研究の道具箱:山田晴通:韓国・北朝鮮の地名


釜山 プサン Pusan

面積:749.17平方km
人口:3,901,037人(1994年末)
世帯数:1,115,456世帯(1994年末)

大韓民国南東部に位置する広域市。歴史的には慶尚南道(キョンサンナムド)に属し、直轄市(広域市の前身)となって行政上は慶尚南道から離れた後も、長い間その道庁所在都市であった。

朝鮮半島の南東端、洛東江(ナクトンガン)河口部の左岸(東側)にあり、朝鮮海峡に臨む港湾都市。朝鮮半島と日本との人的交流や物流の拠点であり、フェリーや高速船による国際定期航路によって、日本の下関や福岡などと結ばれている。
釜山は韓国第二の大都市であり、首都ソウルと釜山を結ぶ交通路(京釜街道、国鉄京釜線、京釜高速道路など)は、韓国にとって最も重要な交通経路である。また、釜山は韓国南部全体の経済活動の中心であり、貿易港としても重要であるため、京釜高速道路のほか、南海高速道路、釜馬高速道路などによって、南部の各地と結ばれている。
工業は、造船・鉄工・織物・ゴムなどがあり、漁業や水産加工業も盛んである。

15世紀前半に、李朝が対日貿易港として公認した三浦の一つ、富山浦(プサンポ)がきっかけとなり、以降、対日貿易を中心とした港湾都市として発展した。当時は日本人の居住が認められ、交易の拠点となる倭館が設けられていた。しかし、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)以降、日朝関係は後退し、釜山は対日外交、国防の拠点となった。近代に入り、日朝修好条規(「江華条約」:1876年)による開港地として、再び日本に対して港が開かれ、日本から見た釜山は大陸への玄関口となった。1883年には国際貿易港となり、1905年には、日露戦争の結果を受けて日本が朝鮮における鉄道敷設権を獲得したのに伴い、関釜連絡船が就航した。1910年以降の植民地時代には、内地(日本)と朝鮮との交流の急速な拡大によって、釜山は経済的には大いに繁栄した。日本人居住者も増加し、市街地の南部には日本人町が形成された。

朝鮮戦争の際には、陥落したソウルに代わって釜山が臨時首都となり、数十万の避難民が殺到した。避難民としてやってきた人々の中には、戦後も釜山にとどまって1960年代以降の工業化と都市の成長を支えた者も多かった。
市街地の中心部に国際市場(クッチェシジャン)があるが、この名称は国連軍の放出物資や救援物資を扱ったことに由来する朝鮮戦争の名残りである。市街地の東部には、国連軍戦没者の墓地であるUN墓地がある。

市街地の北の郊外には、韓国でも最も古い温泉の一つ、東莢温泉(トンネオンジャン)がある。17世紀以来の歴史があるこの温泉地は、植民地時代に整備が進み、現在のような観光地となった。
市街地の北東の郊外には、海岸の景勝地として有名な海雲台(ヘウンデ)があり、海水浴場や温泉がある。海雲台には国際級の観光ホテルも複数立地している。海雲台の旧市街地の北には、新たに開発された大規模な「新市街」があり、高層住宅が林立している。


1997.05.に山田が釜山を訪問したときのエピソード
釜山市公式ページ(韓国語:英語ページへのボタンあり)
PUFS: Pusan University of Foreign Studies(釜山外国語大学:英語)
釜山日本人学校(日本語):釜山市内観光のページもあります
ホテルロッテ釜山(日本語)
釜山日本人会(日本語)


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