コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2004

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2004/01/08 太田英茂の伝記.
2004/01/27 入試本番.
2004/02/25 採点者の憂鬱.
2004/04/21 大学改革の行方.
2004/05/28 図書館長の夢.
2004/06/30 麦秋.
2004/07/16 タレント議員.
2004/08/17 倉敷でジャズを聴く.
2004/09/27 ユーロ硬貨の裏面.
2004/11/09 CDに「呼ばれている」.
2004/11/26 柿食えば.
2004/12/22 師走の財布.


2004/01/08 

太田英茂の伝記

 正月休みの数日の間は、ふだん追われている東京での仕事をすっかり忘れ、穂高町の家で読書にふけった。そんな中で、しばらくのあいだ読み止しにしていた太田英茂(一八九二〜一九八二)の伝記『広告はわが生涯の仕事に非ず』にも手を伸ばし、改めて興味深く通読した。この本の著者である多川精一は、エディトリアル・デザイナーであり、日本におけるグラフィック・デザインの歴史の生き証人として、戦前・戦中のデザイン史の掘り起こしなどにも努めてきた人物である。
 太田英茂とは誰か。多川は、あとがきにあたる「執筆を終えて」を「太田英茂という名を知っている人は、今では決して多くない」と書き始め、木村伊兵衛、原弘、岡田桑三、名取洋之助の名を列挙し、「太田英茂は、前記の人たちが無名だった昭和の初めに、彼らの才能を発掘し起用して育て、そして後には宣伝広告界全般を蔭からバックアップした人であった」とまとめている。私自身、戦前から戦後にわたる木村たちの仕事には少なからず関心を寄せてきたし、多川の名も知っていたが、太田のことは見事に知識から欠落していた。少なくとも、彼が戦後に手がけた「酒悦」や、小布施の「桜井甘精堂」などの広告の仕事についても資料を眺めたことはあったから、太田の名は目にしているはずなのだが、具体的なイメージが湧く人物ではなかった。
 太田は、南安曇郡梓村(現在の梓川村の一部)の出身だが、その経歴は曲折が多い。十六歳の時に梓村を出て上京した太田は、偶然からキリスト教会に入って伝道者となる。三十歳からキリスト教系の雑誌『新人』の編集人となり、さらにこの雑誌を左翼系へと転換させるが、雑誌は結局つぶれてしまう。元号が昭和に改まり、「花王」で宣伝の仕事に就いた三十代半ばからの太田は、画期的な宣伝手法で広告業界の新しい地平を切り開いたが、戦時体制下で活動の場を失い、一九四四年には帰郷する。戦後は、五十代半ばにして農業に本格的に取り組むが、これは数年で断念。再上京して、六十歳で電通の広告相談所所長となり、電通を離れてからは独立事務所を構えてその後も広告業界の第一線で活躍したが、七十七歳になって「蒸発宣言」をして東京を離れ、故郷に隠棲した。
 多川の文章は、こうした太田の多面的な生き方を、その時々における等身大で生き生きと描き出している。本の副題にもあるように、太田は「昭和宣伝広告の先覚者」であった。太田の仕事の重要性は、本書で紹介されているいくつかの事例を見るだけでも十分に認識されるだろう。しかし、読み進みながら、単にある事業の「先覚者」の伝記としてではなく、ひとりの明治生まれの信州人の物語として、この本にはいろいろなことを考えさせられた。
 晩年の太田は、自宅の土蔵を改造して書斎を設けていた。この本のタイトルは、その土蔵の書斎で多川が見つけた、太田の走り書きからとられている。全盛期の太田の姿は、周りからは広告の神様のようにも見えたはずだ。多川から見れば、その師である原弘のそのまた先生という位置に太田はいる。その太田が、「広告はわが生涯の仕事に非ず」と書き記した心情はどのようなものであったか。自分には、生涯の仕事があるのだろうか。本を閉じ、しばしぼんやりと考えた。冷気の中、夜は静かに更けていく。

2004/01/27 

入試本番

 センター試験もおわり、いよいよ大学入試の季節が始まった。近年では、入試も多様化し、昔ながらの一般入試や推薦入試のほか、一芸入試や自己推薦、さらにはAO(アドミッション・オフィス)入試という学力よりも学習意欲などを重視する入試など、いろいろな大学入学試験が行われている。私立大学のみならず、国公立大学も含め、各大学ともあの手この手で優秀な受験生を集めようと必死だ。
 推薦入試などは、比較的早い時期に合格が決まるので、もう来春の進学先が決まっている高校三年生はけっこう多い。しかし、受験シーズンの本番が、私立大学の一般入試が次々と行われる二月から、国公立大学の試験がある三月にかけてであることは、今もあまり変わっていない。
 いわゆる「団塊ジュニア」のピークが去って、高校卒業者数は既に減少に転じている。一方、短期大学からの昇格が続くなど、まだまだ大学の収容定員は増えつつある。全国的にみると、短期大学は減りつつあるが、四年制大学はむしろ増えているのだ。もちろん、一部の超難関大学は依然として難関だが、中堅校以下の大学は、十年前に比べると随分と入りやすくなってきた。
 一方、景気は相変わらず不透明で、大卒者の就職環境もなかなか厳しい。昭和初年ではないが、「大学は出たけれど」の時代である。かなりの高偏差値大学でも、就職を決められない学生が結構いる。企業が人物を厳選して採用する時代になった今、大学のブランドだけで就職できるという保証はない。
 大学の入口と出口のこうした状況は、大学受験の意義を大きく変えてきた。要するに、これまで以上に、本当に自分がやりたいこと学びたいことを大学で見つけることが大切な時代になっているのである。受験生の立場から見れば、一昔前よりも選択の幅は広い。その中から、これなら打ち込めるという専門を見つけ、自分の力量や気質にあった大学にめぐり逢えた受験生は、合格・入学後も大学で有意義な時間を過ごせるだろうし、力を伸ばして卒業後の進路も自力で切り拓けるだろう。逆に、安易な選択を重ねた者は、数年後に大いに苦しむのかもしれない。
 松本平には、もともと信州大学があるが、信大は全国の国立大学の中でも地元出身の学生が最も少ない部類の大学だ。松本歯科大学も、地元出身者は多くない。その意味では、松本大学が出来て、地域密着の通いやすい大学がやっとできたわけだが、実際には、まだまだ「大学は県外へ」という受験生が多い。今年も多数の受験生が、東へ西へと受験の旅に出る。受験料や旅費の負担にはじまり、決して安くはない授業料を納め、下宿生活に仕送りをする親御さんたちの苦労は、半端なものではない。それでも親は、子どもの教育のために、惜しみなく力を尽くす。東京をはじめ、各地の大学へ進学した子どもたちへの仕送りの苦労話は、私たちにとって身近な現実である。
 将来を賭けて試験に挑む受験生たち。その背中を、たくさんの人々の応援と期待が押している。受験生諸君が実力を出し切り、悔いの残らない大学受験にできることを祈りたい。

2004/02/25 

採点者の憂鬱

 大学での成績の決め方には、いろいろな方法がある。定期試験の結果だけで決める一発勝負もあれば、出席状況に小テストや宿題などを加味した平常点評価や、課題を与えてレポートを提出させる方法もある。教員は、科目の性質を踏まえ、教育効果を考えながら、評価方法を決めている。私は科目によって評価方法が様々なので、この学期末にも定期試験重視の科目、平常点評価の科目、レポート重視の科目をそれぞれ抱え、答案やレポートの採点に追われた。
 定期試験重視の方式は、学生が習得すべき知識の範囲が明確な科目、つまり、授業に出席はしていても授業内容を理解していない者よりも、授業に出ていなくてもしかるべく知識を身につけた者を評価したい科目に向いている。実際、数百名の受講者がいる科目でこの方法をとると、ほとんど出席していないのに上位の成績を取る者が、少数ながら確実に出てくる。しかし、授業に出なくても勉強していて、しっかり実力をつける学生は、今では本当にごく少数だ。
 頻繁に小さな宿題を課し、その成績を累積していく平常点評価の科目は、欠席の多い者には不利だが、要領は悪くてもコツコツ勉強するタイプの学生には有利になる。平常点評価と定期試験を併用する科目では、きちんと課題をやっていればそれが定期試験に向けた勉強にもなり、平常点のよい者が定期試験でも好成績を出しやすい。
 一方、レポート中心で評価する科目は、講義の狙いが少し違う。レポート評価にするのは、講義内容をきっかけに、各自が問題意識を持って何かを調べたり、論じたりしてほしい科目である。採点する側からみれば、レポート評価の場合には定期試験の答案よりも大量の文章を読まなければならないので、受講者が多い科目ではレポート評価は選択しにくい。それでも、科目の内容や狙いによっては多人数の科目でもレポート評価にすることがある。この学期末にも、二百通を超えるレポートを読んで採点する科目があった。
 レポート評価の場合、残念なのは、参考文献の丸写しなどが後を絶たないことである。受講者が百人を越える科目では、同じ課題に対して、酷似した文章のレポートが複数現れてくる。何百通ものレポートを全部読むはずがないと思うのか、同じ資料を下敷きにして写してくる者が何人も出る。特に最近は、インターネットで集めた文章を切り貼りし、レポートに仕立てる手法が普及しているので、ご丁寧に、下敷きの文章にあった誤記や文の乱れまで、そのままという者もいる。学生個々の意見を読みたくてレポートを課したのに、内容と言い回しが画一的な、クローンのようなレポートを読むことになるのは、実に情けない。せめて、引用の出典表示や、参考文献の提示は、きちんとしてほしいものである。
 ようやく一通り、成績報告を出し終えたものの、定期試験の科目では、定期試験を正当な理由で欠席した者に対する「追試験」や、ぎりぎりで卒業要件に届かなかった学生にラスト・チャンスを与える「再試験」がまだ残っている。採点のことをすっかり忘れられるのは、もう少し先だ。試験のことを考えると少々憂鬱になるのは、学生ばかりでなく教員も同じなのである。

2004/04/21 

大学改革の行方

 「大学改革」という言葉が聞かれるようになって久しい。高卒者が減っていく「大学冬の時代」を受け、大学は変化の波にさらされているが、この四月からの新年度にも、画期的な出来事がいろいろ始まっている。
 まず、全国の国立大学が、この四月から一斉に独立行政法人制度に移行して、「国立大学法人」となった。これまでは国の財布と直結していた国立大学の会計が、一応独立し、より敏感に採算性を考える方向へ、一歩踏み出したことになる。
 この、いわゆる「法人化」の動きは、ここ数年来国立大学を大きく揺さぶってきた。法人化に備えた基盤整備のため、大きな大学による小さな大学の吸収や、小さな大学の連合など、様々な組み合わせで大学の統合が始まっており、国立大学の数は少しばかり減りつつある。
 例えば、筑波大学は図書館情報大学を、九州大学は九州芸術工科大学を吸収し、それぞれ規模を拡大した。お隣の山梨県では山梨大学と山梨医科大学が昨秋に統合されたし、同様の統合は全国各地で進んでいる。統合とは関係ない大学を含め、いずれの国立大学も、新しい経営環境の下でどのような大学像を築いていくのかを必死に模索している。
 公立大学も大きな波に揉まれている。特に東京都立の各大学や横浜市立大学では、強力なリーダーシップを発揮する都知事や市長の下で、大学設置者である行政当局と一部の大学教員が、大学改革をめぐって対立する深刻な事態も生じている。また、兵庫県は、神戸商科大学など県立の三大学を今春から兵庫県立大学に統合した。長野県にも、県立の看護大学と短期大学があるが、近い将来には、その運営のあり方が問い直される機会があるのかもしれない。
 国公立大学の整理統合は、高校を卒業する十八歳人口の減少に応じて進んでいるが、全国的にみると大学の数は増え続けている。最近でも、私立大学を中心に、毎年十指に余る大学が各地で新設されている。その大半は短大からの昇格だが、全く新たに通信教育専門の大学や大学院大学を設ける例もある。さらに今春は、小泉改革の目玉の一つである「特区」制度を利用して、株式会社が設置者となる新しいタイプの私立大学が東京と大阪に現れた。
 一方、司法制度の改革と連動した法科大学院も、この四月に一斉にスタートを切った。また、法科大学院だけでなく、様々な教育課題を掲げた専門職大学院と呼ばれる新しいタイプの大学院も急速に数を増やしつつある。
 様々なところで、様々な立場からの「大学改革」が叫ばれてきた結果、大学が社会の中で占める位置、果たす役割は、いま確実に変わろうとしている。しかし、状況は流動的でその改革の先にあるはずの新しい大学像は、まだまだ社会に共有されていない。
 五年前、駒ヶ根に長野県看護大学ができるまで、長野県内には短大を除けば三大学しか大学はなかった。それが今では七大学になった。県内でも大学がそれだけ身近になってきている。今後の大学の役割を、地域の中でどう位置付けるのか、地域社会が考えるべきことも大きくなっているはずだ。

2004/05/28 

図書館長の夢

 あるシンポジウムで、滋賀県愛知川町(えちがわちょう)の町立図書館館長である渡部幹雄さんの話を聞く機会があった。渡部さんは、大分県や長崎県でも小さな自治体の図書館立ち上げに関わり、昨年には『図書館を遊ぶ』(新評論)という著書が話題になった、公共図書館の世界ではよく知られた方である。
 渡部さんの話によると、全国の市には図書館が行き渡っているが、町村となると、およそ六割の町村には図書館がないのだそうだ。もちろん、そうした町村でも公民館には図書室があるだろうし、きちんと司書を配置して図書室の運営が行われているところも多いはずだが、大部分の町村ではそうはなっていないらしい。
 そのシンポジウムで渡部さんは、通信教育で大学教育を受ける人が自力でレポートをまとめるのに使える、という目安を示して、この水準で整備された図書館をすべての中学校区に配置しよう、図書館の相互支援の拠点となって多数の蔵書の収蔵などを引き受ける拠点図書館を税務署と同程度の水準で普及させよう、という具体的な目標を示して夢を語った。もちろんその実現は容易ではない。そのままの形を全国で実現するのは、ほとんど不可能であろう。
 しかし、松本平では、松本市立図書館が立派に拠点図書館としての役割を果たしている。今のところ、蔵書管理のコンピュータが「アルペンハーモネット」によって接続されているのは市内の各分館と波田町図書館だけだが、将来これがサービスを広域化していくことは十分に可能である。既に検索だけなら、インターネット上にもデータが公開されている。
 また、松本平では、全国的にみても公民館に元気があり、図書館と看板は出していなくても、各町村にしっかりした公民館図書室がある。こうした財産を活かし、積み上げていけば、渡部さんの構想を松本平の範囲で実現することは決して夢物語ではない。
 このコラムでは、これまでにも大学教育の多様化について触れてきた。社会人として忙しい合間を縫って、あるいは退職して余裕ができてから、きちんと高等教育を受けたい、受け直したいという真摯な学び心をもつ人々が静かに増えつつあることは、社会にとって大きな意味がある。大学の側も、社会人対応を多様な形で進めているし、放送大学をはじめ、もっぱら通信教育によって大学教育・大学院教育を行う大学も次々新設されている。
 地域の図書館や、小規模ではあっても公民館の図書室が、大学のレポートづくりに役立つ水準で整備されるなら、それは地域の文化が深みを増す助けとなるはずだ。裏返していえば、限られた予算の枠の中で、どのような図書館・図書室を作っていくのか、地域の力が問われているということでもある。

2004/06/30 

麦秋

 麦の実りの季節になった。緑鮮やかな水田が広がる安曇野でも、あちらこちらに黄金色の穂波が揺れている。俳句の季語としての「麦秋」は、本当はもう少し早い時期を指すようだが、少し広げて今頃までを入れてもよいことにしてもらおう。
 私が子どもだった頃は、まだ寒風の中での麦踏みを見かけることがあった。教科書には米と麦の二毛作による食料増産という話がのっており、テレビでは「政府は麦ごはんを奨めています」という政府広報のCMが流れていた。今となっては遠い記憶である。
 残念ながら、現在では、国産の麦は価格面の国際競争力が乏しい。日本は世界有数の麦類の輸入国であり、国内で消費される麦類のおよそ九割は輸入に依存している。
 しかし、国内にも、独自の品種を開発して産地形成をしようという取り組みはいろいろある。特に、うどん用の小麦の品種改良は積極的に試みられており、例えば、讃岐うどんの本場である香川県では新品種「さぬきの夢2000」が開発され、普及が進みつつある。また、長野県内でも、千曲市周辺で生産されている小麦の新品種「ユメセイキ」を使った『信州夢うどん』を売り出そうという、新しい取り組みが注目を集めている。
 様々な形での食文化の見直しが進む中で、麦の食べ方もパンや麺類一辺倒ではなく、少しずつ変わりつつある。例えば麦飯も、かつてのイメージを一新し、健康食として再評価されつつある。また、安心な食材への関心の高まりが、地元で作った食材を地元で消費する、いわゆる「地産地消」の運動を後押ししている。千曲市の『信州夢うどん』も、「地産地消の推進」への取り組みから生まれてきたものだ。
 安曇野の麦畑は、水田転作がほとんどなのだろう。中には、手入れが行き届かないのか、麦より背の高い雑草が、穂波の上に頭をだして花をつけていることもけっこうある。もちろん、しっかり手入れの行き届いた畑もあるが、一生懸命に手をかけても、大した値段はつかないのだろうか。
 せっかく作る安曇野の麦は、できることなら、どんな形であれ、地元産としての個性を感じつつ食してみたいものである。コストがかかった割高な麦でも、作った場所の風土が分かり、作った人の顔が見え、その個性を活かした形で提供されれば、お客さんはついてくるはずだ。
 そういえば、六月十六日は、誰が決めたのかしらないが「麦とろ」の日だったようだ。これは、六月十九日が「朗読」の日というのと同じで、単なる駄洒落なのだろう。それよりも、新米をありがたく頂くのと同じように、「新麦」を愛でる行事というのはないのだろうか。麦とろに、夏野菜の天ぷら、食後は熱い麦茶と麦落雁、などというメニューを楽しんでみたいものだ。

2004/07/16 

タレント議員

 参議院選挙が終わった。今回の選挙では「タレント候補」の存在感がずいぶん希薄だったように思う。
 二〇〇一年の選挙から、参議院に「非拘束名簿式比例代表」の制度が導入され、比例区では政党名でも候補者個人名でも投票できるようになった。このため前回の参議院選挙では、与野党ともに「タレント候補」が顔を並べ、実際に、百五十万票を超える得票を稼いだ舛添要一氏をはじめ、大仁田厚氏、大橋巨泉氏(当選直後に辞職)ら、新人として出馬した有名人が大きな集票力を示した。
 しかし、今回の比例区では、公明党の代表代行として知名度の高い浜四津敏子氏が百八十二万票余りを得たのをはじめ、比例区の個人票上位六位までを公明党の重点候補者が占めた。その中にはバレリーナ出身の浮島智子氏が含まれているが、浮島氏は知名度を武器にする「タレント候補」とは少し位置付けが違う。また、初出馬とはいえ、既に大臣である自民党の竹中平蔵氏(個人票七位)も単純に「タレント候補」とは言いにくい。要するに、今回の比例区では、前回のように傑出した得票を得た新人の「タレント候補」はいなかったのである。
 そんな中で、長野県とも縁の深い、ノルディック・スキー五輪金メダリスト荻原健司氏は、自民党から出馬し、二十万票弱で当選した。しかし、荻原氏の得票数は、二〇〇一年の選挙で橋本聖子氏が集めた票数の四分の三程度にとどまった。大きな存在感を示したとは言いにくい。
 「タレント議員」という言葉が一般化したのは、当時の全国区から石原慎太郎、青島幸男、横山ノック、今東光といった諸氏が当選した一九六八年の参議院選挙のときだった。一九七四年には、宮田輝、山東昭子、山口淑子(李香蘭)の諸氏が全国区で初当選した。以来、国会では多数の「タレント議員」が活躍してきた。中には、石原慎太郎氏や扇千景氏のように、もはや単なる「タレント議員」ではなく、本物の政治家となった人たちもいる。
 もっとも、それ以前にも、芸能人が議員になった例はあった。「タレント議員」の第一号とされる人物は、政治風刺を盛り込んだ「のんき節」や「酋長の娘」など滑稽な歌で戦前から知られた演歌師・石田一松である。石田は、一九四六年、戦後最初の衆議院選挙で当時の東京1区から当選した。代議士になっても石田は高座に立ち、政治風刺を続けた。石田一松については、水野喬『闘った「のんき節」』(文芸社)という評伝をご覧いただきたい。
 今回の選挙では、「花」や「ハイサイおじさん」などで知られる沖縄の歌手・喜納昌吉氏が民主党から当選した。雄弁とは思えない喜納氏がどんな国会活動をするのかはわからないが、「タレント議員」になってどんな新しい歌を作るのかは、ちょっと気になる。もちろん、当選には至らなかったが県選挙区に挑戦した掘六平氏についても、同じように思っている。

2004/08/17 

倉敷でジャズを聴く

 出張で倉敷へ出かけた。割り当てられた宿舎は有名な大原美術館などのある「美観地区」に近いホテルだった。倉敷は、いろいろな用事で数年に一回のペースで縁があるところだ。「美観地区」へは来るたびに足を運び、あたりを散策している。
 同じ「美観地区」の中でも、よくポスターなどになっている大原美術館や倉敷川の掘割に面した辺りではなく、少し入った所に地酒の蔵元がある。初めて倉敷に来た時、その辺りの小路の雰囲気が気に入り、その後は倉敷に来るたびにこの辺りを訪れている。贔屓にしている、といっても数年に一度来るだけだが、ここには食事が美味しい店、個性的な古本屋、通りから作業の様子が眺められる提灯屋などが並んでいて、来るたびに足を運びたくなる魅力がある。
 その一角に、ジャズ喫茶がある。ただし、レコードを静かに聞くというタイプのジャズ喫茶ではなく、どうやらライブ演奏が中心の店らしい。前から気になる店だったのだが、これまでは入る機会がなかった。たまたま、近くで食事を済ませた後に、ライブの音が小路にも漏れ出て来たのを耳にしたので、連れの友人と二人で店に入ってみた。
 一見、お酒も出す普通の喫茶店、といった造りの店だが、入口を入ると左手にピアノやドラムが置かれ、段差はないがステージになっている。演奏しているのは、テナーサックス、ピアノ、ベースのトリオである。店に入った時、演奏を聴いていた客は、ステージ前に陣取ったサラリーマン風の二人連れだけだった。私たちが来て、やっと聴いている客の方が多くなったわけだ。ハードバップ風の演奏は、無難ではあっても決して驚くような技量ではないが、やはり目の前で生演奏を見るのは迫力が違う。素直に楽しんで時間を過ごすことができた。
 店のチラシを見ると、八月にはここで二十二回のライブが組まれている。定休日は月曜日だけなので、ライブがない営業日は月に四日だけということになる。そのうち一回を除けば、ライブチャージはたった五百円である。倉敷は決して大きな都市ではない。東京なら毎日のようにライブのある店は珍しくないが、地方で一定の水準以上の演奏者を集めていくのは簡単なことではない。松本でも、こういう場所が成立するのは、なかなか難しいだろう。
 そんなことを考えながら、やがて始まった二回目の演奏を聴いていると、ほつりぽつりと客がやってきて、やがて合わせて十名になった。これで採算がとれるのかどうか知らないが、何だかこちらもほっとした気分になった。翌日の仕事があるので、十時過ぎには店を出たが、演奏はまだまだ続いていた。店の外に小さく漏れ出てくる音も、この小路の風景によく馴染んでいた。

2004/09/27 

ユーロ硬貨の裏面

 今年の夏は、八月に三週間ほど英国に渡り、九月の前半にも二週間ほど英国とドイツに出張する機会があった。合わせれば五週間になり、まるまる一ヶ月以上は欧州にいたことになる。もっとも、英国にいたのがほとんどで、ドイツにいたのは最後の五泊六日分だけだった。
 ドイツを訪れたのは、一九九七年以来ひさしぶりだった。前回まで、ドイツといえば通貨はマルクだったが、欧州連合(EU)の通貨統合にドイツが参加した結果、現在では通貨はユーロになっている。二〇〇二年にユーロが本格的に流通するようになってからは、なかなかユーロ圏に出かける機会がなく、現にユーロが使われている地域を訪れるのは、今回が初めてだった。今回は、日本円で十万円分をユーロに替え、ドイツ滞在中に使ったのだが、最初に両替したユーロ札を使っておつりをコインでもらっていくうちに、硬貨に刻まれた様々なデザインが気になってきた。
 ユーロの硬貨は、二ユーロ、一ユーロのほか、セント単位のものが、五十、二十、十、五、二、一と、全部で八種類ある。これを、通貨統合に参加した十二カ国がそれぞれ鋳造しているのだが、表面のデザインは統一されているものの、裏面は実に様々なのである。ちなみに、紙幣には額面の異なる七種類があるが、こちらは印刷した国によるデザインなどの違いはない。
 後で、インターネットで調べてみて、ユーロ硬貨の裏面デザインに対するポリシーが、国によって多様であることがよくわかった。日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトにある詳しい説明によると、貨幣八種類をすべて同じデザインにしている国はベルギーなど三カ国、逆にすべて異なるデザインにしているのはイタリアなど三カ国で、オランダは二種類、ドイツを含む残りの五カ国は三種類のデザインを硬貨の価値によって使い分けているそうだ。描かれている内容も、君主の肖像、歴史上の人物、動植物、建築物など、千差万別である。
 どこの国で鋳造した硬貨でも、ユーロ圏なら当然どこでも通用する。国境を越えて人々が行き交い、物資やサービスが取り引きされるということは、貨幣も国境を軽々と越えて行くということである。一週間足らずの短い間、ドイツだけにいたので、財布に入ってくる硬貨の大部分はドイツで鋳造したものだったが、デザインが異なる硬貨を意識的に取り分けておいて、滞在の最終日に調べ直してみたら、ベルギーとギリシア以外の十カ国の硬貨が手元に集まっていた。テーブルの上に、二十数種類の硬貨を並べてみて、通貨統合という政策の結果を、極めて分かりやすい具体的な形で実感したのだった。

2004/11/09 

CDに「呼ばれている」

 テレビのCMを見ていると、さりげなく使われている音楽に「おやっ?」と驚かされることがある。ある日、テレビをぼんやり見ていて、ビールのCMのバックに、歌のないインストゥルメンタル演奏で『ジンギスカン』という曲のサビの部分が使われているのに気がついた。ドイツのバンド、ジンギスカンが『ジンギスカン』をヒットさせたのは一九七九年だから、もう四半世紀前である。オリジナルは、「ウッ!ハッ!」と入る掛け声が印象的な、ノリのよいディスコ向けの曲だった。二〇〇〇年にヒットしたモーニング娘。の『恋のダンスサイト』で同じような掛け声が使われていたが、その元ネタは『ジンギスカン』だったらしい。
 『ジンギスカン』がヒットした頃は、一九七七年のアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』などがきっかけとなって、ディスコが大ブームになっていた。それ以前には、ディスコで流れる音楽といえばアメリカの黒人音楽が主流だったが、ブームになってからは、ヨーロッパの音楽もいろいろ紹介されるようになった。ドイツを中心に活躍していたアラベスク、ニュートン・ファミリーなどをはじめ、様々なディスコ音楽のバンドが日本にも紹介された。スウェーデンのアバとか、アイルランドのノーランズも、そうしたディスコ系のうちに数えてよいだろう。
 こうしたヨーロッパ発のディスコ音楽は、アメリカの音楽とは違った、軽くて明るい感じがあり、悪くいえば浅薄だが、取っ付きやすく、親しみやすかった。当時、音楽のデジタル化はまだまだ進んでおらず、一九八〇年代以降によく使われた「ユーロビート」という言葉もまだなかったように思うが、ヨーロッパのディスコ音楽には確かにアメリカとは違う個性があった。『ジンギスカン』のほか、『めざせモスクワ』、『ハッチ大作戦』をヒットさせたジンギスカンも、いわば「色物」と目されながらも、そうした流れにしっかりと乗っていた。
 そんなことを考えた数日後、たまたま気紛れでレコード店に入ったところ、何とジンギスカンのCDが目に止まった。しかも、このバンドの曲として聞き覚えのあるヒット曲が三曲とも収録されている。これは「呼ばれている」と思い、ついついCDを買ってしまった。要するに、衝動買いである。
 実は、時々こういう経験をするのだが、そういうことがあると、しばらくの間はレコード店に入るのが楽しいような、無駄づかいが恐いような、複雑な気持ちになる。

 文中では「ビールのCM」と書いてしまったのですが、実際には発泡酒のCMでした。


2004/11/26 

柿食えば

 柿が美味しい時期である。
 ひと月ちょっと前、まだ甘味が少ない堅めの柿を頂いた。知り合いの自宅の庭でなっていたものだ。スーパーや八百屋には、既に大ぶりの甘い柿が並んでいたし、もう今年の初物は楽しんだ後だったが、苗木で買ってきて育てたという知人宅の柿は、未熟なりに格別の味に感じられ、美味しく頂戴した。
 そのときの私の食べっぷりがよほどよかったのか、しばらくしてまた同じ柿が、少し甘味を増してやってきた。今度は甘味も乗って、市販のものにも劣らない出来だ。本当にありがたく、十二分に賞味させてもらった。聞けば、年によっての出来不出来はあるが、家族では食べきれないほど実がつく年が多いのだという。うらやましい限りだ。
 この知人の家は農家ではないが、昔から農家の庭には決まって柿の木があった。凶作と飢饉が最大の災厄であった近世以前の農家にとって、実を干柿にして保存食にすることもでき、非常時には葉を食料とすることもできた柿は、凶作への備えとしてなくてはならない果樹だったのだろう。近代に入っても、先人の知恵を継承するかのように、農家の庭には柿の木が植えられることが多かった。秋に鮮やかな朱の実をつける柿の木は、信州だけでなく、日本の農村の定番の風景になっている。同じように、栗の木も、米が不作になるくらいの冷涼な年にむしろ豊作となることから、昔の農家にとっては大切なものだったらしいが、柿に比べると、実際に農家の庭で見かけることはずっと少ないように思う。
 私の家も農家ではなかったが、子供の頃に住んでいた借家の大家さんが大きな農家だった。大家さんの屋敷の庭ではよく遊ばせてもらい、当然のようにそこにあった柿の木にもよく登った。一度、つかまった枝が折れてまともに地面に落ちてしまい、大きなたんこぶを作って大泣きをした覚えもある。その家でも、秋が深まると、先が二股になった長い竿を持ち出して、大きく実った柿を落としていた。店子の子供であった私にも、いつもおすそ分けを頂いていたから、頂きものの柿をありがたがるのは子供の時から変わっていないことになる。
 記憶の中の大家さんの庭の柿は、目の前にある知人宅の柿よりもずっと大きかった。もちろんこれは錯覚で、自分が大人になり、大きくなっているからそう感じるのだろう。いずれにせよ、甘く、柔らかい柿の歯ごたえが理屈抜きで嬉しくなる感覚は、どこかで記憶の中の童心につながっているような思いがする。


2004/12/22 

師走の財布

 教員をしていると、毎年十二月になるたびに、「文字通り<師走>ですね」などと言われる。年中走り回っているような生活をしているこちらにすれば、別に年末にならなくても、年がら年中<師走>である。実際、駅や空港の構内のみならず、キャンパスでも、時には教室内でも、思わず全力で走ってしまうことも時々ある。これは、いつものことである。
 しかし、やはり年末となると、普段とは違う仕事がいろいろ飛び込んだりして、いつもより少々忙しいのは間違いない。大学で授業をした後、別の用事で外へ出て、また夜に大学に戻ってくる、といった感じの慌ただしい日もよくある。そうした日が続くと、肉体的な疲労以上に、精神的な余裕がもてないことへの苛立ちが、なかなかつらい。
 慌ただしいのは、自分の身だけではない。財布の中味も、このところ出入りが実に激しい。冬のボーナスのおかげで、心細くなっていた銀行口座の残額がひと息ついた、と思う間もなく、支払わなければいけないものも何だかんだと出てくる。学会の年会費、通信販売の支払い、各種団体への寄付などと、郵便振込をするものだけでも振込用紙の厚い束ができそうだ。
 一昔前にくらべると、いろいろな支払いがクレジット・カードでできるようになっているが、やはり現金を用意して、支払っていかなければ済まない用事も結構ある。一方では、現金を引き出せるATMも、銀行ばかりでなく、コンビニエンス・ストアでごくごく普通に置かれるようになってきた。お金絡みのことがらを、思い立ったときにどんどん処理しようとすると、毎日のように現金を引き出し、何かを支払ったり、振り込んだりし続けることになる。
 先月登場した新札も、これまで馴染みのある旧札も、それからATMで千円単位の引き出しをするとけっこう出てくる二千円札も、財布の中に入り、ほんのしばらく、時には数時間もいるかいないかで、あっという間にどこかに吸い込まれていく。財布の中味は新陳代謝が活発だが、ふと気づくと、レシートやら明細書やら、いろいろな紙片が財布の中に溜っている。分厚いように感じられた財布が、よく見ると中にお札がほとんど入っていない。脂肪のたまった肝臓のようなものだ、などと思いながら、またまたATMを探して用を足すこととなる。
 こんな年末を迎えていると、「貧乏暇なし」とはよく言ったものだ、と思う。私は金銭的な意味で貧しいわけではないのだが、暇を作れず、精神的な余裕がもてない日常を送っている。そんな、貧乏臭さを、来年は何とか拭えないだろうか、などとぼんやり考えているうちに、また一日が過ぎて行く。
 福沢先生、束の間おわす師走かな。


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