうちに、あっという間に時間が経った。
 9時40分の290番バスで帰宅。11時からは rage を録画しながら見るが、1時過ぎには眠くなり、風呂にも入らないまま寝る。
■ 2001/12/23 (Sun)
久々のボンダイ・ビーチ
 前日、けっこう動いたせいか、早朝一度トイレに立ったものの、朝は9時過ぎまで寝ていた。
 朝食はスープとパンで軽く済ませ、前夜入りそびれた風呂にゆっくり入る。そのまま午前中は、パソコンをいじったりしているうちに過ごす。
 11時少し前に、来客のKさんHさんに、妻と娘が加わって、5人連れで出かける。292番バスでラング・パークまで行き、ロックスへ向かう。クリスマス直前の日曜日とあって、人出も多い。マーケットまでたどり着き、3人を自由にさせることにして、妻と2人でブッシェル・プレイスのカフェで時間を潰す。小1時間ほどでまた全員揃ったので、歩いてサーキュラー・キーまで行く。KさんHさんのリクエストで、マクドナルドでビッグ・マックを注文、店の前のベンチでみんながそれを食べている間に、こちらは目の前にあるギャラリーへ入り、エッチングの品定めをする。まあ、値段は観光客向けの相場なのだが、結構目の保養になるいい感じの作品もあった(もちろん買うわけではないのだが)。
 お腹がいっぱいになったところで、380番バスで一路ボンダイ・ビーチへ向かう。バスの中では、皆それぞれうとうとしていた。
 ボンダイ・ビーチに着いたのは、もう4時少し前だったが、まず小学校の校庭の市に行き、ここでまた30分ほど自由行動にしてそれぞれ買物を楽しむ。自分も古本の屋台をまわり、いろいろ本を買う。
 その後、ビーチで遊ぶ3人と、パビリオンのところで荷物を見ているという妻といったん別れて、「トゥー・ファッツ」でお茶を飲みながら買ったばかりの本を眺める。お茶と一緒にブルーベリー・チーズケーキをとったのだが、これがなかなか美味しかった。
 1時間ほどして4人が呼びに来たので店を出て、皆で「ニギトロ」へ行く。思えば、5月、8月は、随分この辺りを歩いていたものだ。それから4ヶ月ほどしか経っていないのだが、閉めた店、新しくなった店などがいろいろあって、変化の速さを感じる。「ラヴェシズ」の角の1階にあった靴屋は空家になっていて、その向かいのミルク・バーだったところに別の靴屋「プラティパス」が出店していた。
 例によって、「ニギトロ」には日本人の客はいない。娘はラムネがメニューからなくなったと知ってちょっとがっかりしていたが、日本人の板前が作る焼き魚や揚げ出し豆腐はもちろん、黒人のスシ・シェフが作る巻寿司類も美味しい。窓越しに眺めるビーチの風景もすばらしい。
 食事を済ませ、近くのコンビニで飲物や菓子類などを買って、ボンダイ・ジャンクション行きのバスに乗る。ボンダイ・ジャンクションからタウン・ホールまでは電車に乗り、QVBから288番バスで帰宅したのは10時少し前だった。
 ところが、帰宅してみると、電灯が点かなくなっている。息子の話では、照明系だけが何らかの理由で落ちてしまったのだという。家の外にある配電盤を見つけ、手探りでブレーカーのスイッチを戻してみたが、ほんの数秒ですぐまた落ちてしまう。結局、復旧を断念して、先月来てくれた電気屋に電話を入れ、明日来てもらえるように頼む。
 明日は、早起きなので早めに休むことにし、12時過ぎに休む。
■ 2001/12/24 (Mon)
クリスマス・イブの夕食難民
 朝は目覚ましをかけて6時前に起きる。部屋を出ると、娘がテレビの前で毛布に包まってごろごろしていた。
 今朝は妹と甥姪がシドニーに到着するので、空港へ迎えに行かなければならない。最初は娘も迎えに行くと言っていたのだが、結局、ひとりで7時半頃家を出て、空港へ向かった。
 今日はクリスマスの前日で、平日扱いの交通ダイヤなのだが、世間はすっかり休日ペースになっているようで、交通量も格段に少ない。290番バスと電車を順調に乗り継いで、8時40分頃に到着ロビーへ着いたが、到着時間が15分ほど予定より遅れたこともあり、結局小1時間待つことになった。この間、中国語新聞「星島日報」(トップ記事は「日艦轟沈中國標記漁船」の見出し)を眺めて過ごす。
 到着した3人と合流し、電車でまずタウン・ホールへ行き、QVBの「ジェット・カフェ」でお茶を飲んでひと休みする。292番バスで11時過ぎに帰宅。子供たちは家にいたが、妻とKさんHさんは、マコーリー・センターへ出かけていた。
 荷物の整理をしてもらっているうちに、妻から電話が入り、マコーリー・センターで食事を一緒にしようということになる。妹一行と子供たちの全部で6人連れで家を出て、292番バスでセンターまで行き、フード・コートで合流する。食事の合間に、交替で席を立ち、郵便局や銀行の用事を済ませる。
 妻と来客2人は、シティへ観光に行くというので、午後7時にQVBで再度待ち合わせることにして先に行ってもらう。こちらは、まず妹たちを今日泊るセントラル駅裏の「ロイヤル・イグジビジョン・ホテル」まで連れて行かなければならない。少し遅れてフード・コートを出て、バス停へ行ったのだが、どういうわけか妻たちがまだバス停にいる。しばらくバスが来なかったらしい。遠回りにはなるが、ちょうど507番バスがきたので、こちらに全員を乗せて、プットニー経由でのんびりとシティへ向かう。途中では、ほぼ全員がうとうと寝ていた。
 タウン・ホール脇で妹と子供たちを一緒にバスを降りる(妻と来客はもうちょっと先まで行く)。
 バスを乗り継いで、セントラル駅の西口へ行き、地下通路を通って、東口のホテルへたどり着く。5月に泊った部屋とは違って次の間つきのスウィートではないが、ゆったりとした変形(半円形)の角部屋である。
 ひと休みした後、駅の東口側からバスに乗ってマーチン・プレイスまで行き、そこから坂を下る。ピット・ストリートのアメリカン・エクスプレスへ立ち寄って甥が持ち込んだトラベラーズ・チェックを換金し、ジョージ・ストリートのバス停へ出たところ、ちょうどロックス〜ミラー・ポイント行きのバスが来たので、いつも市が立っている(今日は当然ただの道路になっている)辺りで下車し、週末とはうって変わって静かな一帯を歩く。なかなか暑いので冷たいものが欲しいという話になり「ゲダイ・カフェ」に入って休む。みんなが休んでいる間に、甥と2人で簡単にインフォメーション・センター周辺を15分ほど見て回る。店を出るともう6時を過ぎている。そのままハイアットの辺りからサーキュラー・キーまで歩き、バスでQVBへ戻る。7時まで少し時間があったので、「ジェット・カフェ」でまたお茶にする。7時正時が近くなったので、子供たちはQVBのからくり時計を見に行き、1人で店に残っていると、妻たち3人がやってきた。
 後は、夕食を食べるだけ...のはずだっただが、ここからが結構大変なだった。
 9人で食事をする場所を探すことになった。最初は、カンガルーやワニを使った料理を食べたいというリクエストがあったので、以前に入って美味しかったオックスフォード・ストリートのベトナム料理店「サイゴン・ベイ」まで380番バスで出かけた。この辺りなら、もし「サイゴン・ベイ」が休みでも何とかなるだろうと思ってのことだったのだが、結局「サイゴン・ベイ」は休みで、QVB周辺まで戻ろうという話になる。再度バスに乗って、ハイド・パークの北西にあたるダイヴィッド・ジョーンズ百貨店の前で下車し、しばらく探したのだが、なかなかレストランが見つからない。クロウズ・ネストまで行けば食事ができるだろうという話になり、254番バスに乗ってクロウズ・ネストへ行く。この時点で8時半を過ぎていた。まず、いつもの「魚や」を覗くが、閉店まで予約でいっぱいだという。となりのインド料理店「インディアン・オーシャン」を覗いてみると、何と誰も客がいない。とりあえず閉店時刻を尋ね出てくる。信号を渡り、市役所の方へ歩いてみたのだが、都合の良い店は営業していない。何しろ、インド料理やピザ屋では、食べられない人が出てくるし、結構開いているパブは、子供が入れない。結局、妻と娘、妹と姪の4人が、麺類中心の中華料理のデリに入り、こちらは息子、甥、KさんHさんと一緒に「インディアン・オーシャン」に戻る。とりあえず、初めて入る上、誰も客がいないというので、かなり心配したのだが、カレー3種(1種はベジタリアン)にタンドーリの蛸などをとり、美味しく頂く。
 後から食事を済ませた妻たちが、デザートだけを食べにやって来た。
 結局、最初乗ろうとしていた10時過ぎの290番バスには間に合わなかったが、10時半過ぎの254番バスにみんなで乗り、セントラルへ戻る妹たち3人と一緒にセント・レナーズで降りた。妻たちはレーン・コーヴで乗り継ごうというわけである。
 セント・レナーズからセントラルまで電車で戻り、駅裏のコンビニに立ち寄ってから、11時15分過ぎに宿に着いた。11時半頃、宿を出て、電車でタウンホールへ戻り、11時52分の290番バスで帰宅した。
 長い、一日だった気がする。
■ 2001/12/25 (Tue)
ブッシュ・ファイアのクリスマス
 今日は、クリスマスの当日。年中無休のところでも、この日だけは休むというのがオーストラリアでは普通の日である。今日は、みんなでブルー・マウンテンズへ行き、クリスマス午後以降は宿でゆっくりする予定になっている。
 8時前に起き、息子を起こして、朝11時少し前にセントラル駅を出るカトゥンバ行きに乗るように指示して、「ロイヤル・イグジビジョン・ホテル」まで妹一行3人を迎えに行かせる。こちらも9時半には家を出て、5人でパラマタ行きの545番バスに乗る。バスの中では熟睡していた。パラマタで少し時間があったので、食べ物や飲み物を買おうとしたのだが、クリスマスなので見事なまでに店は全部閉まっている。小さなコンビニが何とか開いているだけだ。結局、パラマタ駅の南口のコンビニで買物をして、朝食代わりにしてから、11時20分過ぎの列車に乗り込み、無事、息子と妹の一行と合流した。途中では、ブッシュ・ファイアが車窓から生々しく見えるところもあったし、地平線には大きな煙がいくつも上がっている。
 1時頃カトゥンバに到着。いつもの「ザ・セシル」へ行き、部屋に荷物を置く。2階の25号室、27号室、32号室にそれぞれ別れて入る。程なくしてクリスマス・ディナーがはじまるというので、食堂に下りてゆく。今日は満室で、常連客と思しきお年寄りが多いが、小さい子や車椅子の女の子を連れた家族もいる。
 クリスマス・ディナーは、クラッカーやパーティー・グッズが席に置かれ、紙テープを投げあうところから始まり、途中でサンタが登場して全員にプレゼントを配るなど、子供たちと、童心に帰ったお年寄りたちを中心に、大いに楽しんだ食事だった。ただし、こちらはメインの七面鳥を食べた辺りで、満腹感から睡魔に襲われ、食事の途中で席を立ち、部屋に戻って熟睡した。
 目覚めたのはもう6時近くで、下へ降りてゆくと、既に簡単な夕食代わりの食べ物が、卓球台のところに並べられている。昼がディナーだった分、夕食はおつまみ風のものが並べてあるだけなのだが、サーモンやエビなどシーフード類や、チョコレート・ケーキ、カマンベール・チーズなど、なかなか美味しい。食事をとりながら、しばらく、ホールやティー・ルームで、他のお客さんたちと、いろいろ雑談をする。妻は話し掛けられ易いようで、いろいろな人たちと話していたし、息子もそこそこ話をしているようだった。
 今日は、ブッシュ・ファイアが本当に大変な状態になっているらしく、テレビやラジオのニュースをみな気にしている。たまたまティールームで、妻と、老婦人2人と同席して話をしていたら、外からガラスの扉をノックする人がいた。6人ほどの東南アジア系と思しき家族連れである。何でも、交通が封鎖されていて、急遽この辺りに泊らざるを得なくなったのだが、宿が空いていないので困っているのだという。とりあえず、この宿は満室であることと、経営者は隣家に住んでいることを教えて、そちらに尋ねてくれという。妻の話では、その少し前にも、中年の日本人女性が同じように尋ねてきたという。交通の混乱があることは確かのようだ。
 夜が更けて、他のお客さんたちが部屋で寝静まり始める頃から、ティールームは息子と甥が占領して、テレビを見ながらあれこれ話し込んでいた。時おり降りていって一緒にテレビを見る。たまたま全豪競技ダンス大会の決勝が番組になっていたのだが、先だってSBSで「シャル・ウィ・ダンス」を観たせいか、ぼんやり見ている分には、なかなか面白く感じた。
 11時を回った頃、一足先に部屋に戻り、部屋の電気を点けたまま眠った。
■ 2001/12/26 (Wed)
波乱万丈?
 朝7時頃起きて、トイレに立ち、そのまま食堂の隣にあるティー・ルームへ向かう。ここでお茶を一杯飲んで、部屋へ帰ろうとしたのだが、ラウンジで娘がいつものようにテレビでアニメを見ているのを見つけたので、しばらく一緒に見る。
 そうこうしているうちに朝食の時間が近づいたようで、他のお客さんたちが次々と食堂の階に降りてゆくので、部屋に上がり、そろそろ朝食だと告げる。ところが、どうやら普段より朝食の時間が遅れているようで、7時半を過ぎても食堂の扉が開いていない。さっき降りていったお客さんたち(お年寄りが多い)は、ティー・ルームの中や、その前の芝生の上のテーブルでお茶を飲みながらわいわいがやがややっている。われわれの一行は、その上のホールで待つことにしたが、まだしばらく寝ていたいといって部屋に戻る者もいた。
 結局8時過ぎから朝食になり、とりあえず下りて来た者からどんどん食べ始める。例によって果物が豊富に用意された、楽しい朝食である。
 9時半までに全員が朝食を終え、荷物を宿に預けて、エコー・ポイントに向けて出発する。ゆっくりと歩き、途中の何でも屋で飲物類を買い、10時頃エコー・ポイントに到着。展望する場所を変えながら、眺望を楽しむ。妻にとっては二十数年ぶりのエコー・ポイントである。
 ところが、インフォメーションの入口に「国立公園内立ち入り禁止」の告知が出ているではないか。日付は24日になっている。中へ入って売店の職員に聞くと、ブッシュ・ファイアの関係で、国立公園区域全体がウォーキング差し止めになっているのだという。とりあえずスリー・シスターズまでは行けるし、ケーブルカーもロープウェイも動いているが、巨大階段を下るのも、谷歩きも、だめだという。確かに地平線の向こうにはひどい煙が上がっているが、これでは計画が台無しである。
 しばし、呆然としたが、とにかくスリー・シスターズまで行こうということになり、9人全員で巨大階段の降り口にあたる、スリー・シスターズのベンチまで行く。ところが、この辺りに来ても、さっきのインフォメーションの入口にあったような告知の紙も、立ち入り禁止の標識も何も出ていない。実際、いつもと同じように、そのまま巨大階段を下りてゆく人がいる。そこで、途中で標識なり案内があれば引き返すという前提で、行けるところまで行こうという話になり、ここまでで既にリタイヤを宣言した妻と妹を残し、7人で当初予定通り巨大階段を降り始めた。そのまま階段を降り切り、下見のときと同じルートを進む。すると前方からもやってくる人々がいる。要するに、ケーブルカーかロープウェイで降りてきた人たちである。入山規制はまったく実効性がない状態になっているようだ。
 そのまま進み、途中の滝の下でしばらく休んだ後、ケーブルカーの駅に到着した。前回はロープウェイで戻ったのだが、ケーブルカーにしようという声が多かったので、こちらに乗ることにして待っていたところ、降りてきた車両に、何と妻と妹が乗っていたので、とりあえず乗り込むのを一本遅らせることにした。ここで出会ったのは全くの偶然で、先方は、エコー・ポイントからバスで移動し、スカイウェイ(水平移動のロープウェイ)を往復した上で、ケーブルカーに乗ってみようということで降りてきたのだそうだ。とにかく次の便で、9人全員、斜度52度のスリルを味わいながら、崖上に戻った。
 ここからカトゥンバ行きのバスに乗り込み、カリントン・ホテル前で下車。昼食にする。妻は二十数年前に来た時もこのホテルに入っているのだが、資料によれば、それは州が歴史的建造物として買い上げて補修し始める前のことになる。
 とりあえず、ほっとしたせいか、アントレを食べた段階で満腹になっていまったのか、しばし座ったまま居眠りをしてしまう。メインのタルトを持ってこられたときに目が覚め、少々慌てた。
 2時頃、カリントン・ホテルを出て、ザ・セシルに戻って荷物を回収してから、駅へ向かう。カトゥンバ駅2時25分発の列車に乗り込み、パラマタへ向かった。車中ではほとんど寝ていた。後で聞いた話では、帰路の沿線でもブシュ・ファイアがあったらしい。
 5時少し前にパラマタ駅で下車したが、ちょうど正時に発つサーキュラー・キー行きのフェリーには間に合わない。チャーチ・ストリートの「ベラニ・カフェ」に入ってひと休みしてから、6時ちょうどのフェリーに乗る。ところが、乗り込む直前に、甥が大事な持ち物を紛失していることに気づいた。もう乗り込む直前だったので、とにかく全員でフェリーに乗り込む。
 何度乗っても楽しめるパラマタ航路だが、今回は上り(inbound)で、水路がだんだん広くなって船の速度も上がり、最後はハーバー・ブリッジはじめシティのスカイ・ラインが近づいてくるという盛り上がるパターンになってよかった。
 サーキュラー・キーから380番バスに乗ってオックスフォード・ストリートへ行き、クリスマス・イブに閉まっていたベトナム料理の「サイゴン・ベイ」へ行くことにする。バスを降りてから甥以外の7人を先に店に行かせ、今日の立ち回り先と、鉄道の遺失物に電話を入れてみたが、全部ダメだった。高価なものだったので、甥は本当にがっかりしている。
 「サイゴン・ベイ」は満員に近い盛況で、2階席のウェイターはてんてこ舞いの状態になっており、サービスが遅い。今日は、「ロイヤル・イグジビジョン・ホテル」にKさんとHさん、そして妻が泊まる予定なので、先にチェック・インをしておこうと思い、1人でバスと電車をミュージアム駅で乗りついで、セントラル駅へ向かう。7時半頃ホテルに着いたのだが、何とパブの部分を含め、ホテルは閉まっているではないか。ゲスト用の入口に呼び鈴があったので押してみたのだが、出てきたのは客の小さな女の子で、スタッフが誰もいないようだ。これではチェックインできない。とりあえず、いったん戻ることにして電車とバスで「サイゴン・ベイ」まで戻った。ところが食事に少し手をつけたところで、娘の姿が見えなくなった。トイレに行ったはずなのだが、戻って来るのが遅すぎる。妻が様子を見に行ったが、トイレにいないというので、外を見に行くことにする。この辺りに連れてきたときに徒歩で動いたことがある範囲をひとまわりし、酒屋やコンビニなど、店の中に入れる店を覗いていったのだが、どこにもいない。裏道も少し見てみたが、人影すらない。血の気がひくような感じがする。とにかく、何とか手配しなければと思いながら店に戻ると、妻が階段を降りてきて、娘が戻ってきたという。ほっとするやら気が抜けるやらだったが、要するにトイレにいたのだが、妻の死角になっているところに立てこもっていたようだった。
 食事はひと通り終わったのだが、途中で頼んだデザートがなかなか出てこないので、妻は、娘と姪を連れて、先に帰る。残りの6人でそのまま9時過ぎまでわいわい話しながら店にいたのだが、いつまでたってもデザートがこないのでウェイターに確認させると、何ともうデザートは作れないというではないか。仕方なく店を出て、オックスフォード・ストリートを少し歩き、テイラー・スクエアの先のカフェ「バトゥータ」でお茶とケーキを食べる。ここで5人には直接帰宅してもらうことにして、再度バスと電車で「ロイヤル・イグジビジョン・ホテル」へ行ってみたが、やはり完全に閉まっている。電車でタウン・ホール駅に戻り、QVBで290番バスを待っていたら、「バトゥータ」で別れた一行がバス停にやって来た。結局一緒に10時52分の290番バスで帰宅する。12時少し前になっていた。
 何とか今夜は自宅で9人が寝られる体制を作ろうとしたのだが、どうも上手く行かない。12時を回ってからやはり宿を確保しようと思い直し、まず「ザ・ランチ」へ電話をしたが満室。次にかけたトラベロッジに部屋があるというので、タクシーを呼び、お客様2人を送り込むことにする。午前1時にタクシーが来て、トラベロッジまで一緒に行き、帰りはゆっくり歩いて帰ってきた。
 それから湯船に浸かったのだが、そのまま寝てしまい、夜中の3時半頃にバスを覗いた妹に起こされる。
■ 2001/12/27 (Thu)
初めてのDFSギャラリー
 朝はおぼろに目が覚めかけても、誰も起こしにこないのをいいことに、8時過ぎまで寝床でゴロゴロしていた。起き出して、パソコンをいじっているうちに、9時半頃Kさんから電話があり、マコーリー・センターまで迎えに行くことにする。すぐに着替えて家を出て、ちょうどきた545番バスでセンターへ向かったところ、バスが停留所に向かってUターンする辺りで、イノベーション・ロードを上がってくる2人が見えた。
 2人が道を渡って来たところへ、459番バスが来たので、これで家に戻る。
 2人が荷物を詰め直してから、11時頃家を出てシティへ向かうことにする。スーツケースを転がしながら、ゆっくり進んでバス停までたどり着く前に、少し遅れて家を出た、妻、娘、妹、姪の女性4人グループに追いつかれた。そのまま一緒に545番バスでチャツウッドまで行き、電車に乗った。ホームの売店でシナモン・ドーナツとコーヒーを買う。
 女性4人は、QVBで買物をしてからボンダイ方面へ行くそうなので、タウン・ホール駅で下車した。こちらは、お客様2人とセントラル駅裏の「ロイヤル・イグジビジョン・ホテル」まで行き、24日に妹たちが泊ったのと同じ部屋(13号室)にチェック・インする。
 荷物を置いて直ぐに出発し、まず、ミルソンズ・ポイントまで電車で行き、そこからハーバーブリッジの東側の歩道を歩いて橋を渡り始める。なかなかの壮観である。幸い風も強くなかったので、快適に歩けた。展望台になっている東南のパイロンに登る。ここでは眺望もすばらしく楽しめたが、建設過程の記録映画から編集したらしいビデオを興味深く見る。さらにロックスのファースト・インプレッションまで行き、写真を撮る。昼食はロックス・センターの前のイタリア料理店でパスタを取る。カルボナーラ、マリナラ、フンギの3種類のスパゲティをとり、3人で取り分けて食べる。
 食後、ケン・ドーン・ギャラリーを覗いたのだが、ちょうどケン・ドーンの油絵の展覧会をやっていて、お目当てだったケン・ドーンが購入したいわくつきの古い油絵は展示されていなかった。インフォメーションの先からバスに乗ってウィンヤードまで行き、そこから少し歩いてシドニー博物館へ行く。ここでは常設展と、企画展「オン・ロケーション」を見る。そうこうしているうちに、5時近くなってしまったのだが、建物だけでも観たいということで、天文台まで行くことにする。シドニー博物館を出て、徒歩でロックスに戻るのだが、途中で思いついて旧税関の展示スペースに立ち寄り、シドニー中心部の模型を見せる。ちなみに下のフロアではアキラ・イソガワの展示をしているようだった。
 旧税関を出て、ロックスを横切り、アーガイル・カットを抜けて天文台へ行く。既に建物は閉まっていたが、敷地の門は開放されていたので、建物をバックに記念写真などをとる。その後、DFSギャラリーへ行きたいということだったので、初めてこの免税店ビルの中に入った。中では案内の表示は日本語と英語になっている。客ももちろん日本人が多いのだが、韓国人の団体や、中国人も多い。値段は決して安いとは思えないのだが、母国語で買物できるという気楽さが大きいのだろう。普通の店で見かけない「豪酒」も売っていた。
 ここでしばらく買物をするというので、6時に待ち合わせることにして、こちらはいったん外へ出て、「ベイクハウス」でお茶を飲んで時間を潰す。6時になって再度DFSギャラリーに戻たのだが、チョコレートなどはひととおり大きなバッグいっぱいに買ったものの、まだまだ買物に手間取るようだ。化粧品(アナ・スイ)のコーナーではさんざん時間を使って選んでいたが、結局ぎりぎりのところで気が変わったらしく、何も買わずに出てきてしまった。再度バスに乗り、ジョージ・ストリートのQVBの向かいで降りて、AMPタワーへ行く。展望台に上がるのは久しぶりだが、この間にあちこち歩いたおかげで、以前とは違った発見がいろいろあって楽しい。
 結局8時少し前まで上にいて、下へ戻ってからスカイツアーズ(タワーの下のアトラクション)に2人を入れて、30分あまり、カフェで休む。スカイツアーズは途中でちょっと機械のトラブルがあったとかで、普通よりやや遅れて2人が戻ってきた。
 食事をどうしようかと迷ったのだが、先日「魚や」に入れなかったのが残念という話になり、電車でセント・レナーズまで行き、そこから歩いてクロウズ・ネストまで戻って「魚や」に入る。この時点でもう9時半を回っていた。10時にQVBの「ジェット・カフェ」で妻と待ち合わせをしていたので、自分だけ先にとって返そうとしたのだが、ちょうどバスのタイミングが悪い具合だったので、タクシーを拾い、QVBへ向かう。タクシーの運転手がハーバー・ブリッジの自動課金装置を使うのをはじめて間近で見る。
 10時10分に「ジェット・カフェ」にたどり着き、KさんHさんが来るのを妻と一緒に待つ。少々時間がかかったのでちょっと心配したが、バスが上手くつかまえられなかった2人は、歩いてセント・レナーズまで戻り、電車でようやくやってきた。
 今夜は妻と3人が「ロイヤル・イグジビジョン・ホテル」に泊る。タウン・ホール駅の改札まで行って3人を見送り、11時52分の290番バスで帰宅する。
■ 2001/12/28 (Fri)
ハーバーサイドからスターシティへ
 朝は9時頃起きる。今日は、妹の買物にいろいろ付き合うことになっている。午前中に、一度、マコーリー・センターのスーパーなどを見ることになり、妹と娘と3人で、10時過ぎに家を出て、ウールワースなどで買物をする。マコーリー・センターから戻ると、お客様2人を空港まで送ってきた妻が帰ってきていた。
 11時半頃になってから、前夜徹夜をしたらしく潰れている息子を残し、6人でシティ方面に出かける。
 昼食は、韓国系の「アーク・スシ・キング」の回転寿司で済ませる。今日は、ダーリング・ハーバー周辺を回るので、シティ・センターからモノレールに乗り込み、まず一周して展望を楽しんだ上で、ヘイマーケットへ行き、妻と娘、甥、姪をパワーハウス・ミュージアムに入れて、妹と2人で買物に向かう。買物を始める前に、ヘイマーケットから家に電話を入れ、午後4時にパワーハウス・ミュージアムの前に来るように言ったのだが、まだ眠たいらしい。これはどうも厄介になりそうだ。
 妹との買物は、まずマーケット・シティへ行く。結局ここではほとんど何も買わず、モノレールでヴィクトリア・ギャラリーまで移動する。妹がラルフ・ローレンのセールに引っかかったので、店の前のカフェで時間を潰す。その後、マンボ(オーストラリアでTシャツなどが人気のあるカジュアル・ブランド)のシャツを見たいというので、マンボを扱っている店に行く。4時に妻とパワーハウス・ミュージアムの入口で待ち合わせていたのだが、そろそろ時間が迫ってきたので、妹とは午後6時に「ジェット・カフェ」で合流することにして、モノレールでヘイマーケットに戻る。
 パワーハウス・ミュージアムには時間通りに着いたのだが、案の定、息子は来ていなかった。家に電話を入れ、6時に「ジェット・カフェ」で合流するように息子に言いつける。
 妻たちと一緒に、ヘイマーケットのモノレール駅まで行き、そのままハーバーサイドまで行く。午後5時で海事博物館は閉まっていたのだが、甥たちは潜水艦のそばまで行って写真を撮ったりしていた。橋をわたってモノレールひと駅分を戻り、水族館に妻と子供たちを入れる。午後7時にはハーバーサイドのモノレール駅まで再度合流することにして、こちらはQVBまで歩いて戻る。途中でニュース・エージェントで新聞を買い、アッシュウッドに立ち寄る。ちょうど6時頃に「ジェット・カフェ」に入ると、既に息子と妹が話しこんでいた。ここで一服してから、3人一緒にモノレールでハーバーサイドへ行き、7人全員でスターシティまで歩く。
 ミュージカル「オズの魔法使い」は7時半の開演なので、6人を入場させる。
 終演は10時ということなので、歩いてハーバーサイドに戻り、レストランの営業時間を確かめ、またモノレールに乗って中華街へ行き、心当たりの店の営業時間を確かめる。中華街から歩いてジョージ・ストリートまで行き、ベースメント・ブックスでかなり時間を潰す。
 その後、また中華街へ戻り、ガーデン・プラザからモノレールに乗ってハーバーサイドまで行く。歩いてスターシティに着いたのは9時半頃で、まだ少し間がある、ほんのちょっとだけカジノを覗き、ベースメント・ブックスで買った本を少し読みながら、終演を待つ。
 10時にミュージカルが終わり、全員が出て来るのを待って、ハーバーサイドの船上レストラン(といっても1930年代の連絡船を岸壁に固定したもの)へ行き、夕食をとる。シーフード・プラッターがなかなか贅沢だった。食事の途中で、娘が眠たくなってきたので、妻が娘と姪を連れて、先に帰ることになった。
 こちらが、息子、甥、妹と一緒に帰宅したのは11時半過ぎだった。そのまましばらく起きていたが、結局最後まで rage を観ることもなく、録画もしなかった。8月以来、欠かさず必ず一部は観ていたのだが、家にいたのに観なかったというのは珍しいことだ。
■ 2001/12/29 (Sat)
鉄兜を買う
 今日は、妻が娘、妹、姪を連れてボンダイ・ビーチへ行き、こちらは甥を連れて彼の趣味がらみの店を回ることになっている。息子は例によって朝から潰れている。
 10時半頃に、甥と一緒に家を出て、545番バスでパラマタへ向かう。チャーチ・ストリートのバトルブリッジ書店に入り、じっくり時間をかけて資料を見る。店の奥にディスプレイされている「贈石倉榮三郎君」と大書され、十数名の署名がされた日の丸に目が止まり、店番をしていた店主と思しき人物(見たところ私と同年輩)といろいろ話をする。これは共同経営者(年配の人物らしい)がオークションで入手したもので売り物ではないという。こういう日の丸は、オーストラリア兵が持ち帰った例は少なく、ほとんどは米兵が持ち帰ったものがオークションなどに出てくるのだそうである。
 日本人ならぜひ見て行けと言われて、米国で唯一オリジナルのエンジンを搭載して飛行可能な状態で保存されているゼロ戦のビデオを見る。甥によれば、「2番目のエンジン、5番目の機体」のタイプらしい。このほか、日本のゼロ戦のエースだった坂井三郎氏(2000年没)の署名の入ったポスターなどを見せられる。
 結局ここでは、資料を一冊買っただけだったが、甥だけでなく、あまり関心のないこちらも結構楽しめた。
 電車でセントラル駅まで行き、ここでジョージ・ストリートの古書店に行こうとしたのだが、途中で甥にちょっと待ってと声をかけられる。甥が最初に目をつけたのは、(今日は閉まっている)銃砲店のショーウィンドウには飾ってある日本刀類だった。ところが、それに続けて、その先のキャンプ用品店と思い込んでいた店のショーウィンドウに、キャンプ用品と並んでガス・マスクがディスプレイされているのを発見。さっそく店内に入ると、1階はまったく普通の登山・アウトドア用品店だが、2階に軍の放出物資などがあることが分かった。結局ここでは、スイス軍のヘルメット、というより鉄兜、40ドルを甥にプレゼントする。ちなみに英軍の平たいヘルメットは20ドルほど、他にも、旧東独、スウェーデン、フランス、イタリアなどのヘルメットがあり、ロシアや中国をはじめとする諸国の軍帽などもあった。
 結局、最初に行こうとしていた古書店は移転して無くなっていたので、この店に入ったのは「呼ばれていた」結果だろう。縁があったということだ。
 バスでベースメント・ブックスへ行き、ここで甥は、安売りになっている軍事史の大型本など98ドルを買い込む。鉄兜に大型本で、荷物が随分と重くなった。
 再度バスに乗り、タウン・ホール駅から電車に乗る。ボンダイ・ジャンクション駅を経て、ボンダイ・ビーチのジョーンズ・ザ・グローサーへ行く。待ち合わせは午後4時だったが、到着は10分ほど遅れた。
 ジョーンズでは、妻が待っていた。子供たちは浜へ出ているようだ。結局ここで、とりそびれていた昼食(既に夕食時に近いが)をとる。妹と子供たちが戻ってきてから、甥も海に入ることになり、妹と水着を買いに店を出る。結局、私が1人で店に残って、遅れてくる息子を待つことになり、荷物を見ながら、盛夏の休日のボンダイ・ビーチをぼんやり眺めてすごす。5時半頃に息子がやってきて、間もなく子供たちも浜から上がってきた。
 夕食は、これまで2回「魚や」に行きそびれている甥の希望で、クロウズ・ネストの「魚や」へ行くことになり、ボンダイ・ビーチから電話を入れて、午後9時に予約を入れる。まだ時間があるので、もう一度全員で浜へ降りることになり、7時過ぎまで浜にいた。
 バス・電車・バスと乗り継いで、「魚や」へ行き、初めて2階席に通される。娘と姪は早めに食べ終わり、眠くなりそうだったので、妻が先に連れて帰る。残りの4人は、閉店の10時半近くまで店にいて、ゆっくりデザートまで食べる。店を出てから、バスまで十数分あったので、その間、近くのコンビニ(City Convenience)に入って買物をする。
 帰宅は11時半近くになった。疲れが出ているようで、rage を録画し始めたものの、ゆっくり見る気にはなれず、12時過ぎには寝床に入る。
■ 2001/12/30 (Sun)
買物上手の買物三昧に付き合う
 今日は妹一行が行動できる最終日なので、それぞれのリクエストに応え、私は妹と姪の買物に同行し、息子と甥はボンダイでゴルフとビーチを楽しむということになる。妻と娘は家で休養である。
 11時頃、5人一緒にバス停まで出かける。今朝はまた煙が霧のようにかかっている。新たに燃えている地域もあるのだろうが、それ以上に風の流れで煙が押し戻されて溜まってしまうような形になっているようだ。
 545番バスがきたので、これに乗り込み、チャツウッド駅へ行く。ここで電車に乗り換え、ミルソンズ・ポイント駅で下車し、ハーバー・ブリッジを歩いて渡った。残念ながら垂れ込めた煙で眺望は悪く、橋の上からはかろうじてオペラハウスは見えるもののAMPタワーは全く見えない。最初は、まずAMPタワーへ全員を連れてゆこうと思っていたのだが、これでは眺望が利かない。結局、タワー行きは断念した。
 ロックスに残されている19世紀半ばのテラスハウス(長屋)であるハンナズ・プレイスに立ち寄る。ここでは元住人の証言を中心に構成されたオーラル・ヒストリーのビデオを見てから、公開されている62番と58番の区画を見る。角の食料品店だった58番は、公開のための作業がひと通り終わっていて、裏庭や2階部分も含め、なかなか見応えがあった。
 ハンナズ・プレイスから、DFSギャラリーを通ってサーキュラー・キーへ出て、旧税関のカフェで昼食にする。ここから息子と甥はボンダイ方面に向かい、こちらは妹と姪と一緒にバスに乗ってQVBまで戻り、まずグレース・ブラザースへ入る。ひと通りフロアを見て5階の書店に面したカフェまで行き、ここで待つことにして2人には買物をしてもらう。次に、デヴィッド・ジョーンズへ行き、やはり各フロアを見てから5階の子供服売り場へ行く。妹は結構小柄なので、子供服売り場を探した方が掘り出し物があるのだそうだ。ここでは、けっこう時間を使って品定めをして、いろいろ買うことになった。待っている間、ビデオで流れているマイケル・ジャクソンの古いビデオ・クリップを見る。
 デヴィッド・ジョーンズを出て、歩いてジョージ・ストリートへ戻る。途中でセンターポイントのスポーツ・ファッションの店を少し冷やかすが、結局ここでは何も買わなかった。妹は、先日入ったSDSという店で、またMamboのTシャツを物色したいというので、その間に姪を連れて、土産物店などを回って時間を潰す。
 ひと回りしてSDSへ戻って妹と合流、バスで中華街近くまで行き、マーケット・シティへ入る。ファクトリー・アウトレットのフロアでしばらく妹に自由に回ってもらい、その間に再び姪を連れて、下のマーケットを見に行く。正規の終了時間は午後4時半だが、それを少し回っているとはいえ、ほとんどの店はまだやっている。姪は「お父さんとお兄ちゃん」にネクタイを買ったので、同じ店でこちらも数本ネクタイを買う。
 待ち合わせ場所にした上のカフェに戻ると、妹の方が先に来て待っていた。それから一緒にアウトレットの店に行ってポール・フランクス(サルの顔のブランド)などを買うのに付き合う。
 ひと通り買物を終えたのは午後7時過ぎ。待ち合わせは8時と8時半だったので、まだ余裕がある。ゆっくり歩いてQVBまで戻った。ところが、待ち合わせ場所にした「ジェット・カフェ」が日曜日は早く閉まっている。とりあえず、ジョージ・ストリートを挟んでタウンホールの向かいにある「アレクサンダー」に入ってお茶を飲む。
 待ち合わせの時間に合わせてQVB前に立って待っていると、まず息子と甥が来たので「アレクサンダー」に行かせる。妻と娘が来てから「アレクサンダー」へ行き、全員揃ってバスに乗り、中華街へ行く。
 中華料理より、焼肉ということになり、先日、大学の日本人学生会で食事をした焼肉店に行く。このところ外食で満腹というのが続いていて、体重も増えてきているが、来客と同席しての豪勢な会食も今夜で最後なので、気にせずに食べる。
 歩いてQVBまで戻ると、10時52分の290番バスまで30分以上時間がある。娘と一緒にベースメント・ブックスまで戻り、娘は安い「スレイヤーズ」のビデオを、こちらは本を買う。幸い、バスに間に合うタイミングで戻って、みんなと一緒にバスで帰宅した。
 今日は、こちらの気候としてはけっこう蒸し暑い。また、明日は出発とあって、甥は遅くまでおきて荷物を詰めなおしている。息子が私の寝床で寝てしまったので、玄関を網戸だけにして廊下に寝る。
■ 2001/12/31 (Mon)
ゲストが帰り、年も暮れる
 朝は6時に起きて。妹一行を空港に見送る準備をする。ばたばたと準備をして、7時頃家を出る。見送りには妻と息子も行くのだが、娘だけは体調が悪いようで、空港には行かないことになる。
 バスでウィンヤード駅まで行き、電車で国際ターミナルまで直行する。日本航空のカウンターはカンタスとはちょうど逆の位置になり、鉄道駅から一番遠い一角になる。幸い、それほど待たずにチェックインを済ませることができた。
 ゲートに入るまでまだ1時間以上余裕があるので、フード・コートへ行って朝食をとりながら話をすることになったが、こちらは、ぎりぎり最後の買物をしたいという妹と一緒に、売店を見て回ることになった。結局、昨日スポーツ・ファッションの店で冷やかしたのと同じようなクリケットのオーストラリア代表チームのジャンパーと帽子を買う。
 10時にゲートへ送り出し、こちらは電車で帰宅の途につく。ウィンヤード駅で292番バスに乗り換え、帰宅し、しばらく休む。昼過ぎに、妻と2人で歩いてノース・ライド・センターの郵便局へ預かられている小包を取りに出かけたのだが、今日は休みになっていた(大晦日でも営業している郵便局は多いのだが)。
 マコーリー・センターへ買物に行くことにして、506番バスでセンターまで行き、ウールワースで買物をして459番バスで帰宅する。
 今日はとにかく(シドニーとしては)蒸し暑い。風呂に入って、その後は下着姿で過ごしていたのだが、どんどん汗が出てくる。しばらくエアコンを入れて身体を冷やしてから、寝室の中では比較的涼しい妻の寝床を借りて昼寝をする。
 目覚めるともう夕方になっている。クリスマス・ツリーを息子と片づけて、イルミネーションを付け直す。
 今日は大晦日なのだが、テレビ番組表を見ても、ただの月曜日という感じである。かろうじてチャンネル9が、8時50分から特番を組んで、シドニーの花火を中継するようだ。チャンネル10は「アラビアのロレンス」、他局もプライム・タイムには映画をやっているところが多い。当たり前だが、レコード大賞や紅白歌合戦のような番組も、2001年を振り返る報道特番も見当たらない。
 とりあえず、チャンネル9を録画しながら花火を見る。途中で外へ出て、近くの眺めが良い通りまで家族全員で行ってみると、近くの人たちがその通りに集まって、結構混みあっている。ほんの僅かの間だったが、テレビではなく直接遠望したというのも、それはそれで面白かった。ふと夜空を見上げると、満月に近い月が青白く輝いている。ここのところ、煙のせいでオレンジ色の月が続いていたが、上空の空気もきれいになって年を越せるということである。
 夕食は、息子と妻が、ポテトグラタンなどを作る。
 さらに遅い時間になってから、そばはないのだが、讃岐うどんがあったので、「年越しうどん」を茹でて食べる。
 シドニー時間では2002年がやってきたが、2時間の時差がある日本の新年までは起きていられそうにない。
 娘は食堂のベッドをそのままの位置で自分のものにすると宣言して、荷物を運んで寝てしまう。息子ははじき出されて、私の寝床で寝る。そのあおりを受け、また、今夜も蒸し暑いこともあり、昨晩同様廊下に寝る。


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