私的ページ:山田晴通
[年記]:2000年を振り返る
このページは、年が明けた1月4日からまとめはじめたのですが、結局10日までかかってしまいました。あやうく年記が三年坊主になってしまうところでした。例年どおり、「十大ニュース」を列挙するという形で2000年を振り返ります。
- 後厄の年。(通年)
前年の本厄に引き続き後厄の年。前年同様に業務の停滞がしばしばあり、周囲に迷惑を掛け通しだった。高脂血症だの高血圧だのと定期検診でいろいろ言われたものの、倒れるようなことは無かったのが不幸中の幸いである。しかし、体力の衰えを痛感すること多々。
- しばしば呼出を食らう。(通年)
子細は省くが、長男の高校にしばしば呼び出される事態になった。そんなことがなかった自分自身の高校時代を顧みて、ほんの紙一重なのにと思うことが多かった。
- 軽トラックが壊れる。(6月)
穂高の家の引越の際に購入して、大活躍した中古の軽トラックが、中央道を走行中に不調となり、下の道に降りてしばらくして完全にオシャカになってしまった。このトラックで、大学で廃棄された黒板やら、机やら、書架やらをけっこう運んだので、酷使しすぎたためだった。
- 体重が横這いになる。(通年)
20歳のときは体重が67kgだった。以降、きちっと測ったように、毎年1kgずつ体重は増えていたのだが、昨年から今年にかけては体重の伸びが止まった。成長が止まったわけではなく。脂肪の増加と筋肉の衰えがバランスしたということだろう。今後どうなることやら。
- 穂高の本を段ボールから出す。(通年)
前年来、穂高の家に集中させていた不急の書籍類の段ボールは数十箱に及んでいた。今年は、穂高の家に行く度に少しずつ開封し、書架に並べていった。最終的には、年末に全ての段ボールをとにかく開封し、かなりのところまでを書架などに並べた。完全に配架できたわけではないが、概ねのところは何とかなった感じである。
- 久々の高校クラス会。(7月)
久々に高校3年のときのクラスで、クラス会があった。仕事があったので途中からの参加になった。卒業後23年余りになるが、当時のクラス担任だった福井一夫先生の定年退職を受けての会だったこともあり、クラスの半数が集まるという盛会だった。[同窓会誌の記事]
- バックギャモンに再会。(通年)
学生の頃に覚えて熱中し、松本に住んでいたはじめの頃には悪友といろいろなローカルルールを作りながら遊び倒したバックギャモンだが、ここ十年くらいは、ほとんど遊ぶ機会がなかった。ところが春先に実家に導入されたウィンドウズ・マシンにゲームとしてバックギャモンが入っているのを発見。以来、実家に帰るとこればかり遊ぶようになった。そのうち息子が、やはりパソコンでルールを覚えたので、家にあった小さなボードで対戦をするまでになった。
- 降灰を体験。(10月)
日本地理学会で出かけた鹿児島で、数年来の規模だという本格的な降灰を経験した。途中から雨混じりになり、降り積もった灰は泥状となって道路上の白線も何も見えないような状態だった。この鹿児島行きは、行きがけの倉敷訪問、屋久島巡検、帰りの熊本・岡山訪問、往復の「なは」乗車などと楽しみも多く、印象に残る旅となった。
- フェルメール「地理学者」を観覧。(6月)
異常といってもよい人気となった大阪市立美術館の展覧会「フェルメールとその時代」に出かけた。思わず三十年前の万博を思い出すような大行列の果てで、やっと目的のフェルメール作品の部屋にたどり着き、群集の中から「地理学者」などを鑑賞というより、見物し、フェルメール以外の作品にも後ろ髪を引かれる思いだったが、大慌てで仕事のあった浜松へと向かった。
新世界の側から動物園の上を渡って美術館へと向かうルートは、様々な事を考えさせてくれた。
- 東京私大教連の中執を退任。(11月)
3期務めた東京私大教連(東京地区私立大学教職員組合連合)の中央執行委員を退任した。この3年間は、もっぱら情宣と組織を担当した。その意味では、数年来の目標だった50組合の結集を任期中に実現できたことは幸いだった。大学全体に厳しい時流の中で、後退戦を強いられている労働運動の先行きはとうてい楽観視できない。
- JASPMの事務局業務を最後まで停滞させる。(通年)
前年から引き続き日本ポピュラー音楽学会(JASPM)事務局の仕事が停滞し、関係者に大いにご迷惑をお掛けした。11月の大会までで理事を降り、事務局は2001年初頭から東京工業大学細川周平研究室へ移ることとなった。
- 国際地理学会議で韓国へ。(8月)
国際地理学会議IGCに参加するため韓国へ渡り、釜山、光州、ソウルなどをまわった。光州では、光州事件の記念墓地などにも足をのばした。韓国ではシンポジウムに呼ばれて報告した経験が2回あるが、海外で開催された国際学会の場で発表するのは初めての経験だった。[発表の英文要旨]
- 富山県山田村で共同調査を実施。(5月〜)
財団法人電気通信普及財団から研究助成をいただいて、ソウル大学の許先生、金沢大学の神谷先生、岡山大学の金先生と共同研究を行っている。5月に予備調査、11月に本調査を行い、その後、アンケートの分析などに取り組んでいる。
- 高村君が大学院生になる。(4月〜)
数年前から研究室の業務をいろいろ手伝ってもらっていた高村君が、大学院コミュニケーション学研究科に入学し、遂に東経大生(大学院生)となった。渡辺潤先生のゼミでしごかれている。
- 「卒業制作・卒業論文」ゼミがふくらむ。(4月〜)
1期生、2期生とも一人ずつだった「卒業制作・卒業論文」の指導が、一挙に十名になった。ゼミ生の多かった山中速人先生が中央大学へ移り、旧山中ゼミの一部をまとめて引き受けたためだが、本格的にゼミらしい形で「卒業制作・卒業論文」ゼミを運営したのははじめてだった。全員が締切までに論文を提出したが、単位が出せるかどうかは別問題。
- 日本大学文理学部の非常勤講師を退任。(9月)
十カ年にわたって出講した日本大学文理学部地理学科の非常勤講師の仕事を退任した。松商学園短期大学に在籍していた頃に、最初に頂いた継続的な非常勤講師の仕事だったので、感慨深い。長い間のスタッフ各位のご支援に感謝である。
ちなみに、講義は前期で終了したのだが、年度中は非常勤講師としての身分が残っているらしく、文理学部からは今年もお歳暮に洗剤をいただいた。こちらも感謝。
- 相模女子大学短期大学部へ非常勤講師として出講。(4月〜9月)
一年だけのワンポイント・リリーフで相模女子大の短期大学部へ「コミュニケーション論」を講じに出かけた。短大生ばかりに教えるのは、五年ぶり。しかも、良く考えたら女子大で教えるのは初めてで、久々に短大独特の雰囲気を味わった。
- 農村情報システム協会の仕事をする。(8月〜)
この種の仕事はほとんどしてこなかったのだが、縁があって社団法人日本農業情報システム協会の中に置かれた広域連携方策検討委員会の委員を引き受けることになった。こうした委員会の仕事はやはり自分に向いていないと反省しながら、何とか務めている。
- ソウルを訪れ、戦争記念館などを訪問。(3月)
ゼミ生の鄭君が卒論で取り上げる戦争記念館を見学するため、ソウルを訪問した。現地では漢陽大学の田中先生にいろいろとお世話になった。感謝。
帰途は、釜山を経て博多までビートルII世に乗った。
- 2期生が9月卒業。(9月)
山田ゼミ唯一人の2期生である馬谷君が、半年遅れの9月に卒業した。『両丹日日新聞』を取り上げた卒論はなかなかよかったのだが、取りこぼしの単位があって3月には卒業できなかった。
現在は、某大手メディアでアルバイトをしながら、エディター修行中。
- 番外その1:田辺裕先生が国際地理学連合副会長に。(8月)
山田の大学院での恩師である田辺裕先生(現在は、慶應義塾大学)が8月の総会の際に国際地理学連合副会長に就任された。おめでとうございます。というだけでなく、できることを見つけてお手伝いしていかないといけない。
- 番外その2:ゼミの留学生ふたりが大学院に合格。(秋)
3年、4年と山田ゼミだった韓国からの留学生ふたりが、それぞれ志望していた大学院に合格した。朴君が中央大学、鄭君が慶應義塾大学の大学院に進学する。おめでとうございます!!
山田が選んだ世間の「十大」ニュース
- 田中康夫長野県知事の出現。
文士としての田中康夫は、個人的にも好嫌あい混じる存在だったが、知事としてのパフォーマンスはなかなかのもの。青島幸男の失敗から学んでいる部分も多いのかも知れない。
- 米大統領選挙フロリダ州選挙結果確定までのドタバタ。
日本には戦前の体制が残っている部分や、明治の体制が残っている部分も多いが、開拓時代以来のローカルコミュニティ重視の民主主義制度や、何でも訴えて闘う訴訟社会の断面がかいま見えて面白かった。次回の米大統領選挙には、国際監視団を送ろう。
- 金大中韓国大統領の平壌訪問。
そう簡単には進展しないだろう、というのが率直な印象だが、今年の夏にはソウルで北側の離散家族の一行を目にしたりした関係で、やはり金大中の勇気というか、政治的な胆力を実感した。しかし、やはり長い目で見ていく必要があるだろう。はじめの一歩である。
- そごうグループの「倒産」。
松商学園短期大学で商業学の教鞭を執っていた頃、百貨店業界の動向を見ていて、そごうだけは本当に訳が分からなかった。(山田のようなテンプラではない)商業学の専門家だって、あんな仕掛けで資金が引き出されて、「大鑑巨砲主義」の出店戦略が支えられていたことを当時から理解していた人はごく一部だったのだろう。水島氏のような蓄財をしている向きは、まだまだ社会のあちこちにいそうだ。
- 旧石器出土の捏造発覚。
「考古学ほど、学問の世界の大きさに比して社会的影響力の大きな学問はない」学生の頃、授業で教えられた言葉を思い起こした。
むしろ、この問題の発覚以前に、出土品に疑義を呈していた研究者たちの地道な努力と勇気に敬意を表したい。
- 「雪印」の操業停止。
大阪工業の食中毒菌汚染に端を発し、全工場の操業停止に至った大事件。企業の危機管理について、多くの教訓と示唆を残した(つまり、対応に関しては否定的に評価すべき点も、肯定的に評価すべき点もあるということ)。
スーパーやコンビニの棚が、事件以降どのように推移したかを見ていて、消費者に身近な食品業界の巨大企業が、いかに大きな存在かを再認識させられた。
- 新潟少女監禁事件の発覚。
事実は小説よりも奇なり、を地で行く事件。思春期以前の少女を監禁、隔離するという奇猟性からは、人体実験というか、精神分析の臨床といった方向に連想が展開していく。「人を人とも思わない」つまり「人権を無視する」ことをめぐっての議論は、まだまだ多様な形をとって続いていくのだろう。
- 少年犯罪と教育論議。
少年犯罪(というより、その報道)は、いつも何かのために利用される。今年は何回も、「情報機器の普及」と「少年犯罪」を結びつけたりする議論を聴いたり、専門家としてどう思うかと質問された。そんな単純な結びつけができるわけはないのだが、自分の主張したいことに「少年犯罪」を絡めたがる輩は多い。
少年法が改正(改悪)され、教育基本法が(教育勅語を奉じる文教族の宰相の下で)危機に曝されている。制度をいじることで問題が解決するという幻想はいつまでも無くならない。教育現場の混乱という形でつけの後始末に追われるのは、いつも現場の教員、職員である。
- 三宅島の全島避難。
これだけ長期にわたっての全島避難とは、誰も予想しなかったことだろう。有珠山の噴火の陰に隠れるような感もあるが、こちらの方が「根こそぎ感」は大きい。四半世紀前に訪れた時ののんびりした光景が幻のように思い出される。
- 「女性上位」のシドニー五輪。
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