私的ページ:山田晴通
[年記]:2001年を振り返る
このページは、滞在先のマコーリー大学の夏休みが明けた1月7日からまとめはじめたのですが、結局10日までかかってしまいました。昨年よりさらに少し遅れてまとめたことになります。この先が危ぶまれます。
例年どおり、「十大ニュース」を列挙するという形で2001年を振り返ります。
- はじめての海外生活。(8月〜)
研究室のニュースの方でも紹介するように、4月からシドニー総領事館に在留届を出して、海外居留民となった。7月末に再渡航して、8月上旬からは家を借りて住むようになった。
- 日記が続く。(8月〜)
昔から日記は続かない方で、いつも三日坊主だったのだが、海外渡航の際に記録を残そうと思い、4月から5月のオーストラリア渡航の際と、7月の欧州渡航の際に、ウェブ上に日記を上げるようにした。7月末からのオーストラリア滞在中も、日記が続いている。けっこう大変なので、帰国して業務が忙しくなれば止めてしまうつもりだが、一年のうち半分以上の日記が残っているというのは人生で初めてのことだ。
- 伯父が亡くなる。(11月)
子供の時からずいぶん可愛がってもらった伯父(母の姉の夫)が亡くなった。葬儀等には帰国することができず、とても残念だった。旧制高校出身者らしい豪放さをもった、明朗で、立派な大人だった。合掌。
- 体重がやや減る。(通年)
一昨年まで、毎年1kgずつ体重は増えていた体重が、昨年は横ばいになり、今年はついにごく僅かだが減るようになった。といっても、一直線に減っているわけではない。渡豪後、車に乗らず、歩く機会が増えたせいもあって、一時は空腹時83キロまで体重が落ちた。年末にゲストが来て毎日外食する生活を十日以上続けたら、86キロまでリバウンドしたが、その後はすぐに、84キロと85キロの間で安定している。
- 穂高に新しい薪ストーブを入れる。(11月)
穂高の家の薪ストーブの煙突が壊れてしまったので、専門家に修理を頼んだのだが、いろいろ考えた末に、ストーブ自体を入れ替えて全面的に更新する決断をした。結構な金額が必要になるので、冬のボーナスで決済することにして、工事の立ち会いなどは実家に任せた。まだ、現物は見ていないが、今から使うのを楽しみにしている。
- カモノハシを生で見る。(4月)
小学校の頃、卵を産む哺乳類として図鑑でその存在を知って以来、ずっと気になっていたカモノハシを、タロンガ動物園でじっくり見る。思っていたより小さい。大きな水槽の中を、気持ちよさそうにすいすいと泳いでいた。
- 子供たちの学校へ何度も顔を出す。(通年)
オーストラリアに子供たちを同行させたため、それぞれが通っている学校に年度途中での休学の手続きなどをしに行ったりする機会が多く、子供たちの学校へよく出かけた。渡豪後も、学校探しやら、入学後のいろいろな用事やらで、学校へ行く機会が多かった。
- 京都を歩く。(3月、6月)
今年はなぜか京都に縁があり、烏丸通り沿いにあちこちへ足をのばした。特に、6月の同志社大学での学会の際には、同志社出身のY君の案内で、あちこち回ることができて楽しかった。
- シドニーで現代美術を堪能。(4月〜)
シドニーでは、現代美術館によく足を運び、いろいろなものを楽しんでいる。象が描いた絵、トラックでギターを引っ張って道路を疾走する映像、プラモデルもどきの造形物、床に敷き詰められた大量のレモン、等々を、いろいろな展覧会で見る機会があった。日本の現代美術を紹介する「ネオ・トーキョー」という展覧会の会場では、生で奈良美智氏を見た。
- モバイル事始め。(4月〜)
モバイルはしない出来ない、と言ってきたのだが、ノートパソコンを持ち歩いて、旅先の宿で接続するという形で、研究室や自宅外でもインターネットを利用できるようになった。移動体通信ではないから、まだまだモバイルとはいえないのだが、最初の一歩であることは間違いない。ただし設定などは相変わらず他人任せなところが情けない。
- はじめての「サバティカル」に入る。(4月〜)
東京経済大学に移って7年目にして、初めて国外研究員(中期)となり、2002年度は授業を免除されて研究に専念することとなった。前の職場にはこうした制度がなかったので、教員になって16年目でようやく機会を得たことになる。
国外での受け入れ機関はオーストラリアのマコーリー大学で、派遣期間は7月末からの半年だが、4月に準備のために渡航し、この段階から客員研究員となった。
- 国際ポピュラー音楽学会で発表する。(7月)
国際ポピュラー音楽学会IASPMに参加するためフィンランドのトゥルクへ行き、小室哲哉の歌詞を素材に発表をした。
まったくの偶然だが、トゥルクは数年前に母親が趣味のコーラスの仲間との旅行で訪問した都市でもある。[発表の英文要旨]
- 富山県山田村で共同調査グループで、韓国江原道を訪問。(2月)
2001年度に取り組んだ富山県山田村の共同調査グループで韓国に渡り、ソウル大学の許先生らの案内で、江原道原州市などを訪問する。昨年のIGUの際の巡検で、やはり許先生に全羅南道の農村を案内して頂いたのと併せて、韓国の農村部への理解が深まった。
ちなみに2001年度の共同調査の成果は、金沢大学の神谷先生を中心に発表されはじめたが、こちらに責任のある総括的な論文の執筆は遅れている。共同研究者の皆様ごめんなさい。[関連論文]
- 英国でフィールド探し。(7月)
来年度以降に、本格的に活動する予定の研究会との関係で、英国でフィールド適地を探すため、これまで出かけたことのないミッドランドや北イングランドの都市を数カ所訪問する。また、ミルトン・キーンズでは、ニュータウン開発に関係するまとまった資料を入手できた。
- 3期生「卒業制作・卒業論文」ゼミは全員合格。(1月〜2月)
3期生の「卒業制作・卒業論文」の指導は、思いの外大変になり、論文提出後の追加指導が、正月休み明けまで続き、何とか全員を卒業させることができた。2名が他大学の大学院へ進学、1名が海外留学(行き先はジャマイカ)、残り7名はいちおう就職という感じである。
- 法政大学大学院の集中講義。(2月〜3月)
前年末に、年度中の集中講義をしてほしいという依頼が来て、法政大学の大学院へ出かけることになった。市ヶ谷キャンパスからお堀を挟んで反対側の大学院等で、変則的だったが通年相当分の講義をする。講義の後は、受講者有志を、四谷のジャズ喫茶や、新宿の歌声喫茶へ連れてゆく。
- 久々に論文翻訳を手がける。(8月〜)
オーストラリアへの再渡航後、とりあえずおもしろい論文を見つけては斜めに読むというように心がけたのだが、そのうち数本の論文については精読する気になり、数年ぶりに翻訳を発表するつもりで作業に取りかかる。年内には一つも活字にならなかったが、来年には何本かが活字になるだろう。
- 農村情報システム協会のスタッフと、松本平で現地調査。(1月)
前年に引き受けた社団法人日本農業情報システム協会の仕事の関係で、協会のスタッフ3名と松本平の情報化の現場を訪問する。それぞれ受け入れ側も、私一人で行くときとは様子が違うので、新鮮に感じられる部分も多かった。
- 大学院の自主ゼミ合宿。(7月)
今年は授業をもっていないのだが、M1を中心に大学院の諸君と接する機会は結構あった。特に、渡豪前には、自主ゼミ合宿と称して大いに歓談した。
- いろいろな会に呼ばれる。(2月〜6月)
いずれも大規模な会合ではないが、2001年はいろいろなところから声がかかった。サバティカルとの関係もあって、引き受けやすかったせいもある。
1月の東京西地区大学図書館相互協力連絡会、2月の筑波大学人文地理談話会、5月の日本サウンドスケープ協会、6月の地域地理科学会と、いずれも自分がメンバーではない会で、それぞれまったく違う話を、全く違う環境ですることになり、準備をしながらこちらも学ぶことが多かった。
山田が選んだ世間の「十大」ニュース
- 世界貿易センタービルの崩壊。
耐震構造が必要ない所に建っているビルのもろさが如実になった。ロー・テク/ハイ・プロファイルのテロリズムという寸評が印象に残った。
- 対テロリズム戦争。
平和のための戦争という言い回しは、これまでも戦争の度に使われてきたのだろうが、ここまで普通名詞的な命名の戦争(宣戦布告はあったのか?)も画期的ではなかろうか。そういえば2001年に亡くなった河島英五が、アフガニスタンを放浪した話なんて言うのを大昔に聞いたような気がする。(←未確認ですが、情報をご存じの方は教えてください)
- 「ブラック・クリスマス」ブッシュファイア。
クリスマス休暇中ずっと燃え続けたニューサウスウェールズ州のブッシュファイア。滞在中にこんな事態に出くわすとは思っていなかった。いったん自然発火による火災が起こった後、しばらくすると放火犯が跋扈する、というやりきれない展開であった。
- 池田小学校児童殺傷事件。
自分が1年だけだが在籍していた小学校という縁もあって、この事件は印象が強烈だった。PTSDなんて言葉が一般化するというのも、嫌な世の中である証拠だろう。
- 省庁再編。
こういうのは、時間が経ってからでないと評価は難しいのだが、なんとかよい方向に向かう契機となってほしい。それにしても、新名称を英文で見ると、実に不格好だ。
- 小泉内閣の成立。
昔、旧神奈川二区の住民だったこともあり、小泉純一郎は身近に感じる政治家の一人だった。彼も「変人」のようでいて、考え抜かれたマキャベリストなのだろう。少なくとも森政権よりはマシだし、(寝技ではとうてい敵わない相手にて対して)言葉の力を重視する姿勢は、立場の違いはあっても、大いに評価できる
- 自民党大勝の参議院選挙。
「扇千景、落ちかけ」((c) 息子)
自民党で単独過半数に届いたのだから、大したものである。制度の変更でタレント議員が叢生したのもご愛敬だ。しかし、大仁田先生が懲罰委員とは。ファイアー!
- 外務省の一連の「不祥事」。
何も知らない高校生の頃、外交官には随分とあこがれたものだ。田中外相の鞄持ちになっている大学の友人がテレビの画面に映るたびに、彼だけでなく、外務省に入った友人たちのことが察せられて、やりきれない気持ちになる。
しかし、こうした綱紀粛正は、やりやすい所だけをやっても意味がない。情報公開がもっともっと必要だ。
- 「サッチー」脱税で逮捕。
こちらは個人の犯罪。しかし、ことが明らかになるに連れて報じられる、この人の堂々といい加減に無理を通し続けるという厚顔ぶりは、あきれるのを通り越して疲れるという感じ。
- イチローの活躍。
実力者には、世界中で道が開ける。これもグローバライゼーションである。それにしてもMVPまでとは驚く。
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