山田晴通・阿部 潔・是永 論(1993):
長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動

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1)本稿執筆者3名は研究協力者として、「情報化社会と市民の生活意識・行動の変化」研究班に参加している。
 調査期間は、予備調査も含めて1992年1月より12月にわたった。この間、在京のメンバー(阿部・是永)は、共同または分担で、聞き取り調査を目的とした現地出張を前後10回以上実施した。また、山田は4月以降、断続的に参与観察を行い、11月から12月にかけて集中的に聞き取り調査を行った。
2)研究班では、情報発信行動をテーマとして、本調査の他に、NHKなどの放送局に自分で撮影したビデオ・テープを投稿しているアマチュア・カメラマンと、パソコン通信を用いて意見の交換や討論をおこなっている人々を対象として、研究を継続中である。
3)もちろん、これまでの情報化に関する議論においても、技術的側面だけではなく社会的・文化的側面の重要性を指摘するものは見られるが、とかく技術先行の形で進行しつつある現在の情報化を背景として、そこでの議論も技術中心的・技術決定論的なものが少なくないように思われる。
4)1992年12月31日現在、住民登録による山形村の人口は、外国人などを含めて6947人である。なお、1990年国勢調査の人口は、6,513人であった。
5)山形村を含む「松塩筑」地区(松本市・塩尻市・東筑摩郡)の農業の概況については、1990年世界農林業センサスの結果を踏まえた解説(関東農政局,1992)がある。また、加藤(1991,pp152〜160)は、「準高冷地」野菜産地という視点から、この地区の概況を簡潔に紹介している。
6)例えば関東農政局(1992)は、山形村が、土地生産性と労働生産性の両面において、隣接する波田町、朝日村とともに、長野県内の市町村の中でも、最上位にあることを示している(p13)。また、山形村の野菜単一経営の農業専従者保有割合が、松塩筑地区でも波田町に次いで高い(84%)ことを特に指摘している(p8)。
7)生産農業所得統計(平成2年)に基づく、関東農政局(1992,p12)の表による。
8)近年、野菜産地のいわゆる「ブランド」化が進行し、産品の市場価格は、産地がブランドとしての名声を確立しているか否かで格差がつくようになっている。ブランドの確立のためには、高い水準の品質に加えて、市場に供給される出荷量の大きさも重要になる。このため各地の農協は、ブランド形成のために地域における特定産品への特化を推進してきた。例えば、山形村に隣接する朝日村や塩尻市洗馬地区ではレタス、波田町ではすいかへの特化が著しい。しかし、こうした特化を前提としたブランド化は、連作障害の危険がある上、市況が大きく変動した場合に打撃を受ける可能性のある「ハイ・リスク、ハイ・リターン」の戦略だといえよう。
9)地元の住宅情報誌『月刊・信州土地と住まいの情報』にしたがって宅地の相場を坪当り単価で示せば、山形村の物件が11万円から18万円程度であるのに対し、松本電鉄の通っている北隣の波田町では17万円から20万円程度、松本市内となると山形村に近い郊外でも20万円台後半以上となる。
10)組合立鉢盛中学校は、山形村と朝日村の境界地に建っており、両村と松本市今井地区の生徒が通学している。このため鉢盛中学校には両村のCATV幹線(双方向)が引かれており、中学校で行われる行事などはYCSと朝日村有線テレビ(AYT)がスタッフを出し合って共同制作・放送することが可能で、卒業式などがこの形式で放送されている。村立山形中学校は学制改革により1947年に設立され、村内唯一の中学校として、1967年の組合立鉢盛中学校の開校まで存続した。現在の40代・50代の旧住民は山形中学校に、30代以下の旧住民は鉢盛中学校に学んだことになる。なお、客観的に証明するデータはないが、鉢盛中学校の通学範囲が一種の「通婚圏」を形成しているという見解が、聞き取り調査の中でしばしば聴かれた。
11)山形村の消防団は、役場職員などで構成する「本部」を含め7分団体制をとり、団長など役員を含め、団員総勢は 184名である。山形村の消防は、1993年4月から広域消防体制が始まる予定であり、消防団活動の負担は、その分だけ軽減されるものと期待されているが、他方、消防団には広域消防によっては補えない機能もあり、消防団の必要性が後退しているわけではない。消防団員になることの負担感は、緊急出動時の危険性などによるものではなく、日常の行事・訓練などに起因している。消防団全体では、およそ二ヵ月に一回の割合で行事への動員があり、だいたい丸一日が潰れてしまう。これとは別に、分団毎に10日に一度の割合で装備点検や訓練が夕方から行われる。ちなみに、1992年中に消防団が実際に出動したのは、ボヤ1件、行方不明者の山狩り2件だけであった。
102)MPIS施設は、全国に26局が開局しており、現在さらに10局の開局準備が進められている。長野県内には南佐久郡川上村と、山形村に隣接する東筑摩郡朝日村にもある。山形村より1年早く開局した朝日村有線テレビ(AYT)については、山田(1989)を参照。
13)農水省の補助金によるMPIS施設を設置した町村では、同様の例が多い。朝日村では現在も経済課の中に置かれた農村情報連絡室がAYTを担当している。
10)農業技術情報課には農業情報係とともに、農業技術係が置かれているが、係長は農業情報係長の兼任で、専属の正規職員は1名しかいない。農業技術情報課は、大幅な国庫補助を得て1988年に建てられた山形村エポック館(農業技術拠点施設)に入っており、1階がバイテク研究室など農業技術係の施設、2階がスタジオなどCATV関係の農業情報係の施設となっている。
15) 開局時の職員2名は既に異動しているが、課長、係長は開局時のままである。
16)山形村では東京派の受信点を確保することは不可能である。しかし、技術的には、隣接する地域に東京派の再送信を行っているテレビ松本(松本市・塩尻市)の幹線と接続すれば、間接的に受信することが可能である。ただし、こうした形態による再送信には先例がない。モア・チャンネルという意味では、民間の直接衛星放送(JSB:日本衛星放送)や通信衛星を介したチャンネル・サプライヤーの導入も検討課題といえよう。1992年2月にYCSが行った村民アンケート(調査対象として 252世帯を抽出、うち 222票を回収)によると、「民間衛星放送や、CATV向けの有料配給番組を見たいか」という設問に対して、「見たいので受信してほしい」36票(回答者の18.3%)、「将来は検討したいと思う」74票(37.5%)、「見ないと思う」47票(23.9%)、「全く関心がない」40票(20.3%)、無回答・25票、であり、長期的にはともかく、短期的には関心は薄いと考えざるを得ない。
17)YCS開局以降の3年間に、山形村の農産物の販売額は30億円台前半から30億円台後半へと、2割程度の飛躍的な伸びを示した。これは、この期間の野菜の高値安定基調も関係しているが、市場の価格情報などが的確に入手されることによって販売単価が押し上げられたためと考えられている。また、農協や農業改良普及所からの技術的な指導が徹底しやすくなり、出荷される野菜の品質にばらつきが少なくなったことも、同時に指摘されている。
18)若者ばかりでなく、ますます高齢化が進行する農業従事者にとっても、農業労働の負担軽減化、労働時間の短縮は、大きな課題といえる。山形村周辺でも、労働作業上の負担を考慮した栽培品種の選択(例えば、すいか、キャベツから、パセリなどに作物を代える)傾向が現れてきている。
19)以下、本稿の統計などでは、山形村で生まれ育ち、大学進学など5年程度以内の期間は別として、基本的に現在まで山形村に住み続けている住民を「旧住民」、成人するまで山形村以外で過ごした住民を「新住民」とイメージしている。したがって、結婚などによって「旧住民」世帯の一員となった村外出身者は「新住民」と考えている。こうした「新住民」の中には、当然「旧住民」のライフ・スタイルを生きる例も多いものと考えられる。本稿で取り上げたホワイトバランス会には、村外出身で婚姻によって「旧住民」世帯の一員となり、現在は村外へ通勤している例があったが、この事例は「新住民」と判断して整理した。その他には、複合的ないし境界的な例はなかったので、本稿での論述に関する限りは、この程度以上の厳密な定義は必要ないものと思う。
20)行政上の「村」ではなく、集落ないし集落の連合体という意味。
21)ドラマ『水色山路』の制作過程は、地元の民放局・信越放送のドキュメンタリー番組『SBC特集』で『山形村行進曲』と題されて取り上げられたほか、様々なメディアで話題となった。
22)1990年に刊行された『山形村物語・水色山路』は、山形村からの依頼により東京の漫画家「藍まりと」が作った漫画で、A5判92ページの冊子として1万部印刷され、村内の全戸に配布されたほか、全国の全市町村に送付するなど、対外的なPRなどに用いられた。この漫画によるイメージづくりという手法は、「全国的にも類例を聞かない」ことであり、少なくとも近隣では先例がなかった。しかし、この試みへの反響は大きく、山形村の北隣にある波田町では、1992年に同様の企画で漫画『波田発 波田着−私鉄沿線田園都市1丁目』が刊行された。
23)S氏によれば、「『水色山路』の試みが、その後のトライズなどの活動の<母体>になった」という。
24)道祖神は、南安曇郡を中心とする「安曇野」をイメージさせる物として、観光資源化が著しく進んでいる。テレビ番組などで穂高町や豊科町など「安曇野」が紹介されるときには、決って道祖神が取り上げられるようになっている。一方、山形村を含む東筑摩郡は、観光資源に乏しく、また観光に依存しなくても経済的に恵まれているため、これまで観光開発はほとんど行われてこなかった。1992年12月に、朝日村にスキー場が開設されたことは、この意味では画期的なことであったが、山形にはこれに匹敵するような動きはない。したがって、対外的に村のイメージをアピールする際に、現実に村内にも存在し、既に隣接地での観光資源化=高い認知度が達成されている道祖神を用いることは、「安曇野」の好イメージを山形村にも持ち込もうという発想に基づくものと思われる。現在、山形村役場職員の名刺には、道祖神の写真が刷り込まれていることが多い。ちなみに、現在、山形村の地元の菓子店が『道祖神最中』を発売しているが、この菓子の販売が始まったのは、1988年からである。
25)ホワイトバランス会、トライズ・カンパニー双方のメンバーでもあるK・Aさんは、本学の卒業生で、在学中から既にホワイトバランス会に参加しており、その経験を元に卒業論文をまとめている。その中から『水色山路』に関する部分をやや長いが引用する。文章は生硬ながら、当時の雰囲気が感じられる。(△は原文では改行、・・・・は原文の一部を省略、他は原文のまま)
 <全国で初めて素人によるテレビドラマを作るきっかけとなったのは、”ふるさと創生事業”の一環として作った、村を紹介する漫画からでした。△この漫画は、村に住む多くの人に見てもらい、地域を見直してもらうことを目的としているため、(1)住民に受け入れやすいこと、(2)繰り返し見ることができること、(3)分かりやすいこと、といった観点から、漫画により地域を紹介したものです。・・・・これを発行したところ、新聞、テレビなどのマスコミで取りあげられたり、村内はもちろん、村外でも反響を呼び、漫画製作は大好評でした。△そこで、この漫画を「有線テレビでドラマにしたら・・・」という案が出ました。ドラマ作りの発起人6人が集まり、その人達が中心となり進められていきました。△しかし、「テレビドラマなんて・・・」とか「道路整備などに財源をまわせ」といった反対の意見もありました。△いよいよ「水色山路」の製作がスタートしました。主人公の美里役は全国から応募してきた15人の中から決め、美里役を除き、スタッフからキャストまですべて村民。もちろん、プロデューサーはじめ監督もみんな村民。全くの素人集団です。△ロケ期間は、11日間。毎日、30人近いスタッフ、キャストが仕事を休んで参加しました。わずか2カ月という短期間で、完成となり素晴らしいドラマができました。△多くの人々の協力や助け合いによって、手作りの40分ドラマを本当に作ってしまったのです。△この「水色山路」で、多くの住民が、地域を見直し、私達のふるさとにとって本当に大切なものは何なのか。それは、人と人との出会いやふれあい、そしてその機会を提供する自然や美しい景観などであるということを知ることが出来ました。△各テレビ局、新聞、ラジオなどあらゆるマスコミに取りあげられたことにより、全国の人々に”山形村といえば「水色山路」”というところまで定着しました。△これをステップにして、今後の地域活性化づくりに大いに期待が出来そうです。>
26)当事者たちによれば、このような試みに対して、村内からは批判の声も聞かれたという。しかし、こうした批判の中には、このような試み自体に対する批判や無理解、無関心というよりは、自分もそのことに積極的に関わりあいたかったのに出来なかったことに起因する、一種のやっかみのようなものが多かったらしい。そのことは、山形村住民の多くが、自分の住む地域としての山形村にて対して、少なからぬ関心、愛着をもって暮らしていることの現われであるといえよう。
27)一般に農水省の補助金を得て建設されるMPIS施設では、建前として農業情報という側面が強調されるが、実際に導入する側の意図は、別の所に力点が置かれていることも多い。YCSのK課長によると、YCS開設以前から、「新住民・旧住民問題」を意識して、CATVの自主放送を、新住民と旧住民とを「統合する」道具として巧く利用できないだろうか、と考えるビジョンがあったという。
28)元々山形村には、独立した広報広聴担当の部局はなく、総務課の中に広報担当が置かれている。村の公報は、1977年11月から刊行されており、1993年1月号が184号になる。それ以前には、公民館報『館報やまがた』が、自治体公報を兼ねる媒体として機能していた。公民館報は1950年に創刊され、紙齢は1993年1月号で 441号を重ねている。この間、1975年と1986年には、縮刷版が刊行されている。
29)役場総務課が、1992年8月に実施した、「将来の山形村を考える '92 村民全世帯アンケート」の結果による。
30)トライズ・カンパニーのあるメンバーは、この点について「最初に目指すべき地域があるのではなく、自分たちの活動の後から地域はついてくるものだと思う」と述べた。
31)具体的には、岐阜県国府町の事例が特にヒントになったという。もちろん国府町の事例は、現在のホワイトバランス会の内容とは大きく異なったものである。国府町について、浅見(1984,p187)は、<放送番組を制作するためには、情報取材のための協力体制の整備が必要であることから、町では、町職員のほか官公署、農協等の職員二〇名に「放送主任」を、また、町内の集落や団体等の代表七〇名に「放送通信員」を委嘱し、情報取材網を形成している。>と報告している。
32)山田(1989)参照。
33)こうした意味では、アメリカ的なパブリック・アクセス・チャンネルの発想と、ホワイトバランス会的な発想は、全く異質といってよい。パブリック・アクセス・チャンネルは、市民が公的な問題に関する個人的見解を自由に表明する回路であるが、ホワイトバランス会には、より抑制の利いた番組作りが期待されている。
34)1960年代には、村の青年団が演劇に打ち込んだ時期があり、1968年には、山形村連合青年団の演劇「三郎平の心」が芸能コンクールの県大会で入賞し、全国大会にまで進出している。
35)M氏は、ホワイトバランス会の自主制作番組で、農事有線放送電話の廃止の経過をドキュメンタリー番組にまとめている。
36)共通の先祖をもつ同じ姓の者の集まりを「同姓」といい。主に法事、祭礼などで単位集団として機能する。ただし、「同姓」意識は若い層では希薄なようである。
37)当時、本学学生だったK・Aさんは、高校時代に放送部で活躍し、ビデオ番組の全国コンクールなどに入賞した経験をもっている。彼女の父親は、K課長と同級生であり、地域の有力者としてYCS開局に先立つMPIS関係の視察などにも参加していた。最年少で、当時中学生だったK・Mさんは、K課長の長女である。彼女は山形小学校で放送委員会を経験しており、後に高校に進んでからは演劇部で活躍している。なお、後に参加することになるもう一人の高校生M・Rさんは、小中学校でK・Mさんと同期、小学校では一緒に放送委員会にいたし、彼女にとってK・Aさんは(同じ時期に在籍したわけではないが)高校の放送部の先輩ということになる。なお、村立山形小学校には、小学校としては極めて高い水準の構内映像放送機器が備えられており、週に1回、全校テレビ放送が行われている。その運営、番組制作は、放送委員会を構成する5〜6年生の児童が、教員の指導の下で行っている。これに対し、組合立鉢盛中学校の放送施設は、特別なものではない。
38)「ホワイトバランス」の調整は、ビデオ撮影の最初に行う基本操作であり、「初心に帰る」といった意味で、会の名称とされた。
39)1992年4月からは、役場を退職したばかりのH氏が副会長から会長に昇格した。この際、副会長には、新住民でまだ40代の自営業のN氏が選ばれたが、会を創設した際より実質的な選び方であり、3年の間にホワイトバランス会が実態的な組織となったことを示している。
40)休会しているのは、勤務先が遠方に転勤になって参加が困難になった1名と、大学受験準備中の高校生1名である。
41)未調査の5名のうちは、2名は日程の調整がつかなかったため面接できず、3名は調査開始後に入会したばかりであったため対象から外したものである。いわゆる調査拒否が一件もなかったことは、ホワイトバランス会会員の社会意識を反映した者であろう。調査に際してある会員は「こういうアンケートなどに答えるのが好きだ」と語った。
42)設立時以降に入会した若い層は、ほぼ例外なく入会する前にYCSに出演した経験をもっている。中には、繰り返し出演と入会を要請されて、いわば押し切られた形で入会した人もいる。ただし、入会の段階での消極性/積極的は、ホワイトバランス会の活動への消極性/積極性とは必ずしも直接には結びつかないようである。
43)本稿では、<個人がもっているアクセス可能なメディア>を総体的に表現する言葉として「メディア環境」を用いている。なお、論者によっては、中野(1980)などのいう「情報環境」と同じ意味、ないしこれに準じた意味で「メディア環境」が用いられることがあり注意を要する。
44)「リテラシー」は、オーラル・コミュニケーションに対置して「文字性」を意味するような場合もあり、研究分野によって受け取られる意味も違ってくるが、マス・コミュニケーション研究などの分野では、「識字能力」の意味で用いられることが多い。これを踏まえて、コンピュータなど最近登場してきた情報機器の操作能力を「メディア・リテラシー」、「コンピュータ・リテラシー」などの概念で捉え、その能力が情報化社会における個人の社会活動とどう関わるかを論じる議論が百出している。議論の焦点となる「リテラシー」の具体的な中身については、統一的な見解が共有される段階には至っていない。
45)鈴木ら(1992)の「情報機器利用能力尺度」は、予備テスト段階で 145項目、本テスト段階で99項目の設問が置かれている。鈴木らの研究グループは、鈴木・藤井(1992)など、この尺度を用いた研究成果も既に蓄積している。これらの成果を踏まえ、より簡便な調査に供するため、新たに16項目に設問数を厳選した簡略版が開発されており、今回のホワイトバランス会調査では鈴木らの研究グループから提供を受けて、この簡略版を用いた。簡略版では回答として<a>が選ばれた回数を得点としている。また、実際のテストに当たっては、「どちらか曖昧だったり、問の意味がわからない場合は<b>にして下さい」と口頭で説明を与えた。
46)この点は、個人で活動することが多いアマチュア・カメラマンなどとは大きく異なってくる点である。
47)こうした人々は、必ずしも企画に関心がないわけではない。しかし、カメラマン役ならば比較的短い時間だけ関わって会への貢献ができるが、それ以上するには時間がない、あるいは、いろいろと面倒くさい、という意識が強いようである。
48)女性のうち、最も「利用能力」の得点が高いSさんは、職業上も教材的なビデオを作る必要があったことから、YCS参加以前から家庭用の機器で、撮影、編集を経験していた。このため彼女は、一度だけYCSの取材で可搬式のカメラを回したが、カメラが重くて身体的に変調をきたし、以降、自分ではカメラを回さなくなった。
49)例えば、上述の公民館報などの編集経験のある人や、アマチュア演劇の脚本を書いた経験のある人、セミプロの音楽活動をしていた人、新聞などに積極的に投稿する人などがいる。
50)ホワイトバランス会の40代以上の会員には、かつて写真を趣味とした者が少なくないが、その中でも最も本格的に撮影活動を続けているY・K氏は、YCS開局直後はYCS職員の方が氏から教えられるところが多かったといわれるくらい、映像に対して高水準の技術と感覚をもっているが、企画等には関心がないという。
51)もちろん環境に恵まれたから(環境を整え易かったから)情報発信指向が発現するのか、情報発信を指向するから環境を整えるのかは、ここでは論じていない。さし当り、環境の整った人と、情報発信の中心にいる人は一致している、という点を指摘したいのである。
52)なお、女性の場合、本人は写真などに関心が薄くても、家族の男性(夫、兄弟、父親など)が、写真やオーディオなどを趣味としている例が目についた。
53)しかし、こうした方法は面倒であり、ディレクターの意図が十分に生かせないため、十分納得できる番組が作りにくい。このため、女性の中には、編集機は自分で扱わなければと考えて操作を学び、カメラはだめだが、編集機は扱えるようになった人もいる。
54)研修は外部の講師を招いて(機器操作関係はソニー、番組作りについてはNHK)行われることが多かったが、1992年はYCS職員が新たに導入された機器を中心にホワイトバランス会会員に指導する形が試みられた。研修の形態も、今後いろいろと試行錯誤がなされそうである。
55)ある女性会員は聞き取りに対して、機器操作などの技術を得ることが番組制作に役立つといった次元でではなく、達成感そのものが楽しいので研修は好きだ、と述べた。おそらくは女性に限ったことではなかろうが、こうした特殊な技術の研修が、一種の自己実現として即自的に肯定されている点が印象に残った。
56)YCSの一員ではないが、元経済課長のH氏は、最初はMPIS導入の「いいだしっぺ」として、「協力者会」が「困った方向に行かないよう、目付け役のつもりで」参加したという。行政側は、蓋を開けるまで「協力者会」にどんな人が集まり、どんな方向へ進むのか、不安ももっていた。
57)『水色山路』同様、役場総務課が音頭をとっている。今回は、「ふるさと」をテーマに全国からシナリオを募集し、1992年末現在、原作の選定作業が進められている。
58)『若者人名録』に記載されている事項は、氏名・住所・職業・自己紹介・現在頑張っていること・将来の夢、やりたいこと・「もしあなたが村長だったら」・その他、である。登録者は1991年4月1日現在で18歳以上、35歳以下の住民(高校生を除く)で、計115名のプロフィールが掲載されている。
59)このような変化の過程は、Ne氏個人の考えだけによるものではなく、若者集団のリーダー格であるNa氏の影響によるところが大きい。
60)トライズ・カンパニーは個人のやりたいことに基づき、一種のサブ・グループとでもいうべき各種のクラブを内部に含んでいるのであるが、我々が見るかぎりそれぞれのクラブは排他的にではなく、極めて協調的な関係にある。そして、どこか一つのクラブが中心となってイベントなどを開催する場合でも、他の人々にとっての「楽しさ」を考慮し、企画段階でそのことを反映した変更が建設的に加えられている。後述するイベント「バースデイ・イブ」の企画において当初はロック・コンサートだけの企画であったものが、話し合いの過程でより多くの人が参加できるように立食パーティー形式が採用されたことなどは、異なる「楽しさ」を追求する人々の間の話し合いを通じての「建設的変更」の具体例といえる。
61)もちろん、ここでNe氏に見いだされる現代性・柔軟性は、山形村の役場全体に共有されたものではない。むしろ、役場の中での「イノベーター」的な存在であるNe氏には、我々には測り知れない様々な苦労があることであろう。しかしながら、このような立場のNe氏が、トライズ・カンパニー組織化に中心的役割を担ったことは、その後のトライズ・カンパニーの活動のありかたを大きく規定したといえる。
62)大規模な二つのイベント(夏のロックコンサートと冬のクリスマス・パーティー)の他に、地域活動におけるネットワーク形成について考えるための講演会・討論会の開催や、特別養護老人ホームへの慰問を兼ねた餅つき大会(1992年12月)などが、これまでに行なわれている。また、1993年の年明け以降には、スキー大会、第二回目のネットワーク形成に関しての討論会などが予定されている。
63)このことは、トライズ・カンパニーの多くのメンバーがある意味で共通の「過去」、つまり同じ時期に同じ場所での体験を共通に持っていることを意味する。それは会の組織化に際して有効に作用していることは明らかであるが、今後の「地域」活動の広がりという問題を考えてみた場合に、両側面を有しているように思われる。詳しくは「おわりに」において論じる。
64)F氏はすでに『若者人名録』の際にそのことに言及している。実際は「山形じゃんずら前夜祭」としての「勝ち抜きバンド合戦」と表現されており、この時点で既にこの企画が単に個人の「やりたいこと」だけでなく、「じゃんずら」(盆踊りを中心とし、最後に花火を打ち上げる山形村の夏祭り)と組み合わされることで、「地域」と関わりをもつことが注目される。 さらに、既に5月8日のホワイトバランス会の会議で、年間の番組制作計画が決定された席で、8月については「若いもんに任せるからミラ・フード館でイベントでもやって公開録画をしたらどうか」といった話があり、内容はともかくY氏らホワイトバランス会の若手に8月分の放送番組制作を任せることが決定していた。
65)館長自身の言による。ちなみに、今回のイベントに利用された館内のホールは、300人の収容が可能で、照明施設と音響施設の他に、村民が自由に利用できるカラオケ装置も設置している。この他、ハイビジョン・シアター(120 インチ・スクリーンを装備)や天体観測室(400 ミリ反射望遠鏡を装備)といった施設も合わせ、全体として非常に娯楽的な性格が強いため(そのことで村外の人を集めるねらいもある)、村費で運営することには賛否が分かれるところである。それだけに村民自身がこの施設をいかに利用するかが行政にとっての焦点であり、行政にとっても「使いこなしたものが勝ち」といった風潮が定着することが期待されていた。
66)しかしながら、このことがテレビのための「演技」をトライズ・カンパニーの人々に要求したわけではない。実際にM氏はYCSの職員であり、活動の撮影もYCSのドキュメンタリー(10月20日に放送)制作のために行なわれてはいたが、M氏本人としては「仕事としては入って行けない」と言い、あくまでトライズ・カンパニーのメンバーとしてカメラを操っているという意識が強い。
67)しかしながら、こうした外からの注目が得られるきっかけは、主に行政からの窓口を経由した場合に多く、今回「市民タイムス」が継続取材をもつことになったきっかけも、役場を通じて総務課Ne氏から紹介があったことによる。ある意味では行政による外部へのアピールとしても見ることができるのである。
68)パンフレットに記載された広告主42件(つまり広告が行なわれたのはパンフレットだけで、イベント中に広告が行なわれたりすることはなかった)の所在のうち、半数の21件が村内で、松本市内が6件であった。不明である15件のうちほとんどは飲食店・小売店であり、村内である可能性が高いので、ほとんどが山形村内の広告主で賄われたといえる。所在が不明であるような広告が多いこと自体、すでに広告情報自体に意味があるのではなく、あくまでトライズ・カンパニーとの関係においてこれらの広告が意味をなしていることを示している。また、広告主のほとんどがトライズのメンバーの勤務先と一致した。
69)東京では学生のパーティーでも、スポンサーを募って企画実行を代理業に依頼するなどの風潮が近年は見られた。
70)費用はイベントの予算として当然組込まれていたが、F氏とY氏が酒屋であることから、飲み物に関しては通常よりも廉価で用意できた。ゲームの賞品に関しても、メンバーが職業上のツテで安く調達する(タイアップという形式ではない)など、それぞれが自分の生活での立場を利用している(「手作り」である)ことが注目される。
71)演奏された曲目には、オリジナル作品は含まれておらず、すべてがよく知られた楽曲で、ビートルズ、シャカタク、ドッケン、ブルーハーツ、T−BOLANなどの曲が演奏された。
72)東京・芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」で流されている曲をノンストップ・リミックス編集したシリーズが、CD化されて全国で発売されており、今回のイベントでも中心的に使用された。曲中には「ジュリアナ・トウキョウ」という外国人DJの声が入るなど、間接的にではあるが、こうした文化における東京の中心性を意識させるものであった。
73)東京ディズニーランドは、1990年度の入場者数1587万人を数えるいわば「東京」の名所となっており、全国からの来訪者が絶えない。当地においても、「東京ディズニーランドへ(泊まりがけで)行く」ことは、若い層にとっては、気の利いた週末の娯楽として肯定的に捉えられている。
74)こうした「東京」の文化を中心とした文化的同質性が前提となっていることが、一面で「地域」という意識とのギャップを生じていることは指摘できる。しかしながら、ここでは、そうした東京中心の文化に対する対抗心はなく、むしろイベントの参加のイニシエーションとしての機能を果たしており、参加者はそれらにあらかじめ共有している魅力を喚起することでイベントへの「ノリ」を高めていると考えられる。「東京」文化と断絶するのでも、逆にその求心性に全面的に依存するのではなく、ここではイベントの目的であるバンド演奏を補完する形で積極的に利用されている。構成的にも、バンドの準備時間を補うのが本来の目的であるにしても、両者が交互に行なわれる形になっていることで、その補完性を強くしている。
75)会場全体が暗く、また、常にイベントが進行しているため、個人的に談笑するような機会が得にくい状態であった。したがって、まったく知らない人と話すことが非常に困難であったと考えられる。
76)今回の企画の一環として、「ベストドレッサー」の選出も行なわれた。優勝した男性はエスニック風の格好であった。東京での学生パーティが、ドレスやタキシードという正装を定めたり、ディスコが服装制限を行なうなど、服装の統一性を強調するのと、非常に対照的であった。
77)事前に企画されていたのではなく、まったく突然に行なわれたことではあるが、このイベントに対し何らかの「地域」としての象徴性をもたせる意識が働いていることを意味すると考えられる。
78)大規模なイベントではないが、1992年12月27日には、村内の特別養護老人ホーム「ピアやまがた」に「餅つき」を中心とした慰問に行くことが実施された。
79)現村長は、YCS導入、ミラ・フード館など諸施設の建設など、積極的な村づくりを演出しているが、一方では、道路や下水道の整備、住宅地開発のあり方などを巡って批判も多く受けている。このため、3期目を目指した1993年2月の選挙は、村を二分する一騎打ちの対決選挙となり、結局わずかな差で現村長が辛勝した。トライズ・カンパニーのメンバーたちは、心情的には現村長支持が強いような印象を受けるが、村長側も含め、関係者の間ではトライズ・カンパニーがこうした政争に巻き込まれないようにしたいという意識が強く働いている。
80)第I章3節、参照。
81)つまり、地域が好きな人たちが、地域にかかわる活動を行なうというだけであれば、逆に言えば地域が好きでない人はそのような活動をそもそも行なわない、ということになり、結果的に一つの地域の中での断絶(山形村の場合でいえば「旧住民」と「新住民」との断絶)が深刻化してしまういう、地域活動におけるトートロージーと排除の構造の持つ危険性を認識する必要があると考える。
82)ちなみに興味深いことに、行政側のNe氏も資金援助問題に関して同様の考えを持っていることを我々の聞き取りにおいて答えてくれた。それは決して資金援助をすることが役場にとって負担であるからとの「経済的」考えに基づくものではなく、「役場は機会と場所を提供するだけで口を出さないほうがよい」との「地域」活動に対するNe氏の基本的な考え方に基づいての発言であった。
83)このような試みに対して、幾つかの地元企業は「広告効果」の点からのみではなく、トライズ・カンパニーが行なうイベント自体の意義への賛同から広告提供を決定したように思われる。このようなことは結果として、イベント開催において、単に経済的に資金を企業の広告費によって調達したということに留まらず、メンバーたちの職場などにおける人的・地域的ネットワークを用いてトライズ・カンパニーをより多くの人に認知してもらうこと、さらには今後の活動に際してそのような人的・地域的ネットワークを有効に利用することを可能にしたといえる。
84)ここで金銭関係が成立すること自体が必然的に「健全な距離」を壊してしまうと主張するつもりは毛頭無い。しかしながら、相手が役場であれ企業であれ金銭関係における一種の従属関係が成立することは、トライズ・カンパニーの組織としての自律性に大きな影響を与えるであろう。さらにより重要なことは、トライズ・カンパニーが「カンパニー(会社)」としての側面を強めていくことは、現時点での「地域」活動集団としてのトライズ・カンパニーの在り方を大きく変えていくことが容易に予想される。
85)もちろん、あらゆる情報技術は人間にとっての道具である。しかしながらここでは、メディアの特性自体がコミュニケーションの在り方を規定・変化させるというメディア・技術決定論的観点とは異なる視点から考える必要を強調するために、「道具」としてのメディアという表現を用いる。ここでは、メディア・技術が決定要因なのか社会・文化が決定要因なのかという問題に答えようとするのではない。「何か表現したいこと」を表すための「道具」として情報技術を考えることが、少なくとも山形村での状況を理解するためには有効だという判断から、この言葉を用いているに過ぎない。
86)もちろん、ある情報技術が成立したことによって、従来は不可能であった表現が可能になり、そのことによって「何かしたいこと」が発展することは当然ある。
87)杉山・藤田(1993)は、パソコン通信のネットワーク上の、物理的地域を越えた電子的コミュニティにおいて、公共圏が成立する可能性を具体的事例に基づいて考察しており、ここでの関心に照らして非常に興味深い。
 この問題意識を時間地理学の用語を用いて組立て直すならば、情報化の進行とともに、能力の制約が後退し、管理の制約の意義が重要性を増していくという状況の中で、一方ではメディアの発達によって結合の制約から大幅に解放された社会関係が構築され、他方では比較的狭い地域内での結合の制約を前提とした社会関係が旧来の形態を基礎としつつも新たに再構築される過程を、空間的視点から把握していくことが課題となってくるのである。

文  献


謝  辞

 本研究に当たっては、文中にもあるYCS、ホワイトバランス会、トライズ・カンパニーをはじめ、山形村各方面の関係者の方々に様々な形でご協力を頂戴した。いちいちお名前を挙げられないが、記して各位に感謝申し上げたい。
 なお、「はじめに」でも述べたように、本研究には平成3年度および平成4年度の文部省科学研究費・重点領域研究「情報化と人間」(領域番号 103)の一部を使用した。この重点領域研究に関わる多数の方々、特に研究会などでご議論を頂戴した第II群関係者各位にも、御礼を申し上げる。
 過日、還暦を迎えられた児島和人先生(東京大学社会情報研究所教授)には、本研究に対して一貫してご指導とご支援を頂戴した。先生は本年度末をもって現職を退かれるが、筆者ら三名は長年のご指導に感謝し、先生の今後のご健勝となお一層のご活躍を祈念するものである。甚だ拙い論考ではあるが、本稿を児島先生に献呈申し上げたい。
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山田晴通・阿部 潔・是永 論(1993):
長野県山形村における地域の情報化と住民の「地域」活動
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