コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2005

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2005/01/17 古雑誌を漁る.
2005/02/18 「北杜市」の「町の駅」.
2005/03/11 白い日、黒い日.
2005/03/22 お詫びと訂正=バレンタイン・チョコの由来.
2005/08/05 「激しく同意」する?
2005/09/05 即答のなかった質問.
2005/10/20 ただ今、87キロ.
2005/11/29 弘前と松本.


2005/01/17 

古雑誌を漁る

 この年末年始には、松本や東京などで足しげく古本屋に通った。ちょっとしたきっかけがあって、ある雑誌のバックナンバーを揃えられるだけ買い漁ってみようという気紛れを起こしたのである。
 『ミュージックマガジン』は、一九六九年に『ニューミュージックマガジン』として創刊された月刊誌で、少々取っ付きにくい印象もある硬派のポピュラー音楽専門誌である。高校生だった頃、この雑誌を読んでいる音楽好きの友人がいて、何だか難しいものを読んでいるなと思った。私もその頃から音楽が好きだったが、読んでいた雑誌は『明星』や『平凡』だったから、大違いである。その後も、書店でこの雑誌を眺めることはあっても、自分で買うことはほとんどなかった。
 数年前に知人から、七〇年代後半を中心に『ミュージックマガジン』を百冊近くまとめて譲ってもらったのだが、書架に納めたまま余り利用していなかった。ところがその後、ポピュラー音楽を研究テーマにする学生の論文指導をするうち、この雑誌の価値を再認識し、既刊号を少し集めてみようかという気になった。
 古い雑誌は、古本屋でも扱いがまちまちで、雑誌を全く扱わない店もある。逆に、週刊誌を含め、過去の雑誌の専門店もあるが、棚の大部分は、過去のスターを追うマニアが喜びそうな芸能誌の類が占めている。
 雑誌類は、一年なり数年分が揃いで値がつくこともあるが、ばらばらの単品の方が多い。一冊の値段は、店によって、また本の状態などによって、異なってくる。今回は、あちこちを回って、少しずつ買い揃えていったのだが、『ミュージックマガジン』の場合、一九八〇年代以降の号は高くても五百円、安いと百円くらいで、中には五十円という店もあった。
 買い漁りでは、手始めに馴染みの古本屋を回って相場の見当をつけ、安くしている店から順にまとめ買いを繰り返していく。その合間に、最近よく見かける大型店鋪を構えたチェーンの古本屋などにもまめに立ち寄って、未入手の号が棚にないか見て回る。先だって、東京から車で戻ったときには、沿道沿いの大型店を二日で十数店をはしごした。もっとも、このときは肝腎の『ミュージックマガジン』がなかなか見つからず、ついつい別の雑誌や本を買った。
 こうして、百冊弱だった手元のコレクションは、ひと月ほどで三百冊を超えた。『ミュージックマガジン』は、別冊などを除いて現在まで四百三十号が出ているが、その七割が手に入った計算になる。しかし、ここまでに支払った金額は、まだ四万円足らずである。未入手は、九〇年代が十冊、八〇年代が四十冊だが、それ以前は七十冊近い。
 残っているのは、値段も高く、なかなか売物がない七〇年代のものが多い。八〇年代以降の未入手は、現物に巡りあっていないだけだ。しかし、七〇年代となると、現物があっても七百円から千数百円、創刊年の一九六九年のものでは二千円ほどと、少々高い値がついている。店頭で見かけ、手にとってみながら棚に戻すときには、今買わないと縁がないかな、とか、状態がよくて値段も安い出物があるかも、といった思いが交錯する。悩ましいといえば確かにそうだが、冷静に考えれば、三十年以上前の現物が、現在の新刊の定価と大差ない水準で買えるのだから決して高くはない。何やかやと思い悩むのは、悩むことそれ自体が古本や古雑誌を買う楽しみの一部になっているからなのだろう。

 その後、収集はさらに進みました。
 現状については、「
(New) Music Magazine バックナンバー所有状況」のページをご覧ください。


2005/02/18 

「北杜市」の「町の駅」

 平成の大合併が各地で進んでいる。長野県内では、いろいろな話が出たり消えたりしながら、ようやくいくつかの大型市町村合併の姿が固まってきたところだ。合併には、松本市が、梓川村、安曇村、奈川村、そして四賀村を併せて拡大するケースのように、中核となる都市が周辺町村を市域に組み込むという形もあれば、今秋に、明科町、豊科町、穂高町、堀金村、三郷村が合併して成立する安曇野市のように、それまで町村しかなかった地域が一つにまとまって新市になる形もある。県内では前者のパターンによる合併は各地にあり、駒ヶ根市などが合併して中央アルプス市となるように新たな市名がつく例もあるが、後者のパターンで話がまとまったのは安曇野市だけのようだ。
 お隣の山梨県では、平成の大合併で新たに四市が誕生した。二〇〇三年四月に誕生した南アルプス市は、カタカナの市名でも話題になった。また、二〇〇四年秋には、甲斐市、笛吹市、北杜市が相次いで出現した。いずれも、それまで町村しかなかった地域が、広域で合併して新市となったところだ。中央自動車道や国道二十号で東京へ向かうときには、北杜市、甲斐市、笛吹市の順に市域を通過することになる。
 市境に立っている市名の看板などには、もちろん新市名が書かれているが、行き先案内などでは旧町村名が(おそらくは現在の地区名として)記されていることが多い。
 中央道のインターチェンジなどの名も、長坂インター(北杜市)、双葉サービスエリア(甲斐市)、一宮御坂インター(笛吹市)といった具合に、旧町村名にちなんだ名称のままである。JR中央東線も、この三市を走っているが、駅の名称には市名は表れない。長坂、竜王、春日居町といった駅名は、しっかり残っている。インターチェンジの名称にせよ、駅名にせよ、必要に応じて徐々に変わっていくのかも知れないが、とりあえずは旧町村名の名残りということになるのだろう。
 国道二十号を走っていて面白かったのは、旧武川村である。この村は小さいながらなかなか元気のよい村だった。国道沿いの村境には、「ようこそ武川村へ」という看板が立っていたし、隣の旧白州町に「道の駅」ができると、これに対抗して村独自の「村の駅」を作り、地元物産の販売などをしていた。
 昨秋の合併で武川村も白州町などとともに北杜市の一部となったが、しばらく経ってから国道を走った時に立ち寄ってみると、「村の駅」は、何と「町の駅」と看板が変わり、地区名称は「武川町」になっている。確かに「北杜市武川村」というのは「市」に「村」があって奇妙だから、地区名は「武川町」になったのだろう。「町の駅」の看板の替え方も「村」を「町」に変えただけ。どさくさで「村」が「町」になったような感じが、何とも微笑ましかった。
 旧武川村と韮崎市の境にあった看板は「ようこそ北杜市へ」とメッセージが取り替えられていたが、沿道を眺めていても「北杜」の名を冠した看板類はほとんどない。新しい都市づくりの内実が伴うのは、これからということなのだろう。
 ちなみに「北杜」は「ほくと」と読む。地元以外の人は、読み方に少し戸惑いそうだ。

 文中で言及されている、駒ヶ根市を中心とした市町村合併の動きは、この原稿を書いた段階では「中央アルプス市」という新市名が決定し、注目を集めていましたが、その後、住民投票の結果、合併そのものが白紙撤回となりました。


2005/03/11 

白い日、黒い日

 この項の記述のうち、青色の文字で示した文は不正確な表現になっています。次項「お詫びと訂正=バレンタイン・チョコの由来」と併せてお読みください。

 三月十四日は「ホワイトデー」である。二月十四日の「バレンタインデー」にチョコレートを贈られた男性が自分の気持ちを込めてお返しを贈る日だ。私が十代だった三十年ほど前には、「マシュマロデー」とか「クッキーデー」などと言っていた。それが「ホワイトデー」になり、男性からの贈り物も、クッキーやマシュマロでは済まなくなってきている。デパートでは結構高額の商品まで含めてホワイトデー目当てのセールをやっている。
 もともとバレンタインデーは、恋人同士が贈り物を交換する日だった。それが、日本で女性からチョコレートの贈り物とともに愛情を告白する日になったのは、高度経済成長期の一九五八年にチョコレート会社のメリーチョコレートが始めたキャンペーンの結果だった。「バレンタイン=チョコレート」という発想は、日本起源なのである。
 その後、チョコレート業界の成功にあやかろうと、他のお菓子屋さんや花屋さんもキャンペーンを試み、ひと月後のお返しのキャンペーンが打たれた。その決定版として定着したのが、飴菓子の業界が仕掛けて一九八〇年から始まったホワイトデーである。こちらは完全に日本生まれの習慣である。
 しかし、日本式にチョコレートを贈るバレンタインデーやそのお返しをするホワイトデーの習慣は、お隣の韓国にも広まっている。同じ東アジアでも、中国では、バレンタインデーは西洋式をアレンジしたものでメッセージ入りの造花などを男性からも贈るし、ホワイトデーの習慣はないらしい。日本起源の習慣が韓国だけに輸出されたのも、両国社会の文化的な近さが反映されているのだろう。
 面白いことに韓国には、日本式のバレンタイデーとホワイトデーに加えて、四月十四日に「ブラックデー」なる日がある。これは、バレンタイデーに好きな男性に贈り物をしたのに、ホワイトデーにお返しをもらえなかった(つまり振られてしまった)女性たちが、黒い服を着て集まり、韓国風の中華料理で黒い餡かけ麺である「チャジャンミョン」を食べるという日である。
 ブラックデーが自然発生的に始まったのは十年余り前らしい。もともと洒落のきつい冗談だったのだろうが、最近では、彼女のいない男性も黒い服で過ごすようだ。日本でも韓国でも、幸せな恋人たちのイメージは社会に溢れており、恋人がいない若者たちへの一種の社会的圧力になっている。「恋人が欲しい」であれ「恋人なんか要らない」であれ、ちょっぴり抑圧されている若者たちの静かな自己主張がブラックデーを生んだのであろう。


2005/03/22 

お詫びと訂正=バレンタイン・チョコの由来

 前回(三月十一日付)、「白い日、黒い日」と題して、「ホワイトデー」と、韓国の「ブラックデー」の由来についてのこのコラムで取り上げたところ、内容に重大な誤りがあるという指摘をいただいた。問題となった箇所は、以下の一節である。

 「もともとバレンタインデーは、恋人同士が贈り物を交換する日だった。それが、日本で女性からチョコレートの贈り物とともに愛情を告白する日になったのは、高度経済成長期の一九五八年にチョコレート会社のメリーチョコレートが始めたキャンペーンの結果だった。「バレンタイン=チョコレート」という発想は、日本起源なのである。」

 この記述は、手元の事典類やインターネット上の情報を参考に取りまとめたものであり、また、従来かなり広く信じられてきた説明でもあるのだが、結果的には事実と異なっており、誤解を招く表現となっている。
 もともと男性からも、女性からも贈り物をし、またその品物も何でもよかった(むしろカードや花などが一般的だった)のが、西洋のバレンタインの習慣である。日本でも、この習慣に目をつけ、バレンタインに贈り物をしようと宣伝した例はいろいろあり、チョコレートをバレンタインに結び付けて売ろうという試みも、一九五〇年代なかば以降には散発的にあったらしい。さらに遡れば、戦前の一九三六年に、モロゾフが英字新聞にバレンタインとチョコレートをからめた広告を出したという記録もある。
 しかし、バレンタインといえばチョコレート、という図式が定着したのは明らかに一九六〇年代以降のことである。そして、これと関連づけてしばしば言及されてきたのが、一九五八年のメリーチョコレートカムパニーの取り組みであった。この年のバレンタインの時期に、メリーチョコレートは、新宿伊勢丹の売り場に「バレンタインセール」と手書きの看板を出し、チョコレートを売った。バレンタイン用としてハート型のチョコレートが特別に用意されたらしいが、売り上げは微々たるものだったという。
 確かにこのメリーチョコレートの取り組みは、チョコレートをバレンタインに結びつけてバレンタイン用のチョコレートを売ろうとした最初の取り組みであった。ただし、断片的な形では、いち早く同じような取り組みをした別の会社もあり、例えばハート型のボックスに入れたチョコレートは、いち早くモロゾフが一九五一年に発売していたりする。しかし、このメリーチョコレートの取り組みを、(前回記したように)「キャンペーン」と称するのは、やや誇大な表現といえようし、実際、このメリーチョコレートの取り組みので「バレンタイン=チョコレート」という発想が定着したとは言えない。
 バレンタインとチョコレートの結びつきを、女性から男性への愛の告白というパターンと結び付けて定着させたのは、一九六〇年から数年間続けられた、森永製菓の「バレンタイン・ギフト」キャンペーンであった。当時、量産品メーカーである森永製菓は、バレンタイン用のチョコレートをわざわざつくることはできなかったが、主力商品だった「ゴールド」の売り上げを押し上げるためにセイコーの時計などを賞品とした懸賞キャンペーンを展開したのである。この企画の中心人物だったのが、現在穂高町にお住まいの小平裕さんである。小平さんの話は、市民タイムスも昨年八月一日付の文化面「余禄抄」でこのいきさつが紹介されていた。
 言い訳がましく聞こえるのは本意ではないのだが、小平さんがこの間の事情についてメディアに語るようになったのは比較的最近のことで、昨年二月のNHKのテレビ番組がそのきっかけであった。つまり、ごく最近まで、森永製菓のキャンペーンの功績は、その後のバレンタインの盛り上がりの陰で忘れられかけていたのである。
 というわけで、前回のコラムのうち前出の部分の第二文(「それが・・・結果だった」)は、次のように訂正させていただきたい。

「それが、日本で女性からチョコレートの贈り物とともに愛情を告白する日になったのは、高度経済成長期の一九六〇年に森永製菓が始めた懸賞キャンペーンの結果だった。これよりいち早く、一九五八年にチョコレート会社のメリーチョコレートがバレンタインセールに取り組んだことも特筆されるが、影響力は限られていた。」

 正確さを欠く文を綴り、同じ穂高町にお住まいの小平さんに失礼な結果となったことを深く反省し、お詫びする次第である。
 ちなみに、小平さんの記事が市民タイムスに載った昨年の八月は、英国とドイツに渡航していてほとんど日本にいなかった。市民タイムスの紙面をちゃんと読んでいればと悔やんでいる。


2005/08/05 

「激しく同意」する?

 前期の試験期間が終わり学生たちが夏休みに入る七月末から八月はじめは、大学教員にとっては、答案やレポートの採点に追われる忙しい時期である。特に、昨今ではセメスター制の導入で、前期だけで終了する科目が多くなっており、この時期に確定した成績をつける科目が増えてきている。一昔前なら学年度末にだけ経験された忙しさが、夏休みのはじめにも生じているのである。
 百名前後の受講者がいる授業で原稿用紙十枚程度のレポートを課すと、ざっと千枚以上の原稿を読むことになる。定期試験の答案なら、論述式の場合でも文字数は少々減るが、レポートと違って手書きの文字を追わなければならない。今期は本務校と非常勤先を合わせて受講者百名超の講義が四つあり、うちレポートが二科目、試験が二科目だった。試験のうち一科目は論述式ではなかったのだが、それでも合計してほぼ三千枚相当の文章を読んで、成績をつけなければならない。仕事とはいえ、集中力を要する作業である。
 レポートを読んでいると、内容よりも、言葉遣いに驚くことがときどきある。もちろん、誤字の類で困惑させられるのはいつものことだ。ワープロの変換ミスの見落としによる同音異義の間違いはいつも多いのだが、今年は「親聞」なる言葉を目にして面食らった。もちろん「新聞」のことである。
 しかし、今回一番考えさせられたのは「激しく同意する」という一句だった。その学生は、授業の中で読んだ論文の主旨に「激しく同意する」のだという。「反対する」のなら「激しく反対する」と装飾語がついてもさほど不思議ではない。しかし、少なくとも私より上の世代の読者なら「激しく同意する」という言い回しは奇異に感じられるだろう。「同意する」気持ちの強さを表したいなら、「強く支持する」とか「深く同意する」とでもなるだろうか。
 実はこの言い回しは、書き言葉とも話し言葉とも異なる独特の表現を発達させてきたインターネット上の匿名掲示板でよく使われる表現に由来している。「2ちゃんねる」に代表されるこうした掲示板では、誰かの書き込みに対して、別の誰かが強い同意を表明するとき「禿同」などと書き込むことが多い。これは「はげどう」、つまり「激しく同意(する)」を略して、ひねった表記である。
 もちろん、この学生のレポートは、掲示板のノリそのままに「この論文の主旨に禿同」などと書いているわけではない。しかし、本来は、一部の人々だけが用いる隠語のようなものが、適切な書き言葉を使うべき大学のレポートにも顔を出しているわけで、違和感は大きい。
 もっとも、もしかするとこれも日本語が自然に変化していく姿の一つなのかもしれない、と思い直すと、それはそれで許容してもよいのかなという気にもなる。もちろん私自身は「激しく同意」を論文やエッセイで使うことはないが、あと何十年かすれば、この言い回しも一般化しているのかも知れない。とりあえず「激しく同意」に、「激しく同意」するつもりはないが、「穏やかに許容」くらいはしておくことにしよう。


2005/09/05 

即答のなかった質問


 安曇野市の誕生まで、いよいよ残りひと月を切った。このコラムの末尾に記される「穂高町」の文字も、今回が最後となりそうだ。
 八月末のある夜、新市への移行についての地区別説明会に足を運んでみた。会場では、区長さんと役場の担当者数人が前に並んでいる。区長さんの挨拶の後、事前に全戸に配られていた新市への以降に関する冊子を使って、役場の担当者が淡々と一通りの説明をする。六、七十人ばかりの住民が集まった会場の末席で、冊子のページを追いながら、こちらも淡々と説明を聞いていた。
 説明の後で、質疑の時間になったが、数十秒間、誰からも声が上がらない。「沈黙は金」が美徳の謙譲精神あふれる国の美習なのであろうが、それも度を過ぎるのは考えものだ。呼び水になればと思い、挙手をして、一つ質問をしてみた。役場の担当者は、丁寧に補足説明をしてくれた。続いて、他の人たちからも手が上がり、質疑が進んだ。
 やがて、ぼちぼち質疑も閉めようかという頃合いになって、不意に気になることが頭に浮かんできた。少々ためらいつつ再度手を挙げて質問をしてみたのだが、今度の質問には即答してもらえなかった。答えにくい、あるいは答えようのない質問をしてしまったらしい。私がたずねたのは次のようなことである。
 合併前の各町村は、これまで「宣言」とか「憲章」とか、その他の形で、町づくり村づくりの精神というか基本方針を公にしていたはずだが、新市への移行でそれはどうなるのだろう。旧町村の「宣言」類はすべて無効になって、新市は市議会決議なり、その他適当な方法で、様々な「宣言」類を新たにやり直すのか。裏返せば、新市が改めて定め直さない限り、従前のものはなくなってしまうのか。
 あるいは、「宣言」の類は、社会への公約であり、一種の債務であって、新市はそれを引き継ぐのだろうか。その場合、ある町村が定めた内容は、当該地区だけに有効なものとして引き継がれるのか、それとも新市全域に及ぶのだろうか。
 こうしたことの扱いは、法的には明確に定まっているはずだし、それとは異なる扱いをする場合は合併協議のどこかできちんと決まっているはずである。しかし、その場で回答がなかったということは、役場の末端の職員にまでは、方針が徹底していないということだろう。
 各町村の町(村)民憲章や、穂高町の「人権尊重の町」宣言、堀金村の「暴力追放の村」宣言、等々、旧町村の定めた「宣言」類はかなりの数になるはずだ。きれいごとを並べたつまらない文章ばかりだという見方もあるかもしれないが、そこには地域で永く引き継がれてほしい内容が盛り込まれている。
 新市の誕生は、もうすぐである。旧町村の「宣言」類の扱いがどのようなものであれ、安曇野市の新しい都市づくりは、旧町村の町づくり村づくりの精神を活かしつつ、さらに前進するものであってほしいと、一住民として切に願っている。


2005/10/20 

ただ今、87キロ


 私は結構鈍感なのか、周りにいる人たちよりも暑さ寒さには頓着しないことが多い。それでも、肥満体型ということもあって、寒さよりは暑さの方が苦手である。
 ここ数年、夏場には英国やオーストラリアなど、日本に比べると涼しい海外に出かけることが多かったのだが、今年はずっと国内にいた。穂高にいるときは、せいぜい扇風機くらいでしのげる暑さだからまだよいのだが、久々に過ごす東京の真夏はなかなか厳しく感じられた。
 東京にいると、暑い暑いと愚痴をこぼしながら、昼間は冷房の効いた研究室に立てこもってしまい、外へ出かけるのがおっくうだった。少しは熱気が和らぐ夕方から街へ出ると、ついついおいしいものを食べたりすることが多くなる。私は下戸だからこういう時のビールのありがたさは分からないが、同席した同僚や学生がビールを痛飲しているのを眺めながら、夏バテをしてはならじと食事はしっかり摂っていた。
 そうこうしているうちに九月に入ったある晩、気まぐれで体重計に乗り、自分の体重が夏休み前よりも大幅に増えていることに愕然とした。体重が一気に一割近く増えて、九十キロに達していたのである。
 それから少しずつ節食したり、運動を心がけてはいるのだが、体重は、増えるときにように簡単には減ってくれない。自分の身体を適切に管理できないというのは、実に苛立たしく、情けないものである。
 十月に入ってからは本格的な授業期間となり、毎日が忙しい。夜は東京でもかなり涼しくなってきたし、穂高では窓を閉めないと、明け方には寒くさえ感じられるようになってきた。それでも余分な脂肪を着込んでしまった身としては、少し体を動かすとすぐに暑苦しくなり、汗をかいてしまう。ちょっと寒いなと思ってうっかり厚着をすると、少し用を足しに外出しただけで、肌着がびっしょりということになる。
 おそらく、ここに来て急に太った要因の一つには、加齢とともに筋肉が衰え、基礎代謝が減っているのに、以前と同様の乱暴な食習慣を続けているところにあるのだろう。実際、自分でも筋力が落ちたと痛感することが多くなってきたし、体重を落とそうとしても、腹はへこまずに、筋肉が落ちていくような感じがする。もう老眼が始まる年回りになっているから、これには仕方のない所もあるのかもしれない。
 冷房も暖房もいらない日というのは、一年のうちにどれくらいあるのだろう。暑さ寒さを気にせず、また、雨にも煩わされずに戸外で体を動かせる日は、何日あるのだろうか。ちょっと見当もつかないが、このまま冬場になって、冷気が外を包むようになれば、今度はまた暖房の効いた屋内から出かけるのがおっくうになってしまうだろう。せいぜい気持ちのよい季節のうちに、気持ちよく体を動かしておかなければならない。こと今年の秋に関する限り、私の課題は、「読書の秋」より、「運動の秋」である。「食欲の秋」はどこかに片づけておかなければならないようだ。

 原稿では、「八十七キログラム」と書いたのですが、掲載時点では用字用語の観点からか、「87キロ」(キロは一文字分の組み合わせ文字)となりました。


2005/11/29 

弘前と松本


 学会で、弘前大学まで出かけた。弘前は、人口十八万人弱。県都ではないが、青森県東部、津軽地方の中心都市である。来年早々に、隣接する岩木町、相馬村と合併の予定だが、合併後でも人口は二十万人弱である。松本市は人口二十三万人弱で、合併前の昨年でも二十一万人弱はあったから、弘前よりも一回り大きい。
 人口規模だけでなく、弘前には、思わず松本と比較したくなる特徴がいろいろある。実際に街を歩いてみると、多くの共通性や類似性を実感した。
 弘前城を構えた津軽藩は、戦国大名が幕末まで家名を保った数少ない一例である。石高は、当初の五万石から、後に十万石となった。一方、松本藩は当主がしばしば交代し、石高も変動した。一時期には十万石だったが、結局は六万石に落ち着いた。藩政の経営は津軽藩の方が優っていたようだ。
 明治になり、廃藩置県後にもいろいろ経緯があり、結局、どちらも県都にはなり損ねた。しかし、都市としての重要度は決して低くなかった。
 大正期に旧制高校が増設され、地名を冠した高等学校が設立されるようになると、その最初の四校の一つとして一九一九年春に松本高等学校が開設された。県都以外で、最初に官立の高等学校が置かれたのは松本なのである。これに一年半遅れて、翌年秋には弘前高等学校が開設された。県都やその近隣ではなく、独立した地方都市に高等学校が置かれたのは、松本、弘前、姫路だけであった。
 城下町の伝統は、近代においては軍都の機能にもつながった。弘前には陸軍の第八師団があり、軍都としては、連隊しかない松本よりも格は上だった。軍都の名残は護国神社に残っており、青森県では弘前、長野県では松本だけに、護国神社がある。
 弘前の護国神社は弘前城内にあるが、神社の境内を含めて弘前城の縄張りは、かなり広い範囲が公園化されていて、桜の名所として名高い。今回は、晩秋の紅葉を楽しむことができた。松本城の縄張りの範囲は、近代以降に市街地化が進んだので、現在の印象は弘前城とはかなり違うが、もともとは松本城の堀や土塁も、弘前城に匹敵する規模で広がっていたはずである。
 弘前城には、当初は五層の壮麗な天守があったが、江戸時代の初めに落雷で焼失したという。現在の「天守」は、幕末に作られたやや小さなもので、正式には「御三階櫓」といい、厳密には天守ではない。城全体の整備状況は、弘前城が優っていそうだが、城郭としての価値は、やはり国宝松本城の勝ちと思ってよいだろう。
 弘前と松本は、中心商店街の苦戦ぶりや、市街地再開発の様子、新幹線との微妙な関係にも、共通性がある。似た特徴のある都市は、直面する課題も共通しているから、自治体も、市民も、互いの経験から学びあえる部分は大きいはずだ。
 共通点はまだまだ尽きない。松本に『市民タイムス』があるように、弘前には地域紙『陸奥新報』と、コミュニティFM放送「アップルウェーブ」があって、地元の人たちから根強く支持されている。時代遅れ気味の喫茶店や、おいしい和菓子の店がいろいろ見つかるのも、城下町に共通する特徴である。
 弘前の街中から間近に見上げる岩木山や遠望する八甲田山系の姿は、松本から眺めるアルプスとは趣が違う。しかし、内陸にあって身近に壮大な山の自然に恵まれていることは、これまた大切な共通点であろう。


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